yuzaのブログ

幕末から明治を舞台にした小説を中心に載せています。

小説

明日は遙か 三

三章 星流る 獣の肉を前にして正毅は無邪気にごちそうだと喜んだ。魚以外の肉を食べたのはずっと昔で、辰次郎さえ記憶が曖昧である。風の噂で、外国との窓口となった横浜では、かつて薬の一種であった牛肉を食べ物として扱う文化が生まれているらしい。朝敵…

明日は遙か 二

二章 朔風 冴えた空気はさながら張り詰めた弦のようだと辰次郎は思った。季節の変わり目に比べ、音の響きは鋭さを増している。それは木刀を果敢に打ち込む秀一郎の踏み込みの鋭さと、受け止める長兵衛の強い足腰のおかげもあるだろう。二人の横顔を眺めなが…

明日は遙か 一

一 帝州の民 借り暮らしの小屋から踏み出すと、藁靴は硬い地面を踏んだ。天気が崩れずに朝を迎えたことに安堵したものの、灰色の空がいつまで持ち堪えるかわからない。故郷に比べて厳しく吹きつける風も、辰次郎の不安をかき立てた。 「いってらっしゃいませ…

時に触れる指 一

親指を除いた四本の指を並べたら隠せそうな文字盤の上で、針は微かな動きを積み重ねている。その奥で小さな音の刻みがわずかな狂いもなく続いている。 十二の数字が等間隔に書かれた文字盤の奥には誰も手を触れていないのに動き、音を出し続ける小さな機械が…

煉瓦の点景

日が昇りきらない明け方とはいえ、四月にしてはひどく冷たい空気である。煉瓦積みの続きをしに、父を含めた日傭者たちが集まってくるまであと二刻といったところだろう。父と共に暮らす仮小屋と、去年大火事に見舞われた銀座で積み上げられていく煉瓦を見比…

泥に根付く

一 日刊紙『時事新報』を畳んで帳場の脇に置くと、大竹俊吾は木賃宿「きぬや」の号が書かれた昔ながらの掛け行燈に火を灯しに外へ出た。三日前に雨が降った後も、元綱(もとつな)町(まち)の地面はいっこうに乾かず、日陰の雪のように泥水がしつこく残る。 新…

帰郷の先

一 深く吸い込む気になれぬのがこの街の空気であった。道端には鼠の死骸が放置されているし、満足に体を洗えない住民たちの臭いが染みつくのだ。幼い頃から嗅いできたから気にならぬはずであったが、ほんの一年離れただけで鼻は慣れを忘れてしまったらしい。…

寒夜の客

一 一人の朝餉を終え、黙って店の出入り口から外に出ると、松野(まつの)春(しゅん)太郎(たろう)は思わず冬日に手をかざした。ここ数日のすっきりしない空模様と薄暗い部屋に慣れた目には、冬晴れでも強烈に目を眩ませた。 かざした手の向こうには一際目立つ…

雪上遇別

一 午後になって学舎の周りの立木に藁を巻いていると、元々心配だった空模様が一層暗くなった。同じ班になった級友たちと天気について囁き合っている間は保ってくれたが、いざ下校しようという時になって白いものがちらついた。 「意地悪め」 勝子はそう毒づ…

光去る時

一 明治五年に導入された太陽暦は十月を刻んだが、新網町の粘りつく空気は晩夏のものである。少なくとも霜が降りる頃までは団扇が要りそうだった。 梨花はぬかるんだ地面で滑りそうになって、傍を歩く双子の妹、梨沙の手を強く握った。細い腕はほとんど動じ…

遠花火

一 濃墨を塗ったような空を花火が照らし、それから二拍ほど遅れて音が体を震わせる。雪に囲まれて待った春若が待ち望んだ瞬間だった。 色の付いた火がはらはらと夜空に紛れたと思うと次の弾が打ち上がる。光と音を一瞬残して消えていく。その繰り返しに見入…

インタープレイヤーズ

1 緩やかで長い坂を登り切り、ノンストップで長い横断歩道を通り過ぎ、単線の踏切を突き抜ける。国道沿いの歩道へ躍り出る頃、家を出る時に感じた冷え込みが少し和らいでいた。 車道の奥に見えていた高い塀が、ガソリンスタンドの辺りから途切れて金網のフ…

その魔術師には羽がある

プロローグ 新時代前夜 その透き通る光は時折歌声のような音を立てながら、夜空を切り裂くような速さで流れていた。ひまわりのように明るい黄色に緑色が混ざりだしたのはここ数日のことだ。一ヶ月もすれば季節の変わり目である純色月となり、流れの方向も逆…

じゃあまたね

誰もが僕を無表情に通り抜けていく。やがて信号が変わる。横断歩道に立ち尽くす僕に構わないで車が一斉に動き出す。やっぱり唸りを上げながら僕を通り抜けていった。 僕の首から下を、色んな車が突き抜けていく。時々僕よりも大きなトラックなんかもあって、…

異人の音

土の具合を探るように木鋤の先端を当てると、濡れた和三盆を踏み砕くような音がした。軽く腕の力を加えてやるとそれだけで刃先がわずかに沈む。苔の匂いに気づいた虎太郎は不意に感傷的な気分を誘われた。増徳院の境内に着いた頃から色を濃くした茜色の光が…

夏の芽吹き

一 朝方頼りなげだった日差しは徐々に夏めいたものへ変わっていき、昼餉を終える頃には庭に黒々と葉陰を映すほどになった。天気の良い日が続いているから珍しくもない光景のはずだが、庭木と日差しが庭で織り成す陰影を眺めたのは久しぶりで、やけに新鮮だっ…

牛馬名人

一 硬い蹄が地面を踏みならす音と、功名心を煽るようなかけ声を耳にして足を止めると、そこはまだ参拝客のいない筥崎宮であった。音の出所である大鳥居近くの馬場を覗くと、直線を駆け抜けた二頭の馬が並んで審判らしき老人の前を通過するところであった。熟…

なんかんの餞

一 鍬を大きく振り上げて、カブタの残る田に振り下ろす。素足の冷たさはあるものの、夜の内に凍てついた土を砕く小気味よい音に気分を良くすると自然に鼻歌が出てくる。鉄の刃先を持った農具を振り上げて、振り下ろす。その運動を一〇分もすれば体は温まる。…