yuzaのブログ

幕末から明治を舞台にした小説を中心に載せています。

その魔術師には羽がある

 プロローグ 新時代前夜

 

 その透き通る光は時折歌声のような音を立てながら、夜空を切り裂くような速さで流れていた。ひまわりのように明るい黄色に緑色が混ざりだしたのはここ数日のことだ。一ヶ月もすれば季節の変わり目である純色月となり、流れの方向も逆転する。夜ごとに見えるその光、アストラルラインの色と速さは千年以上の季節と日にちを地上に伝え続けている。

 他国なら見えるはずの星座や月の影がかすむほどの光が真夜中の強行軍を支えてくれる。湖畔に出た時、テオドル・エティンガーの呼びかけで二〇人が足を止めた。シエラ・バルトはその瞬間油断なく周りを見た。追っ手の気配はない。

「あとどれくらいだ」

 シエラは地図を広げ、一イエフ(約二キロメートル)も歩けばたどり着くと答えた。

 自分の発言に仲間たちが注目する。話し合いで積極的に発言するのに慣れていないせいで面映ゆい。

「それなら少し気楽ね」

 言葉とは裏腹に、エリーゼ・バウアーの声は憂いを帯びて聞こえた。一つ年上で、二〇人の中では唯一の女性である彼女も耳を傾けていると思うと別の緊張が生まれた。

「たとえ追いつかれても、俺たちなら充分返り討ちにできる。怖れる必要はない」

 二〇人の中で最も大柄なラゲナン・レーエは、その屈強さに似つかわしく低い声で言った。最年長でもある彼の発言にはいつも重みがある。

「そうそう、僕ら一番強いから。シエラも自分のレリクスを信じなよ」

 ラゲナンの言葉を、対照的に甲高い声が引き取った。シエラと同じ歳のエルマ・ゼーンゲンである。静かな声を聞き続けたせいか、彼の無邪気な声は夜の湖畔によく響いた。

「しかし油断はできない」

 ともすれば弛緩しそうな空気がただよったが、すかさずテオドルが引き締める。その通りだなと応じたのはラゲナンだ。油断や隙とは無縁の彼の不意を突くには、よほどうまく身を隠す必要があるだろう。

「わかってるよ。でもシエラの立てた計画だから信じられるよ」

 エルマが強い信頼を目に宿し、無邪気に笑いかけた。シエラはぎこちなく頷いた。

「大丈夫だ。夜明けまでに森を抜けられたら大丈夫。正統使徒連合の使いと合流できたら大丈夫だ」

 再び全員が注目した。シエラはエルマと並んで集団の中では最年少だ。最初はもっと年下の子供たちがいたのに、長い時間の中で消えてしまった。今はテオドルと同じ年頃の仲間が多い。

 その年上の仲間たちの表情に疑いはない。このまま信頼を保てれば全てうまくいく。

「震えているな、シエラ。お前自身が立てた計画だ。自信がないのか」

 テオドルだけが無表情だった。本来は深い青の瞳が、今は夜の闇とアストラルラインの光が混ざり合って漆黒をたたえている。底のない色を宿した瞳に心を見透かされた気がして、シエラは震えを自覚した。

「大丈夫、この道が正しい」

 テオドルを信頼させるため、そして自分自身に勇気を与えるため、シエラは務めて強く声を張った。いつもと違う声の出し方は、それだけで喉を疲れさせた。

「本当にそうなのか」

 テオドルはなおも言い募る。すると周りで何人かが眉をひそめた。

「テオドル、しつこいわ。ここまで来て仲間を信じられないなんて」

 代表するように声を上げたのはエリーゼだ。それに勇気を得たように、集団のリーダーに対して次から次へと批判が飛び出す。

「聞こえないか」

 仲間たちの批判に臆した様子もなく、テオドルは張り詰めた声を出した。その一言でエリーゼたちは口を噤む。そして油断のない視線を周囲に向けていたラゲナンは、彼の疑念の正体に気づいたようだった。

「ピッチか」

「そうだ。しかも包囲されている」

 二人の言葉はあっという間に動揺を呼んだ。敵が外国から手に入れた力の前に多くの仲間が倒れ、生き残った者たちも命からがら逃亡する羽目になったのだ。

 動揺につけこむように、地上に青緑の光がにじんだ。夜空の光が強すぎて、それに気づいたのはシエラだけだったが、やがてはっきりとした形を取るようになる。数字や図形を全員が入るように描かれた歪みのない円が包み込む。仲間たちはいっそう動揺を強くしていたが、それは表情の上だけで、体の動きには表れていない。魔術円と呼ばれる図形と数字の集合、そして包囲した者たちが紡ぎつづける、魔術を発動させるための言葉、ピッチが動きを封じている。

「どうしてわかったんだ……」

 すぐ隣で呆然とした声が聞こえる。シエラはその疑問に答えることができた。漏れるはずのない計画をどうして敵が知り、手際よく自分たちを包囲することができたのか。シエラは理由を内心で答えてやりながら、周囲と同じく魔術に捕らわれたふりをしていた。

 しかし一人、魔術の縛めから逃れて、手持ちの小銃を動かした者がいた。その銃口が茂みの中の兵士たちに向く。そう思った瞬間、シエラは懐から杖を取り出し声を上げていた。

「D、フレットナンバー、スリー!」

 小銃を動かした仲間は再び動きを止めた。自分たちを捕らえるピッチと同じ系統ながら、数段高い効果を発揮するものだ。皆が信じられないものを見る目を向けてくる。敵と同じことをしたのだから当然だ。しかしこれで、彼が死ぬことはなくなった。あとは包囲した兵士たちがうまくやってくれる。

 銃声が響いた。小銃を向けた仲間が仰向けに倒れた。

 一瞬その光景がはるか遠くに離れた気がした。立ち尽くしている間に銃声が耳に、倒れた仲間が視界に満ちていく。最初の一発をきっかけに、茂みの中からダークブルーの軍服が次々に飛び出して、狙いやすい位置を確保する。エリーゼとテオドルはいち早く逃れたが、ラゲナンは自分の得物を持って兵士に斬りかかっていた。

 呆然と立ち尽くすシエラは、背後で乱暴な足音を聞いて振り向いた。

「君がピッチを紡ぐのを確かに聞いた。あれが僕らの自由を奪った。それに地面に魔術円を描くにはカエルレウムの原料をまいておかなくちゃいけない。ここは僕らの処刑場だったんだ」

 少女のように端整な顔に表情はなく、さっきまでの無邪気な笑顔はかけらもなかった。押し殺した声は確信に満ちて硬く、真偽を問いただすような生やさしさはない。

 エルマから目を逸らす。それで辛うじて残っていた彼の冷静さが壊れた。

「シエラ、よくも僕たちを裏切ったな!」

 咆哮と共にエルマが自分のレリクスを向けてきた。その動きが妙にゆっくりして見える。ラゲナンが戦うのも、仲間たちが倒れていくのも、同じくらい動きが遅い。こんなことが望みで、追っ手に都合の良い計画を立てたわけじゃない。

 ただ生きて、みんなで新時代を迎えたかっただけだ。

 そんな思いが次々に胸に浮かぶ。けれどエルマの気迫の前には言葉にならない。

 信じる相手を間違えた自分が悪いのだ。だからここでエルマの気が済むようにしてやればいい。それがせめてもの償いだ。

 シエラは自分の武器から手を離して無抵抗を示した。目を閉じた瞬間だった。銃声が響く。さっきからそこかしこで鳴り続ける音とは違って聞こえた。

「シエラくん、死ぬな!」

 声に目を開けると、一人の兵士が割り込んで短銃を撃ちまくっていた。後ろから見ているだけでへたくそなのがわかったけれど至近距離だ。急所には当てられずともエルマを追い払うことはできた。

 そして彼は、歪めた表情のまま白い翼を広げ、羽をまき散らしながら色のついた光を背にして上昇する。彼がたどり着いた先にはテオドルとエリーゼが、やはり翼を広げて待っていた。最後まで抵抗していたラゲナンも結局上空へ逃れた。

 テオドルたちはそれぞれのレリクスを、兵士たちは制式採用の小銃を向け合う。ひとしきりにらみ合った後、テオドルが最初に羽ばたいて夜空へ飛び去った。三人もそれについていく。夜陰に紛れる直前、エルマは憎悪を、ラゲナンは怒りを、エリーゼは悲しみを、テオドルは殺意を宿した表情で地上を見下ろした。

「シエラくん、もう終わった」

 その控えめな声はエルマから守るために短銃を乱射した青年兵士だった。肩に乗せられた彼の手を、シエラは振り払った。

 そして振り向きざま、エルマを追い払った銃を奪い取った。その行動は、瞬間的に湖畔の冴えた空気をいっそう張り詰めたものにする。銃を奪われた青年が、声を上げながら向けられた小銃との間に立ちはだかる。

「そんなこと、しなくていい」

 あとから思えばそれは失敗だった。銃口をこめかみに突きつけたまま、無言で引き金を引けば彼が振り返ることはなかった。仲間の銃弾で倒れるなんて、救われない。彼をそう気遣ったのがいけなかった。

 シエラの行動に気づいた彼は、血相を変えてシエラに掴みかかった。必死の形相で短銃を奪おうとするが、どうやら力はこちらが上のようだ。

 さっさと引き金を引いて終わりにしようと、渾身の力をこめて銃口を元の位置へ引き戻す。一瞬腕の動きがぴたりと止まった。

 引き金を引いた瞬間、シエラは銃声を聞いた。二度と聞くはずがない音だった。

 失敗したことに愕然とした一瞬を突かれ、拳銃が奪い取られる。その勢いのまま地面へ引き倒されたシエラの視界に天上の光が映った。

「シエラくん、君の武器をもらうよ」

 仰向けに倒れ込んだシエラは、手放した武器が拾い上げられるのを横目で見たが、それを止める気にはなれず、星を包んだ透き通る光を眺めていた。

 息が落ち着くのにしたがって、光から降りてくる歌声のような音がいっそう体の深いところへ染みこんでいく気がする。その音に心の琴線が共鳴を起こして、胸の芯へ響いていく。耳と胸で感じた響きが思い出を揺り起こしたが、登場する仲間たちは全て光の彼方へ行ってしまった。脳裏に描かれる像はほとんど色あせている。

「こんなつもりはなかったのに、エリセバ」

 答えはないとわかっていながら、思い出の中で唯一色を保っている女性へ、ぼんやりと言葉を向けてみた。仲間を戦いから解放したかったと言えば、彼女なら許してくれるような気がしたけれど、その結果命を落とした者がいる現実の前には言い訳じみていて、説得力を感じない。

 アストラルラインは女神ハヤとお付きの妖精ドリズルが天地を巡る時の軌跡だ。いつだったか、エリセバが建国神話を暗誦しながら教えてくれたことがある。

 誰かに思いを伝えたい時には、ドリズルを呼んで言いたいことを託して、ハヤに伝えてもらう。そうすればハヤが、光に乗せて国中に広めてくれるという。シエラは一緒に教わった、ドリズルを呼ぶための呪文を紡ぎ、光の彼方へ行った仲間たちへ届けたい言葉を口にした。

「こんなつもりはなかったんだよ、みんな」

 今よりも幼かった頃でさえ半信半疑だったおとぎ話に、シエラはすがりついた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第一章 これからの魔術国家

 

 アストラルラインは日毎に色を変えていくが、流れる速さや明るさも変化していく。肉眼では感じ取れない微妙な変化は、観測器具の発明によって知ることができるようになり、アストラル歴の創造につながった。周辺四カ国が太陽の動きを元にしたリリウス歴を使用しているのに対し、クレアスト国では千年以上アストラルラインから時を得ている。

 今日のアストラルラインは月初めの最も速い流れだった。鮮やかな緑の光で、一二ヶ月のうち四ヶ月しかない純色月の色である。普段着でこの場に立ってみたが、ちゃんと溶け込めているか少し不安がある。制服を着慣れすぎていて、私服のセンスに全く自信がなかった。

 そんなクラウスの葛藤にも、それどころか存在にさえ気づいた様子もなく、シエラは懐中時計と東から西へ流れていく光を見比べている。少年にしては小柄な方で、顔立ちにも幼さが残っている。全員が地味な礼服を着ている今、茶色の髪と青い瞳というありふれた特徴は埋没していた。

 下は一〇代半ば、上は二〇代と見える人々もまた、懐中時計と天上の光を見比べていた。元は修道院の運動場だった校庭では絶え間なくざわめきが立ち上る。

 六時五分前になると、それまでのざわめきが息を潜めるように密やかな音になる。

 三分前になると遠くの中心街から聞こえてきた音が消え、時計の秒針が時を刻む音だけが残る。この八分間で空は暗くなり、その分アストラルラインは鮮やかさを増した。

 クラウスの時計が六時一分前を指した。それから五秒遅れてどこからともなく一秒ずつ数える声が聞こえだした。その声は徐々に数を増し、残り三〇秒を数えたところでシエラも声を上げていた。その時には声を出さない人は周りでいなくなった。

 残り一〇秒で、クラウスは時計を三秒先に進めた。その間周りの声は残り六秒を叫んでいた。五、四、三、二、一――

「ゼロ!」

 周りに合わせてクラウスはあらん限りの声を上げた。同時に秒針を動かす。その瞬間光が満ちあふれて視界が真っ白になる。手で遮ろうにも全方位から包み込む光の前には意味がない。人間にはこの光を振り払って視界を回復する術などないのだ。

 視界が全く利かないからこそ、人々は自分たちの守護神である女神ハヤに祈るしかない。古来、光に包まれる瞬間を『ハヤに祈るしかできない時間』と呼んできたのは、何よりもわかりやすく実感を伴っていた。

 光が薄れて視界が回復した時、アストラルラインの流れは逆転していた。今日四月一日午後六時〇秒はその正確さから全土で時計合わせが行われる日で、西から東へと流れの向きを変えた光は、半年後の一〇月一日午後六時〇秒に再び向きを変える。二つの日は千年以上に渡って時を刻んできたアストラル歴の根幹だ。

 時計合わせに成功した時計は、女神の加護を受けたお守りになると考えられている。その時計が正確に一秒ずつ時を刻んでいるのを確認し、クラウスは人の流れに乗っているシエラを追った。官立カナーネン魔術学校の講堂を目指す流れだ。

 講堂の半分以上を並べられた長椅子が占め、それを講師や教授と思われる人々が望む。国を同じくした人ばかりではない。燃えるような赤毛は西のリーゼンラント王国出身者だろうし、クレアスト人と比べて透き通るような白い肌は北のアイマト連合王国人の特徴だ。彼らを内乱が終わったばかりの政情不安な国に呼ぶのは手間がかかっただろう。

 後方の見学者席に座るとシエラの姿は見えなくなるので、入学式の間だけシエラの監視は講師に扮した同僚の役目になる。その同僚が、端の席に座ったシエラのそばにいるのを確認して、クラウスは学校長オランジア・フレーベルの式辞に聞き入った。

「官立カナーネン魔術学校への入学を心より感謝いたします。私は学校長のオランジア・フレーベル。諸君がこの学校の第一期生であるように、私も初代校長であります。お互いクレアストの魔術事始めを担う者同士、共に学校を盛り立てていきましょう」

 はつらつとした歩き方で演台に上ったフレーベル校長は朗らかな声を講堂に響かせた。五八歳と聞いているが、声音は澄んでいて年齢を感じさせなかった。

 フレーベル校長は朗々とアウラシオ大陸の中央部、アストライブ地方に自分たちの祖先が住み始めた頃の歴史を語り出した。クレアスト人の祖先は元々東のアシレミア半島に住んでいたマハーブ族で、アストラルラインが季節ごとに上下を繰り返しているところに女神ハヤの信仰を生み出し、その信仰に従って移住したのだ。それが約千年前のことだ。

「さて、諸君も知っての通り、二六三年に渡って政治を執ってきたカナーネン大聖堂をクレアスト新政府が倒してから、まだ一年しか経っていません。終アストラル戦争と名付けられた二年にわたる内乱の原因は、アストラルパワーの減少でした。このアウラシオ大陸の中でも、アストライブ地方でしか使うことのできない力を失った我々は、周辺各国で使われていた魔術に代わりを求めました。終アストラル戦争とは、単なる政変ではありません。アストラルパワーに代わる魔術という力を、クレアスト国という新国家の柱に据えるための戦いだったと言えるでしょう」

 アストラルパワーは様々な道具を介して人に恩恵を与える万能の力だ。たとえばストーブを通せば熱を出すための燃料になるし、冷製スープを作るために冷却を行うこともできる。それらは二三〇年前から始まった使い方で、それ以前は全て天使と呼ばれた人々が行っていた。カナーネン大聖堂は、その天使を擁して政権を奪おうとする新政府に抵抗した。

「政権が代わった今、魔術はアストラルパワーに代わるクレアストの柱となります。しかし周辺各国に比べれば大きく後れを取っております。現に戦前から魔術研究を行ってきた者でさえ、魔術協会の会員として認められた者はいないのです。私は若い諸君にその偉業を期待します。このクレアスト初の魔術学校で精一杯学び、クレアスト初の魔術師となり、魔術先進国と呼ばれるアイマトやテビエスに追いつけ追い越せという気概を見せてほしいのです」

 フレーベル校長は終始前を向いたまま、語り終え、礼を述べてから立ち去った。熱のこもった声は少しの間余韻となって会場に満ち、学生ではないクラウスも熱に浮かされたような気分になっていた。学生たちの方から拍手が起き、そこを中心にして全体に広がった。

 拍手の後、特別雇用という身分で招かれたアイマト、リーゼンラント出身の教授、講師陣の紹介があり、来賓からの祝辞に移る。最後に校歌を歌わされて入学式は終わった。案内の声は、この後晩餐会があることを告げた。

 それに参加する流れと帰る流れが生まれる。クラウスは出口へ向かう流れの中にシエラがいるのを見つけて追いかけた。

「帰るのか。せっかくだから食べていけばいいのに」

 背後から声をかけるとシエラはぱっと振り向いた。

「なんだ、クラウスさんか」

 シエラは振り向きざまに警戒した表情を見せたが、安堵の笑顔を見せた。小柄でどこか頼りない雰囲気のある少年だが、振り向いた時の鋭い身のこなしは衰えていなかった。

「騒がしい場所は嫌なんだ。無理して行くことないだろ」

 自分の意見に自信がないのか、シエラは目を伏せて言った。できるだけ彼の言うことは認めてやりたいが、それにも線引きが必要だ。

「友人を作るチャンスなんだ。大丈夫、あの場所に君の素性を知っている者はいない」

 一年間紆余曲折はあったが、シエラは魔術学校で学ぶことを自分で決めたのだ。自分自身で決断した以上、そこに溶け込む努力は必要だろう。

「行けば何かしらつながりは生まれる。そこから先は君自身の人柄の勝負になる。君なら大丈夫だ。一年間見てきた私が言うんだから信じてほしい」

 軽い調子を装い、シエラの両肩を掴んで回れ右をさせる。思いの外すんなりと彼は講堂の方を向いてくれたが、最初の一歩に踏み出せない。

 強引にはできないことに気がついた。彼の中にはまだ、光の彼方へ消えた仲間たちがいる。

「一年では気持ちの整理をつけきれないか」

 哀れみがにじまないよう気をつけながら言うと、成長途中の彼の肩ははっとしたように動いた。

「さすがに、結果から見たら私たちのしたことが全て正しかったとは言えない。でも君が仲間の命を救おうと思って選んだ行動は正しかった。事実、君の他にも投降を選んだ兵士がいるけど、恩赦という形で全員が今日を以て解放された」

「クラウスさんの言ったとおりになったね」

「今日は新しい体制ができあがって初めての飛翔日だからね。新政府にしても、末端の兵士たちにまで厳しい刑罰を科すような余裕はない。敵味方が手を取り合わなくちゃいけない。それほど二年で国は荒れて、多くの人間が死んでいったんだ」

「天使も、その中にいていいのかな」

「天使も人間だよ。当然だ」

 シエラは微かに肩を上下させた。息づかいに安心感が宿って聞こえる。実際には彼が天使であることを公表できるほど、人々の記憶に優しく宿っているわけではない。今は未来に希望を持つしかない。

「この時代を生きていきたいか」

 一年前、短銃を奪い取って自分の頭を撃ち抜こうとした姿を思い出す。あの時彼が無言で引き金を引いていたら、自分の仕事はもっと別なものになっていたはずだ。

「迷ってるよ。でも死にたいとはもう思わないから安心して」

 真夜中の強行軍を襲撃する前にもシエラとは何度か会っている。外面と内面を別々に動かせるほど器用な少年ではないというのが第一印象で、その思いは会うたびに深まった。関係が始まって一年以上が経った今も変わらない。

「エリセバがハヤの故郷にいて、俺も同じ場所へ行けるとしたら、きっと悲しまれると思うから」

 エリセバ・フォルクという名前ほど、立場によって意味が異なる名前も珍しいだろう。シエラたちマハナイムの天使たちにしてみれば、天使としての素質を覚醒させた重要人物だし、新政府軍に属す自分たちにとっては単なる堕天使だ。

 大聖堂軍が擁した天使とは、アストラルパワーを使える人間を指す言葉だ。先祖のマハーブ族の中には、天上の光に含まれる力を使える者が現れるようになった。それは天使という素質を持った人間にしか使えないという欠点はあったものの、魔術と同じように人々の暮らしを支える力を持っていた。

 天使は長い間出現が途絶えていた。基本的に天使は自然に出現するものではなく、その素質に目覚めた者によって力が呼び起こされることで覚醒する。約二三〇年前、人の手ではなく道具によってアストラルパワーを利用することが始まってから天使は必要のない存在になったが、アストラルパワー減少と同時期に自ら天使として覚醒した女性が現れた。千年に渡るクレアストの歴史の中で四人目となる自立覚醒天使、エリセバ・フォルクである。カナーネン大聖堂はアストラルパワーの減少に対し、昔のように天使がアストラルパワーを使えば危機を乗り越えられると主張し、エリセバに天使の覚醒を行わせた。マハナイム修道院に併設された孤児院に暮らしていた、シエラをはじめとする現代の天使はそのようにして天使となっていった。

「私も君がハヤの故郷へ召されたら悲しいよ。それは私が召された後にしてくれ」

「エリセバと同じ言葉を使うね」

「建国神話に詳しかったのか」

 シエラは認めた。堕天使という悪評しか伝わってこないエリセバの、人間としての素顔を見た気分だった。

 ハヤの庭はクレアスト国があるアストライブ地方を指し、そこで暮らすことを許された人々は、魂が無垢ならドリズルの導きによって故郷へ召される。しかし罪を犯すなどして汚れた魂は、ハヤの力が及ばない地獄へ落とされるという。

 エリセバは堕天使として断罪されたから、地獄に落ちたとされている。さすがにそのことを信じたくはないだろうし、クラウスも少年の信仰を妨げたくはなかった。

 シエラの足は動く気配がない。無理もないと思うが、魔術学校へ行くことを決めた以上はいつか乗り切ってもらわなければ困る。思い切ってクラウスは口を開いた。

「マハナイムの天使たちを忘れられないか」

 両肩が大きく上下した。さっきよりも大きな動きで、肩を通して鼓動が伝わってくるようにさえ感じた。

 真夜中の強行軍を襲撃したのは、あくまで二〇人から成る天使たちの一団を捕らえるためのものだった。それがシエラの願いであったし、新政府軍もそれを認めていた。

 一〇代半ばから二〇代の若い世代しかおらず、捕らえた後に教育すれば新政府を立て直す力として使えるという思惑があったという。未発達の子供たちを労働力としてしか捉えていたことに憤りを覚えたが、シエラの願いは叶う。そう思って臨んだ作戦だった。

 結果は二〇人中一五人が命を落とすという凄惨なものになった。

 相手に気づかれないよう、効果の弱いピッチを使って少しずつ束縛を強める作戦が裏目に出て、魔術の縛めから脱出する者が現れてしまった。その天使の動きに兵士が過剰に反応して倒してしまい、報復が行われた。互いの意思が行き違った末の事故だったとクラウスはシエラに言い聞かせたが、彼が納得できるはずもなく、シエラは何度か自死によって償いを果たそうとして、そのたびに阻止してきた。

 それから一年を経て、死にたいとは思っていないと言ってくれたことは、努力の成果だろう。そのことは素直に嬉しいが、マハナイムの天使たちの記憶を消し去るようなことまではできない。新政府は魔術を受け入れることで他国と協調することを選んだ。そんな時代に順応するためには魔術を身につけるべきだ。シエラは自分でそんな結論にたどり着いて、それを支援する者にも恵まれて、入学式を迎えた。

 けれど葛藤は続いている。あれからの一年間で、逃亡したマハナイムの天使たちは現れていないし、死亡報告も上がっていない。彼は真意を伝えられないまま時を過ごし、次へ進む形になってしまった。

 新たな環境で、新たな友人を作ることは大事だ。しかし自分自身の行動で失われた命があって、恨みも買ったシエラには当てはまらない。

「最悪、学校では知識や技術を身に着ければいい。私も相談には乗るから一人にはならない。だから無理につながりを作らなくても大丈夫だ」

 過去と現在のせめぎ合いに疲れ果ててしまうよりはずっとマシな選択だと思った。

 しかし立ち尽くしていたシエラは、講堂に向けて一歩を踏み出した。

「いつまでもそんなこと言ってられないよ」

 背を向けたまま、彼は決然と言った。

「大丈夫だから」

 答えを待たず、振り向かず、シエラは上品なざわめきの満ちる講堂へ踏み出していく。しっかり伸びた背筋には悲壮感が宿ってむしろ危うく見えた。支えてやりたいのをこらえてクラウスは背中が会場に紛れるのを見送る。命以外の形で償おうという決意があふれて見えた。

 

 晩餐会の会場に戻ったシエラは、さっきまでの重苦しさを一瞬忘れるほど、準備された料理に圧倒された。黒褐色の見たこともない肉が豊富に並べられ、様々に料理されている。トレー脇の注釈によると、アイマトの料理であるらしい。

 アイマト料理ばかりでなく、細切りジャガイモの炒め物やチーズ料理など、クレアストではおなじみの料理も並んでいる。意気込んで戻ってみたのはいいものの、一年前のことを思い出すと、仲間と引き替えに得たかのようで、おなかがすいていても食べる気が失せてしまう。

 クラウスなら背中を押してくれるだろうか。一瞬そう思ったが、そのクラウスのすすめを振り切ってここに来たことを思い出す。

 いつまでも学生とつながるのを拒んではいられない。学生同士の付き合いが避けられないのは、魔術学校に入ろうと思った時からわかっていたことだ。

 とりあえず料理を取って、誰でもいいから話しかけてみようか。そう思ってドラゴン肉の蒸し焼きに手を伸ばした。

 同じ皿に別の方向から手が伸びて重なった。細長い指は男のものにしては滑らかで手触りが良い。不思議な気持ちで相手に目を向けたが、目は合わせられなかった。地味ながらも質の良い生地が使われた袖の長いドレスの相手の双眸は、自分より高い位置にあった。

「ねえ、手、どけてほしいんだけど」

 その青い双眸の持ち主はあからさまに不機嫌な声で言った。端整な顔立ちには友好のかけらもない。背中まで伸ばした金髪を細いリボンで結んだだけの素朴な髪型から同じくらいの歳だと思ったが、背丈は男の自分を凌駕して、隣り合うと見下ろされるほどだった。

 一言謝って手を引っ込めると、彼女は何も言わず皿を取って背中を向けた。これほど拒絶的な態度を取られたことはなく、呆然と立ち尽くすシエラは背後からリナリアと呼びかける声を聞いた。

 振り向いたのは長身の女だった。その瞬間再び目が合う。何してるのと詰問するような目だった。

「何だリナリア、もう知り合いができたのか」

 少女を呼んだ男の声が続いた。誰を指しているのかわからず周りを見たが、料理の載ったテーブルしか見当たらない。

「君のことだ。リナリアの相手をしてくれたんだろう」

 名を呼んだ声とは対照的に、抑揚のない声がした。その声の持ち主は灰色の髪をした細面の男だった。最初にリナリアという名を呼んだ筋肉質な男と並ぶと見事に対照的だった。

「別に話をしたわけじゃないですよ」

 リナリアと呼ばれた女はそっぽを向いて言った。たまたま手が触れあったのがそんなに不満かと言いたくなったが、筋肉質な男は気にせず明るい声を出す。

「そうつんつんするなよ。せっかくだからどんどん仲良くなった方がいいぞ」

 言いながら筋肉質な男はシエラに目を移す。

「何か連れが迷惑かけたな。こいつ見かけはともかくガキ丸出しで扱いづらくてな」

「いや、気にしないで」

 リナリアよりもはっきり年上とわかる男だったが、年齢差を振りかざすこともない気さくな態度だった。彼は大きな手を差し出してきた。

「気にしてないならいいけどな。俺はガウラ・ヒュッケル。歳が離れてるから一緒のクラスにはならないと思うけど、どこかで会ったらよろしくな」

 ガウラの快活な笑顔に笑い返しながら名を名乗ると、細面の男も握手を求めてきた。

「ビロウ・ヘルシェルだ。俺もクラスが一緒になることはないだろうが、よろしくな」

 同じように名乗り返す。残るリナリアは腕を組んで顔を背けていた。

「おいおい、いい加減にしろよ。お前一九なんだから、年齢的にシエラと一緒になるかもしれないだろ。挨拶ぐらいしておけって」

「ちょっと、人の歳バラさないでくださいよ!」

 余程気に食わなかったのか、リナリアはガウラよりも高い位置からにらみつけた。威圧感は充分だったが彼は動じた様子もない。ビロウが促すように声をかけると、渋々といった様子で歩み寄り、手を差し出してきた。

 その手を握った時、触れただけではわからなかった握力の強さに気づいた。表情に変化もないし、意識せずに強い力を出しているのがわかる。剣や槍などの経験があるのかもしれない。それもかなりの使い手だろう。

「ねえ、いつまで握ってるの」

 リナリアの背景に思いを巡らせていると、また不機嫌な声を聞かされた。慌てて手を離すと彼女は二人の男に行きましょうと声をかけ、背中を向けた。その態度にガウラはため息をつき、ビロウは下を向いて首を横に振った。二人とも仕方ないなと体で語っている。

「まあ、一九年で背丈と胸と尻しか成長してないような奴だけど、そんなに悪い奴でもないから、一緒のクラスになったらよろしくな」

「ガウラ、俺は何も言ってないからな。リナリアに殺される時は俺を巻き込むな」

「俺とお前はいつでも運命共同体じゃなかったっけ」

「ふざけるな。お前一人で死んでこい」

 二人の掛け合いを、シエラはしばらく取り残された気分で眺めていた。彼らを放ってどこかへ行こうかと思い始めた時、思い出したようにガウラがこちらへ目を向けた。

「ともかく、せっかくの縁なんだから大事にしてやってくれ」

 いささか強引にまとめてガウラはリナリアを追っていった。ビロウもそれに倣う。

 リナリアはともかく、ガウラとビロウからは初対面ではないような気安さを感じた。そういうことができるような気さくさが魅力の二人だったかもしれないが、態度の奥に別の何かがあるような気がした。

 

 入学式の後、五日間で教科書などの学用品をそろえるとクラス発表と初授業がある。今年入学した第一期生は六〇名。一般教養も学ぶ関係か、学生は一五歳と一六歳、一七歳から一九歳、二〇歳以上でクラス分けされる。シエラが含まれる錬金術学科一七歳から一九歳のクラスは二クラスになり、クラス分け発表の書類にはB組とあった。何となく嫌な予感がして自分以外の名前を探すと、案の定リナリアの名前もあった。

 小さな失望感を覚えながら教室へ向かう。クラス表と一緒に渡された学校内の地図には、四つの塔を回廊がつなぐ元は修道院だった建物と、実験棟や校庭などの位置が記されている。それを頼りに教室へ向かうと、既に席は半分以上が埋まっていた。リナリアの席は一番前で、真後ろの学生が黒板を見づらそうにしていた。

 最初に魔術の概要を確認するような授業があった。新政府によって作られただけあって、基礎的なことは学習済みであることを学生に求めるようだった。シエラは時々、別の学生が先生に指されて発せられる答えを、教科書と照らし合わせながら確認していった。

 魔術には北のアイマト地方由来のものと、東のアシレミア半島由来のものがある。現在主流なのはアイマト由来の魔術で、それは自然を人間の手で制御しようという姿勢で臨まれる。初めは森の中で暮らし、自然と共生しようとしていた魔術師たちが、次第に大きな

望みを叶えようと森の外へ力を求めたのが、アイマト魔術の特徴を決定づけたという。

 その自然観を説明するために講師のマルチニー先生が教室に運び込んだのは、ストリングス・スフィアと呼ばれる立体モデルだった。それは地水火風それぞれを象徴する色に塗り分けられた弦が幾重にも張り巡らされて球体を構成している。

 四十がらみで声楽家のようにきれいな声を持つマルチニー先生は、そのうちの一本に触れた。シエラの位置からは見えなかったが、弦に触れることで弦は揺れ、その揺れがつながっている別の弦にも伝わったらしい。共鳴と呼ばれるその弦の揺れこそが魔術の発現だとマルチニー先生は言った。

 地水火風にはG、D、A、Eの系統が割り振られ、それぞれ一五種類のフレットナンバーが与えられている。小さくなるほど効果が大きくなる番号を、それぞれの目的に定められた音程や音階によって詠唱しわけることで、ピッチと呼ばれる呪文が同じでも違った効果が生み出せる。これはかつて森の外で迫害されていた魔術師たちが、魔術と自分自身を守るために、音楽用語を隠語として使ったのが始まりだと言われ、大陸を席巻するほどに成長した現在でも使われ続けている。

 三日間、合計で三時限に渡る概論の後、基礎技能実習と称して、実際に魔術を使ってみる機会が与えられた。クラス内で二人一組になって、与えられた物質に錬金術的な処理を施すという課題だった。シエラは一つ前の席に座っていたマテウス・ブリエンツという学生と組まされることになった。自分と同じく茶色の髪をしていたが、快活そうな光をたたえた目は自分と違う性質を宿して見えた。

 与えられた物質は何の変哲も無い石炭だった。マルチニー先生の説明によれば、これを錬金術的に処理したものを微細に砕き、生地にすり込めば水を弾く特殊な生地が完成するということで、アイマトでは既に一〇〇年以上前から使われているということだった。

 授業の最後で組分けが発表されたので、実際に魔術を行うのは次の授業からということになった。基礎的なことは学んできたが、撥水生地のことはお互い何も知らないから、シエラとマテウスは自己紹介がてら図書館に向かった。

「お前はアペンセルか。俺はスクオールだけどな」

 図書館への道中で、最初に互いの出身地を教え合った。どちらも終アストラル戦争ではあとから新政府軍に参加した教区である。新しい時代の中でも出遅れた感の否めない教区同士とあって、マテウスは親近感を持ってくれたようだった。

「やっぱりスクオールは新政府の中じゃちょっと出遅れてるからな。アンセルベルグとかリンファーデンの出身だったらどうしようって思ったけど安心したよ」

 誰とでも仲良くなれそうに見えて、彼なりに壁を感じることはあるらしい。旧体制を倒した新政府は、元々南部のアンセルベルグと西部のリンファーデンが主導したもので、要職もその二教区出身者で占められている。旧体制が揺らいだのは、それまでずっと使われてきたアストラルパワー減少が原因だが、新政府とは別の方針を採って当初敵対していたのが、スクオールとアペンセルだった。

「でもせっかく新しい時代になったんだから、昔のことで考えすぎない方がいいよ」

「そうだな。そのうち他の教区の連中とも普通に話せるようになるといいな」

 第一印象に違わず、マテウスは明るい笑顔を見せた。それにつられたようにシエラも笑みを浮かべる。昔のことを思うと辛くなるけれど、生きて新しい時代に足を踏み入れた以上、明るく笑って過ごすのが自分に課せられた義務のように思えた。

 図書館で撥水生地に使う石炭のことを調べると、服によっていくつもの種類があることを知った。雨の日に着るような上着が代表例だったが、料理で着るエプロンに使われるものとは手触りや見た目の印象が違う。講師に指示されたのは雨に耐えられるような耐久性をも付加できる物質の作成だったから、代表例を参考にすればいいだろう。

 貸し出し手続きを終える頃には、同じような目的を持ったと思われる学生たちが集まってきて、本を探し回っていた。彼らに先んじることができたのがちょっとした優越感を生む。基礎の部分において一歩先へ行けたような気がした。

 実践の機会は三日後にやってきた。学生たちは実験室に集められ、二人一組になって準備を行う。シエラの前には、マテウスが用意してくれた魔術円がある。エメラルド紙という紙にカエルレウムという青緑色の顔料によって描き出された図形の上に、配られた石炭がある。魔術円は、魔術によって発生した効果が外部へ広がるのを防ぐと同時に、反応を抑えたり促進したりする効果がある。これがうまくいかないと思わぬ事故を生むから、事前準備を怠るなと学生たちは厳命されていた。

 シエラは指先から肘ぐらいの長さの杖を取り、先端を石炭に向ける。準備を終えたことで役割を果たしたマテウスが見守る中、シエラはピッチと呼ばれる呪文を詠唱した。

「E、フレットナンバー、セブン」

 Eは風の元素に割り振られた系統だ。四つの系統に一五のフレットナンバーがあり、それぞれメジャー、マイナー、ナチュラルの三種類がある。これをキーと呼び、今回はメジャーを利用した。音楽の長調と同じ明るい響きに反応したように、魔術円が微光を放つ。ピッチが効果を発揮し、魔術円も役目を果たしている証拠だった。

「A、フレットナンバー、ファイブ」

 すかさず火の元素に割り振られたAのフレットナンバーを、メジャーキーで詠唱する。最初に空気中の成分を集め、ごくわずかにGの効果を与えた。普通にピッチを使うと効果が強すぎるので、共鳴を利用して微かな効果を得る。続いて与えた火の効果は加熱処理である。

石炭が数秒間赤熱した後色をなくしたことを確認してからマルチニー先生のもとへ持っていく。講師はピンセットで石炭をエメラルド紙の上に置いた。そして杖を取り出し、Dのフレットナンバーを詠唱する。

「これがもしうまくいっていれば石炭から滴が飛び出し、失敗作なら石炭から水蒸気が出ます」

 説明を聞きながら二人で固唾を呑んで見守った。果たして石炭から水滴が飛び出し、魔術円が描かれた紙に染みこんだ。

「おめでとう、成功ですね」

 マルチニー先生は丸い顔に優しい微笑みを浮かべた。思わず二人は互いの手を叩きつけるように握り合い、まだ授業中ですと先生にたしなめられた。

 他の人が終わるまで待っているように言われて席へ戻る。その途中でリナリアとすれ違った。入学式の時と同じような鋭い目つきを一瞬向けられた。彼女があれほど無愛想にする理由はまだわからない。そもそも近づく機会さえない。

 リナリアもまた成功を告げられていた。大きな体が胸をなで下ろしたように動いたのを見ながら、ちょっと相談してみようとシエラは思った。

 放課後、シエラはあらかじめ決められていた喫茶店へ向かった。一見してとても営業しているとは思えない建物だったが、戸を開けるとちゃんと客がいた。店の奥にカウンターがあって、そこにマスターらしき男がポットを持ったまま迎え入れた。学生らしき年頃の客はおらず、場違いな感じさえ受けてしまう。

 シエラは隅の席に座っていたクラウスを見つけ、彼の前に座った。本を読んでいた彼に声をかけると自然に笑い合えた。

「学校はどうかな」

 お互いに紅茶を注文した後、最初にクラウスが口を開いた。シエラは取り組んだ課題がうまくいったことを話した。言葉を重ねるほど成果が嬉しくなって、自分にしては多く言葉を重ねているのがわかった。クラウスは静かに相槌を打ち続けた。

「水に対抗する生地なんて、アストラルパワーがあれば必要なかったのに」

 魔術が普及する以前なら、服が水に濡れるのを防ぎたければアストラルパワーによって守ってもらうだけでよかった。きっと一分もあればその処理は完了しただろう。今日のように、どこからか原料を持ってきて、調べ物をした上で処理を施す手間など考えられず、いかにクレアストにもたらされた力が便利だったか思い知らされた。実際には、錬金術的な処理を施した石炭を生地に練り込む作業があるから、自分たちはまだ魔術の入り口をのぞいたに過ぎないのだろう。

「悩み事はないか。どんなことでもいい。たとえば学校生活の悩みとか」

 紅茶が運ばれてきた。シエラは角砂糖を一つ入れ、カップの底で砕いてかき回した。口を近づけたが少し熱すぎて、シエラはカップをソーサーに戻した。

 思い切ってリナリアのことを言うと、彼はよくある話さと気楽に笑った。

「何十人と集まれば何の理由もなく嫌う者だって出てくるよ」

「そんなもんかな」

「そうだよ。きっとそれは、本人に訊いてもたいした答えは返ってこないだろう。せいぜい嫌なものは嫌というぐらいかな。君も無理に関わらなくていい」

 自分に原因があるわけではないと言ってくれたような気がして気楽になった。考えてみれば、彼女と一緒にいた二人の男たちは好意的に話をしてくれた。リナリアが理由もなく自分を嫌うのと逆の態度で接してくれる人もいると思えば明るくなれるし、マテウスのような良い仲間もいる。

 今の仲間と昔の仲間。どちらを大事にしたらいいのだろうと思う。触れることができるのは現在だけれど、自分のことをよく知ってくれて、時には命を救ったことさえあるのは昔の仲間だ。マテウスらと仲良くすることさえ裏切りに思えてしまう。けれど悩みとして口に出せるほど言葉でうまくまとめられず、シエラはそのままクラウスと別れた。

 クラウスが見つけてくれた下宿に続く道中、路地と噴水公園が交互に現れる。街の中に全部で一一あるという噴水は全て違ったデザインで、カナーネンの代名詞でもあった。

 アストラルラインが見え始める時間帯の公園には多くの人が行き交い、噴水の周りには人待ち顔の人々がたむろしている。シエラはその中にマテウスを見つけた。声をかけようかと迷っている内に向こうからこちらに気がついて名を呼ばれた。仕方なく近づくと、食事に誘われた。

「他のクラスの奴と待ち合わせなんだ。お前も来るか」

 人なつっこく笑った彼に引き込まれるようにシエラは頷いた。マハナイムの天使たちが脳裏にちらついたが、今を楽しく生きていくことは間違っていないと半ば強引に自分を納得させた。

「よし、じゃあちょっと待ってろ。そのうち来るはずだから」

 マテウスはいっそう明るく笑った。見ていると沈んだ気持ちを引き上げてくれるような顔だった。

 シエラは柵に寄りかかって何気なく公園内を眺めた。それぞれ自由な方向へ歩く人の流れが折り重なって、奥の景色は見えづらい。一瞬だけ奥が見通せた時、シエラは柵から腰を浮かせた。

「エルマ!」

 やや季節外れのロングコートを羽織った金髪の少年の後ろ姿に、思わず声を上げていた。するとざわめきの絶えない公園内にもかかわらず、彼は振り向いた。

「何だよ、シエラ」

 遠くに聞こえたマテウスの声に答えることも忘れて、シエラは少年の顔に見入っていた。

 一瞬少女と見紛うような端整な顔は変わっていない。その顔で笑っていた。しかし激情を覆い隠すように引きつった異様な表情だった。通行人もその異様さを感じ取っているのか、彼の周りを避けて歩き去る。

 両端をつり上げた唇が動いた。言葉は聞こえなかったが、読み取ることはできた。

 ようやく、見つけた。

 そして彼はコートの裾をはためかせて人混みへ消えた。追いかけようとしたが、マテウスの声に引き留められる。

「何だよ、知り合いがいたのか」

「ああ、でも見間違いだったのかな」

 適当な返事をしながらシエラは、去り際に見た表情と唇の動きを思い、背筋が凍る思いを味わった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第二章 大切ないま

 

 アストラルラインが純色を保つ期間は短い。緑色をしていた四月の光も、五月になると青みが混ざって純色の鮮やかさが失われる。その光は古来アストライブの大地をも照らしてきた。道に沿って等間隔に置かれた街灯はクレアストの魔術研究家が作ったものだが、自分の足下しか照らせていない。二つの光を比べると、クレアストにおける魔術の水準が推し量れるようで寂しい。この国の魔術は自然光にはまだ遠く及ばないのだ。

「全てはこれからだな……」

 クラウスは子供の頃から故郷の空に見てきた光と、カナーネンで暮らすようになって初めて見た人工の光を見比べて呟いた。

 ある区画にさしかかると、クラウスは突然駆け出して物陰へ飛び込んだ。そこで人気がないことを確かめると、あらかじめ考えておいたとおりの順番で物陰から物陰へ飛び移り、路地を駆け抜ける。たどり着いたのは裏通りで、おあつらえ向きに人の気配は感じない。

 道の向こうへ走り抜けたクラウスは、薄い上着のポケットから魔術円の描かれた符を取り出してドアノブに押しつける。そしてピッチを紡ぐ。

「G、フレットナンバー、フィフティーン」

 音階を正確に守り、指定された通りの調子で言葉を紡ぐ。今回は他のストリングと共鳴しないナチュラルという、長調と短調の中間に位置する調子だった。

 果たしてピッチを聞いた魔術円は手のひらの上で青緑の光を放ち、ドアノブの裏に貼り付けられたもう一枚の魔術円と反応して鍵を開く。闇の中へ身を滑り込ませて注意深く鍵をかけた瞬間、闇の奥に小さな火が浮かび上がった。その火はゆらりと落ちてからキャンドルに灯り、たおやかな人影を照らし出した。

「A、フレットナンバー、サーティーン」

 マイナーキーの低い響きが、その人影の周囲から漏れた。それに応じて奥から順番に、壁際のキャンドルに火が灯っていく。充分とはいえないまでも、火を灯したアディナ・エアハルトの表情を見るには不自由しない程度の光が満ちた。

「ずいぶんのんびりしてるじゃない、クラウス」

 毛先にかけて波打つ、肩まで伸ばした髪が特徴的な女性だった。誘うようにマッチの燃えかすをもてあそぶ姿は、熟練の舞台女優のように洗練されて見える。

「まだ約束の時間には一〇分の余裕があるはずです」

 からかうような言い方に少しむきになって言い返しながら、クラウスはアディナの向かいに腰を下ろした。元々は閉店して長く放置されていたバーで、椅子や机は入れ替えたものの、新品を入れるほどの手間はかけていない。体重を受けた椅子はきしみを上げた。

「戯れ言の一つでも言ってみなさいな。女に慣れてないのが丸わかりだよ」

「別にそんなことないですよ」

 軽薄な声でかなり痛いところをつつかれ、辛うじて言い返す。アディナはたった一つしか言い返せない自分を愉快そうに見つめてからおどけたように両手を広げた。

「まあ、アディナ先輩でよかったらいつでも付き合ってあげるけど、それはまた今度にして、さっそく仕事の話をしようか。魔術符出して」

 クラウスは入室に使った魔術符をアディナに手渡した。彼女は自分のものと重ね、おもむろにキャンドルにくべた。一瞬で紙は火に包まれ、黒焦げになってキャンドルの根元に落ち、蝋をわずかに溶かして沈黙した。

「次のはこれね」

 燃え尽きたのを確認してからアディナは新しい魔術符と、楽譜の形を取って書かれる新たなピッチを渡す。それを上着の懐にしまったクラウスはシエラのことを切り出した。

「元気でやってる?」

 アディナにとっても関心事だったらしい。今まで装っていた軽薄さが薄くなった。

「友達もできたみたいですし、魔術を実践したのがうまくいったって喜んでいました」

「そりゃよかった。いきなりつまずいたんじゃ先が思いやられるからね」

「大丈夫ですよ。あの子はうまくやっていけます。学校で知り合った仲間を大事にすることへの葛藤はずっと続くでしょうけど」

「だからって辞めようとしたら、ぶん殴ってでも止めなきゃね。あんたが学校に入るのにどれだけの人間が骨を折ったのかわかってんのかーってね。それはクラウス、あんたの役目だよ」

 愉快さを装っていたが、アディナの目は真剣だった。学校運営に関わる理事たちなどはシエラの入学に猛反対した。自分の熱意も少しは役に立っただろうが、最終的にはフレーベル校長の来る者拒まずというおおらかさに尽きる。

 入学が決まった後も、シエラが安全であることを証明するために自分が監視することになったし、彼が生活費を稼ぐためのちょっとした仕事を紹介するのも仕事の一つとなった。何より、講師や教授に払う給料の出所は、学生ではなく新政府の国庫である。シエラは手厚い支援を受けているだけでなく、特殊な事情から普通より多くの人間に支えられて学校へ通うことになる。それに報いるには、何が何でも卒業してもらうしかない。

「ぶん殴ってでも、ですね。大丈夫ですよ。でもきっと、その気負いは無駄になります。シエラくんはそんなに不誠実な子じゃないですよ」

 アディナは柔らかく笑った。これからどうなるかを楽しみにしているようだった。

「内側はともかく、今は外側が問題だね。マハナイムの天使たちが関わってるのかどうか知らないけど、今日学校を取り囲むようにカエルレウムが埋め込まれているのが見つかったんだよ。敷地内には何もなかったから、意図はわからないけど」

 カエルレウムは魔術円を描く時に使われる青緑色の顔料だ。石英と孔雀石から成るそれをインクにして、エメラルド紙の上に図形を描くのが一般的な使い方である。しかし広範囲に効果を及ぼしたい時は、あらかじめ地面にカエルレウムを魔術円の形に埋め込んでおく。一年前にマハナイムの天使たちを襲撃した時に採られた方法で、シエラの役目はその場所へ天使たちを誘導することだった。

「魔術学校の警備を担当しているドリズルの落ち度になりかねませんね。外の警備を強化しないと」

 終アストラル戦争の後、自分が所属することになった部隊の名を口にしたクラウスは、不意に一年という時間経過を思った。一年前はまだ新政府軍の兵士に過ぎなかったが、一年を経て新政府軍の諜報を担当するドリズルに参加するようになった。反体制的な動きを察知するのが主な役目だが、その一環でクレアスト新政府が設立した魔術学校の警備も行うようになった。魔術において、少なくとも三〇〇年は先を行っている他国に追いつくために、その可能性を秘めた学生たちを養成する魔術学校を守り切らなくてはならない。

「まあ、カエルレウムのこと以外に問題はないか」

「それが、シエラくん人間関係で悩んでるみたいで」

「友達ができたっていうのに?」

「そういうことじゃなくて」

 以前会った時に彼が吐露した悩みを伝えてやると、アディナはげんなりした表情でしょうがない奴とぼやいた。

「わかったよ、何とかするよ」

「お願いします」

 これでシエラが少し楽になってくれればいいのだがと願いを込めて言った。彼の行動によって人の命が失われている以上擁護しきれない部分もあるだろうが、自分の役目は彼が無事に卒業するのを見届けることだ。シエラの過去よりも今をしっかり見ていこうとクラウスは決意を新たにした。

 

 学校で一人昼食を摂るのは久しぶりだった。入学したての頃は知り合いもいなかったが、今はマテウスという友人がいる。気さくで人付き合いも良い彼を介して知り合いも増えた。いつも誰かしらと一緒にいることができたが、今日に限って誰とも会えない。特にマテウスは、授業で行われた小テストの成績が悪かったせいで、休憩返上で補習を受ける羽目になってしまった。よほど点数が低かったのだろうと哀れに思いながら、シエラは知り合いがいなかった頃によく来ていた場所に足を運んだ。

 四つある塔のうち、正門から最も遠い場所に立つ四番塔の根元である。高い塀のせいか日当たりが悪く、朝から気温の上がった日にもかかわらず涼しく感じる。

 塔の根元にまでは塀の影は伸びていない。シエラは隙間のような日向に腰を下ろして、学校内の売店で買ってきた昼食の包みを開いた。刻んだベーコン入りの小麦粉の団子を葉菜で包んだ、アンセルベルグで盛んに作られている料理だ。手のひらに乗る大きさの五個入りのそれに、温められたクリームチーズをかけて食べる。乳製品、特にチーズが盛んに作られたクレアストでは、様々な料理に使われる食べ方だ。

 チーズの、深みのある味を感じながら、耳では鳥のさえずりを聞いていた。もっと耳を澄ませてみれば遠くに誰かの明るい声も聞こえてくる。楽しげなそれは、聞くだけで共感できるものだった。

 ふと羽ばたく音が聞こえた。シエラははっと振り仰ぐ。頭上を鳥が飛び去っただけだった。それが天使の羽ばたきにも聞こえて、今も胸が落ち着かない。四月、突然姿を現したエルマのことが頭をよぎった。

 彼と言葉を交わしたわけではない。他の天使たちと会ってもいない。あれ以来警戒は強めたが、全く接触はない。けれど狙いなら一つしか思いつかない。もしかしたら全てを水に流してくれるのかとわずかに期待もしたけれど、我ながら虫の良い願いだと思った。

 もしも何かが起きるなら、クラウスらに任せるしかない。武器のない自分にできることはないし、それは自分の役目ではない。

 三つ目の団子を口にした時、足音を聞いた。他人が来るとは思っておらず、少し驚いて振り返る。

 そして団子にかじりついたまま動きを止める。そこに立ち尽くしていたリナリアは、気まずそうに目を伏せた。

「いいかしら」

 お互いにしばらく沈黙した後に、リナリアは目を逸らしたまま口を開いた。意図が飲み込めずにいると、そこに座ってもいいかしらと重ねてくる。戸惑いながら応じたシエラは、言葉を交わしたのは入学式以来だと思った。

 その時は礼服姿だったが、昼休みのリナリアは裾の長い長袖のブラウスと緩やかな広がりを持ったスカートで、見た目の派手さを抑えた私服だった。背丈のことを除けばどこから見ても女性である。男の格好を好みそうなイメージが、勝手な思い込みだったことを思い知らされた。

「ありがとう」

 視線を合わせることはなかったが、感情のこもった礼を口にしてくれた。最初の不機嫌さからすると意外だったが、ブラウスの上に羽織っているのは、彼女の上背に合わせてあつらえたのがわかる短い上着だった。

 少し離れたところに腰を下ろしたリナリアはバスケットを開き、中身を手に取った。一口大に切りそろえられたパンから葉菜がはみ出ている。シエラが食べたかったサンドイッチだが、買いに行った時は売り切れていた。

 もしかしたら自分で作っているのだろうか。明らかになっていく女性らしい内面が気になったシエラの視線に気づいた様子もなく、彼女はサンドイッチを食べ終え、続いて焼き色のついたマイスブライを手に取った。元々はトウモロコシから作るおかゆで、アシレミア半島にも同じ料理があるという。移住したマハーブ族が持ち込んだと言われているが、クレアストでは更に、あぶったものを冷やして固め、持ち運びしやすいようにする食べ方もある。冷やして固めるのが手間だからか、それなりの店に行かないと見られない。

 これさえ自分で作っていたらすごいと思いながら見ていると、さすがに視線に気づいたらしい。じろじろ見ないでよとばかりにきつくにらんできて、慌てて目を逸らす。食事中を見つめたのは確かに失礼だった。

「よお、仲よさそうだな」

 不意に太い声が聞こえた。振り返るとガウラとビロウがやってくる。相変わらず気さくなガウラは、見上げるシエラの頭へ無造作に手を置いた。

「もう少し待っていたら一緒に食べられたんだが」

 リナリアに向け、ビロウが言った。それには答えず、リナリアはそっちが先にいただけですよと無愛想に返事をした。

「相変わらずこらえ性のない奴だよな」

 言いながらさりげなくリナリアに近づいたガウラは、その体格の良さに似合わない軽やかな動きで、彼女が手に持っていたマイスブライをつまみ上げ、止める間もなく食べてしまった。

「ちょっと何するんですか」

 立ち上がって抗議するリナリアは足下がおろそかになった。その隙を狙ってビロウはバスケットから残りのサンドイッチを拾ってシエラに投げてよこす。とっさに受け取ったそれは、レタスの中に燻製肉を包んでいた。

リナリアの料理はうまいぞ」

 ビロウはその細面でにやにやと笑っていた。食べてみろというのだろうが、リナリアがすごい目つきで三人をにらんでくる。どうしたらいいか迷った末にシエラはサンドイッチを返そうとした。

「いらないわよ。せっかく取ったんだからちゃんと感想聞かせてよ」

 突き返されたものをシエラはおずおずと口に入れる。三者三様の目つきで見つめられて居心地が悪い。それでも抑えの利いた香辛料の味と燻製肉の固さは相性がよく、おいしいというつぶやきは自然に漏れた。

「当然よ」

 そう言いながら、リナリアは笑みを無理に抑えているように見えた。ちょっとしたことに礼が言えるのだから、ここでも素直になればいいのにと思わずにいられない。

「人のを盗らないでくださいよ」

「だってお前が作ったのうまいじゃん」

「だからって。わたしがどれだけ苦労して毎日作ってると思ってるんですか。干し肉や燻製肉を一から仕込んだりマイスブライを冷やして固める手間も知らないくせに。今日使った野菜だってわたしが土と肥料にこだわった家庭菜園で種から丹精込めて作ったものなのに、横からいきなり来てつまみ食いなんてひどすぎます」

「じゃあ俺たちの分も一緒に作ってくれよ。三人分増えたってお前ならできるだろ」

「勝手なこと言わないでください。だいたい何で三人なんですか」

 ガウラは笑顔のままで、自分とビロウ、そしてシエラを指さした。

「そんな暇はないですから」

 きっぱり言い捨てて、リナリアは残っていた料理をほおばった。喉に詰まらせかねなかったが、やがて全て飲み下してすっきりした表情を見せた。

「ガウラ、そろそろ行くぞ」

 やりとりを眺めていたビロウに言われたガウラは、リナリアをよろしくなと言い残して立ち去った。再び二人きりになると、さっきとは違った重苦しい空気が立ちこめる。旧知の間柄らしい二人とはともかく、まだ自分と打ち解ける気はないらしい。

「何だか、ごめん」

 シエラとしては家庭菜園を作ってまで収穫した野菜を無造作に食べてしまったことを謝ったつもりだが、何の話とばかりに彼女は首をかしげた。その仕草が意外と似合うと思うのは、体格に似合わないまめさからだろうか。

 リナリアは上着の懐から懐中時計を出し、時計を見てから顔を上げた。

「わたしもそろそろ行くわ。この後ゼミナールだし」

 昼食休憩が終わったら、学生たちは年齢の区別なく二番塔へ向かう。そこには外国から招かれた教授たちに与えられた研究室が集まっている。アイマトやリーゼンラントといった、魔術における先進国出身の教授たちから学ぶゼミナールが今日から始まるのだ。

 担当教授のことを訊こうと思った時だった。

「どいてーっ! どいてどいてどいてーっ!」

 頭上から振ってきた甲高い声に振り仰いだシエラは、信じられない思いで固まった。黒髪の女の子が突っ込んでくる。それだけでも衝撃的なのに、彼女は何故か箒にまたがっていた。掃除道具が何で空から落ちてくるのだろう、そもそもそれにまたがる女の子はどういう精神構造をしているのだろう。いくつもの疑問がシエラの動きをがんじがらめにして、その間に彼女は立ち尽くすリナリアに猛烈な体当たりを食らわせた。二人とももんどり打って倒れたが、それだけにとどまらず、塀にぶつかってようやく止まった。

 シエラは二人が上げるうめき声で我に返った。混乱から覚めると、これは大事故ではないのかと冷静な思考が慌てだす。人を呼ぶべきか自分で応急処置をするべきか。そもそも道具が何もないのに自分で何ができるのか。右往左往している内にリナリアが塀に手をつきながら立ち上がった。

「大丈夫、か?」

 おそるおそる訊いてみると、唸りに近い声を出しながら頷いた。服は汚れ滑らかな金髪も乱れてしまったが、立ち方は安定していてけがをしているようには見えない。

 心配はもう一人の少女だったが、彼女も箒を支えにして立ち上がる。うめきを上げていたが、事故さえ楽しむような軽薄さがあって、それが逆に余裕を感じさせた。

「あはは、ごめんね、ちょっと事故っちゃった。じゃあね」

 すぐ隣で立ち上る強烈な殺気から逃れるように明るく笑って、箒と一緒に走り去ろうとする。逃げる少女の首根っこをリナリアが素早く押さえた。

「他に言うことはないのかしら」

 押し殺した声と完全に死んだ表情は殺意にも似た迫力を宿していたが、黒髪の少女はどこ吹く風とばかりに笑顔を絶やさない。あくまで笑ってごまかそうとしているらしく、おどけて手を振って逃れようとしている。

「だから事故だって言ってるじゃん。一度や二度の過ちを許すこともできないなんて大人げないと思わないの?」

「ふざけたこと言わないで。だいたいわたしはまだ一九で大人じゃない」

「だったらあたしも一五だから子供だよ」

「それがどうしたって言うのよ。とにかく謝りなさい」

 最後の言葉は意地がひねり出したように聞こえた。二人のやりとりを見ている間に時間も過ぎていく。赤銅色の肌をして、厚手の生地で織られたシャツと、同じ素材で作られた短いパンツを身に着けた姿は、学校より野山や牧場で家畜を相手に働く方が似合うようにも見えるが、学校にいる以上学生だろう。自分たちと同じく、これから大事なゼミナールに出なければならないはずだ。

「二人とも、もうそろそろ行かないと」 

 意を決して二人の会話に割り込んだが、リナリアに邪魔をするなとばかりに睨まれた。時々見せる目つきの鋭さは、普通の生き方では身につかなさそうなすごみがある。言い募ろうとするとその時背後で高く短い悲鳴が聞こえた。

「あ、ちょうどよかった。アリー、この人に事故だったってちゃんと説明してよ」

 背後に向けられた気楽な声に振り向くと、蒼白な顔を引きつらせて小柄な少女が立ち尽くしていた。リナリアよりも茶色の髪を長く伸ばし、ブラウスとすねまでの丈があるスカートは、シンプルながら学生然とした清潔な身なりに見えた。

「……事情を説明してくれるかしら」

 絶句している少女に、すっかり気が立った様子で問いかける。ただでさえ混乱しているところに、迫力に満ちた眼差しに射貫かれて顔がゆがんだように見えた。思わずシエラはリナリアの視線を遮るように立ちはだかった。

「落ち着け、この子を怖がらせても仕方ないだろ」

 すると意外なほどリナリアは簡単に冷静さを取り戻したようで、素直に謝ってくれた。それから改めて、柔らかな口調で事情を尋ねた。気まずいのか、仏頂面を伏せて言葉を重ねるが、少女は訥々と語り出した。

「あの、その子、セディが箒で空を飛ぶって言い出して」

最初に突っ込んできた少女を思わず見た。他に説明しようのない状況だが、本当に箒を使って空を飛んできたとは信じがたい。

「何でそんなことを」

 魔術師の卵としては、墜落したとはいえ箒で空を飛んだ方法を知りたかったが、好奇心は空を飛ぶために箒を選んだ理由が気になった。見たところ何の変哲も無い箒だが、実は材質や構造にすごい秘密が隠されているのかもしれない。

「だってかわいいじゃん」

 その簡潔な答えに、シエラはいろいろな意味で絶句した。掃除以外に使い道のなさそうな箒に、空を飛ぶという人類開闢以来の夢を託して、挙げ句無関係の人間に体当たりをかまして、謝罪を強要されている。彼女が箒にまたがって空を飛ぶ姿を想像してみたけれど、どうやら価値観や審美眼が違いすぎるらしい。一言で言って変だった。

「ええと、今日ちょっとEストリングスを使った実習をやって、それで思いついたみたいで、この子は思いついたら他人の話を聞かないから、突っ走って、その」

 アリーと呼ばれた少女は、必死にセディと呼んだ少女を弁護する。端で聞いていて火に油を注ぐ結果になりかねないと心配になるような怯えた語り口だったが、リナリアはもういいとばかりに手を振った。

「言いたいことは色々あるけど、時間もないからもういいわ」

 そう言ってリナリアは立ち上がった。何故か少女の首根っこは押さえたままだ。当然抗議の声が上がる。それを黙らせるように、彼女は拳を握って脳天に振り下ろした。

「これで許してあげる」

 すがすがしい表情を浮かべたリナリアからようやく解放された少女は、不満げな顔をして頭をさすりながら、颯爽と立ち去るリナリアを目で追いかけた。シエラも二人に会釈して彼女を追う。

 二人の少女に再会したのは、担当教授であるスミス教授の研究室へ向かう途中だった。リナリアは露骨に嫌そうな顔をしたが、彼女たちも同じ場所へ向かうというのだから仕方がない。シエラが率先して二人に挨拶すると、二人とも笑顔で応えてくれた。

「あたしはセドナ・ゴシュート、呼び方はセディでもいいよ」

「アリヤ・ハンチです。わたしもできればアリーって呼んでください」

 足を止めて二人と握手を交わす。リナリアも、アリヤとは気まずそうに、セドナとは嫌そうに名乗り合ったが、二人とも気にしていないように明るさを保った。

 四人で急いで向かった研究室では、アイマト連合王国出身であるスミス教授から班分けが発表された。後で振り返った時に同じ研究室だったことを劇的だったと思えそうな出会いだけに留まらず、アリヤとセドナとは班まで同じだった。そこまで来るとリナリアも覚悟を固めたのか、やけに吹っ切れた表情で班別研究についての説明を聞いていた。

 ゼミナールで学生に課せられたのは、個人で取り組んでレポートの形式で提出する個人課題と、四人一組の班で成果を提出する班別研究だ。個人研究の内容が記された紙が各人に配られる。シエラが受け取ったものには占星術の杖の芯に使う水晶を作り出す方法を調べてくるようにとあった。

 班別研究も占星術に関する課題だった。錬金術は自然の状態によって成果に差が出るものだが、それを星の動きから知る方法が占星術である。それを目に見える形で提示するのがホロスコープで、それはプネウマ紙という紙の上に表れる。最高品質のものは金や銀をいった高価な金属を七種類も使うが、錫や鉛など比較的手に入れやすいものだけを利用した廉価版も存在する。提出課題の品質が高まるほど評価は高まるが、廉価版をしっかり作り上げた方が確実だというのが四人の総意となった。

 一週間図書館に通い詰め、プネウマ紙の構造と作成方法、クレアスト国内で原材料を手に入れられる場所を手分けして調べ上げ、最後に錬金術用の原材料採集地として名高い、リンファーデン教区内のベルト村へ、四人の予定が合う二週間後の休日に向かうことを確認し合って一区切りがついた。初めて出会ってから二週間近くが過ぎていて、アストラルラインの色も青みが強くなっていた。

「やっとフィールドワークができますね」

 下宿への帰り道が途中まで同じのアリヤが話しかけてくる。初めの頃はなかなか話すことが見つけられず、ろくに言葉を交わせず別れることもしばしばだったが、二週間近く同じ目的に向かって調べ物をしているうちに、人となりもわかってきた。

「楽しそうだな」

 常に控えめで、自由奔放なセドナとは対照的な感じのアリヤにしてははしゃいで見えた。

「だって錬金術は汗を流すのが仕事ですから。やっと錬金術らしいことをこの手でできるなって」

 調べ物をおろそかにしていたわけではない。ただ、読書家のように部屋の中で過ごすのが似合いそうな見た目に反して、外で働くことを好むようだった。

「まあ、何とかここまで来られてよかったよ。最初はどうなることかと思ったけど」

 最初の出会いとなった事件の当事者であるセドナリナリアの関係が心配だったが、セドナは事件のことなど忘れたかのように明るく振る舞うし、そんな彼女の態度に苛立っているのが言葉の端々に表れながらも、リナリアも我慢を貫いてくれている。葛藤が深まるのを感じるが、悪くない関係だと思った。

「セディは人によってすごく嫌われます。確かに自由奔放で他人のことなんて気にしないし脳天気だから、クラスでも孤立しがちなんです。そういうのを自覚してるはずなのに改めないし」

 アリヤの声音は心配と擁護の間で揺れ動いて聞こえた。短所と紙一重であるセドナの長所を、何とか守ってやりたいと思っているのだろう。二人の人となりは好対照で、お互いの欠点を補い合って見える関係だった。

セドナはアシレミアの出身だったな」

「開化五族の一つから来たって言ってました。だから魔術にも興味があるし、魔術先進国の講師とか教授に教わりたいんですって。アシレミアにはそういうのが少ないそうです」

 いい加減に見えて勉強熱心な一面を見た気がして新鮮な気分になれた。

「アシレミア魔術と争いもあったからか」

 現在大陸で主流となっているアイマト魔術は、席巻するにあたってアシレミア魔術と争った時期があるらしい。やがてアイマト魔術が勝利して多数派となり、それを支持したのがアシレミア半島の開化五族とよばれる五つの部族である。積極的にアイマト魔術を受け入れた彼らだが、クレアストに対して行われた協力がもたらされていないということは、まだ完全な和解には至っていないのだろう。

「ルーツは同じとはいえ違う国なのに、よく来る気になったな」

「行動力があるんです、わたしにはないからうらやましい」

 アリヤは自分のことのように誇らしく語った。彼女が歩いたり首をかしげたりするたびに髪飾りが揺れて音を立てる。羽をかたどった四枚の飾りは、三枚が銀製で一枚が瑪瑙でできている。話の内容をそれに求めると、アリヤは嬉しそうに髪飾りのことを語り出した。

「セディが作ってくれたんです。出身の部族ではこういうのを自分で作って身につけてたそうです。昔からよく作ってたからって、わたしの分も作ってくれたんです」

「よくできてるな」

 水色の光を受けて輝く金属には毛並みが細やかに刻み込まれていた。手に取るまでもなく、よほどの集中力と技術で作られているのがわかる出来だった。

「銀は魔除け、瑪瑙は絆を強くする力があるそうです。他人のためにここまでできる人が、悪い人なわけないですよ」

 だから性格にまどわされずに仲良くしてほしいということだろう。セドナの奇抜な言行には驚かされるが、墜落したとはいえ箒で空を飛んだのは並大抵ではない。少なくとも魔術師としての才能や実力には恵まれているのだ。

「ちゃんと目的を持って外国にまで来てるんだから、それぐらいはわかる」

「よかった。セディは誤解されやすいから。シエラくんがいてよかったです」

 女の子に言われると照れくさい台詞だったが、仲間として頼られていると思うと悪い気はしない。

「シエラくんは魔術師としてやりたいことはありますか」

 人通りが増えてきたところでアリヤが訊いてきた。

「魔術協会に認められて、魔術師になることしか今は考えてないよ。それ以上の余裕も今は持てないし」

 最後の言葉は心からのものだった。友人を作っていくのは当然で大切なことのはずだが、どうしても罪の意識とのせめぎ合いを感じてしまう。

「わたしコンサートマスターになりたいんです」

 そんなシエラの葛藤に気づくよしもなく、アリヤはよく通る声で言った。

 それはとても大きな目標だった。魔術は錬金術占星術に分かれているが、その両方を修めたと認められた魔術師には、魔術協会からコンサートマスターの称号が贈られる。約三〇〇年の歴史がある魔術協会がコンサートマスターとして認めた魔術師は、教会発足以前を含めても一四人、存命中なのは五人である。

 魔術協会から認められ、魔術師を名乗ることを許された者さえいないクレアストでは、実現の可能性は限りなく低い。それでもきらめく瞳を見ていると、アリヤがそれを成し遂げても不思議ではないと思えてくるのだった。

「できるといいな」

 自分の未来もうまく見通せないシエラは、曖昧な返事をするにとどめる。

「できますよ。校長先生だって魔術協会に認められたらもっと上を目指してほしいって期待してるはずです。だから、シエラくんもがんばりましょう」

 フレーベル校長は、自分自身が魔術協会に認められるはずだったのに、その栄誉は若者のものだと言って譲ったという。それだけ自分の後に続く世代に期待しているのだろう。  

 程なくして分かれ道へたどり着く。アリヤの下宿まですぐ近くで、その窓から漏れる光さえ見える。彼女は折り目正しく挨拶をして立ち去った。その姿を見送り、シエラも自分の下宿へ向かう。

 いつしか人通りがなくなり、アストラルラインの光がいっそう強くなる。下宿の世話をしてくれたのはクラウスで、そのことについても感謝しきりだったが、もう少し賑やかなところはなかったのかと思う。うら寂しさが不人気の理由なのか、下宿代は安いから助かってはいるのだが。

「楽しかったかい」

 細やかな氷雨のように舞い降りた声はシエラを包んで足を止めさせた。

 声を追って振り返ると、風を巧みに捕らえたようにふわふわと翼を背負った金髪の少年が降りてくるのを見た。つま先で降り立ち、柔らかに靴底を地上につける。優美な動きに魅入られたようにシエラは立ち尽くしていた。

「この前はせっかく近くまで来たのに、挨拶もできないで済まなかったね。何せ一年ぶりだから、言いたいことがたくさんありすぎて、何を言えばいいか迷ったんだよ」

 一ヶ月ほど前に遠目で見た時とは違って、今日のエルマは上着を羽織っていなかった。綿織りのシャツと着古したような色合いの短いパンツは、一年前と同じく健康的なイメージを醸し出す。そのまま何かスポーツをやれそうな服装だった。

 その快活な印象が、目を合わせるだけで変化する。口元では確かに笑っていたけれど目つきは鋭い。そのいびつな表情の奥に、一年前の激情が行き場を失って荒れ狂っているのが見えた。

 シエラは黙ってその表情を見つめていた。さっきまで感じていた希望が急激に冷めていくのを感じる。エルマたちにしてみれば、自分が魔術学校にいること自体が許しがたい裏切りに見えるだろうが、どんなに責められても自分は生きなければならない。

「何をしに来たんだ」

 慎重に言葉を選び、エルマの両手に注意を向ける。武器を持っていないのは、先走った行動を防ぐためだろうが、エルマは激情に駆られると何をするかわからないところがある。ふとしたきっかけでアストラルパワーをぶつけようと行動を起こすかもしれない。

「君がどんな学生生活を送っているのか気になってね。この前もそうだったけど、友達にも恵まれたみたいで良かったじゃないか。さっきも楽しそうだったし」

 皮肉の感じられないさわやかな口調で言った。お互いが円満に生き延びたのであれば、学校で知り合った人たちのことを話しているところだ。

「さっきから僕ばかり喋っているね。言いたいことがあるなら言えばいいのに。君から聞きたいことはたくさんあるんだ。僕らの命であがなうほど大切ないまなんだから、それなりの理由があるんだろうね」

 声は微妙に歪んで聞こえていた。それは覆い隠していた激情が、抑えきれずにじみ出てしまったのだろう。長い言葉が終わる頃、一瞬だけ笑みを保っていた唇が形を崩した。

「もしかしたら君を許せるかもしれないよ。僕だってできればその方がいいし、テオドルたちもそう思ってる。だって君は僕たちの仲間だったんだから」

 陰湿な言葉には聞こえず、シエラはいたぶられているとは思わなかった。本心からの言葉だとしたら、自分がいまだにエルマたちを忘れられないように、彼も自分を裏切り者と断じるには抵抗を感じているのかもしれない。

「弁解にしか聞こえないだろうけど」

 そう前置きしてから、シエラはあの夜の出来事がどんな経緯で引き起こされたのかを語り出した。そして生き延びた自分が、何を思って魔術学校に入ったのかも話す。

 エルマは黙って聞いていた。笑みを消し、相槌すら打たずに立ち尽くす。全てを語り終えた時、彼は笑みを取り戻して口を開いた。

「シエラ、殺していい?」

 その言葉とほぼ同時だった。彼の右手が持ち上がって光を帯びる。身構える。アストラルパワーをぶつけてくる。

「バーン」

 甲高い声が上がった。それと同時に光は消えた。エルマの笑みは冷たさを増した。

「僕一人が君を殺したら、仲間に申し訳ないじゃないか。テオドルが君に相応しい罰を用意してるんだから。僕たちの気持ちが平等に晴れる、素晴らしい罰だよ」

 聞き捨てならずに訊き返した時、エルマの足はわずかに浮き上がっていた。

「償いがしたいそうだね。だったらその機会を与えてあげるよ」

 エルマの声は楽しげに響いた。

「君はずっと学校にいるといい。その上で僕らの罰を受けるんだ。そうしたら僕らも君を許してあげる」

 飛び去ろうとしたエルマは、思い出したように言葉を継いだ。

「昔のよしみで一つだけ忠告してあげる。君の周りにいる友達が、皆善良だとは限らないよ。君以上に腐った本性を持ってることだってある」

「エルマ、学生は関係ない」

「そうはいかないよ。だって君の周りにエリセバの仇がいるじゃないか」

 言葉が詰まった瞬間、エルマは飛び去っていた。思わず声を上げる。追いすがろうとしたのを理性で止めた。

 エリセバは真夜中の強行軍が襲撃される直前に死んでいる。しかしその相手となった血まみれリーリエと呼ばれた剣士も死んだとクラウスから聞かされた。

 クラウスとエルマ、どちらが嘘をついているのか。今の自分が信じるべきなのはどちらだろう。

 それを確かめる術もなく、シエラは水色の光に照らされた夜空を見上げた。あの夜と同じ音が心を震わせる。それは思い出を揺り起こすような甘美なものでなく、不吉な響きに満ちていた。

 

 第三章 暴かれた真実

 

 かつてアストラルパワーで動いていた列車が発着していたという駅には、今は数百年の時を経て復活した乗合馬車が停まっている。便数、時間の正確さ、速度、一度に運べる人数など、ほぼ全ての面で昔の列車に劣っているが、アストラルパワーが使えず、魔術を使った機械を動かせる魔術師もいない現在のクレアストでは重要な交通手段だった。

 始発が動き出して間もない休日の早朝で、駅舎に客の姿はない。雲一つなく晴れ上がった空を見上げながら、駅員と御者がのんびり言葉を交わして出発の時間を待っていた。

 今年から始まった今朝の天気予報では、国内で雨の降る地域はないということだった。クレアスト国内には主に四種類の気候区分があり、カナーネンが含まれる中部は気温の上がる季節になっても風が涼しく、蒸し暑い西部に比べると過ごしやすい。

 その風が今は全く吹かないので、日なたにいると徐々に汗ばんでくる。準備の時間を短くしようと思って最初からオーバーオールを着てきたことを少し後悔した。

そして四月一日に合わせた時計は集合時間の三〇分前を指している。クラウスがいたら気がはやっていると笑うだろうか。事実、二週間前のアリヤではないが、フィールドワークができることにわくわくしていた。

二週間は、エルマが言い残した罰という言葉に怯える時間でもあった。彼らがどんな罰を下すのか見当もつかない。その恐怖の中で二週間が過ぎたが、特別な動きはない。クラウスもマハナイムの天使が動きを見せたとは言わなかった。

エルマの言葉に嘘があったとは思えない。罰を用意しているという言葉が真実なら、許してあげてもいいという言葉も彼の本心だっただろう。信じがたいものがあるとすれば、エリセバの仇、血まみれリーリエが学校内にいるという言葉だ。クラウスとエルマ、どちらの言葉を信じるか。二週間で答えは出なかった。

暖まってきた空気を吸い込んでため息をつく。エルマのこともクラウスに言うことはできず、一人で抱え込むことになってしまった。心が躍っているのは確かだが、その足取りは軽くない。

ため息をついた時、道の向こうに人影が見えた。最初は短い黒髪しか見えなかったが、徐々に赤銅色の肌や身軽そうな格好などの特徴が見えてきた。

「やほー、シエラくん」

 体に見合った大きさのバックパックを背負ったセドナは、打ち解けた様子で変な挨拶をした。普段着とは違って肌の露出を抑えていたが、やはり綾織りの丈夫そうな綿布に身を包んでいる。クレアストではあまり見ないが、アシレミアではありふれた素材なのかもしれない。

「そんなに見つめられると照れるよ」

 セドナは大仰な素振りで目を逸らした。血まみれリーリエが身近にいるという言葉が気になったが、アシレミア出身のセドナがそうであるはずはない。

「アリヤは一緒じゃないのか」

 今まで経験したことのない組み合わせに不慣れを感じながら訊くと、いつも一緒にいるとは限らないよという答えが返ってきた。

「ここはあの子の住んでる下宿から離れてるし、わざわざ一緒に来るよりバラバラに行った方がいいってことになったの」

「そうか、俺たちはちょっと早すぎたな」

「気がはやってたのかい。あたしもそうだけどさ」

 セドナは丸っこい顔いっぱいに無邪気な笑顔を浮かべた。

「やっと錬金術師らしいことができるからね」

 きっとカナーネンを離れて、自然の中で汗を流すことを言っているのだろう。野山から原材料を手に入れることが専門の仕事も存在するが、そうした仕事に頼るにはある程度の地位や資金が必要になる。錬金術師の駆け出しや学生は自分自身の手が頼りだ。

「楽しそうだな」

 バックパックを降ろし、ベンチに腰を下ろしたセドナの表情は頼もしささえ感じさせた。ルーツとしては同じ人々の国とはいえ、異国に一人で飛び込むだけのことはあると思った。

「そりゃそうよ。アシレミアじゃ満足な勉強もできなかったからね」

「アシレミアにも魔術協会の支部はあるんじゃないのか」

「あるにはあるけど、あんまり活発じゃないね。昔色々あったから」

 そんな環境にあったセドナがどうして、アイマト由来である現在の魔術を学ぶ気になったのか。アリヤからある程度の話は聞いたが、根本的な理由はまだ知らない。

「シエラくんって何で魔術をやろうと思ったの」

 シエラが口を開くより一瞬早く、セドナが問いかけてきた。不思議と冷めた声に聞こえたが、飄々とした笑みを崩していなかった。

「これから必要になるし、勉強しておけば食うに困らないからな」

 嘘はついていないつもりだった。新しい体制の国で生きていくために身につけていくということは、要するに食いはぐれたくないということになる。

「意外と現実的だね」

 褒められているのかどうか判断に迷う言葉を聞いて曖昧な返事をした。

「君はどうしてわざわざ外国で魔術を学ぼうと思ったんだ」

 今のところ、一番気になるのはそれだった。自分ほどではないが、入学にあたって苦労も多かっただろう。

「そりゃあれだよ」

 饒舌なセドナにしては珍しく口ごもった。

「魔術の本性をマハーブの末裔どもに思い知らせにきた」

 シエラは思わずセドナを見た。答えが思いも寄らないものだったのもあるが、声質が低く変わって聞こえたからだ。

 一瞬雲が太陽を遮って陰りを生んで表情が隠れる。それでも目の輝きだけが異様に目立った。

 日差しが戻った瞬間セドナの名を呼んだ。返事をしたセドナはきょとんとした顔を向けてきた。

「何よ、必死な顔しちゃって。あたし何か変なこと言った?」

 からかわれるのを覚悟でシエラはセドナを見つめた。すると本気でどぎまぎしたように顔を背ける。

「やだ、照れる」

 そう言って顔の前で手をひらひらさせた。声はいつもの歌うような調子を取り戻し、さっきの異様な気配は消えている。

「まさかシエラくん、本気?」

「何の話だ」

「いやー、別にとぼけることないんじゃないの? 本気だったらこっちも真剣におねがいしちゃおっかなー。あたしの初めてをあげてもいいとか考えちゃったりして」

「……からかわれているようにしか聞こえないのは気のせいか?」

 一人でおどけてはしゃいでいるセドナへ、ため息を返す。笑いながら彼女は気のせいだよと言った。立ちっぱなしに疲れてきて彼女の隣に腰を下ろす。

「でもさー、シエラくんは磨けばいい線いくと思うんだけどなー」

「適当な口調で言われても反応に困るぞ」

「でもちょっと嬉しいって思わない?」

「思わない」

 きっぱり言ったつもりだが、頬が緩むのが止められない。からかい半分とわかっていても容姿を褒められて悪い気持ちはしないものだ。案の定その表情のことを言われ、頬をつつかれた。

「ずいぶん楽しそうね」

 どこか軽蔑するような冷たい声がすぐ近くから降ってきた。びっくりして振り仰ぐと、いつの間にか作業着に身を包んだリナリアが立っている。その後ろには隠れるようにアリヤがいた。

「もう出発でしょ。遊んでんじゃないわよ」

 妙に不機嫌なのが気にかかった。そして出発の時間までまだ二〇分はある。八つ当たりをされたような気がした。

 しかしセドナが思いを代弁してくれて、リナリアの不機嫌はセドナへ向けられる。それを涼しい顔で受け流す。理由のわからない不機嫌にさらされなくて済んだので安堵した。

「おはようございます、シエラくん」

 かわいらしい声で挨拶したアリヤは、奥地の探検家然としたポケットの多い上着を身につけていた。日差し対策と思われる鳥打ち帽もかぶり慣れているのか、活発な印象の弱いアリヤにも不思議となじんで見えた。

「待ちました?」

「そうでもないよ、一〇分くらい」

「セディと待ってたんですね」

「まあ、楽しく待っていられたよ」

 どうしてもげんなりした笑みになってしまう気がする。どちらかというと、セドナが一方的に楽しんだような時間だった。

「そうですか……」

 何かを考え込むような顔で呟いたアリヤは、後ろで繰り広げられている二人の掛け合いを、様子をうかがうように振り返った。

「何もなかったですか?」

 ためらいがちの問いかけに戸惑って言葉を返せずにいると、何か変なこと言ってませんでしたか、と重ねてきた。

「どういうことだ」

「フィールドワークの計画を立てた後から、何だか変なんです。今日だって一緒に行こうって行ったのに、一人で行くって譲らなかったし」

「バラバラに行った方が効率的だって言ってたけど」

「でも距離的にたいした違いはないんです。時々無表情になったり、わたしを突き放したりするし、そのことを訊くと覚えてなかったりして、とにかく変なんです」

 混乱のただ中にあるような、脈絡のない言葉に聞こえた。シエラも気になってセドナを見遣る。一〇ヌス(約二〇センチ)はありそうな身長差をものともせず、余裕さえ漂わせてリナリアと掛け合いを演じている。さっきからかい半分で言葉をかけた時と同じだ。アリヤが心配になるようなものを抱えているとは信じがたい。

「俺と話している時は別に何もなかったけど。あんな感じだよ」

 一瞬だけ雰囲気や目つきが変わったことは黙っておくことにした。余計なことを言って更に混乱させることもないだろう。

 アリヤは釈然としない様子ながらも、笑みを見せた。環境が違うから疲れてるんですよね、と自分自身が抱える混乱を鎮めようとするように言って、二人に向き直った。

「二人とも、切符買いますよー」

 学校の先生よろしく号令をかけたアリヤに、二人は従った。シエラもあとからついていく。それから二〇分で馬車の発車準備が整う。客車は荷台に客席と手すりをつけただけの粗末なもので、屋根はない。手すりも高くなく、小柄なアリヤなど悪路を走った時縦揺れでもしたら放り出されてしまいそうだった。

「着くまでどれだけかかるんだ」

 二人がけの椅子が向かい合う席に座り、隣に腰を下ろしたリナリアに尋ねた。向かいにはアリヤとセドナが座る。

「二時間あれば着くわ。言っておくけど、これでもかなりマシな方よ。ベルト村は直通の便もあるからこれぐらいで済むけど、リーゼンラントとの国境付近とか、もっと先へ進もうとしたら乗り継ぎもしなくちゃならないから、三倍以上時間がかかるんだからね」

 何かを言いたそうにしていたセドナを向いて、経路を調べたリナリアは先手を打った。

「まあ、のんびり行きましょう。リンファーデンに行ったことないから楽しみです」

 アリヤの無邪気な声が場を和ませた。口にはしないがシエラも同じ気持ちだった。

 リンファーデンは西の隣国、リーゼンラント王国と国境を接する教区だ。旧体制時代は他国との交流はほとんどなかったが、西の隣国だけは例外で、アイマト魔術を最初に伝えた国と言われている。

 リーゼンラントではアイマトが発祥の魔術をそのまま使い、リンファーデンを治めるイベルドン家との交流の中で伝えたとされる。イベルドン家は更にアンセルベルグ総主教父のブリーク家に魔術を伝え、新政府発足の基礎となるつながりを作った。その後勃発した終アストラル戦争を経て、アイマト魔術はクレアスト全土へ広まったのだ。

 北の隣国であるアイマト連合王国は、クレアストの魔術にとって大きな目標だが、少し遠大すぎるきらいもある。古くから交流があって、歴史上争った経験のない西の隣国の方が親しみやすさを感じるのだった。

 発車のベルが鳴り響いて、御者が馬に鞭を入れる。乾いた音が響いてゆっくり動き出す。四頭立ての馬車には他に客が乗ってこなかった。

 馬車が進むのはかつて列車が通っていた道で、二本のうち一本の線路を取り外して馬車が通れるようにしてある。時々すれ違う車庫には列車が保管されていた。馬車はあくまで列車が使えるようになるまでのつなぎでしかないのだろう。

「暑くなってきたね」

 セドナが服をはだけて裾で扇ぐという目のやり場に困ることを始めた。ちらちら見える赤銅色の肌からどうにか目を逸らし、農地が増えてきた景色を眺めながら、リンファーデンに入ったからだろうとシエラは応じた。

「カナーネンは寒暖の差があまり大きくないけど、リンファーデンの夏は蒸し暑いんだ。リーゼンラントの湿地帯を抜けてきた季節風の影響を一番強く受けるからな」

「よく知ってるわね」

 リナリアは心底から感心したようだった。

「昔読んだ本に書いてあったんだ。リーゼンラントは水資源が豊富だけど、その分湿地帯や泥炭地も多いらしいから」

「確か国土が小さいからって干拓で広げていったんですよね。だから海よりも低い土地が多いって」

「海のないクレアストにいると考えられないことをしてるな」

 シエラはいまだに見たことのない海を思い描いた。クレアストの匂いといえば草いきれや乳製品の匂いだが、海があればもっと違う匂いを感じるだろうか。絵画によって海の姿は知っているけれど、内包している香りまではわからない。

 国境を超える馬車もまだ存在しないし、セドナのように学術目的でもなければ、クレアストの国境を超えて行き来することも難しい時代だ。海の香りを嗅ぎにいくのも、まだ遠い未来だった。

 馬車はリナリアが言ったとおり二時間足らずで目的地のベルト村に到着した。駅舎の周りでは牛の鳴き声が聞こえ、野良着を着た男女が行き交う。カナーネンのように尖塔をはじめとする高い建物はなく、代わりに木々に見下ろされているようだった。

「おいしい空気ですね」

 アリヤの感想にそれぞれが頷いた。

 四人が最初に訪れたのは管理事務所だった。ベルト村は旧体制時代からリーゼンラント王国の錬金術師を多く受け入れており、彼らに原材料採集の場を提供してきた。クレアストでも魔術を使うようになってからは外国人の受け入れを停止したようだが、錬金術師との付き合いには慣れているらしく、書類の書き方や注意事項を伝える受付の中年女性の対応は実に細やかだった。

 午前中は森で鉄を集め、午後は山で銅と鉛を得る。そんな予定をアリヤが代表して採集計画書に書き、提出する。この一ヶ月で、渉外係はアリヤが務めることで落ち着いていた。

 森の入り口付近では森林浴に訪れたと見える集団と何度かすれ違ったが、それもすぐに見えなくなる。奥地に人気はなく、湿っぽい臭いが立ちこめる。しばらく日差しが木々に遮られて薄暗い道を歩いたが、やがて強い日差しの差し込む空き地に出る。計画を立てるときに用意した地図には、この場所に錬金術で使える鉄を含む土があるということだった。

 しかしそれは微々たる量で、用意した麻袋に詰められるだけ詰めないと二度手間になる。シエラが運んだスコップを使って四人で手分けして袋に土を詰める。それだけで汗だくになった。更にそれを、シエラとリナリアが背負う。二ナク(約八キログラム)はあると適当に割り出したが、森を出て重さを量るとほぼ半分の一ナクしかなかった。何だか力が衰えたようで悲しい。

「食べる前に精錬を終わらせちゃいましょう」

 アリヤの号令で準備にかかる。正直体を休めてから仕事したかったが、同じ作業をしたはずのリナリアが涼しい顔で動き回っているのを見ると、弱音を吐くわけにはいかない。背丈の大きさは伊達ではないらしい。

 管理事務所のすぐ隣には、原材料を含んだ土や水などから必要なものを取り出す作業をする施設がある。そこで掘り起こしてきた土を広げ、精製作業にかかる。

 一オリク(約一キログラム)分の土を囲んだ四人は、最初にアリヤが魔術を使う。アリヤが担当したAストリングスのフレットナンバーが反応をスタートさせ、次にセドナがEストリングスによって反応を加速させる。そのままだとどこまでも反応が進んで、最終的に燃え尽きてしまうので、タイミングを計ってリナリアがDストリングスの魔術を使って反応のコントロールをする。反応が落ち着いてきたところで、最後にシエラがGストリングスの魔術によって反応を終わらせる。土の中を小さめのトングで探ると、鈍い輝きを放つ鉄が土の中に紛れていた。

 一オリクずつの土を、八回に分けて精錬作業にかける。一回の作業を終えるのに最初三〇分かかっていたが、三回目を終えた頃から慣れて手早くなり、最終的に二〇分で終えられるようになった。

 アリヤが管理事務所へ計画の半分が終わったことを伝えに行っている間、鉄を取りだして用済みになった土をシエラとリナリアが捨てにいく。森から持ち出した時、水気を含んでいたこともあってかなり重かった土は、中身を取り出されたせいか軽くなっていて、二人で分担すればかなり楽だった。

 管理事務所の裏にある捨て場に土をぶちまけて、二人の元へ戻る。早い時間に出てきたのが幸いしたのか、少し早く予定が進んでいるほどだった。

 食事の後は山へ行き、銅と鉛を得る。それらが含まれている土や岩を持ち帰って精製作業を行い、残りかすを同じように捨て場へ持っていく。採集場所によって捨てる場所が決まっているのは再利用のためらしいが、その方法までは調べてもわからなかった。

 採集した鉄、銅、鉛は別々の器に入れて、シエラが翌日学校の保管庫へ持って行くことになった。そうして全ての予定を消化し終える頃には日が沈み、水色のアストラルラインが現れていた。

 カナーネンへ戻る最終の馬車には、行きと同じように他の客の姿はなかった。席に座ってからは疲れのせいで誰も口を利かず、発車してから程なくしてアリヤとセドナはもたれ合って眠りに落ちた。

 その安らかな寝顔を見ていると、アリヤの心配も取り越し苦労に思えてくる。彼女が自分に言い聞かせたとおり、セドナは環境の違いに戸惑っているだけだろう。クレアストで盛んに作られている乳製品は、アシレミアではほとんど見られないものだ。それをふんだんに使った料理も同じである。

 隣に座るリナリアを見遣った。舟を漕いではいるが、意地を張っているかのようになかなか眠りに落ちない。背筋の伸びた隙のなさばかり目立って見えたが、感情的になりやすい素顔も思い出した。割と人間味のある人なのだろう。

周りの三人が眠そうにしているのを見ると目が冴えてしまい、シエラはアストラルラインを眺めることにした。

 周りにいる学生が皆善良とは限らない。不意に嫌な言葉を思い出してしまった。

 エルマはそう言い残して飛び去った。エリセバの仇が身近にいるとも言っていた。

 この学校に来てから知り合いは増えたし、中には終アストラル戦争で何らかの役目を持っていた者もいるだろう。けれど他人の過去は気にしないと決めている。そうでなければ、自分のことも他人に伝えなければならなくなる。

 たとえ血まみれリーリエがいるとしても、お互いの過去を触れ合わなければ、普通の学生でいられる。過去を気にせず魔術師を目指して切磋琢磨していく。それがお互いのためだろうし、何より国のためだ。他人の過去を気にすることも、怖れることもしない。

 そして過去を捨てるのか。どこからかそんな声が聞こえた気がした。

 走行中の馬車の上で、外から話しかけられることなどあるはずがない。天上の光から降りてくる音、ドーンコーラスによる空耳だったのだろう。人の声にも似ているから、充分起こりうる。

「昔を忘れるわけじゃない」

 説得力を求められると辛い言葉を口にしながら、シエラは逃げ込むように体を丸めて眠りに落ちていった。

 

 カナーネンに戻ってから約一〇時間で学校へ向かう準備を整え、普段通りに授業に出る。あまり休めなかったせいで体の節々が痛むが、同じ班の三人が何事もなかったかのように過ごしているのを見たら弱音は吐けない。やはりリナリアは動きに昨日の疲れを感じさせなかった。

 一日の授業が終わってから三人と待ち合わせをして、スミス教授のもとへ昨日の報告をしにいく。成果を学校の保管庫にしまったところまで話すと、彼は満足げに頷いた。

「班別研究に関しては問題なさそうだな。あとは君たちの個別研究だが、それもおろそかにしないように」

 そう言ってから彼は帳面を開いた。

「課題達成のために作業室を使わなければならないな。明日は予約で埋まっていて、使うなら明後日になるが」

 言いながらスミス教授は予約表をめくっていく。二日後の夕方にようやく空きが見つかった。四人で顔を見合わせたが、早めに動きましょうというアリヤの言葉で決まった。

「この時間でいいんだな」

 スミス教授はペン先で午後四時からの二時間分の空欄を指した。承諾し、その場は解散となった。

 放課後の予定はなかったが、ちょうどよかった。班別研究にかまけて個別研究があまり進んでおらず、その調べ物をしておきたかった。締め切りまでまだ間があるものの、油断すると時間が一気になくなってしまう気がする。

 本音では早く帰って眠りたい。昨日の疲れがまだ残っていて、いかに眠らずに乗り切るかで精一杯の一日だった。それでも、クラウスをはじめとする周りの期待に応えるために、できる限りのことはしなければならない。

 図書館で調べ物をした後、今日の夕食を買ってから帰ろうと、なじみの店へ向かう。既に日は沈んでいた。

 図書館の前の道は、大聖堂へ続いている。周辺は旧体制時代政治の中心であったが、新政府は別の場所に本拠を置き、残された建物は改修工事中である。いずれアストラル歴を廃止する時、太陽の動きをもとにした暦であるリリウス歴を採用するために、大聖堂は観測台として生まれ変わるらしい。

 大聖堂周辺には店も多く、そちらへ向かう人は多い。シエラはその方向へ背を向けた。目的の店が反対方向にあるのもあるが、やはり人の多く集まる場所は好きになれない。

 その足が止まる。人混みの中にエルマを見つけた。その隣に見覚えのある後ろ姿を見て、シエラは声を上げていた。

セドナ!」

「邪魔をしないでもらおう」

 呼びかけた瞬間、首筋に刃を突きつけられたように戦慄した。往来の真ん中にもかかわらず動けなくなる。ふとしたきっかけで後ろから刺されるような恐怖さえ感じた。

「あの二人は大事な話をするところだ。邪魔をしないでもらおう」

「テオドル、どういうことだ」

 辛うじて声の主の名を呼んだ。

「私だけではない」

 テオドルは左右を見るように言った。指示に従って、シエラは息を呑んだ。

 兵士が着るような、見た目より機能性を重視したような上着とポケットがいくつもついたパンツはラゲナンだ。その反対側には、長めのシャツブラウスに腰のあたりでサッシュを巻き付け、ふくらはぎ丈のギャザースカートを着たエリーゼが立つ。二人とも自分を無感情に見てくること以外に一年前と変わらない。黒髪を後ろでまとめたラゲナンの髪型と、エリーゼの飾りをつけた長い金髪も同じだ。そんな彼らと目を合わせた何人かは、危険なものを感じたように顔を伏せて急ぎ足で立ち去っていく。

「あれから一年以上が経つな。元気だったか」

 おもむろに語り出したテオドルの声は気楽に聞こえた。以前会いに来たエルマと同じように、まだ仲間だった頃を装っているようだった。

「お前が何を思ってあのような行動を採ったのか、エルマから聞いたよ。なるほど、お前らしい。行動の根幹にある思いも、それが引き起こす結果も。お前の行動は確かに仲間を思ったものだった。しかし結果的に仲間の多くは死に、お前だけが新しい時代へ踏み出そうとしている。これはどういうことだ」

 シエラは何も答えなかった。責める言葉に何を言い返せばいいのかわからず立ち尽くす。

「エルマから話はあったと思う。私たちはお前が学校にいることをとがめるつもりはない。お前さえよければいるがいい。その上で罰を受けてもらう。それで許そう」

「罰って何なんだ」

 慎重に質問を紡ぐ。エルマを初めに見た時命を奪いに来たのかと思った。彼はそれを否定したし、テオドルも背後に立ったにもかかわらず動かない。

「いずれわかることだ。それよりも大事なことは、お前の行動が仲間への思いに端を発するものだったとしても、私たちはお前を許さない。そして私は、正統使徒連合に合流すると決めて仲間たちを導いたことが間違っていたとは思わない」

「戦いから身を引いたら長く生きられるかもしれないのに」

「それが幸せだと誰が決めた。私たちはマハナイムの天使、新政府を敵として戦うために天使として目覚めた。それは最期の瞬間まで変わるまい。私たちの母親とて、そのつもりで私たちに秘蹟を施したのだ」

「エリセバはそうやって子供たちを戦いへ引き込んだことを悔やんでいたんだ」

「あの母親ならそうかもしれない。しかしもはや私たちが他の生き方を探すのは無理だ。お前も同じではなかったか」

 責め立てるような言葉に、共感を求めるような響きが含まれた。その瞬間、わざわざテオドルたちが自分に会いに来た理由がわかった気がした。

「最後のチャンスを与えに来たのか」

エリーゼがどうしてもと言うのでね。私とラゲナンは反対したが」

 意外な気持ちでシエラはエリーゼを見遣った。彼女はまっすぐに視線を受け止めた。さっきまで感情のなかった双眸には微かに悲しみが宿って見えた。

エリーゼは私たちを含め、どんな非難からもお前を守ると言っている。お前の行動を理解するように努力するとも言っている。それほどの覚悟を見せたエリーゼを、私は無視できなかった。あとはお前次第だ」

 自分が今と昔の境界線上に立っているのを感じた。一歩を踏み出す選択は一度きりで、どちらにしても取り返しはつかない。再びエリーゼを見遣った。彼女は独特の憂いを帯びた目で誘っている。必死で自分への疑いを沈め、信じようとしている目だった。

 過ごした時間の長さやつながりの強さは比べものにならない。自分たちは同じく親を知らないし、エリセバという母親のような存在の下に集まった。そして戦うことを求められて生き延びた。性格の合わないところを感じることもあったけれど、それを超えた親近感を覚える間柄だった。彼らのうち一人でも理解を示してくれるのなら、色あせたままの思い出にも色が戻るかもしれない。

 境界線上の一歩を踏み出そうとした時、脳裏によぎったのは真夜中の強行軍に参加できなかった仲間たちだ。彼らは敵と戦って死んだ。テオドルならばそれを、使命をまっとうしたと言うだろうが、本当にそうだっただろうか。

 エリセバがその死を悔やんでいた。死者が出るたびに花と、争いが早く終われという言葉をたむけていた。

 あの悲痛な言葉を何度も聞きたくないという思いがあった。真夜中の強行軍はエリセバの死後だったが、生き残った仲間たちが、どんな形でも次の時代へ生きて進めるなら、喜んでくれると思った。

 その時彼女が望むとしたら、そして今身近で望まれているのは、平和に生きていくことだ。昨日同じ目的を遂げるために汗を流した仲間たちが思い浮かぶ。マハナイムの天使たちに比べてつながりは弱いかもしれないが、エリセバの望みに反するような生き方をするよりは前向きだと思えた。

「俺は、それでも戻らないよ」

 呟くような声だったから、エリーゼに届いたとは思えない。しかし眼差しで読み取ったのだろう。わずかな期待感を宿していた瞳が歪んだ。そしてその表情のまま身じろぎしたが、前から肩を押さえられたように動きを止めた。飛びかかろうとしたかのような動きだった。

「それが答えか。私たちはきょうだいに等しい存在だったはずだ。それよりもほんの一ヶ月前に知り合ったばかりの連中を選ぶのか」

 押し殺した声音に、もはや繊細な響きはなかった。それに怖れを感じながら、目の前のラゲナンとエリーゼを見ながら背後のテオドルに言葉を返す。

「エリセバが死んで、大聖堂軍の敗北が決定的になった時、俺たちはマハナイムの天使じゃなく一人の人間として生きていく時だと思ったんだ。今も変わらない。俺は正統使徒連合に参加する気はないし、学校でできたつながりを捨てるつもりもない」

 テオドルに対抗するつもりはなかったが、自分の声も低くなった。許してもらうのではなく、思いを伝えたかった。謝るチャンスでもあったのだろうが、それを届けるには、四人は遠くなりすぎていた。

「残念だ。お互いにせっかく、昔へ戻れるチャンスだったというのに」

 声の中には微かに落胆が聞き取れた。争いからみんなを逃がそうと思わなければ、これほど関係がねじまがることはなかったのではないか後悔が浮かびそうになった。それを無理やり沈める。彼らが戦い続けることでエリセバの思いを遂げようとするように、自分は新しい時代に溶け込んで生きていくことで彼女の願いを叶えようとしているのだ。

「罰を加えなければならないのは心苦しいが、お前がそう考えるなら仕方あるまい。私たちとお前の間にあった絆は、もはやない。悲しいな、お前が選んだのはかりそめの絆だったというのに」

 その言葉を聞きとがめて振り返ろうとしたが、動くな、と制された。

「何を動揺している」

「かりそめの絆と言ったな。どういう意味だ」

「エルマとお前の仲間が一緒にいるのを見たはずだ。あれこそがその象徴だよ」

「どういうことなんだ」

「いずれわかる。エルマから聞いたことだが、望んだ通りに償いはさせてやる。その時にわかる」

 テオドルの気配が殺気と共に遠ざかっていく。動けるようになって振り返ると、長身の後ろ姿は人混みに紛れていくところだった。長い金髪が点景になるまでシエラは見つめていた。

 はっと気づいて前を見ると、ラゲナンとエリーゼの姿も消えていた。二人もどういう判断を下したのかわかったのだろう。時には目と目の会話が成り立つほど、自分たちは深くつながっていた。

 それほどの仲間を捨てる決断をした自分は、人でなしかもしれない。そんなことはないと心から言ってもらえるにはどうしたらいいだろうと、答えを探すようにシエラは歩き出した。まだ夕食を手に入れていなかった。

 最初に考えていたものを食べる気になれず、パンを買って帰ろうと行き先を変えた。その店の入り口で声をかけられる。クラウスが硬い表情で立っていた。

「夕食がまだだろう。一緒に食べないか」

 温厚な彼にしては強引な態度だった。素直に従ったシエラは、いつも相談に乗ってもらっている喫茶店へ連れて行かれる。飲み物しか頼んだことはなかったが、マイスブライのような軽食もメニューに含まれていた。

 シエラは野菜スープを頼んでクラウスと向き直った。訊くまでもなく、さっきのテオドルとのやりとりを見ていたのだろう。しかしどうしてあの場に居合わせたのか。それを訊くと、ドリズルをなめてもらっては困ると硬い表情を保ったまま答えた。

「君が言わなくても、マハナイムの天使がカナーネンに入り込んでいることは既に掴んでいるよ。その彼らなら、君に接触を図ることも想像に難くなかった。君たちはかつて仲間だったのだからね」

 何気ない言葉だったがシエラは身を固くした。その仲間とは、さっき決別したばかりだ。

「何を話していたのか知らないけど、おおかたもう一度仲間になれと誘いに来たんじゃないのか。マハナイムの天使は反体制運動の象徴になれる。まして君たちは《レリクス》を与えられた特別な天使だから、五人揃えば大きな価値になる」

「そう思って監視してきたのか」

 仕方のないことだとはいえ、身近な理解者だと思っていたクラウスの口からは聞きたくない言葉だった。

「君には力があるからね。今はいいが、いつ反動的になるかわからないということだよ」

 クラウスはいつになく硬い声を出した。今の彼は自分の理解者ではない。完全にクレアスト新政府、そして軍の特殊部隊ドリズルの隊員として振る舞っている。仕方ないと自分に言い聞かせても、感じる距離感が悲しい。

「クラウスさん、俺はどうしたら信じてもらえる?」

 過去を隠して息を潜めるようにして暮らしていても、新政府が完全に信じてくれることはない。そしてテオドルたちも理解に苦しむという態度を崩してくれなかった。クラウスも立場上完全に味方となることはできない。どうしたら理解者が得られるのかわからない。

「俺がテオドルたちを敵に回して戦ったらわかってくれる?」

 捨て鉢な気持ちで、投げ捨てるような言葉を吐くと、クラウスはそれは違うと声を荒げた。客は他におらず、マスターも聞こえなかったかのように仕事を続けている。彼の声が乾いた響きになって長く残った。

「逆だよ。君は戦ってはいけない。学生としての本分をまっとうするんだ。そうやって新しい時代に溶け込んで平和に生きていく。そうやって償うと決めたんじゃないのか」

 力のある声に頷くしかできなかった。何のためにかつて敵だった新政府の運営する学校に来ているのか。最初に課せられた兵士としての役目をまっとうするのでなく、人を助けられるような力を身につけるためではなかったか。時代が時代なら、天使とは国民のために力を振るう存在だったはずだ。

「君のレリクスはドリズルが保管しているけど、どんなことがあっても渡すつもりはない。君はおとなしく守られていればいい」

 細面の頼りなげな青年では説得力に欠ける決意だったが、シエラは抗弁せず頷いた。何のために学校へ来たのか忘れるなと言われたような気がした。

 

 二日の間を置いて作業室の順番が回ってきた。内容としては、精製に成功した原材料を使ってプネウマ紙を作ることが目的となる。ここで作れるものはあくまで質が低く、もしうまくいけば、更に上質のものを作るために新たな金属を求めにいくという計画だった。

 しかし集合する段になって、セドナが来られないとアリヤから聞かされた。不機嫌にリナリアが詰め寄ったのでシエラが間に入る。少し戸惑いを残しながら、体調不良だとアリヤは言った。

「みんな揃って、これからって時に……」

「しょうがないだろ。生活環境も違うんだから、体に負担がかかったのかもしれないし」

 セドナをかばったことが不満だったのか、リナリアは不機嫌な眼差しをシエラにも向けたが、心を落ち着けるようなため息をついた後は、しょうがないわねと同意してくれた。

「でもどうするの。三人でもやってみる?」

「教授に相談したら、また明日同じ時間に予約が取れましたから。セディもそんなに辛そうじゃなかったですから、明日には来ると思います」

「一日遅れるぐらいいいんじゃないか」

「気楽に言うわね。でも、仕方ないか」

 吹っ切れたように言い、リナリアは懐中時計を見た。

「今日のところは解散するなら、わたしはもう行くわ」

「はい。また明日」

セドナをよろしく。明日は紐つけてでも引っ張ってきてね」

 一応笑顔は見せたが、どこまで本気かわかりかねる声を残してリナリアは去った。

 残された二人は、互いの個別研究の情報交換をすることにした。班別研究が忙しかったせいで、お互いが何を課されたのか知らないままだった。

 作業室は修道院だった建物の奥に、学校となる時に広げられた敷地内に五棟置かれている。学校の周囲にも昔からの建物があって、それ以上敷地を広げることはできなかったのかもしれないが、学生の数に対して作業室が少なすぎるような気がした。

「個別研究は順調ですか。わたしは忙しくて思うとおりには進んでないんです」

 雨模様の空の下、二人は図書館へ向かうことを話し合った後、アリヤは気楽さを装って訊いた。

「同じようなものだよ。でも君の場合他にやってることがあるから」

 渉外役として、教授とのやりとりを担当していることを言ったのだが、

「音楽のことだったら、関係ないですよ」

 余計な心配だと言うように、ちょっとむきになってアリヤは応じた。

 アリヤはクラスで知り合った仲間と、カルテットを結成して活動しているそうだった。地元では少年少女楽団に所属し、年上の団員を差し置いて首席奏者も務めたことがあるという彼女は、目標であるコンサートマスターにある意味でとても近い位置にいた。

「ちゃんと活動が学校に根付くといいな」

「そうしたらカルテットじゃなく、オーケストラになれますから」

 自分たちの演奏が学生や教職員を魅了する日が来ると信じているのだろう、控えめなアリヤにしては声が明るかった。出会う前の彼女がどんな性格だったか知らないが、セドナの影響もありそうだった。

 回廊を通り抜け、中庭に足を踏み入れる。ちょうど盲点のように人の姿がない場所だった。シエラは体調不良を訴えたというセドナの様子を訊いた。

「会って話をしたのか」

「一応は。でも元気そうでしたよ。元気すぎるぐらい」

 付け足された言葉にアリヤの不安を感じ取った。何かあったのかと訊くと、ややあってから彼女は口を開いた。

「明るかったんですけど、何だか無理をしているみたいで。それに少しでも早くわたしを追い払いたいと思ってるみたいにも見えたんです」

「具合が悪いんじゃなかったのか」

「本人はそう言ってたんですけど」

 どうやら真意が別にあるのではないかと疑っているようだった。シエラもまた、一昨日エルマと一緒にいたセドナのことを思い出していた。テオドルはセドナの存在を否定しなかったが、二人の間に何があるのか掴めないままだった。

「あれから何かあったのか」

 セドナの異常を知ったのは、フィールドワークに出かける直前だった。漠とした不安を抱えていたアリヤの様子と、直前に自分自身が見たセドナの一瞬の変化が、まだ日があまり経っていないこともあって、頭の奥で鮮明に印象を放っている。

「不安があるなら言ってほしいのに、大丈夫だからって言うだけで。むしろそういう態度だと不安になるって言うと怒るんです。大丈夫としか言わないんですけど」

 聞く限りアリヤは理不尽な扱いにさらされていると思ったが、それに怒る様子は見られない。セドナへの心配が、細い弦の震えを思わせる彼女の声には徹底して宿って聞こえた。

「俺が何か言ってみようか?」

 慎重に切り出すと、アリヤは意外そうな声を上げた。

リナリアだったらけんかになるかもしれないけど、君ほど深く関わってない分何か話をしてくれるかもしれない」

 シエラとしても、セドナの真意は知りたいところだった。何とかして二人きりになって、エルマと一緒にいたことを問いただしたい。もはや後には退けないのだから、不安は少しでも取り除きたかった。

「別にけんかをしてるわけじゃないのに」

 アリヤは不安げだった。自分たち以外の人間が関わってくることでバランスが崩れるのを怖れているようだった。

「君が良ければの話だから」

 慌てて言うと、曇りがちの表情が明るくなった。

「でも、それもいいかもしれないですね。行き詰まってたところですから」

 アリヤは図書館での調べ物が終わってから、セディの下宿を訪ねてみましょうと言った。

「シエラくんなら話を素直に聞いてくれるかもしれません。何だかんだでシエラくんのことを気に入ってるみたいですから」

 思いがけない言葉に、つい間の抜けた返事をしてしまった。

「本当に助かります。さっきだってさりげなく場を収めてくれたし」

セドナリナリアの扱い方もだんだんわかってきたからな」

「頼もしいですね」

 そう言って笑っているうちに、正門が近づいてきた。

 外へ出ようとした直前に、急ぎ足で学生が追い抜いていく。

 その背中が崩れ落ちた。

 シエラは足を止めた。背中が、血を流しながら文字通り崩れ落ちたからだ。

 首や手足が切り離され、胴体も四つに分割されて地上に落ちる。初め目の前で何が起きたか理解できず、突然学生が消えたとさえ思った。

 現実味を帯びたのは血の臭いをかぎ、背中が崩れ落ちた場所に血だまりが出来た時だ。

 すぐ隣で息を呑む音がした。それから数秒の間を置いて甲高い悲鳴が響く。とっさにアリヤの目を塞いで後ろを向かせた。周りにいて、今まさに正門をくぐろうとした学生たちは悲鳴を上げながら逃げていく。その勢いに翻弄されそうなアリヤを守るように肩を抱き、死体との間に立つ。肩越しに振り返るが、血液の存在はやはり本物にしか思えなかった。

「アリヤ、とりあえず教授のところへ行こう」

 とりあえず勢いに流されないよう壁際にアリヤを移動させて語りかける。顔を涙で歪めていたが、しっかり頷いてくれた。

 罰を受けてもらうという言葉を思い出す。その一環が動き出したということだろうか。

 そのために、無関係の学生が一人犠牲になった。復讐を企てる気持ちは理解できる。できる限りの譲歩を断ったのだから、わずかに残っていた仲間意識も怒りや憎悪に転化されただろう。しかしその相手一人を狙わないのはどうしてだ。

 アリヤを教授たちの研究室がある塔へ連れていく。その入り口で、まっすぐ教授のところへ行くように言って、自分は離れようとする。

「どこへ行くんですか、一緒に行ってくれないんですか」

 周りの騒乱によって完全に怯えてしまったアリヤを、行くところがあるからと言って突き放すことは難しかった。しかし距離を置かないと巻き添えを生むかもしれない。 

 迷っているとシエラの名を呼ぶ声があった。救われた思いでその声の主を見る。マテウスが一人で駆け寄ってくる。

「正門の方で学生とか教員が何人も殺されたって。逃げようとしたやつがもっと巻き込まれたって聞いたぞ」

マテウス、この子と一緒にスミス教授のところへ行ってくれ」

「お前はどうするんだ」

 行くところがあるんだ、そう返事をしようとした時だった。

 周囲の騒乱がいっそうふくれあがる。その関心は上空へ向けられていた。

 塔よりも高い位置に浮いている人影がある。その背の両側に白い翼が広がっている。そして両手に何かがある。狙いを安定させるための長い銃身を持った小銃とよく似ているが、《ドーンコーラス》と名付けられたその武器が撃ち出すのは銃弾ではない。全世界でエルマにしか使えないが、その分大きな威力を秘めていることをシエラは知っていた。

 その二つの銃口が、いまだ騒乱が収まらない地上へ向いている。表情はよく見えないが、銃口を大きく揺らすなどして、明らかに彼は挑発していた。

 彼は本当に地上へ向けて撃つかもしれない。自分一人を殺すためにいくら巻き添えを生んでも構わないと考えているようだった。

 シエラは二人を置いて駆け出した。走りながら振り仰ぐ。すると銃口はゆっくり反転して自分を追ってくる。それに気づいた何人かがこちらを見ている。何らかの関係があるとわかってしまったかもしれない。

 シエラは教授たちのいる塔から最も離れた一番塔へ向かった。その陰に入り込んで、姿が見えないのを確認してから、久しぶりに翼を広げた。

 この一年間使うことのなかった力で、これから先も発揮する機会がないことを願っていた。その力で以て駆け上がるように塔を飛び越す。気づいた相手の天使がこちらを向く。シエラは塔の真上から離れたくなかったが、二丁の小銃の一方を自分に、もう一方を地上へ向けた。その上でこちらへ向けた銃口を上下に動かす。人質を取られた思いで、シエラはゆっくりと相手との距離を縮めていった。

「空で話すのは久しぶりだね。この風の強さ、懐かしくならないかい?」

 エルマは銃口を下げた。もう一方は油断なく地上の、学生たちが集まる校庭へ向けられている。

「学校の周りに何を仕掛けたんだ。あれで一人死んだぞ」

「学校から学生が逃げられたら困るからね。言葉で警告するよりわかりやすくて良かったと思うよ。噂が噂を呼んで、いまやみんな学校の中を右往左往するばかり、教授の中にも見苦しくパニックに陥っている奴もいるみたいだ」

 エルマは身をかがめながら楽しげに言った。一年前とは違うと思った。激情的だった彼だが、他人の混乱を端から眺めて楽しむほど残忍ではなかった。

「魔術学校の周りで魔術を使って人の命を奪うなんて、あてつけのつもりか」

「ああ、そういう手もあったかな。ぼんやりしているようで時々いいことを言うから、油断できないね」

 魔術でないとすると、アストラルパワー以外に人の命を奪う方法が思いつかなかった。しかし学生の体が断ち切られる時には何も見えなかった。アストラルパワーなら水色の光が見えたはずだ。

「あれは風だよ。風を強い圧力で、高速で押しつけるとああやって人体ぐらい簡単に切れるそうだよ。人間業じゃないから僕には理解できないけどね」

 疑問に答えた言葉が新たな疑問を生んだ。

「魔術でも、アストラルパワーでもないっていうのか」

「余計なことを気にすると、死ぬよ」

 突然アストラルラインが放つ歌声のような音が聞こえてきた。それはエルマが持つ《ドーンコーラス》の銃口に宿る輝きが強くなるごとに甲高くなっていく。

 そして放電のように張り詰めた音を立てて光が飛んでくる。シエラは動けなかったが、光は大きく外れた。

「シエラ、償いがしたいならこのまま僕らのすることを見ていてくれないか」

 柔らかくなった声に答えを返すことができなかった。仲間を死なせるような行動を取ったことを償いたかったし、いくら理由を探しても負い目が消えなかったのも事実だ。

「だから無関係の学生たちが巻き込まれるのを黙って見ていろと言うのか」

「そうだよ。君はそれで苦しむ。自分の行動が僕たちの恨みを買い、そのとばっちりで無関係の学生たちが死んでいくんだ」

 少しの間かつての朗らかな表情を取り戻したエルマだったが、言葉をいくつか重ねるうちに歪んだ笑みへと変わっていった。一年前の行動が結果的に仲間の命を奪い、そのことで恨まれるのは仕方が無いと思っていた。しかし学校を襲うとなれば黙ってはいられない。

「お前たちの気持ちはわかる。それでもやめろ。だいたい、魔術学校は官立なんだ。クレアスト新政府やドリズルを敵に回すことになる。勝てるはずがない」

「そうだね。だけどドリズルといってもたいしたことはないね。既に一人、虫の息だよ」

 そう言ってエルマは《ドーンコーラス》を持ったまま器用に懐へ手を入れ、何か光るものを抜き出した。放り投げられたそれはシエラの胸に当たる。慌てて受け止めたそれは、血のついた眼鏡だった。銀縁の、楕円のレンズを持った眼鏡だ。それは見覚えがあった。

「お前クラウスさんを」

 瞬間的に怒りと恐慌がわき上がってない交ぜになる。声が震えるのを止められない。

「ああ、そういう名前だったね。君や学校の周りでうろちょろしていたあの男、カエルレウムが学校の周りに埋め込まれていたのを見つけて、僕らの思惑を阻止したつもりになってた無能な男だね。あの男は不幸なことになったよ」

「エルマ!」

 シエラは叫び、殴りかかる。撃たれる危険性は脳裏にあったが、信頼を置いてきた相手に危害を加えたエルマへの怒りが優った。

 無謀さを警告する思いが頭の片隅にあったが、結果的にエルマの不意を突くことになった。拳を伸ばせば届くところへ近づいたが、上空からのすさまじい殺気に手を止め、下降しながら上を見た。

 巨大な三枚刃の戦斧の形をしたレリクス、《プロヴィデンス》を振り上げてラゲナンが急降下してくる。その刃がエルマの目前を切り裂いていったのを、シエラは少し離れたところで見ていた。

 ラゲナンはその勢いのままに地上へ降り立つ。広い校庭で、学校の警備員と思われる人影がラゲナンの動きに合わせて吹っ飛ばされていくのが見える。

「そのまま僕を殴っていればラゲナンが殺してくれたのに、惜しかったね」

「エルマ、お前も俺の大事な人を奪ったな」

「お互い様だって言いたいのかい。いいよ、お楽しみはこれからだ」

 エルマは背中を向けて素早く遠ざかる。とっさに追いすがったシエラは、背中に向けてアストラルパワーをぶつけようとする。本来人の体を温めたり作物の成長を促したりする天使の力だが、直接人間にぶつけることでやけどのような傷を負わせることもできる。天使に対して使う日が来るとは思わなかったが、ためらいはなかった。

 エルマは不意に向き直った。二挺で一組の《ドーンコーラス》のうち、一挺が音と水色の光を宿し、次の瞬間張り詰めた音と共に光が放たれる。

 立ち向かっても自分の力では防ぎきれないと思って、シエラはとっさに身を沈めた。光はシエラが飛び越した塔を直撃した。屋根が落ち、校舎の一部にぶつかって壊れ、破片は周囲に降り注ぐ。悲痛な響きを伴う小さな悲鳴が聞こえた。

「君が受け止めたら巻き添えは生まなかったかもしれないのに」

 声変わりの途中のようなエルマの声に胸がえぐられる。悲鳴には痛みが宿っていた。

「だけどもう遅い。やっぱり君は償いなんてできない。それで過去を乗り越えて新しい時代を生きていくなんて甘ったれもいいところだよ。次は、君だよ」

 エルマは羽をまき散らしながら更に高度を上げた。曇天を背にして二挺の《ドーンコーラス》を合わせるのが見えた。その銃口は、学生たちが残る地上を狙っている。

 今度は避けるわけにはいかない。地上にはマテウスが、アリヤがいる。二発同時に撃ち出すことで《ドーンコーラス》は単純に二倍の攻撃力を発揮する。できるかどうかわからないが、同じアストラルパワーを使って盾を作り、受け止めるしかない。

 繊細な歌声のような音と張り詰めた電撃のような音が順番に降りてきて、次の瞬間今の時期のアストラルラインと同じ色の光りが襲う。シエラは両手を突き出してアストラルパワーの盾を作った。同じ色の光が激突した瞬間光は拡散して消えたが、衝撃を打ち消すことはできず、シエラは地上へ背中から落下した。

 受け身は間に合ったがすぐには動けない。空を呆然と見上げていると、体の前で二挺の《ドーンコーラス》を構えたエルマが銃口を下げて見下ろしている。

 無様な姿を見て楽しんでいるのか。そう思った時だった。

 周りに学生たちが集まってきているのに気がついた。

 彼らは一様に不安を顔に移している。その中にはマテウスもいた。

 周りとささやき合ったり、探るように睨んだり、反応は様々だったが、誰も友好的な態度を示していない。仰向けでは無防備だと思って何とか起き上がった。

「学生の中にマハナイムの天使がいるって本当だったんだね」

 不意に高い声が響いた。シエラを含め、全員がその声の方を向く。集団の中でやや小柄な姿、身軽そうな格好で、クレアストには珍しい黒髪と黒い瞳、アシレミアの生まれであると示す赤銅色の肌。

 笑顔だった。しかし見慣れた陽気さは感じない。何かを楽しむような不遜さを見た。

「どうしたの、違うんだったら違うって言えばいいじゃん」

 学校の中で聞くはずのない声の主は、へたり込んだままのシエラの前にしゃがみ、まっすぐ見つめてきた。

「シエラくん、それとも嘘をついてきたことを認めるのかな」

 その嘲るような言葉は聞き慣れた声で紡がれていく。

「何を言ってるんだ、セドナ

 自分自身の震える声が足下を崩した思いだった。

同時に、どこかで信じ切れていなかった、エルマとセドナが一緒にいた事実が明確に突きつけられたような気がした。

「天使、何をしに来た?」

 セドナが問う。

「学生として潜り込んだのは、天使たちを中に手引きするためだったんじゃないの?」

「違う、そんなことはしてない」

「だったらどうして、天使が簡単に学校に入れるのかなあ。この学校、新政府の肝いりだからそれ相応の警備だってあるはずなのに。それをかいくぐるとしたら、内通者を送り込むしかないね。どうやって入ったか知らないけど、天使が正体を隠して学生をやる理由が他にあるのかな。だって天使は、チーナと同じく魔術の敵でしょ?」

新政府が対外的に発表した見解を聞いた学生たちが動揺したようにざわめき出す。天使が大手を振って魔術を学べる環境にないのは事実だろう。

 助けを求めるようにマテウスを探す。セドナの背後に立っていた彼は、冷たい目で見下ろしていた。

 おもむろに立ち上がったセドナは、不意に足の裏でシエラの顔を蹴飛ばした。

「ここにはあんたの居場所はないんだよ。さっさと仲間のところへ帰りな」

 それに触発されたように、どこからか石が飛んできた。まっすぐな軌道で飛んできた石は額に当たった。軽く頭が揺らいだ後に血がにじんだのがわかった。

 最初の一投が呼び水になったように、再び投石があり、それが次の投石を呼ぶ。繰り返される内に言葉も一緒に投げつけられる。

 天使がどうしてここに。魔術の敵が何故。反乱分子の手先め。出て行け。

 一つだけ聞き覚えのある声で紡がれた。振り返った時に、偶然最初にできた傷に石が当たる。その石をマテウスが投げたのをシエラは見た。彼は一瞬だけ気まずそうな顔をしたが、すぐに仇を見るような目つきを取り戻した。非難と投石が襲いかかる。シエラはいたたまれなくなり、額から流れた血液をぬぐいながら上昇する。石は届かず、声もやがては遠ざかったが、耳の奥と額の感覚にそれぞれこびりついている。石も声も追いつけない高空にたどり着いてようやく息をついたが、今度は震えが襲ってくる。

 失意を感じているだけではいられなかった。エルマから渡された眼鏡には、乾いて赤黒くなった血液がこびりついていた。戦いの中で落としてしまったが、やはりあれは、クラウスの眼鏡だった。

 エルマはクラウスが虫の息だと言った。ならば急いで探せば助け出せるかもしれない。

 地上からは悲鳴が断続的に聞こえてくる。広い校庭や作業室などが集まる敷地内に、白い翼を背負った人影が見える。セドナが言ったように、手引きをした人間がいるのは間違いない。それが誰なのか、シエラは頭に浮かんだ答えを振り払った。

 地上へ降りて探そうと思った時、まるで誘うように爆発が起きた。その真上にはエルマがいる。

 エルマは上を向いて、目が合った途端に彼は地上へ降りていく。それを追いかけると、校舎の裏手、以前セドナが箒で突っ込んできた場所に降り立った。そこにエルマと数人の天使、そしてうつぶせに倒れているクラウスを見つけた。

「この男かい、よほど大事みたいだね」

 エルマはクラウスの脇腹をつま先で蹴った。うめき声を漏らしたものの、クラウスはほとんど動かない。その体の下には、わずかに赤みを帯びたものが、影のように広がっている。服も傷だらけで、元の色をほとんど保っていなかった。

「君がいけないんだよ。僕たちを売った対価で新しい時代を生きていこうなんて甘いことを考えるから」

 もう一度エルマはクラウスを蹴る。我慢できずに拳を握って飛びかかろうと身構える。

「駄目だ、君は戦うな……」

 クラウスの頭がわずかに動いて光の乏しい双眸がこちらを向いた。

「君は、学生だ、戦っては……」

 クラウスの頭を踏みつぶしかねない強さでエルマは踏みつけた。

「そうかい。それじゃあこういうことをしたらどうだろうね」

 そう言ってエルマは、懐から短銃を取り出して銃口を彼の背中へ向けた。

「やめろエルマ!」

 悲痛な叫びをあっさり無視してシエラは引き金を引いた。一瞬クラウスの体はけいれんして、すぐに動きを止めた。

「駄目だよ、クラウスさん。俺にはもう、あなたの言葉を守れない」

 その言葉を引き金に、シエラはアストラルパワーを放つ。取り巻きの天使たちも抵抗するが、力の差は大きい。エルマが《ドーンコーラス》を持つように、シエラもレリクスと呼ばれる武器を与えられて戦ってきた。それは普通の天使よりも強力なアストラルパワーを操ることができるからこそ使える、特別な武器だ。

 シエラが放った光は、相手の天使が放ったものを飲み込んで直進し、その先にいる天使を撃ち抜く。その勢いのまま、立ち尽くすエルマに向けて突撃する。《ドーンコーラス》の有効射程は七ネク(約一五メートル)とされていて、それより近くで相手に光が当たると暴発し、双方を傷つけるという欠点がある。緩慢な動作で行われた反撃をかわして撃ち返そうとした時、エルマは飛び上がった。

 エルマが元いた場所まで勢いをつけて飛んでいたシエラはとっさにブレーキをかけたが、踏みつけられて地上へ倒された。

レリクスを使わずに僕に勝てるとでも?」

 後頭部に硬い何かが押しつけられる。《ドーンコーラス》の銃口だとわかった。

「この距離なら暴発も確かにあるけど、この距離だからこそ痛めつける方法はいくつもある。《ドーンコーラス》に撃ち抜かれた方がマシだったかもしれないね」

 少し離れたところに横たわるクラウスと同じ運命をたどることを覚悟した。

「学校の施設はだいぶ壊せたし、学生や教職員にも被害が出ている。あとは校長を殺すだけだ。ここまでやれば、もう君の償いも終わりでいいだろう」

 優しさを装った声と共に背中が踏みつけられる。大きな傷を負ったわけではないのに、抗う力が出てこない。

「僕はもう、償いを済ませた君を責めることはしない。だからハヤの故郷へ安心して召されるといい。僕らの戦いをそこから見守ることだね。……死ね」

 後頭部に押しつけられた《ドーンコーラス》から音が聞こえ、熱が漏れてくる。アストラルパワーが放たれたら全てが終わる。けれどエルマたちが納得してくれたのなら、それでもいいような――

「シエラ」

 その声は感情を消し去った冷たい響きがあった。それなのに後ろ向きに落ち込んでいく気持ちが引っ張り上げられる。まるで胸ぐらを掴まれて乱暴に叱咤されたように。

 視線をわずかに上げる。天然の宝石を磨き上げたように美しい色合いの、板のようなものが地面に突き刺さっているのが見えた。

「今更何をしに来たのかな、血まみれリーリエ」

 その名に頭を動かしたが、頬に小石がめり込むほど強く銃口が押しつけられる。

「まさかシエラを助けに来たのかな。それよりも校長を助けに行くのが先だと思うけど」

 返答はなく、足と地面に突き刺さった亜麻色の板は動かない。エルマが言っていた、血まみれリーリエが身近にいるという言葉。死んだはずの剣士がこの場に現れたとは信じがたいが、立ち尽くす相手も落ち着いたたたずまいを見せている。

「それとも今更僕らの排除に動いたのかな。もう遅いと思うけど」

 返答の代わりのように亜麻色の板が持ち上げられた。

 視界の外で何が行われているのかわからないが、長い間マハナイムで訓練を受け、それを実践し続けたことで培われた感覚が告げている。戦闘態勢に移行したのだと。

 それから短い悲鳴を経て、視界の隅に赤いものが流れ出るまで一瞬の出来事だった。不意に背中から重さが消える。目の前に足が迫ったと思うと飛び上がった。血が流されたこと以外に理解が追いつかずにいると、服の襟首を掴まれ、強引に引き起こされた。

「起きて、邪魔だから」

 冷たく響く硬い声だった。女の声だったが、声の主の背丈は男の自分を凌駕していた。

 リナリア、と相手の名前が口から漏れた。

「もう一度訊こうか。何のために今更《ユングフラウ》を持ち出してきたのかな」

 シエラはマンテルやレギンスといった、野戦服に身を包んだリナリアの手にある剣を見遣った。断頭台の刃のように平らな切っ先から柄の先端は、彼女の首元まである。亜麻色の刀身も使い手の体を覆い隠せるほどの幅があり、さっき天使を切り捨てたばかりなのに汚れがない。刃の縁から赤い滴がしたたりおちているだけだ。

「あなた自身が答えを言っていたような気がするけど、聞き違いかしら」

「それにしても遅かったね。僕たちはほとんどの目的を達してしまったよ」

「確かに学校の破壊は止められなかったわ。でもこんなことぐらいで学校はつぶれない」

「へえ、ここから息を吹き返すのかい?」

「そうよ。その時のために、あなたたちは排除しなければならない」

 リナリアの体から何かが立ち上った気がした。人を殺傷できる能力を自覚し、行使し、殺し、その時に生じる一切の感情を乗り越えてきた者の、ある種の教授、そして覚悟。

 体の内に生じたそれを吐き出すようにリナリアは叫んだ。獰猛な獣の雄叫びそのものの響きを帯び、見ただけで重さを感じ取れる剣を両手で持ち、しなやかに斬りかかった。

 まっすぐな攻撃は軽やかに飛翔したエルマに交わされる。剣の切っ先は地面に突き刺さりリナリアの体は浮き上がる。エルマはその隙を狙って《ドーンコーラス》を向けたが、リナリアは突き刺さった剣を軸に宙返りをやってのける。

 剣を背筋力で引き抜いたリナリアだが、二挺に分割した《ドーンコーラス》を空中から乱射するエルマに反撃できずにいる。《ユングフラウ》は剣としての使い方しかできず、リナリア自身も飛び道具を持っていないようだった。

 シエラが立ち尽くしていると、リナリアがこちらへ駆け寄ってきた。あなたはそこでじっとしてて、と背を向けて硬い声をかけてくる。そのままピッチを紡いだ。

「D、フレットナンバー、ツー」

 短いピッチの後、シエラはおもりが羽の一本ずつに取り付けられたような感覚に陥った。

 空中ではエルマが徐々に下降を始めていた。翼を羽ばたかせて抵抗するが、やがて諦めたように自らも地上へ降り立った。

「天使を相手にしながら、飛び道具を持たない剣士がどうして血まみれになれたのか疑問だったけど、僕が飛べなくなったことがその答えか」

「そうよ。《ユングフラウ》には刀身が浴びた返り血を洗い流す力があるけど、それだけでは空を飛ぶ天使立ちに刃を当てることもできない」

「それで地上へ引きずり下ろす力か」

「同じ場所に降りてもらえば、あとは力でねじ伏せるだけよ」

 エルマの顔色が変わった。

「銃に対してあくまで剣で挑むつもりか。僕はその辺で転がっているその他大勢の天使とは違う。《ドーンコーラス》に勝てるはずがない」

 軽やかに歌うようだった声が、吐き捨てられるように濁った。

「そして君は僕たちのお母さんを殺した。その仇を討つ!」

 二挺の《ドーンコーラス》が合わせられ、二つの銃口がリナリアを狙った。

 放たれた光を、巨大な刃が受け止める。勢いに押されて足が滑る。刃を跳ね上げると光は弾かれて曇天へ飛んでいく。間髪入れず駆け出したリナリアを見て、エルマは嘲り笑いを漏らしながら二発目を放つ。

 直撃。一瞬そう思ったがそうではなかった。光が四散し、やがて周囲へ吸い込まれて消えていく。リナリアは剣を薙いだ姿勢を見せたが、次の瞬間には走り出す。エルマは驚愕の表情を浮かべて棒立ちになっていた。

ユングフラウ》でアストラルパワーの光を切り裂いたのだ。目の前の出来事をそう理解した時、《ユングフラウ》は銃身を叩き切り、二挺の小銃を弾き飛ばして銃口から銃把まで細かく砕いていた。

 獰猛な唸りと共に、《ドーンコーラス》を破壊した《ユングフラウ》がなぎ払われる。エルマの体は吹っ飛ばされ、半壊した建物の壁に激突し、うつぶせになって動きを止めた。リナリアはおもむろに近づき、彼の背を乱暴に踏みつけた。

「シエラといい、血まみれリーリエといい、どうして学校になんか……」

 顔を上げたエルマは息も絶え絶えに語り出す。口の端から一筋の血液がこぼれ落ちている。脇腹に刃を食らった時に受けたのは、切り傷だけではないのだろう。

「わたしはこの新しい時代に居場所を求めたからよ。投降して裁きを受けるなり、自決するなりして、自分なりに区別をつけることもできないあなたたちとは違ってね」

「学校に通う連中と君たちが相容れると思うのか……」

「それはこれから決まることよ」

「君たちの平和なんか簡単に壊せる……。何度作ろうと同じだ……」

「少なくともあなたには無理ね」

 リナリアはおもむろに剣を振り上げ、エルマの背中に突き立てた。断頭台の刃のように平らな切っ先は、エルマの心臓を潰すだけでなく周りの骨も砕いたらしい。吐き気を催すようなくぐもった音が聞こえてきた。

「死人は動けないもの」

ユングフラウ》を引き抜いたリナリアは剣を担ぎ上げた。その瞬間エルマの血が振りまかれ、赤い線がリナリアの周りに見えた。

 シエラと向き合った彼女は、剣を降ろして足下に突き立てる。

 一度うつむき、ため息をついたと思うと、再び《ユングフラウ》を振り上げて斬りかかってきた。羽に重さを感じながら後ろへ下がる。その場所を、さっきエルマの命を奪った刃が通過する。風を切る音が聞こえた。その動きには無駄がない。

「やめてくれ!」

 辛うじて声を上げた時、リナリアの剣が引っ張られたように止まった。彼女の顔に動揺が浮かぶ。

「やめろバカ! 俺たちの仕事はそんなんじゃねえだろうが」

「そうだ、命令違反だ」

 対照的な、それでいて張り詰めた二つの声が響く。それぞれの声の主をシエラは認めた。

「あんたたち、どうして」

ユングフラウ》の柄には鎖が巻き付いていて、それをたどっていくとガウラにたどり着く。そしていつの間にかビロウが間に入っている。剣と自分の動きを封じられたリナリアは、不満げに顔を歪めて剣を地面に突き刺した。

「マハナイムの天使たちがこの惨状を引き起こしたんですよ」

 リナリアの硬い声が響く。

「そのたびに連中を切り捨てていくのが、俺たちが学校で学び続けるための条件だったはずだ。そこにシエラは含まれていない」

「そのたびに学校を壊され、学生や教職員が犠牲になってもいいんですか」

「だから大元を絶つって言うのか」

 鎖を握って剣の動きを止め続けるガウラが言った。

「わたしはそうするのが正しいと思っています」

 そしてリナリアは、感情を消し去った双眸でシエラを見下ろした。

「シエラがいるからこういうことが起きるんです」

 その声が、さっき自分の額を傷つけた石のように、痛みを伴って胸に突き刺さる。セドナに煽られ石を投げて追い立てた、仲間だと思っていた学生たち。彼らと同じことを言う。

 天使の居場所はどこにもないのだ、と。

「剣を引く気はないのか」

 ガウラの声は低くなっていた。リナリアもその険しい視線を受け止めて頷く。

「止めるぞ、ビロウ」

 ビロウが頷いた時、シエラはやめてくれと声を上げていた。

「仲間内で争うのはやめてくれ」

「しかしリナリアが納得しないなら仕方ない。安心しろ、殺し合いにはしない」

「俺が出て行けばいいんだろ」

 その言葉にビロウの顔色が変わった。

「それで収まるほど単純な問題じゃない。これは魔術そのものへの攻撃なんだ。君の存在は関係ない」

「だけどクラウスさんは殺された!」

 内圧に耐えきれず声を上げると目元が濡れていく。そこから溢れるものを止められない。

 リナリアたちを見遣り、シエラはそれから背を向けた。

「俺がここを離れたら、少なくとも巻き添えは出なくなるから」

「おい、それでいいのか」

 ガウラが引き留めるようなことを言ったのを少し意外に思いながら翼を広げて飛び去った。いつの間にか羽の重みは消えていた。

 暗さを増し、小雨が降り出した空をあてどなく進んでいくと、エリーゼが待ち構えていた。彼女は両手に長短二本のバトンのようなものを持ち、進路上に浮かんでいる。

「これからどうするの」

 感情に乏しい声を投げかけられ、首を振った。

「わからない。だけどもう学校には行かない。それで満足か?」

「わたしの満足はあなたが戻ってきてくれることよ。どちらにいるのが幸せか、身を以て知ったと思う。学校で得たものはあんなに脆いって思い知ったでしょ」

「なんでそこまでするんだ」

「仲間だったからよ。天使も人間だもの。人間は物事を思うとおりには運べない生き物でしょ。あの結果は擁護できないけど、わたしたちのためを思ったって気持ちだけは大事にしてあげたいの」

 いつも暗い目つきをしていたエリーゼの声に、わずかな熱が宿って聞こえた。一度復帰を断った相手にまだ食い下がる。それだけで彼女の懸命さがわかる。敵味方に分かれて初めて触れることになったのは皮肉だった。

「シエラ、これが最後のチャンスだと思う。戻ってきて。いろんなことがあると思うけど、わたしがあなたを守るから」

 エリーゼの青い瞳は潤みさえたたえていた。応えてやりたい気持ちもある。けれど彼女の導きで元に戻れたとして、エリーゼを含む仲間たちが求めることは一年前の続きでしかない。そう思うと返事は決まった。

「俺は戻らない。マハナイムの天使としての戦いを続ける気はない」

「孤独は不幸よ。それに陥るくらいなら非難を覚悟で元に戻る努力をした方がマシだわ」

 レリクスという特別な武器を与えられた天使の自分たちには、外部の人間、更には他の天使たちにはわからないほど深い絆があった。それは何があっても無に帰すものではない。少なくともエリーゼにはそう見えているようだった。

「シエラ、わたしがあなたを守ると言っているのよ。これだけ言ってもわからないの?」

 言い募るエリーゼの口調は、これ以上ないほど必死さを帯びていた。本気で自分を仲間へ引き戻したいという思い、周りから向けられる非難から守ってでも絆を取り戻したいという願いは熱く伝わってくる。

 学校の方を見遣る。遠目に変化はわかりづらいが、水色の光がいくつも飛び交って見えた。そのたびに学校が壊されていく。逃げ道を塞がれた学生たちが傷ついていく。

エリーゼ、悪いけど、その気持ちに応えることはできない」

 迷いを帯びながら拒むと、エリーゼは一瞬顔を歪めて、バトンでシエラの頬を殴りつけた。手加減はなく、頬骨がきしむ音を聞いた。

エリーゼは無言で通り過ぎていった。シエラは振り返らず、雨脚の強まった空を進んだ。

 雨を避けようと、シエラは大きく穴の空いた建物に降り立った。そこは何度も調べ物で訪れた図書館だったが、蔵書が散乱したり焼かれたりして荒れ果て、人の姿はない。差し込む光もなく、奥は暗がりになっている。

 エリーゼに殴られたところはまだ痛む。居場所のなさを思い知らされ、それでも導こうとした手を振り払った結果の痛みだ。孤独に陥るぐらいなら元に戻る努力をした方がマシという助言にも背を向けた。

 シエラはカウンターの中の引き出しを探し、工作用の小さなナイフを探り当てた。

 セドナも、リナリアも、マテウスも、クラウスも離れてしまった。認めてしまえばいい。

 手首に刃を当てる。

 望みのない人生なんか、もうどうでも良くて。

「甘いな」

 そのドスの利いた声は不意打ちだった。驚いた瞬間、右手がひねり上げられてナイフが奪い取られる。何が起きたのか理解したのは、後ろを向くよう促す言葉で、相手を見た時だった。

 リナリアほどではないが女の割に背は高い方で、均整の取れたきれいな体つきをしている。リナリアよりも年上だろう。感情的になった時あどけなさが覗いていたリナリアに比べ、陽気な笑顔にも関わらず隙がなかった。

「誰だ」

 警戒している自分に気づいてシエラはおかしくなった。今更怖がるものもないだろう。

「通りすがりの役人だよ。あんまり睨まないように、怖いから」

「ただの役人がこんなところに来るわけないだろ」

「そうかね、たとえば廃墟マニアとか」

「何でもいい。俺に用事があるんだろう」

 答える前に女は周りを見回した。

「死に場所とするにはちょっと趣味が悪くないかね。死体も見つけてもらえないし」

「あんたには関係ないだろ」

「年下の男の子が失恋でもしたみたいに悩んでいるのは放っておけないって。お姉さんに話してみせなさいよ」

 茶化すような声音ながら、真実を言い当てられた気がした。声質は違っても、好意がすれ違った結果今があるのだから、似ているだろう。

「あんたが思ってるようなものじゃないけど、色々嫌になったんだ。やっと見つけたと思ってた仲間とか居場所とか、そういうものがすごく脆くて」

 次の瞬間起きたことを理解するまで時間を要した。床にへたり込んでいたのに気がついたが、そうなるまでの記憶が抜けている。いつの間にか女が見下ろしていた。

「ああ、ごめん。ちょっと代わりを務めようと思ってね。だから言うよ。あんたが学校入るのにどんだけの人間が苦労したかわかってんのかー」

 何故か棒読みだったが、その言葉は止まっていたシエラの頭を再び揺り動かし、殴り倒されたことが理解できた。シエラは感情のままに食ってかかった。

「何も知らないくせに、いきなり殴り飛ばすってどういうことだよ」

「知ってるよ。名前、シエラ・バルトくんでしょ。クラウスから聞いてるから」

 冷静さを保って答えた女は、自分の名前どころかクラウスのことまで話してくる。正体を問いただそうとした時背後に別の気配を感じた。それは肌だけでなく耳にも届く。

「裏切り者がこんなところにもいるとは。レリクスを与えられた天使たちの一角も落ちたものだ」

 名前も知らない天使は浮かんだまま、女を突き抜けて自分を見下ろしている。遅れて更に二人の天使が降りてきた。彼らも同じように、女を無視した目つきをしていた。

「ちょっとちょっと。三人がかりで子供を袋だたきにするつもり?」

 女が割り込んできた。三人は怪訝そうな顔をそれぞれ見合わせる。

 視線が逸れた瞬間、三人の天使の前で光るものが横切った。次の瞬間天使たちの首筋から鮮血が吹き出す。三人同時に地上へ崩れ落ち、そのまま動かなくなる。天使たちを目の前の女が一瞬で殺した。それを認めるのに情けなくなるほどの時間を要した。

「あんた何者って顔だね」

 天使ののど笛を切った刃から血液を拭き取りながら言い、女は汚れた布を捨てた。

「アンセルベルグ教区内キュール準教区出身、アディナ・エアハルト。クラウスとはドリズルで知り合ったの。あいつの同郷の先輩でもあってね」

「クラウスさんの……」

「クラウスは残念なことになったけどね」

 初めてアディナの表情が陰り、それからすぐに陽気さを取り戻す。

「そういう関係だったから、君のことはよく聞いてるんだよ。クラウスがああいうことになったから、任務を急遽引き継ぐことになってね。よろしく」

 握手を求めてきたアディナに、とりあえず素直に応じておく。

「今は俺より注目する天使がいるんじゃないのか」

「そうはいかないよ。今のところ頼りは君なんだから」

 頼りという言葉に意外さを覚えながら、アディナが鞄から取り出した物体を見つめる。厚く白い布が巻き付けられた細長いものだ。肩から指先ぐらいの長さがあるそれには、鍔のような突起もあって、剣を連想させた。

布が取られると何の変哲も無い片手剣が現れる。それはシエラにとって特別なものだ。

「どこからそれを」

「わたしの自己紹介を聞いてなかったの。わたしはドリズルの隊員で、君のレリクスは新政府が保管していた。ドリズルは新政府の管轄下にあるから、持ち出す方法もある」

「だからってそんな簡単に」

「今はそんなこと気にしてる場合じゃないでしょ。これを使ってやれることがあるとは思わない?」

アディナは革手袋をはめて刀身を持ち、シエラに柄を着き出した。アディナの手が離れると何かが元に戻った感覚がした。それだけで本物なのがわかった。

「確かに《ブレイクアップ》だ。だけど俺に何をさせるつもりなんだ」

「簡単だよ。学校の敵を排除してほしい」

「断ると言ったら」

「それでもいいよ。レリクスを返してもらうだけでいい」

 乱暴な言葉で強要されると思っていたシエラは拍子抜けした。さっきエリーゼにも示したように、戦う気持ちはない。

「でもその力で助けられる子がいるかもしれない。学友全員に石を投げられたわけでもないはずでしょ」

 言われて一人の少女を思い出す。控えめだが真剣な表情で夢を語れる情熱を持っていたアリヤ。あの場にまだいるとしたら、守らないと生き延びられない。真実を見てしまっているはずの彼女の前に出るのは勇気が要る。だからといって命の危機を見過ごせない。

「本当に使うぞ。いいんだな」

 アディナに背を向け、入ってきた穴へ向き直る。雨脚はさっきよりも激しくなっていた。

「がんばってね」

 気楽さを装った声に送り出されてシエラは翼を広げた。激しい雨に怯まず学校まで戻る。遠目にはわからなかったが、近くまで寄ってみると損壊の具合がよくわかる。四つあった塔も一つしか無事なものがなく、敷地内に並ぶ作業室や倉庫もほとんど叩き潰されている。

 そしてその合間で、天使たちが飛び交う。まだクレアスト軍やドリズルは侵入できていないらしく、天使の行動を邪魔する者の姿は見えない。シエラは集団の一つを見定めると突っ込んでいく。ちょうど残った建物をアストラルパワーで破壊しようとしていたところだった。体当たりをかまして攻撃を防いだところに別の天使が攻撃してきた。それも《ブレイクアップ》があれば通じない。周囲に水色の光が球状に発生してアストラルパワーを弾く。《ブレイクアップ》がアストラルパワーを集め、泡のような形で放出することで球状の盾を作り上げたのだ。《ドーンコーラス》のように強力な攻撃にさらされたらわからないが、平均的な攻撃には無敵のはずだ。

 天使たちを切り捨てた時、入れ替わるように地上から獰猛な気配が襲いかかってくる。襲いかかってきたのはラゲナンのレリクスプロヴィデンス》だ。戦斧としての力を球状の盾は防げず、剣で受け止めるのも難しいほど強い。

 シエラは距離を取り、《ブレイクアップ》を薙いだ。すると剣の軌跡をなぞったように炎のような揺らめきを持つ光が飛び出した。予想していたようにラゲナンはかわしたが、その一瞬に隙ができる。剣の勝負を挑んだがつばぜり合いの末に再び突き放される。

エリーゼの導きを足蹴にした上で戦うのか」

「もしかしたら俺にもまだやることがあるかもしれないからな」

「くだらん。俺は見ていたぞ。セドナに煽られて石を投げる連中のことを」

「それでも殺されるのを見過ごして良いことにはならない」

 救ってもまだ、誰も自分のことを許さないかもしれない。しかし命が助かった事実だけは残る。その事実を元に先へ進んでいけばいい。

「まだ学校で暴れるつもりなら相手になる。空中戦なら俺の方に分があるぞ」

 ラゲナンの《プロヴィデンス》は地上戦で特別な力を解放できるが、空中では物理的な力しか使えない。手数の多さで争うならまだ自分に有利だ。

 それを心得ているのか、ラゲナンは鼻を鳴らして武器を肩に担いだ。

「お前が生き残っていることが既に予定外だ。深入りする気はない」

 背を向けたラゲナンは飛び去った。それを追わずシエラは地上へ降り立つ。ラゲナンの撤退が合図だったのか、残った天使たちも自分の降下に構わず上空へ逃れていく。急激に人の気配は薄くなっていく。

 シエラは地上を走って学生を探した。やがて崩れた塔の影に隠れているアリヤを見つける。耳を塞いでしゃがみ込むアリヤに一歩近づくと敏感に存在を感じ取ったらしく、ぱっと振り返った。そのまま後じさり、やがて背中を壁にぶつけてへたり込む。どう扱えばいいのかわからず、とりあえず控えめに名前を呼んでみると、手当たり次第に石を投げつけてきた。いくつかは顔に向かい、とっさにかざした手を傷つけた。

「来ないで! 近づかないで!」

 わめきながら石を投げつけ、それが尽きると小さな体をいっそう縮める。テオドルたちの仲間に戻ることを拒んで、助けに来たのだと言っても聞く耳を持たない勢いだった。立ち尽くしていると誰かが近づいてくる感じがした。

 振り返ってもそこに人影はない。気配は上空からだった。

「アリヤ、そんなところで何をしてる? シエラまで」

 ゆっくりセドナが降りてくる。天使の翼はなく、何も持っていない。正真正銘身一つで浮かんでいた。人間業とは思えず言葉を失った。

 彼女はシエラとその奥で怯えるアリヤを順番に見て、ため息をついた。

「やれやれ、困ったものだねアリヤ。もっとお前は冷静な子だと思っていたが。そう取り乱しては男どもから幻滅されてしまうよ」

 高く、愛嬌を帯びて響く声は聞き慣れたセドナのものだった。しかし喋り方はまったく違う。そもそもアリヤへの接し方、呼び方がまったく違う。

「君はセドナなのか」

 地上に降り立ったセドナを睨んで問い詰める。陽気な笑顔とアリヤとおそろいの髪飾りは変わっていない。

「少なくとも外見はそう見えるはずだが。アリヤよ、お前にはどう見える」

 アリヤはびくりと身を震わせてから背中を向け、耳を塞いだ。そんな姿を見ながらセドナは笑顔を貼り付けたままため息をつく。

「どうしたものかな。親友を信じられないとは困ったものだ」

「本当に親友なら、相手が怯えているのに楽しそうな顔はしない」

「ほう、そういうものか。儂に人間のふりは難しいな」

 セドナの小さく丸みを帯びた顔が歪められた。中身が変わったのを確信した。

「エルマと一緒にいたな。君は最初からあいつらの仲間だったのか」

「あれを見られておったとは、うかつだったかな」

「周りの奴らを煽ったのも、あいつらに頼まれてのことなのか」

「あの天使たちとは持ちつ持たれつでな。協力に対する礼だよ」

「君は何者だ」

「わたしの親友でしょ、そうでしょ、セディ!」

 悲痛さを帯びた声が後ろから響く。セドナはつまらなさそうに鼻を鳴らし、顔を歪めた。

「何のことかな、アリヤ」

「セディ……」

 呆然としたつぶやきの後、アリヤは放心したようにセドナを見ていた。その目つきは何も見ていないかのように力を失っている。

 それを冷たく見つめるセドナの周囲で風が泥と小石を巻き上げながら渦巻き始めた。

「もう天使どもの願いには充分応えた。あとは好きにさせてもらおう」

 小石が突風と共に向かってきた。シエラはとっさに、小石の軌道上に身を投げ出す。腕で体を守り抜いた後振り返る。アリヤが傷を負った様子はなく、安堵する。

「天使よ、小娘の機嫌を取ろうというなら無駄だぞ。味方もないのに何を守る」

 アリヤに石を投げられたのはかなり堪えた。アリヤだけは何も変わらないと微かな期待を持っていた。それが裏切られる結果となったが、彼女を恨む気持ちはない。

 風が再び強く流れる。泥や小石は飛んでこないが、足下をすくうような流れとなり、上半身は強烈な圧力を感じる。

「主では儂に勝てぬよ。主には羽があるだろう、空へ逃れなければ壁に叩きつけられるだけだ。そのまま押しつぶしてやる」

 セドナの声がそそのかす。空へ逃れれば自分は確かに無事で済む。しかし今度は、自分を風よけにしているアリヤが危険にさらされる。

「……言いたいことはそれだけか」

 翼を広げてアストラルパワーを集め、本来なら下降するために行う運動を地上でする。足に強い負担がかかるものの、それで風に負けない踏ん張りが手に入る。

「意固地じゃな。儂の言葉に反抗してもいいことはないぞ」

「違う。俺が引いたらアリヤが死ぬ。アリヤを守るために俺は逃げない」

「主はその小娘が何をしたのか忘れたのか」

「俺に石を投げた。それがどうした」

「それは主を拒むことに――」

「うるさい! それでもアリヤが死んでいい理由はない!」

 シエラは叫び、広げた翼を風に抗って羽ばたかせた。上でなく、前へ進むために。それに対抗するように向かい風は強くなり、泥を巻き上げるほどに力を増す。足を浮かせたことで風を全て防ぎきれなくなった。時間をかけたらアリヤが危険にさらされる。

「貴様、儂の風に逆らうのか」

 セドナの狼狽に対し、剣を引き、力をため、一気に薙いだ。アリヤに向けて目を閉じろと叫ぶ。直撃させられる距離だった。セドナがどんな状態になるかイメージできた。

 セドナの胸に揺らめく光が直撃し、苦悶の表情を浮かべた。体を前に折ったが倒れない。衝撃から立ち直るようにそのままの姿勢を保ち、やがて顔を上げた。

 肘のあたりから血が流れ、赤銅色の肌に赤い筋をつける。手首まで流れてきたところでセドナはそれをなめた。

「人間の血を味わうのは久しぶりじゃな。一五〇年は経っておるか」

 服の破れから肌が露わになるのも構わず、セドナは凄絶な笑みを見せた。一方で目つきは険しく殺意に満ちている。反撃を覚悟した時鞭のようなしなりを帯びたアストラルパワーが二人の間に落ちた。

エリーゼ、遊びすぎだと言いたいのか」

 セドナは恨めしげに見上げる。視線の先には十字架の形をしたレリクス《コンルーメンション》を持ったエリーゼが浮かんでいる。十字架が振り上げられると、セドナは応じたように勢いよく上昇した。やはり原理不明のやり方で飛んでいる。初めて出会った時のセドナが箒を使ってやったように、空を飛ぶのは不可能ではない。しかし、それにしても道具や呪文が必要になるはずだ。今のセドナのやることは人智を超えていた。

 危険が去ったのを確認してアリヤを振り返る。力の無い双眸で見つめ返してきた。

「シエラくんは……一体何なんですか……」

 震え声で訊いてくる。答えになり得る言葉はいくつも浮かんだが、その中で一番単純

と思われる答えを選ぶ。

「仲間だ。班別研究の時に見ていたのが俺の素顔だ」

「でも天使じゃないですか。わたしたちを騙していたんですか……?」

 否定はできなかった。真実を隠していたことを騙していたと非難されたら言い返せない。

「確かに俺は天使だ。この学校を襲った連中は昔の仲間なんだ」

「でもわたしを守ってくれて、でもセディを殺そうとして、セディはわたしを殺そうとして、親友だったって嘘だったって……」

 声が徐々に泣き濡れていき、最後に両手の拳を地面に打ち付けた。

「何だっていうんですか! わたしが信じてきたものは一体何だったんですか、全部嘘だったんですか、わたしはみんなにいいように利用されただけだっていうんですか! こんなわたしの姿を見て嘲って、みんな楽しいんですか!」

 かけるべき言葉が見つからなかった。自分でもまだ迷いを振り切れず、アリヤを言葉で落ち着けることなどできそうにない。

「悪い」

 シエラはそう言って、素早くアリヤの膝の裏に手を差し入れて仰向けにすると、そのまま抱え上げた。しゃくり上げていたアリヤは、今度は悲鳴をあげながらシエラの手から逃れようと暴れ出す。

「離してください、どこへ連れていこうって言うんですか!」

「君を守ってくれる人のところだ。その人は天使じゃない」

「そんなこと言って、信じられるわけないじゃないですか!」

「それでもいい!」

 シエラの叫びにアリヤは身を震わせて黙った。

「どのみち今は空でも飛ばない限り脱出できないんだ。せめて逃げ延びるまでは静かにしてくれ。俺は君に、生きて夢を叶えて欲しいんだ」

 アリヤは黙った。自分を信じたのか、あるいは気迫に圧倒されたのか。とりあえず静かにしてくれたから、飛ぶことができる。

「飛ぶぞ!」

 予告してから飛び上がる。アリヤは両手で首筋に捕まった。

 負担がかからないように高度と速度を抑えて飛んでいく。雨で下がった気温に、吹き付けてくる風。アリヤ自身も雨で濡れた。震えているのは恐怖のせいだけではないだろう。

 図書館に戻ると天使たちの遺体はどこかに片付けられていた。血痕も洗い流されていて、アディナはカウンターに腰を寄りかからせて待っていた。

「上出来だね」

 カウンターに置かれたカンテラを持ち、笑みを浮かべて歩み寄ってくるアディナの前でアリヤを降ろす。不安げな目で二人を交互に見たアリヤに、アディナは目線を合わせるように長身をかがめ、身分証を出した。

「説明されたと思うけど、わたしはこういうものよ」

「じゃあシエラくんは……」

「天使なのは確かだけど、あなたを助けたいって言ってね」

 アリヤが振り向いた。信頼と疑いがない交ぜになった眼差しを送る。

「アディナさん、アリヤを頼む」

 そう言って背中を向けたシエラを引き留める声を上げたのはアリヤだった。

「これからセドナを探しに行く」

「探し出して、どうするんですか」

 はっきり口にするのは辛かったが、

「俺には殺すしか解決策が思いつかない」

 アリヤが再び怒り出すのを覚悟して答えた。

 しかし息をついて目を伏せただけのアリヤはしばらくそのままでいて、ややあって顔を上げた。戸惑いの奥にはある種の決意が宿って見える眼差しだった。

「ついてきてくれませんか。もしかしたらセディを助けられるかもしれないです」

 どういうことだと訊き返したいところだったが、アリヤの眼差しの前には余計な言葉が浮かばず黙って従った。

 アリヤは自分の下宿先に案内した。四階建ての最上階にある部屋の周囲はひっそりとしている。入室を促されて足を踏み入れた部屋はかすかに良い匂いがした。灯りがつくと整然とした様子の部屋が露わになる。勉強机の隅には何冊かのノートがまとめられていた。

「シエラくん、わたしの個別研究のことですけど」

 そう言ってアリヤは表紙に『個別研究』と書かれたノートを見せた。読むように言われて内容を流し読むと、人工チーナの作り方について書かれていた。

 アイマト魔術が広まっていく過程で、自然と共存していく姿勢のアシレミア魔術は廃れていったが、アイマト魔術に反抗するためにアシレミア魔術を身に着ける者が存在する。その力はチーナという自然の化身から得るが、目的を達成してもチーナと別れることができず、挙げ句の果てにチーナに体を乗っ取られるという事件が多発している。人工チーナは、チーナから体を取り戻すために使うものだ。

「個別研究の過程で調べたことと、今のセディの状態はよく似てると思うんです。何とかチーナを追い出せばあとはわたしの人工チーナでセディを救えるかもしれません」

 答える前にノートの内容を読み返す。同じ環境にあり、それも年下の人間が書いたとは思えないほど重厚な内容だった。もしかしたらと思う一方、セドナが本当にチーナに憑かれているだけなのか疑問も残る。失敗したらどうすると訊くと、その時は任せますとアリヤは静かに答えた。

「放っておいたらどうなるかわからないですし」

 口調は平坦だったが、親友であることを否定された時の希望を失った顔を思うと、苦しみを隠しての発言であるのがわかる。シエラもそれに応えるつもりで短く答える。踵を返して入り口へ向かった時、アリヤが呼び止めた。平静を保つ緊張の糸が切れたように、再び迷いをにじませる声だった。

「あの、シエラくん、その……」

 顔を伏せて言うべき言葉を探すように小さなつぶやきを重ねる。シエラは黙って続く言葉を待つ。ややあって彼女は頭を下げた。

「ごめんなさい、あんなにひどいことをして、本当にごめんなさい!」

 それは思った通りの言葉だった。恨む気持ちも哀れむ思いもなく、シエラは気にしないでいいとだけ言った。

「怒ってないんですか」

「あんな状況に放り出されたら混乱するのは当然だから。それより友達を一緒に助けようと言ってくれることが嬉しいよ。俺にとっても大事だから」

 拒絶や罵倒を覚悟してアリヤの元へ戻り、彼女を守ることができて心の底から良かったと思う。命をつなぐだけでなく、彼女の親友を、自分の仲間を取り戻すチャンスまで手に入れられた。痛みに耐えた意味は充分にあったのだ。

「さすがに俺はコンサートマスターにはなれないと思うけど、魔術協会に入るぐらいなら目指せる。できればセドナリナリアと一緒がいいからな」

「そのためにもセディを助けます」

「ああ、行かなくちゃな」

「はい!」

 二人は笑いあった。切迫した状況に似つかわしくないような優しい雰囲気が流れたが、不信と不安に揺れていた心が鎮まり、癒やされていくようで、シエラは嬉しかった。

 図書館へ戻る頃には完全に日が沈んでいた。カウンターに置かれたカンテラは三つに増えている。その光の中でアディナ、そしてビロウとガウラが出迎えた。

「あんたたち、どうして」

 昼間の出来事があったので身構えたが、二人は何気ない様子で口を開いた。

「事情の説明が必要らしいな」

 ビロウがアディナの方へ視線を流す。彼女はうなずき、語り出した。

「クラウスが君の監視をしていたのと同じでね。わたしもガウラ・ヒュッケル、ビロウ・ヘルシェル、そしてリナリアラムザウアーを監視してきたわけ。それで今度は、クラウスがあんなことになったから、わたしがまとめて面倒見ることになってね」

「あんたたちは、何者なんだ」

 戦場帰りで大聖堂派の天使だった自分の立場を思いながら訊いた。三人にもそれに近い過去があったのだろう。

「俺たちは審問騎士団の一員だった」

 ビロウの言葉で納得できた。審問騎士団は終アストラル戦争中スクオールで結成された武装集団で、総主恐怖シャフハウゼン家の方針に反対する者の粛正から戦場での活躍まで、語られる時は必ず血なまぐささを伴う兵士たちだ。

「言っておくが、リナリアが君を殺そうとしたのはあいつの暴走だ」

「命令違反だって言ってたな」

 ビロウはうかがうようにアディナを向き、彼女が頷いたのを見てから言葉を継いだ。

「俺たちの入学条件の中には、マハナイムの天使であるシエラ・バルトの周囲、特に学校内で発生する脅威を排除するというものがあった。だからあの時、俺たちがやるべきだったのは天使たちを倒すことだった。君を殺して脅威の大元を倒すことじゃない」

 信じてくれと懇願するように強い眼差しだった。その意図を図りかねたが、リナリアを止めてくれた二人の行動を信じることにした。

リナリアはどうしたんだ」

「さあな。《ユングフラウ》を持ったままだから、戦うつもりはあるんだろうが」

 ビロウは微笑んだ。事情や状況に似つかわしくない表情で、親しみさえにじむ。

リナリアは居場所を守るので必死なんだ。そのために君が邪魔に感じたらしいな」

「誤解しないでもらいたいけどな」

 脳裏に浮かんだリナリアの冷たい言葉を消し飛ばすガウラの大声だった。

「俺たちはあいつと考えが違う。お前が学校で学んじゃいけないなんて思ってねえ」

「そうだ。君と俺たちは同じようなものだ。それを乗り越えようともがきながら新しい文化や技術を学んでいく。そういう姿勢が一緒なら俺たちは仲間だ。消えてはいけない」

 二人の語り口は対照的だったが、同じ思いが宿る言葉だった。

 一緒に学んでいこう、そう訴えかけていた。

「だから助けが必要なら協力する。あの天使たちを排除するのも役目の一つだからな」

 ビロウは微笑んで言った。何度も話したわけではないのに、共に死線をくぐってきた仲間と対立してまで自分を守ってくれた。それだけで信頼を預けられる気がした。

「それなら頼みがある。セドナを助けてほしい」

 アリヤが後を引き継いで事情を説明すると、ビロウの口から精霊砕きという言葉が出た。

「魔術協会発足の頃から存在している問題と解決法だな。セドナの体を乗っ取ったチーナを引きずり出して、砕いてセドナの意思を取り戻す。しかし協力者が必要だな」

「精霊砕きを用意しないといけないですね」

「それならリナリアを引っ張ってくれば良い」

「どういう意味だ」

「あいつの持っている剣がそれだ。あの剣の刀身に使われているクシャルという物質は、元々精霊砕きの剣を鍛えるために作られたものだ。天使の力を阻害したり血を洗い流したりという力は本質じゃない。しかし精霊砕きはともかく、その方法を採るには他にも準備があるだろう」

「それはわたしがやります」

 アリヤが背伸びをするように言った。眼差しに何かを感じたようにビロウは頷いた。

「じゃあまずはリナリアを探して――」

「甘いね」

 黙って遣り取りを聞いていたアディナが言った。笑顔で突き放すように冷たい声だった。

「そのセドナって子がチーナに操られているとしても、ただの被害者とは言えないね」

「どういう意味だ」

「アシレミア魔術は本人が望まなければ使えない。チーナが勝手に降りてきて憑くことはない。その子は望んで攻撃に参加したことになる。その罪は変わらない」

「そうなのか」

 アリヤに訊くと、彼女は苦しげな表情で頷いた。

「確かに、セディの中に何らかの悪意があったのは否定できません」

「だとしたらたとえ助け出しても同じことをするよ」

「でも間違って手を出したってこともあります。人工チーナを必要とする人のほとんどは、用事が終わってもチーナから体を返してもらえず暴走してしまうんです。セディだって」

「責任の大半はチーナにあると言いたいの?」

 アディナの死線を受け止めて、アリヤは清々しく笑った。

「セディにだって間違うことはあるはずですから」

 それはいつか、セドナから贈られた髪飾りを指して彼女の良さを伝えようとした時と同じ表情だった、セドナを心から信じる純真な笑顔。

 アディナはため息をつき、勝手にしなさいと言って立ち去った。

リナリアは俺が探す。あいつが《ユングフラウ》を手放すことはあり得ないから、それの位置を追跡すれば見つけられるだろう」

「そうだな。ビロウ、リナリアを引っ張ってくるぞ」

 頷くビロウ。二人が当たり前のように動くから戸惑ったシエラだが、アリヤはお願いしますの一言で送り出す。二人はそれぞれの返事をして入り口へ消えた。

「君にも準備があるんだな」

「はい。できればわたしの傍にいてくれませんか」

「当たり前だ。君を一人にしておけない。君は俺が守る」

 クラウスが死の瞬間まで自分を守ろうとしていたように、今度は同じことを自分がやる。見つめ返すアリヤの眼差しから、さっきまでの拒絶や迷いがない交ぜになった濁りは消えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第四章 おかえりセディ

 

 コップにポットから茶を注ぐと空気がふわりと変わる。昔から緊張を和らげてくれる頼もしい香りだった。

「今日は何の茶を淹れてくれるのかのう?」

 椅子の上で足を組んだ少女が見た目に似つかわしくない老成した語り口で問いかける。

ジャスミン茶よ。ずっと東の国で飲まれているらしいわ」

「良い匂いじゃな。気に入ったぞ」

 香りを嗅いで嬉しそうな顔をする少女は無邪気で、黙っていれば肌の色と髪飾り以外に目立つ特徴はない。昨日シエラから受けた傷も完治し、その時破れた服も取り替えた。

「あなたは何者?」

 自分のカップを取って少女の前に腰を下ろす。茶を飲んで満ち足りた表情を浮かべていた少女は、カップをソーサーに置いてから黒い双眸を向ける。

「さあのう。人は儂のことを南風のカチナと呼ぶが」

 天使たちの中で唯一の女だからとテオドルに監視を頼まれて以来の疑問の一端が解けたような気がした。アシレミア魔術で信仰されてきた自然の化身はチーナと総称される。チーナには自然に元々存在していたアニマと、人間が転生したと言われるカチナがある。真実ならば、セドナに宿っているのは元々人間だった存在ということになる。

「あなたはアイマト魔術への復讐のために、この子の体に憑いたのかしら」

 アシレミアでは一四七年前に統一戦争という三年に渡る戦争があった。西方の魔術を初めとする文化を信望する五つの部族と、アシレミアの伝統的な生活を守ろうとする東側の多数派部族との争いだった。結果は後に開化五族と呼ばれるようになる西側の少数派部族が勝利した。彼らがアシレミア半島を支配するようになった過程でアシレミアの伝統文化は破壊され、魔術の二大潮流を構成していたアシレミア魔術も駆逐された。

「もちろんじゃ。しかし誤解しないでもらいたいが、それは儂の意思だけではない」

「どういうこと」

「この小娘も同じことを望んでおったということじゃ。今回の戦いは、儂にとっても小娘にとっても復讐なんじゃ」

「あなたの憑くセドナという子、何か事情がありそうね。訊いてもいいかしら」

 セドナは考えをまとめるように瞑目し、残りの茶をすすってから口を開いた。

「まずこの小娘の出自じゃ。学校では開化五族の一つムフウエセ族出身と言っていたそうじゃが、そこから既に嘘がある。小娘の出身はチューレ族という」

「それは開花五族には含まれていないわね」

「その通り。わしを代々信仰しており、小娘はわしが憑くための依り代の家系じゃったが、統一戦争で東側に付き、敗れ去った。開化五族の者共は徹底的にアシレミアの文化を破壊し敵対部族も虐殺したが、滅亡の憂き目に遭わなかった者たちもいた」

「チューレ族がその一つというわけね」

「そういうことじゃ。チューレ族の族長は敗戦に当たって命乞いをした。もはやチューレ族の名は歴史から忘れ去られておるが、セドナは確かにその末裔に当たる。だからと言って誇りなどないし、母親も本人も命乞いをした族長を恨みながら生きておったがな」

「どうして」

「古来戦争に負けた者の運命など一つしかない。そして一度その運命に陥れば、脱出はほぼ不可能じゃ」

「どういうこと」

「わからぬか。奴隷じゃよ」

 耳から入ったはずの言葉が、何故か口の中で苦みを生んだ。

「もっとも奴隷制度自体は消滅したがな。そろそろ六〇年になるか。半島を二分した東西戦争で勝利した西部が奴隷解放宣言を出しておる。チューレ族も普通の市民に引き上げられたが、そんなことぐらいで人間の意識が変わるものではない。今に至るまで、苦しい暮らしを強いられてきたのだよ」

「そしてあなたとセドナは利害が一致したわけね」

「だから感謝はしておる。望むとおり儂の風の力、更には人間離れした体まで与えてやった。そこまでしてやったのに、この小娘はあろうことか怖じ気づきおった!」

 語っていく内に上機嫌となっていったセドナが突然悪態をつくような表情に戻った。言葉の真意がわからずに訊き返すと、所詮復讐などやれる器ではなかったということじゃ、と吐き捨てる。

「クレアストの魔術を叩き潰して信頼を失墜させる。そのために学校へ入り、目的を同じにするお前たちの手引きをさせたのに、儂が体を返した途端アリヤとかいう小娘と打ち解けおって。その小娘を傷つけたくないから出ていけなどとぬかしおった。何度言い聞かせても聞かんし喧しいので眠ってもらったわ」

「まさか殺したの」

「ただ眠ってもらっただけだ。もっとも、このまま時が過ぎればセドナの命は尽きるが」

 言い終えるとそれ以上の質問を拒むように茶の残りを飲み干し、セドナは席を立った。

「さてエリーゼ、アリヤの扱いはどうなっておる」

「アリヤって、セドナと仲の良かった子のことかしら。別に指示は受けてないわ」

「そうか。ならばどういう目に遭わそうと儂の勝手ということじゃな」

 セドナは言い、窓枠へ足をかけた。

「傷も癒えたし、運動のついでに始末してくる。余計なことをされては困るのでな」

「そんな、勝手な行動は」

 立ち上がった瞬間、頭上から何かに抑えつけられて座らざるを得なくなる。それは徐々に力を増し、ついには椅子が壊される。しりもちをついたところで止んだ。

「儂は務めを果たし、その後の指示も受けておらん。ならば好きに動いても良いということじゃろう。なに、主らの不利益にはならぬよ」

 セドナは歯を見せて笑った。そのはずなのに、エリーゼは総毛立つ感じを味わった。野獣が牙を剥いて得物を威嚇するような表情が、偶然笑顔に見えただけかもしれなかった。

 セドナは窓から飛び降りた。次の瞬間には窓と同じ高さまですうっと昇り、アストラルラインに向けて飛び立つ。エリーゼは一瞬ためらってから追いかけた。胸騒ぎがした。それは更に同志を失うかもしれないという不吉な予感だった。

 

 目を閉じてから五分もしないうちにアリヤは寝入ったようだった。肩に寄りかかって規則正しく寝息を立てている。シエラはそれを邪魔しないように息を詰めた。魔術学校が襲われてから一日が経って、その間街には兵士が威圧的に出歩き、戒厳令も敷かれた。夜の外出は禁止されているから、見つからないように警戒しながら歩いていた。

 セドナの変化が、悪意を持ったチーナによるものだったとしても、セドナ自身にも悪意があったことは否定できない。アディナに指摘されたことだが、アリヤは構わずセドナを探し出すことに決めたようだった。それはいまだセドナを親友として信じているからだ。

 アストラルラインを見上げてシエラは時間を計り、ビロウから渡された道具に目を落とす。占星術で使うホロスコープには、自分たちが作るはずだったプネウマ紙が使われ、その上にリナリアが持つ《ユングフラウ》の反応が表れるという。今のところは静かだった。

 水色のアストラルラインを眺めていると、不意にそれが揺らいだ気がした。人影が流れを妨げたのだ。それほど大きくない人影は特徴的な影を背負っている。

 アリヤを揺さぶると、まだ眠りが浅かったらしくすぐに目を覚ましてくれた。頭を振って上空を注視する。

「あいつはセドナと一緒にいた天使だ。近くにセドナもいるかもしれない」

 果たして人影はもう一つ現れた。こちらはどんな原理で飛んでいるのか全くわからない。セディ、とアリヤが呟いた。彼女が原理不明の力で空を飛んでいることは受け入れているようだった。

 セドナの隣に浮かぶエリーゼは、十字架の形をしたレリクスを振り回す。まるで舞踏のように洗練された動きに合わせて、鞭のようなしなりを帯びた光が幾重にもなって地上へ叩きつけられる。エリーゼレリクス、《コンルーメンション》による攻撃だ。アストラルパワーを広範囲へ振りまくことで空中から地上を攻撃するために作られた武器である。

《ブレイクアップ》の力を使ってアリヤと自分の身を守るが、援護するように強風が落ちてくる。真上からの風に押しつぶされるのを避けて、アリヤを抱きかかえて飛んだ。

「シエラくん!」

 二人の攻撃で壊されていく街を見下ろしていると、アリヤが声を上げた。切迫と同時に期待も抱いているような響きだった。

ホロスコープに反応が!」

 飛び立つ直前、アリヤに手渡したホロスコープは、リナリアの接近を感知したようだった。アリヤにその場所を教えてもらい、その場所へ向かう。やがて翼が動かなくなっていく。一度経験したら忘れられない、翼を封じる《ユングフラウ》の力だった。

 リナリアは噴水広場にいた。石畳に亜麻色の剣を突き立てて立ち尽くしている。追いかける途中で飛べなくなったエリーゼも、噴水を隔てて降り立つ。三すくみの状態に陥ってそれぞれにらみ合った。

「アリヤ、これはどういうことなの」

 気迫をみなぎらせたリナリアに鋭く問われてアリヤは言葉を詰まらせた。それでも答えようと口を開くが、妨害するように上空から突風が落ちてくる。誰もいない場所に吹き付けたが、地上を這うように広がって全員の足がすくわれる。

 シエラは転びそうになりながら翼を羽ばたかせてバランスを取り、地上を滑るように移動してリナリアの手を掴んだ。抗議の声を上げるリナリアを強引に引っ張る。起き上がったアリヤも走り寄ってきた。

「お願いします、セディを助けてください」

 無事な建物の影に押し込まれながらアリヤは声を上げた。

「あれを助けろって、一体何なの」

「セディは悪意を持ったチーナに操られているだけなんです。わたしとリナリアさんならその悪霊を倒せます」

 アリヤが必死の声を上げている間にも風は容赦なく吹き付ける。そして正面からエリーゼの攻撃も加わり、シエラが前に出て二人を守る。エリーゼの攻撃は防げるが、周りの建物が壊れることで降り注ぐ瓦礫と、セドナの繰り出す風までは防げない。

「ここまでのことをしてくるのに、信じられるわけないでしょ」

「信じてください! それしか言えないけど、信じてください!」

 必死さにいっそう熱がこもった。エリーゼの攻撃を防ぐことに専念しながら、シエラは背中で二人の遣り取りを聞く。押し黙ったリナリアは、ややあってシエラの傍に立った。

「何をするつもりか知らないけど、あの天使を倒さないと始まらないわね」

「セディが地上に降りたら、わたしがチーナを外へ引きずり出します。それをリナリアさんが倒せばセディを助けられます」

「あれを止められるのね」

 セドナを見上げて言ったリナリアに、力強くアリヤは返事をした。

 駆け出したリナリアは、エルマとの戦いで見せたように光を切り裂きながら突き進む。危険を感じたらしいエリーゼは距離を取った。それを追いかけて速度を上げたリナリアは、狩りに臨む肉食獣のように激しく襲いかかる。雄叫びを上げながら斬りかかる姿は、血まみれという二つなの由来がわかるようだった。

「シエラくんはここにセディを降ろしてください。そうすればあとはわたしとリナリアさんで止めますから」

 羽の重さは消えていて飛べるようになっていたが、エリーゼは飛べない。リナリアの猛攻に飛翔のチャンスを見いだせないのだろう。

「シエラくん、お願いします」

 アリヤの視線が背中を突いた。全てを託すかのように強く重い信頼を帯びて感じた。

「任せろ」

 振り向かずに返事をして飛翔する。渦巻く空気の流れを巧みに泳ぎ、強風から脱出して上空のセドナに襲いかかる。一瞬驚愕した彼女は、すぐに余裕のある笑みを取り戻して刃を軽やかな動きでかわした。

「また会えたな。まさかあの小娘と一緒に来るとは思わなんだが」

「お前は誰だ。セドナじゃないんだろう」

「さあのう。人は儂のことを南風のカチナと呼ぶが」

 軽口を叩くように言い、少女の顔で笑う。そのはずなのに、歯を見せた笑顔が牙を剥いた威嚇に見えた。

 ほとんど動いていなかった周囲の空気が突如流れ出した。まるでセドナに引き寄せられたように風が渦を巻き始めた。

「儂の邪魔をするなら容赦はせぬ。散々無礼な口を利いた主に身の程を教えてくれる」

 風の流れが止まった。不穏な気配を感じ取ってセドナの真正面から逃れた直後、左肩に鋭い痛みが走る。服がその下の肉ごと抉られ、真っ赤な傷口が開いていた。

 戦慄する暇も与えられず、シエラは風圧に捉えられる。それは極めて狭い範囲に風圧が集中して、体を切り進んでいく。痛覚を直接切り裂いていく激しい痛みに耐えながら、シエラは回転しながら急上昇して風を吹き飛ばす。目に見えない刃は翼から離れた羽を切り刻んで飛んでいった。

 休まずに急降下し、《ブレイクアップ》にアストラルパワーを集めて振るう。光の炎がセドナを捉えたが、身をよじって逃れる。顔を歪めた彼女は急上昇して、拳を振り上げて殴りかかってくる。それ自体は脅威を感じなかったが、拳をかわした瞬間鋭い痛みが胸に走る。風の刃が拳に宿っていたらしい。

「空を駆け回って戦えるのは楽しいものだ、なあ、天使よ」

 余裕を見せるセドナはシエラの胸を蹴って距離を取った。再び風がセドナの方へ集まり出す。風の刃をかわそうと上昇して光の炎を飛ばす。今度は対応しきれなかったらしく、地上へ押し込まれた。

 地上を見遣ると、アリヤのいる場所には落とせないのがわかった。セドナを追いかけ、一定の距離を保ちながら指定された場所と対角線上に並ぶ位置まで来ると、一気に加速して体当たりした。

 同時に両腕を掴んで自由を奪う。地上へ押し込まれていく中でセドナは笑みを消した。

「貴様、儂を地上へ落とすつもりか。しかしこれでは風に切り刻まれるぞ」

 風が流れ、後ろへ向かう流れから横へ逸れる流れが生まれる。そして背中に鈍い痛みが叩きつけられた。セドナは残忍な笑みを取り戻す。深く痛みが浸食してくるのをこらえるが、表情の歪みは止められない。それを楽しむようにセドナの笑みは深くなり、とうとう声を上げて笑い出した。

「小僧、ここで耐えたところで誰を守れる。今度はあの時と状況が違うぞ」

 声に一瞬納得しかけたシエラだったが、地上でアリヤが見上げているのに気づいて、手に込めた力を強めた。

 気迫が伝わったのか、セドナの表情から再び笑みが消え、逃れようとするように手足を激しく動かし始めた。

「離せ小僧! 貴様ごときが儂を押さえ込むなどあってはならんのだぞ!」

 そして地上へ叩きつけてセドナを押さえ込んだ。すかさずアリヤが何かの呪文を詠唱する。ピッチとはまた違うものだった。セドナが苦悶の叫びを上げ、磔のような格好のままにらみつける。上空で戦っている間にアリヤが描いた陣から出ると不意に体が揺らいだ。

 リナリアを大声で呼ぶと、それだけで骨が軋んだ。彼女が戻ってくるのを見てシエラは翼を大きく広げて加速した。攻撃態勢に入っていたエリーゼへ斬りかかる。長短二本の棒に分離した《コンルーメンション》と噛み合う。エリーゼは長い方で受け止めながら短い方で殴りかかってきた。それを避けて距離を置くと、すかさず十字架の形に組み合わせて光の鞭を繰り出しながら上昇する。

 何度も訓練で手合わせした相手だからか、セドナに当てられた光の炎は通じない。めげずに追撃して斬りかかる。《コンルーメンション》を振り回して振り払ったエリーゼは更に上昇、光の鞭を降らせる。幾重にもなった光をかわすことは諦めて、球状の光で防ぐ。攻撃が終わると再び斬りかかり、再び防がれた。

「どうしてそこまでするの」

《コンルーメンション》の向こうで、エリーゼが切なげな顔をして訊いてくる。力を入れるたびに体中が悲鳴を上げるように苦痛が生まれ、そのせいで中途半端な力しか入らない。

「どうして黙っているの、答えないなんてずるいわ。おかしいじゃない、そんなの!」

 責め立てる響きが混じってきたが、シエラは口を開かず、力負けしないよう必死だった。いつしか空が白んでいた。

 

 初めはおぼろげだった姿が徐々に実態を伴っていく。それに合わせてセドナの動きが静まっていく。

 頭と身を守るように閉じた赤い翼が印象的だった。それだけなら巨大な鷲のようにも見える。しかし細く強靱な足が生えている胴体は蛇のように長い。その異形を前にリナリアは《ユングフラウ》の柄を握りしめた。戦いがどのように推移するか見えなかった。

リナリアさん……そろそろです……」

 呪文の詠唱を止めたアリヤの声で我に返った。その声は妙に疲れていて、息も荒い。

「もうすぐセディが自分の身に宿したチーナが出てきます……」

「アリヤ、そんなに疲れて……」

「覚悟の上です、セディに比べたら、死ぬわけじゃないし……」

 疲れのにじむ顔でアリヤは無理に笑みを作ったように見えた。

「でも、あまり長くはもたないかもしれません……、わたしが倒れるまでに倒してください……。自由になられたら、もう、終わりです……」

「わかる気がするわ……」

 長く剣を握り続け、実戦で培った感覚が警告を発している。目の前の敵は危険すぎる、逃げないと命を失いかねない相手だと。学生たちを逃さないよう、学校の周りに置かれた罠も、きっとチーナの仕業だったのだろう。調べた限りでは道具も、何か呪文を使った様子も見つからなかった。それだけで相手が人智を超えた存在であるのが推し量れた。

「一つ訊いてもいいかしら。どうしてここまでのことができるの、怖くないの?」

 思ったよりも心根は強いようだが、穏やかな人柄から、他人に対して手を上げた経験さえないと思っていた。そんな少女が現在周囲で展開される状況に怖じ気づかないのは、本人の気質だけでは説明がつかないだろう。

「セディが……友達が苦しんでいるんです、何とかしてあげたいじゃないですか……」

 こんなことぐらい何でもないと言うように、疲れ切った顔で笑った。

「わたしたちのこと、もう全部知ってるんでしょう。腹が立たないの?」

「そりゃあ立ちましたけど……」

 アリヤは迷いを見せながら言葉を紡いでいく。

「でも、みんなわたしの頼みを聞いてくれてます……。セディだって、全てが嘘だったわけじゃないはずです……」

 途切れ途切れに語る内に、セドナの上でチーナが実体化を始めていた。鷲の頭と翼。そして蛇の胴体を持つ異形の鳥。真っ赤な翼が揺らぐと猛禽類の鋭い目が覗く。ただの鳥に睨まれただけと思い込もうとしたが、それを凌駕する威圧感があった。

リナリアさん……セディを、わたしたちを、助けて……」

 リナリアは《ユングフラウ》を持ち上げた。その間にチーナは実体化して威嚇するように翼を広げた。真っ赤な翼から真っ赤な羽が散る。威嚇のつもりだろうが、元々小さくなかった敵がいっそう大きくなって見えて、リナリアは生理的な恐怖を感じた。

「この儂を地上へ引きずり下ろした上、巫女の外へ引きずり出すとは、初めての経験だ。褒めてやるぞよ、小娘ども」

 鳥の表情はわからないが、しわがれた男の声は愉悦を帯びている。

「あなたがチーナ。見るのは初めてよ」

「まとめてそう呼ぶそうだが、わしは自然物とは違うそうじゃ。元々は人間であったらしい。そういうものをカチナと呼ぶ。そして人は儂を南風のカチナと呼ぶ。覚えておけ」

 南風のカチナは羽ばたいたが、前へ進まない。舌打ちのような音がはっきり聞こえた。

「カチナを封じる方法も開発されておったか。しかし小娘、どこまで続くかな」

 動きを封じてやりたい放題ができるのはあくまで人間同士の戦いだ。南風のカチナの声には余裕があるし、こちらにはアリヤの体力という時間制限がある。

「心配せずとも、アリヤが倒れる前に決着させる」

「できるか、小娘の分際で」

 突風が襲う。受け身に失敗してリナリアは吹き飛ばされる。決して軽くはない《ユングフラウ》が重りの役目を果たしていないことに驚きながら、冷静に周りの状況を把握する。こわれかけた彫像を横目で見つけ、とっさに蹴りつけて横へ飛ぶ。石畳の上を転がって風から逃れ、すぐに跳ね起きて斬りかかる。刃が届く必殺の距離に到達した瞬間、リナリアは上空へ跳ね上げられていた。

 見えない縄で縛られているように四肢の自由が利かない。それは容赦なく締め付けを強めて骨を軋ませる。腕を振り回して逃れようとするが、苦痛が強くなっただけで、あえぎが漏れるのを止められない。地上から嘲笑が響くのを聞いた。

「無様じゃのう、小娘。人間の分際でたてつくなど。人間は黙って儂を崇めておればよかったのだ。自然を従わせて優ろうなど、人間には分不相応だったということだ」

「バカにするな……人間を……!」

 力の強さに抗いきれずもがくこともできなくなり、全身に鈍い痛みが走った瞬間だった。

「A、フレットナンバー、シックス」

「今から落ちるぞ、絶対着地しろよ!」

 それは聞き飽きた、しかし無条件で信じられる男の声だった。直後に風が左右にながれて締め付けが解ける。急激な変化に頭は戸惑ったが、予告を受けていたことで体は反応できた。《ユングフラウ》を石畳に突き刺し、重い剣を支えにして後から自分も着地する。

「上出来だな。さすがに戦闘の勘は鈍っていないな」

 自分に注意を促したのとは対照的に静かな声。いつの間にか目の前に二人の男が立つ。

「ガウラさん、ビロウさん、どうして」

「お前の剣だ。審問騎士団時代でも同じようにしたことがあっただろう」

 はぐれた時も肌身離さず持っていた剣を元に発見してもらったことがあった。今回も、こんな街中で同じ助けを受けたことに、未熟さと懐かしさを同時に感じ取る。

「さっさと決着させてこい。今も昔も、現場の戦力はお前が中心なんだからよ」

 ガウラの言葉はかつての記憶を呼び起こす。血まみれと呼ばれるほど敵を切り捨ててきた後ろ暗さだけではない。心の底でつながったように息の合った連携を取ることができていた二人がいたことも思い出せた。リナリアは二人の前に出た。

「貴様ら、人間の分際で儂の風を散らすか。そんなことできるはずがない、許されんぞ」

 南風のカチナは明らかに苛立っていた。翼をせわしなく羽ばたかせてわめいている。

 後ろから二人がささやいてくる。

「奴は劣等と見下していた連中が予想外に抵抗するから混乱している。今が勝機だ」

「あいつの攻撃は俺たちが防ぐ。お前はあいつの苔むした頭を叩っ切ることだけ考えろ」

 理由は問わなかった。参謀役のビロウが勝てると言い、自分より多く歳を重ねたガウラが反対しない。それだけで突撃するのに充分な信頼を預けられた。

ユングフラウ》を構え直す。骨が軋むほど強い圧力を受けたばかりの体には辛い重さだったが、刻々とアリヤの体力が削られている今躊躇していられない。

 風が襲ってくる。そう思ったが、何故か左右へ逸れていく。ガウラとビロウが同時にピッチを唱えていた。自分を解放したのと同じやり方だろう。完全な無風状態にはならないが、残った風に力はない。リナリアは跳んだ。そして《ユングフラウ》を振りかぶり、亜麻色の巨大な刃を南風のカチナの頭部に振り下ろす。思ったほどの手応えはなかったが、断末魔が耳元で聞こえた。

 着地し、勢い余って前のめりになったところを、《ユングフラウ》を支えに立ち上がる。南風のカチナは体が粒子状に解けはじめており、いつの間にか輝きを増していた朝日の中へ流れていた。

「何故、ここまで……。小娘、セドナは復讐のために来たのだぞ……。そして主の周りに残るのは血に濡れた剣士や天使どもだ。騙されておったくせに何故信じられる……」

 語りかけられているアリヤはうずくまるようにして、ひどく荒い息をついていた。思わず支えたくなるような危うい状態だったが、顔を上げてふらつきながら立ち上がった。

「そうだとしても……、わたしの頼みを聞いて……最後まで戦ってくれました……。そんな人たちを信じないで、誰を信じろって言うんですか……」

 寄せられた純真な信頼に、リナリアは胸に迫るものを感じた。

「セディだって、全て嘘だったわけじゃない……。これからだって、本当の意味で親友になれる……」

「それが騙されていたということなのだ……。忠告だ、セドナはそのまま死なせてやるがよい。もはや助ける術などない……」

 意味深な言葉を残して南風のカチナは朝日の中へ溶けていった。それがチーナの死だったのかどうかわからない。それよりも大事なことが目の前で起きていた。

 セドナの体もまた、南風のカチナと同じ変化を起こしていた。理解が追いつかず、どうしていいかわからずにいると、アリヤが歩み寄った。

「あとはわたしがうまくやれば……」

 セドナの傍に膝をつく。まるで崩れ落ちるような危うさだったが倒れない。

 背負ったバッグの中から七本の杖を取りだし、それを台に固定してセドナを囲むように並べる。体の上には小箱を置く。全ての動作が震えていて、何度も杖を倒していた。

 途切れ途切れにピッチを唱える。授業の中で使うものよりはるかに長いものだった。それが進むごとに杖の先端に青白い光が灯り、朝日に負けない強さで輝く。

 わずかな時間輝いた後で光は消えていく。アリヤが何をしたのか、リナリアにはわからなかったが、セドナの体は崩壊が止まっていた。

「アリヤ、これは……」

「平気です、成功しました……」

 笑い返したアリヤは前のめりに倒れた。思わず抱き起こしたが額に傷はなく、満足げな笑みを浮かべて眠っていた。その安らかさにリナリアは安堵のため息をついた。

 

 何かが消えているような気がして地上を見遣ると、地上からずっと立ち上ってきていた南風のカチナの威圧感が消えていることに気がついた。南風のカチナらしきものの姿はない。アリヤはやり遂げ、親友を助けたのだ。

「南風のカチナは消えた。ここまでだ」

 声に喘ぎが混ざるのを止められない。元々浅くなかった傷が度重なる加速によって開いてしまったし、戦いの中でエリーゼにも何度か頭を殴られ、意識もふらついていた。

「どうして……どうして離れていくの……」

 呆然と呟くエリーゼは、武器を下げて戦意を喪失したように見えた。今なら体のどこにでも確実に刃が届くはずだ。急所を突き刺すために《ブレイクアップ》を構えて加速した。

 エリーゼの驚愕を見た瞬間だった。痛みはシエラに突き刺さった。

「感情的になって戦うとは、お前たちらしくないな」

 銃弾が貫通したような痛みが肩にあった。その傷を与えたのは《ピュアカラー》、テオドルが使う槍型のレリクスだ。穂先から光が飛び出し、シエラの肩に突き刺さったのだ。テオドルの後ろには、自分のレリクスを持ったラゲナンがゆっくり降下してきた。

「どうして俺を見逃すんだ」

 今の自分は武器で叩かれただけでも落ちるかもしれない。だから戦うとなれば何としても逃げなければならないと思った。

「無理をしなければならないほど追い詰められてはいない。それだけだ。しかし私たちはお前を許さない。次も同じように生き残れるとは考えないことだ」

 テオドルは端整な顔を一瞬だけ歪めて吐き捨てた。そして身を翻す。それにテオドルとエリーゼも付き従った。

 三人の後ろ姿が遠くなるごとに、シエラの意識も遠のいていった。いつの間にかアストラルパワーの制御を忘れて自由落下していることに気づく。慌てて翼を羽ばたかせて姿勢の安定を図るが、間に合わないと墜落直前に判断して、石畳の上に落ちる瞬間体をひねり、転がって衝撃を逃がした。

 戦っている間に朝が来て、夏めいたぬるい空気が漂っている。まだ石畳は冷たく、うつぶせになっていると心地よかった。

「シエラ!」

 必死さを帯びる呼びかけに応じる気にもなれない。体中が痛くて、冷たさの上で眠っていたいのに、強引に引き起こされた。

「大丈夫なの、生きてるの、死なないでって言ったでしょう!」

 やけに遠くに聞こえる声は、辛うじてリナリアのものだとわかった。たたみかけられる叫びの一つ一つが眠気を吹き飛ばして霞がかった意識を覚ましていく。どういうわけか、涙を浮かべながら叫んでいる姿を想像してしまい、応えてやらないといつまでも叫び続ける気がした。何よりもそれは見たくない姿だった。

「大丈夫、大丈夫だから……」

「シエラ!」

 今度はやけに嬉しそうに名を呼んだ。まだ何とか、やり直す手がかりがあると思うと安心して、急激に盛り返した眠気に呑まれ、そのまま眠った。

 

 セドナは朝日を感じながら南風のカチナが挨拶してこないことに違和感を覚えていた。言葉ではなく感覚に触れて朝を告げてくるのだが、それを感じない。南風のカチナと似たようなものが体の中にあるような気分は残されているが、それは全く動かない。

 周りを見回すと、やたらと明るく風通しが良い。まるで病室のように白かった。クレアストにいくつかあるテオドルたちのアジトはどこも薄汚れていて、これほど掃除が行き届いてはいなかった。

 自分がどんな立場にあるのか掴めず、セドナは不安を強くしていた。いつの間にか服が、白一色のものに替えられているのに気づいたところでドアがノックされた。

「セディ、入るよ」

 忘れるはずのない声だった。できれば忘れたい声だった。

 眠っているふりをしようか。それとも、窓から逃げようか。行動を決めかねている間にドアは開く。身を起こしているのを見て、アリヤは笑顔を弾けさせた。

「やっと起きた」

 アリヤは花を差した花瓶を、ベッドの傍のテーブルに置いた。百合だ。純潔という花言

葉が好きだと、以前笑いながら話していたことがある。

「あたしは……」

「どうしたの。セディらしくないよ。もっと明るく笑う子でしょ」

「あたしは、何でここにいるの。ここはどこなの」

 セドナの質問に、アリヤは椅子を部屋の隅から引いてきた。長い話があるようだった。

「カナーネンの病院よ。肩に打撲があったし、わたしの術もちゃんと定着するか不安だったから入院してもらってたの」

「ここ、牢屋じゃないの」

「何言ってるの。わたしも入院してたわ。リナリアさんとシエラくんもね」

 話の内容の割にアリヤの密やかな笑顔は明るく陰りがない。三人とも入院させられるほどの目に遭った。それは誰のせいだ。

「みんなあたしがやったんだ」

 そうこぼすと、アリヤは笑顔を消した。責める言葉が来ると覚悟した。しかし沈黙が流れる。どうして怒らないのだろう。

「もう知ってるんでしょう。あたしが嘘をついてきたこと、何のためにアシレミアからクレアストまで来たのか」

 お人好しで、ともすれば八方美人的に振る舞うアリヤなら、条件反射のように否定するだろう。何も知らないから今まで通り親友でいようと。

 アリヤはそれでいいのかもしれない。しかし自分には、もう親友を演じるつもりはない。南風のカチナがいないということは、復讐の果てに倒されたということだ。もう自分が、アリヤの傍にいる理由はない。そんなことは許されない。

「知ってる。全部南風のカチナに聞いたから」

 アリヤは微笑みを取り戻していた。その笑顔の真意を探ったが、どうしても優しいものにしか見えない。全部知っているのに、魔術文化の中では異端だったのに、どうしてそんなに優しいのだろう。

「だったらさっさと追い出せば。あたしは、学校を襲って人を傷つけた。リナリアも、シエラくんも、あんたも。それだけで充分な罪でしょ」

「誰もセディを責める気はないよ。全部南風のカチナのせいってことになってるから」

「南風のカチナはどこに行ったの? あたしの体の中にいるのは何?」

リナリアさんが南風のカチナを倒してくれたわ。でもセディに憑いている時間が長すぎたから、心身のかなりの部分を食われていた。だから倒した時にセディも同じ運命を辿るはずだったけど、人工のチーナを詰め込んで応急処置をしたの。後で精霊に育て上げたの。まだ生まれたばかりで弱いから、定期的に様子を見なくちゃいけないけど」

「そんなこと、どうやって」

 純粋に驚いていた。アリヤはクラスの中でもかなり成績の良い方だったが、それは試験の上でのことだと思っていた。アリヤが自分の命を繋いだ方法は、教科書のどこにも載っていなかったはずだ。

「ちょうど個別研究で勉強していたことが役に立ったのよ。教授に感謝しなくちゃね」

 セドナは南風のカチナが消えた自分の体を冷静に顧みた。南風のカチナを受け入れたのは二年前で、その時長い時間憑くことで人智を超えた力と体を与えると告げられたが、それは同時に半人半霊の状態になるということだった。南風のカチナが消えたことで力は消えたのだろうが、精霊が隙間を埋めている今、半人半霊状態は継続しているようだった。

「……余計なことしやがって」

 務めて低い声を出し、アリヤを睨む。完膚無きまでに傷つけて、そして去る。自分の記憶の中から消したい。アリヤにも忘れてほしい。こんなにお人好しで、優しくて、頭の良い少女が、人間ではない者の傍にいて良いはずがない。

「あたしは復讐がしたかった! あんたみたいに出来た親がいて、恵まれた暮らしをしてきた奴にはわからないだろうけど、あたしの家族はいつも不機嫌で、兄はみんな小競り合いで殺された! ずっと昔は精霊を信仰しながら静かに暮らせていたのに、魔術が入ってきたから、あたしたちの自然な暮らしを認めなかったから、ずっと貧乏だった、苦しい暮らしをさせられてたんだ! 全部魔術のせいなんだよ!」

 全身全霊で、気の弱いアリヤが最も傷付きそうな激しさで、絆を、ぶち壊して、叩き切る。絆が二度と結ばれないように、そんな余地など信じられなくなるほどに。

 そうまでしてるのに、どうしてアリヤは静かに見つめ返してくるのだろう。

 どうして泣いたり怒ったりしないのだろう。

「他人の暮らしを踏みにじっておいて、何が近代文化だ、先端技術だよ! 陰でどれだけの人間が苦しんできたのか、あんたみたいにテストの成績ばっかり良くて、親友とかいう気持ち悪い言葉にすがって、コンサートマスターなんてまやかしの夢に踊らされ、そんな馬鹿女にあたしの気持ちがわかるか!」

 今度は思いつく限りの言葉で罵倒する。共に過ごしている間に生まれた気持ちとは反対の言葉だ。真面目で、自分を親友だと認めてくれて、純真な瞳で夢を語れる輝きが、本当は好きだった。

 もう出ていってほしい。これ以上あたしに、こんなにひどい言葉を並べさせないでほしい。怒ってくれればいい、そして見捨ててくれたらいい。復讐が失敗に終わり、テオドルたちに見捨てられた今、自分に居場所などない。必要としてくれる人もいないのだから。

「だから……あたしは……」

 困った。もう、罵倒の言葉が出てこない。

 アリヤは怒りも泣きもしない。あの優しい微笑みを取り戻して、頬に触れた。

「言いたいこと、言えた?」

 やたらと頬が涼しい。アリヤが触れている方はやけに温かい。

 アリヤは自分の髪に手をやった。黒に近い茶色の髪から、飾りを取り外す。以前作ってやった髪飾りだ。自分の部族は伝統的に鳥を信仰してきたから、象徴的な羽の飾りを作る技術が受け継がれてきた。伝統を自分の手で再現することで魔術に踏みにじられた自分たちの伝統を忘れないようにして復讐心をたぎらせたかったのだが、そういうほの暗さに気づく由もないアリヤは、純真に喜んでくれた。

「そんなにわたしが嫌いなら、これ、返す。わたしの前で壊して。そうしたらもう、わたしは出ていくから。悪い夢だったんだって思うことにするから」

 親友と認め合った時に作った、お揃いの髪飾り。これをアリヤの目の前で壊せば、自分たちの絆は致命的なダメージを受けるだろう。

 それが望みのはずだ。それを受け取って羽の留め具を引きちぎろうと力を込める。

 しかし、力が入らない。壊せない。絆を、親友の証を。壊してしまったら、南風のカチナ以上のものを失ってしまう。

 それがどうした。もう自分には必要ない。いっそ壊してしまった方が清々しい。

 そう思っているのに、髪飾りは手からこぼれ落ち、澄んだ音を床で響かせた。

 満足げなアリヤの笑顔。わたしの勝ちと言うような、誇らしささえ感じる。

 もう、演技は必要なかった。

 セドナはアリヤにすがりついた。胸に顔を埋めて泣いた。大きな声で。誰かに聞かれても構わない。謝る言葉が頭に浮かびながら、それが泣き声の前に喉より遥か手前で止まる。

「いいよ、セディ。わたしたちがいるから」

「アリー……」

 泣き濡れた声で、恐る恐るその名を呼んでみる。もうこんな親しげに呼びかける資格はないと思っていたけれど。

「なあに? セディ」

 アリヤはいつもと同じ呼び名を返してくれた。

「おかえり、セディ。これからもよろしく」

 生まれ故郷から遠く離れた異国で、これほど安らげる人と会えるとは思ってもみなかった。そんな思いを脳裏に繋ぎ止めながら、セドナはアリヤの胸にすがりついたまま、大声で泣き続けていた。

 

 第五章 敗れざる者たち

 

 トゥアン教区は終アストラル戦争で唯一カナーネン大聖堂に味方し、敗れた教区である。総主教父をトゥーン家が務め、カナーネンと隣り合っていることもあって神聖クレアスト国時代から中央の政治に近く、それ故つながりは深かった。

 終アストラル戦争直前、アストラルパワーの減少に直面した神聖クレアスト国では、エリセバ・フォルクを擁して天使を復活させた大聖堂、現在主流となっているアイマト魔術を採り入れて危機を脱出しようとした新政府、アシレミア魔術に代わりを求めようとした正統使徒派が覇権を争った。正統使徒派が途中で新政府に取り込まれたこともあって戦争は新政府が勝利したが、天使の力は大きく、短期間で終わると思われた戦争は二年続くことになる。トゥアンは最後まで新政府と敵対し、その結果敵軍に踏みにじられ、政権が変わった今、クレアスト国内の扱いを受けていない。現在のトゥアンはクレアスト人によって服従を強いられる、クレアストの中の占領地だった。

 しかし勢力の及ばない地域も存在する。テオドルたちが身を寄せるスピーズもその一つである。焼き物職人が多く住んでいた待ちで、郊外には焼き物を作るための土が採れる山と、焼くための窯が多く集まっている。かつてアストラルラインが見え始める時間まで窯のある山裾から煙が立ち上っていたそうだが、現在多くは主を失って眠り続けている。

 そんな職人の街の一角に住居跡がある。柱や外壁などはきれいに取り払われて土台しか残っていない。誰かがその土台に『エリセバ・フォルク生家』と刻んでいる。墓標のようなその土台には既にいくつもの献花があって、テオドルも一輪の百合を供えた。

「あなたを一番理解できていたのはシエラかもしれないな」

 自分たちを裏切った少年が、もしかしたらエリセバの意思を忠実に代行していたのかもしれないと思う。エリセバも生きていれば、彼の後を追うように言っただろう。そこまでわかっていても、自分たちは最初の計画から外れることができなかった。魔術学校の襲撃という、一線を踏み越える事件も起こしてしまった。この先何があるとしても、倒れるまで突き進むしかないだろう。

 献花台に背を向けて、花を散らかさないように少し離れてから飛び立った。カナーネンでは考えられないことだったが、この街には同じ立場の天使もおり、天使がいるとしても咎める者はいない。

 水色のアストラルラインを目指すように跳んでいくと、程なくしてスピーズから西へ一イル(約四キロ)離れたフリボーグに正統使徒連合の本拠地がある。つい昨日、学校襲撃事件と同時に、潜伏していた兵士たちが蜂起して街を占拠したのだ。急な坂の多い起伏に富んだ地形をしており、トゥアンの準教区でもあった街である。正統使徒連合のリーダーは、準教区庁として使われていたフランシスコ教会にいる。四〇ネク(約八〇メートル)の高さを誇る八角形の塔が特徴的で、現在は物見櫓として使われている。そこから入って当番の兵士と挨拶を交わす。

ゲーリング殿はおられますか」

 年かさの男に訊くと、この時間なら私室でくつろいでいるはずだという答えがあった。

 礼を言ってからテオドルは塔から飛び降りた。空気抵抗を一瞬強く感じながら自由落下し、翼を羽ばたかせて姿勢を安定させる。目指す場所は教会の敷地の、隅の離れだった。

 入室を許す声の後でドアを開くと微かな芳香が漏れてきた。部屋の主が使う香水と似ていて、テオドルに女の部屋に入るということを意識させた。

「訪ねてくるのが少し早くはないですか。夜中の方がわたくし好みですが」

 部屋の主、エリーザベト・ゲーリングは切れ長の目で流すような眼差しを送ってきた。隅々に飾られた色とりどりの花が放つ、上品でみずみずしい芳香が、眼差しを蠱惑的に演出しているように感じたが、それを真に受ければ焼き尽くされる気がする。横顔からも感じ取れる目元の魅力は、その奥に炎の激しさを秘めていた。

「もしかすると話が長くなると思ったもので」

「フリボーグ占拠は滞りなく行えました。魔術学校の方はどうですか」

「七割の成功といったところです」

「襲撃は成功したにもかかわらずですか。お話を聞かせてください」

 エリーザベトは椅子から立ち、長い黒髪を揺らしながら部屋の隅に置いたポットから茶を注いだ。また別の甘い香りが立ち上ったが、元から満ちていた芳香を邪魔することなく、絶妙の存在感で溶け込んだ。

エキナセアティーですが、いかがですか」

「いただきましょう」

 返事を聞いてからエリーザベトは二つ目のカップに茶を注いだ。アシレミア原産のエキナセアティーは風邪予防の効果があるらしい。勧められるまま席に座ると、淹れ立ての茶の香りを嗅ぐようにカップを持ち、すぐに戻した。上品さと野性味が混在したような容姿ながら、その仕草は育ちの良さをうかがわせた。

「学校の破壊自体は成功しました。施設や研究資料なども使い物にならないでしょう。しかしエルマとセドナを失いました。審問騎士団の生き残りに妨害され、フレーベル校長を抹殺することにも失敗しました」

 ありのままの結果を包み隠さず伝えると、エリーザベトは笑みの消えた口元をカップで隠した。茶をすするにしては長すぎる時間、縁に口づけていたエリーザベトだが、やがてソーサーにカップを戻す。その時には妖艶な笑みを取り戻していた。

「まあいいでしょう、損害を与えられたことに変わりはありません。さすがに魔術協会はクレアストへの関与については慎重にならざるを得ないでしょうし、新政府にとって小さくない痛手となったはずです。まずは良しとしましょう」

「意外にも、お優しいことで」

 エリーザベトは一度持ち上げたカップをゆっくりと置いた。笑みを貼り付けたまま言葉を訊き返す。

「良いことだと思います。我々の上に立つならそうでなければ。お父上と兄上のことは原動力として胸の奥にしまっておけばよろしい。そうであれば、この先敗北したとしても復活できるでしょう。おそらくはあの学校と同じように」

「今更、嫌なことを思い出させるのですね」

 目元がわずかに鋭くなった。それだけで彼女の中に秘められた攻撃性が覗く。

 エリーザベトの家系はスクオールにて騎士を代々務めており、彼女の父と兄は当然のようにギュンター隊に入ったという。スクオール、アペンセルの両教区に広めるために結成された教導部隊のことだが、主家シャフハウゼン家の方針転換を受けてあくまで正統使徒派としての思想を守ろうとするギュンター隊と、主家の方針に逆らう者を粛正しようとする審問騎士団とに分かれた。

 そしてアストラル暦一〇五五年、審問騎士団はギュンター隊の密談を襲撃する。『ロベの宿事件』と後に呼ばれた内部抗争で、スクオール教区内の正統使徒派は全滅したと言われる。エリーザベトの父と兄はその中に入っていたと、初めて出会った時に聞かされた。

「父と兄はロベの宿で殺されました。暴力ではなく理によって思想を広めていく、ギュンター隊の姿勢を誠実に守ろうとしたのに。そればかりでなく、主家の方針から外れるという疑いだけで粛正もしてきたのです。こんな殺戮集団を擁した政権など許せません」

 エリーザベトの表情は引きつり、抑制された声で憎悪のこもる言葉を紡いでいく。彼女が死んだ父親と兄、そして審問騎士団のことを語る時にいつも聞く、暴れ出しそうな感情を必死で制御しているような声だった。

「そのために正統使徒連合を引き継いだのでしたね」

「それは半分です。正統使徒派の理想を実現したいのです。手を取り合うべきなのはアシレミアの開化五族以外の末裔たちです。文明化の名の下に他国の伝統文化を叩き潰す国々よりはマシでしょう?」

 アウラシオ大陸にあったアイマト、アシレミア魔術は相容れないものだった。当時のテビエス帝国によってアイマト魔術を擁するようになった開化五族は同胞たちを殺し、それまでの伝統文化を破壊した。同じようなことは大陸の外でも行われているという。

「貴方の復讐も、わたくしの復讐もこれからまだまだ続くのですね。楽しみだこと」

 エリーザベトの笑みは妖艶でありながら獰猛だった。

 

 セドナの部屋の前で迷っていたシエラだが、やがて覚悟を決めてドアを叩いた。遅れて返事を聞き、ドアを開ける。テーブルの上にセドナの趣味には合わなさそうな白百合が飾られている。毎日訪ねてきていたアリヤが置いていったのだろう。

「どうしたの、うろついてていいの?」

 セドナはベッドに腰をかけ、やすりと小刀を手にしていた。薄い紙の上には鮮やかな色の石を置き、まだ歪な形ながらそれが羽を象ったものであるのがわかる。

「痛むからと言って動かないでいると後で困るからな」

「別にあたしのところに来なくたって。散歩でもしてきたら。良い天気なんだし」

「迷惑だったか?」

 セドナは首を振って先を促すように笑った。最初に知り合った時のものと変わりないように見えた。違うのは、どうしてもその奥に不気味で凶暴な影を見てしまうことだ。アリヤはセドナを信じているようだったが、直接戦った身としてはまだ信じ切れない。

 そのことを言うと、セドナはため息をついて自嘲気味の笑みを見せた。

「それは当然だと思うけど。そんなことわざわざ言いに来たわけ? 律儀なことで」

「二人きりで話もしたい。特に俺たちは、南風のカチナとの戦いだったとはいえ、命の遣り取りをしている」

 真剣な表情で言い募ると、まるで暑苦しそうな顔をして、セドナは息を吐いた。石の周りの粉が舞った。

「そういう話か。それ、今じゃなきゃ駄目かな」

「できるだけ早くした方がいいと思う」

「じゃあもうちょっと後にしてよ。あたしは、シエラくんが孤立するように周りの学生たちをけしかけたんだよ。そのことについて、言いたいことは何もないの?」

「あれは南風のカチナの仕業だろう」

「でもね、シエラくんから見たらあたしが、同じ目的に向かっていたはずの仲間が裏切ったことになるでしょ。あたしはね、シエラくんと話すのが怖い。ふとしたきっかけで恨み言を聞かされるんじゃないかってね」

「それが本心なのか」

「止める人がいなかったら学校をもっと壊していたと思う。南風のカチナが消えたぐらいで、そういう気持ちがなくなったって、シエラくんは信じられる?」

 シエラは言葉に詰まった。魔術文化、そしてクレアスト新政府の崩壊を望んだセドナの関わりを悩む気持ちを、ほとんど完璧に言い当てられてしまった。

「まあ、そんなのはしょうがないし、別に責めるつもりもないよ。ここで胸張って信じられるとか言える人は逆に信用できないし。その辺シエラくんはまともだから大丈夫だよ」

 言いながらセドナの笑みは乾いたように見えた。まるで期待を裏切られ失望したかのように見える。

セドナ、俺は」

 たった一つだけ言える真実がある。その言葉を紡ごうとした瞬間だった。

 ドアが叩かれ、アディナが顔を出した。

「何だ、シエラもいたの。呼びに行く手間が省けたな」

「俺に用事か?」

「みんなに用事。シエラは歩ければでいいけど、ちょっとついてきてほしいんだ」

「どこに」

「魔術学校に」

 思わずセドナと顔を見合わせた。彼女にとっても予想外の言葉だったようで、珍しく戸惑いを見せている。

「聞き違いかな。魔術学校って言った?」

「言ったよ。もうみんな集まってる」

「そこで何をするの。みんな壊されて、使い物にならないって聞いてるけど」

「ところが我らが学校長はそこまで悲観はしてない。まあ、それに関するお話があって、今学校で待ってるんだよ。どうする、聞いてみるかい?」

 再び顔を見合わせる二人。あの騒乱をフレーベル校長が生き延びたことは僥倖と言って良いだろうが、それで何ができるのか。

「まあ、あたしはいいけど。暇つぶしにはなりそうだし」

「シエラはどうするの」

 素早く自分の体の状態を顧みる。傷は浅くなかったが、その後の処置の良さもあって傷口はだいぶ塞がっている。暑さの中を歩くのは不安だが、フレーベル校長は何か大事な話を持っているような気がする。学生として、それを聞かなければ後悔が残る気がした。

「行くよ。でも何の用事」

「それは言った後のお楽しみ。もう外出の許可はもらっているから、さっさと着替えて玄関まで来て」

 言われるままシエラは自分の病室へ戻り、アディナが下宿から運んできた服に着替えた。

 玄関には南風のカチナを倒す時に協力したメンバーが勢揃いしていた。ビロウとガウラ、アリヤはそれぞれ笑顔で迎えてくれたが、リナリアだけは居心地悪そうに目を逸らす。シエラも彼女とは話をする気にはなれず、さり気なく距離を置いた。

 半壊した噴水広場を通り抜け、比較的傷の浅い街路を歩き、辛うじて残る校門へたどり着く。そこをくぐり抜けると、気持ちが急激に冷え込んだ。

 立ち止まって学校の惨状を眺める。四本あった塔の内三本は根本から折れ、地上で無残に瓦礫と化している。回廊にも穴が開き、運動場や作業室のある広場へ向かうのがだいぶ楽になって見える。

 その広場も、瓦礫に覆われてとても跳んだり跳ねたりはできない。実験しようにも、倉庫は土台を残して消し飛んでいる。占星術は観測器具がなければ行えないし、錬金術は材料が不可欠だ。そのどれもが、今の官立カナーネン魔術学校にあるとは思えない。ボロボロにされたのは自分たちばかりではなかった。

「どこで校長は待ってるの」

 リナリアが低い声で訊いた。後ろ姿だが、務めて冷静に振る舞おうとしているのが見て取れた。

「運良く校長室のある三番塔は残ってね。まあ後の話は校長から直接聞いて」

 アディナの案内は三番塔の頂上までだった。そこまで全員を率いてドアを叩き、校長の声に応じてドアを開けて全員を部屋に入れる。そこから先はついていかなかった。

「生き延びた他の学生たちは全員故郷へ戻ってしまってね。今は君たちしか集まれないから、どれだけ集まるか不安だったが、全員来てくれたのは良かった」

 研究室に比べれば広いが、国に学校を預けられた人物の執務室としては狭いようにシエラは思った。調度品や応接のための椅子やテーブルなども置かれているが特別高価には見えない。大聖堂軍の指揮官たちは自分の執務室を格調高く飾り立てることに懸けているように見えたが、そういう権力者たちとフレーベル校長は別の存在らしかった。

「さて、ここに来るまで学校と街の惨状は見てきたと思う。新政府は既に武力を行使した組織を特定し、これを政府に対する反逆と見なし、抗戦の準備を整えている。再びカナーネンが戦場とならないよう、できるだけ早く準備を整え、先手を打って攻め込むつもりでいる。当然のことながら、君たちはそれに参加する必要はない」

 フレーベル校長は元審問騎士団の三人、そしてシエラを眺めて言った。

 四人をゆっくり巡っていった視線が、不意に一番端のアリヤへ向けられた。

「突然だがアリヤ・ハンチ君。学校に必要なものとは何だと思うかな」

 不意に水を向けられたアリヤは戸惑いながら、それでも口を開いた。

「ええと、学生とか、先生とか。施設とかもそうですよね……」

 フレーベル校長は微笑して頷いた。

「その三つに加え、資金と理念があれば学校というものは成立する。そしてこの官立カナーネン魔術学校には、今は施設と学生が足りない」

「あれだけのことになって、戻ってきた先生がいるんですか」

 リナリアが声を上げた。

「決して多くはないし、外国人の講師や教授も残ってくれたのは一人だけだがね。しかしそうして残ってくれた気骨のある者たちに応えてやりたいと思う。あとは学生だ。君たちに集まってもらったのは、その意思を確認したいと思ったからだ」

 フレーベル校長は順番に六人を見ていく。その時間、眼差しの質は誰を見ていても変わることがない。

「あたしでもいいの?」

 セドナがよく響く声を上げた。全員がセドナに注目する。

「全て知った上で呼びかけた。今更来る者を拒みはしないよ」

「いいんですか、それで」

「何か問題あるのかね」

 シエラの問いかけを、何でもないことのように訊き返す。その円熟味の強い柔らかな表情からは、水面下の苦労を読み取ることができない。

「ゆっくり考えてくれたまえ。我々としても本気の者たちを相手にしたいのでね。しかし一人でも多く始業式に出てくれることを願うよ」

 フレーベル校長の用事は終わったらしい。それ以上留まる意味もなく、シエラたちは校長室を出て、校門へ戻る。

 校門にはアディナが待っていた。それぞれ下宿へ戻っていくのに対し、けがが完治していないシエラ、体の大部分が生まれたばかりの人工チーナで構成されているセドナは、背景もあって軍が管理する病院で過ごす必要がある。

 彼女とは病院の正門で別れた。別れ際に、できれば校長の呼びかけに応えてほしいね、と言った。

「九六名の第一期入学生のうち、死傷者は三二名、カナーネンを離れ故郷や親戚の元へ身を寄せた者は六四名、そして今学校の周りに残っているのはあんたたち六名だけ。官立学校を名乗るのもおこがましい人数しか集められないけど、あんたたちが戻ってきてくれれば生き残った学生たちもその気になってくれるかもしれない。みんなこの国では馴染みの薄いものを何とか学び取ろうって気骨があるからここまで来たんだから、学校に通う力のある六四名に期待できる。それには学校が学校として存続することが条件よ」

 六四名の中には自分に石を投げた者も含まれるだろう。戦争で脅威として知られた天使を恐れる気持ち、友人を傷つけられた怒りや悲しみがいっそう激しく自分に向いてくるかもしれない。一度石を投げたことが冷静さを取り戻させてくれるか、あるいは歯止めを利かなくさせるか、シエラには読めなかった。

「話終わった? ちょっと疲れちゃったんだけど」

 セドナの声は緊張感に欠けていた。魔術師になろうとしていた自分たちの将来にも関わってくる話なのだからもっと真剣に聞いたらどうだと言いたくなったが、アディナは鷹揚に微笑んだ。

「悪かったね。シエラも立ち話に付き合わせて、疲れたでしょ」

「いや、俺はいいけど。アディナさんの言うことはわかるよ」

「それはいいけどね、わたしや校長に気を遣ってっていうのはなしだからね」

 感化されかけていたことを見透かしたような言葉に、シエラは少し動揺した声を返した。

 正門から正面玄関まで、木立に囲まれた一本道が続いている。一人なら一分もかからない距離だろうが、完治しないけがと歩幅の小さいセドナに付き合うと時間は余計にかかる。

「どうする?」

 その間を埋めるように訊くと、セドナはどうしよっかな、とはぐらかすように応じた。

「来ないって言ったらどうする?」

「そうなったら、仕方ない。フレーベル校長が言った通り、最後は俺たち自身の意思だからな。でもアリヤは悲しむと思う」

「アリーね。あの子がいるとうかつなことできなくて困るね」

 ため息をつき、苦笑した。魔術を憎んでいたというセドナが病院に留まり続けているのは単に行き場がないというだけでなく、何か心を変える出来事があったと思う。その中心にはきっとアリヤがいるのだ。思えば何の力もないはずのアリヤが、セドナを救い、リナリアの協力と引き出し、自分の背中を押してくれたような気がする。

「それは俺も同じだ。アリヤがいたからきっと俺たちはまだ何とかここにいられる」

「だけどね、アリーには悪いけど、あたしにはまだ色々わだかまりが残ってる。こういうことだってできちゃう」

 何のことかと訊き返そうとした時だった。突風が横から吹き付けた。不意のことに吹き飛ばされ、シエラは咄嗟に翼を出して転倒を防ぎ、着地した。

 その風はセドナの方から殴りつけた。

「南風のカチナの置き土産かな。あたしが空を飛んだり風を操ったりできたのは南風のカチナの力だったけど、そもそもどうやって南風のカチナは風を操ってたと思う?」

 セドナは伏し目がちに話す。笑みにはどこか寂しげな色が混じっていた。

「俺はアシレミア魔術のことは何も知らない」

 突然の力の発動に、シエラは警戒しながら言葉を紡ぐ。翼を出したまま、何かあればすぐに飛び回れるように身構える。

「チーナは自然そのものなんだよ。そして南風のカチナは風、それもかなり強力なやつだった。風が風を操るのに本当はやり方なんて必要ない。息をするみたいに自然なことなんだから。そして今のあたしにも同じ力はある。アリーの作った人工チーナが息づく限りね。前ほどの威力はないけど、やれることは同じだよ」

「その力をどうするつもりだ」

 緊張感が高まっていくのを感じた。返答次第では力に訴えなければならない。

「あたしはアイマト魔術を憎む気持ちが消えていない。この力をいつか感情に任せて振るうかもしれない。そういう危険がある奴を、あんたたちは仲間だと思えるの?」

 テオドルたちと共に学校を襲った時、表に出ていたのは南風のカチナだった。アイマト魔術によって日陰へ追いやられ、セドナと共に破滅を願っていたチーナだ。同じ気持ちを持っていたからこそセドナは南風のカチナを受け入れたのだ。

 しかしその時のセドナと、現在のセドナには大きく違う点がある。

セドナ、南風のカチナが倒された時に死ぬはずだった君がどうしてここにいるのか思い出してくれ。どうして自分がここで生きているのか、忘れないでくれ」

 セドナの眼差しは冷めていた。シエラもその瞳を見つめ返す。アリヤのためだけではない。自分もまた、セドナと共に学び続けていきたい。そんな気持ちを込めて見つめ返す。

「考えておいてあげるよ」

 そう言って、セドナは一人で正面玄関へ消えた。セドナの身を乗っ取った南風のカチナと戦っている時、シエラの頭にあったのは、マハナイムの天使たちではなく魔術学校で出会った仲間たちのことだった。そのうちの一人を取り戻すための戦いだったのだ。

 一度はバラバラになってしまった自分たちが、また一緒に学べる日が来るといい。それぞれの胸に宿っているはずの情熱を、今は信じるしかないと思った。

 

 リナリアが始業式に出ない。ガウラからそう聞かされたのは、式の前日だった。

 翌日の未明に病院を抜け出し、ガウラに連れられて待ち合わせ場所の噴水公園跡地に着くと、リナリアは一緒に待っていたビロウを睨む。傍らには《ユングフラウ》。彼は素知らぬ顔をして立ち上がり、シエラがどうしてもお前を見送りたいそうだからと言った。リナリアの険しい双眸がこちらにも向けられたが、すぐに逸らされた。

「見送りが俺たち二人じゃ寂しいだろ。一緒のクラス、一緒の班で勉強してきた仲間なんだから、素直に見送られておけよ」

 言いながらガウラが大きな手でシエラの肩を叩く。手加減はなく、昔外れた関節が揺らいだような気がしたが、不安や不快感はない。

 シエラもまた、リナリアが出ていくというのなら、最後に話したいことがあった。

「どうしても出ていくのか。俺もセドナも、アリヤも残ることに決めたのに」

「だからわたしも残らなきゃいけない?」

「残ってくれたらみんな喜ぶと思う。確かに最後は君の意思だけど」

「よかった。みんながやるからお前もやれみたいなこと言われないで」

 リナリアは少し皮肉っぽく笑ってみせた。

「これでも考えたのよ。でもセドナやあなたと一緒に勉強することはできないわ。色々言いたいことはあるだろうけど、それがわたしの結論よ」

「敵だったことがあるからか」

「時代錯誤かもしれないけど、そういう気持ちが消えないの」

 シエラは自分を連れてきたガウラを見た。付き合いの長い彼なら、もっとリナリアの胸に響く言葉を持っているかもしれない。しかし黙って首を振るだけで、ビロウもまた同じようにした。

「悪いんだけどな、一応俺たちもこいつを説得したんだ。それでも出ていくって言うんだから、もう止められねえよ」

 こだわりのない様子で言ったガウラだったが、あまり残念そうには見えない。そして不思議なことに、彼の声や表情から、袂を分かったリナリアへの諦めも見て取れない。

 まるでこうなることを予測して、その後戻ってくると信じているように。

 リナリアは《ユングフラウ》を引き抜いて肩に担ぎ、踵を返した。それ以上言葉の遣り取りをさけるように素っ気なく立ち去った。

「また会えるんだろうか」

 ふとそんなつぶやきが漏れた。今の時点では、リナリアがどういう行動を採るのか、全く予想はできない。

 それでもビロウは、会えるさ、と言い切った。

「魔術を官立学校で学ぼうと俺たちを誘ったのはリナリアだからな。あいつは自分で言ったことを絶対に曲げない頑固者だ。あいつは戻ってくる」

 リナリアのことは表面的なところしかわからない。知り合ってまだ三ヶ月程度だが、もっと長い時間をかけて付き合ってきたビロウの言葉が、シエラの胸には深く染みた。

 決まり悪そうな顔をしながらも、自分たちと一緒にピッチを唱えたり材料を集めたりするリナリアが思い浮かんだ。

「さてと、用事は済んだな。もう四、五時間もしたら始業式だ。帰って休んでおこうぜ。今のままだと居眠りしそうだ」

 ビロウは頷き、大きな背中についていく。シエラは二人を見つめてその場から動かずにいる。ガウラが足を止めて呼びかけた。

「あんたたちは、ずっと学ぶんだよな」

「だから始業式に行くんだろうが。今更何言ってる」

リナリアとは違うんだな」

「何だよ、まだ不安がってるのか。お前も意外とうじうじしてるな」

「本当に不安なんだよ。あいつらが俺を狙ってきて、その巻き添えをみんなが食ったって言うのは、誰も否定できない事実じゃないか」

 大きな声が出てしまった。ビロウが一瞬顔色を変えて周囲を素早く見回した。

 そのビロウが、真っ直ぐに見つめて言葉を紡ぐ。

「そうだな、君がいたからあの天使や敗残兵たちが来て学校を壊していった。それは否定できないな。だが俺たちだって、熱に浮かされて君を擁護したわけじゃない。今の君を見て、仲間だと認めた。だからリナリアと対立してまで君を守った」

「俺たちのそういう心意気は男としてわかってもらいたいもんだけどな」

 対照的な表情で語る二人だが、言葉の奥底には同じく熱い気持ちがある。信じてやらなければ失礼になりそうな輝きだった。

 下宿へ戻っていく二人を追い、シエラもまた病院に戻る。職員に見つかって怒られても、ここまで来たことに後悔はしないだろうと思った。

 

 結局始業式には五人が集まった。入学式を執り行った講堂は大きな被害を受けていたが、演台の周りを片付け、床や壁、屋根を直せば小さいながらも講堂の体裁は整えられた。

 入学式の時と同じようにフレーベル校長が五人に向けて訓示を垂れたが、それ以外の行事は省略され、簡素な始業式となった。始業式が終わるとシエラたちは二十歳未満のクラスへ、ガウラとビロウが二十歳以上のクラスを受け持つ教授の下へと行かされた。研究室は壊されていたため、辛うじて残っている実験室を仮の研究室とするらしい。

 始業式後は、学校内にも武装した兵士を多く見かけるようになった。警備を強化するという言葉の意味をかみしめながら、学びと再建に日々を費やす日々となった。

 ある日の帰路で、アリヤも病院についていくと言い出した。セドナの中で息づいているチーナたちの様子を見なければならない日だという。これを欠かすとセドナの命に関わってくるということだった。

「シエラくん、もし平気だったら部屋の前で見張っていてくれませんか。終わるまでドアが開けられないようにしてほしいんです」

「どれぐらいかかりそうなんだ」

「少なくとも二時間は。ご飯は終わってから食べます」

 今から二時間後に食べるとなると、やや遅い夕食になりそうだった。

「わかった。ドアの前で待っていればいいんだな」

「大丈夫ですか? 何だったら看護婦さんに頼んでも」

「いいさ、あまり事情を知られるのも良くないだろ」

 そう言ってシエラは、二人をセドナの病室へ送りだした。ドアの前に座り込んで鞄から詩集を取り出す。何度読み返したかわからない、クラウスから勧められた本だ。

 まだ完治していない体には辛い一日を送ったが、それに耐えただけの良い日だったと思う。二人が出てくるのをゆっくり待とうと思った。

 

 動物が食べることで栄養を補充するように、単純ながら生命体であるチーナも栄養がなければ餓死してしまう。その時がセドナの死でもあった。

 栄養分は高純度の元素である。自然界の元素は様々なものが混然一体となっていて、魔術、特に錬金術で使う時には純化させるための作業が必要となる。

 チーナの餌となる元素も同じで、セドナの体に宿る精霊の場合は地水火風のうち風の元素を食料とする。ある程度成長すれば多少不純な元素でもセドナが気分の悪さを覚えるだけで済むが、今はそこまで頑丈に育っていない。

 アリヤが宿の一室に結界を張り、人の出入りを完全に禁じてから二時間が経過している。二時間で物音一つ外から聞こえてこない。万が一ドアや窓が開きでもすれば、風以外の元素が入り込んでチーナとセドナに悪影響を及ぼしてしまう。

「どう、まだかかりそう?」

 数学に基づいて作られた機械ならともかく、好不調の波がある精霊の状態は、共存しているセドナにしかわからない。

 ベッドに体を横たえたセドナは薄く目を開けた。

「そうね、まだ足りないって言ってるみたい。まったく貪欲だね」

 セドナは体を見下ろし、自分の腹や胸を撫でた。その眼差しは優しい。見た目はセドナの体以外何ものでもないが、実際にはチーナが息づくことでその体を維持している。以前とは違って返事はないが、生命であることに変わりはなく愛しさを感じるという。

 セドナが素顔を見せているのか、あるいは変化してきたのか、彼女の過去を全て知っているわけでないアリヤには判断がつかない。しかし大事なのは、セドナの口から愛しいという言葉が出てきたことだ。この国で生きて一緒に魔術を学んでいるセドナがアリヤには大事で、過去にどれほどの邪心を抱いたかなど問題ではなかった。

「セディ、今更こんなこと訊くのもおかしいかもしれないけど」

 セドナが首を動かして、目を向ける。

「わたしたちと一緒にいられて楽しい?」

 セドナを救った直後、彼女は余計なことをするなと吐き捨てた。そして鬱積した感情を吐き出すように口汚く罵ってきた。耐えることができたのは、学友としてのセドナを信じられたからであったが、涙の後で全ての感情を精算できたとは思っていない。

「そうでなかったら学校に来ないよ。だいたい好きでもなかったら誰がわざわざ魔術なんて肉体労働をやりたがるって言うの。乙女の細腕に鞭打ってさ」

 笑いながらセドナは手を上げ、ぷらぷらと振ってみせた。実際には肉体労働はほとんどシエラに任せてしまっているから、彼女の手はそれほど荒れていない。

「あたしはみんなが許す限り今の場所にいたいと思ってるよ。だってみんなに救われたんだから。自分の苦しさをずっと歴史のせいにして、ねじれた気持ちで南風のカチナなんかに身を委ねたどうしようもないあたしを、みんなが救ってくれたって思ってる。まだ言えてなかったけど、感謝してる。ありがとう、アリー」

 この場で感謝を向けられるとは思ってもみなかったが、改めて言葉を受け取ると、自分たちのやったことに意味があったのだと思えた。

「あたしこそ訊きたいよ。あたしはここにいてもいいの?」

 どんな言葉が相応しいか考えたのは一瞬だった。

「そんなの、みんなでセディを助けた時から決まってる」

 セドナもまた、満足げな表情を見せた。お互いに言葉はなかったが、顔を見せ合うだけで通じ合ったような気がした。

 セドナがむくりと起き上がった。

「もう大丈夫みたい。さて、今度はあたしのご飯だね」

「もうそんな時間かあ」

 手のひらに少し余る大きさの懐中時計が七時過ぎを指していた。

 部屋のドアを開けるとシエラが座り込んでいた。詩集だという本から顔を上げてアリヤを振り仰ぐ。目が合うと何だか落ち着かない。

「終わったのか」

 彼は微笑んで訊いた。その表情にも魅入られるような感じがした。

 言葉が出ずにいると、シエラは怪訝そうな表情を浮かべた。

「あ、はい。もう大丈夫です。ちょうど夕食の時間ですけど」

「そうだな、行こう」

「先に行っててください。あとでセディと一緒に来ますから」

 彼は言葉を裏読みすることもなく頷き、立ち上がった。程なくして階段を降りていく音が聞こえだした。

「ずっと見張ってくれてたんだ」

「人払いはしてくれてたみたいだけど、もしもの時のためだって。シエラくんも自分があんまり口が上手くないってわかってるみたい」

「結構良い男かも。そう思ってるんでしょ、アリーも」

「え、それって、その……」

 どう応じていいのかわからず曖昧な返事をする。親友と言えど、まだ自分の気持ちを他人に悟られたくはなく、うかつな言葉は口に出来ない。

「安心して、あたしは人間としてシエラくんを評価してるけど、男としては別に何とも思ってないから」

「何でそんな言い方するの」

 できるだけ平静を装って訊いてみたつもりだが、

「そんな緩んだ顔で言っても、気にしてるのが丸わかりだよ。まだまだ青いね、アリー」

「き、気にしてるって何を」

「だから、そんなに慌ててたら隠せるものも隠せないって。シエラくんにお姫様だっこされたの、実は嬉し恥ずかしって感じでしょ」

「そ、そんなこと……」

「恥ずかしがらずに、はいどうぞ」

 セドナの術中にはまってしまったらしく、言い逃れする術が見つからない。答えを促すように出された赤銅色の両手に向け、アリヤはおずおずと頷いた。

「良いところに目をつけたんじゃないの。実際シエラくんは良い男だと思うよ。体だってまだ万全じゃないだろうに、力仕事にも文句一つ言わないし。頼れる男だよ」

 自分が感じているのとほぼ同じ気持ちを聞かされ、アリヤは自分の気持ちが裏打ちされて強くなるのを感じた。

「いつから? まさか出会った瞬間からとかじゃないでしょ」

 自分の気持ちに気づいたのはごく最近だが、それを辿っていくといくつかのきっかけに気がつく。その中の一つを選び取ってアリヤは口を開く。

「わたしを守ってくれた時、かな」

 はにかみながら言ったのは、南風のカチナに体を乗っ取られたセドナの猛攻に立ち向かった時だ。散々罵倒したにもかかわらず、彼はその相手を守るために体を張ってくれた。

「色々ひどいこと言ったわたしを許してくれて、わたしがコンサートマスターになりたいって言ったことを覚えててくれて、それを叶えるために生きてほしいって。すごく優しくて、強い人なんだなって。まだどこかに傷を残しているかもしれないけど」

「それはこれから知っていくことでしょ。でもきっと、シエラくんならアリーを一生守ってくれる気がするよ」

「一生って……」

 自分の気持ちはまだまだ淡く、そこまで育ってはいない。将来のお互いとその時の関係を想像するのはさすがに勇気が必要で、明確に想像するのは避けてしまう。

 セドナは勢いをつけてベッドから降りた。

「さて、シエラくんを待たせちゃいけないね」

 そう言って腕を回す。二時間以上寝たままだったから、体が凝っているようだった。

 セドナが先に部屋を出ようとする。その時彼女は振り向いた。

「あたし今までずっと考えてたんだ。ここにいていいとかそういうことを超えて、あたしの命に、精霊によってつなげられている意味はあるのかって」

「セディ、それは」

 不穏な気配を感じ取ってアリヤは声を上げる。

「わかってるって。ちゃんと答えは出てる。これだけは絶対に嘘じゃない」

 セドナは笑った。お揃いの髪飾りをつけた時に見せた、陽気で邪気のない、大好きだった表情だ。

「生きてて良かった」

 その言葉がアリヤの胸に染みていく。

「まだまだみんなと生きていきたい」

 そう言ってセドナは踵を返した。短い言葉だったが、決して自分のエゴだけでセドナを救ったわけではない。そう信じるのには充分だった。

 第六章 聖なる報復

 

 細い光が緩やかに東へ向かっている。月初めや月末に見られる、濁流のような荒々しい印象はないものの、部屋の灯りを消していると強い存在感を注いでくる。

 テーブルの上には蓋を開いて置いた懐中時計が淡々と時を刻んでいる。銀色の光沢を放つ蓋の裏側は、やすりをかけたような細かい筋が重なり合い、光沢と引き替えに前衛芸術を思わせる模様が全面に刻まれている。数分前まで熱く乱れる男女の影を映していたその盤面は、今は冴えた青い光を湛えている。

 その光が、男とベッドに入る前と比べてわずかに強くなったとエリーザベトは思った。懐中時計に手を伸ばして体を起こす。三時を過ぎて、最も闇が深くなる時間だった。

「光が気になりますか」

 背後から男の声がする。元から不思議な色気があると感じていた声が、ベッド上で女を抱いた後だからか、熱を帯びて蠱惑的な響きで隣へ戻ることを誘いかけて聞こえた。

「ええ。覚えていましたか」

「二年前と変わらないと思いまして。初めて出会った時と同じです」

「別に貴男の関心を惹こうと思ったわけではなかったのですが」

 苦笑しながらベッドに横たわり、青い光を見上げる。短い言葉を交わす間にも光は明るさを増している。常人には見えない程度の変化だが、意識を集中すればエリーザベトの目は捉えることができる。生まれつき備わっている特技をテオドルに話したのも、今夜のようにベッドの上であった。

「あれから一年が経っています。貴女は娼館で芸を見せながら復讐の機会をうかがい、私は戦うための味方を欲していた。あの頃に比べれば少し状況も良くなったでしょう」

 テオドルの言葉が記憶を過去へ誘っていく。ロベの宿で父と兄を失った後、審問騎士団は残った家族にも襲撃をかけた。エリーザベトは逃れたものの、家に残っていた母と年若い弟たちが巻き込まれて炎の中に消えた。

 エリーザベトにとり、正統使徒連合を率いて攻撃することは、家族の命を奪った審問騎士団を擁して政権を作り上げた新政府への復讐でもある。そのための資金と人脈を作るため、売春に手を染めることもあった。テオドルと出会ったのもそんな時期であったが、彼との一夜に金銭の遣り取りはなかった。テオドルの真意を言葉で聞いたことはないが、一夜明けても何度か求め合い、傍にいて、自分の昔の仲間を連れてきて魔術学校襲撃までやってくれた。その結果だけがあれば、テオドルが傍にいる理由としては充分だった。

「魔術学校襲撃もさることながら、フリボーグを占拠できたのは大きいと思います」

 テオドルが言った。

「この土地はアイマト魔術にとって大きな意味を持っていますからね。かつてトゥアン焼きの土を採っていた山からは、錬金術占星術に必要な物質が出るといいます。新政府としてはそれを独占して外国との貿易を成り立たせたかったのでしょうが、その計画を頓挫させることに成功しました」

「代わりに正統使徒連合が密かにでも何でも、物質の売買を成立させる。アイマト魔術に対して苦々しい思いを抱いている者は、他国にもいます」

「性急だったのですよ。相容れぬものを滅ぼすようなやり方でなく、融和を目指せば良かったのに。だからわたくしたちがやるような報復が生まれるのです」

 審問騎士団も主家を盲信するのでなくギュンター隊と話し合いの機会を多く持てば良かったと思う。その余裕があれば、家族が死ぬことはなかったとエリーザベトは憎々しい思いと同時に悲しさを常に感じている。

 しかし現実に家族は審問騎士団に殺され、自分も血を吐くような思いで生きてきた。アイマト魔術が発展の過程で一身に背負ってきた怨嗟の中には自分の声もある。今更それを弱めるつもりはない。

「テオドル、貴男は報復が悪しきものだと思いますか」

 一瞬質問の意味を図りかねたように、隣に横たわる男は首を動かしてこちらを見たようだった。

「愛に端を発するのなら、そうではないと考えます。一年前もそのように言って慰めたことがありました」

 テオドルの声に懐かしむような笑みが含まれた。その思い出を取り戻してほしいという意図を見透かされたようで、興奮とは違う火照りが体に宿る。

「友愛、情愛、親愛、様々に名をつけることはできるけれど、全てが愛という神聖なものであるのなら、その愛に端を発する報復は聖なるものでしょう。わたくしたちは神聖な炎に身を焦がし続けている、出会った瞬間から変わりはないはずです」

「それは新政府も同じでしょう。敬愛する魔術を侵された怒りと悲しみで我々に戦いを挑んでくる、彼らもまた聖なる報復に身を焦がしていると言えます」

「あの日和見主義者たちの戦いが聖なるものであるはずがありません」

 エリーザベトは跳ね起き、声を荒らげた。見下ろしたテオドルの顔は薄笑いを浮かべている。まだ弱かった頃の自分を知る男は、未だ残る弱みを見つけてはつつき、もてあそんでいる。そこまで深く踏み込んでくる人間は、周りには他にいない。貴重だと思うが、気に食わない思いもまた強かった。

「不愉快です」

 思いをはっきり声に出し、エリーザベトは勢いをつけてベッドに沈んだ。まだ夜明けは遠く、このまま終わるのは惜しい。しかし自分から求めてやる気にはなれなかった。

「盾が必要ですな」

 不意にテオドルが言った。意図が読み取れずに再び身を引き起こす。テオドルは、今度は顔から下を眺めるような目つきをした。何かで殴りつけてやりたくなったが、男の声に怜悧なものを感じて、激情を抑えて先を促した。

「時が経てば味方は増えるでしょうがそれまで持ちこたえるには相応の備えが必要です」

資金をもっと捻出しろというのですか」

 切実な問題に迫る言葉に、詰問口調になった。

「その方法を採るのに必要な情報を持ってラゲナンが明日戻ってくることになっています、後はあなたの許しを得るだけです」

「わたしの知らないところで動いていたなんで、気に食わないですね。でもそれは、あなたの復讐に必要なことですか」

「きっとあなたの言う聖なる報復にも、一助となるでしょう」

「それなら止める理由は持ちません」

 そう言うと、テオドルの手が伸びて、頬に触れた。

 初めて彼に抱かれた時と同じように、心が解け、踊る。

 彼の方から誘ったことに満足して、エリーザベトはテオドルの胸に体を沈めた。

「わたくしが神聖な炎に身を焦がし続ける以上あなたもそうであってほしい、その炎が身を焼く時はあなたも共に焼かれて断罪判定を受けて墜ちていってほしい、だからあなたが復讐へ邁進するのを見届けたいのです」

 テオドルは黙って二度目を始めただけで、エリーザベトも無言で受け入れた。

 

 エリーザベトより早く目を覚ましたテオドルは、彼女に何も言わず部屋を後にした。一度自分の部屋へ戻って愛用の香水をつけてから、早朝の街へ向けて飛び立つ。目指すのはエリセバの生家跡、そこがラゲナンとの待ち合わせ場所でもあった。

 まだ誰もいないと思っていた場所に人影があった。細く優美な体型が、腰に巻かれたサッシュで強調されている。その背後に降り立つと、彼女は肩越しに振り向いた。

「変わった香りね。そんな趣味だったかしら」

 エリーゼの声に皮肉は感じ取れない。エリーザベトの部屋で染みついた香りをごまかした結果だとは気づいていない様子だった。

 妹のような彼女の初さをおかしく思いながら、何をしているのか訊いた。エリーゼはお母さんに会いたくなってと答えた。背中越しにもうなだれたのがわかる。シエラのみならず、エルマ、更にはセドナまで失ったのがかなり堪えているのだろう。そのせいで戦いに耐えられないと判断され、休養のためフリボーグまで連れ戻されたほどだ。

「シエラ、死ななかったわ。それどころかまだ魔術の勉強をしている」

「そうだな。お前があれほど懸命に訴えかけたにもかかわらず、選び取った道だ」

「シエラが死ねばわたしたちよりも魔術を選んだこともエルマが死んだことも全部きれいに癒えると思っていたのに、戦えば戦うほどわたしたちは失っていくわ」

 沈んだ声を聞かせるエリーゼは、ゆらゆらと体を揺らし、ついには耐えきれなくなったように墓碑の前で座り込む。そこにあるはずのない母親の手を求めるように、彼女は墓碑に触れた。

「ならば戦うことをやめてもいい。私は一度もお前に戦いを強いたことはない」

「だけどその時、どうしたらいいのかわからなくなりそう。あの子だけが平和に生きていく、学校を壊してもなお生き方を変えない、どうしたらそんなことができるのかしら」

 それは一時期、うらやんだりあこがれたりした生き方でもある。しかし元々自分たちとシエラは、更に言うならエリセバとさえ違う人種だった自分たちにとって、考えることは不毛だと程なくして気がついた。

「そんなことを考えるより、学生の身分で安穏と暮らし続けようとするシエラとセドナを、戦場へ引きずり出す方法を見つける方が、私たちらしい」

「そんなこと、できるのかしら」

 エリーゼは興味を惹かれたように振り向いた。ラゲナンが二人の間に降り立ったのはその直後だった。

「テオドル。シエラたちはトゥアン教区に来るぞ。錬金術の原料採集だそうだ」

「場所はわかるな」

「ああ。さすがに警備が厳しいが、三人なら突破できる」

 エリーゼはラゲナンとテオドルを交互に見た。何をどうするつもりなのかと眼差しで訊いてきている。

エリーゼ、シエラは魔術とその仲間を選んだが、その気持ちの強さがある限り戦場へ戻らざるを得ない」

 意味を問いかけるような眼差しになったエリーゼに自分の狙いを語ってやる。彼女はいつものように表情を変えなかった。ただ眼差しにほの暗さが混ざり込んだだけだった。

 

 その土地に降り立った時、よく立ち入り許可がもらえたものだと思った。武装化した学校以上に警備が厳しく物々しい。トゥアン教区はクレアスト国内の扱いを受けておらず、教区の中には占領されたフリボーグのように新政府の支配が及ばない地域もある。馬車を降りた時の厳重な身分照会に接し、シエラは来ても良かったのかという思いにとらわれた。

「シエラくん、何してるの」

 同じように厳しい身分照会にさらされ、武器に追われるように歩くセドナは、気軽な調子を装っていた。

「よくこんなところに入れると思って」

「スミス教授のおかげだね。あの人も大胆だから」

 学校から教授や講師が消えた後、戻ってきた外国人はスミス教授だけだった。彼は自分の行為は女王陛下の意思に背いていると言いながら、脅しをかけられたぐらいでおめおめと帰っては魔術師の名折れだと奮い立ってくれた。

 学校が襲撃される前に取り組んでいた班別研究は、リナリアがいない現状ではできないと判断して保留し、各自で取り組む個別研究を行うことにした。今日はその原料採集を行うのだが、いくらクレアスト国内では貴重だからと言って、トゥアン教区に入る許可をスミス教授が得てくるとは思いもよらなかった。

「厳重ですね、警備。それほど危険ってことでしょうか」

 周りを見回しながらアリヤが不安げに言った。元々は川の周囲に集まった集落が発展した街であり、大規模ではないが寂れているわけでもない、こぢんまりとして整った土地である。川の上に渡された橋には様々な装飾が施され、カナーネンの噴水に添えられた彫刻のように目を楽しませたが、武装した兵士がその周囲に立っているとゆっくり鑑賞する気にはなれなかった。

「一年以上クレアストの勢力範囲を守り続けてきたんだから、ここを守る兵士はきっと優秀だよ。それよりアリヤ、俺たちに付き合わなくてもよかったのに」

 アリヤの個別研究は半人半霊として生きられるようになったセドナの存在を以て完成している。スミス教授も驚きながらそれを認めたのだが、何か手伝えることがあるかもしれないと言ってアリヤはついてきてくれた。

「残ってもスミス教授と二人きりですから。それじゃ面白くないですよ」

 何となく一人残されたスミス教授がかわいそうになった。今頃暇をもてあましているのか、そうでなければ再建作業に駆り出されているのだろうか。決して若くない体には辛いかもしれない。

「そりゃ二人きりにさせたら落ち着いて勉強なんてできないものね」

 からかうように軽薄なセドナの声が何を指しているのかわからなかったが、何故かアリヤは慌てた顔をした。二人の間に何かがあったのかと思ったが、それ以上の会話を避けるようにアリヤが先へ行ってしまったので追及はできなかった。

 泊まる準備はしていなかったので、精製作業を夕方までに終了させて、最終の馬車で帰る予定だった。その前にセドナのチーナに食事をさせなければならない。以前と同じように宿の一室を借りて人払いをして、部屋の前にシエラが見張りに立つ。

 爆竹のように乾いた音が連続して聞こえたのは、もうじき食事が終わる時間だった。

 その音は折り重なりながら近づき、否が応でも警戒が高まっていく。距離が縮まるごとに確信が深まっていく。聞き慣れた銃声に酷似していた。部屋の前で座り込んでいたシエラはゆっくり立ち上がり、身を低くした姿勢を保った。何かが起きればすぐに動けるような状態だ。

 背後で破砕音が鳴り響いた。思わずドアを開いて駆け込む。一瞬立ち尽くした。ベッドに寝ていたはずのセドナが床に弾き飛ばされ、闖入者をにらみつけている。アリヤはその闖入者の肩にいる。

エリーゼ!」

 アリヤを奪った相手の名を叫んだ。

「アリーを返せ……!」

 足下で聞こえた唸り声は、終わる頃駆け上がるようにして耳元で聞こえた。セドナはシエラの足と肩を手がかりに、痛くなるほどの力をかけて立ち上がった。

「アリーを返せ!」

 シエラを押しのけたセドナが吠えた。飛びかかろうとするような勢いだったが、それを制するように光が落ちてきた。見上げると《プロヴィデンス》を携えたラゲナンが浮かんでいる。武器を振りかぶったのを見てシエラは飛翔し、アストラルパワーを投げつけた。

 迎え撃つようにラゲナンは武器を振り下ろしてくる。丸腰の今は受け止めるわけにはいかず、身をよじってかわす。勢いのまま通り過ぎたラゲナンは、次の瞬間には急激に反転して再び襲いかかってくる。猛々しい表情で敵に斬りかかる姿は昔と変わっていない。

 反撃の機会をうかがうシエラだったが、突如ラゲナンは転進した。すぐにエリーゼが追いかける。その肩には荷物のようにアリヤが乗っていた。

 追いかけたかったが、二人はアリヤを餌に自分を罠に誘うつもりかもしれない。アディナと話をするべきだと思ったが、セドナが上がってきたのに飛びついて引き留めた。

「行くな、セドナ!」

「悠長に構えてる場合じゃないんだよ! 何されるかわかんないじゃん!」

「それでも行くな、何の備えもなくあの二人を相手にするなんて無謀だ!」

 セドナはそれでも聞き入れず、暴れてシエラから逃れようとする。体がすり抜けてしまったが、それでも諦めずに腕を掴んで引き留める。

 力尽くで逃れようとしていたセドナの動きが鈍ってきた。疲れてきたのかと安心してシエラは力を抜く。その途端、今まで感じたことのない力で吹っ飛ばされた。

 次の瞬間セドナは突風を残して飛び去った。南風のカチナの置き土産、風を自在に操る力だ。シエラを突風で吹っ飛ばした後、自分の体も風で飛ばしていったのだ。追いかけたいところだが、空気抵抗を受けずに飛んでいけるセドナの方がはるかに速い。これで止める手段はなくなった。

 シエラは夜空へ消えていった四人の行方を眺めることしかできなかった。アストラルラインの流れから、四人が西へ向かったことしか手がかりはなかった。

 

 夜明けと共にアディナが宿に訪ねてきて、一人残されたシエラに事情を聞いた。彼女についてきたビロウとガウラにも話をすると、これからの対応を考えてくれた。一緒の立場になってくれる人間がまだいるだけで心強かった。

「こうなった以上ビロウ、ガウラ、あんたたちにはちょっと協力してもらうよ」

「アリヤを取り戻すのか」

 待っていたとばかりに力強いビロウの返事だったが、アディナは首を振った。

「それもやらなくちゃいけないけど、あんたたちには説得を頼みたい」

「誰を説得するんだ」

リナリアだよ」

「居場所がわかったのか」

 シエラが身を乗り出して訊く。何故かおかしそうに笑いながら、アディナははっきりしたものじゃないけどと言った。

「あの子が切り込んでいった形跡があってね」

リナリアが一人で行動しているのか」

「しかもトゥアンに入ったって話がある。そしてアリヤをさらった連中が飛んでいった方向、そして正統使徒連合の根城はフリボーグだ」

「一人で戦い続けるつもりか、何て無謀なことを」

 元々戦う役目を負わされていたとはいえ、一度手にした学生の身分を捨てて戦い続けるリナリアのことは理解に苦しむ。そうまでして学校に戻りたくない理由も思い当たらない。どうにか接触して、聞き出してみたいと思った。

「カナーネンの天使を掃討した後にリナリアを追うつもりだったけど、それにはおまけがついちゃったみたいね」

「ごめん、止められなかった」

「追いかけちゃったものはしょうがない、捕まえればいいだけのことだし。すぐに追いかけるから心配も要らない」

「だったら俺にやらせてほしい。戦力にもなってみせるから」

 ビロウとガウラは意外そうな顔つきになり、アディナの表情は冷たくなった。丸腰だったとはいえアリヤを奪われた自分に言えたことではないとわかっている。それでも一度ばらばらになった仲間を集めるために、何かをしないではいられなかった。

「頼むよ、俺も何かをしたいんだ」

「ちょっと落ち着きなよ、シエラ」

 静かな声に口をつぐむ。アディナの目をまっすぐのぞき込む。一生懸命であること、誠意があること、それを目で訴えかけるしか思いつかない。一度は離れてしまった仲間を、そうやって集め直したのだ。

「君は学生なんだから。リナリアたちは勉強する条件の中に戦うこともあったからいいけど、君は違う。ここでおとなしくみんなの帰りを待っているべきだね」

 淡々と言い渡された正論に言い返そうとした時、アディナは破顔した。

「クラウスならそう言っただろうね」

 今の状況に陥るまで唯一の理解者だった青年の名に、シエラは言葉を詰まらせる。

「クラウスは平和主義者でね。学生には学生の、兵士には兵士の役目と仕事があるって思っててね」

 いかにも彼が言いそうなことだった。その思いはきっと最期を迎える時まで貫かれていたのだろう。

「だけどね、時には危険を冒したり、分限を敢えて超えたり、そういうことも必要だとわたしは思ってる」

 言いながらアディナは足下に置いた鞄に手を差し入れた。すぐに引き抜かれた右手には、鞘に包まれた剣が握られている。見忘れるはずのないその武器を、彼女はシエラに向かって差し出した。

「今の君なら戦いたいって言い出す気がしてね。その気があるなら使ってもいいよ」

 シエラは戸惑いながら《ブレイクアップ》に触れた。鞘に包まれて力が抑えられているにもかかわらず、天上から降り注ぐアストラルパワーを受けて、背中の翼に注いでくるのを感じる。終アストラル戦争で何度も感じたもので、もはや何も思わなくなっているほど慣れているはずが、何かに胸を衝かれるような気がした。

 両手で柄を握りしめる。戦う力を持ったことで、ラゲナンやエリーゼへの雪辱を果たすこともできるだろう。しかし胸に迫ったのは、傍にいない三人の仲間たちだ。彼女らを傍に呼び戻す、あるいは取り戻すための戦いに身を投じることができる。仲間のために体を張れる。理屈はなく、単純に嬉しかった。

「ここに来てじゃじゃ馬が増えるとは思わなかったな」

 ビロウが苦笑しながら呟く。長い付き合いのリナリアを扱うのに、年長者として苦労してきたのは想像に難くない。今回はそれに、セドナが加わっている。

「まあ、女の子を助けに行く役目なら歓迎だけどな」

 ガウラが明るく笑う。それぞれに感じる心配事はあるが、戦う力を持たないアリヤは一刻も早く助け出さなければならないだろう。

「あんたたち、腹は決まったね」

 立ち上がり、兵士らしく均整の取れた体を見せつけるように背筋を伸ばしたアディナが、腰を下ろしたままの男三人を見下ろす。それぞれに返事をした。誰もが強い決意をにじませていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第七章 一人じゃない

 

 逃げ回るのに疲れてきて気持ちが切れかけたセドナだが、耳元の空気が切り裂かれる音で意識が冴える。ここで墜落したらアリヤと会えなくなってしまう。

 息の合った連携で地上へ落とそうとしてくる天使たちを振り切ろうとするが逃げられない。背中を向けたらアリヤのもとへたどり着けないと思うと腹が据わった。向き直って一人ずつ叩き落としていく。傷も負ったが、半人半霊の体にはたいした傷にならない。

 三人の天使を退けてから少し休もうと思った。本当の意味で体を休めるにはアリヤの力が必要だが、気休めにはなる。自分の体を顧みると、まだアリヤの協力がなくても平気そうだが、どこまで耐えられるのかわからない。早く合流したいと思った。

 自分の体はもちろんだが、アリヤ自身も心配だ。彼女には暴力への対抗手段がない。傷つけられたり脅されたりしてはいないか。何であれ早く救出したかった。

 早く行動しなければならなかったのは事実だが、何の手がかりもなく来てしまったのは失敗だったと思う。シエラを振り切ってしまったことを後悔したがもう遅い。

 地上へ降り立った時、空中に別の天使が現れたことに気がついた。そのシルエットには見覚えがある。距離を置いた戦い方が得意であることも。素早く飛び上がって先制攻撃を仕掛けたが、軽くいなされて向き合う形になった。

「一度は逃げたくせにお迎えに来るなんて。久しぶりに会いたくなっちゃった?」

「そのふざけた言い方も相変わらずで安心するわ。自分の状況がわからないの?」

「わかってるよ。でもこうやって明るく振る舞ってないとビビるんだよ。小心者でね」

「南風のカチナに操られていた頃の方がまだマシだったわ」

「冗談、冷酷非情の間違いでしょ。それよりアリーはどこにいるの」

 アリヤの名を出した瞬間、エリーゼの放つ気配がこわばった。

「教えると思うの」

「口を割らせてみせる。これでもけんか慣れしてるんでね」

「早く助けないとあなたは死ぬものね。焦ってもいいことないわ」

 エリーゼは余裕ぶった薄笑いを浮かべた。体のことについて、南風のカチナが何か言ったのかもしれない。弱点を握られているのは嫌な気分だ。時間稼ぎをされたら辛い。

 ならば自分から前へ出る。それしか道はない。

 セドナは一気に距離を詰めた。エリーゼの武器《コンルーメンション》は大きく振り回すことで光を放ち、それを重ね合わせることで回避を難しくする特徴がある。裏を返せば武器を動かす空間的余裕を持たせなければいい。

 セドナは拳を振るい、エリーゼの腹を狙う。背丈の問題があって顔面は狙いにくい。エリーゼは巧みに体をひねってことごとくかわす。しかし攻撃には移れない。《コンルーメンション》を振り回して突き放そうとするだけだ。

 しかしらちが明かないと思った。こちらに時間があればいい。攻め続ければどこかで相手の集中力が途切れる瞬間があって、そこを突けば一気に攻められる。しかし実際には時間的な余裕がない。

 セドナは何度目かの拳をかわされた瞬間、突如エリーゼの胸を靴底で蹴った。宙返りするような形になった。ダメージにはならず、お互いに距離が広がる。

 直後、上昇する。太陽を背にするような位置を取る。狙い通り相手は自分の姿を見失ったようだった。

 めいっぱい上昇してから、セドナは力を止めた。自由落下を始める。瞬く間に加速し、エリーゼの傍をも通り過ぎる。虚を突かれたのだろう、彼女からの反撃は一切なかった。

 地上が近づいてくる中で急制動をかけ、急激に方向転換をかける。きっと普通の体だったら耐えられず、どこかにダメージを負うだろう。半人半霊の体だからこそ、いくら殴られても出血したり骨折したりしない人間離れした体だからできた芸当だ。

 そして天使とはいえ生身の人間でしかないエリーゼにも効果的だった。こちらの動きに気づきはしたが、全く動けない。その勢いのまま接近し、拳をエリーゼの腹にめり込ませた。よろめかせたことで生まれた隙を見出し、セドナは急下降した。真下にはちょうど川が流れていて、そこに風をぶつける。すると水煙と水柱が盛大に上がった。びしょ濡れになったが、空中が完全ににじんだ。それを繰り返しながら水面すれすれを飛んでセドナは逃げた。今の自分ではエリーゼの口を割らせるには至らないと判断した結果だった。

 降り立った先で、セドナは斬殺死体を見つけた。三人分の死体はどれも天使のもので、かなり乱暴な斬りつけ方がされている。傷口も大きかった。

 これほどの傷をつけられる剣の持ち主と言えば、知る限りに一人いる。その人物と合流できれば。微かな希望を感じた時、上空から押さえ込まれた。全く抵抗できず組み伏せられたセドナは、短銃を眉間に突きつけられたところで天使たちに見つかったことを知った。

「よくも裏切ってくれたな。おかげで仲間が血まみれリーリエに殺されているぞ」

 言いがかりも良いところだと言いたかったが、大事なのはやはりリナリアがいるということだ。その歓喜を気づかれないように、セドナは飄々とした笑みを浮かべる。

「女に心変わりはつきものだよ。そして、そんな武器じゃあたしは殺せないから脅しにはならないよ」

「試してやろうか」

 言葉と同時に銃声が鳴り響く。頭が揺さぶられ、決して弱くない痛みが眉間に刻まれたが、意識が分断されることはない。やはり半人半霊の体は銃弾ぐらいでは傷つかない。

「聞いたとおり人間じゃないな」

 天使の声には蔑みが含まれる。

「その通りさ。だけど死なせるわけにはいかない体だよ」

 すると今度は頭を思い切り踏みつけられた。銃弾とは違う重さに襲われてうめく。

 それが不意に、悲鳴を残して消えた。動けるようになってもすぐには動かない。変わって現れた相手の足を注意深く観察する。やがて相手の方から何やってるのという呆れ気味の声が降ってきた。

「見たらわかるでしょ、捕まっちゃったの」

「威張って言うことじゃないでしょうが」

 腕を掴まれて引き起こされた。並んで立っても背丈ではかなわない。周りにはさっきまで自分を捉えていた天使たちが、巨大な傷を受けて横たわっている。リナリアセドナの体を上から下まで見て、枯れ枝を集めてくるように言った。

「着替えがないなら、とりあえず体をかわかしなさい」

 言われるままセドナは準備をして、リナリアが火を起こす。更に《ユングフラウ》を持ち出してピッチを唱えると周囲が乾いていく。炎の熱と合わさって、服はすぐに乾いた。

「便利な使い方があるね」

「不本意よ」

 吐き捨てながら彼女は自分の食べ物を分けてくれた。それをかじりながらリナリアとそれぞれの状況を話し合う。終わった後のリナリアは心底から呆れた顔で無謀と言い放った。

「それシエラくんにも言われたよ」

 あっけらかんと笑うと、リナリアは疲れたようなため息をつく。ずっと感じていたことだが、リナリアは自分の陽気さが苦手なのだろう。そうとわかるといっそう苦手なことをしていじめたくなるのが自分の悪い癖なのだが。

「でもあんただって学校にも戻らないで一人で戦ってきたじゃん。それって何で。何かこだわりでもあるの?」

「こだわり?」

 他意のない問いかけだったが、リナリアは呆気にとられたように訊き返してきた。

「もしかして自覚なかったわけ?」

「そんなつもりはなかったわ。ただ一人の方が動きやすいからこうしているだけよ」

「あくまで合理的判断と言いたいわけ。だったら何でガウラとビロウと離れて戦ってるのよ。ずっと一緒にやってきた仲間と離れる理由は何」

 言葉を詰まらせたリナリアに、会話の主導権を握れたのを感じる。

 そしてずっと言いたかったことを、確信を込めて言い放った。

「あんたシエラくんと会うの避けてるでしょ」

 リナリアはかじったパンを、明らかに噛まずに飲み込んだ。

「違う、シエラは関係ないから」

「そんな慌てた顔で言っても説得力ないから。あんたってだまされやすいでしょ」

 不満そうな顔をして黙り込んだリナリアを、少し愉快に思いながら眺め、セドナは原因に思いをめぐらせる。それについては一つだけ思い浮かんだ。

「天使たちが学校を襲った時に何かあったわけね」

 自分やアリヤもそうだったから、リナリアとの間に何かがあったとしても不思議はない。リナリアは肯定も否定もせず、唇を曲げてにらんできた。

「別にそのことを責めたりはしないよ。あたしやアリーも同じようなものだから。それでも何とかやり直せるんだから、気にすることは何もないよ」

 この場で心が変わらなくても、シエラが学友として接してくれていることだけは信じてほしかった。彼の受けた傷が癒えるとしても長くかかるだろうし、無理をして明るく振る舞っているのかもしれない。表に出さない面があるにしても、シエラが自分やアリヤを仲間として必要としてくれていることだけは嘘偽りがないだろう。

 リナリアは考え込んでしまった。顔をうつむけて小さくうなっている。ただ体が大きいだけの堅物だと思っていたが、自分よりはるかに繊細かもしれない。

「わたしはシエラを殺そうとしたわ」

 やがて呟くリナリアだったが、あまり驚くことではなかった。

「そんなのあたしだって」

「学校が襲われたのはシエラのせいだとも言ったわ」

「アリーもそれぐらい言ってる。でも仲良くやってる」

「どうしてかしら」

 慎重な問いかけだった。戦争中血まみれと呼ばれたほどの凄腕の剣士にしては考えられない弱々しさだった。

「そりゃ、あんたがいなきゃ進むものが進まないからだよ。もちろんシエラくんは気にしてないから戻ってきてもいいんだけど、それ以上にあんたの穴を埋めてるのがシエラくんだからね。水に関することをやるのも、重いもの持ち運んだりするのもね。このままじゃ今度の原料採集でシエラくんが全部荷物持たされる羽目になるよ」

「あなたが手伝ってあげなさいよ」

「悪いけど今のあんたにそんなこと言う資格はないね」

 断じるとリナリアは黙った。優越感に浸りながらセドナは言葉を継ぐ。

「あんたがいなくて一番苦しんでるのは、あんたが会いたくないシエラくんなんだから。早く帰ってきなさいよ」

 唇を曲げたままで聞いていたリナリアは、地図を広げた。

「アリヤを取り戻さないと」

 話を逸らされたと思ったが、そのために危険を冒して来ている。素直にリナリアの話に乗ることにした。

「場所はどうやって割り出すの」

ホロスコープでエリーザベトの居場所を割り出すつもりだったから、それを使うわ」

「あんた占星術やれるんだ」

「魔術は錬金術占星術の連携で成り立つんだから、できなくてどうするのよ」

 呆れ声を出しながらリナリアホロスコープを使い始めた。セドナには星の配置が何を意味しているのか読み取れなかったが、リナリアは納得したように頷いて立ち上がった。

「場所、わかったの?」

「歩きながら説明するわ。それよりセドナ

 何よ、とリナリアの顔を見上げながら言う。

「あなた、もっと勉強したらどうなの」

 こんなところに来てまで説教されるとは思わなかったが、固さが取れたようにセドナは笑った。それが不満だったのか、彼女は鼻を鳴らして目を逸らした。

「いつ動く?」

「夜襲をかけたいところだけど、アリヤを連れて脱出できることが前提ね。それはあなたにしかできない」

 淡々と、しかし信頼を乗せた声で言った。

「地上の敵はわたしが引き受ける。あなたは街を飛び越してアリヤを連れていって」

「それはいいけど、あんたはどうするの。どうやって逃げるの。逃げるつもりはないとか言ったらぶん殴るからね」

 そう言って、リナリアの前で拳を握る。彼女は小馬鹿にしたように笑ってみせ、逃げる方法なんていくらでもあると答えた。

「伊達に二年間の戦争を生き抜いたわけじゃないわ。勝ちっ放しだったわけでもない。負け戦もあったし、たった一人で敗走する羽目になったこともある。それでもわたしは生きてきた。だから今度だって生き抜く」

 まっすぐな眼差しを受け止め、セドナは笑った。

「オッケー、それじゃ地上はよろしく。一時間も粘ってくれたら大丈夫だと思う。あたしの寿命もそんなところだと思うし。あたしはアリーを助けることしか考えないから」

「それでいいわ。それより、あなた平気なの。アリヤがいないと生きていけないぐらいの体じゃなかった?」

「あたしの心配は要らないよ」

「ならいいけど」

 そう言ってリナリアは夜空を見上げた。青から赤へ移り変わる途中の色が、暗い空を切り裂くように流れていく。学校が襲われた頃は水色だったのが、今は紫に近くなっている。

 そのアストラルラインを眺めながらリナリアは微笑んでいた。やけに柔らかな顔に見え、セドナは何か見えるのと訊いた。

「光宿が見えるのよ」

 光宿とは他国における星座のようなものだ。アストラルラインの光が強すぎるアストライブ地方では、星はよほど明るくなければ見えないし、月もある程度の月齢でなければ観測できない。代わりにアストラルラインは、周囲に様々な模様を作り出す。それが光宿だが、星座と違って形は一定ではない。同じものは二度と見られないと言われている。

「エリセバ・フォルクを倒した時に見たのとよく似てるわ」

 アストラルラインの周囲で渦を巻きながら、水しぶきのように細かい光が散りながら消えていく。宝石が砕けながら散っていくようだとセドナは思った。

「この国ならではだけど、それ見てたら何か良いことあるの?」

「あの戦いが終アストラル戦争最後の戦いだった」

「今度のは最後にはならないでしょ」

「その通りよ。でもいつかまた、最後の戦いに身を投じなければならないわ」

 セドナは答えなかった。いつまでも戦いが続くと思うと暗澹たる思いにとらわれる。ほんの数ヶ月前、学校を天使たちと共に襲った時はそういう未来をどこかで望んでいた。けれど今はもう、それでは失うほど弱く、しかし愛しいものを知ってしまった。

「アリーを助けに行こうか」

 一歩踏み出したのを制するように、リナリアが更に前へ出た。

「まずわたしが切り込む。あなたは頃合いを見計らって飛んできて」

「頼むよ、リナリア

「こっちの台詞よ。アリヤを頼むわ」

 そう言い残して闇の中へ駆け出すリナリア。それからまもなく、街から微かに悲鳴が上がり出す。セドナはそれから一〇分を数えて飛び立った。

 リナリアが敵を引きつけてくれているおかげか、妨害はほとんどなかった。街を飛び越し、地図にあった責任者の居場所を真下に見下ろすと、セドナは風を集めて叩きつけた。建物を潰した風はそれだけに収まらず、周囲に暴風となって吹き荒れて被害を出す。混乱の中に降り立ち、暴風でドアを吹き飛ばされた牢に走り寄る。

「アリー!」

 闇の中へ呼びかけると慎重な返事が聞こえた。お互いの友情の証として、自分たちだけに許された呼び名だ。

「セディ!」

 部屋の中は暴風で荒れてはいたが、駆け寄って抱きついたアリヤにけがをした様子はない。無事な姿に一瞬だけ安心して抱きしめ返し、離れた。

「早く帰ろう。こんなところにいちゃだめだよ」

 セドナが手を引いた時、悲鳴に近い呼びかけがあった。

「セディ、手が」

 アリヤの手を引いている右手を見遣ると、末端が崩壊を起こしていた。金色の光の粒子となって、水の中の泡のように空中へ溶けて立ち上っていく。

「ここに来るまでちょっとやられすぎてね。早くご飯食べさせてよ」

 アリヤはすぐに笑顔を取り戻して頷いた。何事もなく帰れば、精霊に元素を食わせてやれる。それで体の崩壊は止められるのだ。

 アリヤを抱えて飛び立つ。まだ地上での戦闘は続いていて、行きと同じように妨害はほとんどなかった。地上のリナリアが一瞬だけ上空を振り仰いだ。目が合ったから目的を達したのに気づいただろう。生身に過ぎないアリヤに気遣いながら加速して街から離れ、森林地帯の上空へさしかかった。

「セディ、あれは」

 アリヤが不安げな声を上げる。地上からの攻撃を警戒していたセドナは、声に従って前を向く。紫色のアストラルラインを背に、天使のシルエットが浮かび上がっていた。

「そう簡単には帰れないか」

 覚悟していたとはいえ、戦っている余裕があるかどうかは微妙だった。飛ぶだけで力を使い、寿命が削れていくのだ。まっすぐ帰れればいいが、戦闘があるとなると厳しい。

 ましてその相手が、レリクスを持った天使であったなら。

 セドナは動揺を誰にも悟られないよう笑い、制動をかけた。

「見送りなら要らないよ。もうここまで来たら帰り道はわかるし」

「間に合うのかしら。寿命の尽きかけた体で」

「ちょっとはノリに合わせてくれてもいいじゃん」

 エリーゼは答える代わりに《コンルーメンション》を掲げた。

「一つ訊いておきたいんだけど、なんでわざわざアリーを連れ出させたの」

 エリーゼの立場に立ってみても、利点が特に思いつかない。

「そのアリヤを抱いたままわたしに勝てるかしら」

 無表情で言い放ったが、声音には勝ち誇った響きがある。久しぶりにセドナは激しい嫌悪感にとらわれた。

「わたしたちよりも大事に思う仲間を、わたしから守り切れるのかしら」

「……そんなに悪趣味だとは知らなかったよ」

 この場でアリヤと一緒に始末することで、自分の選択が間違いだったと思い知らせたいのだ。事情はどうであれ、エリーゼにしてみれば裏切られたのだから、どんな恨みを抱いていても弁解することはできない。許せないのはそれにアリヤを巻き込んでいることだ。

「あんたの思惑通りになんかならないよ」

 セドナは硬い声を出す。アリヤに小さな声で呼びかけられるまで、自分の周りに風を集めていることに気づかなかった。一人だったら今頃攻撃を始めていたかもしれない。

「やってみせなさい、セドナ

 十字架が振り上げられた。それを合図にセドナは急降下、アリヤを地上へ降ろす。森林地帯の中に空いた草地だった。

「その辺に隠れてて」

「セディ、その体で大丈夫なの」

「心配しないで。ちょっと気に食わない奴をぶん殴ってくるだけだから」

 おどけて片目を閉じてみせ、急上昇する。エリーゼから放たれた光が重なり合い、セドナはその隙間を巧みにくぐり抜けて接近する。拳の届く範囲に接近できたが、エリーゼはいとも簡単に身をひねってかわしてみせた。

 拳が届かないと見ると、シエラの体を切り刻んだ風の刃を飛ばす。不可視の攻撃だったが、真正面から襲ったためか、十字架の周囲で盾をかたどった光に防がれる。エリーゼはその十字架を振り回してくる。頭を揺らして立てなくするぐらいの威力は発揮できる攻撃だが、決して慣れているわけではない。かわすのは難しくなかった。

 めまぐるしく変わる攻防を経て、距離を取る。そこでお互いに一度手がなくなったのを感じた。

「よく動くじゃん」

 笑みを保って言ったが、自分でも顔が引きつっているのがわかる。余裕をいつまでもたせられるかわからない。

「これでも戦闘訓練は受けているわ。戦いについては素人のあなたには負けない」

 その差があるのは否めない。常人離れした能力を持っているとはいえ、その力の上手な使い方を誰かから教わったわけではないのだ。

「でもあたしは、あんたなんかに負けないよ」

 強がりを返すのが今は精一杯で、その虚勢はエリーゼに見抜かれているようだった。彼女は無表情をわずかに動かして、薄く笑った。

「早くわたしを倒さないと体が寿命を迎えるわね」

「お気遣いどーも。その前にあんたを倒せば済むことだけどね。そんなことより、アリーをさらって餌にしたのが許せないね」

「しっかり食いついてきてくれたわね。釣り上げてさばき終えるまであともう少しよ」

「何とか前向きに生きていこうとしてる人たちを邪魔するなって言ってるんだよ!」

 拳を振り上げて突撃する。不意を突いたつもりだったが、エリーゼはしっかり対応してきた。《ディスクライブ》を振り上げて思い切り叩きつける。こちらの加速と合わさって決して弱くない衝撃が額から頭を貫く。意識が一瞬飛んだ後、セドナは地上へたたき落とされていた。

「セディ!」

 アリヤが声を上げながら闇の中から飛び出してくる。耳が少しおかしくなっているのか、叫び声が遠い。悲痛な響きを宿していることだけわかった。

 セドナは腕を突っ張ってすぐに体を起こす。半人半霊の体は傷を負わないし、痛みもそれほど強くは感じない。しかし今のダメージでいっそう体が崩壊してしまった。右手だけだった分解が腕にも広がっている。

 笑い返して安心させたかったが、上空からエリーゼがアストラルパワーで追撃してくる。とっさにアリヤを抱え上げて森の中へ逃げ込む。エリーゼの攻撃は木々にも構わず降りしきる。木々が燃え出すことがないのは救いだが、暗い中で木にぶつからず逃げ回るのは限界がある。セドナは覚悟を固め、アリヤを降ろした。

「アリー、だめだ。あんたを守り切れない」

 話している間にもエリーゼの攻撃が迫ってくる。

リナリアがあと何十分かしたらここを通ると思う。それまで逃げ回って」

「そんな、セディはどうするの」

「少しでもアリーを助けられるように戦うよ」

 再びエリーゼの追撃で、闇が明るく照らされる。アリヤの手を引いて森の奥へ逃げる。

「もっとちゃんとした形で恩返しがしたかったけど、あたしじゃ無理みたい。見てよ、体がこんなになっちゃって」

 闇の中でも鮮明に、体がほどけていくのが見て取れる。我慢できないほどの飢餓感にとらわれて、耐え続けるのも限界だった。

「アリー、シエラくんにちゃんといつか気持ちを打ち明けるんだよ」

 その言葉を残して、エリーゼに突撃しようとした時だった。

 手首を捕まれた。

「行かせて、アリー。もうこれしかないの」

 硬い声を出す。アリヤは無言で、手首を離そうとしない。

 突き放した方がいいだろうかと思った時、セディ、と呼ぶ声がした。それははっとするほど落ち着いて、悲壮感にとらわれた心を叩いた。

「セディ、聞いて。作戦があるの」

 思いも寄らない言葉に振り返る。そうして語り出したアリヤに、セドナは無茶だよと口走っていた。

「そんな危ないことできないよ」

「やるの。このままじゃ二人ともここから逃げ出せない」

 アリヤが言った瞬間に上空から攻撃がある。さっきまで手当たり次第だった攻撃が、だんだん狙い澄ましたものになっている。それから逃れ、アリヤは言葉を継ぐ。

「あの人はわたしが何もできないと思ってる。付け入る隙があるとすればそこしかない」

「でも」

「セディ、わたしはまだクレアストで勉強したい。でも一人じゃ嫌、セディと一緒に帰りたいの。そのためだったらちょっとぐらい危ない目に遭ったって構わないから」

 真剣な眼差しと笑顔に、セドナは返す言葉を見つけられなかった。アリヤが言った作戦は、一歩間違えば大きなけがを負うかもしれないし、悪くすれば死んでしまうほどの危険をはらむ。それでもやると言う。どうしてか、信じてくれるからだ。

 セドナは覚悟を決め、アリヤを連れて森の外へ出た。素早くエリーゼの居場所を見定め、そこへ向けて二人で体勢を整える。

「おねがい、セディ!」

「オッケー、アリー!」

 片足をセドナの手に乗せたアリヤは、一瞬両足を乗せる。その瞬間セドナは思い切りアリヤを振り上げる。それだけでは、いかに軽いアリヤといえども一瞬宙に浮かぶだけだ。そこに風を吹き付ける。エリーゼに向けて。するとアリヤが一直線に上空のエリーゼに向けて飛んでいく。高速とはいえ一直線の動きで、避けられる危険は充分にある。しかしアリヤの予想通り、エリーゼは地上から飛んでくるアリヤを見据えるだけで動かない。確かに天使でもなく、簡単に連れ去ることができた少女が、空を飛んで体当たりをかますなど予測できなかっただろう。

 エリーゼに体当たりし、更にきつく抱きしめて両腕や翼の動きを封じる。そこからは二人とも自由落下だ。放物線を描いたアリヤはエリーゼと共に落ちていく。

 セドナはその落下点へ走り寄った。二人は加速していく。狼狽し、必死に拘束から逃れようとするエリーゼに対し、アリヤの表情は澄んでいる。合図するようにこちらへ送った眼差しは、自分たちの生還を信じて疑わないものだった。そして最後の賭けに臨む瞬間が近づく。

 飢餓感はこれまでにないほどひどく、ほどけていく体は自分の寿命をまざまざと見せつけて死への恐怖心を呼び起こす。怖い。目を閉じたら少しは恐怖も和らぐ。ほんの一瞬ぐらい構わないはずだと思い込む。けれどその一瞬が元でアリヤが死んだら、たとえ自分だけ生き延びても意味がない。

 魔術をこれからも学び続けるために。途中になっている研究を再開するために。みんなで一緒に魔術協会へ認められて魔術師となるために。

 親友と認め合った少女とこれからも生きていくために。

「アリー、離れて!」

 これ以上ないというタイミングで叫べたと思う。そしてアリヤもそれに応えて、激突二秒前にエリーゼを突き放した。

 二人の間に隙間ができる。セドナはそこに風をねじ込んだ。その風はアリヤを浮き上がらせ、エリーゼを背中から地上に叩きつけた。

 エリーゼのうめきを聞きながら、既に落下を始めているアリヤの元へ飛んだ。そして空中で抱きしめる。涙を流した時に抱きしめてくれた日と同じ温かさが、体中に広がった。

 地上へ降り立つ。その瞬間セドナの膝は折れた。体が前へ倒れるのを支えられなかったが、アリヤが素早く支えてくれた。

「大丈夫?」

「あんまり……」

 セドナは自嘲気味に笑った。

「飛べないことはないけど、さすがにちょっと疲れたよ。それよりアリーは平気なの?」

「わたしは大丈夫。セディに比べたら……」

 アリヤは半分以上がほどけてしまった右腕を撫でた。今から全力でカナーネンまで飛んでいけばぎりぎりで間に合うだろうが、その前にどうしてもやっておきたいことがある。

「アリー、エリーゼのところへ行って」

「でも、早く行かないと」

「ほんの少しでいいから。話せるのはもう今しかないと思うから」

 アリヤは戸惑いがちに二人を見比べ、決して納得した素振りは見せなかったが、セドナに頼まれた通りにした。

 セドナはアリヤから離れ、エリーゼの傍にひざまずいた。

「どうして殺さなかったの」

 目を閉じ、小さくうめき続けていたエリーゼはぱっと目を開き、アストラルラインを眺めるようにして訊いた。

「それじゃアリーを殺しの片棒を担がせちゃうでしょ。それだけは避けたくてね」

「自力じゃ動けないほどのけがをさせたのに、何も気にしないのかしら」

「それでも、あなたが生き延びてさえくれれば、たとえ罪になったとしてもいくらでも償えます」

 後ろからアリヤがきっぱりと言った。脱出のためとはいえエリーゼを傷つけたことを気に病むかもしれないと不安だったが、心配は要らなさそうだった。

「あなたにしてみれば、独りよがりとか、傲慢とか思うんでしょうけど」

「本当ね。シエラも同じことを言ったと思うわ。やっぱりあなたとはわかり合うことなんてないわ。わたしに傷をつけた罪を償う機会なんて、あなたにもシエラにもあげない」

 そう言って再びエリーゼは目を閉じた。その瞬間目の端にきらめきを見た気がした。

 シエラが物心ついた時からマハナイムで兵士に仕立て上げられたように、エリーゼも両親を知らないまま育ち、兵士として終アストラル戦争を生き抜くことを宿命づけられた。不覚にも同情したくなる。自分もまた、自力ではどうしようもない状況でもがいたあげく、間違った方向へ進んでしまった。そこからマシな道へ進めた自分と、敗れ去ったエリーゼ。持って生まれた運の差、縁の深さの違いとしか思えない。

セドナ、あなたはもう魔術を憎んではいないのね」

 瞑目したままエリーゼが問うた。即答はできなかった。自分ではどうしようもないことで受けた差別や蔑みに泣いた記憶は、この瞬間でさえ鮮明だ。

 それでもセドナは頷いた。たったそれだけのことが、この先魔術師を目指すのに大きな力を与えてくれる気がした。

「昔のことも、あたしが経験したことも、なかったことにはできないけど。それでもあたしは魔術師になって生きていきたい。そうやって恨みや憎しみを乗り越えていけると思う。一人じゃないから」

 この国で自分は二度仲間に助けられたと思う。南風のカチナから介抱してくれたこと、今回アリヤを助け出せたこと。自分一人だったらどこかで倒れていた。

「そういう人たち、わたしにもいたはずなのに」

 エリーゼはいっそうきつくまぶたを閉じた。それでもあふれ出すものは止められなかった。アストラルラインの光を受けて輝くのを見ながら、セドナはアリヤの肩を借りて立ち上がった。

「もうすぐリナリアがこの辺を通ると思う。リナリアはきっと容赦はしないから、早く逃げて。ここまでしておいておかしなことを言うけど、シエラくんみたいに新しい時代をがんばって生きてほしい」

 エリーゼは返事をしなかった。目尻からぽろぽろと涙を流すだけだった。

 セドナは最後の力を振り絞ってアリヤを抱え上げ、飛んだ。飛び続けた後に光が見え、そこに降り立つ。そこに見知った少年がいたのを見て安堵し、足の力が抜ける。最後にアリヤが支えてくれたことが何よりも嬉しかった。

 第八章 光宿を背に

 

 日が昇る時間の早さもさることながら、気温の上がり方もかなりの速度をたたき出していた。まだ朝食を食べ終えたばかりの時間にもかかわらず、立っているだけで汗がにじんでくる。これからもっと強くなると思われる日差しの中で、アリヤとセドナは身軽な格好で立っていた。二人とも何の準備もなくトゥアンに来ることになったのだから、持ち物といえばシエラが持ってきたセドナに処置を施す道具だけだ。

「もう少しで出発準備が整うから。一昔前ならここからアストラルパワーで動く列車で帰れたんだけどね」

 アディナがぼやいた。足下には線路があって、等間隔に並べられた枕木の間には雑草がたくましく生えている。ある程度草刈りをしているのはうかがえたが、雑草の生命力には追いついていないようだった。

「ベルト村に行った時みたいだな」

 四人で初めて原料の採集に行った時を思い、シエラは言った。あの時の方がまだ涼しかったが、四人にとって初めての経験で、帰りの馬車に乗るなりアリヤとセドナは眠り込んでしまった。

「わたしたちだけ帰るのは申し訳ない気持ちもありますけど」

 アリヤは済まなさそうにしていた。戻ってきた後、セドナと共にカナーネンへ帰るようにアディナに言われたようだった。見舞いに行ったリナリアの話では、セドナは最初承服しかねたものの、アリヤを危険にさらすのかと問われて一足先に帰ることを受け入れたらしい。

「いいの。むしろ無理しない決断をしてくれて助かってる」

「あたしたちには他にもやることあるもんね」

 アディナの言葉に重ね、セドナが言った。一時は体の三割ぐらいが消えていたのが、完全な体を取り戻している。

「でもそれは、四人そろわないとできないことです」

 アリヤの黒褐色の瞳がシエラとリナリアを見る。その目には強い期待が宿っている。

「わかってる、俺たちは帰ってくるよ」

「採集の計画も宙に浮いたままだしね」

「その時にはわたしも参加するわ」

 リナリアが言った。大きな体をこころなしか小さくしている気がした。

「いいわよね」

 いつになく控えめな声で彼女は言った。もちろんですよとアリヤが笑って言った。シエラの思いを代弁してくれた。

 不意にアディナを呼ぶ声がした。その声の方には馬車が用意されている。そろそろ時間ねと彼女は呟いた。

 その脇を屈強なクレアスト軍兵士の一団が通り過ぎていく。人垣の隙間から車いすに乗せられたエリーゼが見えた。彼女は一瞬こちらを見遣った。眼差しはすぐに兵士たちに隠れてしまい、アリヤたちが乗るはずの馬車とは別の、頑丈な造りの客車がついた馬車へ乗り込んでいった。

 一瞬だったが、シエラにはエリーゼが別れを告げたように見えた。

エリーゼはどうなるの」

 訊いたのはセドナだった。さっきまでの和やかな雰囲気がいつの間にか消えている。彼女がこれからたどる運命が、それぞれの胸に形になって浮かんでいるようだった。

「これからカナーネンで裁かれるはず。全てはそこからね」

「俺と同じようにはできないのか」

 カナーネンに留まれなくても、クレアストのどこかに学生として生きていく。そうして新しい時代にふさわしい知識と生き方を身につけて、次の人生につなげていく。やり直しが許されないほどの罪を犯したわけではないはずだ。

「それはわたしにはわからないね。何とかしろって言われても、わたしは所詮現場の人間だから。あの子の処遇をどうこうする力はないから」

 エリーゼが消えた方向を眺めながら言った声は、冷静さを装って聞こえた。冷徹な行動や考え方が印象的だったアディナにも、エリーゼを何とか助けてやりたいという思いがあるのかもしれない。

 再びアディナが呼ばれた。アリヤとセドナが乗る馬車の出発が迫っているのだ。やがて二人が乗った馬車は、ベルト村に行った時に似た粗末なものだった。

 二人を見送ると、別種の緊張感が満ちる。ここに残っているのは命のやりとりをする覚悟を固めた人だけだ。

「さて、お別れは済んだね」

 同時に頷くシエラとリナリア。アディナは役割を説明すると言ってセドナが休んでいた病院の一室に導いた。そこにはガウラとビロウも待っていた。思わぬ再会だったのか、リナリアは気まずそうに二人から目を逸らした。

「軍は正統使徒連合の首魁であるエリーザベト・ゲーリングを捕らえることを目標にしている。大きな障害を取り除いた後はトゥアン全土を保護下に置いて、新政府の権力を行き渡らせるつもりよ。敵の前線基地はスピーズにあって、そこを落とせば本拠地であるフリボーグへ攻め込める。向こうにとっての生命線を攻めるんだから、相当厳しい戦闘になるはずだけど」

 スピーズと聞いてエリセバの顔を思い出す。彼女の生まれ故郷で、今でも彼女を慕う者が多く住む。街の中にはエリセバの墓もあるという話だった。

 アディナは四人を順番に見た。

「あなたたちにはフリボーグへの道を開いてもらう」

 静かだが、反論を封じる硬い声でアディナは言った。

「シエラは空中で、リナリアたちは地上で戦って敵部隊をかく乱してもらう。ある程度敵の戦力を崩せたら本隊が突破することになっているから。何か文句はあるかしら」

 アディナは一目で不満がわかる顔をしていたが、何も言わなかった。ビロウとガウラも同じだった。

 シエラは務めて不満が漏れないように無表情に徹した。スピーズを戦場にする作戦は気に入らない。しかしこの戦いの後に学校へ戻れるのならどんなことをしてもいい。過去のしがらみを振り切るために必要だと思い込むことさえできる。

「俺は何もない。それで学校へ帰れるなら」

「いい心がけだね」

 アディナは満足げに頷いた。

「丸一日経ってから作戦が始まる。それぐらい経てばあの子たちもカナーネンに着けるだろうからね」

 それ以上の言葉は上がらず、五人は解散した。

 その夜は眠れず、シエラは深夜に外へ出た。夜間警戒中の兵士がいるのだろうが、空へ飛び上がってしまえば見つからないだろう。アストラルラインがいっそう大きく見えるところまでゆっくり上昇する。地上の建物が指先ほどの大きさに見えるほどの高さだと、アストラルラインの周囲に見える光宿も迫力を増す。常に動いていて、同じ形は二度と現れない。一晩中見ていても飽きないものだ。

 力を抜き、仰向けになって目を閉じる。それでもまぶたを通してアストラルラインの光が見える。上空の風に身を任せてたゆたう感覚を楽しんでから地上へ向かうと人影がたたずんでいた。相手の正体がわかった時、地上からも呼びかけてきた。

「こんな時間に何やってるの」

 いつもの薄いカーディガンにもう一枚ベストを羽織ったリナリアの声には、微かにとがめる響きがあった。

「眠れなかったから、光を見に行ってたんだ」

「光って、アストラルラインの?」

「近くで見るときれいだからな」

「明るすぎて余計眠れなくなる気がするけど」

 夜空を見上げながら怪訝そうに言ったリナリアは、少し寒そうにしていた。

 地上に降りたシエラは空を振り仰ぐ。外に出た瞬間よりも暗くなっているような気がした。夜明け前が一番暗いと聞いたことがあるが、それが本当なら今更床についても仕方がないだろう。

「君こそ寝ないのか」

 几帳面なリナリアが深夜に起き出してくること自体が珍しいことに思えた。

「眠れなくなったから。もう少ししたら日が昇るし。日が出てると眠れないのよ」

「もしかして緊張してるのか」

 何気なく訊いたら、そんなわけないでしょとやたら強い口調で言い返された。

「怒ることないだろ」

 戸惑いながら言うと、リナリアは素直に謝った。やはり緊張していて、精神状態が不安定になっているのだろう。歴戦の兵士だと思っていた彼女にしては意外だと思ったが、一年は戦いから離れていたはずだから、戦いに戸惑いがあって当然だろう。

 リナリアは投げ遣りな声を上げたと思ったら座り込んだ。地面は芝生になっているとはいえ、リナリアが地面に座る姿は何だか意外なものに見えた。

「何よ。見下ろしてないで座ったら」

 シエラは言われるままに腰を下ろした。帰ろうと思っていたのに、リナリアに言われると逆らえない。

 しかし意外に居心地がいいことにも気づく。リナリアに刃を向けられたことや、血まみれリーリエと呼ばれていた頃の彼女がエリセバを殺した事実についてのわだかまりは消えていない。そんなリナリアに心を許せる気持ちになっているのは、彼女と関わりのあった人の声や自分自身の感じ方が悪いものではないからだろう。特に料理が上手いことには素直に好感が持てた。

「光宿って近くで見たらきれいなの?」

 そのリナリアが夜空を見上げながら訊いてきた。油断のない鋭く険しい表情が、この時ばかりは魅了されたように緩んでいる。

「そういう感想を抱くまで俺は二年ぐらいかかったな」

「何それ。言葉を知らないのね」

「そうかもな。でもこの先魔術が発展していく中で天使でなくても空を飛べるようになるかもしれない。その時はきっと君も何て言ったらわからなくなると思う。それぐらい圧倒的だったんだ」

 それを最初に誘ったのはエルマだったと思う。彼がその時のことを思い出として残していてくれたのかどうか、今となってはわからない。

「スピーズって、エリセバ・フォルクの出生地よね。そこで戦うこと、どう思ってるの」

 リナリアの口から出るとは思わなかった質問だった。意外に感じながら、できれば避けたいよと答えた。

「色々言われてるけど、エリセバは俺たちにとって大事な存在だったから。生まれ故郷を荒らしたくはないよ」

「わたしが知ってるのは偏ったことだけだけど。あなたにとってのエリセバってどんな人だったの」

「お母さん、かな」

 即答した。それ以外の答えは思いつかなかった。

「俺はお母さんを知らないのに、お母さんってこんな人なんだろうって思ったぐらいの人だったよ」

「そんな人をわたしは殺したわ」

 リナリアはこぼすように言った。後悔しているようには聞こえないし、正しいことをしたと開き直っているようにも思えない。真意を掴みかねていると、ずっと訊きたかったのと言った。

「この戦いが終わったら学生に戻りたいというのは本当よ。でもそれは、わたしのことをあなたが許さなければかなわないことだと思うの。必要だからといっても、長く一緒にいてもいいのかしら」

 エリセバの最期についてはわからないことが多い。リナリアとの一騎打ちの末に敗れたと伝えられていて、その最期を目撃した人物がいないのだ。

 エリセバはかけがえのない存在だった。何を賭けてリナリアと戦ったのかわからないが、生き延びて新しい時代を迎える可能性をリナリアは断ち切ってしまった。

「許してほしいこと、許せないこと。戦争が終わってからの方が多く経験したよ。正直マテウスやアリヤに投げられた石がつけた傷の痛み、エルマに殺されたクラウスさんのこと、俺への復讐の巻き添えになって死んでいった学生たちのこと、挙げたらきりがない。君が気になってることもそのうちの一つだ。投げつけられた石みたいに、まだ痛む」

 リナリアは無言で、様子をうかがうような目つきで視線を横にした。許せないのなら素直にそう言えばいいと促しているようにさえ見える。

「これから生きていくのに何を大事にしたら良いんだろうってずっと考えてきた。傷つけられたことへの憎しみ? それだったらアリヤやセドナと仲良くなんてやれないし、テオドルたちと同じになる。自分のしたことをずっと責めてればいいのか、だったら前向きになんて生きていけない」

「じゃあ」

「全部受け止めて生きていくことにしたんだ。いいことも悪いことも全部。許せることもそうでないことも全部。君が俺に対して思うことも全部だ」

 こんな考え方に、簡単にたどり着けたわけではない。傷が痛むのをずっと我慢して生きていくことは難しいからだ。

「俺にだって許してほしいことがあるから、その前に他人を許そうと思ったんだ」

 そうでなければこれからの時代を生きていけないような気がした。

 期待したリナリアの反応がない。居心地の悪さを覚えながら光宿を眺めてみる。こういう時星座なら、どこに何の星座が見えると話題を見つけられるが、刻々と変化し同じものは二度と現れない光宿について語るのは難しい。

「わたしがいなかったら、やっぱり困るの?」

 ふとリナリアが訊いた。話題を探して意識がそれていたシエラは反応が遅れた。

「どうなの」

 継がれた言葉は不安を感じて聞こえた。

「それは、もちろん。君がいないと進むものが進まないし。採集の時力仕事は全部俺がやることになるから」

「男が女の手を借りるわけにはいかない?」

「まあ、そうかな」

 ふうん、とリナリアは意味深な反応をした。どう思ったのかまるで読めない。

セドナと同じことを言うのね」

 そうなのか、と問い返していた。自分の知らないところで、セドナが気遣いをしてくれていたのだろう。リナリアセドナが話し合う機会がどこにあったのかと思ったが、久しぶりに見たリナリアの笑みの前にどうでも良くなった、

「安心したわ。本当に、安心した」

 同じ言葉を重ねたリナリアは、胸のぬくもりを抱きしめるように上背のある体を丸めた。

「安心したわ。あなたって不躾で不用意だけど優しいのね」

 初めてリナリアから褒められた気がする。そう思うとアストラルラインを眺める彼女の横顔から目を離せない。紫の光に照らされた笑顔がきれいだと思ったのもある。端正な顔に見とれていた。

「何人の顔じろじろ見てるのよ」

 すると途端にリナリアは笑みを消して不機嫌そうな声を上げた。いつもの鋭さを取り戻した顔の前に慌てて謝る。

 リナリアは自分の体を抱き、冷えてきたわねと呟いた。

「そろそろ帰りたいけど、あなたは来ないの」

 まだ空の色に変化はない。シエラはもう少し空に浮かんでから帰ると答えた。

 リナリアはあっさり背を向けた。何だかちょっと残念な気持ちだった。

 何歩か踏み出した時、リナリアは足を止めて振り返った。

「もう一度学校へ帰れるのよね」

「さっきもそう言ったじゃないか」

「でも戦場へ行くのよ。絶対の安全なんてないわ。審問騎士団に集まった兵士もいずれ劣らぬ強者ばかりだった。それでも生き残ったのはわたしたち三人だけ。何十人と命を落としたわ」

 審問騎士団はギュンター隊という教導部隊の中の武闘派が結集した武装組織だ。戦うことに特化した人々でさえ、あの二年の戦争を生き延びるのは難しかったということだろう。

「万が一ってこともある。あなたにもわかるでしょ」

「それはそうだけど」

 リナリアの真意が読めなくて戸惑いながら返事をする。その後に続いた言葉はシエラの予測を超えていた。

「だから今のうちにあなたには伝えておきたいの。わたしの名前を」

「どういう意味だ、リナリア

 意識して呼び慣れた名前を口にすると、彼女は首を振った。

「それは戦後、アストラルピースに押しつけられた名前よ。血まみれリーリエおよびそれを名乗ることにした女剣士はもう死んだことになってるから。新しい名前と人生を用意する代わりに、新政府の脅威には命を賭けて剣を振るうことを約束したの」

「学校が襲われた時も、そういう理由だったのか」

「あなたたちのところへ戻らないで一人で戦い続けたのもね。完全に脅威を叩きつぶさなきゃ戻れないと思ったから」

「そんなことないよ。俺は天使である前に一人の男の子だって言われたことがある。君も同じだよ。剣士である前に一人の学生なんだ」

 マハナイムではどんな勉強をしていようが、兵士としての自分を忘れられなかった。エロヒム修道会はそのために孤児を集めて訓練と教育を施したのだから当然だろうが、今はそれを間違った時間だったと断じることができる。魔術学校で勉強している間は過去を忘れて誰もが平等に学生として過ごせた。それで良いのだとシエラは思った。

「わたしは、エトナ・レンツ」

 不意にリナリアが呟いた。率直な印象は、呼び慣れた名前より覚えやすくて呼びやすいというものだった。

「エトナ・レンツが本名よ。もう違う人になってるけど、マザウス準教区は戦前までレンツ家が代々教父を務めてきたわ。レンツ家はもう途絶えたことになってる」

「エトナ・レンツか、いい名前だ」

 率直な感想を告げると、何故か不機嫌そうに唇を曲げた。

「本名を知ったからって気軽に呼ばないでよ。本当は他人に教えたらいけないんだから」

「でもいい名前だと思う。その名前で堂々と暮らせる日が来るといいな」

 何気なく言ったが、リナリアにとっては思いがけないことだったらしい。一瞬表情を忘れて、何かを言いかけたように口を半開きにした。

「って、エトナ・レンツは公式には死んだことになってるって言ったじゃない。死人が生き返ったらおかしいでしょ」

「あ、そうか。気づかなかった」

「普通わかるでしょ。抜けてるわね」

 シエラはあえて何も言わなかった。するとリナリアはちょっと困ったような目をした。何か言ってよと頼むようにさえ見えてくる。何だか初めて優位に立てたような気がする。

「じゃあ言い直すよ。リナリアラムザウアーの名前でずっと生きていけるといい。それでどうだ」

 名は変えなかったがそれまでとは違う人生を歩むことにした自分のように、リナリアにも新しい人生が続くといい。それが本当の名前と共にあるものでなくても、積み重ねるものは本物だ。

「単純ね。でも、それしかないわ。魔術師になろうってビロウさんとガウラさんに声をかけたのはわたしだし、最後まで責任取らなくちゃね」

 再びリナリアは笑った。言いたいことが言えたからだろうか、何やら吹っ切れたようなすがすがしい笑顔だった。彼女の顔を照らすのがアストラルラインでなく太陽だったらもっと輝かしかったのにと残念に思うほどだった。

 リナリアを見送ってから、自分にも言いたいことがあったのを思い出した。けれど様子を見る限り気にしていないようだったし、もしかしたら忘れているのかもしれない。そのことについて話すのは全て終わってからにしようと決めて、シエラは空へ飛んだ。

 

 当初の計画通り、リナリアたちが先頭に立って切り込んでいくことになった。ほとんど間を置かずに本隊が追いかけることになっていたが、それに三時間の遅れが生じている。リナリアとガウラが地上を、シエラが空中の天使たちを担当する。それぞれビロウが準備してくれたホロスコープで位置を確認しながらの戦いだった。ガウラが負傷したこと以外には危なげのない戦いだった。

 日が沈むまでにホロスコープ上の反応はなくすことができた。空中のシエラに何か合図をして撤退しようと思った時だった。

 上空に天使の影が見える。それは巨大な武器を振りかざして急降下してくる。リナリアはそれを《ユングフラウ》で受け止める。久しぶりに感じる強い手応えだった。リナリアと天使、ラゲナンは斬り結んだ後に距離を置いた。

「戦えない者は去れ」

 それは自分を突き抜けた先に向けられているようだった。

「心配するなよ」

 ガウラの声には余裕を感じた。しかし無理をしているのも事実だろう。

「逃げてください。けが人を守って戦えるほど器用じゃないですから」

「どいつもこいつも、けが人に優しくなろうぜ」

 苦笑しながらガウラは立ち上がった。少し不安定な動きながら、一人で歩けないほどではないようだった。

「お前後悔するぞ。リナリアラムザウアーは強い。カチナさえぶち殺すんだからな」

 それだけ言い残して立ち去ったガウラを見送り、ラゲナンに向き直る。

「邪魔は消えたな、血まみれリーリエ。一度は戦ってみたかった」

「名指しは光栄よ。でも許せないのは、わたしの仲間を邪魔者扱いしたことよ」

 剣を強く握って踏み出した。その瞬間ラゲナンは一気に距離を詰める。虚を突かれて攻撃を防ぎながら、《ユングフラウ》の力を解放しようとする。しかしその間を与えてくれない。激しい衝撃と衝突音、思わず歯を食いしばり、唸りながら押し返す。そして叫びを上げて振り払った。相手は軽やかに飛んで距離を取った。飛び道具を警戒したが素早く突撃してきた。再び刃を受け止める。押し込まれて足が後ろにずるほどの衝撃だった。今度は一度だけではなく、二度、三度と打ち下ろしてくる。決して受け止めるのが楽な攻撃ではないが、リナリアは衝撃と両手に広がる痛みに耐えた。

「心配せずとも、貴様の間合いで戦ってやる!」

 声を上げながら斬りかかり、《ユングフラウ》に重く激しい一撃を叩き込む。

 力勝負に打って出た。そればかりか、終アストラル戦争中最強と言われた自分を、力で押し切るつもりらしい。

 リナリアは剣を握り直し、思い切り《ユングフラウ》を振るった。

「お互い、それしかないものね!」

 腹の底から声を上げ、刃と刃をぶつけ合う。全身に走る痛いほどの衝撃に、剣士としての血がたぎる思いだった。

 何度も《ユングフラウ》と戦斧がぶつかり合い、衝撃が体を駆け巡り、音となって周囲へ響き渡る。いつの間にか日差しは弱まってアストラルラインが見え始めている。もう何時間戦い続けているかわからないが、疲れは感じない。

 今はまだ平気だ。しかしラゲナンと戦ったことはなく、彼がどこまでの体力を持つのかもわからない。わからないことだらけの相手に、長期戦は望ましくない。リナリアは早く決着させようと《ユングフラウ》を大きく振りかぶって斬りかかった。

 この攻撃だけ、ラゲナンは身をよじってかわした。一瞬無防備になった。しかし体を回転させたことで、攻撃に移れないのは相手も同じ。そう思った。

 そこに油断があった。ラゲナンは身をよじる勢いで後ろ回し蹴りを繰り出してきた。

 ラゲナンの蹴りは右手を直撃し、柄と足に挟まれた指がきしんだ。思わずあえぐ。折れてはいないだろうが、決して小さくはないダメージを負った。その証拠に反撃しようと剣を持ち上げる時にひどい痛みが走る。それまで当たり前に振り回していた剣が、突然重くなった。

 しかし今度はラゲナンが無防備になる番だった。これを逃したら勝てないかもしれない。それは駄目だ。自分は帰らなければならない。自分がいなければ進むものも進まないのだ。

 リナリアは腹の底から叫びを上げた。ラゲナンに攻撃の気配を感じさせることになって身構えさせてしまったが、そうすることで痛みは欺瞞できた。そして一瞬、こちらの刃が届くのが早い。そう思ったが、ラゲナンは後ろへ飛んで刃の直撃を避けた。薙ぎ倒すような動きで振るわれた刃は、切っ先がラゲナンの胸をかすめただけだが、確かに傷を負わせた。服の上から鮮血がまっすぐににじむ。

 負傷した両者は同時に後じさり、荒い息をつきながら、こらえきれずお互いに傷を負った場所を押さえる。それでも敵から目を離すことだけはしなかった。

 先に攻撃を仕掛けてきたのはラゲナンだった。相変わらず激しい攻撃だったが、さっきよりも押し込まれているのを感じる。

 ひときわ強力な攻撃を刃に受け、その衝撃が指に伝わった。痛みに意識が遠くなる。一瞬もうろうとしたが、ぼんやりした視界の中で刃がゆっくり迫ってくるのを見た。

 当たったら死ぬ、負ける。それは駄目だ。

 気を持ち直して、いつの間にか下がっていた剣を振り上げ、ラゲナンの刃へ叩き込む。互いの加速が指に伝わって尋常ではない痛みが走る。叫びを上げながら、それでも刃を押し返す。お互いの顔の高さでそれぞれの刃が拮抗する。

「指が折れるぞ、無理をするな!」

 押し殺した声を出すラゲナン。少しでも余裕を見せつけてやろうと、リナリアは無理矢理笑みを作った。

「あなたこそ、激しく動けば傷が開くわ!」

 未だ互いの刃は拮抗したままだ。

「貴様を倒せるなら構うものか。貴様の指は魔術にも使うのだろう、ここで無理をすれば魔術にも差し障りが出るぞ」

「それはあなたを倒してからの心配よ!」

 リナリアは強引に押し切った。互いに体勢が沈むように崩れる。先に立ち直ったのはリナリアで、《ユングフラウ》をすくい上げるように振るう。相手も反応して刃で受け止める。今度は拮抗せず、弾き合って飛び退く。

「帰ると言ったんだから、わたしは何が何でも帰らなきゃいけない!」

 既に痛みは断続的なものになっている。ぶつかり合うごとに強さを増し、痛みから逃れようと意識が逃げるように眠ろうとしているような感じさえあった。

「シエラとの、仲間との約束とかいうものか!」

「笑いたければ笑いなさい、それでもわたしには命を賭けるほど大事なことよ!」

「ならば俺は貴様を倒すためだけに命を賭けるぞ!」

 言い放ち、ラゲナンはきりもみしながら大きく上昇した。上空で戦斧を振りかぶり、勢いをつけて振り下ろしてくる。これまでとは比べものにならない威力をはらんでいるのが想像できた。

 剣で受け止めたら本当に指が折れてしまう。それよりも、この大きな動きならかわすのは難しくない。リナリアは落ち着いて動きを見て、振り下ろされる直前に後退った。

 反撃に移ろうとした時だった。地面を砕くように叩きつけられた刃の先端から、無数の光が矢のように発せられた。

 胸から足を狙う光の矢は、何本かが心臓を狙う軌道だった。とっさに左腕で急所をかばったが、全てを防ぎきることはできない。両足を、左腕を、高熱の何かが貫いていく。終アストラル戦争で天使から受けた攻撃と同じ痛みだったが、あの時よりはるかに苦痛が大きい。こらえきれずリナリアは絶叫した。

 ずっと一緒に戦ってきた《ユングフラウ》さえ重すぎて持てなくなる。リナリアは剣を支えにして辛うじて倒れなかった。

「急所をとっさに防いだのはさすがだが……、しかしその体ではもはや自慢の剣は振るえまい。勝負あったぞ、血まみれリーリエ!」

 ほとんど勝ち名乗りのような、充実感に満ちた声を上げたラゲナンだったが、彼も疲れを宿している。激しい運動に耐えられなくなっているのだろうが、武器を振るえるだけ自分よりましだろう。

「まだわたしは立っている……。勝ち名乗りを上げたかったら完全に屈服させてみなさい……!」

 荒い息の間から声を絞り出す。同じように息の整わないラゲナンは、おもむろに得物を肩に跳ね上げた。

「いいだろう、貴様を倒してこの勝負を決着させてやる!」

 戦斧を振りかぶり、低空を滑空しながらラゲナンが立ち向かってくる。立っているだけで精一杯の相手に抵抗する力はもはやないと踏んだのか、その構えはかなり大きい。

 リナリアはその動きを見つめた。逆転の可能性は低い。しかし逆転しなければならない。そうでなければ帰れない。

「血まみれリーリエ、これで最後だ!」

 刃を振り上げたラゲナンが迫る。

「その名を呼ぶな……、血まみれリーリエは死んだ……、わたしはリナリアラムザウアーだ!」

 リナリアは叫び、《ユングフラウ》を振り上げた。指がきしみ、痛みという悲鳴を上げる。それでも構わずにいると意識が痛みから逃れようと眠ろうとする。視野が狭くなる。しかし立ち向かうラゲナンの姿だけはっきり見える。

 叫びながら《ユングフラウ》を全力で振るう。刃と刃がぶつかり合った瞬間、指の中で骨が激痛を伴う乾いた音を立てた気がした。直後に燃え上がる痛み、砕けたのだと感じた。

 支えきれなくなりそうだったが、リナリアはあらん限りの声を上げることで痛みを欺瞞した。そうするともう一度振るうだけの力がわいてくる。剣を弾き、すぐさま振り回す。するとラゲナンを戦斧ごとはじき飛ばせた。

 大きく体勢を崩したラゲナンに対し、リナリアは《ユングフラウ》を振り上げた。

 これが最後の力だった。あとは勢いに任せて刃を振り下ろすだけ、どこでもいいから当たれば倒せる。それだけの威力が、この《ユングフラウ》にはあるのだ。

 しかし手応えがほとんどなかった。切っ先が地面にめり込む。

 顔を上げると、ラゲナンは左目から肩、脇腹にかけて傷を負っていたが、決して大きな傷には見えない。振り下ろした刃が奪ったのは、彼の左目だけだった。

 膝から力が急激に抜け、リナリアはひざまずいた。柄から手がすり抜ける。地上へ倒れ込むのを両手で支えて防いだ。

「何故とどめを刺さない」

 ラゲナンが押し殺した声を出した。その声の奥に何があるのか、もはや読み取ろうとする気力もない。

「できないからよ」

 かすれ声でリナリアは応じた。

「指が折れたわ。もう戦えない……」

 血まみれリーリエと呼ばれていた頃から、一度もしたことのない敗北宣言だった。悔しさに地面を掘るような強さで拳を握る。すると周囲がぽつぽつと濡れていく。約束を果たせず、敵に敗れた自分がこの上なく情けなかった。

 不意にラゲナンが膝をついた。思わず顔を上げる。彼は苦しげな顔をして、新しくつけられた方の傷を押さえていた。

「相打ちと言いたいが、俺はこれ以上意識を保てん……。貴様は仲間との約束とやらを果たしだのだ」

 咳き込んでから、彼は無理にひねり出したように引きつった笑顔を見せた。

リナリアラムザウアー、確かに強かった……」

 それだけ言うと満足げな表情を保ったまま、ラゲナンは前のめりに倒れた。そして動かなくなった。勝利の実感は乏しいし、まだ受けた傷が深いのは自分の方だろう。しかし立ち上がれたのは、倒れた相手を見下ろせているのは、自分だ。傷だらけで泣き顔をしていて、今までで一番情けない姿をしているが、確かに自分は勝ち残ったのだ。

 リナリアは無事な左手で《ユングフラウ》を引き抜いた。ただでさえ片手で持ち歩くのが難しい剣なのに、消耗した状態ではいっそう疲れてしまう。置いていって後で回収すればいいのかもしれないが、離れるのが不安だった。

 そしてリナリアは、更に先へ向かった。きっとこの先に、彼がいる。あの時と同じようにボロボロになって帰ってくる。

 その時一番に迎えてやりたい。自分もボロボロだけれど、構わない。

 リナリアは剣を引きずるようにして歩き出した。シエラへの道のりは遙かだったが、お互い生きて再会できると信じた。

 

 敵の包囲網を突破し、目的地へたどり着く頃にはアストラルラインが鮮明に見えていた。  

 街の中に人気はなかった。クレアスト軍の侵攻を予見して既に全員逃げ出してしまったのだろう。余計な死人が出なくていいが、その中にエリーザベトもいたのだろう。シエラはひときわ目立つ屋敷へ向かい、裏口を探し当てて中に入り、明かりのない屋敷内を探し回ったが、ここにも人気はなかった。

 寝室らしき部屋にも気配はなかったが、アストラルラインに照らされるようにして、手紙のようなものが置いてあるのに気づく。シエラは警戒しながらそれを取り、封を破いて中身を読んだ。

 それはテオドルの字だった。どちらかというと女らしく、繊細な線で書き残された文字は、エリーザベトが既にフリボーグを離れたことを伝えてきた。

 その続きに、自分は屋敷の上空で待っていると告げる内容がある。決着を望むのは彼も同じらしい。

 手紙の内容が本当なら、クレアスト軍が望む勝利はなくなった。軍を援護するのなら、上空で待っているはずのテオドルと戦う理由もない。

 しかし彼がいる限り、自分のいる場所が何度でも戦場にされてしまう。一度目は何とか立ち直りかけた学校だが、それは市民有志の力によるところが大きい。二度、三度と攻撃が繰り返されたら復興の意思をそがれてしまう。これからの学校のために、テオドルは倒さなければならない。

 外へ出たシエラはアストラルラインの輝きを見上げ、飛翔した。体を銃弾のように回転させながら上昇することで空気抵抗を減らすことができる。効率的な飛び方として、最初にマハナイムで教わったことだ。

 地上の熱が届かない高空に、テオドルはいた。ちょうど彼の真後ろに飛び出したが、不意打ちする気にはなれなかった。

「来たか」

 テオドルは振り向かずに言った。その手には、彼のレリクスである《ピュアカラー》がある。

ゲーリング殿はもうここにはいない。クレアスト軍やアストラルピースの力を以てしても捕らえることは不可能だ。もはや戦う理由はないはずだが」

「大局的に意味のない戦いでも、お前だけは逃がさない」

「何故だ」

 テオドルの声に微かな笑みが含まれて聞こえた。

「お前が生きている限り学校が襲われる」

「そんなもの、お前が学校を離れればいいだけのことだ」

 端的な返事は正論だった。テオドルが学校を襲ったのは、恨んでいる相手がいて、その相手が大事にしている居場所だったからだ。

「そういう非難と同じように俺を認める言葉も知っている。全て受け入れてこれからの時代を生きていくんだ。それが過去を乗り越えていくってことなんだ。お前に何を言われたってもう怖くない」

 天使が魔術の世界においてどういう評判を得ているのか聞かされたことがある。それが魔術協会に認められていく過程において障害になることもあるだろう。しかしスミス教授のように、出会うことで認識を改めてくれた人もいる。非難されたり侮られたりしたからといって、その評価がずっと変わらないとは限らない。

 テオドルはゆっくり振り向いた。その端正な顔には笑みが浮かんでいる。

「手を下せる時にやっておくべきだったな。今日まで生かしておいたのは私のミスだ。しかしそれを精算する機会を与えてくれたことには感謝する。ここなら邪魔も入るまい」

 アストラルラインと光宿が大きく見えるような高空へたどり着けるのは、現時点では天使しかいない。天使同士で決闘するには相応しい場所だった

「俺としてもお前との決着は誰の手も借りたくない。望むところだ」

「ならば来い。エルマ、エリーゼ、ラゲナン、そして全てのマハナイムの天使の無念を私が晴らす!」

 声を上げてテオドルは立ち向かってくる。鬼気迫る形相でかけてくる猛攻をさばきながら、シエラも機会を見つけては反撃していく。

 無念を晴らしたいのはシエラも同じだった。テオドルらに率いられた天使によって学校関係者にも死者が出ている。あの日命を落とした人々のためにも勝たなければならない。シエラは猛攻にひるまず《ブレイクアップ》で斬りつけた。

 テオドルは《ピュアカラー》を突き出してくる。槍型のレリクスは不意を突かれるとかわしきれず、テオドルはその使い方が上手い。何度もシエラは穂先に急所を捉えられそうになり、寸前でかわしつづけた。小さな傷を負うことまでは避けられなかったが、動きに支障はない。我慢を重ねたおかげか、痛みはほとんど感じなくなっていた。

 むしろ微かな痛みが緊張感を増し、意識を覚醒させていくような気がした。痛みを怖れず積極的に斬りかかる。距離を置いても攻撃手段を持つのが《ブレイクアップ》の利点だが、その点は《ピュアカラー》も同じだ。シエラはあくまで剣の本来の使い方で仕留めようとひたすら前へ出ようとした。

「私とお前は同じだ。戦うことを求められ、義務づけられ、そのために生かされてきた。今更逃れることは叶わん」

 シエラは返事をしなかった。エリセバという女性のことを慕い続けたとはいえ、彼女がいなければ天使として覚醒せず、戦うことも、その後恨みを買うこともなかった。

 テオドルも同じことを思って生きてきたのだろう。一瞬共感を覚えたが、魔術学校を攻撃した時点で相容れない道を歩いていることがわかったのだ。仲間や戦友という言葉で自分たちをくくれたのは、もはや昔の話だ。

 テオドルは突如距離を取り、何もない空間に槍を突き出した。素振りのような動きだったが、周囲に細長い光が出現する。

 そのことを認識した瞬間、光が飛んでくる。《ブレイクアップ》が光の盾と光の炎を出現させられるように、《ピュアカラー》もアストラルパワーの力を矢のように飛ばすことができる。そのおかげで中、遠距離戦にも対応し、大きな戦果を挙げてきたのだ。

 それが飛んできた瞬間シエラは反射的に動きを止めてしまった。五本の光はぎりぎりのところでかすめていった。しかし動きを封じられ、一瞬棒立ちになる。動きを止めた急所に向け、光に包まれたテオドルが《ピュアカラー》と共に突っ込んでくる。

 シエラはとっさに《ブレイクアップ》を構え、周囲を泡のように包む光の盾を出現させた。同時にテオドルが狙っている場所を一瞬で見定め、そこに刀身をかざす。読みが的中し、《ピュアカラー》の穂先は刀身で受け止めることに成功した。

 しかし勢いまでは抑えられない。押し込まれたシエラは高度をかなり下げたところで解放され、羽ばたきながら体勢を立て直す。

 その瞬間を狙っていたのだと、全身を貫く熱い衝撃で理解する。光の盾のおかげで直撃は免れたが、意識が遠のくほどのダメージがあった。更に高度が下がり、それを狙ってテオドルが追撃してくる。槍で貫かれる寸前に目を覚まし、辛うじて攻撃をかわす。急いで上昇したが、光の矢が追いかけてくる。光の盾を突き破ってくる攻撃を、全てはかわしきれず、シエラに着実にダメージを積み重ねていった。

 そして最後に本人が槍を構えて上昇してくる。光の炎で相手の動きを妨害し、戸惑わせた隙に距離を取る。逃げてしまいたかったが、シエラは自分から打って出る。

「落ちてしまえば楽になれるものを、何故そこまで戦う」

 マハナイムではいつも見せていた怜悧な表情が影を潜め、激情を隠そうともしない。それだけ必死で、彼にも余裕はないのだ。

「仲間が待っているからさ」

 その言葉は、かつての仲間を前にしてひどく自然に出た。

「お前たちが壊した学校で、俺たちの故郷で、俺の帰りを待っている仲間がいるんだ。落ちたら二度と帰れなくなる」

「そんなもの、ほんの少しの問題で消し飛ぶ。ゲーリング殿は逃げ延びた。たとえ彼女を抹殺したとしても、この国には、いやこの大陸には平和を脅かすいくつもの火種がある。魔術の敵も数え切れまい」

「だったら戦い続ける」

 激しさを増すテオドルの言葉を受けて出た言葉は、自分でも驚くほど静かだった。

「学び続ける。それを邪魔する奴がいるなら戦って退けてやる。そうやってこれからの時代を生きていくと決めたんだ!」

 拮抗していた刃と刃を押し返したのは賭だった。もし失敗したら自分だけが体勢を崩し、テオドルに絶好の機会を与えてしまう。

 しかしテオドルには予測できなかったらしい。彼の姿勢を崩すことに成功し、その機を逃さず《ブレイクアップ》で斬りかかる。これまで封じられていた光の炎も織り交ぜる。攻守が逆転したと感じた。

 それも短い間で、すぐお互いの武器を突き合わせて拮抗する。テオドルはいささか感情的になってはいるが、傷を負っていない分自分より長く戦えるだろう。そろそろ空を飛び続けるのも辛くなってきた自分に、長期戦は不利だ。

 その焦りにも似た気持ちが体当たりにつながった。無謀だと思ったが、テオドルは予測できなかったらしい。体勢を崩して更に落下する。シエラは上空から襲いかかって剣を振るった。決して軽くない手応えがあって、それを証明するようにテオドルがうめいた。胸から腹にかけて赤い傷を刻むことに成功した。

 テオドルはいっそう表情を険しくして《ピュアカラー》を突き出してくる。単純かつスピードも落ちた攻撃でさばくのは難しくない。ただ必死さが増していた。

「お前こそ、そこまでして何で戦う」

 降りてしまえばいいと、一瞬昔の仲間に戻った気分でシエラは言った。

「他の生き方を考えられないからだ」

 濁った声で返事をしたテオドルの傷口からは血のしずくがしたたり落ちる。

「同じ環境で生きてきたはずの私たちの中で、お前だけが違うなど、認められるものか」

 文字通り血を吐くような悲壮感でテオドルは声を上げた。たった一度の直撃が、確実にテオドルの体力を奪っている。

「テオドル、お前は」

 絶望的に遠ざかっていた自分とテオドルの間には、時代の壁があるような気がした。いずれアストラル歴さえ廃止されるはずの新たな国に生まれ変わったクレアストで生きる自分と、未だ終アストラル戦争が続く神聖クレアスト国に生きているテオドル。怒りや憎しみを超えて、哀れみさえ感じた。

 テオドルはきっと、その時代の壁を乗り越えないだろう。過去を抱き続けたまま生きていくのだ。

「テオドル、俺はみんなで新しい時代へ進みたかった」

「だから裏切ったのか!」

 激情を隠そうともせずテオドルは叫んだ。きっと彼の心の底に巣くう憎悪も、一生涯消えないのだろう。それを植え付けてしまったのは自分だ。

 シエラはテオドルを突き放した。支えをなくしたのか、テオドルは一瞬姿勢を崩した。

「マハナイムの天使があの時全て死に絶えるべきだったのか、それともこれからも生き続けていいのか、その答えをこの戦いにゆだねてやる!」

「良いだろう、決着をつけるぞ、シエラ!」

 先に動いたのはテオドルだった。シエラは光に包まれて突っ込んでくるテオドルを迎え撃つことにした。

 テオドルが突き進んでくるのを見ながら、シエラの脳裏にはこれからの時代のために再建しなければならない学校、元気な姿を見せなければならない仲間たち、期待に応えなければならない教職員、学校再建に手を貸してくれた市民有志が思い浮かんだ。テオドルの言うとおり、これらをつなぐ絆は少しの問題で揺らぐような弱さもあるのは否めない。

 しかしこの国はこれからなのだ。魔術も、アストラルパワーに頼らない生活も、全てがこれからだ。絆の弱さは育てて強くすればいい。

 シエラは目を見開き、テオドルをしっかり見据えた。この先自分の過去を責め立てる者がいても、怖くない。

 終アストラル戦争で何人もの新政府軍兵士を斬った《ブレイクアップ》を、覚悟を決めて振るう。それとほぼ同時に《ピュアカラー》が貫いた。

 それは胸よりも少し上。直前まで引きつけたおかげで相手の狙いが逸れた。

 そして自分の刃はテオドルの胸を切り裂いていた。加速のまま《ピュアカラー》が引き抜かれる。胸の肉がえぐられた痛みに耐えてテオドルの行方を目で追う。彼はもう姿勢を立て直すことはなかった。血のしずくと羽をまき散らしながら闇へ落ちていく。

 一人になってから、自分が未だに空を飛んでいることと、その意味に気がつく。決着をつけるための戦いに勝ったのだ。そう思った途端気が抜けて、一瞬意識が遠のく。次に気がついた時には落下していた。

 翼を動かさなければと思ったが、思いが翼に通じてくれない。諦めかけた時だった。

「シエラ!」

 その声が遠く感じていた意識を引き寄せた。

 頬を叩かれたような気がして、翼に思いが通ったような気がした。思い切って羽ばたくと、落ちていくのが緩やかになった。

 体をぐるりと反転させ、地上を見下ろすような体勢に立て直す。すると自分の羽が舞い落ちていく地上に、待ち構えるように両手を広げている人影を見つけた。

 その傍には、他に使える者のいなさそうな巨大な剣がある。そして迎え入れる体勢を整えた人影は自分よりも大きい。あの体なら、彼女なら、このまま力を抜いて落ちていってもちゃんと受け止めてくれる。

 安心した瞬間にシエラは再び落下した。落ちていく間、地上に叩きつけられる危険は頭をよぎったが、何故か怖くなかった。

 途中で羽ばたいたとはいえ、抱きしめられる瞬間は勢いがそれなりについていた。それを彼女は、舞うようにつま先を軸に回転して勢いと衝撃を逃がした。しなやかで軽やかな身のこなしだった。

「何で君が……」

 リナリアが戦う場所はスピーズの中だと思っていた。次に会うのはカナーネンのはずだった。

「一人じゃ帰り道がわからないでしょ……」

 声にいつものような力がなかった。彼女の体にある傷に気づく。きっとラゲナンと戦い、傷つきながら勝利を収め、ここまで歩いてきたのだ。一緒に帰るためだろうか。あるいはただの照れ隠しで、もっと別の理由があったのだろうか。もうろうとした意識ではリナリアの真意を読み切れなかったが、すぐにどうでもよくなった。

 言葉のあとに滴が落ちた。シエラはそれを見ないように目を閉じた。

 温かさのせいだろうか、目を閉じた途端に意識が遠くなる。今度はそれを無理に引き留めようとはしなかった。全ての音が遠くなっていき、まぶたの裏に焼き付いたアストラルラインの光も色を失っていく。

 そうして全ての感覚がぬくもりへと飲み込まれていく。その瞬間リナリアの指が頭を撫でてくれた気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 エピローグ そして羽のある魔術師へ

 

 その来訪者は目を覚まして二日目に現れた。その時シエラは病室で本を読んでいたが、内容が全く頭に入らずもどかしい思いをしていた。

「具合はどう、シエラ」

 アディナが変わらない飄々とした調子で口を開く。返事をしようにも、彼女に続いて入ってきたラゲナンとエリーゼを見た後では言葉が出てこない。エリーゼは松葉杖をつき、ラゲナンは左目を眼帯で覆っていた。

「どう、話できる?」

 アディナに重ねて訊かれ、ようやく頷くことができた。

「でも、どうして」

 言いながらいつの間にか身構えていたことに気がついた。アディナがいるから安心だが、二人の奥底にある根の深い感情が、アディナの制止を振り切るかもしれなかった。

「裁きの前に、どうしてもあんたに会いたいんだって。きっともう会えないだろうから、上役に無理を言って連れてきたの」

 何気ない言葉に、シエラは最後という言葉を意識した。学校を、首都を破壊した挙げ句新政府に敵対し続けた二人が許されることはないだろう。

 シエラはもう一度、警戒を込めた眼差しを二人に送った。あれほど憎んだ相手が目の前にいるというのに、二人は悟りきったように澄んだ目をしていた。

「何で、来たんだ」

 長い沈黙の後、どちらにともなくシエラは訊いた。言いたいことや訊きたいことはいくつもあるけれど、ほとんどが言葉として思い浮かばなかった。

「きっともう二度と会えなくなるから。その前に話がしたいと思ったの」

「今更、何を話すんだ」

 シエラは乾いた返事をした。恨みを買う理由はお互いにあって、その気持ちの前にはもはやかつての絆など何の意味もない。言葉で歩み寄りができ、許し合える時期はとっくに過ぎ去っているのだ。

「テオドルとの戦いだ。あいつの遺体は見つかっていないらしい。お前はテオドルを殺したと確信しているのか」

 ラゲナンに訊かれて手に残る手応えを思い返す。決して深くはない傷を負わせた。死んでいてもおかしくはない。しかし生きていても不思議ではない。何しろ自分は、墜落していく姿しか見ていない。テオドルと戦ってからもう五日が経過しているが、その間何の動きも掴まれていないのは、彼が生きていないことの証拠と思っていた。

「俺は殺すつもりで剣を振るった。それに見合うだけの手応えもあった。でも墜落した後にどうなったのかまではわからない」

「二人が戦っていた場所の周辺には血液も見つかったわ。でもそれがテオドルのものとは限らない。遺体が見つからない以上、テオドルは行方不明という扱いになるね」

 アディナが横合いから解説を加えた。

「恨み言を聞かせに来たのか」

 そう言うとラゲナンは首を振った。

「戦いは常に命を賭して行うものだ。俺たちは仲間たちの無念を晴らし、新政府への反抗の証として戦った。お前は学校で学び続けるという未来を賭けた。結果は俺たちが敗れ、お前たちが未来を手にした。言いたいことがあったとすれば、テオドルと精一杯戦ったのかどうか、それを訊きたかった」

 濁りのない表情は変わらずに、ラゲナンは淡々と言葉を紡ぐ。シエラも応えて、抑えた口調で返事をした。

「テオドルがいる限り俺の居場所が狙われ続ける。そう思ったから、殺すつもりで戦い抜いた。俺も、きっとテオドルも、命を賭したはずだ」

 もしかしたらその言葉が慰めになるだろうかと思い、贈るような気持ちで言った。ラゲナンは表情を変えずに頷いた。

「わかった。お前はもう新しい時代を生きている。俺たちの傍から離れて、もう戻ってこないところにいるのだな」

「悲しいわ、とても」

 二人がそれぞれの言葉を紡ぐ。どちらにも等しく悲しみがにじんでいるようだった。

 返すべき言葉に迷っている間に、二人とも背を向けた。

「もういいの?」

 アディナが声をかけ、二人とも頷いた。

「さらばだ、シエラ。最後はこんな形になったが、人生のわずかな時間でお前と交流できたことは無駄ではなかったと思う」

「わたしたちを突き放してまで選んだ時代なんだから、何が何でもまっとうして。仲直りの時間も取れないのが心残りだけど」

 二人は自分から部屋を出ていった。アディナはシエラにももういいのと訊くように一瞥したが、シエラは目を伏せただけだった。

 ドアが閉まり、音が消える。一人になると二人が立ち去ったことが急に意識される。

 二人だけではない。エルマも、テオドルもいなくなった。彼らは自分の居場所を奪いに来た敵だった。かつての仲間という優しい過去も最初から知らなかったかのように、苛烈に容赦なく襲い、学校を破壊した。倒さなければクレアストの発展に重大な支障をきたす存在だった。何より自分が生きていくのに大きな障害になる。戦う理由は正当だと思っていたし、その思いは今も変わらない。

 それなのに、胸にこみ上げてくるのは、戦争中に何度も経験した、仲間を失った時に感じた気持ちだった。

 アリヤとセドナリナリア。彼女らはいつか戻ってくると信じていたし、実際その通りになった。けれど戦争中に失った仲間は、二度と戻ってこない。テオドルをはじめとする仲間たちも同じだ。絶対に、二度と仲間にはなれない。

 敵を倒して目的を達したはずなのに、悲しい。嬉しくない。喜べない。シエラは毛布を抱きしめ、声を押し殺して泣いた。

 不意にドアを叩く音が聞こえた。はっとして、慌てて目元をぬぐう。その間に入るけどという静かな声が聞こえた。

「待って、まだ」

 シエラは声の主に返事をして、目をしばたたかせた。鏡が欲しいところだが見当たらない。自分の顔が泣いているように見えないことを願いながら入室を許した。

 ドアを開けたリナリアは、目が合った瞬間何かに気づいたような顔をしたが、目を逸らしただけで何も言わなかった。自分がエリーゼとラゲナンに言いたいことを形にできなかったように、彼女もどんな言葉が相応しいか迷ったように見えた。

「指、大丈夫なのか」

 最初にシエラはリナリアの右手の三本の指に巻かれた包帯に気づいた。ラゲナンと戦ったことで負ったのだろう。

「実は折れてるの。あの天使、ラゲナンに蹴られてね」

「そんなんでよくあの重い剣を振り回せたな」

「まったくよ。よく生きて帰れたって思う。ラゲナン・レーエ、強かったわ」

 荷物を置いたリナリアは腕を組み、述懐するように言った。

「さっきアディナさんと、ラゲナン・レーエ、それからエリーゼ・バウアーが歩いているのを見たわ。あれってあなたに会いに来たの?」

 三人が病院にいる理由が、それ以外にないと確信しているような口調だった。頷いたシエラは、少し前までここにいたことを明かした。

「俺と最後に話をしたかったらしい」

「最後、ね」

「ああ。きっともう、会うことはないから」

「シエラ、大丈夫?」

 気遣う声は全く予想外だった。彼女は近づいて、椅子に腰を下ろした。その瞬間だけ目の高さが合い、それからリナリアは上目遣いになった。

「大丈夫なの。あの二人ともう二度と会えないって意味、ちゃんとわかってる?」

 シエラは答えられなかった。痛いほどわかっているけれど、それを口にするのさえ辛い。戦っている時はあれほど必死に戦っていたのに、いざ最後の瞬間が近づくとなると、別れが怖くなる。自分がひどく身勝手に思えて、再び熱いものがこみ上げてきた。

「泣いてたわね、シエラ」

 涙をこらえる顔で、思わずリナリアを見てしまった。彼女は憐憫の情をたたえた瞳で見つめ返す。頼りなげな声で否定しても、嘘、の一言であえなく言葉を積み上げる気力が萎えてしまう。

「乗り越えるために、受け入れるために色んなものを捨ててきて、今にたどり着いたのね。きっとこの時代を生きていく限り続けなくちゃいけない生き方は苦しいはずよ。でも一人じゃないことは忘れないで。あなたの傍にはいつだって」

 リナリアの言葉はノックの音で途切れた。二人してその音を振り返る。

「どうぞ」

 今度はすぐに声を上げる。何故かリナリアは、ちょっと、と不満そうな声を上げたが、当然ドアは開かれる。姿を見せたのはアリヤとセドナだった。

「何だ、二人とも元気そうじゃん」

 明朗に笑うセドナ

「よかった、本当に」

 泣き出しそうな眼差しで笑顔を見せるアリヤ。

「まだ復帰まで時間がかかるけど」

 少々の照れくささを感じながら言うシエラ。

「その時はちゃんと働かなくちゃね」

 何故かため息交じりに微笑みを見せたリナリア

 学校が襲われた時、再び四人が揃う時が来るなんて思わなかった。自分の過去が知れてしまったら、その時点で望んだ生活も終わりを告げると思っていた。確かに自分の過去が元で失われたものもあるけれど、それだけでは消えないほど強いものも、この空間に、四人の間に築き上げられたと思う。

 アストライブに住むと語り伝えられてきた女神ハヤは、人間に対して苛烈で冷酷な態度を取るけれど、努力を重ねて試練を乗り越えた人間には優しい。それこそがクレアストにおいてはハヤの加護と言われる。その最たるものが、一二人のマハーブ族から生まれて増え続けた、末裔たる自分たちだ。

 その一端に、自分もいるのだろうか。天使として生きることを強いられて、良いことがあったと思えなかった一七年間で、初めて運命を与えたハヤに感謝ができた。 

 天使の力や過去を知ってもなお壊れない絆を感じることができる。普通に生きていたら実感できないことを、生きているこの瞬間に感じ取る。気づいたらシエラは涙を流していた。さっきまでの悲しみとは明らかに違う感情から発する、暖かな滴だった。

 

 天使たちとアストラルピースの戦闘で壊された噴水が直され、それに従うように人の流れも戻ってきた。アストラルラインが純色となる秋口には、魔術学校に入学した頃と同じような賑わいを、街は取り戻しつつあった。

 アストラルラインが秋口に見せるのは真っ赤な色だった。夕焼けよりも鮮やかな見え始める時間、シエラは噴水の前に立ち、本を開いた。ここの上空で南風のカチナに操られたセドナと戦い、更にエリーゼとも戦った。あの時負けていたら、その前にアリヤを守り切れなかったら、自分はどうしていただろう。逃げるようにカナーネンを後にして、一度はそうしようと思ったように自ら命を絶っていただろうか。けれど想像は所詮想像で、明確な像となって脳裏で結ばれることはない。

 何枚かページをめくった後に、何気なく前を向いた。するとロングコートと毛糸の帽子を被った、周囲と比べてひときわ背の高い佇まいの女性と目が合った。

「みんなは?」

 周囲よりも高い位置で周りを見回しながら訊いたリナリアに、まだ誰も来ていないと答えた。

「俺が最初だ」

 言いながら本を閉じる。リナリアは一人分の距離を置き、柵に腰を寄りかからせた。

「これから寒くなるな」

 本をしまったシエラは手袋を着けた。リナリアはそうかしらと赤い光を見上げながら言った。

「スクオールに比べたらまだまだよ」

 雪が降りやすく、乾いた風が吹きすさぶ環境の土地が多いスクオールに比べれば、カナーネンはまだ温暖で湿度もあるように思えるのだろう。

「けがはもういいの?」

 包帯の取れた指を絡み合わせ、照れくさそうにうつむきながら訊いたリナリアに平気だよと答えた。

「もう二ヶ月経ったんだ。その間回復に専念してきたんだ。やっと本格的に始動できる」

「ベルト村にも行けるのね」

「ああ、採集計画が宙に浮いたままだったからな。君は大丈夫なのか」

「あなたに比べたら平気よ。色々、あなたの方が辛かったでしょ」

 気遣うように潜められた声に、そうだとしてもこれからだからなと答えた。

「勉強も生きていくことも、この国と同じで全てこれからだよ」

 ずっと隠し続けたかったことをさらけ出した戦いを経て、かけがえのないものを手に入れられた気がする。けれどそれだけで魔術師になれるわけでも、望んだ生き方ができるわけでもない。

 クラウスならきっと、信じられる友人がいるだけで充分だと言うかもしれない。彼は欲がなかった。自分はクラウスよりも欲がある。

「乗り越えていかなくちゃいけないものがあったけど、わたしたちにはできたかしら」

 シエラは首を振り、敢えて正直な気持ちを表した。

「テオドルは見つからないし、あの日壊された街も完全には戻ってはいない。どうしても過去を思い出して、それにとらわれると身動きできなくなる気がするんだ」

 本当に乗り越えられたのなら、どんなことを思い出しても笑って前へ進めるだろう。自分はまだその境地にはない。

「今回の事件で新政府の治安維持能力や軍事面が脆弱であることが露見したから、雌伏している大聖堂派の残党たちも活動を活発化させるでしょうね」

 新政府の敵は正統使徒連合だけではなかったし、その他の敵も目的を同じにするわけではない。敵の敵は敵ということだ。もし何らかのきっかけがあって戦うことになったら、終アストラル戦争直前のように三つどもえの勢力図が展開されてしまう。そして再び、くすぶっていた火種が燃え上がることもあるだろう。

「だけどクレアストの国民は、もうそういう動きを許さないはずだ。だからこそ学校にも市民有志が集まって、たくさん手を貸してくれてるんだ」

 襲撃されてから二〇日後には再建が始まった学校は、二ヶ月で半分近くが復旧した。民間の業者が仕事で集まってくれたのもあるが、無償で荷物を運んでくれた人がいたり、図書館に本を寄贈してくれた人がいたりして、市民有志の力は小さくなかった。その協力がなければ、自分たちは勉強どころではなかったかもしれない。

 市民が直していったのは街も同じだ。襲撃直後は全く人通りがなかった通りにも活気が戻ってきた。これから立ち直るだろうが、クレアストはこれからの国だ。元通りになるだけでは飽き足らず、もっと素晴らしい発展をしてくれるはずだ。

「もう再建なんて無理だと思ってたのに」

 呟いたリナリアも、同じ気持ちに浸っているように見えた。

「残念なのは判別研究の単位が認められないことか」

 四人が揃ってから再開することになった、プネウマ紙作成という課題を達成するという目標は四人の総意だ。しかしどれだけうまくいっても、成功を認定する資格を持った教授がスミス教授一人しかいないから、単位としては認められないということだった。自分たちは半年後、特に問題を起こしたわけではないけれど、もう一度一年生として学校生活をやり直すことになる。

「理不尽って思ってる?」

 今までの真剣さとは打って変わって、リナリアはいたずらっぽい笑みで上目遣いをした。性格的に、そして身長的に無理をしていると思ったのは悟られないよう表情に気をつけながら首を振った。

「そしたら、もう一回勉強し直せるな。俺たちは魔術師になるんだ。大陸中に認められるためにはいくら勉強したって足りないくらいだ。むしろ得なんじゃないか」

「そうね。魔術に限らないけど、今のままじゃクレアストが他国に肩を並べるなんて途方もないことだものね」

 人が増えてきた往来を見渡して言ったリナリアに、でも夢じゃないだろと声をかけた。

「夢だとしても叶えられない夢だと思ってるわけじゃないだろ」

 まあね、と彼女は答えた。

「あれほど絶望的に壊れたものだって直せることを知ったわ。だからどんなものだって可能性があるって信じられる」

 学校のことか、あるいは自分たちの絆のことか、詳しくは訊かなかった。どちらにしても大きな意味がある。

「そうだな」

 シエラが返事をした時、リナリアは名前を呼んでいた。アリヤとセドナが人混みをかきわけるようにして近づいてくる。

「ごめんなさい、待たせてしまって」

「でも時間には間に合ったでしょ。アリーは気にしすぎ」

「そんなこと言って、わたしがいなかったら遅刻するつもりだったくせに」

「間に合ったんだからいいじゃん」

 だらしないセドナに、リナリアが何かを言いそうにしている。その瞬間ガウラとビロウも現れ、その場を引き取った。

「どうする、もう行くか」

 ビロウは赤い光に満ちた空を見上げ、全員に訊いた。星も月も見えず、夕焼けよりはるかに鮮やかな色が満ちる空だった。そうしているのは彼らだけではない。周りの人たちも同じようにしている。

 そして空と時計を見比べる。あともう少しでアストラルラインの流れが逆転する。時計合わせの時間、ハヤに祈るしかできない時間が始まる。

「校庭も開放されてるはずだ。行っても大丈夫だろ」

 ガウラが応じ、全員が頷いた。四月には一人で飛翔祭に臨み、光の中で時計合わせをした。今度は五人も仲間と一緒に同じことができる。ここに至るまでの道は決して望ましいものではなかったけれど、得られたものはこれ以上ないほどだと思う。

 フレーベル校長の呼びかけで開放された校庭には、既に数え切れない人が集まっていた。五人は何とかまとまっていられる隙間を探し、そこで待った。

 やがて秒読みが始まる。十五秒前から始まり、誰もがあらん限りの声で数を数え、シエラもその大合唱に参加する。

 五、四、三、二、一――

「ゼロ!」

 その声はぴたりと合った。

 その瞬間、あらかじめ六時ちょうどに合わせて止めておいた時計を動かす。そして光がまるで木々のように密集して立ち上がる。それが見えたのは一瞬で、すぐに視界は真っ白になる。視界が奪われたら何も出来ないから、ハヤに祈る。試練を乗り越えてたどり着いた一二人のマハーブ族の末裔たちを見守る、公平で優しい女神へ、願いを届ける。

 困難があってもきっと乗り越えてみせる。だからいつか道が分かたれても絆が永遠であるように。

 アストラルラインの下で特別な力を与えられ、その力が必要とされなくなった新しい時代を懸命に生きていく存在の名は天使――。

 

                    《了 四〇〇字詰め原稿用紙四九二枚分》

2015年5月作品