yuzaのブログ

幕末から明治を舞台にした小説を中心に載せています。

異人の音

 土の具合を探るように木鋤の先端を当てると、濡れた和三盆を踏み砕くような音がした。軽く腕の力を加えてやるとそれだけで刃先がわずかに沈む。苔の匂いに気づいた虎太郎は不意に感傷的な気分を誘われた。増徳院の境内に着いた頃から色を濃くした茜色の光が匂いと一緒になって、これから行われることへの心構えを説いているようだった。

 背板を強く踏みつけて木鋤を突き入れる。苔の匂いが一層濃くなり、土を掘り起こすと解き放たれたように広がる。湿り気を含んで重い土を持ち上げて脇へ避けると、長じてからは筆や書物を支えることぐらいしかしていない腕が軋んだような気がした。

「こんなことぐらいで音を上げねえでくださいよ、いくら音先生だからって」

 わずかに皮のめくれた手のひらを見つめていると、漁師をしている青兵衛のしゃがれた声が土を掘り起こす音と重なって聞こえた。春の半ばとはいえ夕方は冷え込むというのに、裂き織りの小袖は肘までしか覆わない。それでも着物を糸の代わりに何度も織り込んだ小袖は分厚く堅牢で、男が土を掘り起こす内に露出した肌に汗を浮かび上がらせていた。

「心配無用です。自分から買って出たことですから」

 返事をしてから木鋤を突き入れ、土を掘り起こしていく。腕で重い木鋤を支え、腰で体を安定させ、足で踏ん張る。経験のほとんどない運動だが、自ら手を挙げた仕事だ。辛いというだけで成し遂げられないのでは、子供のためにもならない。

 ある程度深く掘ったところで、虎太郎は自分がこの穴の中に入るとしたらどうだろうと思った。両足を曲げ、体を抱えるようにすれば、横にしなくても充分頭まで隠れるだろう。

「こんなもんでしょうか」

 同じように穴の底を見つめていた青兵衛が言った。掘り起こされた土は腰の辺りまで積まれているのに、二人でやったとはいえ青兵衛の息は乱れていない。

「どうでしょう、異人は大きいですから」

 噂で聞いたことを手がかりに何気なく言うと、青兵衛も納得したようなため息をついた。

「何でも天狗みたいな顔をしてるって話でしたな。天狗の顔じゃあ、体もそりゃあ大きくなるでしょう」

「鬼のように顔中に髭を生やしているとも聞きます」

「取って食うつもりかもしれねえな」

 言いながら青兵衛はしわがれた笑い声を上げた。日に焼けた筋骨隆々の体つきと同じく、潮風が吹きすさぶ海の上で作り上げられた声だろう。

言うほど深刻には考えていない様子で、むしろ珍しいものを見られるかもしれないという好奇心が声に宿って聞こえる。増徳院に続く道の脇に集まった村人たちも同じ気持ちだろう。

 虎太郎は更に深く掘ろうと思って穴の中へ入ろうとした。穴の縁に立っていたのでは、刃先は届かない深さになっている。

 それを制して青兵衛が穴の中へ降りた。そして気合いのこもった声を上げながら掘り帰した土を放り投げた。背中を向けているはずだが、土は小山の上に落ちた。

「けがでもして、音先生の手が使えなくなったら困りますぜ」

 そう言いながら、二人で掘っていた時よりも速く土を放り投げていく。父や自身には宿らなかった体の逞しさを見せつけられたような気がした。

 穴の中で立っている青兵衛が、首だけを出せるような深さまで掘り進んだところで、音が聞こえてきた。動物の皮を叩くようなくぐもった音と、それに乗るような形で鳥が鳴くような甲高くも密やかな音が聞こえてくる。二つは合わさって旋律となり、歩くように近づいてきた。

 低い音に絡む甲高い音は、よくよく聞くと鳥のさえずりに似ている。しかし晴天の下で思いのままに鳴くような姿は思い浮かばない。雨宿りをしている時、心細げに鳴いているような音と虎太郎には思った。そんな鳥にも心情があるのなら、宿っているのは寂しさだろう。

「来たかな」

 虎太郎は音の方を見遣った。先頭の役人こそ幕府の者とわかったが、その後に続く人々は皆肌の色が薄く、瞳や髪の色も色とりどりで秀麗な見た目をしていた。先導する役人に従って、小銃を右肩に担った兵士たちが三つの列を作って歩き、音はその背後から聞こえてくる。笛と太鼓を奏でる兵士が一人ずつおり、更に卒塔婆を持った兵士が続いた。

 不意に馬がいなないた。道の脇にある厩に繋がれた馬が、音を出している兵士たちの前で興奮した様子を見せている。役人たちが飛んできて馬を宥めている間演奏は中断したが、馬が鎮まると再開される。重く静かな音が繰り返されるが、近くなった旋律の奥には悲しさより明るさを秘めて聞こえた。

 異人にとっての死出の旅とは悲しむべきことではないのだろうか。

 楽器を持った兵士たちについていく、棺を肩に担いだ四人の兵士たちを見つめ、虎太郎は思った。

「思ったよりも人間らしいな」

 大きな体で背伸びをした青兵衛が、いくらか安堵したように呟いた。彼らは一度、横浜村の駒形に上陸していたが、虎太郎たちの住む矢戸を訪れてはいない。異人たちの風貌についての噂はもっぱら駒形の人々から流れてきたものである。

 虎太郎は頷きながら、近づいてくる異人たちを眺めた。胴、足共に長く、目の前に立たれたら確実にこちらが見上げる羽目になるだろう。顔の造りは全体的に起伏が大きく、特に鼻の高さが目を引く。駒形の人々が天狗と称した所以だろう。髭を生やした兵士も確かにいた。

 しかし顔の造り見慣れないものだが、二本の足で立ち歩き、楽器を奏でるあたりは横浜村の住人たちと何ら変わりない。魚は食べないかもしれないが、母国に独自の食文化を持っていて、それに舌鼓を打つ姿が想像できる。心身に違いがあり、相容れない部分もあるのだろうが、人外のものを迎えるほどの気分にはならなかった。

 丘の麓からゆっくり歩いて来た異人たちの葬列は、密やかな音と共に緩やかな歩調で近づいてくる。幕府の役人が目配せした。どうやら退けという意味らしい。労いの一言も欲しいと思いながら青兵衛と共に墓穴から離れる。ややあって葬列が到着し、棺を担いだ四人が前へ出た。

 棺と共に歩いてきた老人が墓穴へと歩み寄る。穴の底へ降ろされた棺を見つめ、何ごとかを語り出した。

 棺の中にいる人物が生きているかのように、老人は豊かな感情を交えて言葉を連ねた。語り口は穏やかで、言葉の意味するところもわからないが、坊主が唱える経のように耳の奥底へと降りて染みつく。そう感じた時老人が何をしているのかわかった。服装も坊主の袈裟に似た真っ黒な服であるし、死者を弔う役割なのだろう。

「その方ら、いつまでそこにおる」

 葬列の後ろにいた幕府の役人が冷徹な言葉をかけてきた。向こうへ行けとばかりに、道沿いに並ぶ村人たちの方を見遣る。青兵衛は一瞬表情を険しくしたが、素直に従って墓穴を離れた。虎太郎もそれに続く。

 村人たちの群に入った時だった。墓穴の方から大きな音が鳴り響いた。

 遠くで雷でも落ちたのかと思って虎太郎は茜空を見上げた。わずかに夜の闇を含んだ色をしており、荒天の気配はない。

 村人たちがざわめきだした。動揺の雰囲気があり、一部から怖いという声が聞こえる。

 墓穴の方では、棺を先導してきた兵士たちが、肩に担いだ小銃を空に向けていた。村人たちはそれらが発砲される瞬間を見たのだろう。小銃は更に二回、空に向けて撃たれた。

 一月には黒船が空砲を空に向けて撃ち、幕府も大きな音が出るものの心配要らないと通達したが、普段生きていても聞く機会のない音への恐れは消えない。

「異人のやることはわからねえな」

 青兵衛が挑むような目つきをして言った。明るめの音楽で死出の旅立ちを送り出したり、墓穴の周りで小銃を撃ったりと、確かによくわからない。あるいは威嚇なのかと虎太郎は身構えたが、異人たちはそれ以上何もせず、音楽を奏でながら来た道を戻っていった。

 彼らの姿を追うと、視線は自然に海岸へたどり着く。虎太郎の目は視線の先にあるはずの黒船を思い浮かべていた。

 

 寺入りして間もなく一年になる子供たちが、言いつけ通り一心不乱に手本の文字を書き写していく。子供によって違いはあるが、最も遅れているとしても手習い本に載っている手本は十枚を切っている。三月を終える頃には全ての手本を書き終えるだろう。

 手習い本を全て終えた子供には『浚い』が待っている。学んできたことが身に付いているかを見るための試験で、手本を一つ身に着けるたびに師匠の前で暗書する『小浚い』と、手本の一切を師匠に預けた上で一年に学んだ内容を全て暗誦し、草紙に清書する『大浚い』がある。どちらも子供にとっては大きな難関で、覚えの悪い子供などは叱られて泣き出すこともあった。

 自分も浚いで泣かされた一人だったと、清書に取り組む子供たちを眺めながら虎太郎は思う。母が師匠を務めていたことも、厳しさに拍車をかけたのだろう。自身は親になったことはないが、親の立場なら実子を甘やかすわけにはいかないと考えるのはわかる。その境地にたどり着いたのは、母の死によって寺子屋の師匠を継いで間もなくのことだ。母と同じ位置に立ったことで、それまで見えなかったものがいくつも見えた。その時の新鮮な感覚を、三十を目前に控えた現在でも虎太郎はまだ覚えていた。

「音先生、できました」

 子供たちの中では一番進みの遅い藤吉が、草紙に書いた文字を持ってきた。『東西南北』と、決して均整が取れたとは言い難い文字が豪快に書かれている。体は小さいが、漁師青兵衛の息子らしく、いくら失敗してもめげないのが愛すべき美点だった。

「もっと落ち着いて書けといつも言っているだろう」

 虎太郎は率直な感想を口にしながら、字の中に長所を探す。思いの外早く見つかったのは、藤吉の成長の証だろう。

 いつも『南』の字の構えの書き方が間違っていたり、『西』を『酉』と書いてきたりするのだが、今日に限ってはどこにも誤りがない。字の巧拙はともかく、間違わずに書けるようになったのは大きな進歩だ。

「まあいい、次へ進んで良し」

 藤吉は嬉しそうな顔をして激しく頭を下げた。父親に似て、所作がいちいち大げさな子供だった。

 増徳院の方から鐘が鳴り響いた。朝の五つに始まった手習いの稽古は昼の八つに終わる。子供たちもそれを知っていて、鐘を聞くと師匠が終わりを告げるのを待つ顔をした。

「よし、今日はここまでとする」

 虎太郎が号令すると子供たちが一斉に立ち上がった。

「ありがとうございました」

 子供たちは挨拶の後手分けして稽古場の隅に机を片付ける。それから当番の子が出席簿を開き、名前を呼んで出席を取り、最後に師匠である虎太郎にそれぞれ挨拶して去る。入って長い子でも三年目で、全て合わせても二十人の小さな寺子屋だが、それぞれ挨拶にも特徴があって見ていて飽きない。

 最後に呼ばれた藤吉が挨拶し、帰っていくのを眺めながら、虎太郎は温かい気持ちになった。

 子供が帰った後の稽古場を軽く掃いていると、やけに静けさが耳につく。母親が亡くなって既に三年が経つし、父に至っては二十年前のことだ。まだ一人でいることに慣れていないと思うと、おかしいような情けないような、少し自虐的な気分になって笑えてきた。

 父の熊澤隼蔵は常陸国谷田部藩士で、本来なら横浜村とは縁もゆかりもない男である。

更に言うなら、筑波山の麓に暮らしていた母のおもん(、、、)とも結ばれるはずがなかった。武家

の男と農家の女。身分違いも甚だしい二人は激しく惹かれ合い、藩を出奔して駆け落ちし、この横浜村へたどり着いたという。三十年も前の話で、翌年には異国船打払令が出されるなど、少しずつ幕府が外国の出現に動揺しはじめていた時期である。

 寺子屋は隼蔵が日々の糧を得るために始めたことである。身分もさだかでない夫婦が、家族の寝床でもある小屋を拠点にして、人々が信頼するようになるまで苦労はあったはずだ。両親が詳しく語らなかったため大まかな想像しかできないが、父が亡くなる頃にはそれなりの数の子供が通っていたから、時間自体はそれほどかからなかったのかもしれない。父が卒中で亡くなってからは母が師匠の地位を引継ぎ、その母も亡くなると虎太郎が更に継いだ。

 村の子供たちに混じって両親の指導は受けていて、殊更厳しく学ばされたこともあって教えることに不安はない。親たちの間では、両親に比べるとまだ頼りないという評判が立っているそうだが、母が亡くなった直後に弟子入りした子供がまだ通っていることが信頼の証であろう。そう思うことにしていた。

 一人で掃除を終える頃には一刻が過ぎていた。日暮れが近くなっており、こころなしか空の色が薄く見える。

 明日子供たちに教えることをまとめている間に鐘が鳴り、日が暮れる。一日の終わりに夕餉の準備をしようと思った時、外で訪う声が聞こえた。

 音先生、としわがれた大声で呼びかける。藤吉の父、青兵衛が格子戸の外にいた。

「こんな時間に何ごとですか」

 冬の短い日は沈み、駒形の方の空は既に暗い。

「いや、今日はお礼を渡す日でしょう。遅くなったら悪いと思って」

 青兵衛の手には餅や野菜、獲れたばかりと思われる魚がある。両親の代から寺子屋で子供を教える謝礼は食べ物であったらしい。少なくともこの村の中で暮らしていく分には困らないので、虎太郎も別の形を要求したことはない。

「わざわざありがとうございます。ちょうど夕餉にしようと思っていたところでして。よければどうですか、酒もありますよ」

 青兵衛は快く受け入れてくれた。

 男を居間で待たせる間、虎太郎は台所で夕餉の準備にかかる。昨日作った漬け物を皿に取り、朝に炊いた飯を二人分椀に盛る。青兵衛から貰ってきた野菜は汁に入れ、魚は切り身にして酒蒸しとした。付け合わせには大根の葉を干して作った干葉を添える。父が死んだ後よく母に付き合わされた料理だが、一人になってはじめてありがたみがわかるような気がした。

 二人分の夕餉が完成する頃には酒も温まっている。一度膳を持っていってから熱燗を取りに戻る。まだ冷え込みの残る時期で、夕方窓を開けてはいられないものだが、ついさっきまで海に出ていたのか青兵衛は身軽な格好だった。

「いつも藤吉がお世話になってます」

 青兵衛は酒を飲みながら礼を言った。謝礼は寺子屋に子供を預ける親たちから集められたもので、青兵衛が代表して持ってくることになっている。

「どうですか、おれの息子だから勉強はうまくいっていないと思いますが」

「まあ、周りに比べたら確かに進みは遅いのですが、それほど気にしなくてもいいですよ。今日などはちゃんと文字を間違わずに書きましたから、成果は出ています」

「そりゃあよかった。せっかく通わせているんだから、それなりのことができないと困りますからな」

 期待とも圧力ともつかない言葉をかけられ、虎太郎は苦笑した。少なくとも今のうちは信頼を得られるような指導ができているのだろう。そうでなければ、わざわざ親が一人の食事に付き合ってはくれないはずだ。

「これからの時代、学は大事でしょうから。私のところはともかく、江戸のような都市では寺子屋に通う子供が増えてきているようです」

道場に通う町人も増えているそうですな」

「ええ、皆不安なんでしょう。今のところはまだいいが、異人たちが賊のような真似を始めたらと思うと、農民だからといって逃げ惑うばかりでは済まされますまい」

 この辺りには見かけないが、下級武士が道場を開いて村人たちを集め、剣術を教授することがあるという。寺子屋と同じで子供を通わせる親も多いが、親自身が剣を学んでいる場合もある。不安に端を発しているとすれば、その相手は異人たちだろう。

「駒形じゃ女子供を遠くへ逃がそうとした者もいたそうです」

 青兵衛は既に顔を赤くしていたが、揶揄するような響きはない。

「特に騒ぎも起きなくて良かったですよ」

 矢戸の場合は逃げ惑うどころか幕府の禁止を無視して異人たちの見物をしようと村人たちが集まった。それは駒形で何も起きなかったから、不安に好奇心が勝った結果かもしれない。

「しかし黒船の船員が、増徳院に埋められることになるとは。お上も思い切ったことを考えるもんです」

 虎太郎は思わず周りを見た。万が一誰かに聞かれたら、幕府への批判として役人に届けられかねないと思った。

「そうすることが異人とうまくやっていく術だと思ったのでしょう。詳しいことはわかりかねますが」

 話を聞かれる心配がないことを感じ取ってから青兵衛に応じる。増徳院に埋められたのはまだ若い兵士だと聞いている。高いところから落ちたとも、病気で亡くなったとも言われているが、どちらが正しいか定かではない。

 ペリー提督に率いられたアメリカ東インド艦隊が来航したのは前年六月のことである。蒸気船と帆船が二隻ずつから成る艦隊が浦賀の沖合にまで近づくと、ペリー提督は久里浜に上陸し、浦賀奉行に大統領親書を渡して去った。その直前に金沢沖まで艦隊は遡航したが、その威容は矢戸にいた虎太郎にも見ることができた。遠かったこともあって動きはゆったりして見えたが、大きさは充分に伝わり、蹴立てる波に巻き込まれるだけで漁民の船など簡単に沈んでしまうのが目に浮かんだ。

 しかし同じく海が近いとはいえ、浦賀と横浜である。それぞれ相模と武蔵で国を隔てていたし、艦隊がすぐに立ち去ったこともあって、時間が経つと鯨が江戸の海に迷い込んでゆったり泳いでから出ていったかのような、微笑ましい虚脱感が残された。その大元が目と鼻の先の駒形に再来するとは、八ヶ月前は思いもしなかった。

「それにしても、どうしてこんな田舎に来たんでしょうな。江戸から近いだけで、目立ったものもないような場所に」

 青兵衛は姿勢を崩し、天井を仰いだ。

「私たちにはそうでも、異人たちにはそうではなかったのかもしれません。あの増徳院も、最初に上陸してきた時から目をつけていたそうです」

「やっぱり異人の考えることはわかりませんな」

 虎太郎は漬け物に箸をつけながら深く頷いた。海兵隊員の葬式で異人たちが奏でていた楽器や旋律、葬儀のやり方など、端で見ているだけではわからないことばかりだった。青兵衛の言うように、異人のことは何もわからないと締めくくるのが最も楽なように思う。

 それでも、葬列から聞こえてきた音楽だけは何故か耳から離れない。異人たちの秀麗な容姿、色の薄い瞳や髪など、見た目に楽しいものはいくつかあったが、時間が経っても静かで重い音を用いて奏でられた明るい音楽だけは薄れないのだった。

 青兵衛と語らいながら魚の酒蒸しをつついていると、何か聞こえませんかと険しい声で青兵衛が言った。

 言われて耳を澄ますと虎太郎の耳にも音が聞こえた。しかしそれは、警戒する必要など一切感じない。

 どこか艶を感じさせる音は起伏に富んで聞こえ、葬列の時の音楽に近い速度で独特の旋律を奏で出す。他の音は聞こえないが、無視できない一つの形を持って耳に届く。それは夜の静けさのお陰だけではないように思えた。

 静かな夜に相応しい、やや低さを保った音色は一つの音楽となって聞こえてくる。虎太郎には心地よかったが、

「虫の羽音みたいだな」

 青兵衛は不満そうだった。

「異人がやることはわからねえな」

 不機嫌さを隠さない青兵衛に、虎太郎は曖昧に笑いながら、気分良く遠くから聞こえる音楽を聞いていた。

 

 命日でもないのに両親の墓を訪ねたくなり、墓前で懐かしい気分になると、自身の思ったより幼い部分がうずくような気がして虎太郎は苦笑した。十年も共に過ごせなかった父と、寺子屋の師匠としての記憶も濃い母を思い出した休みの日の朝、気持ちを持て余して墓を訪ねることにしたのだった。

 墓前に供えた酒と餅は、それぞれ謝礼として受け取ったものだ。親たちにしてみれば子供たちの師匠に渡したつもりだろうが、その師匠を作ったのは墓の下で眠る夫婦である。一度も充分とは感じられなかった孝行を、わずかにやれたような気分になった。

 隼蔵と母のおもんが眠る墓は、増徳院と道を一つ隔てた場所にある。矢戸の住人たちも数多く葬られた場所で、本来ならよそ者の両親が入れるような墓ではない。学問を子供たちに教え、その子供たちが長じて親となり、生まれた子供を再び預ける。小気味よい循環を生んだ二人の功績が認められたのは、弟子としても息子としても嬉しいものがあった。

 二十年も前に亡くなった父はともかく、不帰の客となってからまだ三年しか経っていない母には、今生きていたらという想像をかきたてる余地がある。多くの村人たちがしたように、異人たちの葬列を物見遊山気分で眺めたろうか。あるいは、日銭欲しさに異人を葬るための墓穴を掘った息子をどう見たろうか。

「異人といえど人であれば動物とは違う、わたしたちの仲間でしょう。気軽に眺めて良いものではありません」

 母へ思いを巡らせていると、静かな、しかし硬い響きを持った声で子供たちに教えを授ける様が思い浮かぶ。他の家の子供が許される遊びを禁じられて学びを強いられた時もあり、融通が利かないと苦々しく思う時もあったが、間違ったことを言っていると思ったことはない。異人が奏でた音楽に興味を惹かれた身としては、必ずしも母が言ったであろう言葉に頷くことはできないが、仲間を失った悲しみに沈んでいたはずの異人たちの傍で、気軽さを装うのは礼を失したことだったろう。

 そんな思いに気づくと、墓穴を掘ったことは褒められるような気がした。動機はあくまで日銭のためであったが、異人たちの悲しみを晴らす手伝いをしたことになる。想像はあくまで想像で、正否を決定づける根拠などどこにも見当たらないが、十七年を共に生きた人との思い出が、想像の中の母の姿を明確にするのだった。

 異人が葬送のために奏でた音に惹き付けられたとしても、葬儀の手伝いができたことで償いにはなったと見てくれるだろう。三年前から老いが止まり、息子の想像の中でのみ生き続ける母は、不本意そうに笑いながら許しを告げた。

「異人もまた人なり。私もそう思いますよ、母上」

 手を合わせながら虎太郎は呟いた。空に向けて発砲することに弔意が含まれていたのかどうか今でもわからないが、坊主のような格好をした男がそらんじた言葉は経のように胸へ沈み、明るさを含んだ音楽は彼らなりに仲間を死出の旅へと送り出すための儀式だったのだとわかる。形式は異なるとはいえ、異人にも形式に則った葬儀のやり方がある。それは獣やあやかしでは有り得ない、人の姿であった。

 短い時間、両親の冥福を祈ってから、虎太郎は墓地を見下ろせる丘に登った。墓地の傍にある増徳院も眼下に捉えることができて、地上からではよく見えない黒船さえ視界に入れられる。

 葬列が上陸したのは、丘の脇に通じる坂道の底であった。丘の上から眺めると、真田藩の陣屋でもあった増徳院までごく短い距離であったのがわかる。まだ父が生きていて虎太郎自身が幼かった頃にもよく見下ろした道であったが、当時は景色に紛れそうなほど細い道に異人が通るとは思いもしなかった。

 父は単に遠くを眺めるために丘の上に立ったわけではない。丘の上での父との思い出には、常に音が寄り添った。

「周りの者は雀のわめきのようでやかましいと言うが、それに風雅を見出した国の者もいる。おまえはそれをわかるような男になってくれ」

 父はそう言ってよく高い丘の上に連れ出しては、自ら木材から削りだした横笛を吹いていた。父の死後雅楽で使われる龍笛高麗笛神楽笛の音色を聞く機会があって、思い出の中で父が奏でた音と聞き比べていたが、古来の楽器とは性質を異にする柔らかな音色が際立ったのを覚えている。

 姿形も独特だった。三種類の横笛の中で最も長いのは神楽笛だが、それを上回る長さを持ち、孔も長さに見合った多さだった。

 その笛は作り手の遺言によって息子に引き継がれた。初めは新しい玩具を手に入れたようにしか感じなかったが、母の厳しい指導に傷付いた時に音を奏でると、不思議と心が落ち着いた。その経験は回を重ねるごとに感動へと置き換わり、母が亡くなって一人になってからは、不意に襲い来る寂しさを紛らわすのに役立った。

 虎太郎は横笛の歌口に口をつけた。幼かった頃は息を吹き込むのも一苦労で、懸命になりすぎて立ちくらみを起こしたこともある。それでも音を出せなかったのですぐに投げ出してしまったが、父が軽やかに吹く姿への憧れが、楽器の元へと戻らせた。

 子供の口に大きく、そして重かった歌口も、歳を重ねた今はちょうどいい具合に感じた。父の境地に近づいたのだろう。名前のない、この世界に唯一の楽器では、芸で身を立てるにはあまりに頼りないが、今は亡き血縁者との思い出に浸るには充分な役割を果たしてくれる。

 歌口に試しのつもりで息を吹き込む。筒の中には斜めの板が入れられているらしく、それのお陰で息が入りにくい。子供の頃に立ちくらみを起こした原因だが、邪魔だと思って取り外すと音が空疎なものに感じられた。慌てて直そうとしたが、父の思い出に近づくまで数ヶ月を必要とした。

 初めは孔のどれも押さえずに音を出し、息が慣れてくると孔を順番に塞いでいく。父が鳥のさえずりと評して愛した音が出た。

 ゆっくりと音階を上げていくと、脳裏に葬列の時に聞いた旋律が甦る。あの時使われていた笛は短く、父の笛よりも甲高い音だった。鳥のさえずりと言い表せる音だったものの、密やかに抑えられた音になっていた。

 雨宿りをしている鳥が、恨めしげに雨空を見上げて、日射しを恋しく思うような音色。旋律自体に明るさは秘められていても、寂しく悲しい心情で奏でられた音楽。

 丘の上から見える道で奏でられた音が思い出されると、自然に虎太郎の指は旋律をなぞっていた。

 曲の名前も、作曲者もわからない。端から見た父の笛と同じ立場だろう。二人の奏者による即興曲ということも一瞬考えたが、異人の音についてほとんど知らない虎太郎には、どちらの立場か判断することはできない。諦めて惹かれた音楽を純真な気持ちで触れるだけに努めた。

 旋律自体は単純で、音の数も少なく、覚えるのに苦労はない曲だった。密やかで抑えた音を出すことを心がければ、異人の葬列を自分の周りに浮かび上がらせることができた。

 上陸してから増徳院に着くまで、同じ音が繰り返された演奏は、目的地に着くと急に止まった。本来ならどういう終わり方をするのかわからないままで、虎太郎は指を動かしながら美しい切り上げ方を思案する。

 演奏に別の音が重なるのに気づいたのは、自分なりに演奏の終わり方を考えついた時だった。

 横笛を奏でるのに夢中な間は、黒船の方から聞こえてくる音かと思った。去年金沢沖を遡航した時や、今年駒形に来港した時に、黒船は大きな音を立てた。一月にも空砲を撃った。しかしそれらの音は、獣の唸り声や吠え声に近く、他人の演奏に寄り添う気遣いなど感じなかった。

 あらかじめ考えていた終わりを敢えて無視し、虎太郎はもう一度旋律を繰り返した。そうすると音もついてくる。よく通る音で、その気になれば横笛の音を包み隠してしまうような力強さもある。それを宥め、こちらの音が消えないような大きさを保っている。艶のある音と思い至ったところで、青兵衛が虫の羽音と称したあの音であるのに気がついた。

 異人の音だろうか。少なくとも横浜村で聞いたことはない音だ。この土地の風土には馴染まないようにも感じるが、人が気を遣って音を添えてくれていることに間違いはない。たとえ異人であろうと、人が演奏を認めて共に奏でている。

 何度か旋律を繰り返すと、虎太郎は思い描いた曲の終わりを奏でることにした。

 即興の演奏で、終わった傍から消えてしまうものだが、音はしっかりついてくる。音を充分に伸ばして終わりを描くと、虎太郎は音が聞こえてきた方を探した。

 確かに増徳院の方から聞こえてきた。坂道へと躍り出て駆け下り、音のした方を目指す。演奏が終わった途端に音も消えてしまったから、頼りは自分の中に残された音だけである。

 この界隈で異人が寄りつきそうな場所として思いついたのは増徳院だけだった。そこには黒船の乗組員の墓がある。異人も人であれば、墓参りぐらいするだろう。

 坂を駆け下りる途中で再び音が聞こえてきた。あの艶やかで鮮明な印象を残す音だ。現実に生み出された音を頼りに虎太郎は走った。音を生み出す異人に会ってみたい。未知の音を生み出す楽器を見てみたい。

 その思いを抱えて増徳院を目指すうち、音は一層広がりを持って聞こえるようになった。

 増徳院へ駆け込む勢いは、入口でしぼんだ。元々増徳院は真田藩の陣屋で、現在は異人の休憩所を兼ねている。寺子屋の師匠が気軽に入れる場所でないことに、頭の隅で気づいたのだった。

 番兵の視界に入る直前で足を止めた虎太郎は、二人の番兵の鋭い視線を避けるように通り過ぎる。

 まだ音が聞こえてくる。失敗を覚悟で中に入れてもらえるよう頼んでみようかと思ったが、謝礼をもらっている以上明日も寺子屋の師匠としての務めを果たさなければならない。下手な騒ぎを起こして寺子屋を潰すような不実を、一時の興味で犯すわけにはいかなかった。

 代わりに虎太郎は、番兵が気づかないような物陰で再び横笛を奏でた。番兵に気づかれないために短い時間だったが、音をさっきよりも近くで重ね合わせたお陰で、顔もわからない楽器の奏者に近づけたような気がした。

 楽器の名前、楽器の奏で方、楽器の見た目、奏者の出自など知りたいことはいくつもあったが、近くで奏でたことで満足し、虎太郎は去った。

 

 一人で音を奏でる時もあれば、子供たちを相手に笛を吹く日もある。母にはできなかったことで子供たちが喜んでいると知るといくらか誇らしくなり、子供を預けに来る親の評判からも一時解放される。父の笛で音を奏でる時に過去を思い出すのと同じで、虎太郎にとっての安らぎだった。

 今日は二人が残ってくれた。全体で四十人ほどの弟子の中で、音に興味を持ってくれた者は十人もいないが、元より音を教えるつもりで寺子屋をやっているわけではない。子供の興味を広げることができただけで、子供たちに横笛の作り方や吹き方を教えた意味はあると思った。

 二人の男児、五郎次と佐ノ介は数えで十歳になった。父を喪った時期と重なるが、二人の両親は農民として働いている。すぐさま寺子屋の師匠を継いだ母が、父の築いた信頼を失わない働きぶりを示してくれたお陰で生活には困らなかったが、どうしても母親に父親を喪った感覚の埋め合わせを求めることはできず、暗い時期をしばらく過ごした記憶がある。五郎次と佐ノ介の顔は無邪気で、好きなように音を鳴らして楽しんでいる。他の子供が外で遊ぶのと同じように、自分なりの楽しみを見つけてくれたのを見ているのは嬉しいものがあった。

「音先生、今日は何を吹くの」

 佐ノ介が聞いた。音先生と呼ぶようになったのも思えば音に興味を持つようになった子供たちで、それが青兵衛をはじめとする一部の親にも伝わった。両親は矢戸の住人たちと共に墓で眠りにつくことで人々からの信頼を証明してみせたが、自分の場合は親しみを込められた呼び名がそれに近かった。

「少し前に異人たちが来たのを覚えているかな」

「うん、おれも見た」

 応じたのは五郎次だ。佐ノ介に比べ声が高く舌足らずなので、一層子供っぽい印象を受ける。

「その時の音楽はどうだ」

「ああ、笛で吹いてた」

「あれを吹いてみようと思う。異人の音だ」

 そう宣言して虎太郎は歌口に息を送り込む。それに少し遅れて二人も続く。子供の手に合わせるように、佐ノ助と五郎次の横笛は短い。子供の手に収まるような長さしかなく、父の横笛と比べても半分ほどだ。

短くなった分音は高い。子供が無邪気に楽しむ声のように、どこまでも奔放に突き抜ける。

 二人の演奏は拙い。子供が大人のすることを真似る時の必死さを感じる。しかしどうにかついてくる。それだけで充分な素養だった。

自分が寺子屋でなく芸の師匠であれば叱咤するような演奏だが、音を出すこと自体を楽しんでくれればそれで良いと思う。あくまで音遊びに過ぎず、束の間学びを忘れるためである。そこに巧拙を論じる意味はない。

虎太郎の希望で始まった演奏の後は、佐ノ助と五郎次が望む音楽を吹く。まだ子供の二人は童歌ぐらいしか知らないが、本来声によって表すものを、笛の調べによって奏でれば違った顔が見えてくる。何度も奏でる内にその事実に気づけば、音先生冥利に尽きるというものだ。

それぞれが望む音を笛で何度か奏でているうちに九つの鐘が鳴った。日が暮れ、日射しの色が変わってくる。

あまり長く引き留めると親に心配をかけることになる。佐ノ介と五郎次を並べて家路に就かせ、稽古場の掃除をしようと小屋へ引き返そうとした時だった。

「音先生、あの」

 か細い声で、聞き覚えがないと思ったが、振り向くと声の主が藤吉の母おふゆであったのに気づく。藤吉の他に三人の子供を育てている母親は、荒波にも立ち向かっていけそうな体格をしている。夫に似た掠れ声で話す女だったが、普段の豪放さが見る影もない密やかな声だった。

「何か御用でしょうか」

 立派な体格の女が、心なしか憔悴したように見える。悪い報せを持ってきたのだと察して身構えた。

「藤吉が」

 弟子の中で最も進みが遅いのに明るく元気だった子供の笑顔が脳裏に甦る。

「藤吉が、死にました」

 その言葉を現実のものとして受け入れるまでの僅かな間、虎太郎は立ち尽くした。

 

 寺子屋が終わった後、馴染みの友達と遊んでいる時の悲劇だったという。

 沖合に子供たちが矢戸の鼻と呼ぶ岩が突き出ている。異人たちが矢戸に上陸する前、その矢戸の鼻に立ち寄って白墨のようなもので何か文字を書いた。それは浜辺からも確認できて、子供の好奇心を刺激したらしい。生き残った子供たちによれば、藤吉は三人の寺子屋仲間と連れ立って小舟で沖へ繰り出し、異人の落書きを見にいったということだった。

 小船は矢戸の鼻にたどり着き、落書きを間近で見ることは叶ったものの、帰り道に船が転覆し、藤吉だけが溺れ死んだ。

 子供の言うことだから、恐慌に陥った混乱の中で、藤吉が溺れたと思い込んだだけではないかと虎太郎は、藤吉の葬式を見るまで信じていた。海の中からどうにか引き上げられた遺体と対面した時、事実を認めざるを得なかった。

 葬儀が行われた後も寺子屋での稽古は続いた。大浚いが近いこともあって子供たちは熱心についてきたが、藤吉がいない稽古場の空気は重く、体調を崩して休む弟子が続出した。

 多くの親から落ち着くまで休ませて欲しいという申し入れがあった。謝礼が入らなくなるのは問題だったが、それよりも子供たちの体調が心配だった。藤吉は稽古場の中で良くも悪くも目立つ子供だったから、突然いなくなってしまったことの影響は大きい。半農半漁の村に育つ子供は、昨日別れた者が突然いなくなった原因として、突然の死が有り得ることを心のどこかに留め置いている。一度藤吉は死んでいないと説いたこともあるが、誰も納得しなかった。

 親たちの要望を受け入れ、寺子屋を休業させると、稼ぎを得る術が立たれてしまう。そのままでいても食い扶持を稼ぐこともままならないので、虎太郎は自分から弟子たちの家を訪ね、大浚いのためという名目で一人ずつ個別に教えることにした。

 子供自身がその気になれないことがほとんどだったが、何人かはこちらの訪問に応じてくれた。しかし誰もが無理をしているように思え、却って子供たちを追い詰めるような気がした。五日ほどやっただけで終わらせ、子供たちの心が落ち着くまで待つしかないのだと諦めた。

 いずれ子供たちが戻ってきた時のために、どういうことを学ばせるか、計画を立てる必要はあったものの、一日の半分にも満たない時間しか必要としない。子供に教える仕事がなくなると、呆れるほどすることがなくなってしまう。日々の食い扶持は農家に頼んで日銭を稼ぐ仕事を紹介してもらうなどすれば良かったが、筆や笛に触れる手で藁を編むのは厳しく感じていた。

 青兵衛と墓地で再会したのは、寺子屋を休業させて十日が過ぎた頃であった。半月前は海の上で鍛えられた体を存分に使い、墓穴を掘っていた男も、急激に老け込んだように見える。十数年余計に歳を重ねているだけに過ぎないが、挨拶を交わした時虎太郎は老人を相手にしたような気持ちにとらわれた。

「藤吉のことは、本当に残念でした」

 青兵衛は小さな唸り声を上げ、頷いた。

「藤吉に会いに来てくれたんですか」

 疲れを映した目を向けて訊く男の掠れ声は、本物の老人のようだった。

「葬式以来墓参りはしていなかったので。構いませんか」

「もちろんですとも。音先生が会いに来たと知れば喜ぶでしょう」

 青兵衛はふっと笑った。日焼けした肌で輝くような表情にはほど遠い。

 青兵衛もそのつもりで来たらしく、藤吉の墓を目指すのについてきた。

 藤吉が入った墓は、虎太郎の両親の眠る墓から通路一つを隔てた隣同士であった。両親のことを気にしながら藤吉のために手を合わせる。そうするだけで、特に考えなくても生前の藤吉を思い出す。勉強の進みは遅くても着実に成長し、東西南北の文字さえも間違わずに書けるようになった。時間をかければ周りにも負けない成果を出すことができる子供だった。

「馬鹿な子に育てちまったもんです、ねえ、音先生」

 青兵衛が不意に言った。顔を伏せてしゃがみ込んでいる。大きく頑強な肩は震えていた。

「元気に動き回ればいいと思っていました。でも危ないことをしろとまで教えた覚えはありません。異人がいけなかったんでしょうか。異人が落書きなんかするから」

 答えに迷う問いかけだった。藤吉たちを危険へ誘ったのは異人のしたことだっただろうが、彼らとて子供たちを殺すつもりで落書きをしたわけではないだろう。

 初めは異人たちをあやかしのように見ていた住人たちも、幕府との交渉が始まってからは少しずつ態度を軟化させていった。受け取る者はいなかったものの、異人たちもギヤマンの壺に酒を入れて渡そうとするなど、距離を縮める努力をしていたようだ。

 虎太郎は知らず知らずのうちに、現世にいない両親に答えを求めていた。親であり、師匠でもあった二人なら、この傷付いた父親にどんな答えを語るだろう。不毛で情けないと思いながら、青兵衛に語るべき言葉が虎太郎には見つけられなかった。

 答えに迷い、沈黙が降りている時、音が聞こえた。

 冬日が注ぐ時間には似つかわしくない、艶やかな音だった。

「この音、異人の音ですか」

 青兵衛は顔を上げた。以前虫の羽音のようと不快感を露わにした男が、今日は音を受け入れるような穏やかさを見せた。

 答える前に虎太郎は旋律を吟味した。ひどく目立つ音ながら、旋律は紛れもなくあの葬列で流れた葬送曲だった。

「悼んでくれているのかもしれません」

 言いながら虎太郎は音の聞こえる方を振り仰いだ。以前丘の上で笛を奏でた時には立ち上った音が、今日は降り注いでくる。

「異人が、そんな粋なことをしますか」

 あの日笛の調べに合わせられた音も、実際はどういう意図があったのか定かではない。誰がどんな楽器を使って奏でられたのか、今でもわからない。音を奏でる異人が、見ず知らずの子供の死を悼んでくれていると思うには、確証が少なすぎる。

 それでも、決して悪意のこもった音ではないと青兵衛にも伝わったらしい。いつしか震えていた肩は落ち着き、上げられた肩には微笑みが戻っていた。

「異人も、子供の死には弱いのかもしれませんな」

 立ち上がり、丘を振り仰ぐ。同じ音を重ね続けて作られる旋律が、優しく寄り添うような気持ちだった。

 

 事前に幕府から知らされていた通り、ペリー提督は三月九日に横浜村を訪れた。艦隊の頭は、引き連れた十二人の部下と比べて目立つ体格をしているわけではない。しかし初めて目にした駒形の住人たちが鬼や天狗と呼んで恐れた気持ちもわかるような雰囲気を持っていた。

 虎太郎は母が言いそうなことを思ったが、結局好奇心に負けてペリーたちを見にいった。恐いもの見たさでもあったのだが、幕府を訪れた目的は達せられたのか、茶屋でくつろぐ姿は適度に心がほぐれた様子だった。

 興味をなくした虎太郎は、まだ再開できていない寺子屋へ戻った。藤吉が亡くなってから十五日が経っており、個別の訪問に応じる子供も現れている。子供を稽古場に集め、元のように学ばせることができるようになるまで、そう時間がかからない予感があった。

 稽古場の掃除を何気なくしている時、訪う声が聞こえた。聞き覚えがないどころか、意味を成さない唸り声に近い言葉だった。

 異人が訪ねてきたのだと察する。何の用かと心当たりを探っていると、再び声が聞こえる。それは思いも寄らない言葉だった。

「おと、せんせい」

 拙い発音だが、この界隈の弟子や親たちしか知らないはずの呼び名だった。

 警戒しながら返事をすると、やはり同じ呼び名が返ってくる。ますますわからなくなりながら戸を開ける。予想していたとはいえ、相手は大きい。駒形の住人が天狗と称したのも頷けた。

「おと、せんせい」

 見下ろす瞳は空色をしていた。葬列の時にも見た色だが、目が合うとやはり人の目には思えない。

「な、何か御用ですか」

 知らず知らずのうちに引きつった笑みを向けてしまう。相手の表情は動かないが、威圧感は背丈の大きさだけだ。無表情には不思議と冷たい印象がない。

「フルート」

 自信はないが、フルートと言ったように聞こえた。何を差しているのかわからず訊き返すと、やはりフルートと言い返す。

 言葉が通じない者同士、すぐに会話は途切れてしまう。両親から異人の言葉も習っておけば良かったと思っていると、異人はおもむろに行李のようなものを降ろし、地面に置いた。

 蓋を開けると、茜色の光を受けて中身がきらめいた。光に目がくらんだ瞬間を超えると、照り返したものの正体が見えてくる。

 開いた花のような形の頭から管が伸び、長方形を描いて曲げられている。まるで蔦を支柱に絡ませて咲く朝顔のように見えた。管の尻にも小さな花のような形のものがついているが、こちらは控え目な開き具合で、椿の形に思えた。

 そして異人は管の尻に口をつけた。音が鳴る。この一月近くにあった出来事が思い起こされる、あの艶やかな音だった。銀色の光を放つ楽器には突起がつけられていて、それが押されるたびに音が変わる。そうして積み重なった音は旋律となり、あの葬送曲を形作る。

 虎太郎は異人が何を求めてやってきたのか理解した。

 家に駆け戻り、父の笛を持ってくる。どうやら正解だったらしい。異人は初めて笑った。

「かっちけねえ」

 やはり拙い発音だったが、やはりこの村で聞かれる言葉だった。

 異人は振り向き、その方向を指さした。増徳院の方である。

とむらい、かっちけねえ」

 そう言った異人は再び音を奏でた。

 虎太郎もまた、その音を聞きながら歌口に口づける。頃合いを見計らい、息を吹き込む。

 異人の音に、父が作った音が合わさって旋律を生み出す。それまで離れ離れに重ねていた音が間近で重なり合うと、異人の心情が言葉に拠らず伝わってくる。艶やかさだけを感じていた音色に、微妙な指遣いを見て取ることで心の揺らぎが目に映る。音はそれに合わせて微かに乱れ、広まりも揺れた。

 葬られた乗組員との関係性はわからない。しかし決して遠い間柄ではなかったのだろう。

 異人の心を目と胸で知った時、虎太郎も自身の指遣いが乱れたのに気づく。ようやく東西南北の字を間違わずに書けるようになった弟子の早すぎる死は、時間が経って元の暮らしに戻る過程で胸の奥へとしまわれようとしている。それが異人の音によって引き戻されていく。同じく近しい者を喪った男との、もたれ合い、理解し合うための音。

 同じ音を重ね続ける葬送曲は長く続く。日暮れを迎え、波音が鮮明に聞こえ出すようになっても、虎太郎には止められなかった。

 

                       [了 四百字詰め原稿用紙六〇枚]

2014年7月作品