yuzaのブログ

幕末から明治を舞台にした小説を中心に載せています。

牛馬名人

 一

 

 硬い蹄が地面を踏みならす音と、功名心を煽るようなかけ声を耳にして足を止めると、そこはまだ参拝客のいない筥崎宮であった。音の出所である大鳥居近くの馬場を覗くと、直線を駆け抜けた二頭の馬が並んで審判らしき老人の前を通過するところであった。熟慮するような間を置いてから老人は左右に持った紅白の旗のうち白の旗を揚げる。歓喜と落胆が入り交じって響き、末吉は所用を忘れて立ち尽くした。

 馬場の端まで駆け抜けて視界から一度消えた馬が戻ってくると、観客たちがそれぞれを拍手で迎える。勝った方の騎手は誇らしげに拳を突き上げ、負けた方は控えめに手を上げて応えていた。ややあって次の馬が準備をして合図と共に走り出し、馬場を駆け抜ける。三十秒にも満たない時間で繰り広げられる勝負に、末吉は騎手としてのめり込んでいた少年時代を、鞍に乗る青年たちに重ねる。ここ数年は馬場に通うのもままならなくなっていたが、自分自身の根本を支える馬への関心が薄れていなかったことに安堵した。

(今度久しぶりに乗ってみようか)

 本業をしっかりやるのであれば、かつては毎回のように参加していた筥崎宮草競馬に返り咲くのも悪くないだろう。特に深耕犂の特許を取得してからの二年間は、趣味を公言してはばからなかった牛馬の勉強や獣医学に触れる暇もなかった。今日も農学校に頼まれた臨時講師の仕事をしに、一日をかけるところである。

 福岡県大川村の長家に三男として末吉が生まれたのは明治一一年(一八七八年)のことである。長家は豪農として知られた家で、十頭ずつ飼われた牛馬の世話をしていたこともあって、末吉は自然と牛馬に関心を持つようになった。長じてからは世話をしていた馬を駆って草競馬に参加し、連戦連勝の勇名をとどろかすほどになった。近所の馬好きの村人が集まる程度で、賞品も手製の優勝旗が一つという質素なものであったが、騎手としての優秀さは牛馬の扱いの巧みさにもつながって評判を呼んだ。

「長さんの牛馬つかいは手綱はいらん。掛け声一つで思うように動かす」

 末吉の巧みさを評してそのような噂が立ち、それに応えるように数々の曲芸めいた牛馬の扱いを披露し、末吉が二〇代後半の頃、その名は半ば伝説のように近隣の農家で語り伝えられた。

 そんな牛馬名人とでも言うべき末吉の評判を支えたのは、筑前地方で古くから使われてきた抱持立犂をはじめとする犂の存在である。犂とは牛馬によって引かせて田畑を耕すための道具であり、後にトラクターが普及する昭和三〇年代までは各地で使われていた。

 明治以降初めて抱持立犂に注目したのは、ドイツ人地質学者、マックス・フェスカである。明治一五年に来日したフェスカははじめ地質調査所に招かれて日本初の地質図を作成し、後に駒場農学校(現・東京大学農学部)でも教鞭を執った、いわゆるお雇い外国人である。彼は日本の農業の問題点として耕す深度の浅さを上げ、それをする農具として抱持立犂を上げた。

 明治以前の日本には無床犂と長床犂があり、後に末吉をはじめとする犂の職人たちが改良して短床犂や中床犂などが生み出された。抱持立犂は無床犂に分類される犂で、犂先を深く土に入れることができる分不安定で、円滑な作業を行うには熟練の技術が必要な代物であった。

 末吉はその抱持立犂を扱える数少ない使い手であった。そればかりか、片手に酒をなみなみと注いだ杯を持ち、もう片方の手で犂の把手を持ち、掛け声で牛馬を動かし、酒を全くこぼさずに犂を扱うという技を得意としていた。農業への真剣味を感じないと地元の老農たちは良い顔をしないが、娯楽に飢えた若者にはすこぶる好評で、他にも高下駄を履いて犂を扱ったり、馬に立ち乗りしながら犂で耕したりという技も持っている。末吉の評判は、牛馬に関する知識と、このような曲芸めいた技を根拠にしていた。

「福岡農法に相応しいものを教えていただきたい。長先生ならば造作も無いことでしょうが」

 大川村の農学校で講師を頼まれた時にかけられた言葉には、学生に悪影響を及ぼすようなことを教えないように牽制する響きが含まれていた。愉快なことではなかったが、犂の正しい扱いに馬の立ち乗りの技術は必要ない。破天荒に見える講師が来たとしたら、学校が警戒するのも当然だろう。

 学生の中には馬の曲乗りを見たがる者もいたが、少なくとも実習中は基本に忠実な馬と犂の扱いを教えてきた。抱持立犂をはじめ、福岡に根付いた農法は福岡農法と呼ばれ、全国から見て先進的とされてきた。その評判を作ったのは元福岡藩士で明治三老農に数えられた林遠里だが、守っていくのは自分や教えを受ける学生たちだ。全国の目標とされる福岡農法を担っているという誇りが、末吉の原動力であった。

 農学校での臨時講師に一日を使って自宅に戻ると、妻が夕餉を用意して待っていた。家族で夕餉を終えて眠りに就いたが、翌朝はまだ暗い内に目が覚める。敷地内の作業所から、木槌を扱う高い音が聞こえてきた。微かな音で眠りを妨げるほどではなかったが、まだ暗いうちから仕事をする職人がいるという事実が、末吉の眠気を飛ばした。

「あ、おはようございます」

 作業所の中にいたのは西尾という二〇歳の職人だった。いつも威勢の良い挨拶をする男だが、今回ばかりは戸惑いが強く、作業中の手が所在なげに浮いていた。

「西尾か。いや、気にするな。そのまま続けろ」

 少し気を入れ直した返事があったものの、手先の動きにはいまだ戸惑いが残る。意外に繊細なところもあるのだと思うと新鮮であった。

 末吉の家の敷地内にある作業所は、同時に二台の犂を作るので精一杯の小さなものである。それでも三年前に比べれば良くなった。当時は周辺の農家に頼んで場所を貸してもらって犂を作っていたのだ。長式農具製作所も、小さいながら自前の作業所を持つことでようやく自立した一歩を踏み出すことができた。

 長式農具製作所を設立したのは、末吉が三二歳の時である。その一年前、末吉は抱持立犂の改良型である深耕犂の製作に成功して特許を取った。それを契機に設立した会社であるが、犂の改良は一六歳の時から行っていた。特許は一五年越しの成果であった。

「がまだせよ(がんばれよ)」

 そう言って末吉は、西尾の反応を見ずに立ち去った。末吉が特許を取った犂は、やり方や技量によって持ち上がる土の量が変わり、耕し方にムラができるという在来の犂の欠点

をなくすものであった。これによって人力から畜力への転換が進むことになる。多くの作業は牛馬を扱う方が能率的で、労力も少なくて済む。犂の改良が進めば男の仕事であった耕作が女子供にもできるようになる。

 そのようにして生まれた余裕は、きっと農村や農民を救う。明治五年の学制頒布以来義務教育は進んでいないが、教育を受ける義務を負う子供たちが労働力とならざるを得ない事情があったためだ。犂がもたらす省力化と能率化は、子供たちが学校へ行く時間を作り、農民の子供は農民になるしかなかった時代を超える者を生み出すはずだ。

 末吉は自分が生み出したものが実現するかもしれない輝かしい未来を思いながら厩へ向かった。夜の明けきらない時間で、馬たちは寝静まっている。会社を設立してからは、馬を農法の中の一つとしてしか考えてこなかったが、久しぶりに聞いた蹄の音に、風のように駆け抜ける馬の魅力を思い出した。今すぐに遠乗りでもしたい気分であった。

 

 二

 

 末吉が独立し、犂の製作に乗り出した時、福岡県には磯野、深見という競合他社が存在した。会社を立ち上げる前、犂先に使う鋳物の購入先として付き合いのあった会社だが、長式農具製作所の設立は、それらに頼らず完全に自前の製品を仕上げるための契機であった。

 犂製作所の主な顧客は地元の農民であった。彼らは情に厚く、確かな観察眼を持っていたが、一方で農具に対しては突き詰めた考えを持っていた。自分自身の技量や土地の性質などを加味しながら、いくつもの会社の製品を比べて、最終的に一つを選び取る。農民たちは特定の製品に固執することなく、ひたすら使いやすい製品を求めた。そして末吉をはじめとする制作者も、顧客の要求に応えるため、より効率の良い犂を作り上げて売ろうとする気構えを見せた。

 犂の展開は県内にとどまらなかった。犂の製作会社は、犂の営業と技術指導を行うための社員を雇い、全国へ派遣した。犂は西日本では古くから使われていたものの、東日本では普及が遅れていた。

 東日本に犂がなかったわけではない。オオグワと呼ばれる、抱持立犂とは違う在来の犂がところどころで使われていたものの、当時東日本で多かった湿田で使えなかったため、限定的な使用しかされなかった。しかし明治一六年(一八八三年)、庄内平野において官田馬耕を奨励した山形県のように、政府が食料の増産を訴えかけていたこともあり、明治に入って東日本でも犂への関心が高まっていた。そこに西日本の犂製作会社の商機があり、農法の改革が始まった。

「我々はとにかく遠くへ行かねばなりません」

 そう言って、専属の犂耕指導員の一人である勝永は、もう一人の指導員である実淵と共に九州を出て様々な地域へ犂を広めていった。勝永の言葉の裏には、競合他社に比べて小さな規模と少ない人手に対する不安があった。

 犂耕指導員が二人しかいないというのは、他の会社と比べて少なく、新参者ということもあって地元で信頼を勝ち取るのが難しかった。犂を売ることで会社を保たせるなら、九州以外の地域へ市場を求めるのが得策という方針もあった。

 しかし九州にまるきり無関心だったわけではない。末吉は地元大川村の農学校をはじめ、各地の農学校に講師として学生に牛馬や犂の扱いを伝えていた。それは商売ではなく、福岡に生きる農民としての義務感から来るものであった。

 林遠里から始まる福岡農法を継承していくという思いを負っていることだけではない。いくら農法が発達しても、一つの巡り合わせの悪さが重大な飢饉を招くことを知っているからであった。

「これが何だかわかるか」

 博多の農学校に臨時雇いで訪れた時、講義の合間を縫って連れ出した学生たちに末吉は問うた。本来なら座学をしている時間だが、書物で学ぶ知識よりも多くの学生が享保の飢饉を知らない事実の方が重大に思えて、講義を切り上げ野外実習と称して中州畠へ学生たちを連れていった。学校に知られた時のことを考えなかったわけではないが、片手間の仕事と思えば思い切りが良くなるのであった。

「供養塔でしょうか」

 学生の一人からためらいがちの答えがあった。

「その通り。ばってん、どうして建てられたのかわかる者はおるか」

 根本を問う質問に学生たちは、不安げに顔を見合わせるだけで返事をしなかった。何とかして答えをひねり出そうと囁き合う者たちもいたが、漏れ聞こえる言葉は正答からは遠い。

「良い。知らぬならここで覚えておいてほしい。これは飢人地蔵という。どういうものだかわかったな」

 そう言い、末吉は目があった学生の一人を指した。彼は戸惑いながら、飢え死にした人への慰霊碑ですかと答えた。

「その通り。これは享保の飢饉の時に建てられたものじゃ。もう二百年近く前の出来事だから知らないのも仕方がないかもしれない。ばってん、昨今の農法の発達具合があれば防げたかもしれない出来事だし、一歩間違えば現代でも起こりうる出来事だ。農業に従事するならそのことを忘れないようにしてもらいたい」

 末吉は慰霊碑と供養塔を交互に見比べながら学生に向けて言った。実感がわかないような顔をしている者、何かに打たれたような表情の者など様々だが、一部にも影響を与えられたのなら、連れ出した甲斐はあったように思えた。

 そして享保の飢饉のことを学生に向けて語り出す。享保一七年(一七七二年)から翌年にかけて発生した飢饉で、暖冬と冷夏、更に害虫の大量発生によって西日本の農業が大打撃を受けた。天保天明と並ぶ江戸三大飢饉の一つである。

飢饉は犂や牛馬の扱いだけでどうこうできることではない。ばってん、犂を使って土に触れるということは作物や病害虫のことを深く知るという機会にも恵まれる。その時は、自分たちの先祖たちが苦しんだ飢饉のことを思い出してもらいたい。このような飢人地蔵が大正に入っても建てられるようなことがあってはならない。我々は福岡農法の継承者だ。飢人地蔵が建てられるようなことがあれば、それは継承者の名折れだと思え」

 少し強い口調で言うと表情が変わった。受け取り方まではわからないが、飢饉を起こさない学びをしてくれたら充分だと思った。

 結局座学を放棄したことは知られることなく、昼餉を経て午後の実習に移ることができた。午後は牛馬と犂を使った実習である。

 外出の時は教師という肩書きを意識して三つ揃いの背広の上にフロックコートを羽織っていったが、実習の時は法被と脚絆に着替え、靴も草鞋に履き替える。温暖な福岡とはいえ薄着で過ごすには辛い時期であるが、土で汚れた時服より体を洗う方が手間はかからない。

 学生たちを待たせ、一頭の馬を厩から引き出してくる。牛の方が鈍重な分扱いやすいが、福岡では馬を主に使っている。地元の水に慣れるためにも、敢えて馬の扱いから覚えてもらいたかった。

「農学校に来るからには、諸君はある程度農業の経験があると思う。それを踏まえて訊きたい、農業は労多くして益少なし、そう思ったことはないか」

 ためらいがちではあったが、学生たちは手を上げたり頷いたりしてくれた。

「労が多いのは致し方ないとして、益が少ないのは改善しなければ、現代になって飢人地蔵が建つことになる。そのためには土を深く耕し、作物の根を深く張らせ、より多くの栄養分を蓄えさせ、実りを多くする必要がある。そこで注目されたのが、我らの故郷で使われてきた抱持立犂だ。もっともこれは扱いに難があるので、いくつかの改良型が出ている。それを扱えれば充分だ」

 末吉は牛馬に使う装具の説明から始めた。牛馬共に、藁製の腹帯を巻き付けてから手綱を通す小鞍を置く。この小鞍は牛馬にとって重心となるもので、犂と牛馬をつなぐ曳緒、犂先の方向を決める止め木、そして馬を操る手綱が取り付けられる。犂を使う時、牛馬を上手く御すのはもちろんだが、装具の取り付け方がまずいと仕事がうまく進まないばかりか牛馬を消耗させることになる。基本的な順番を守って装具を着実に取り付けるよう言って、末吉は小鞍につける装具を取り付け終えた。

 馬と犂の準備を終えると乾田に入る。その気になれば掛け声だけで馬を操れる末吉だが、学びの場で曲芸めいたやり方は必要ない。基本に則って手綱を取る。

「牛馬にとり、手綱こそ操縦の伝令機である。張りすぎれば緊張して歩かなくなるし、緩めすぎれば怠け癖がついてしまう。この感覚は実地で学んでもらうしかない」

 そう言って末吉は手綱を取った。そして犂と装具をつけた馬の後ろに立つ。たったそれだけのことだが、学生たちの興味が沸き立ったのを感じる。背中には期待のこもった視線が集まっていた。

(牛馬名人の面目躍如となるかな)

 曲芸めいた牛馬の扱い方からつけられた呼び名を、最初は面映ゆい気持ちで受け止めていたが、慣れてくると慕われているようで嬉しくなる。特に会社を立ち上げてからは、社長の肩書きよりも有効に作用した。深耕犂という新しいものより、数千年前から人々と共に生きてきた動物をうまく扱う人間の方が信用が置けるらしい。磯野や深見の築いた信頼を奪うのは用意ではないが、牛馬名人であるからこそ増やせる支持があった。

 その呼び名は商売の時だけでなく、教育にも活かせている。牛馬名人の呼び名はわかりやすいのか、どこで牛馬を扱うにしても一挙手一投足に注目を集められていた。

 学生たちの注目を一身に浴び、末吉は手綱を波打たせて馬を進ませた。牛なら一本で済む手綱は、馬の場合左右二本必要になる。牛の方が足も遅く、感覚も鈍いから細かな操作を必要としない。馬は足が速く能率的な仕事ができる分、二本の手綱によって繊細な操作が必要だった。

「後ろではわかるまい。横へ来なさい」

 背後に向けて声を上げると学生たちが側面に移動した。犂について初心者でも馬の特性についてはわきまえていて静かな歩き方である。ひそかに感心しながら馬を前へ進めていく。右手では犂の把手を持ち、左手で手綱を使う。馬が暴れるなどした時は右手側の手綱も使うが、今回はその出番はなかった。

 学生たちの実習は三日後にあった。装具をつけるところから始めなければならず、時間もかかったが、一日がかりでやりおおせた。

 馬から装具を外し、全ての片付けを終える頃には短い日が沈んでいた。厳しさを増す冷え込みの中で着替えを終えて学校へ引き上げる。常勤講師の出川がいて、茶を淹れてくれた。

「どうですか、うちの学生たちは」

 一人で何か書き物をしていた出川だが、実習の様子を聞き出したいらしい。わざわざ末吉と向き直って話しかけてきた。

「技術の習得に時間はかかるでしょうが、筋は良いと思います。今の調子で鍛錬を積めば良くなっていくでしょう」

 本心であったがどうにも空疎な響きを感じた。出川は儀礼的にさようですかと答えた。

「講師たちも期待を寄せています。牛馬名人と呼ばれた方の手腕がどれほどのものかと。その力が学生たちに宿れば福岡農法の未来も明るいでしょう」

「商売半分ですよ。本業は社長業です」

「誰かに継いでもらえたら常勤の講師として来てもらいたいものです」

「それもいいかもしれませんね」

 本心に近い言葉であった。社長として会社を運営していくことや、犂の職人たちを使って営業に精を出すことにやりがいを感じないわけではない。しかし何よりも自分自身に合っていると感じたのは、学校でするように犂や牛馬の扱いを教えることであった。

 あくまで社長業を本職としながら、末吉は農家や学校で犂と牛馬の扱いを教えてきた。抱えている社員たちのためにも社長としての立場の方が大事だから重心を移すことはできないが、犂耕技術員として全国を巡る勝永や実淵が時々うらやましくなる。会社を立ち上げたのは自分が作り特許を取った深耕犂を世に認めてほしかったからだが、手ではなく口や頭で物事を動かさなければならないのは難しい。いっそ磯野や深見で職人として修行してから独立した方が、勝永や実淵の立場に近づけたのではないかと思う。

「ですが農民にとり、道具の種類が増えるのは喜ばしいことです。少しでも使いやすく、生産性の上がるものを求めるものですから」

「農民は地道で真摯なものですからな」

 実際には予算の関係があって頻繁な買い換えは難しいだろうが、できる範囲でいくらでも最適な道具を求めるのが農民だ。また、犂の使い方を教える馬耕教師に対しての態度も厳しい。最初の一回で失敗したら、信用を築くのは用意ではない。勝永や実淵も、そのような目に遭ったことがあると言っていた。

 反対に最初をうまくやりおおせると熱烈に支持してくれる。全ては農業に対する真剣味の表れであった。

 茶を飲み干して席を立つと、出川は自分の仕事に戻る。彼の生まれも農家だが、手より口と頭で事をなす道を選んだ男であろう。その居住まいには、犂の持ち方一つに気を配る馬耕教師のような緊張感があった。

「出川さん」

 呼ばれた彼は手を止め、目を向けてきた。

「互いに、がまだしましょう」

「がまだしましょう」

 幼い頃から何気なく使っている言葉だが、他の土地では聞かれないという。それを互いに使うと名状しがたいつながりを生んだ気になれた。

 

 三

 

 講師としての法被を脱げば、社長として背広を着る日々である。競合他社に比べて規模の小さな会社を存続させるのに気を抜いている暇はない。

 作業場で職人たちに指図しながら、時々学びに来る地元の若い農民たちの相手をする。社長というより教師のような仕事で、実業を担っている感覚には乏しいが、商売より教育の方が性に合っているような気がする。社長業の合間を縫って行う農民向けの講習は良い気分転換でもあった。

 暖かな夜になり、講習生たちを全員返した後、ちょうど新潟へ行っていた勝永が戻ってきた。明治に入ってから犂が普及した地域の農民たちは研究熱心で、福岡を勉強のために訪ねる者もいるというが、新潟から来た者はまだいない。末吉にとり、新潟という土地とそこに暮らす人は未知であった。

「福岡まで来てくれそうな人はいたか」

 勝永から話を聞こうと思い、ねぎらいの意味もあって筥崎宮に近い料理屋に出かけていった。帰ってきたばかりであったはずだが、勝永は疲れより旺盛な食欲を見せて、酒の前に出された野菜の煮付けをすぐに平らげた。

 勝永は新潟の新発田を訪れていた。川の多い土地で、長雨によって起きる水害に長く悩まされてきた土地である。それだけに、そこで生きるしかなかった人々の末裔たちは米への関心が強く、少しでも良いものを求めて、勝永のもとへ積極的に通ったという。

「特に探したわけではないですが、犂への関心は強く感じました。呼びかければ来るでしょう。ただ同じことは磯野や深見も考えております」

「状況はどこでも同じか」

「彼らには歴史もありますから。その差を埋められないのは致し方ないでしょう」

 勝永は気楽に言って、女中が運んできた酒を末吉に注いだ。末吉も注ぎ返して杯を付き合わす。あまり客の入っていない店の中で、陶器同士が澄んだ音を立てた。

「歴史か。確かにいくらがまだしても得られないな」

 磯野、深見共に江戸期以前に創業し、元々は鋳物製作を家業としてきた。犂の製作を始めたのは明治後半だが、物作りについて三〇〇年の経験がある。それが信用に差をつけているとすれば、物作りを始めてせいぜい二〇年の自分に挑む資格はないだろう。

「歴史は強みの一つに過ぎない。農民たちはそこにあるもので最後の判断をする」

 半分は強がりであったが、実感でもあった。情の厚さの一方で突き放した見方もする農民たちは、使いやすい製品が出れば資金が許す限りいくらでも乗り換える。土をいかに深く耕し、能率的に仕事をするか。その判断の拠り所となるのは、信頼のようにあやふやなものではなく、自らの手に返ってくる手応えであろう。そんな農民たちに選んでもらえるためには、経験や歴史を凌駕する能力があれば良い。背景に何があろうと、作り出したものが全てなのだ。

「そう思います。そうでなければ、我々は働く理由がないですからな」

 勝永は杯を勢いよくあおってから運ばれてきた小鉢に手をつけた。遠い地にも及んでいた競合他社の勢いを目の当たりにしたはずだが、悲壮感はない。社長に希望を持たせるための演技だとしても、強気さを保っておかなければならないと思った。

「社長、今度は佐渡へ渡ってみてはどうでしょう」

 末吉は箸でつまみ上げた小魚を口にする瞬間、顔を上げて勝永を見た。思いも寄らなかった土地の名に言葉が出ない。

「渡るのに時間はかかりますが、あまり荒らされておらず、狙い目かもしれません」

 佐渡というと世阿弥が流された土地ということしか知らない。汽車で新潟まで二日かけた上、港から船で数時間かけなければたどり着けない離島である。勝永の話では、その遠さからあまり他の会社も入っていないということだった。

佐渡にも農業はあります。犂の歴史が浅いことがどう出るかわかりませんが」

 佐渡に犂が伝わったのは明治二三年(一八九〇年)で、島民が犂を知ってからまだ二〇年も経っていない。伝えたのは福岡出身の長沼幸七という馬耕教師で、佐渡出身の茅原鉄蔵という男の求めに応じて佐渡へ渡ったという。

 勝永の言うように、犂の歴史が浅いことがどんな影響を及ぼすかわからなかった。新しいものへの興味と警戒心が混在している状況だろう。どちらへ転ぶかが問題で、一人の馬耕教師に操れるものとは思えなかった。

「行ってみたいか」

 勝永は一瞬の間を置いてから口を開く。

「行かなければならないと思います。それに、我々が先陣を切ることが佐渡のためにもなるかもしれません」

「何でそう思う」

「ただでさえ行くのが億劫になるような離島です。そこから地元の壮丁を連れ出して勉強させれば、良い種をまいてくれるでしょう」

「お前がその役目を担うか」

「どこか遠くへ行くのは好きです。命じてくださればどこへでも」

 身軽な勝永は命じられるまま様々な土地へ向かってくれた。身一つではなく、多くの場合持ち運びに難渋するような犂を携え、手綱や鞍も持っていく。犂の売り込みはともかく、牛馬の操り方を教える立場はひそかにうらやましかった。

「よし、今すぐには無理だろうが、いずれ行けるように考えておこう」

「ありがとうございます、社長」

 礼を言うのは自分の方だろうと思いながら、末吉は空になっていた勝永の杯を満たしてやった。

 それから二人の話は地元へ戻った。磯野や深見の最近の動向や、犂を使う農民たちの毎日を話し合う内に、筥崎宮での草競馬に勝永が触れた。

「社長は最近草競馬に出ていないようですが」

「ああ、社長になってから馬に乗る暇がなくてな。後ろから御すことしかしていない」

 気づけば社長の立場に就いてから四年が過ぎていた。少し前に筥崎宮での草競馬を見て久しぶりに乗ってみようかと思ったのもいつの間にか遠くになっている。

「乗ればよろしい。牛馬名人の復帰を望む人もおります」

「役目でもないのに、妙な話だな」

「娯楽に報酬の有無は無関係でしょう」

 二の次にしなければならなかったことに関心を持ち続けている人がいることに苦笑した末吉に、勝永は思いの外真剣な声を返した。彼も自分が馬場に復帰することを望んでいるようであった。

 そうして求められるのは悪い気分ではない。牛馬名人の呼び名が有名になるのは、犂の市場や農業の場であるのが理想だが、それが人の暮らしの全てではない。牛馬名人の呼び名で応援する者がいて、その声援を背に馬場をかけていくのは、犂を作って売り歩くこととは違って興奮を得られそうであった。

「社長が馬場で好成績を収めるようなら良い宣伝にもなります。本業と無関係ではありません」

 本業から離れることを理由に二の足を踏んでいると思ったのか、酒席に相応しくないほど真剣な声だった。末吉は苦笑を収めず、そのうちな、とあしらうように言った。

 互いに良い具合に酔ったところで店を出て歩くと、二人の足は筥崎宮に向いた。さすがに境内や馬場に人はおらず、草競馬が開かれる時の熱狂が嘘のように静まりかえっている。

「牛馬名人が来れば盛り上がるでしょう」

「まだ言うのか」

「あれほどうまく犂と牛馬を使う人がどんな馬術を見せてくれるのか。観衆の立場で考えてみてください。面白くなってはきませんか」

「それはそうかもしれないが」

 苦笑しながら、そう言うしかなかった。草競馬はどこまで行っても草競馬でしかなく、二の次である。かけられる時間に限りがあってしかるべきであった。

 それぞれ帰路に就き、末吉は寝床へ向かう前に作業場へ足を運んだ。さすがに職人の姿はないが、夜明けと共に誰かが来るはずだ。磯野と深見という、歴史にして三〇〇年の差がある競合他社に何とか優ろうとしているのは自分だけではない。

 歴史や経験より、その場にあるものを大事にしてくれる農民たちが、長式農具製作所を支えてくれている。彼らを大事にするような仕事ができなくなった時、この会社も閉じなければならないだろうと思った。

 翌朝、職人たちの監督を手が空いていた最年長の深町に任せて、末吉は大川村の農学校へ出かけていった。

 今年入ったばかりの学生たちに基礎的なことを座学で教えた後、午後には外に出ての実習である。彼らは今日で二度目であり、そもそも牛馬に慣れた農家の息子たちであったが、独り立ちをするには少し時間がかかるように見えた。

(時間がかかるのは仕方がないか)

 牛馬を知っていても、うまく扱えることとは別の問題で、まして犂は新しい製品がいくつも出てくる。現役の農民でさえその使い方に迷うことがあるものを、学生が扱えなくても無理からぬことだろう。

 多くの学生が、牛馬に近づいたり前へ進めたりすることは苦労しなくても、同時に犂を使って土を耕す作業ができずにいる。その様子を少し微笑ましい気分で見ていたが、一人だけ突出した学生がいて目が覚めた。

(たまにはああいう者もいるか)

 次の機会ではその学生に注目してみることにした。

 彼を注意して見てみると、装具の付け方から手際が良かった。他の学生が鞍を着けるのに戸惑っている間に手綱をはじめとする綱を通してしまっていたし、実際の作業も速い。犂を使うことの利点の一つに能率化が挙げられるが、その点で彼は犂をよく活かしていた。

 末吉は競犂会の基準に当てはめて、その学生の仕事ぶりを観察してみた。競犂会では犂の取り付け方から姿勢、畦の形、深耕の具合、仕事を終えるのにかかった時間を総合的に判断して採点する。もし彼が競犂会に出るなら、他の地域に出しても恥ずかしくない成績を上げられるだろうと思った。

 その日の講義が終わった後、末吉は出川に気になった学生がいると切り出した。

「よく笑う明るい学生であったとですが」

 仕事ぶりはもとより、その人となりもなかなか魅力的に思えていた。

「それはたぶん吉原でしょう」

 その名を訊き返すと、吉原丈作という本名を教えてくれた。粕屋町に生まれ、現在十五歳だという。

「その吉原がどうかされましたか」

「いや、他の学生に比べて犂の扱いが上手かったと思って。実家で教わっていたのでしょうか」

「そういう話は聞いていませんが」

「では才能ですか」

 言葉を重ねながら、末吉は十五歳の少年が自分の会社に入ったらと夢想してみた。犂の職人としてはわからないが、勝永や実淵と共に馬耕教師として各地を回る仕事に就かせてみたい。他の会社に比べて人員の少ない自分の会社にとって良い働きをしそうだし、あれほど犂の扱いに慣れた若者なら、他の会社もいずれ目をつけるだろう。

 次の機会で末吉は丈作を呼び出し、進路のことを訊いた。怪訝そうな顔に困惑が混じったのを見て、不躾であったのを詫びた。

「よければうちの会社で働いてみないか。来年には卒業するのだから、ちょうどいいと思うが」

「長式農具製作所で、ですか」

「素晴らしい犂さばきだと思った。犂はこれから全国へ普及していく。それを担う人を探しているところだ」

「全国へ」

 丈作の表情は普段の明るさより慎重だった。全国を飛び回るかもしれない生活に抵抗を感じているようであった。

「いや、無理に誘うつもりはない。ただうちは必要としている。来てくれるなら歓迎するから、覚えておいてほしい」

 戸惑いがちに丈作は返事をした。簡単に条件を話した後彼を下がらせ、末吉も引き上げた。

 丈作のことを勝永に話すと、歓迎ですよという答えだった。

「人手は多い方が助かります。許される予算との兼ね合いを決めるのは社長ですが」

「その俺が引き入れたいと言っている。平気だ」

「ならばなるべく早く確保したいところです。他のところも目を付けているかもしれませんから」

「見ている限り優秀な学生だった。他の会社も放ってはおかないだろう。最後は本人次第だが」

 迎え入れる時の条件を話し、こちらの意思も伝えた。できうる限りのことはやれたと思う。他の会社がこれを上回ることをしてきたら、丈作との間に縁がなかったということだろう。

 末吉は週に三回農学校に出向いて犂の講習を行っていた。その間末吉と丈作は、交わした会話がなかったかのように振る舞ったが、誘いについて意識しているのは態度から見てわかった。

 まだ若い丈作を悩ませているのが忍びなかったが、農民たちが犂について突き詰めた考え方をするように、自分も使う人間をできるだけ選びたい。そうすることが作り出す製品の質を上げることにつながり、福岡農法の名声も高めていくと信じていた。

 丈作の返事はなかなかもらえず、そのうちに秋へと移り変わる。稲刈りが終わって田畑の一年が過ぎていく。年明けのある日、末吉はかねてから参加を願っていた草競馬に復帰した。

「皆が復帰を待ち望んでおります」

 参加したいと言いながら先送りしていたことにしびれを切らしたように勝永が背中を押し、末吉は億劫に思う気持ちも抱えながら馬を引いて筥崎宮に向かった。

 馬場に入った瞬間、戻ってきた感じがした。明確に何が心地よいのかわからないが、自分が姿を見せた瞬間、歓迎と畏れが入り交じった雰囲気が馬場を包んだ気がした。

 馬を駆らなくなって十年は経っている。その代わりのように馬の尻と犂の先を見続ける日々であった。それだけにとどまらず、犂を作り、周りの会社と競い、時には遠くへ人を送り、自分自身も若い農民たちに技術や知識を伝えた。草競馬をやらなくなった相応の理由に後悔はないが、馬場へ戻ってくると何か大事なものを取り戻せたような気がした。

 末吉は前足の付け根に触れた。手のひらで心拍と体温を感じ取る。口に近づけた耳元では呼吸数を感じる。馬の心拍や呼吸は人間よりも少なく穏やかだが、体温は高い。常に運動をしたがる生き物だからだろう。

 愛馬には『稲妻』という名をつけていた。稲が結実するのに欠かせないものと古くは考えられ、その縁で秋の季語にも数えられている言葉である。農民として生まれ、生きてきた自分に飼われる馬として相応しい名前であろう。

『稲妻』は主人の言いつけを守っておとなしくしていたが、今すぐにでも体の中の猛りを解き放ちたいのが手のひらから感じ取れた。

 馬体にも張りがあり、下肢に熱を持った部位もない。歩かせてみても前後への偏りは見て取れない。競争へ向けての状態は申し分ない。

「がまだせよ」

 触診のために手を触れたまま、末吉は『稲妻』に声をかけた。物言わぬ馬が人間の言葉を理解したか定かではないが、手を通して心意気は伝わったのかもしれない。『稲妻』は小さく唸りを上げた。

「久しいな、長」

 対戦相手となる小島という男が声をかけてきた。背は低いが引き締まった体つきをしており、相撲を取れば大兵相手に粘り腰を見せそうだ。

「小島か、相変わらずほそい(小さい)のう。馬から落ちるなよ」

 見上げてくる鋭い眼光をまっすぐ見つめ、末吉は努めて不遜な態度を取った。お互い前哨戦が始まっていることをわかっているから、受け止める態度は笑みさえたたえた穏やかなものだ。

「どこへ行っちょった」

 小島が訊いた。

「どこにも行っちょらん。社長の仕事が忙しかっただけだ。おめえこそどこで何してた」

「大分の日田で馬を見ていた。うらやましいか」

「くらすぞ(なぐるぞ)」

 小島の笑みに挑発的なものが混じり、末吉も半ば本気で声を出す。もちろん手を押さえる理性はあるし、よしんば殴りたくなるような怒りに駆られても、それを解消する機会はすぐに来る。

「馬から落ちんなよ。ほそいんだから心配だな」

「おめえこそ、馬から落ちて踏んづけられちまえ」

 それぞれに憎まれ口を叩いた後背を向けて、自分の馬の元へ戻る。『稲妻』も主人たちの間に昇った気炎を察したのか、これから戦うべき人間と馬を見ていた。つぶらな瞳は一見すると変化はないが、末吉には睨むように険しさをはらんで見えた。

「ホーラ、ホーラ。まだ早いぞ」

 首筋を撫でながら穏やかに声をかけると、目つきが緩んだ。小島の方を見ると、彼も自分の葦毛に同じことをしていた。そして彼の馬も殺気だった感じが鎮まった。表立って言ったことはないが、小島の馬遣いの上手さは末吉も認めるところであった。

 三〇分ほど各自準備運動をしてから、審判を引き受けた大川村農会の副会長が号令をかけた。筥崎宮の下手にある馬場では不定期に草競馬が開かれており、近在の村から馬好きな者たちが集まってくる。賞品は粗末な優勝旗しかない小さな大会だが、何度も出ていれば小島のような因縁の相手も現れる。最後の対戦から間が空いているものの、小島とはこれまで六回対戦し、三勝三敗の成績である。次の機会がいつになるかわからない。今日勝って何としても勝ち越したかった。

 副会長の指示で参加する馬が出発点へ進む。筥崎宮の馬場は直線のみだから、曲がり方の技術は必要ない。純粋に足の速い馬だけが勝利する。

 四頭ずつの出走で、末吉と小島の馬は左端に隣り合って出発点に立つ。その瞬間微かに観客たちがざわめいた。ここ最近の優勝を独占する二人のどちらが勝ち越すかという大事な勝負なのだ。あまり騒ぐと馬が怯えることは周知の事実だから観客もわきまえているが、抑えきれない興奮が漏れてきているのを感じた。

 副会長が手を下ろす。観客席が静まりかえり、三人の競争相手も息を詰める。

 手が上がる一瞬を馬と共に待つ。

 そして手が上がる。手綱を振るい、鐙を蹴るようにし、騎手の意思を受けて『稲妻』も駆け出す。

 出走直前まで馬が足にためていた力が爆発する一瞬、末吉は上半身に空気の塊のぶちかましを食らったような気分になる。一秒にも満たない時間だが、鞍から転げ落ちそうになる恐怖を超え、手綱を握る力を強め、鐙の上で足を踏まえる。どうしても脳裏が空白になる瞬間はあるものの、場数を踏めば時間を短くすることはできる。少しでも早く脳裏にまともな思考を戻すことが、最初の勝負であった。

 出発点から飛び出してからの三歩を『稲妻』がどのように走ったのか末吉の記憶にはない。わかったのは小島の馬が半歩前にいて、右端二頭が一歩後ろにいるということだ。三歩で立ち直った末吉に対し、小島は二歩半で冷静になった。その時間差がそのまま、半歩の差となって表れた。出走直後の勝負には負けたのだ。

 しかし大勢を決するほどではない。馬場の終わりはまだ遠い。そこへ至るまでに追い抜けば良いのだ。権治は気合いを込めて鐙を踏み、手綱を振るう。『稲妻』もそれに応えて速度を速める。半歩先を行く小島の馬についていくが、差が縮まらない。そのまま半分を過ぎてしまった。

 抑えられていた興奮が両脇からにじみ出てくるのを感じる。既に他の競争相手とは大きな差がついているのは振り返らずともわかる。番狂わせが起きないとわかった以上、客の関心はどちらが勝つか、それ以外に有り得ない。

 勝負は残り十数秒で決まる。末吉は競争相手の向こうへ視線を上げる。

 いっそう激しく鞭を振るい、鐙を踏み、手綱を振るう。自分も馬も精一杯の力を傾けているのはわかっている。それだけで勝てないなら、限界以上の力が必要だ。

「ハイハイ、ハイハイ、ハイハイ!」

 その気持ちは気合いの入った声になって表れる。毎日欠かさずに様子を見てきた蹄が踏みならす音が高まる。観客たちの興奮がいっそう密度を増す。決着が近づくのが全身でわかる。

 声を上げているのは小島も同じだ。すると『稲妻』は前後で上がっている二人の声に後押しされるように、今まで埋められなかった半歩の差を縮めていく。

 並んだと思った瞬間、『稲妻』の足は終着の線を踏み越えた。末吉の目には、小島の馬と同時に駆け抜けたように見えた。

 手綱を操り、勢いのついた馬を自然に減速させていく。小島と並び、横目でにらみ合う。

「俺だ」

「いや、俺だ」

 完全な確信を持てないのはお互い様だと思った。互いの声には相手と組み合う気の強さが宿るものの、負けの判定も有り得ると想定する潔さがあった。

 やがて二頭の馬は走るのをやめる。容易に曲がれるようになったのを見て、終着の線の傍にいた審判の元へ戻る。結果を早く知りたかったが、副会長から発表されると言われておとなしく待機場所へ戻った。

 やがて副会長が出場した馬の前で結果を高らかに発表する。その馬の名は、

「半歩の差で長末吉の稲妻号の勝ちとする」

 発表の瞬間、小島は隣で瞑目した。最後まで祝福の言葉はなかったが、負け惜しみも恨み言もなく、末吉が優勝旗を手にする前に会場を後にした。

 末吉にとっては四度目の優勝である。ここで勝ったからといって報酬があるわけでもないが、好きな馬と一緒に勝つことができたという事実が残る。それだけで充分であった。

「社長、見事な走りでした」

 筥崎宮の近くの小料理屋でささやかに開かれた祝勝会の後、会社に戻って勝永と飲み直すことにした。勝永は競走を見た後所用で外れて祝勝会には出ていない。

「久しぶりに馬の鞍に乗ったな」

「そうは見えませんでした」

「まだまだやれるかな」

 酒のせいもあって気分が良くなってくる。草競馬はどこまで行っても草競馬で、金を生むようなものではないが、娯楽の少ない農村の楽しみにはなるだろう。競走を見るために遠くから来た者もいる。そういう者たちのために馬に乗ってみるのも悪くない気がした。

「明日からはまた仕事が始まります」

「わかっている。無粋なことを言うな」

 そして草競馬はあくまで二の次である。優先するべきなのは犂を作り、普及することだ。

「色々考えていることもある。今はこちらから出向いて犂を普及しているが、逆に若者たちを招いてみようと思う」

 勝永は意外そうな顔をした。

「場所によっては犂も牛馬もないだろう。そこで教えるより、ここまで出向いてもらった方が良い」

「汽車賃や時間の捻出が問題になりますな」

「相手方が受けてくれるかどうかだが」

「どこかで話をしてみましょう。以前話した、佐渡の若者を招くこともしてみたいところです」

「遠いな」

 九州の外のことはよくわからないし、新潟ともなれば、そこで暮らす人もまるで違う文化を持っているだろう。異人とまではいかないだろうが、話が噛み合わないことも多々あるかもしれない。遠さは距離の問題だけでなく、心の問題でもある。

「学生を招く話はどうなりましたか」

「吉原のことか。悩ませてしまったよ」

 どうしようもないこととはいえ、田畑でようやく労働力として数えられる歳の少年に重いものを背負わせてしまったようで何とも言えない罪悪感を覚えている。しかし自分が、丈作を欲しがっているのは確かだ。

「彼がうちに来れば、将来も明るくなると思うのだが」

「よほどですな」

 勝永は気楽に笑った。

「よほど右も左もわからぬ子供に惚れていると見える」

 観察眼が曇っていることを皮肉るような言い方に反発を覚えたが、丈作のことを知らない勝永からすれば無理からぬことだろう。

「牛馬や犂の扱いが、周りの学生よりも群を抜いて上手かった」

「牛馬名人の目から見て、ですか」

「そういうことだ。少しは納得できたか」

 勝永は答えず、笑みを隠すように杯に口をつけた。説得が成功した手応えは感じないが、強硬に反対してくる様子もない。あとは丈作が入社の意思を固めてくれることと、その後期待通りの働きをしてくれることを願うのみであった。

 年が明けるまで農学校での講義を通して丈作と会う機会を何度も持った。明るく、ともすれば軽薄に見えかねない人柄の彼だが、犂を手に取った時に表情は変わる。注意して見てみると他に彼のことを狙っている者がいて、焦りも感じたが、それとなく迎え入れる準備が整っていることを伝えるだけにとどめ、あとは本人の意思に任せることにした。

 その丈作が他の誘いを断って長式農具製作所に入る意思を伝えに来たのは、農学校卒業の日であった。卒業式に出席していた末吉は、式が終わった時に声をかけられた。

「うちで良いのか」

 確認するように問いかけると、無邪気な笑顔で丈作は頷いた。

「初めに声をかけてくれたのは長さんですから」

 入社の決め手としては弱い気もしたが、誘った方からすると嬉しい理由であった。

「そうか」

 そう言って丈作の手を握り、彼も握り返す。犂と牛馬を扱う人間に特有の、硬い手触りであった。

 

 四

 

 仕事が終わり、一家で食事を終えた後に暗い作業場の隅に陣取って鉛筆を持つ。昼間カンナやチョウナが木を削る音が響く作業場に、鉛が紙を擦る音が降り積もる。始めたばかりの頃は慣れなかった音も、毎晩繰り返していくうちに気にならなくなった。

 自らの記憶を覗き、それを文字の形で書き記していく。経験のないことではなかったが、積み重ねた経験と知識だけが頼りの文章は出来が心許ない。これで良いのかと何度も自問しながら書き進めていく時間は、修験者か僧侶の修行のようでもあった。

 文字を紙の上に積み重ねていくごとに視野は狭くなっていき、周りの音も遠くなっていく。それが極まるような予感がした時、少し無遠慮に戸が開かれた。

「何だ」

 振り向いた末吉は吐き捨てた。その苛立ちにさらされた人影が、微かに身じろぎした。

「誰だ」

「吉原です、ここに人がいるとは思わなかったもので」

「何か用事なのか」

「いいえ、忘れ物を取りに来て」

「そうか。いや、入ってくるといい。気にするな」

 末吉が促してようやく丈作は作業場に足を踏み入れた。ともすれば慎重さに欠ける見た目ながら、その足取りは慎ましい。分をわきまえることもできる男なのだろう。

「社長はここで仕事をしておられるのですか」

 丈作は少し固さの取れた表情で訊いてきた。

「仕事というより、手慰みだな。誰かに求められてやっているわけではないし、必要も感じていない」

 言いながら丈作を傍に寄らせて、夜ごと書き綴ってきたものを見せた。緒言から始まって深耕の必要と利益と続き、犂の扱いを書き記す内容である。社長として時を過ごしていくと自身の内に自然と多くのものが降り積もっていって、その重さがある程度まで来ると形として降ろしたくなるものらしい。名前のない文章は、そんな末吉の欲求から生まれてきていた。

「これは農民たちに見せるものではないのですか」

「そのために書いたものではないが」

「もったいないのではないですか」

 丈作の言葉は意外な方向性を示して聞こえた。誰かに見せるつもりはなかったものが、純真な若者の目には外へ出るべき者のように映っている。それだけで価値が一つ生まれた気がした。

「そう見えるか」

「少なくとも僕には、そう思えます」

 末吉は一瞬考えて、紙の束を丈作に渡した。

「そう思うなら、少し読んでみてくれ。君の目から見て必要なら、何らかの形で世に出る必要があるものということだろう」

 手渡された紙の束を、丈作はしばらくまじまじと見つめていたが、やがて辞去した。まるでこの世に唯一無二の宝を手渡されたかのようと思った末吉は、自身を過大評価していると苦笑した。

 学校を出たばかりで若い少年の意見とはいえ、世に必要かもしれないと見られるのは嬉しいもので、こみ上げてくる笑みを抑えられない。紙の上を滑る鉛筆の感触も軽く、末吉は先を書き進めていった。

 

 数週間後に丈作は、感想と共に末吉の文章を返してきた。内容の詳しさを評価しながら、現場で使うとなれば必要ないと感じるものもあると、遠慮がちに言った丈作との推敲作業がその日の夜から始まった。作業場の片隅に紙を広げ、鉛筆を取って書き直す。紙代を節約するために、別の紙に書き写してからの作業である。一枚の紙に注釈を書き入れた後は手帳に議論の経過を書き写す。そうして夜ごと丈作と話し合い、文章を練り上げていく。いつしか自身も、自ら書いたものの価値を信じられるようになっていった。

 丈作と共に書いた文章が、『実験牛馬耕法』という著書という形になったのは大正九年(一九二〇年)のことである。その頃末吉は四二歳となり、会社も軌道に乗ってきた。老舗と肩を並べるほどではないものの安定した働きができるようになっていた。

 著書のおかげか、末吉の元には地元や遠隔地から犂の扱いを習いに来る若い農民たちが集まってくるようになった。多くは自ら学ばせてほしいと頼んでくるが、営業や指導を行った先で見つけた有望な若者を呼び寄せることもあった。新潟県初の講習生である石塚権治と半田忠一を勝永が見出したのは大正一〇年(一九二一年)のことであった。

 佐渡出身の二人は勝永に連れられて福岡の末吉の元へやってきた。後から訊くと、船で佐渡海峡を数時間かけて渡り、更に汽車で二日かけて来たということであった。長旅であったはずだが、二人は初日から疲れを感じさせない働きを見せてくれた。講習生は全体で約二〇〇人いたが、その中でも埋没しない個性を放つ二人であった。

「バネのような体だな」

 権治が田畑の中で犂や牛馬と格闘する時に見せたしなやかな動きを、末吉は率直にそう評した。小柄だが力強いその体躯は、草競馬における競争相手の小島を思わせるものであった。

佐渡の人たちはひらけとります」

 仕事の合間で丈作と話をした時、佐渡出身の二人をそう評した。農に関することを懸命にやるのは当然だが、歌がうまく、共に過ごしていて飽きることがないそうだ。

 末吉自身も感想は同じで、密かに接し方について悩んでいたのがばかばかしくなるほどであった。初めどこまでやれるか見極めるために安定性を欠く無床犂をあてがい、彼は苦労しながらも要点を押さえて使い方を覚えていった。佐渡の暮らしがどうであるのか末吉自身も関心があり、丈作を通じて様々に聞くことができた。二人がいた一ヶ月間、末吉にとっても良い時間であったが、丈作にとっても生涯の友人を得るかけがえのない機会となったようである。二人の関係は後年まで続き、佐渡と福岡でそれぞれに仕事をしていくことになる。

 権治にとって、末吉もまた大きな存在となったようであった。彼が集めた写真の中にはフロックコート姿の末吉を写したものがあったが、隅には恩師の文字が添えられていた。

 

 五

 

 権治が去ってからの一〇年間で、末吉の会社はいっそうの成長を遂げた。はじめ近くの業者に頼んで取り寄せていた犂や鞍に使う樫は足りなくなり、大分県から取り寄せる必要が生じるほどであった。その時には丈作をはじめとする社員を買い付けに行かせ、無床犂より安定性の高い短床犂を大量生産するようになった。権治はちょうどその時期に講習を受けに訪れた。

 近隣の農民への技術指導、遠隔地へ技術の種をまく活動、そして牛馬名人としての名声、それらが評価された結果であろう、昭和二年(一九二七年)には末吉の功績を伝える顕彰碑が実家(現・福岡市東区多の津)に建立され、同時に末吉の銅像まで建てられた。顕彰碑に刻まれた文言の中には、

「幼ヨリ牛馬ニ親シミ殆ンド寝食ヲ共ニスルノ愛畜家ナリ」

 とある。草競馬で築いた名声や、犂の扱い、趣味とまで言われた獣医学の知識を伝える言葉である。それが後世まで自分の家の庭先に残ると思うと、誇らしいような気恥ずかしいような複雑な気分であった。

 成長を続けた長式農具製作所は、最盛期には五〇人の職人を抱え、木工、鍛冶、鋳物の各部門に分かれていた。犂耕の実習生も変わらずに受け入れ続け、九州大学や福岡県農業試験場の斡旋により、犂のふるさととも言うべき朝鮮半島や中国大陸出身の若者も学びに来ていた。日本にとどまらない若者たちの学びに、一六歳で始めた犂の改良が最高の形で結実したのを感じた。

 犂も会社も昭和一〇年代は最高潮であったが、その時代を末吉が長く見ることはできなかった。長末吉は昭和一一年(一九三六年)、五八歳でこの世を去る。その葬式には社員だけでなく地元の農民、更に教えを受けた遠隔地の農民まで参列した。それは犂が必要とされている時期に関わることのできなかった末吉の無念が呼び寄せたのかもしれない。

 一年後、日本は日中戦争の勃発にはじまり各国との戦争へ踏み込んでいく。戦争の激化に伴って慢性的な物資不足となり、日本は民間にその解決を求めた。

 昭和一九年(一九四四年)、金属の供出が銃後に要請される中、末吉の銅像もその対象となった。以後は作り直されることもなく、長家の庭先には顕彰碑だけが残って、末吉の功績を後世へ伝え続ける。

 長式農具製作所は末吉の死後、息子が継いだ。当時は犂が必要とされていた時期であったが、昭和二〇年代から注目されるようになった耕耘機と入れ替わるように、会社も歴史を終えた。農業の機械化が本格化する直前のことで、以後日本の農業は機械化をはじめとする技術革新が加速していくことになる。

 末吉はそのような未来を見ることはできなかったが、彼の残した足跡や業績は日本各地に残る。丈作と共に書き上げた『実験牛馬耕法』のとある一冊は、遠く青森県の古書店に流れ着いていたし、北陸から東北にかけて多くの馬耕記念碑が建てられた。新潟県における犂の普及を担ったのは、末吉を恩師と仰いだ石塚権治である。彼は農業の機械化によって犂が必要とされなくなるのを見届け、平成一〇年(一九九八年)に佐渡の実家で亡くなった。

 筥崎宮から馬が走る音が聞こえなくなり、講習生たちが汗を流した田畑の上には建物が建てられた。末吉が生きた時代と風景は大きく変わり、農業のやり方も変化した。それでも顕彰碑をはじめ、末吉の功績や存在は次代へ受け継がれていく。

 長末吉。彼は牛馬名人にして犂の名人であった。牛馬と農業が密接に関わっていた時代に生きた名人である。

 

                     《了 四〇〇字詰め原稿用紙七二枚分》

2015年6月作品