yuzaのブログ

幕末から明治を舞台にした小説を中心に載せています。

なんかんの餞

 

 

 鍬を大きく振り上げて、カブタの残る田に振り下ろす。素足の冷たさはあるものの、夜の内に凍てついた土を砕く小気味よい音に気分を良くすると自然に鼻歌が出てくる。鉄の刃先を持った農具を振り上げて、振り下ろす。その運動を一〇分もすれば体は温まる。一時間もすれば水が欲しくなった。

 権冶(ごんじ)は一度手を止めて周りを見た。年が明ければ苗が植わり、気温の上昇と共に青みを増していく田も、冬の間は荒涼とした地味な色で占められている。その土地の上で、権冶を含めて四人の男たちが一心不乱に鍬を操っている。一人分の割り当ては一反歩で、いくら慣れていても重労働に変わりはない。歌の拍で小気味よく勢いをつけてやらないと続かない仕事であった。

 周りを見ると自分が一番遅れている。こうしてはいられないと思って権治は仕事の速度を上げる。一緒に田に入った仲間の中では一番年下で小柄だ。遅くなっても仕方がないのかもしれない。だからと言って最後に甘んじるのは我慢がならない。権冶は鍬を持ち続けるうちに大きく、固く成長した手に力を込め、土をより深く掘り込めるように、ばねのようにしなやかになった体を躍動させた。

 午後になって、年上の仲間たちは疲れてきたようだった。それを見て権冶は追い上げたが及ばず、結局最後になってしまった。

 夕日の中で、仲間たちは自分の道具に体を預けながら談笑していた。そこにたどり着くと、彼らは表情を変えずに自分たちの道具を権冶に差し出す。権冶は口をきつく結んで不機嫌さを隠さずに受け取った。

「そう気にするこっちゃねえ。同じ年頃のと比べたら早くやれてるげえな」

 一人がねぎらうように言ったが、高みから頭をぽんぽんと叩かれても素直に気持ちを受け取ることはできない。権冶は無愛想に返事をした。

「一日のうちに終えられてよかったな」

 その言葉を聞きながら、権冶は四人で耕した田を見渡した。カブタと呼んでいる稲の株が残っていた田には、四人がかりで全部にまっすぐな畝が立てられた。

 カブタを打つ時には、田にできるだけ大きな畝を立てろと、初めて鍬を持った時に教わった。それはどうやら、どこかの偉い先生の指導によるものらしい。それによると、土が風に当たる面が大きくなり、冬の冷たい風によって凍てつく。これが溶けると砂のようにさらさらとした土壌になる。それが稲にとっては良い環境らしい。

 よく風にさらし、よく凍らせた田を、春に打つ。気長に干物を作るような作業を経ると、一肥やし分は違うという。権冶は一一歳、先生が言うような難しいことはわからない。ただ、冷え込みの厳しい時間から一日中働いた結果、収穫が増えるというのは魅力的だし、その仕事のやり方次第で土の状態が変わるということには興味を惹かれた。

 一人が帰ろうと言った。それに皆が従う。今日の野良仕事が一番遅かった権治が、皆の農具を全て担いで仲間についていく。ずっと昔から続いている習わしのようなものだ。

 やがて誰かが号令をかけたわけでもなく、四人の口から歌が漏れてくる。佐渡で暮らすうちに覚えてしまった佐渡おけさである。

 

  ハアー佐渡へ、佐渡へと、草木もなびくヨ

  佐渡は居よいか、住みよいか

 

 権冶は前の一人が歌うのへ、合いの手を入れながら歩く。

 

  ハアー 佐渡へ 八里のさざ波こえてヨ 鐘が開える 寺泊

  ハアー 雪の 新潟吹雪にくれてヨ 佐渡は寝たかよ 灯も見えぬ

  ハアー 佐渡へ 来てみよ 夏冬なしにヨ 山にゃ黄金の 花が咲く

  ハアー 来いと ゆたとて行かりよか佐渡へヨ 佐渡は四十九里 波の上

  ハアー 波の 上でもござるならござれヨ 船にゃ櫓もある 櫂もある

  ハアー 佐渡の 金北山はお洒落な山だヨ いつも加茂湖で 水鏡

 

 歌に回ったり合いの手を入れる方になったりしながら、権冶たちはそれぞれ家路についた。

 

 二

 

 明治三三年(一九〇〇年)佐渡の新穂村瓜生屋(現・佐渡市新穂瓜生屋)で生まれた石塚権治は、小さな頃から当然のように田に入り、鍬を持って働いてきた人である。

 小柄だがそのぶん頑強でしなやかな体を持っていた彼は、収穫が終わった冬の佐渡で行われたカブタ打ちには特に入れ込んだ。佐渡では収穫が終わった後に残る稲の株をカブタと呼び、春の田打ちの準備としてカブタの残る田に鍬を入れる。カブタ打ちと呼ぶその仕事で、年上の体の大きな者に負けることを潔しとしなかった。少しでも早くカブタを打ち、誰にも負けない速さで仕事を終える。体格の差はいかんともしがたかったが、学校に入る前の権冶はそのことに腐心していた。

 とにかく体の大きな者に負けたくない。その気持ちはやがて農業への情熱に昇華する。時を経て権冶は佐渡郡立農学校(現・新潟県佐渡総合高等学校)に入り、大正六年(一九一七年)に卒業する。瓜生屋にほど近い靑木で生まれた順蔵が戻ってきたのは、ちょうどその頃であった。

「順蔵さんが戻ってくるのか」

 その知らせを持ってきた農家仲間の半田忠一に訊き返すと、新しい農法を披露するらしいという答えがあった。

「何でも牛や馬を使って田畑を耕すやり方げえな」

「でえじょうぶか、それ」

 順蔵は靑木の後藤家に生まれたが、西の泉の北見家に養子に出ていた。北見を名乗ることになった順蔵のことは、後藤家にいた頃から知っている。九歳年上ながら親しみやすく、男の割に柔らかな笑顔が垢抜けた印象だった。人当たりの良さを活かせる場所が他にもあるような気がしたが、新しい農法を身につけたということは、農業の道へ行くと決めているのだろう。

「なんかんを田に入れて平気なのか」

 いくら知っている人間のすることでも不安はぬぐえなかった。なんかんとは佐渡産の気性の荒い馬を指す。山で育つ佐渡の馬は、体長三尺六寸(約一一〇センチ)で、人を見ると飛びつき噛み付くなどの野生を発揮した。権冶もそのような目に遭ったことがある。だからと言うわけではないが、大事な田を台無しにしかねない野獣を、荷役以外に使うのは抵抗があった。

 何より、田を耕してきたのは人間だ。人間の領分に野獣が入るなど、それぞれに与えられた分限を超えているのではないか。

「だが農会の偉いさんたちは決めたげえな。俺たちがどうこう言ってもしょうがあるめえよ。心配はわかるけどな」

 忠一はのんびりした声を出した。権治にしても、順蔵を信頼しないわけではない。ただ、新穂にそれまでなかったものを、よりにもよって同郷の男が持ち帰ってくるということに戸惑いを感じていた。

 しかし興味もないではない。激しい気性のなんかんを手なずけた上、人間の代わりが務まるほど器用に操る術があるのなら見てみたかった。

「農会だって少しは人を見る目があるげえな。何か見せてくれるはずちゃ」

 忠一にも同じ気持ちがあるらしい。彼の浮かべた笑みは順蔵への好意がにじんで見えた。

「何を、見せてくれるかな」

 言葉を重ねると不安は期待へ変わっていく。新しいものへの警戒感は変わらずにあるものの、同じ土地に生まれなんかんの脅威を知っているはずの男が、恐怖心をねじふせたようになんかんを農法の一つに扱おうとする。その未知のものを、知っている男が披露する。言葉と想像を膨らませると踊るような心地であった。

 順蔵は二日後の夜、新穂村に戻ってきた。生家のある靑木ではなく、隣同士とはいえ瓜生屋に宿を取ったあたり、別の土地の人間となってしまったようで少し寂しく感じた。

 権治は翌日の夜に順蔵を訪ねた。学校を出て以来会っていなかった順蔵は権治の成長に驚きを見せたが、権治の方は相手の変化のなさがいやに印象的だった。驚いたと言いながら大きく表情が変化せず、落ち着き払った態度を見せるのも昔のままだった。

「学校を卒業したんだな」

 順蔵の語り口は微妙に抑揚が変化しているように聞こえた。細身の上面長で、歌や踊りも上手い男は元から垢抜けた感じを漂わせていたが、泉で過ごした数年間でいっそう洗練されたようであった。

 順蔵はそれ以上言葉を継がず、自分の鞄から二つの杯を取り出し、酒を注いで権治に差し出した。決して気軽に接することのできる相手ではないが、余計な言葉を連ねないところに、再会の喜びを感じ取った。権治は素直に酒を受け取る。最近飲酒についてはうるさく言われるようになったが、この時だけはやかましい警句をきっぱり忘れた。

「順蔵さんこそ、何かを身に着けて帰ってきたそうで」

 何か探りを入れたかったが、うまい言葉が思いつかず単刀直入な言い方になってしまった。順蔵は考えを巡らせるように間を置いてから、馬のことか、と言った。

「農会も内心では不安のようだがね。私自身、なんかんの扱いが難しいことは知っているし、牛を使えばいいとも言われたよ」

「牛でもいいなら、それを使えばいいがんに」

 切実な思いだった。馬の気性の荒さや警戒心の強さに比べれば、鈍感な牛の方がはるかに扱いやすい。

「そうだな。だが、馬は扱いが難しい分速い仕事ができるんだよ。権治、それまで人間がやっていたことがどうして牛や馬に取って代わられるようになったと思う」

 言葉に詰まった権治は、間の悪さをごまかすように杯を煽った。

「人間の仕事では遅いからだよ」

 酒を注ぎながら、順蔵は短く、しかし決定的な一言を口にした。

「権治よ、畦切りや畦塗りは相変わらずの重労働か」

「それは、当然でしょう」

 肥料をまきおえた田には、水持ちを良くするための畦切り、畦寄せ、畦塗りという作

業が施される。漏水を防ぐための仕事はどれも重労働で、家によっては田人(とうろ)という臨時

雇いの男たちを必要とすることもあるほどだ。

「牛馬耕はそういう労働の苦しさから人間を解放してくれる。それどころか人間がやるより速く、そして生産力を上げる効果さえ期待できるものだ」

「それなら結構なことでしょうが」

 期待と同時にどうしても答えは懐疑的になる。順蔵がどの程度馬を扱えるのか、未知数だからだ。

 順蔵もそれを察したのだろう。話をするだけでは埒があかないなと苦笑を浮かべた。

「農会には是非なんかんを準備するように言ってある。私がどうやってなんかんを手なずけるのか、そのなんかんによる農法がどういうものか、その目でしかと見るが良い」

 そう言って順蔵は酒をあおった。そして見つめ返してくる。形の良い双眸に宿る眼力は強く、明日を怖れているようには見えない。酒のせいでなく、瞳の奥に根強い自信が宿っているのが見えた。

 順蔵が言った通り、翌日あてがわれたのは家の主人以外には慣れないことで有名な馬であった。なんかんと括られる佐渡の馬だが、豪農が持つ馬は調教が行き届いているおかげでおとなしい気性を持つ。なんかんと称されるのは中小規模の農家が持つ馬である。漏れ聞こえたところによると、扱いやすい馬をあてがわれる話もあったようだが、順蔵本人からあえて気性の荒い馬を用意するようにという申し出があったようだ。

 順蔵は農家の次男である。家を継ぐ立場にない者が養子に出るなり独立するなりするのは珍しいことではない。しかし順蔵の場合、新穂の者が見たことのない農法を携えて帰ってきた。興味を持った権治であるが、それは村人たちにも言えるようで、馬を引き出した順蔵の周りには黒山の人だかりができていた。

「いってえどうするつもりがんだ」

 権治の傍で、かけそばの入った器を持った忠一が、興味津々と言った様子で言った。村人たちは順蔵のすることを見世物のように捉えているようで、朝の早い時間にもかかわらずそば屋の屋台が田の周りに立って繁盛しているようである。

「さあ、お手並み拝見ちゃね」

 始め指導者らしくフロックコートを身にまとっていた順蔵は、馬を前にして上着を脱いで身軽になった。股引と脚絆を身につけ、靴も足袋に履き替えている。田の周りへ引き出すだけでも唸りを上げている馬を、どうやって手なずけるのかという興味はあった。しかし権治の興味はもっと奥にある。順蔵は昨夜、牛馬耕が人間を重労働から解放してくれると言った。家に帰ってからその言葉の意味を寝ずに考えていた。かつて嫁や娘の仕事であった脱穀が、千歯扱きの出現によって労力を減らしたように、女には務まらない重労働である田打ちも、男女の別なくできるようになるのかもしれない。そうであれば、その是非はともかく、革新的な技術となるのは間違いなかった。

 順蔵は集まった村人たちに向けて、持ち込んだ農具のことを話していた。土に潜り込むと思われる部分は人が使う鋤とよく似た形だが、把手がその上についていて、それまでの農具とは明らかに使い方が違うのがわかる。更に鋤で言えば柄に当たると思われる部分は前に伸び、それを馬に引かせて前へ進むようだった。

 その農具は犂というらしい。読みは同じだが字は違い、人が使うものとは区別するべきだと順蔵は言った。そして馬に農具を取り付けようとしたが、馬は嫌がって唸る。周囲から短く息を呑む音が聞こえた。後ろ蹴りを見舞われるのではないかと権治も心配になった。

 自分自身の唸りに興奮を覚えたように、馬はいっそう激しくいななき、体をうねらせる。業を煮やしたように、馬は歯を剥いて順蔵へ立ち向かってきた。なんかんと呼ばれた激しい気性が表れる。痛い目に遭ったことのある見物人がほとんどで、ざわめきは一瞬恐怖に彩られる。

 馬の噛み付きを軽やかな足取りでかわした順蔵は、次の瞬間、流れるような動きで馬の口に噛ませた紐を引っ張った。

 手綱とは比べるべくもない、ちょっと腕力が自慢の男なら素手で引きちぎってしまえそうな細く頼りない紐である。それが引っ張られただけで、暴れ出した馬がぴたりと動きを止めた。

 声を上げかけた時、馬の興奮がぴたりと収まった。

 そして嘘のようにおとなしくなって順蔵のされるままになる。何をしたのか理解する前に順蔵は犂の取り付けを終えていた。そして出来事への理解が追いつく前に順蔵が馬を歩かせる。

「どうやったんだ、妖術でも使ったのか」

 忠一が素っ頓狂な声を上げた。権治もばかばかしいと感じながら一瞬そんな思いにとらわれたが、田に入った後の順蔵が重ねる馬への呼びかけは、権冶にとってなじみの深いものであった。

 前へ進める時は「マエ!」と力強く発音し、加速させる時には「ハイハイ!」、減速させるには「ホーホー!」。そして動きを止めるには「ドオ!」。これには二種類あって、力強く短い発音をすれば普通に馬は足を止め、緩やかな発音ならそれに応じて穏やかに動きを止める。発音の使い分けによって馬を、それも地元民でさえ手に負えないこともあるなんかんを自在に操る姿は、妖術遣いなどではない。熟練の馬子だった。

 馬と共に土の上へ踏み出した順蔵は、馬に引かせる犂を操っていく。使われていない土地のためカブタはないが、冬の夜気で凍てついているのは同じ条件だ。そればかりか、細かい石が混ざっていて普通よりも耕しにくいはずだ。

 順蔵と馬は、その条件をものともせず進んでいく。中床犂というものを馬が引き、それを順蔵が後ろから支える。一見すると馬の調子一つで方向がずれてしまう危うさを感じるが、順蔵はかけ声と手綱を巧みに操って前へ進んでいく。そして向こう側へたどり着くと反転し、同じように耕していく。それを五往復行い、田の外を歩いて順蔵は馬と共に戻ってきた。

 権冶は成果を確かめようとする老農たちに先んじて田へ飛び出した。隅の土を手ですくうと、空気とほどよく混ざり合った柔らかさが両手を包む。

 何より、ひとすくいでは耕された土を全てすくい取ることができなかった。少なくとも人の手が鍬を扱っただけでは達せない深さだろう。

 馬の扱いも熟達したものを見せた順蔵に、誰も言葉をかけられなかった。権冶も座り込み、見事な感触を有する田の土に触れたまま、順蔵となんかんを見ていた。

 順蔵が耕したのは一反歩、人間なら一日がかりの仕事を、ほんの二時間程度で終えてしまった。重労働から解放されるといったのはこういうことかと権治は思い至る。これほど早く終わるなら、別の仕事をするなり体を休めるなりできて、余裕が生まれる。そしてやり方を覚えれば、女子供でも壮丁ほどの仕事ができそうだった。

 権治はその日の夜に再び順蔵を訪ねた。昼間に見た牛馬耕に抱いたことを、彼は柔らかな笑みを浮かべて聞いていた。

「あれが広まっていったら、確かに田打ちは重労働ではなくなってくかもしれんちゃ。一日仕事があれほど早く終わるなら」

「そして男だけの仕事ではなくなるかもしれん。扱いを覚えれば女子供でもできる」

 まさに思った通りの可能性であった。

「権治、佐渡の外で百姓たちがどんな努力をしているか知っているか」

 突然話が壮大になって、権治は面食らった。これまでの二〇年近くの人生で一度も佐渡から出たことがない。せいぜい両津の港から新潟の方を見渡しただけだ。

「たとえば今日、私が暴れる馬を抑えたが」

「ああ、あれはいったいどうやったがんですか」

 話の腰を折った自覚はあったが、訊かずにはおれなかった。順蔵は嫌な顔をせず答えてくれた。

「手綱は轡につなぎ、その轡は馬の門歯と臼歯の間の空間に入れるだろう。ここは馬にとって敏感なところで、通常は轡を入れるだけで御せるが、それでも言うことを聞かないなら今日やったように別の紐をつないで、その紐を引っ張って刺激を与える。それでたいていの馬は従うものだ」

 順蔵はわざわざ歯を剥いて、持ち出したより糸を噛んだ自分の歯を例にとって話してくれた。端整な顔を歪める行動がおかしくて吹き出すのをこらえていると、笑いたかったら笑っていいぞといたずらっぽく順蔵は言った。

「この説明をするとたいてい笑われる」

 権治はごまかし笑いでその場を収めた。

「あの紐一本で。目の当たりにしても信じがたいです。でもあのやり方が広まれば、馬を手なずけるのも楽になるかも」

 順蔵の足取りは軽やかで、ある程度の慣れを感じさせるものであったが、動作自体に難しいところはなかった。呼吸さえ覚えれば誰でもできるはずだ。

 しかし順蔵は、すぐに必要なくなるとあっさり否定した。

「あれは馬を去勢していないからやらざるを得なかった。馬匹改良が進めば、今日やったようなことをするまでもなくなる」

「去勢、ですか。それに馬匹改良とは」

 知らない言葉が立て続けに出てきて訊き返したが、順蔵は一つずつ話してくれた。

 去勢とは馬の睾丸や卵巣を切り取ってしまうことで、それを施すことで荒い気性も嘘のように鎮まるという。紐を使って馬を従わせるということも、そもそも去勢が行われていれば必要の無いことだと順蔵は言った。

「今回帰ってきたのも、その必要ややり方を説くためもある」

 それは新潟県の農会、ひいては軍の要請が背景にあるという。北清事変に使われた馬もなんかんのように気性が荒く、一ヶ所に集めると周りの馬と喧嘩を始め、それに兵士が巻き込まれることもしばしばであった。その馬の様子を、各国の武官が猛獣のごとしと評し、明治三四年(一九〇一年)馬匹去勢法が発布されたほどであった。

 馬耕が佐渡に伝わったのは北清事変以前のことである。当時は去勢の概念もその必要性を説く人間もおらず、相手にするのも命がけと言われたほどであった。当時に比べれば理解も深まっているが、浸透しているとは言いがたい状況である。仕事を託した相手の意向もあるが、労力と危険を減らすために、去勢や馬匹改良の必要を知らしめるのは大事なことだと順蔵は言った。

「権治よ、いし(お前)はもっと広い土地へ出ていくべきだと思う」

 気が緩んだのか、順蔵の口から久しぶりに佐渡の言葉が聞かれた。

「学校を出たのはいい。しかしこれから先、この島に閉じこもっているだけでは取り残されてしまう。ほんの少し離れた泉にいるだけで、新穂では考えられなかったことができるようになった。ならばいしは、島を離れるといい」

「どこへ行ったらいいでしょう」

 海の向こうに広がる土地のことが想像できず訊き返したが、順蔵の返答は素早かった。

「福岡だ」

 権治は言葉に詰まった。一瞬どこだかわからなかったが、すぐに九州の北部だと思い出す。

 思い出してから、その距離に気が遠くなる。たどり着くまでどれほど時間がかかるか、汽車賃はどれだけ必要か、まったく見当がつかない。

 そんな権治の思いに構わず、順蔵は言葉を継いでいく。

「私が見せた犂の扱いを含めて、百姓の先端地は福岡なのだ。佐渡では学べないこともきっと学べる。この島にはほとんど見られない犂も、福岡にはいくつかの製作会社が競合するほどたくさんある。私が今日やったことに興味を持ってくれるなら、いつか福岡へ行くことだ」

 どうやって行けばいいのか、金はどこから出せばいいのか。卑近な悩みがいくつも浮かんでくるが、力を宿した順蔵の瞳に、後を押されるような心地になれた。

 

 三

 

 佐渡に犂という農具が伝わったのは明治二三年(一八九〇年)、権治が生まれるより一〇年も前のことである。同年東京で開かれた内国勧業博覧会に、佐渡から上京した茅原鉄蔵以下三名が興味を抱き、農商務省で技師を務めていた横井時敬に指導を仰いだ。その結果、福岡県で牛馬耕の権威として名高かった長沼幸七が推薦された。長沼は九月に佐渡へ渡り、犂を持ち込んだ。

 牛馬に引かせて土を耕すこの農具の歴史は古く、延長五年(九二七年)に作られた法令集『延喜式』にはその使用法を見ることができる。ただ、普及は西日本が中心で、全国的な普及は千年以上後の明治を待たなければならない。

 その普及の立役者となったのが馬耕教師という人々であるが、農業生産力の増大を目指す政府の方針もあって農民たちは農業技術を様々に吸収しようと活発な動きを見せた。折しも、いわゆるお雇い外国人の一人であるドイツ人農学者、マックス・フェスカは日本農業の欠点である耕耘の浅さを指摘し、それを解消しうる道具として、福岡県で用いられていた抱持立犂という在来犂を挙げた。この農具は慣れない者には操作が困難で、村の中でも使い手は一人や二人ぐらいしかいないという有様であった。なんかんをはじめ、日本の馬の激しい気性もあって、馬耕教師の存在は深耕を実現するのに不可欠であった。

「ではどうして、田を深く耕さなくてはならないのだろう」

 二度目に新穂村を訪れた順蔵は、若い農夫を集めてそんな質問を飛ばした。相変わらず垢抜けた言葉遣いをしている。権冶も輪の中にいる。順蔵は初めて訪れた時のように馬を事も無げに落ち着かせて犂を取り付けていた。

 農夫たちが近くの者たちと囁き合う。農業と無関係の者も興味本位で見物に来ていた最初に比べて集まりの具合は悪かったが、その分若い農夫たちの表情は真剣だ。忠一の姿はないが、順蔵が村全体に受け入れられるのもそう遠くない話に思えた。

「では実演の前に話をしよう」

 誰からも答えがないのを見て、順蔵は微笑みを浮かべた。どことなく楽しそうで、語り出す言葉にも軽やかさが宿る。

「簡単に言えば、農作物にとり深く耕された土こそが理想だからだ。すなわち深く肥沃な土地こそ生産力を上げられる。深く耕すほど根を深く張ることができる上、水は深く染みこみ、肥料の分解吸収力も強くなる」

 そう言って順蔵は、馬の手綱を持った。左右二本、シュロを三つ縒りにしたもので、牛を扱う場合は右側一本で済むものだという。

 それが馬の口に取り付けられた轡に続いている。順蔵は最初に、馬の背に小鞍を載せてから手綱をはじめとする紐や綱をつないでいった。小鞍こそが馬にとっては重心の位置となり、これがまずいと馬を巧みに扱えないどころか、けがをさせることもあるから、特に慎重にするようにと、丁寧ながら真剣な口調で農夫たちに言い含めた。

 手綱によって馬は従順に歩き出した。最初の講習会で順蔵が見せたような、細紐一本で興奮を収める技が見られる機会はなさそうだった。

「後ろからではわかるまい。横へ回って追いかけてみてほしい」

 権冶たちは言われるまま順蔵と馬の真横に回り、移動に合わせて歩いた。

 前回は声によって御していたが、今回は手綱の操作で馬を動かしていた。第一歩を踏み出すときには手綱を波打たせ、進行中は必ず左手で真横に打っていた。停止や後退、回頭と一通りの動作をしてみせたが、順蔵の手綱遣いに馬は一度も反発を見せなかった。

 手綱を持つ両手は、把手と大取かじを掴んでいて、馬と同時に操っている。沈んだ犂先が両手の動きによって土と共に浮き上がり、掘り起こす。土塊はほとんど飛ばない。順蔵と馬が歩いた周りはきれいなものだった。

 田を五往復して、順蔵は「ドー」と声を上げて馬を止めた。周囲からため息が漏れる。彼らの眼差しには尊敬が宿っていた。

 順蔵は自分の周りに若者たちを集め、犂や手綱を操る手つきを、解説を交えて語った。その言葉の端々には詳細な数字も表れる。手作業で鍬を扱った時と、牛馬によって犂を引かせた時に、土の深さにどれほどの差が表れるか。犂を持つ時どんな姿勢や服装が必要か。なんかんと呼ばれる馬をならすためには何をするのか。そして能率の指標となる労働時間がどれほど短縮できるのか。全てを理解できたわけではないが、在来の農具を扱うだけでは触れられないほどの奥行きを感じた。

 日暮れの頃に順蔵の講習会は終わる。その帰路、誰かが佐渡おけさを歌い出す。

 権冶は馬の背に乗せた農具を担ぎ、それに合いの手を入れた。

「懐かしいな」

 同じ新穂に生まれただけあって、順蔵もすんなりと参加してくれる。そしてきれいな歌声を披露して、だだっ広い風景の上を広がっていく。

 一人、二人と増え、すぐに順蔵を含めた全員が参加する。

 日暮れの道を行き、やがて一人ずつ家に向けて歩き、離れていく。定宿に逗留する順蔵に最後までついていったのは、家が最も遠い権冶であった。

「今日も素晴らしい講義でした」

 周りがいると気恥ずかしくなることを言うと、順蔵は柔らかな笑みを見せて礼を述べた。

「やはり新穂はいいな。帰ってきて良かったという気にさせてくれる。それになかなか素直で熱心だ。村によってはよそ者扱いが激しくて、敵愾心を燃やすような輩もいるから、大変だよ」

 順蔵の話では、農村では得てして新しいもの、よそ者に対する警戒が強いのだという。今回のように馬耕を教えに行くと、わざわざ気性の荒い馬を選んであてがったり、犂を入れにくい土地で技を披露するように求められたりすることもあったらしい。

 順蔵を迎え入れた新穂村の人々は友好的だった。離れていた時期が長かったとはいえ、よそ者ではないからかもしれない。

「私は平気だったが、村の気風を前に失敗して信頼を失う馬耕教師もいるそうだ」

 のんびりした口調の順蔵は、人聞きだと前置きした上で、牛馬をうまく扱えなかったために信頼を得られず、馬耕を根付かせる仕事を達成できずに村を去った馬耕教師の話をした。

 順蔵はそのような仕打ちをした村人たちに怒ったり、失敗した馬耕教師に同情したりする素振りは見せなかった。お互いに真剣勝負だから失敗して信頼を失うのは仕方がないと、馬耕教師を戒めるようなことを言った。

「百姓は土と農作物を、我々馬耕教師は牛馬を誰よりも知っている。その矜持が田畑の上でぶつかり合い、火花を散らすのだ。その思いはいかに良いやり方で仕事ができるかに帰結する。だからこそ失敗には手厳しく、成功には素直だ。村の若い百姓たちは、得てして一度実力を示してやれば誰よりも熱心に学んでくれる。権治、いしのように」

 振り向いた順蔵の瞳は、村の後輩である自分に希望を見出したようにきらきらと光って見えた。なんかんへの恐怖心が薄れたわけではない。同じようになんかんの脅威の傍で育ってきた男が、何でもないように馬を扱う姿に自身を重ねられるほど、手綱さばきに自信を持てるわけでもない。しかし村の気風と相対しつづけ、信頼を集める仕事を続けている順蔵についていくことで、何かを得られる気がする。

「馬耕は佐渡に根付くと思いますか」

 なんかんと呼ばれる荒馬、徳川幕府の時代かそれ以前から続く農家の気風、離島ならではの気質、新しいものへの興味と警戒心。乗り越えたり味方につけたりするべきなのはいくつもあって、相応の苦労を覚悟しなければならないだろう。

「根付くさ。一度やってみればわかる。なんかんに接すること、その扱いを覚えること、超えるべきものはいくつもある。しかし超えてしまえば人力など比較にならないほど野良仕事は楽になる。一度楽を覚えれば人間誰でもそれを捨てられないよ」

 最後は少し皮肉っぽく笑ったが、真理を言い表していると思った。一日がかりの仕事を半分以下の時間で終わらせた上、人力では達成し得ないほど深く土を掘り返すことができた。うまくいけば能率も生産力も大きく上がる。そうして作られた余裕が、村人たちの心にゆとりを生むかもしれない。

「農具の発展にはそれ自体役割があるものだ。牛や馬は何十人分の仕事を一頭でやってしまうし、労働時間も短くて済む。それに今日やってみてわかったはずだが、人間の仕事より牛馬の仕事の方が土を深く耕せる。能率を上げ、仕事の質を上げ、ひいては人間から重労働を解放できる。そうなると余った労働力は農業以外の稼ぎを得るために働くことができる。それがひいては、村全体の利益となるんだ」

 一台の犂の向こうには新穂村全体の姿、そして未来が浮かび上がっていた。目の前の牛や馬をうまく扱うのが精一杯では思い至らないことである。その思いを素直に告げると、今はそれで良いと気軽に順蔵は言った。

「全力を常に尽くすことから始めれば良い。それを全員が徹底すれば、結果的に村全体の利益になる。権治、今すぐ犂の向こうに村の全景を見ろとは言わない。それよりもいしが今見るべきは牛や馬のケツと土だ。私には私の、いしにはいしの分限があるのだ」

 順蔵の声は次第に熱を帯びていく。酒が入れば、このまま熱く農学論でも一席打ちそうな勢いだ。養子に入る前とは才気の性質が変わったような気がしたが、初めてのことを教えて回り、勇気づけていくのにはこれ以上ないほど望ましい気質だと思った。

 歩いているうちに日は沈み、順蔵の顔さえ見えにくくなる。権治は足を止め、がんとう提灯の中に仕込まれたろうそくに火を灯した。釣り鐘型の提灯の内部には自在に回転するろうそく立てがあり、反射鏡によって光を前に集中させる仕掛けだ。それほど遠くを見通すことはできないが、足下へ注意を払うには充分な光であった。人家を集められない農村の道では長く親しまれてきた道具である。

「暗いな」

 順蔵のつぶやきは三歩先の闇へ吸い込まれていくようだった。

「昔からこんなものですよ。泉は違いましたか」

「少しだけ明るかったからな」

 順蔵の垢抜けた感じを見ていれば納得できた。家が集まれば漏れる光で道を照らしてくれることもあるだろう。

 やがて順蔵が逗留している宿にたどり着く。田畑しかない周囲はやはり静まりかえっていて人気もない。田植えの時期なら夕方から夜にかけて蛙が合唱するものだが、間もなくカブタ打ちが終わり、冬の備えにするホエキ(柴)やベエタ(薪)を蓄える山仕事の時期だ。そのことを話すと、そんな時期になったのか、と順蔵は笑った。

「泉でもやっていたことだ。馬耕だけ教えていれば気楽だがな」

 その気持ちはわかった。カブタ打ちは寒くて体が動きにくくなるのに重労働をこなさなければならないし、山仕事は冬の山に入らないと始まらない。

「しかし牛を連れていくだろう。せっかくだから馬耕をやるつもりで牛を引いてみたらどうだ」

 それは新鮮な視点だった。山仕事には荷役として牛を連れていく。昔から続いていることだが、牛が犂を引いているつもりで共に歩いてみれば、何か得るものがあるような気がした。

 話している間にも冷たい風が吹き付けてくる。佐渡の気温は一年を通してそれほど変動しない。冬が早く、気温が上がりにくい代わりに、どか雪が降る新潟ほど寒くもならない。それでも吹き付ける風は、汗をかいた後の体には冷たかった。

 別れを告げようとした時順蔵は呼び止めた。がんどう提灯の火は消して、宿の戸から漏れてくる光だけに照らされた順蔵の横顔だが、瞳の輝きだけは強く保たれていた。

「この時代に生きているということは、ある意味では幸せなことだ。この国の数千年にわたる歴史の中で、今ほど新たなことが情熱を持って受け入れられている瞬間はないと思う。私もいしも、そのことを自覚しなくてはならない」

「幸せ、ですか」

 実感がないままその言葉を口にする。言葉の意味を感じ取るには歴史を知らず、戸惑いがちに返事をするしかないのが情けないところだった。順蔵によって存在を知った犂が、実は自分が生まれる一〇年前には佐渡に伝わっていたことを知ったのは最近だし、犂による深耕の長短を語ることさえできていない。

 それを担った長沼幸七は福岡から来た。以来多くの馬耕教師が、福岡をはじめとする西日本から佐渡を訪れている。

 長沼らを生んだ先端地、福岡の壮丁たちなどは、どんなことを知っているのだろう。まだ教わらなければならない立場の自分より一歩も二歩も遠くにいるかもしれないと思うと焦りを感じる。そして競い合ってでも自らを高め、北見をはじめとする佐渡にゆかりのある馬耕教師たちに追いつきたいという思いも、焦りの傍に並ぶのであった。

「順蔵さん、福岡は遠いでしょうか」

 その隔たりは、そして福岡にあるものは、佐渡からしてみたらどれほどのものか。

「ああ、遠い。まず船で六時間、新潟から汽車で二日はかかるはずだ。いまだに佐渡どころか新潟から渡った者はいない。だから権治よ、早く機会を見つけて遠くへ行くんだ。そして旅に慣れ、綿毛のような技術の種を撒いていく。馬耕教師はみな、そうやって生きていくんだ」

 言い残してすれ違いざま、順蔵は権治の肩を叩いた。

「いしが後を追いかけてくれることを期待している。それは私の綿毛をいしという土が受け止めて花を咲かせたということになる。そうなったら馬耕教師冥利に尽きるよ」

 順蔵が立ち去った後、宿を振り仰いだ権治は、しばらくその場に立ち尽くしていた。かつて佐渡という僻地からの求めに応じて海を渡った男がいて、その男の飛ばした綿毛は新穂に根付き、泉へ飛び、新穂へ舞い戻った。それを受け止めるのが自分であってほしいと、綿毛の後継者は言った。

 西日本に比べて数百年遅れている犂の普及が、明治に入ってから進んでいる。その推力はそれまでなかった何かによるものだろう。牛馬耕は便利であり能率的な農法だが、それに魅力を感じて飛びつく農家だけでなく、周辺で多くの人が動いている。まだ佐渡の中で犂を作る者はおらず、順蔵が持ち込んだのは福岡で作られたものだ。

 時代の風というものがあるのなら、風向きは明治の四四年間で確実に変わり、大正の一〇年間で風力は強まっている。良くも悪くも、全ての人間がその影響下にある。綿毛のように遠くの土地で技術という種を撒き、馬耕という花を咲かせる馬耕教師は尚のことだ。

 自分より広い土地を見て、地平を犂と共に歩いてきた男の言葉は、潮騒さえ耳慣れない権治の耳には実際的で、何より憧れを伴って響いていた。

 

 順蔵が説き、権治が望んだ機会は思ったよりも早く訪れた。

 順蔵が泉の北見家へ戻っている間、福岡から犂を携えた勝永増男という男がやってきた。大正一〇年(一九二一年)一〇月のことである。

 勝永は講習の際、自らを長式農具製作所の技術員と称した。それは福岡において、磯野や深見といった犂の製作会社と競合する会社であり、犂を売るだけでなく地元の人々に使い方を伝授することで普及を図っていた。

 犂の製作会社の多くは、全国から農民を受け入れて犂耕技術を惜しげもなく伝えていた。長式農具製作所も例外ではなく、農会のまとめ役である老農のもとへ足繁く通う商魂のたくましさもさることながら、商談の直後に服を着替えて馬と向き合う犂耕への情熱は、権治が感じ入るのに充分だった。

 そんな福岡の男に、権治は講習会の間から何度も質問をした。馬の扱いから犂の上手い操り方といった技術論から、それらがよりどころとする犂耕の本質まで根掘り葉掘り聞き出す心づもりであった。

 あまりにしつこかったのか、一緒に参加した農夫たちからひんしゅくを買ってしまった。その時投げかけられた言葉が癇に障って言い返してしまい、小競り合いが起き、講習会の翌日農会のまとめ役に呼び出されて叱責を受けるという一幕もあった。

 それでも勝永は、質問攻めにされたことを意気に感じてくれたらしい。農会に呼び出され叱責された後、集会所で待ち構えていた彼は、その場で九州に来ないかと誘ってきた。

佐渡にいるだけではとぜなかばい」

 講習会の時には佐渡の言葉に合わせていた口調が、何故かここでは砕けて福岡のそれに変わっていた。やけに人なつっこい笑みで、技術員というたいそうな肩書きを忘れさせた。

「うちの会社にはあさんのような若いのがばさらかいっぱいおって、犂耕にがまだしてるから、きっと楽しいばい。あさんが佐渡に戻ってきてうちの犂を使えば、それだけうちも儲かるでな」

 言葉の端々に福岡の言葉らしきものが聞こえ、抑揚の違いもあってかみ砕くのが難しかった。それでも小競り合いを演じた男に誘いをかけた勝永が期待をかけてくれているのがわかったし、最後に商売っ気を出したところに正直さを感じた。

「良ければ農会にもそれとなく頼んでおく。きっとわかってくれるばい」

 予想もしていなかったことだけに即断はしかねたが、順蔵の教えを実現できる機会は充分魅力的であった。権治は少し考えさせてくださいと、努めて佐渡言葉の抑揚をつけて答えた。二人になった途端地を出してきた勝永に、佐渡の男として対抗したい気持ちがあった。

 それでも権治に考える時間はほとんどなかった。翌日には再び農会から呼び出しを受けて口頭で勝永についていくように言われ、その四日後には佐渡郡農会と新穂村農会の推薦状が突きつけられた。

 考える暇もなくとんとん拍子に進められる強引さに反発は感じたが、少しでも早く囲い込みたい勝永の気持ちは理解できた。そうやって全国から壮丁を集めて技術を託し、綿毛のように時代の風に乗せて地元を初めとする全国へ飛ばす。長式農具製作所の技術員である以上商売っ気の方が強いのかもしれないが、若い世代へ新しい農法を託してくれていると思うと、乗らないのはもったいないと思った。

 権治はその推薦状を受け取り、その場で承諾した。権治は三男だったが、上の二人の男児が相次いで亡くなったため家を継ぐ立場であった。

 その上権治自身も結婚したばかりで、慌ただしさは否めなかった。それでも農会の要請というのが効いたのか、両親と新妻のコウは送り出してくれた。新穂を離れるといっても一ヶ月間だし、男手が必要な稲刈りも既に終わっている。これから田の上で行われるのはカブタ打ちで、父親と七歳年下の弟が穴を埋めることになった。それから先の山仕事はいくつかの家が協力して行うことだから、自分一人が抜けたぐらいなら充分補えるはずだった。

 権治の旅立ちは一一月、カブタ打ちが終わりかける時期であった。新穂村農会でなじみとなった人々や農学校の同窓生、両親や兄弟、新妻のコウといった多くの人々の見送りを両津港で受け、力強く挨拶する。まだ何も成していないとわかっていながら、多くの人に送り出してもらえるというだけで一つ認められたような気がした。

 その人垣の中に、やはり北見の姿はない。農会でも北見を呼び寄せようとしたようだが知らせは届かずに今日を迎えてしまったようだ。

「巡り合わせが悪かったのかなあ」

 農会の仲間は順蔵がいるであろう泉の方を眺めて寂しげに呟いた。順蔵が馬耕を新穂に持ち帰ってからの四年間で、村人たちの気持ちは変わった。馬耕がもたらした能率化や省力化は、今や誰もが認めるところであった。

 犂の向こうに順蔵が見ていたはずの未来は、権治にはまだわからない。しかし可能性を信じることはできる。だからこそ勝永の勧めに応じる気になれたのだ。

 島の外へ出て行く自分を、順蔵にも見送ってほしかったという思いは権治にもある。けれどほんの九歳の違いであるから、どちらかが極端に早く逝ってしまうということもないだろう。いずれどこかで会えれば充分と思うことにする。

 そして願わくは、お互いのふるさとである新穂で再会したい。それまでお互いが抱えて大きく、広くしていったものについて語らいたい。それには佐渡から距離も技術も遠い福岡で、土と牛馬の匂いにまみれる日々を送ればいい。そうすれば順蔵に近づける気がした。

 やがて船が出る。遠ざかっていく佐渡を眺めながら、権冶は初めて海の上で潮の香りを嗅いだ。大正一〇年一一月、権冶二一歳。佐渡では間もなくカブタ打ちを終えて冬支度を始める時期であった。

 

 四

 

 両津湾から佐渡海峡へ抜け、新潟に着くと休む間もなく汽車に乗る。そこから更に福岡へたどり着くまで二日かかった。福岡の遠さはわかっていたつもりだが、到着しただけで達成感を生むほどの移動を経ると、駅に着いてしばらくの間訪れた目的を忘れた。一緒に福岡へ行くことになった半田忠一と案内役の勝永が傍にいなければ、動き出すのにどれほど時間を要したかわからない。

 勝永は疲れを見せず、休む間も置かずに歩き出す。教えを受ける立場では何も言えず、権治と忠一は顔を見合わせてから勝永を追いかけた。

新潟県から来たのはあさんらが初めてじゃ。社長も楽しみにしとるよ」

 勝永よりも上に立つ人間が気にかけてくれているとわかると、長旅も報われたような気がした。

「社長は犂と馬が根っから好きな人でな」

 目的地の福岡郊外(現・福岡市東区多の津)、長家に到着するまで、勝永は一家の主にして社長である長末吉のことを語った。長末吉は大川村に農家の三男として明治一一年(一八七八年)に生まれ、明治四三年(一九一〇年)に深耕犂を完成させて特許を取り、長式農具製作所を立ち上げた。実家の長家は豪農と言ってよいほどの大きな農家で、現在でも住み込みの男女がそれぞれ一〇人近く、牛馬も二〇頭近く飼っているという。

「社長のおかげで自前の制作室も持てたから、長家の偉人よ、社長は」

 長末吉を語る勝永の顔は誇らしげであった。犂の製作自体は製作所創立の一年前から始めていたが、当時は制作室がなかったため、あちこちの農家の納屋を借りては犂を作り歩いていたという。更に鋳物の犂先は、競合相手である磯野や深見の品を購入していたが、現在はそれも自前で用意できるほどになったそうだ。

「農会からあさんらを借り受けたのは一ヶ月、その間にちゃんと犂耕にがまだして、うちの儲けの種を撒いてくれ」

 最後の一言は少しおどける調子があった。肩書きに似ず人なつっこい勝永が、権治は好きになっていた。

 長末吉家に到着した時、権治は最初に賑やかだと思った。子供の声が外まで聞こえてくる。勝永の話では、末吉には妻との間に九人の子供がいるらしい。まだ日が高い現在、講習を受けに来た壮丁たちは犂耕田という実習用の田に出払っているそうだが、日が沈んで夕餉時ともなれば何十人と帰ってくるという。

 しかもそれは、あくまで長家の受け持ちで、講習を受けに来ている壮丁は全部で二〇〇人に及ぶという。全員が遠くから泊まりがけで来ているわけではないが、その膨大な人数をまかなうために近隣の農家も協力して分宿しているらしい。権治はちょうど空きがあった長家に泊まれることになった。

 荷物を置き、家の男衆女衆にあいさつをしている間に、家全体が慌ただしくなってきた。まもなく壮丁たちが帰ってくるのだ。気配を感じて権治は邪魔にならないよう家の隅に小さな体を更に小さくして待った。

 小一時間が過ぎると、玄関先でどやどやと足音が聞こえだした。上がり込んだのは皆同じ年頃の男たちだが、漏れ聞こえる言葉は様々な地方色がある。佐渡の言葉に似た響きもあれば、全く聞いたことのないものもある。目立っていたのは勝永の喋り方に似た福岡弁であった。

 すぐに夕餉となった。働いていないことで抵抗を感じていた権治だが、男衆の一人に呼ばれて居間へ向かった。食卓もまた、様々な響きを持った声の巷となっていた。夕餉を食べるのは遠くから泊まりがけできた者たちだけで、その数は三〇人、男衆が案内してくれた隅の席では、やはりいくつもの響きが渦巻いている。

 一家の主であり講習生たちの責任者である長末吉の音頭で夕餉が始まると、周りの目が新参者へ向けられる。みな牛馬を扱うのに相応しい立派で大柄な体格をしていた。

「えらくちっこいのが来たな」

 そのうちの一人が見下ろすような目つきで言った。なまりはあったものの福岡弁ほどわからない言葉ではない。明らかに背丈のことをさげすんでいた。

 にらみつけて言い返そうとすると、相手の隣から、こなすな、という声が飛んだ。

「仲良うしなきゃいけんばい。新参者が相手だからっち、自分のことばこーかるのは良くないばい」

 こちらは恰幅が良く、その分声には柔らかさがあった。いさめた言葉は福岡弁に近い響きで、半分も意味はわからなかったが、諍いをさりげなく止めてくれたらしい。

「あさんも怖い顔しとらんで、仲良うやろうばい」

 男の優しい声に、燃え上がっていた対抗意識が冷めていくのを感じた。そして刺激に対して簡単に熱くなっていたことがひどく子供っぽく思えた。

佐渡から来た、石塚権治ちゃ。よろしく」

 恰幅の良い方は粕屋政夫、最初に突っかかってきた方は狭川常行と名乗った。

佐渡か、新潟じゃな。新潟から来たのはおらんな」

 粕屋は感慨深そうに勝永と同じことを言った。似たような響きの言葉を聞き分けることはできるが、半田を除いて幼い頃から慣れ親しんだ響きと合うようなものはない。半田は遠く離れた席へ通され、声も届かない。

「なーらはどこから来た」

 佐渡なまりを隠さずに訊くと、粕屋は佐賀、狭川は神奈川と言った。

「俺は隣じゃけん、まだいいが、神奈川は遠かろ、狭川」

「何、汽車で二日ぐらいだ、いちいち騒ぐものじゃない」

 そう言いながら、長旅を乗り越えてきたことを誇らしく感じているらしい。狭川の頬は緩んでいた。

佐渡は遠いばい、石塚も苦労したっちな」

「汽車の前に船があって、長かっだがら」

「孤島だからな」

 狭川の声には田舎者とさげすむ響きがある。

「狭川、あさんも遠いばい。九州からしたら田舎ばい」

 対して粕屋の声に毒気は感じない。狭川も毒気を抜かれたように、粕屋には何も言わなかった。

佐渡には牛馬耕があるけ」

 農業の話になると狭川も目の色を変え、粕屋の言葉に耳を傾けていた。

「北見先生という人が広めて回っだがら。俺はその人の後を受けだいがら」

 他人を前にすると、その思いはとてもきれいに口を滑り出た。もっと見据えるべきものが他にあるかもしれないが、今のところは目標とした人の背中を追いかけるのが精一杯である。

「そうかい、ならがまださねえと」

 相変わらず粕屋の言葉はわからなかったが、その人の良さそうな表情で、初対面の男の道を応援してくれていることだけは伝わった。

 それからは狭川や粕屋も自分のことを語った。言葉の使い方や響きに大きな違いはあるものの、わざわざ犂耕を修めるために福岡まで来た男たちの心意気は、権治も通じるものを感じた。対立を我慢すれば、充分やっていけるような気がした。

 食事を終えると、明日も夜明けと共に始めると長末吉が宣言した。狭川に遅れるなよと言われ、少し乱暴に返事をしてやる。権治は床に就きながら、順蔵や勝永から教わった犂の使い方を思い浮かべる。眠りに落ちる瞬間まで、把手のささくれだった手触りを思い出していた。

 

 廊下を早足で歩き回る音を夢うつつで聞いていた権治は、やがて周りが起き出したのに気づいて自分も起き上がった。泊まりがけの壮丁たちが休む大部屋である。権治は一日の始まりを予感し、急ぎ足で動き出す周りに合わせて朝の準備を整えていった。

 佐渡よりも温暖と聞いていたが、さすがに一一月のことである。顔を洗う水は手を切るように冷たく、頬に触れた瞬間にまどろみは飛んだ。更に後ろから急かされるので、眠気や疲れを感じている暇などなさそうだった。

 着替えを終えるとすぐに外へ出る。自転車で通っている講習生たちが既に待っていて、彼らとの講習を終えてから朝食となる。まだ夜が明けてまもなく、冷え込みも厳しい時間であった。

 権治は半田忠一とは別の場所へ案内された。長家に集った壮丁は地元に住む通いを加えると二〇〇人にも上るという。それほどの人数は長家の土地だけでまかないきれるものではないので、近所の家々に分宿して講習の時には馬と実習用の田を借りて耕起している。犂耕田とは、この実習用の田を指す。

 長家が主催する牛馬耕の講習は晩秋の田が空いた時期に行われる。本来の持ち主が使わない時期に行うしかないのだが、農家にとっても若々しい力を借りることができる利点があり、おおむね協力的だった。

 権治は新入りとして紹介された後、馬を扱ってみるように言われた。得てして臆病な生き物である馬は、初対面の人間である権治に怯えを見せたが、声をかけ、時間をかけて馴らしていくうちに気を許してくれた。噛み付いてくることもある佐渡の馬に比べれば、まだ扱いやすい馬であったが、周りには充分な実力を示せたらしい。どよめきには感心が多分に含まれていた。

 それから数時間、空気がぬるくなる頃まで権治らは犂耕田で動き回った。権治は犂を馬につけて扱うところから始めたが、北見がやったような速やかさを表すことはできず、巡回してきた長末吉に遅さを咎められた。気にしても詮無いことと自らに言い聞かせながら馬に田を入れる。馬を前へ進めたり方向転換をしたりという基本的なことは滞りなくできたものの、肝心の深耕は中途半端であった。

 深く耕すことはできたものの、畝がまっすぐ作れず、隣の講習生の領分に入り込んでしまうこともあった。その講習生は舌打ちし、その不機嫌さが伝わったように馬も唸った。そして自分の馬も、不手際を責めるように鼻を鳴らす。

 権治があてがわれたのは、安定性を高めた改良型の短床犂ではなく、在来の無床犂であった。扱いに慣れていない道具を使ったのだから不手際も仕方がないと言い訳じみた考えにも陥りかけたが、旅から旅への馬耕教師は、自分が北見に仕掛けたように村の若者に試されることもある。その時馬の気性や道具の古さを問題にしたら、教師を名乗る資格はないだろう。

 何のために新穂や佐渡郡の農会が自分に推薦状を出して送り出したのか。馬耕教師として働けるようになってほしいからだ。期待に応え、北見に追いつくためにも、悪条件を克服できるようにならなければ、今までの経験や学びが報われることはないのだ。 

 朝食を終えると講習が再開される。半分は仕事であるから、遅れや失敗は歓迎されない。昼、夕方と田を歩き回り、夕餉の後は犂鞍の作り方や手綱の付け方といった講義が行われた。それを終えてようやく床に就くことを許される。狭川や粕屋といった、先に来ていた者たちは慣れているのか、講義の後は周りとの話に興じていたが、権治はそんな気になれず、すぐに床に就いてしまった。

 翌朝目覚めると、脳裏には夢の記憶が残っている。そこでも権治は犂を持っていて、まっすぐ進められない無床犂に悪戦苦闘していた。

 そのような夢は福岡を出立する直前まで見たものの、現実には七日を経る頃には無床犂の扱いにも慣れてきて、まっすぐな畝を作れるようになった。講習の時だけでなく、手空きの時に資料を製作所の社員などから借りて、犂の特性や使い方などを学んでいくうちに、正確さだけでなく速さも増していった。

 仕事ができるようになると余裕もでき、一緒に学ぶ講習生や製作所の社員と関わる気力を保って夜を迎えることもできるようになった。彼らも犂や農業に半生を費やしてきた人間だけに、知識や持論は感心するような密度を誇り、議論に花を咲かせられるほどにもなった。そこまでのことがあって初めて、権治は福岡まで来た甲斐があったと思えた。

 同郷の忠一とはすれ違いが続いていたが、ある日同じ犂耕田で実習をやることになった。馬の扱いは自分の方が上だと密かに思っていたが、いつの間にか声かけで馬を操れるようになるほどの信頼関係を、馬との間に築いていた。忠一に追いつかれたことに危機感を覚えながらも、異郷においても共に努力する同郷の若者の存在を思い出せたことが心強かった。

 その日の実習を終えて、権治と忠一は連れ立って歩き出す。すると忠一が口を開く。それはごく自然で、権治も気負うことなく合いの手を入れていた。

 

  ハアー佐渡へ、佐渡へと、草木もなびくヨ

  佐渡は居よいか、住みよいか

 

 いつもは農作業で最も遅れた者が、全員の農具を持ち帰ることになっているが、いくつかの部品を組み合わせている犂を持ち帰るのは、一人では難しい。忠一が犂先を持ち、権治が把手を持つ。ちょうど馬に犂を引かせているような格好となった。その上で佐渡おけさを歌うと、新しい農業を故郷へ向けてもたらす準備をしていると、どこか誇らしげな気持ちになれた。

「何の歌ね、それ」

 今日一日一緒だった福井の若者が訊いてきた。

佐渡おけさっていうがんだ」

「うめえ歌だなあ」

 彼は心底から感心したように言った。そして先を歌うように言うので、気分を良くしながら権治は続きを歌う。

 

  ハアー 佐渡へ 八里のさざ波こえてヨ 鐘が開える 寺泊

  ハアー 雪の 新潟吹雪にくれてヨ 佐渡は寝たかよ 灯も見えぬ

  ハアー 佐渡へ 来てみよ 夏冬なしにヨ 山にゃ黄金の 花が咲く

  ハアー 来いと ゆたとて行かりよか佐渡へヨ 佐渡は四十九里 波の上

  ハアー 波の 上でもござるならござれヨ 船にゃ櫓もある 櫂もある

  ハアー 佐渡の 金北山はお洒落な山だヨ いつも加茂湖で 水鏡

 

 歌ううちに佐渡の景色が思い浮かんでくる。今頃佐渡では、残された農会や農業学校の同窓生たちが、早い冬に備えて冬囲いでもしているのだろう。カブタ打ちが終わって、次の仕事が始まっているはずだ。

「カブタ打ちももう終わるかな」

 佐渡の農業に欠かせない仕事を何気なく口にすると、若者は耳ざとく聞きつけて何のことかと訊いてきた。

 カブタと呼ぶ稲の切り株が残る田に鍬を入れる冬の野良仕事で、春に備えてのことだと言うと、やったことのない仕事だと目を輝かせていた。

 若者も福井での日々について語る。そうやって話をしているうちに長家に着く。話に没頭したのは久しぶりで、途中から歩いている感覚がなくなった。

 夕食の後はいつもの講習はなく、代わりに末吉の音頭取りですき焼きと酒が振る舞われた。自分たちより二週間早く来ていた粕屋と狭川が講習を終えて、明日故郷へ戻る。それを送り出すための送別会であった。

 のんびり過ごそうと思っていた権治は、突然何かやれと言われて面食らった。忠一に助けを求めようにも、彼は酔った素振りを見せて他人のふりをしている。

「早く出ろ、新入り」

 急かされて全員の前に上げられた権治は仕方なく、子供の頃で見た鬼太鼓(おんでこ)の真似をす

ることにした。今の隅にあった棒を長刀に見立て舞い踊る。佐渡の各地で行われる祭り

の演し物で、太鼓の名の通り本来は鬼の面をつけた叩き手が太鼓を叩き、鬼面の舞手や獅子舞が勇壮に絡み合う。本来は農業の成功を願うまつりの一つだが、子供の頃は舞手の真似をして棒を振り回し、そのうちチャンバラに発展していったものである。

 ほどなくして観客の誰かが手拍子をはじめた。音は太鼓ほど重くないが、拍子としての役割は充分にこなせている。その音に乗って舞うと、舞全体が整っていく感じがする。手拍子は瞬く間に増えた。気をよくして、棒を勢いよく振るう。風を切る音が聞こえるほど勢いがついていた。

「おっしょいおっしょい、おっしょいおっしょい」

 手拍子の中にかけ声が交じったが、合いの手のように盛り上げる感じではない。さりとて囃し立てるような意地悪さも感じない。ただ、拍子が全くあっていないその声は勢いをそいだ。

 声の主はおっしょいおっしょいとやたら大きな声を張りながら乱入してきた。観客たちが明るく笑い盛り上がる。何度も丈作という声が飛び、一つ一つに丁寧に応えていた。

 丈作と呼ばれた男は中肉中背で、出来上がったしまりのない笑顔で踊り狂う。小袖をはだけ、襦袢をまくり上げてほとんどふんどしのようにしている。まるでふざけて泥遊びをする子供のようだと思った。実際彼の笑顔は、酒が入っているにもかかわらず無邪気だった。

 断りも入れず踊り狂う丈作は、一つ覚えのようにおっしょいおっしょいとかけ声を続ける。するとさっきまで手拍子をしていた観客たちまでかけ声に転じる。

 権治はひょうきんな丈作に対抗するのも情けないと思いながら、関心をさらわれたのが気に食わなくなった。彼から距離をとり、棒を手近な端に持ち替えて舞を再開する。見たことのないやり方だが、長刀を振り回すのが本来の鬼太鼓なら、小太刀を振るってもいいだろう。

 そうするうちにかけ声の中に手拍子を取り戻すことができた。もはや乱入者に勝ちたい気持ちだけで、頭に回った酔いを我慢しながら動き続ける。

 すると隣で突然丈作が倒れた。驚いて動きを止めて仰向けの丈作をのぞき込むが、彼は満ち足りた表情で寝息を立てていた。

 脇から男衆が出てきて丈作を運び出す。皆が笑って彼を送り出すと、息を吹き返したように丈作は両手を上げた。

 権治も拍手で舞台を降りた。挨拶のつもりで粕屋と狭川のところへ行き、丈作のことを訊くと、長式農具製作所の社員だと言われた。

「社員の中じゃ一番若いやつじゃ」

 酔いの回った顔で粕屋が言い、権治は丈作が運び出された方を振り向いた。

「あんまり明るいんで、俺は好かんがな」

 狭川は不機嫌に言って酒をあおった。生真面目な人間との相性は悪いだろう。せっかく狭川の機嫌が良くなっているので、権治は素直な感想を言うのは避けた。言葉は交わさずとも、あの短い時間の立ち振る舞いや表情を見ていれば好悪の感情は浮かぶ。踊っている間、丈作の物怖じのなさは悪くないと思えた。

 その丈作から、まだ姓を聞いていない。この場で訊いてみようと思ってやめた。今度会った時に本人から訊き出すことにする。それから発展する話があると思えば楽しみになった。

 

 その丈作とは宴会の三日後に再会した。長末吉に言われて大分の日田へ行くことになり、丈作が同道することになった。丈作にとっては慣れた道であり、いつもは一人で行き来しているが、犂の製作を学ぶのに参考になるということで権治は丈作の後をついていった。

「普段は一人やけど、今日は寂しくないな」

 汽車を降りた丈作は、宴会の時に見せたのと同じ無邪気な笑顔を浮かべた。

「どこまで行くんですか」

 歳は同じでも丈作は製作所の社員である。犂を習いに来た講習生とは立場が違う。遠慮もあって他人行儀な話し方を選んだが、丈作は困り顔をして手を振った。

「そんな丁寧でなくちええよ。歳同じばい。もっと気安い方が僕も気楽けん」

 言われて喋り方を切り替えると不思議と自然な感じが口に宿った。年齢のせいだけではなく、丈作には持ち上げた接し方が合わないのだろう。

「名前聞いてなかったばい。僕吉原丈作っちいうんよ」

「石塚権治ちゃ。佐渡から来た」

「ああ、新潟から初めて来た人か。帰ったらちゃんと犂を広めてな。そうしたらうちの犂も、もっと遠くへ売れるばい」

 無邪気な笑顔は言葉を重ねるたびに笑みは深く、輝かしくなっていく。福岡はひらけていて、そこに暮らす者たちは若くても垢抜けていると思っていたが、実際に接してみると佐渡の若者たちと変わりない。

「日田まで何しに行くがんね」

 さっきより気安く、佐渡なまりを交えて訊くと、丈作は木を買いに行くたいとなまりを隠さずに答えた。

「うちで作っとる犂は日田の樫を使っとるけんね」

 少し前までは近隣の業者に頼めば済んでいたが、ここ最近は犂の生産量が増え、それまでのやり方では足りなくなるので、時々社員の誰かが大分まで買い付けに行かされているのだという。

「僕が長さんのところにお世話になりだしたばかりの頃は杉を使っとったばい。檜も使ったことがあるけど、そういう柔らかい木を加工する手間を惜しまないといけないぐらい、今は忙しくなったばい」

 丈作は嬉しそうに語った。粕屋町の農家に生まれ、小学校卒業後に大川の農学校に入学し、そこで馬耕と出会ったという。長末吉との出会いも馬耕が縁で、丈作の犂さばきの腕を見込んで末吉が誘ったそうである。

 一六歳の時から長式農具製作所で働く彼は、犂や鞍、馬鍬の製作を主に行い、同じ年ながら犂の使い方を教えるだけの知識と経験も有している。職人でありながら指導者にもなれる逸材だが、権治は不思議と丈作には対抗意識がわかなかった。かなわないと最初から諦めるのではなく、彼の秀でたところをそのまま受け入れる気持ちになれる。飾らない人柄が、見ていて気分が良いからかもしれなかった。

「僕、石塚くんや半田くんと話ししとー思ってたんよ」

 意外な思いで丈作を見る。新潟の出身者は初めてとはいえ講習生は何人もいるし、同時期に入ってきた若者も数多い。長家を訪れて二週間が経っているが、既に講習生の中では古株になりつつある。

「どうしてちゃ」

「石塚くんは歌も踊りも達者だから。みんな言うとる、言葉も振る舞いもどこか垢抜けしとーて、ひらけとるっち」

 自分自身に向けられるとは思ってもみない言葉だった。悪い気はしないが、故郷を離れて人となりが変わったと言われたようにも思え、少し寂しさを覚えてしまう。二一歳になり初めて佐渡を離れて、佐渡海峡の向こうに浮かぶ島の故郷に愛着を持っていたこと、そこで心身を育まれたことを素晴らしく思うようになったのだ。

「それに佐渡は冬が早いばい。それだけ農業のやり方も違うんじゃなか」

 権治は初めて福岡の土に触れて気づいたことを話してやった。佐渡の土が乾燥しにくく、冬のカブタ打ちで寒風にさらしてやる過程が必要になるのとは逆に、乾燥しやすい福岡の土は畝を作って風化させる必要がないのだ。

 稲についても違いがあった。福岡の稲は脱粒しやすく、佐渡の方はしにくい。立ち木に横棹をかけて逆さにして稲を干すのが収穫後の時期に見られる光景だったが、一一月の時期に福岡では見られない。福岡の稲は逆さにすると粒が落ちてしまうので、地面に並べて干すのだという。

 佐渡と福岡における農法の違いを語るうちに目的地に着いた。その間は丈作の冗談めかした語り口もあって、時折笑い声も上げた。自分自身の性格が暗いと思ったことはないが、声を上げるほど笑うのははしたない気もして避けてきたことだ。丈作の明るさに引き込まれたのか、さわやかな気持ちになれた。

 日田の製材所に着き、担当者と会うと、丈作の表情は変わった。犂や犂鞍に使う木材がどれほど必要で、どんな状態のものが好ましいか。どれほどの予算を用意しているか。土の上で牛馬を扱うだけでは決して出てこないような言葉がいくつも飛び出す。

 商談を終え、帰りの汽車に乗る頃には日が傾いていた。休みの日を除いて犂に触れなかったのは初めてだが、その分得がたい経験ができたと思う。犂を作る木材がどこから来て、誰が準備しているのか、丈作を通してわかった気がした。

 何より丈作という同じ歳の若者と語り合えたのは大きい。これから先も親しく過ごしていけそうな気がした。

 

 丈作は製作所の社員で、犂を作る職人である。日田から買い付けた木材を前に、チョウナ、カンナ、ノミを自在に操って犂の形に削り上げていく。長家は丈作の他に一〇人の職人を抱えていたが、丈作が飛び抜けて若かった。

 丈作の話では、社長である長末吉はこれから短床犂の大量生産を始める方針を固めたということであった。権治が初めの頃扱いに苦労した無床犂は杉を削り出したもので、樹齢五〇年の根曲がりしたものを選んだという。根の曲がった部分が犂身の先端になる。その一本の杉から一台の犂を作るのだが、大量生産をするにはかかる手間が大きすぎるため、仕事のやり方をこれから変えていくということだった。日田の材木会社をはじめとする樫を供給してくれる取引相手は、これからの長家にとって欠かせない存在となるようだった。

 丈作は時折犂耕田へ出てきて、講習生に対して犂の使い方を教えた。木材を前に工具を操る時は近寄りがたい雰囲気を醸す男も、外に出れば本来の明るさを解き放つ。明るく響く声を張り、馬や犂の扱いに慣れていない新入りの講習生を指導していく。権治はそんな丈作に、順蔵と同じく遠いものを感じたが、隔たりは感じない。順蔵は追いつき、追い越したい道標のような男だが、丈作は追い越すのではなく肩を並べて歩いていきたい友人であった。

 福岡に滞在してから一ヶ月が過ぎ、権治と忠一が佐渡へ帰る日を迎えた。長家では講習生が故郷の村へ帰る前夜、心尽くしのすき焼きを振る舞い、宴会を開いて送り出すのが慣わしである。その席でも丈作は明るく、不思議な踊りを見せて笑わせてくれた。

 一夜明けて、長末吉をはじめとする長家の人々から見送りを受けた権治と忠一は、彼らに一礼して駅へ向かった。一ヶ月前に案内してくれた勝永は神奈川へ派遣されていて、もう一人の馬耕教師実淵も福井にいるという。

 駅までの付き添いを買って出たのは丈作だった。道中彼は、二人に佐渡おけさを歌うようにせがんだ。はっきり口にはしなかったが、餞が欲しいのだろう。頼まれた通りに権治と半田は歌った。丈作も合いの手を入れて、三人で歌いながら駅へ向かった。

 ひとしきり歌い終わると、丈作も歌い出した。

 

  酒は飲め飲め 飲むならば

  日の本一の この槍を

  飲みとるほどに 飲むならば

  これぞまことの 黒田武士

 

「黒田節か」

「何ね、知っとったかい」

 言いながら丈作は先を歌う。それに合いの手を権治と半田も入れる。互いに餞を受け取ったようで、形に残らない分胸の内が温かくなった。

 連絡を取り合うこと、再会を約束して丈作とは別れた。それからまた三日近い時間をかけて佐渡まで戻る。両津港の周囲はうっすら雪が積もっていて、福岡での日々を思うと過ごしづらい気もした。

 新穂村の実家に戻ってきたのは夕方であった。ちょうど山仕事を終える時間で、薪を満載したセナコウジを背負った若者たちとすれ違った。股引や裂織、わらじという保温性を高めるための身なりは山での過酷な仕事を物語るものであったが、がんどう提灯に照らされた彼らの表情は明るかった。

 

  ハアー佐渡へ、佐渡へと、草木もなびくヨ

  佐渡は居よいか、住みよいか

 

 すれ違って少し歩くと誰かが歌い出し、それにはやはり合いの手が入り、楽しげに歌いながら遠ざかっていく。権治も背中で歌声を聞きながら小さな声で合いの手を入れた。足取りと共に消えていく歌声が聞こえなくなるまで、権治は合いの手を入れ続けた。

 

 五

 

 佐渡に戻った権治は、翌年の大正一一年年(一九二二年)四月、新穂村農会より牛馬耕指導員を嘱託された。福岡を離れる際、長末吉より牛馬耕教師適任証を授与され、福岡まで導いた勝永増男からは年末に犂耕教師適任証を渡された権治は、資格を得てから五ヶ月後、ようやく地元から仕事を任されるようになった。

 この時点では新穂村、佐渡郡から牛馬耕の指導を委託されたに過ぎなかったため、権治が佐渡を出て本州で馬耕教師を名乗るようになるのは翌年を待たなければならない。 

 大正一二年(一九二三年)、権治は新潟県犂耕教師を嘱託され、活動の範囲を本州にまで広げた。新潟県下の馬耕教師は権治を含めて五人しかおらず、農家の営む会社が馬耕教師を抱えている福岡とは大きな違いであったが、若い世代の犂への関心は高く、その普及の速さには驚かされた。二年目には新潟県から実地で馬耕教師の候補生を指導するように言われ、学校を出たばかりの若い男を弟子のように連れて歩くこともあった。

 順蔵から受けた指導は、この時役に立った。初めて順蔵がなんかんを手なずけた時に見せた、細紐を使ったやり方は、とりわけ村の気風を相手にする時に役立った。順蔵が言った通り、扱いにくい馬をあてがわれるのがほとんどで、人間に噛み付いてくる馬ばかりであった。

「こういう馬しかおりませんで。教師ならこれぐらい、扱えて当然でしょうな。特に石塚さんは、なんかんで有名な佐渡の出でいらっしゃる。是非とも見せてください、佐渡仕込みの扱いというものを」

 下越北部の村で指導することになった時、馬を準備した農家の男は慇懃だったが、品定めするようなふてぶてしさが見え隠れしていた。

「先生、どうしたら」

 上越出身の若い男が、馬を手に負えず泣きついてきた。人間を怖れないどころか舐めてかかる態度の馬であったが、それを御せないようでは、馬耕教師は務まらない。

「ばか者、情けない顔をするな。村の若造どもに舐められるぞ」

 権治は気弱な顔をした若者をしかりつけた。扱いにくい馬をわざわざ選んでくるのは、馬耕教師の技量を試す意味合いもある。地元の農家にしてみれば、馬耕教師の指導一つで生産力が変わる機会である。居丈高に振る舞ったり、迎え入れる立場とは思えないほど強気な態度を見せたりするのは、真剣さの表れなのだ。

 しかしこの若者にとっては、実地が初めてだ。ここで無理をして本人が自信を失ったり、村がいっそうよそ者を信用しなくなったりしてしまっては困る。今回だけは自分が出て、道筋をつけてやらなければならない。

 権治は馬の前に立った。人間を全く怖れない馬は立ち向かってくるが、攻撃をかわす。脳裏には順蔵が見せた軽やかな動きがある。馬の動き、そして心を感じながら手綱や犂をつけていく。最後にポケットに忍ばせておいた一本の細紐を取り出す。それを門歯と臼歯の間に入れて引っ張ると嘘のように馬はおとなしくなった。なんかんだろうとそうでなかろうと、馬であれば有効な手段であった。

「あいつ、妖術でも使ったのか」

 人垣の間からそんな素っ頓狂な声が上がる。権治は彼らに背を向けて密かに笑った。順蔵が同じことをやった時、自分自身も覚えた正直な感想であった。

 あとは佐渡の自宅や出先でやっているのと同じように馬を操って土を鋤く。馬だけでなく田も犂を入れにくい質であったが、既に村の気風に慣れた権治には戸惑うことではない。

 一通り終えても、村人たちから拍手や賞賛の声はなかった。ただ信じがたいものを目にしたように放心していた。

 自分の仕事の効果はその日の夜に表れる。馬耕教師を警戒していた村ほど、その反応は熱烈で早い。逗留していた宿に何人かが押しかけてきて、非礼を詫びると同時にこれからも指導してほしいと頼みに来るのだ。

 権治はこだわりなく、良い技術を何としてもものにしようとする村の気風が好きであった。快諾し、前日より明らかに熱心さを増した若者たちを相手に、充実感を覚えながら指導ができるのであった。

 そんな権治に触発されたのか、弟子は次の村では積極的に馬と相対した。意気込んで田に入ったものの、いざ仕事となると馬は言うことを聞かない。弟子は注目の前に田の真ん中であがってしまい、立ち尽くしていた。

 見物人を見遣ると、既に嘲り笑いを漏らす者が大半であった。このままでは駄目になる。そう思い、権治は予定にない指導を行うことにした。

「もう良い、離れて見ていなさい」

 きつい調子で言って弟子を馬から離れさせ、権治は背広を脱いだ。冬のことで決してらくではないが、作業用の服を準備していなかったのだから仕方がない。

 下着一つで田に入った権治は、手綱と声で馬を動かす。すると弟子がやっても動かなかった馬が、ゆっくりと向きを変え、前へ歩き出す。人を変えただけで好転したのが驚きだったのか、見物人たちは表情を変えてどよめいた。

 割り当てられた範囲に犂を入れ終え、権治は村人たちを集めて犂の説明をさせた。本来なら弟子の仕事だが、失敗した弟子に、この村で信頼を築くのは難しい。若い弟子が全て一人で成功させなければならなかったが、馬耕教師を信用しなくなるよりは、自分を信じてもらえれば御の字であった。

 次の秋に村を訪ねた時はちょうど競犂会の時期であった。犂や馬の扱いの競技会で、去年教えた若者たちが馬と犂に触れていた。

 権治は去年の縁もあって見学することになった。百点満点の採点で、項目は大きく四つに分けられる。

 牛馬の姿勢や手綱の使い方、動作の自然さで四〇点。道具の取り付け方や扱い方が一〇点。犂を入れた結果できる、畦の形が四〇点、深耕の程度が一〇点という内訳である。

 明治の末からは佐渡でも行われるようになった競技会で、馬耕教師が歩いて犂を広めるごとに競技会は盛んになっていった。出場する農民にとっては身につけた技術を披露する機会となり、それ以外の村人たちにとっても貴重な娯楽である。犂を広めに村を訪れた時、初めはたいていそうであるように、かけそばの屋台が建つなどして、競犂会は催し物の様相を呈していた。

 権治は若者たちの犂さばきを、お礼として振る舞われたかけそばをすすりながら眺めた。去年まで警戒していた農民たちが犂を受け入れた結果、仕事にかかる時間も減り、村には余裕が生まれたという。競犂会で優勝した若者は心底から嬉しそうな顔をして、審査員長の手から賞状を受け取った。その顔を見る限り、弟子の役目を奪ってでも犂を広めたのは間違っていなかったと思えた。

 馬耕教師石塚権治の活動範囲は、佐渡をはじめ下越岩船郡から上越西頸城郡まで、新潟県のほぼ全域に及んだ。大正一三年(一九二四年)には長女の幸子が、その二年後には長男の章が生まれたことで一家の長としての役目も重みを増していた時期である。そして本業はあくまで農夫であったため、秋口から年末までの二ヶ月間を馬耕教師として過ごし、残りの時間を農家の長として働いた。父親は権治が三四歳の頃に亡くなったが、息子らが育ってからは父親不在の時期を支えるようになり、山仕事においても周囲の家が負担を補ってくれていた。

 権治が村々を訪ね歩くことで、馬耕の技術は綿毛のように広まっていった。功績は実力の証明として新潟県から認められ、昭和八年(一九三三年)には大阪市で開催された全国馬匹博覧会に新潟県代表農馬部の馬耕選手として出場して入賞し、二年後には帝国農会主催の畜力利用講習会に牛馬耕の講師として委嘱された。牛馬耕の技術を競う競犂会での優勝経験や全国馬耕大会で天皇の陪観を許されるなど輝かしい経歴を後に築いていく権治だが、佐渡にも技術の種を落とすことを怠らなかった。

 佐渡の外で二ヶ月を過ごす間に、各地の犂に触れる機会があり、気に入ったものを佐渡へ持ち帰り、教え子たちに託してきた。教え子たちは競犂会で犂を使って好成績を収めたし、佐渡にもたらされた犂を作る人々も現れるようになる。古くから食料や衣類を自給自足でまかなってきたように、権治の行動が犂さえも佐渡の人々は自前で手にできるようになった。

 馬耕が広まり、それに必要な馬や牛の改良が叫ばれた背景には、軍や政府の要求があったが、昭和一〇年代はその傾向が顕著になっていく。権治が佐渡郡畜産組合代議員に当選した年、東京では二・二六事件が起き、翌年には盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が勃発する。本州から離れた佐渡からも八〇〇人余りの若者が徴兵され、戦地へ送られていく。

 その中に長男の章も含まれた。学生だった章は当初兵役を免除されていたが、やがて特別甲種幹部候補生として、前橋予備士官学校に入隊する。

 修了すれば見習士官となって戦地へ送られる教育課程であり、傷つくか、悪くすれば死体となって戻ってくることは考えたが、兵役免除を取り消してまで兵員を確保しなければならない状況に、戦争があまり長く続かない気配は感じていた。それでも、本州から隔絶された佐渡にも戦争の影響はあって、かつて政府の方針で増産が叫ばれ、稲や牛馬の品種改良が行われた田に、今度は戦地へ送る食料を増産するための働きが求められた。後年振り返れば終戦の年となった昭和二〇年、五月五日に権治は加茂村で行われた「食糧増産突撃隊牛馬講習会」の講師を嘱託され、居並んだ村人たちの前で泥田に入って馬耕をやってみせたが、仰々しい企画の名にしらけながら犂を操っていた。

 権治の予感は当たり、その年の八月一五日に玉音放送が日本全土を駆け巡った。佐渡も例外でなく、馬と共に休んでいる時にラジオからその声を聞いた。

 ラジオからの声を聞いた時に涙する者は多かった。ラジオに向けて詫びる者もいた。

 権治は昭和一五年(一九四〇年)一二月、神奈川に新潟県代表の馬耕指導者として派遣された時のことを思い出していた。皇紀二六〇〇年を記念して開かれた全国馬耕大会に出場した権治は、馬事功労者としてたたえられ、天皇の陪観を許された。馬や牛を操っているうちにずいぶん高みへ昇れたものだと、今から思えば大変な状況に置かれていた天皇の傍にいて感慨深いものを感じていたが、馬耕の発展を目の当たりにした天皇はラジオの中で人間宣言をして、自らが背負ってきたものを降ろしてしまった。五年前から始まっていた大変な状況は、これからも続く。それを思うと何かもできない自分が何とも歯がゆいのだった。

 前橋へ行っていた章は結局、戦地へ送られることなく戻ってきた。新潟から両津港まで、発動機船で数時間かけて渡り、新穂へ戻ってきた彼は、少し長い旅行をしただけのように気楽さを装って見えたが、一歩間違えば死体となって戻ってきたかもしれない。そう思うと、五体満足で帰ってきただけで大きな感動を覚えたのだが、

「弾よけにならないでよかったな」

 いざ本人を前にすると、そんな素っ気ない言葉しか出てこなかった。

 しかしこの言葉が、章の胸にずっと残っていたことを権治は知らない。後年章は、自分自身の体験を語る時に、戦地へ行かずに済んだことを「弾よけにならずに済んだ」と笑いながら表現した。権治はその言葉を聞くことはできなかった。

 

 佐渡から徴兵された若者の中にも帰ってこられなかった者は多くいて、戦後しばらくの間は島全体がどこか沈鬱な雰囲気に包まれていた。新穂も例外でなく、空気がよどんでいるような感じを何とか変えたいと思っていた。

 その時の権治は、努力次第で働きかけることのできる立場にあった。昭和二二年(一九四七年)四月、権治は新穂村村会議員に当選し、現場だけでなく更に大局的な立場から新穂の農業に働きかけられる立場まで上り詰めたのであった。

 順蔵と再会したのは、地域の指導者としての階段を上っていく時期であった。新潟中を歩き回っていたり、途中に戦争の混乱があったりしてすれ違い続けた順蔵は、いつしか髪も薄くなって幾分くたびれて見えたが、柔らかい物腰と酒の飲みっぷりは健在で、久しぶりに順蔵が定宿にしていた宿で杯を交わすと、学校を出たばかりの若い頃に戻った心地になれた。

「章くんは無事に帰ってこられたそうだな」

 順蔵の第一声はそれであった。馬耕の師である順蔵が、何よりも自分の息子の無事を喜んでくれたことは嬉しかった。

「相変わらず土にまみれる仕事に興味を示しませんが」

「それでも教師をしているのだろう。立派なことだ」

 権治は苦笑した。章にも牛や馬の扱い方を教え、犂を使った田畑の耕し方も伝えたが、それは基礎的なことに留まっている。長男である章だが、学校の教師となることを志して父親とは違う道を歩んでいる。どうやら戦後もその心づもりが変わることはなさそうであった。

 違う道を行く長男が、新穂村教育長という高みへ達するのは後の話である。

「権治よ、お前も議員になったのだったな。本当に立派なことだ」

 権治は黙って頭を垂れた。褒められて一番嬉しい相手から、一番喜ばしい言葉をもらえたのは感動的ですらあった。

「言葉もなまりが消えたな。自覚が出たのかな」

 馬耕教師としての実績を積むごとに全国から呼ばれる日々を送るうちに様々な国言葉に触れ、結果としてなまりは消えてしまった。陪観を許された時、なまりを丸出しにしているような恥ずかしい言葉遣いは慎まなければならないという思いが、言葉の変化に拍車をかけたようだった。

 同郷の出であり、お互いの若い頃を知る相手との酒は滑らかに進む。そして自然と新穂をはじめとする佐渡の農業の話になった。順蔵もまた馬耕教師の仕事を続けており、未だ農業に深く関わり続けている。対して権治は現場から離れて大局的なものの見方ができる立場にある。立場の違いは視点の広がりを生み、話しているうちに感じたことのない新鮮さを見出した。

 その間に思い出したことがあった。権治は福岡から届いた手紙を順蔵に見せた。差出人は後藤丈作となっている。福岡を離れる時吉原を名乗っていた彼は、後に長家と親類関係にある後藤家に養子に入り、更に長末吉の長女と結婚している。義父が犂製作会社の社長という立場は、犂の普及を運命づけられた立場のように見えたが、手紙の中で彼は犂の普及を諦めていることを伝えていた。

「義父の長末吉さんが亡くなっているから、好きな道を選んだのかもしれませんが」

 どこまでも明るくひょうきんだった丈作の顔を思いながら、権治は苦笑した。養子に入ったり社長の娘と結婚したりしたあたりに強かな計算が見て取れる。

「長さんが鬼籍に入られて、だいぶ経つな」

「はい。もう一一年が経っています。五八歳でしたから、もしかしたらまだ生きられたかもしれません」

「違いない」

 順蔵は一瞬神妙な顔をしてから笑った。順蔵は五六歳、長末吉が亡くなった歳とほとんど変わらないが、元気に各地を歩き回っている。当分引退することもなさそうだった。

「それで手紙には何があるんだ」

 順蔵が手紙をのぞき込んできた。

 事前に目を通していた権治は、手紙に目を落としながら内容を伝えていく。それは丈作が静岡に招かれた時のことである。丈作を招いた村人たちは、犂の普及員である丈作に期待して自分たちが手こずる土地を耕すように頼んだという。

 犂を一から作ることさえできる丈作でさえ苦戦したが、どうにかやりおおせたことで村人たちの信頼を得た丈作は、その夜の座談会に招かれた。

 その席で村人の一人が、今日耕してもらった土地はとにかく鋤きにくい土地で、耕耘機をいち早く導入したのだと言った。

「耕耘機を」

 大正期、既に灌漑、精米など定置作業に利用する石油機関が導入されており、次の段階として脱穀や防除作業にも機械が導入されている。昔ながらの農法はじわじわと機械化に置き換えられていたが、耕耘機はまだまだ犂の地位を脅かすほどではない。

 それでも順蔵は興味を持っているようであった。嫌悪感を表さないあたり、機械を毛嫌いしているということはないのだろう。 

「しかしどういうことなんだ。耕耘機を先に使ったのに、わざわざ犂を後から入れるとは」

 順蔵の疑問への答えも手紙の中にあった。耕耘機は政府の援助でその村に導入され、村は一銭も負担せずに済んだ優遇ぶりだったという。しかし村人たちは扱いがよくわからず、どうやってもうまくいかない。そこに丈作が現れ、在来の犂を使って鋤きこなしてしまった。それを見て村人たちは、犂を使えばいいから耕耘機は不要という結論に達し、良ければ持ち帰ってくれないかと丈作に持ちかけた。

「まだ新穂には見られないな。私もあまり知らないが」

「俺も同じですよ。種類が三つあることぐらいしか知りません」

 耕耘機にはスクリュー型、クランク型、ロータリー型の三種類がある。手紙を読む限り、村人たちが導入したのはクランク型であるようだった。

 丈作は持ち帰ってもしょうがないと思いながら、一応その機械を見せてもらったという。思ったより小さな機械で、人が後ろを向いて引っ張りながら運転して扱うようだった。エンジンの回転が駆動軸を通じてクランク軸を回し、その力が土中の耕耘刀を回す。この耕耘刀が犂における犂先にあたると丈作は書いていた。

 耕耘機の構造を丁寧に説明した後、丈作は自身の見解を書いていた。

「うまくいかなかったのは耕耘機のせいではなく、耕起した後の農法が犂に合わせた農法だったためで、機械に合わせた農法が確立されれば機械の時代が来る。実際機械は深耕を実現したし、生き物である馬や牛ほど世話の手間はかからない。今後日本の農業はもっと機械を受け入れればもっと伸びていくはずだ」

 その感想は、犂の普及員であり職人であるという立場から口にはできなかった。しかし早晩、犂が、牛馬耕が時代遅れになるという予感を持って村を後にしたという。

「もしもそうであるなら、残念だ」

 そう言って順蔵は酒をあおる。彼の気持ちに共感しながら権治は続きに触れる。

 座談会には静岡の農業試験場で働く大島という人がいて、同じく農業に関わる者として意見交換をした。大島はその場に出された夕餉を食べながら、牛馬を調教した上で犂を扱うという手順を踏まなくても同じ効果を上げる方法はないものかと丈作に訊いた。その時ははぐらかして場を収めた丈作だが、大島の問いに隠された思いは丈作の頭から離れなかった。

「少なくともこの大島という人は、牛馬の調教をやる手間をかける気がないということか。それが良いか悪いかは決められないが」

「能率化、あるいは省力化が技術改革の心です。そうやって手間を少しでも減らそうとするのは悪いことではないでしょう」

「そうだな。私にもその思いがあって、なんかんの扱いを覚えたからね」

 順蔵は懐かしげな声を上げた。今でこそ牛や馬を田畑に入れることは見慣れた光景となったし、人間以上の力を発揮する牛馬に、脱穀や籾摺りをする機械を動かさす畜力利用というものも確立された。その結果必要とされる人員も労力も少なく済むようになり、田畑で働く人の姿も減った。それこそ馬耕教師が望んだ光景であり、理想であっただろう。

 ただ、同じ方を向いている二つの力が具現化された時、片方は有機物を扱い、片方は無機物に同じ仕事をさせている。仕事の結果は同じでも、能率化と省力化を求める人の思いと指導者の理想は、より手間のかからない方を、より良い理想として見るようになる。技術を受け取る立場の人々の心も同じだ。

「丈作は元々犂の職人でした。自分の店も持っています。職人であり商売人である彼は、百姓である俺や順蔵さんとは根本が違うのかもしれません。だからあっさり犂に見切りをつけてしまえたのかもしれませんね」

 手紙は、早晩犂の時代が終わるという自身の予感に従い、農機具の販売に切り替えたことを伝えていた。店の名前も「後藤農機」とし、早くも耕耘機を扱っているという。写真が同封されていて、新しい看板と店先に並ぶ耕耘機、そして若い頃と同じくまぶしい笑顔を見せる丈作が映っていた

「無邪気な子供のような顔だね」

 順蔵の正直な感想に権治は小さく声を上げて笑った。連絡は取り合っていても福岡と佐渡である。簡単に会うことのできない隔たりがあって、たまに各地の競犂会などに呼ばれた時に会うと順蔵と同じ感想を抱くのである。

「時代が変わるのかな」

「はい。俺たちが冬の寒さをこらえながら歩いて広めたことも、間もなく機械に取って代わられるでしょう」

 認めたくはない現実ではあった。天皇の陪観という、普通に暮らしていたらあり得なかった経験ができ、各地の農会から馬耕教師として引く手あまたの人材になれたのは、ひとえに馬耕という技術を修めるため懸命に打ち込んだからだろう。息子は道を継いでくれなかったが、馬耕は権治の人生そのものであった。

 この四七年の人生に寄り添ってきた馬耕が、時代の流れとはいえ機械化に飲み込まれようとしている。丈作のように、犂の製作と普及に関わってきた人間がその予感を覚えたのだから信憑性もある。自分は今、村議会議員である程度の権力を持っている。それを振りかざして抗おうとすれば、老害として白眼視されるだけだろう。何より、佐渡の片隅に留まる権力でできることなどたかがしれている。

「悔しいな」

 ほんの一言であったが、順蔵の言葉は明確に権治の心情を言い表していた。

「ええ。俺たちの苦労が無に帰すのが惜しいだけかもしれませんが」

「それはないよ。人力で耕した後に畜力利用が始まったが、それも人力の時に感じた不便さが原動力になったんだ。人力で培われた秘訣も活かされている」

「人力では為しえなかった理想が、牛馬耕で実現できたのですよね」

「そう。そして牛馬耕で為しえなかった理想は機械化で実現できる。もっと能率的に、もっと省力化を。また私たちのような人間が出てきて、全国を回るようになる。その時旧と新の対立があって、若い教師は戸惑うはずだ。その時こそ我々老農の出番だろう。特に権治、いしは道筋をつけてやらなければならない立場だし、それができるだけの権力もある」

 どんなに使われる力が変わったとしても、行われることは同じだと思うと少し気楽になれた。丈作に機械を託した村人もうまく扱えなかったから耕耘機に見切りをつけたが、見る人が見ればしっかり機能する力を秘めていた。もしもこの先丈作が、かつてのように田畑へ出て機械の使い方を正しく教えるようになれば、かつて牛馬耕が広まった時と同じ推力で、機械化も進んでいくはずだ。

「馬や牛は役目を終えたのでしょうか」

 ずっと農業の相棒として働いてきた動物が、田畑で必要とされなくなってしまう。一つ役目を終えた時、飼い主たる農家はどうすればいいかはどうすればいいのか。

「そうしたらまた荷役にでもすればいいだろう。ホルスタイン種は元々乳牛だったのだから、酪農家に売ればいい」

 順蔵は楽観的だったが、今のところそれしか思いつかなかった。愛玩動物とするには大きすぎるし、役目を終えたからといって殺処分はあまりに無責任だ。野生の牛馬に仕事を与えたのは人なのだから、その責任は最後まで取らなければならない。

 まだ鞍を作る者はいるし、福岡では草競馬も盛んだ。山仕事では未だに、牛一頭いるだけで持ち運べるホエキとベエタの量が違う。田畑で使われなくなっても、牛や馬が必要とされる場はまだある。決して完全に仕事を失ったわけではない。

「しかし、私たちの時代が終わるのは確かだろう」

 順蔵の声に未練は感じなかった。

 半ば意地になって、権治は言葉を返した。

「俺は耕耘機の使い勝手はわかりません。だから懐疑的にもなれます」

「お前の友は時代の変転を信じているようだが」

「そうであれば、認めざるを得ません。丈作は俺よりも犂に近い場所で生きてきた男ですから」

 丈作の仕事場は土の上ではなく床の上が多かった。嗅いだのも草いきれや泥ではなく、乾いた木の芳しさであっただろう。百姓の職人の隔たりは見方や価値観の違いにも通じていて、犂への未練は文面からは感じ取れない。むしろ新しい農具を発見した喜びが目立っていた。

「丈作の予感が正しいとしても、俺はその時が来るまで馬耕を手放すつもりはありませんよ」

「いしは馬耕教師だな」

「もし何の立場も背景もないなら、生涯馬耕教師を名乗っても良かったかもしれません。しかし俺は今、新穂村村会議員です。きっと新穂の農家は能率化と省力化をもたらしてくれる機械が導入されるとなれば興味を示します。そして使えるとわかれば飛びつくでしょう。その流れを止めてはならない。むしろ促進しなければならない。それが責任です」

「私には及びもつかないな」

 順蔵はほんの少し寂しそうに笑った。まるで自分を遠くに見るような目で、自分自身の立場を思わずにはいられない。いつの間にか、現場の人間とは違った場所に立ってしまったらしい。土の匂いを嗅ぎ、なんかんと呼ばれた馬を手なずけることにやりがいを見出していた時期を遠くに、そして懐かしく感じた。

「何にしても、我々は時代に順応しないといけないな。そうでなければ死ぬしかない」

「それができないからと言って命を絶つほど潔くはなれません。何より我々には、支えるべき家と家族がありますから」

「違いない」

 権治と順蔵は、それからお互いの家族について語らった。秋から冬にかけての二ヶ月を除けばいつも会うことのできる家族だが、子供たちにとってはその二ヶ月が大きかったようで、年の瀬や正月は特に一緒にいることをせがんだ。

 権治と妻コウの間には男女合わせて九人の子供がいたが、二人が幼くして亡くなっている。それでも権治の目から見て兄弟姉妹は逞しく生きているように見えた。

「時々加茂湖で釣りをするんですがね」

 晴れた休日には長男の章や次男の良を連れて、釣りに出かけていたが、章が育ってからはその時間も取れなくなった。久しぶりに誘いかけてもいいかもしれないと思った。

 その夜は農業のことからお互いの身の回りのことまで、語り尽くし、飲み明かした。珍しく二日酔いに悩まされたが、寝所で休んでいる間久しぶりに、犂を扱うのに悪戦苦闘する夢を見た。

 目覚めてから思い返すと、長末吉の家で経験したことが元になっていると思われた。苦しい思いをしたのは確かだが、そのまま失われてしまうのが惜しいほど豊潤な記憶であった。

 新穂村では昭和三三年(一九五八年)頃まで牛馬が犂を引く姿が見られたが、それ以降は順次耕耘機と入れ替わり、機械化へとつながっていく。後に息子の章はその歴史を踏まえ、昭和二〇年代が最も馬耕が盛んであったと回想した。

 その時代が終わりかけた昭和二八年(一九五三年)一二月、石塚家の庭に一つの石碑が建てられた。高さにして二八四センチ、幅は一〇九センチ、厚さも一二センチという威容は、石塚家の長である権治の功績をたたえる顕彰碑である。馬耕教師として佐渡に寄与した実績を伝える内容の碑文が刻まれ、家を囲む見事な針葉樹の屋敷林の中にあって、遠い未来まで堂々たる存在感を放ちつづけることになる。

 

 

 

 六

 

 馬耕教師の時代が終わっても権治の仕事は続いた。馬耕と同時に権治は佐渡牛の改良にも携わり、和牛改良組合の理事、そして組合長にも推されるほどの信頼を集めた。農産だけではなく畜産にも力を注いだことは、碑文の中でも伝えられている。

 その権治も七〇歳になる頃には仲間の訃報に触れる機会が多くなっていく。順蔵が体調を崩したという話を聞いたのは昭和四五年(一九七〇年)のことである。馬耕教師として過ごしていれば佐渡を離れていた時期のことだが、既に雪の中で犂を担いで歩く体力はなく、冬の佐渡に身を置く暮らしを続けていた。

 見舞いのために、権治は泉の北見家を訪ねた。前日から降り続いた雪はやんでいたが、あぜ道に降り積もった雪は深い。若い頃歩いた冬の新潟ほどではなかったが、家族の勧めもあってかんじきを着けて道を歩いた。フロックコートを着ていったが、これが蓑であれば山仕事を彷彿とさせただろう。

 自宅療養をしていると思っていたが、来意を告げると高校生になった順蔵の孫娘が応対し、金井町の病院に入院したと言われた。知らせを受けたのが三日前のことである。余程急激に容態が悪くなったのだろう。にわかに心配になり、礼を告げて病院へ向かおうとした。

 その背を孫娘が呼び止めた。澄んだ声は、どこか切実な思いを載せて聞こえた。

「もし話をする時間があるなら、犂のことを話してやってください。おじいちゃん、犂のことを話すのなら喜ぶかもしれないから」

 顧みた時、孫娘の眼差しは思いを託すような痛切さを帯びていた。その目と声音で犂のことを話してくれと頼んでくる。権治は今更ながら、順蔵がどれほど馬耕と犂に懸けてきたのかを思い出した。なんかんを卓越した技術で御し、新穂に技術を広めたのはひとえに情熱のなせる技ではなかったか。

 権治は孫娘に礼を言い、雪道へ踏み出していった。バスで金井町の病院へ向かい、病室の順蔵を訪ねる。ベッドに寝かされていた順蔵は、権治があいさつしても唸り声のような返事しかできなかった。それでも首を向け、生命力を感じる瞳で見つめ返す。権治は椅子に腰を下ろし、その視線を受け止めた。

「お孫さんから聞きました。きれいに育ったものですね」

 順蔵は確かに微笑んだ。かつてのように垢抜けた語り口は聞けないが、やせ細った顔に浮かべたその表情の柔らかさは、確かに順蔵のものであった。

「三日前に体調を崩されたと聞きました。その時はまさか、こんなに悪くなっているとは思いもしませんでしたが」

 順蔵の頷きに、諦めのような気持ちが宿って見えた。相当弱っていることが傍目にもわかるが、どうやら実感を伴うほどであるらしい。間もなく八〇歳になることを思えば不思議のない姿だが、あともう少しという気持ちは捨てきれず、何か貢献してほしいと思う。初めて新穂に馬耕を持ち込んだ順蔵の言葉なら、聞き書きする価値があるほど貴重なはずだった。

 順蔵が奇跡的な快復力を見せることを願ってみたが、自然の摂理をねじ曲げているようでぞっとしない想像にしかならない。権治は息をついて脳裏に巣くう像を追い払い、外は寒いですよと言った。

「雪はやみましたが、降り積もった雪は深い。新潟に比べたらまだましですが、それでもかんじきを履いていくよう家族に言われました。歳を取ったものです。孫にかつては牛や馬を従えて犂を担いで歩き回ったのだと言っても信じてもらえません」

 苦笑しながら言うと、順蔵も笑い返した。湿りのない表情で、機械化の波に飲み込まれた馬耕に、もはや未練を持っていないのがわかった。

「孫はかつて、この佐渡の田畑に牛や馬がトラクターの代わりをしていたと話しても信じられない様子です。無理もない、生まれた頃には既に馬耕はほとんど見られなくなって、物心ついた時田畑で聞いたのは機械の唸りでしたから」

 トラクターに留まらず、最近は稲刈りにバインダーが導入され、いっそうの省力化が進んだ。そのおかげで早乙女も見られなくなった。

 省力化が進めば、それだけ農家の負担は減る。消えても良い昔もある。かつて馬耕教師であった権治は常々そう言っていたが、五月に華やいだ声が聞かれなくなるのは寂しい。往時を知る世代の農民としては、それが正直な思いであった。

「ごん、じ」

 ふとかすれ声が聞こえた。権治は驚いて顔を上げる。順蔵の口がわずかに動き、少しずつ言葉を紡いでいた。

「うまは、うしは、あのとき、げんかい、だった」

 それは自分自身、新穂に初めて耕耘機が導入された時に感じた気持ちであった。自分の広めたことが機械に取って代わられることへの寂しさを感じながら、馬耕が時代にそぐわなくなっていたこと、限界を迎えていたことを受け入れていた。ただ、その本心を誰かに聞かせる機会を逸しつづけ、気づけば七〇歳を、古稀を迎えてしまった。

「俺は職人ではなく農民でしたから、丈作ほど簡単に兜を脱ぐことはできませんでした。悔しかったのです。苦労して修め、広めていったことが人々に必要とされなくなっていって、忘れられていく。勝負事ではないはずですが、機械になんかんが負けたような気分でした。それでも何とか折り合いをつけて生きてきたと思います。寂しさは感じます。だけど懐古趣味に落ち込むつもりはありません。昔は昔、今は今と思います。土を耕すことどころか稲刈りにまで機械が導入された今、俺たちのできることは歴史の研究者にでも情報を提供することだけでしょう」

 若い頃は自分がこんなに枯れた考えにとらわれるとは思いもしなかった。ずっと田畑にいて働き続けると思っていた。牛や馬以外の動力源を考えられなかったのもあるが、馬耕に人生を懸けていた頃の想像を、現代は超えている。

「そうそう、少し前に、うちに研究者が来たんです。まだ二〇歳そこそこの、若い人でした。納屋に置いてあった犂の写真を撮ったり大きさを測ったりしていました。実地で使われることはなくなっても、そうやって若い人の興味を引くことはあるものですから報われます。順蔵さんのところにも来るかもしれません。順蔵さんは俺の前にいた犂の功労者ですから」

 使われなくなった犂は二階建ての納屋に保管してあるが、置く場所が足りないために梁に掛けてある。それを写真撮影と実測にはそれらを一台一台滑車で降ろさなくてはならず、まさに老骨に鞭を打つ作業であったのは事実だが、それよりも自分の仕事を語り伝える道具に若い世代が興味を持ってくれるのが嬉しく、よく訪ねてきてくれたと感謝した。

 福岡の出身だという彼は、まだ新穂にいて調べ物をしているという。その過程で順蔵に突き当たるのは間違いないだろう。

 権治と順蔵は、更にいくつかの言葉を交わした。病人相手だけに多くは話せなかったが、自分たちが撒いた種が機械化という形の花に変わったことを祝福していることだけは確認し合うことができた。当時想像した形とは大きく違うが、農業の発展につながるのなら潔く認めたい。そして、馬耕の時代の終わりに顕彰碑まで建ててくれた地元には、感謝しきれなかった。

「ごんじ」

 看護婦にそれとなく面会の終わりを告げられ、権治は席を立った。病室を出て行こうとする時呼び止めた順蔵は、ろくに動かせない頬の筋肉で、精一杯の笑みを浮かべていた。

「ありがとう」

 その言葉はそっくり返したい。そして、本当なら顕彰碑はあなたにこそ相応しかった。あなたが新穂に戻ってきてくれなければ、今の自分はなかったのだから。

 そんな言葉から始まって、いくつもの感謝の言葉が浮かんでは消えていく。言葉をまとめきれなかった権治は、思いあまって順蔵に相対して、深く頭を下げた。

 順蔵は笑みを保っていた。その顔を脳裏に焼き付けて順蔵は病室を後にした。

 きっとこれが今生の別れになる。そういう予感があった。

 北見順蔵はそれから間もなく亡くなった。遺品の中には佐渡の農家が所有していた牛の血統を記録した、厚さ三〇センチにもなる原稿があった。権治は後にその細かい記録を見た時、つくづく讃えるべき人だと思った。

 順蔵は更に、一〇台ほどの犂を保存していた。それらは順蔵の死後佐渡博物館に寄贈され、佐渡での馬耕の歴史を伝えている。

 

 七

 

 一度普及を始めた農業機械の動きはとどまることがなく、激しい勢いで日本全国を席巻していった。年を追うごとに新しい機械が発売されるなど機械化は洗練され、牛馬が農家の大事な相棒であった時代は遠くなっていく。

 馬耕全盛期と戦争が同時にあった昭和が終わったと同時に、福岡で農機具販売店を立ち上げた丈作の訃報が届いた。平成元年(一九八九年)のことである。佐渡と福岡のことで、お互いに歳を重ねてからは会うこともできなくなっていたが、死別の直前まで電話や手紙の遣り取りは続けていた。享年八九であるから大往生なのだが、順蔵の時と同じであともう少しという思いを禁じ得なかった。

 権治も米寿を過ぎた八九歳になっていた。その身に福岡は遠すぎて葬式に出ることはできなかった。遠い佐渡から冥福を祈ったが、あの明るい表情をもはや見ることができないと思うと改めて悲しくなった。

 手紙が届いた日の夜、権治は顕彰碑の前で頭を垂れた。碑文は自分自身が夢中で駆け抜けた時代に残したものが凝縮された形で記されている。決して一人で完結した技術でなく、次世代にも受け継がれたものがあることを伝えている。しかしこの碑文は後藤丈作のことに触れていない。犂の職人としての視点は、百姓として生まれた自分には持ち得なかったものだし、彼のひょうきんさに触れて心持ちが軽くなった日もあった。

 碑文にある功績の裏には、順蔵、丈作、福岡へ招いた勝永、指導に当たってくれた長末吉、多くの人の存在がある。権治は既に鬼籍に入ってしまった彼らのために、一人頭を垂れ、見かねた章が声をかけるまでそうしていた。

 その悲しみにも折り合いをつけ、新穂村の自宅で過ごしていた権治は九五歳の頃に体調を崩してしまう。一度は病院にかかったものの、権治は強い意志で入院を拒んだ。息子夫婦はその意志を尊重して権治は自宅療養に入る。それを支えたのは章の妻であるタミであった。その献身的な看病もあって、権治はそれから三年間自宅で過ごし続けた。

 そして平成一〇年(一九九八年)、石塚権治は新穂村瓜生屋の自宅で九八年の生涯を終える。機械化以前の、佐渡の農業に大きく貢献した巨星の、長く豊穣な人生が、家族の傍で静かに閉じたのであった。

 

 権治が各地を歩く過程で手に入れた多くの犂はしばらく石塚家の納屋に保管されていたが、彼の死後、新穂歴史民俗資料館に寄贈された。縄文時代に始まる新穂の歴史を扱う資料館の二階部分には、往時の農村の様子を伝える多くの家財道具が展示されており、デロ履き籠や田植定規といった農具も揃っている。

 その片隅に、三台の犂がある。そのうちの一つの寄贈者名は石塚権治となっている。順蔵の犂が佐渡博物館に展示されたように、権治の犂も地元の資料館で往時を偲ばせる手がかりとなっている。

 その裏手にある佐渡市新穂行政サービスセンターの二階には新穂図書館がある。学校の図書室のようにこぢんまりとした部屋の奥には郷土資料を集めた本棚があり、佐渡の歴史や文化を扱う本が集められている。

 そこに『新穂村史』という本がある。平成二六年(二〇一四年)に編纂が終わった新穂村の歴史を伝える本は、農業の分野において、権治ただ一人のために、生涯と功績を伝えるのに数ページを割いている。文化芸能の分野で注目された人物は何人かいるものの、農業分野で注目された個人は石塚権治一人である。村史の編纂が終わった時点で、馬耕が終了して半世紀近く経っていたが、新穂は現在でも広い田畑が残る土地である。その礎となった男は、新穂の歴史から外せない存在であった。

 本棚には佐渡に残る石碑を紹介する本もある。その中には昭和二八年に建てられた顕彰碑も載っている。その堂々たる大きさの数字、そして功績を伝える碑文は紙の上にあっても強い存在感を放っていた。

 その顕彰碑は、六〇年以上が経った現在でも同じ場所に立ち続けている。建てられて数年後には耕耘機が導入され、機械化の波が馬耕を押し流した。

 機械化は省力化と能率化を達成し、労力を多く使わずとも収穫を成し遂げられるようになった。

 田植機の導入によって早乙女は姿を消し、二一世紀の現在では観光客向けの行事として外海府で行われるのみとなった。

 品種改良、防虫、除草剤の研究が進んだことで、害虫駆除や除草の重労働から農民たちは解放された。

 火力乾燥機の出現により、稲を乾燥させるために立てられた稲架は必要とされなくなった。

 昭和四〇年代に出現したバインダーが、稲刈りの重労働を解消した。

 稲こきもコンバインによって稲刈りと一続きの一工程となって、大幅な時間短縮が実現された。

 ストーブをはじめとする暖房器具の進歩が、冬の山仕事を行う理由をなくした。

 佐渡は二〇〇四年に島内の自治体が合併して佐渡市となり、新穂村という自治体と地名は地図や標識から消滅した。

 権治が、順蔵が犂の向こうに見た未来の農業は、コンバインなどの農業機械を手がかりに見る時代となった。

 佐渡の、新穂の大地で繰り広げられた変化の中にあって、顕彰碑は変わらずに石塚権治という一人の馬耕教師の功績を伝え続けている。やがて屋敷の周りに生い茂っていた針葉樹林は刈り取られ、周りには背の低い花と庭木しかなくなった。顕彰碑自体は庭に入らなければ見えないが、家の入り口には顕彰碑の存在を示す標が立てられ、この家にはかつて誰がいたのか、地元の人に、旅人たちに伝えている。

 田植えの時期に聞こえるのは早乙女たちの華やかな声ではなく田植機の唸りとなった。佐渡における農業の変化を聞きながら、顕彰碑はその堂々たる立ち姿と石塚権治の功績を示し続けている。

 かつて新穂でなんかんと犂が担っていた役目は機械が受け継いだ。その機械は今日も農民と共に田を豊穣に保っている。

 静かな田は、あるいは権治の、馬耕教師の理想の風景であるのかもしれない。一日の終わりに佐渡おけさを歌いながら帰る農民も、馬や牛を飼い続ける農家も少なくなった。それでも石塚権治の功績は語り継がれる。

 石塚権治が歩いた道、なんかんと共に耕した田畑、その記憶。新穂はそれらがそこかしこに残る広い大地である。

 

                    《了 四〇〇字詰め原稿用紙一四四枚分》

2015年6月作品