yuzaのブログ

幕末から明治を舞台にした小説を中心に載せています。

インタープレイヤーズ

 1

 

 緩やかで長い坂を登り切り、ノンストップで長い横断歩道を通り過ぎ、単線の踏切を突き抜ける。国道沿いの歩道へ躍り出る頃、家を出る時に感じた冷え込みが少し和らいでいた。

 車道の奥に見えていた高い塀が、ガソリンスタンドの辺りから途切れて金網のフェンスがその代わりを果たすようになる。向こうから人が走ってきたからペダルを踏む力を緩める。スウェット姿の男は、息とも声ともつかない音を聞かせて走り去った。

 男とすれ違う頃から、重く低い音が追いかけてきていた。肩越しに振り向いた潤は、音の正体を確かめるとわずかにペダルを踏む力を強めた。

 車が発する音に紛れ、空からの音は徐々に近づいてくる。この街に住み慣れない人間なら単なる騒音に聞こえるのだろうけれど、あらん限りの声さえかき消してしまうほどの戦闘機の轟音に慣れてしまうと、朝日の中からゆったり輪郭を露わにしてくる貨物機の音など、遠くで雷が鳴るよりも優しい音に聞こえてしまう。

 直線に入る頃、貨物機も着陸した。濃淡二種類のグリーンのラインが機体に入ったジャンボジェット機である。

 潤はペダルを強く踏み込んだ。出来る限り加速したつもりだが、滑走路を進む貨物機の機首にあっさり追いつかれ、主翼に抜かれ、尾翼に置いていかれた。懸命に航空会社のロゴが入った尾翼を追いかけるものの、十数秒でロゴが見えなくなるほど引き離される。ペダルを踏み込む力を緩めた瞬間体中が温まった。

 熱い息を吐き出して、流すようにペダルを漕いでいく。やがて車道の奥のフェンスは曲がり角に突き当たって逸れる。交差点で長い赤信号が変わるのを待った。

 交差点を横切り、基地から離れる道に入ると聞こえる音が変わる。運動部のかけ声に加えて管楽器の音色が折り重なる。集まった人数が少ないのか、気の抜けた厚みに欠ける音だった。

 朝練をやるような部と関係のない生徒が来るには少し早い時間で、潤は行き交う人のいない門を通り抜ける。人とぶつかる心配をせずに走り抜けるのはすがすがしく、潤の口元に笑みが浮かんだ。

 自転車置き場にも隙間が多い。潤は引き出しやすい端に自転車を置いて三年生の教室へ向かった。四階建ての校舎の最上階で、階段を上る間はやはり誰ともすれ違わないけれど、部活の朝練が出す音は内にも外にも満ちていた。

 潤の席は一番前だった。姓が青山だから、小中高のほぼ全てのクラスで出席番号は一番だった。時々相川とか青田といった名前が前に来ることはあっても、新しい学年で最前列に座るのはほぼ既定路線だ。自分の家系が由緒正しいと聞いたことはないから、おおかた明治に入って夏の山でも見た先祖が青山とつけたのが由来なのだろうけれど、もう少し考えてほしかった。お陰で百三十年後の末裔は先生のいい的だ。

 三年生の教室だけれど、まだ新しい学年になってから三週間くらいしか経っていない。まだのんびりしているのだろう。この一週間、朝練をやるように朝の教室で自習するクラスメイトを見ていない。

 これで差がつくのかどうかはわからない。ただ、勉強することで気が紛れるのは確かだった。

 席に着いた潤は日本史の問題集を開いた。暗記系の科目は寝る前にやると記憶が定着しやすいと聞いてから、一日の締めくくりに問題集を解いて、翌朝学校でおさらいをすることにしていた。

 今日はどうかと思いながらシャーペンの芯を出してノートに文字を書いていく。本番はマークシートなのだろうけれど、自習の時にも番号だけで答えていたら知識が身に付かない。だから記述式の問題集を三月に選んで勉強を始めた。

 靖国神社の前身は何で、何のために作られたのか。答えは頭に浮かんでいるけれど字が出てこない。もどかしい気持ちが芯の先に伝わって、潤は無意識にノートの隅を何度もつついていた。気がつくと変な模様ができている。

 ふと答えが思いついたような気がした。その時ドアが開かれて、その音でせっかく掴めた答えが飛んでいった。

「今日も早いな。熱心でいいね」

 潤は恨めしい気持ちを押し隠して、担任の鈴木先生に頭を下げた。背の高い痩せた人で、銀縁眼鏡が人相を少し悪くしているけれど本人は気にしていないようで、二年前からずっとかけている。

 実際は優しい先生で、先生に遠慮しがちな自分にしては近しく付き合えるような気がしていた。

「自習室がこのぐらいの時間から使えたらいいんだろうけど」

 朝練の指導で来る部活の顧問は多いはずだから、誰か一人ぐらい鍵を開けてくれたら受験生の役に立つ。潤も思ったことだけれど、

「きっと忙しいんでしょう、色々」

 素直に気持ちを出すことはできずに表向きの発言が出た。

鈴木先生は開けてくれないんですか」

「今日は自分の仕事で来たからね。ついでに様子を見に来たんだけど、この時期から自習する子がいるなんてね」

 鈴木先生の目は、少し意地悪そうに見える眼鏡の奥で優しい光を放っている。この先生にはきっと生徒を選り好みしたりえこひいきしたりする、そういうずるさがなくて、どんな生徒でも等しく成功を願っているのだろう。

 一度そう思えれば、潤もその優しさに応えてみたくなる。けれど言葉は上手く出ないから、目を少し伏せて曖昧に笑った。

「青山くんは四大か」

「そのつもりです。そうでない人いるんですか」

「まだ全員の進路を把握したわけじゃないけど、大学以外にも道は色々あるから、全てが同じとは限らないよ」

 就職か、そうでなかったら専門学校か。いくつか考えてみたけれど、潤の頭で形になったのはその二つだけだ。

 鈴木先生ならもっと色々なことを知っていそうだけれど、「邪魔をしたね」と言って鈴木先生は引き下がった。

 少し話をしたら頭がほぐれて。さっき掴み損ねた答えも再び手にできるような気がした。潤はまた、問題集へ立ち向かっていく。

 

 今年三十二歳になるという鈴木先生は現代文の先生で、二十代の頃は実家の習字教室を手伝っていたらしい。近所の子供たちに習字を教えていたそうだけれど、二十八歳で教員試験に合格して家を出て、今は学校から電車で二駅の場所に住んでいる。独身なのにどうして学校の傍に住まないのか、その理由は話してくれない。

 そういう過去を持っている鈴木先生が黒板に書く文字はきれいで、構成も巧みにできている。ぱっと見ただけでどれが大事でどれがそれほどでもないのかがわかるほどだ。

 鈴木先生は人相が少し悪いけれど笑顔は優しい。実際怒ったところを見たことがない。そういう先生だから、授業中寝ている生徒もいるけれど、声を上げて起こすことはない。淡泊に見えるけれど、授業を中断しないのはいい。やる気のない人のせいで授業が遅れることがない。

 この日最後の授業は鈴木先生の現代文で、一度立ち去った後鈴木先生は三年一組の担任になって戻ってくる。十五分間のホームルームの後、日直が号令をかけて挨拶をして一日が終わる。

 潤は自分の席で、わざと帰る準備を遅らせた。鈴木先生がクラスメイトと話をしていたから、それを待つのに手持ち無沙汰だった。

 幸い鈴木先生は、それほど待たせずにこっちへ目を向けてくれた。青山くん、と微笑みを含んだ柔らかい声で呼びかける。

「隣の部屋でやろう」

 潤は頷き、返事をした。以前別の先生に返事をしなかったら怒られたから、ちゃんと声を返すようにしている。鈴木先生は礼儀がしっかりしていない生徒には怒らないけれど、とても悲しそうな顔をすることがある。それが潤には辛いから、鈴木先生が困るようなことは言わないようにしていた。

 隣の部屋はガラス戸がついた棚が壁の一角をうめて、向かいに窓、部屋の真ん中に机が一つある。それを挟んで椅子が向かい合っていた。

 鈴木先生は奥の椅子に座って、持ってきたファイルを開いて紙を抜き出した。

「先週の進路希望で何て書いたか覚えているかな」

 妙な質問をされて潤は面食らったけれど、すぐに持ち直して大学進学ですと答えた。

「四大だね。国公立か私立か、明確なところは書いていないけれど、それは何か考えがあるのかな」

「国公立、だと思います」

「それは経済的な問題かな」

「親がどれくらいお金を出してくれるかわからないんで」

 朝の内から勉強に打ち込むことで続いていた高揚感が、自分の口から出た現実的な問題の前に冷えてしぼむ。大学へ行くこと自体は反対しないだろうけれど、学費はどれくらいまで出してくれるのか、一人暮らしは許してくれるのか、親の裁量次第で進路選択の余地は大きく変わる。

「まあ、今はどこへ行きたいか、理想を持っておけばいいよ。何だかんだで子供が良い大学へ行くとなったら親もお金の協力は惜しまないはずだから」

 信じ込むことはできない言葉ではあったけれど、鈴木先生にしては珍しく強い自信が宿って聞こえる声だった。

 潤はその場では、鈴木先生が勧める学校のことを調べてみると言って立ち去った。勉強は始めてみたけれど、それの成果をどこへつなげたいのか、自分一人の頭では掴みきれない。鈴木先生の言葉に意味のある返事ができなかったのが、帰り道悔やまれた。

 次の日も同じように学校へ朝早く来て、自習をしてから授業に臨む。違うのは鈴木先生が来なかったことと、面談を受けなかったこと。部活に入っていない潤は、授業が終わった時点で自由になる。三年生になってから平日は毎日通っている自習室は空いていて、今日も同じだろうと思った。図書館も近くにあるけれど、不特定多数の人が来る場所だ。学校の自習室の方が集中できるだろう。

 ホームルームの後で自習室へ向かい、二時間ほど勉強すると六時を回る。空が暮れなずむ時間で、練習が終わりかけた部活の声や音が静かになっていく。

 潤は彼らより一足先に帰るつもりで荷物をまとめて立ち去った。校内に人影はないけれど、一つ上の階の音楽室の方から管楽器の音色が聞こえてくる。静かなものだけれど、音に厚みがある。人数がちゃんと揃って、オーケストラが出来ているのかもしれない。日が沈んだらボールを終えなくなる運動部と違って、吹奏楽部の練習は今が佳境なのだろう。

 トランペットとクラリネット、フルートもあるだろう。それらをパーカッションが引き締めて、来るべき時を待つかのように静かな進行をして、突然音が弾ける。ほどなくして音が止まり、また静かな旋律が始まる。同じ音だった。きっと指揮者の指示で、何度も練習させられているのだろう。

 潤は音を聞きながらも足を止めなかった。音を追っていると何だか胸の奥がうずいてくる。

 音楽への希望ならいいけれど、そうではないことを自分自身でよくわかっている。だから音を聞いているうちにうずきが大きくなって、やがては痛みへ変わってくる。そんなはずがないと冷静な自分が叱咤すれば消える幻に過ぎないけれど、その瞬間頭に転移してしつこく深いところを刺す。ここに入ってしまうと簡単には消え去ってくれない。

 このちくちくする痛みは嫌な記憶を思い出させてくれる。嫌がっても拒んでもお構いなしに掘り起こす。潤は歯を食いしばって目を伏せ、蛍光灯が切れかかって薄暗い階段を降りていく。

 一段下りるたびに音楽室の音楽は遠ざかっていく。それで少しずつ痛みは消える。

 安心した潤は、入れ替わるように聞こえてきた別の音に身を固くした。

 今度はオーケストラのように厚みのある音ではない。けれど確かな音だ。奏者の自信と経験に支えられた技巧が宿る。触れたことはないけれど、特徴的なギターの音色だとわかった。

 頭に残っていた、さっきの痛みが戻ってくる。けれどそれだけでなく、惹きつけるものがある。

 潤は音を追っていた。無意識に音階と楽譜が思い描かれる。二年生の教室がある階で、人気はない。そのおかげでギターの音色は際立っている。

 音の出所は使われていない教室だったが明かりがついている。ドアがわずかに開いていて、そこから音が漏れているようだった。

潤はドアの隙間から様子をうかがう。後ろ姿は見覚えのあるもので、潤はその人の意外な一面を見る思いだった。

 やがて演奏が終わる。その瞬間相手は周りのことに関心が向いたらしく、はっとした様子を背中で見せた。

「何だ、青山くんか」

 振り返った鈴木先生はいつもの柔らかな笑みを見せてくれた。どう返事をしていいものかわからず、とりあえず相手に合わせて笑ってみる。演奏をのぞき見されて気を悪くしているかもしれない。心配になったが、鈴木先生の顔にそんな不満は浮かんでいない。

 安心感のある表情に惹きつけられたように、潤は教室へ入っていった。

「どうした、勉強は終わったのかな」

 やはり不満は聞き取れない。潤は少し安心して頷いた。

「ちょうど帰るところだったんですけど、音が聞こえたんで」

「あんまり練習は聞かれたくなかったけど、青山くんならいいか。口は堅いから」

 話そうにも話す相手がいないからですよ、と潤は自嘲気味に思った。部活をやらないからかもっと別の原因があるのかどうかわからないが、この高校に友人と思えるような相手はいない。

「気になったのか、僕の演奏が」

「まあ、そうです。聞いたこともありましたから」

「詳しいんだな、意外に」

 何だか余計なことを喋ってしまった気がする。鈴木先生が弾いていたのはバッハの『無伴奏チェロ組曲第一番』のアルマンドだ。有名なプレリュードに比べて知名度で劣る曲を知っているなんて、音楽が好きなのを認めるようなものだ。

 音楽に関わってきた事実をずっと隠してきたのに。

「昔何か楽器でもやっていたのか」

 鈴木先生は興味を持ったように、体を前に傾けて訊いてくる。触れられたくない場所だったけれど、突き放す勇気はない。

「ちょっと知っていただけです。別に楽器で弾いたわけじゃないです」

 嘘はついていない。少なくとも今の曲を、自分の手で再現したことはない。

「そうか、でも意外だね。青山くんが音楽に詳しいなんて」

 鈴木先生の中に、音楽に詳しいという印象が残ってしまったらしい。失敗したと思う。鈴木先生は生徒と積極的に話す人だから、これを足がかりにして話をしにくるかもしれない。

「そんなに詳しいわけじゃないですよ。今のは本当に、ちょっと知っているだけですから。楽譜だって読めないし」

 今度は嘘をついた。楽譜も読めない人が、音を追いかけながら音階を頭に思い描けるはずはない。

 けれど鈴木先生は、何故か残念そうな顔をした。そうか、と言った声にため息が混じる。

「耳もいいから楽器の経験があるのかと思ったけど」

「それは、ドアがちょっと開いてたからです。誰だって聞こえます」

「ああ、そうだったかな」

 鈴木先生は顔を伏せて、照れくさそうに笑った。

「勉強は順調かな」

「はい、まあ」

「それならいいよ。まだ四月だからって、気を抜いたりする必要は全然ないんだ。自分が必要だと思ったらどんどん勉強するんだね」

 鈴木先生は担任で、クラス全員の進路について責任があるから、関心を持つのは当然かもしれない。けれどクラスの誰一人やっていないことを認めてくれた。それが心強く、疲れた頭が少し覚める思いだった。

 潤はぎこちない挨拶をしてその場を離れた。程なくして音が再開する。潤が閉じきったドアから、微かに音が漏れてくる。その場で立ち止まれば音楽の正体を知ることもできただろうけれど、潤は急いで立ち去った。頭の奥にまたちくちくとした痛みが出てきたからだった。

 鈴木先生と話している間に、日は完全に沈んでいた。以前無灯火で走っていたら偶々出くわした警察官に咎められたのを思い出して、潤は自転車のライトをつける。吹奏楽部の練習も終わっているのか、学校から音は絶えていた。

 門を出て、米軍基地の傍の道を進み、交差点を目指す。時々飛行機が飛んでくるのを見ることがあるけれど、最近は音を聞くことしかない。少し前に、学校へ向かう途中に貨物機らしき飛行機が着陸するのを見たきりだ。

 あの飛行機は何を運んできたのだろう。もしかしたら荷物だけでなく、便乗した基地の関係者が乗っていたかもしれない。

 潤は基地の中を見渡したけれど、誘導灯がついているだけで基地の中の様子はほとんど闇に閉ざされている。あの日の飛行機どころか、時々上空を飛び交う灰色の軍用機さえ見つけられなかった。

 幸い交差点ではそれほど待たずに済んだ。三方向か車線がつながり、そのどれも三車線以上ある。一度車が走り出すと、歩行者用の信号が変わるまでかなり時間がかかる。遅刻ぎりぎりの時などは鬼門で、ここで涙を呑んだ生徒も多いという。

 ペダルを踏み込んで国道沿いの歩道を行く。十分ほどで踏切へ続く道に差し掛かる。ちょうど電車が来る頃で、渡ろうとした瞬間に警報機が鳴ったが構わずに駆け抜ける。朝と同じように一度も信号で止められることなく横断歩道を渡りきることができた。その勢いを保って駅の方へ続く坂道を下る。

坂の下にたどり着いたところで右に逸れ、マンションの自転車置き場を目指す。数に対してスペースが足りない。そのせいでいつも隙間がない。勉強してから帰る時は、停める前に自転車を動かしてスペースを作らなければならない。簡単に動かせるほどの余裕がないことに苛々するけれど、どうにか一台分の隙間を作ることができて、そこに自分の自転車を突き入れた。

六階建てマンションの二階が潤の自宅である。鍵を開けると、廊下の明かりがついているばかりか、カレーの匂いがした。

「ただいま」

 廊下の奥のリビングに向けて声を上げると短く足音があって、それから返事が聞こえる。そして声の主が壁の向こうから顔を覗かせた。

「潤ちゃん、お帰り」

 綾音の声は大きくないが、澄み切っていて心地よい音を生む。聞くだけで家の中が晴れたような気分になった。

「兄さんは?」

 順は靴箱を支えにして靴を脱ぎながら訊いた。リビングやその他の部屋に綾音以外の誰かがいるような気配はない。

「まだ帰ってきてないわ。連絡はないから遅くはならないと思うけど」

「今日カレーなの」

 何気なく訊くと、綾音は「そうなの」と答えた。やけに嬉しそうだった。

「珍しく千裕が食べたいって言うから、作ってあげようと思って」

「そう、確かに珍しいね」

 兄の千裕は好き嫌いがなく、出されたものを黙って何でも食べることができる。その代わり好物の希望を出すこともなく、母親からはよく張り合いがないと言われていた。

「きっと何か疲れることでもあったのよ。潤ちゃん、お風呂入るなら早く入ってね。追い炊きするのもお金かかるんだから」

「綾音さんの家じゃないでしょ。そんな心配しなくても」

「わからないわよ。新居が見つからなかったらここに住むしかないし」

「その場合俺はどこ行ったらいいの」

「心配しないでも住ませてあげるから。さあ、早くお風呂入って」

 終始笑顔の綾音に促されるまま、潤は自分の部屋に鞄を置いて、寝間着を持って風呂場へ向かった。シャワーを浴びてから浸かった湯船は絶妙の湯加減で。声が出るのを止められないほど気持ちがよい。同じ姿勢でいたせいで凝った肩や、数え切れない文字を書き出した右手など、今日一日負担のかかった部分が溶けるように緩んでいくのを感じた。

 きっと自分か兄が帰ってくる時間を見計らって沸かしておいてくれたのだろう。これほど細かい気遣いのできる綾音は、クラスやクラブの女子などとは比べものにならないほどいい女だと思う。残念なのは、綾音は十歳近く年上の二十六歳である上、彼氏である兄といずれ結婚するつもりということだ。

 きれいな声で喋り、笑顔が素敵な綾音を思うとため息が出る。同じ親から生まれたはずの兄が、綾音のように良くできた彼女といずれ幸せになると思うと何だか気に食わない。彼女の家と勤め先は電車で十分のところにある。それほど離れてはいないけれど、平日にもかかわらず駅前のスーパーで食材をかいそろえて、わざわざ男二人が暮らすマンションまでやってくるのだ。自分にはまだ、毎日の昼食に手作り弁当を作ってくれるような彼女がいたことさえない。

 兄はいずれ自分にも彼女ができると話していたけれど、気休めに過ぎなかったと思い知る三年間だった。

 もう一度ため息をついて潤は湯船から出る。パジャマに着替えてリビングに向かう。テーブルの潤の席にはカレーとサラダが用意してあった。

「兄さん、まだなの」

「電話したらね、もう駅に着いたって。十分ぐらいで帰ってくるんじゃないの」

 キッチンの正面にはテレビがあって、その間にはテーブルが置いてある。料理をしながらテレビを見られるようになっているのは、綾音の希望を反映した結果らしい。

 綾音が料理をしながら見ていたテレビの、右隅の時計表示は八時十五分を示していた。昔は遅くても八時には一緒に食べられていた夕飯が、最近はすれ違って千裕だけ九時頃食べるという日も増えている。同居し始めて三年目になる兄の姿はずっと見てきたけれど、改めて社会人の大変さがわかる気がした。

「潤ちゃん食べててもいいよ」

「でも十分ぐらいなら待つよ」

「寄り道するかもしれないでしょ。律儀に待つことなんてないんだから」

 押し切られるような感じで、潤はスプーンをカレーに突き入れた。

「どう、潤ちゃん。今日は春だからそれらしいものを入れてみたんだけど」

 定番の具材に紛れて一つだけ色合いの違う野菜が紛れ込んでいる。食べやすい大きさに切りそろえられたグリーンアスパラガスだ。あまりカレーに入っているイメージはなかったが、肉と一緒に食べてみると充分にマッチするのがわかる。味はもとより、食感が面白く、料理の一工夫としては大きな存在感だった。

「美味しいよ。綾音さんが考えたの」

「ネットで引っ張ってきただけよ。他にも色々あったんだけど、ちょうど安くなってたから」

「兄さんもこれぐらいできると思うんだけど、面倒くさがってやらないんだよ。綾音さんがいてくれて本当によかったよ」

 中辛という最も好きな辛さが、口を軽くしたような気がした。

「千裕も料理をするって自分で言ってたけど、それって嘘なの」

 笑顔の綾音は少しだけ訝かしんだようだった。

「違うよ。料理はするんだけど雑なんだよ。兄さんのカレーの具材は豚肉と茄子だけだよ。どんな季節でも変わらないし」

「何で茄子なの」

「皮を剥かなくても大丈夫だから」

 綾音は納得したように「ああなるほど」と言った。

「だとしたら料理に関しては潤ちゃんの方が千裕よりもよくやるわね。この前作ってくれたハンバーグ、形はちょっと悪かったけど味は良かったわ」

 さり気ない批判も、味を褒められたことを思えば気にならない。料理上手の綾音の言葉に笑みがこぼれ、それを見られないように下を向く。綾音の前では感情を露わにするような子供っぽさを見せたくない。

「潤ちゃんにも期待してるわ。わたしもいつだって来られるわけじゃないしね」

 何だか寂しい言葉だけれど、綾音にも仕事がある以上仕方のないことだ。この家に出入りするようになったのが実家を離れたばかりの頃だったこともあって、彼女はとても自然に母親の立場に入り込んだと思う。

 ずっと昔から料理を作ってくれているような気持ちにもなるのだが、綾音はあくまで他人なのだ。少なくとも千裕と結婚するまでは。

「綾音さんは食べないの」

「わたしは待ってるわ。そのために作ったんだしね」

 衒いもせずに言ってのける。初めは何だかまぶしすぎた千裕への愛情も、最近はだいぶ慣れてきた。

「綾音さんも明日早いんじゃないの」

 綾音への心配三割、兄を孤食に追い込みたい意地悪な気持ち七割で言った。

「そうだけど、寄り道したって九時には帰ってくるだろうし」

 綾音は事もなげに言った。何も言っても聞かないだろう。

綾音と一緒にドラマを見ながらカレーとサラダを食べていると、玄関の方で鍵の開く音がした。

「綾音さん、帰ってきたみたいだよ」

 綾音は短い返事をしてから立ち上がり、小走りに玄関へ向かう。やっぱり綾音は兄の彼女なのだろう。自分の時はリビングから離れなかったのに、本命が帰ってきたら新妻よろしく迎えにいく。テレビでは殺伐とした殺人の瞬間が流れているけれど、玄関から聞こえてくる綾音の声は幸せに弾んでいた。

「もうご飯食べる? お風呂でもいいけど」

 千裕が何か返事をしたが、低い声はリビングまで届かない。

 テレビの中で犯人が暗闇の中で被害者を崖から突き落とした。直後に鮮烈な印象のオーケストラがオープニングを飾る。それとほぼ同時に千裕がリビングに入ってきた。ちょうど主人公役の美青年俳優が映ったところで、嫌でも顔を見比べてしまう。

「何だ、まだ起きてたのか」

 俳優に比べたら呆れるほど平凡な顔をした兄の千裕は、傍に綾音がいるのににこりともしない。元々表情に乏しい兄は、三年間二人きりで暮らしていても未だに心の奥を読み切れない。

 背広を脱いで着替えた部屋着は、高校の頃にクラスで作ったという黒いTシャツで、胸には『闘魂!』と寄席のめくりみたいなフォントで大書され、背中には当時のクラス全員の名前がピンクで印字されている。兄を指していると思われる名前は三つあったが『ちーすけ』、『ちーぼう』、『ちーたろう』のどれが当時の呼び名だったのか、今を以て教えてくれない。

「そんなに遅い時間じゃないよ」

「潤ちゃんは途中まで待ってたんだけど、先に食べててもらったのよ。あまり食べるのが遅いと体に悪いしね」

「そんなこと気にしないでいい」

 千裕はぼそりと言って、おもむろにコンロの火をつけた。やがて千尋は二人分のカレーをテーブルに置いた。入れ違いに綾音がサラダを持ってくる。

「綾音、食べるぞ」

 綾音は笑顔で頷いた。千裕があまり表情を動かさない分、綾音の顔は一層表情豊かに見える。

「潤ちゃん、テレビ変えてもいいよ」

 綾音はそう言ったけれど、毎週見ているものもないし、綾音が楽しんでいるものをわざわざ変えるのも意地悪な気がした。

 いつも兄と二人で囲むテーブルに、今日は綾音が加わる。それだけで食卓は華やいで、会話も楽しめる。兄の低い声と綾音の高い声がいい具合に混ざり合い、会話に楽しいリズムを生んだ。

 一日のことを振り返るような話題を一通り喋った後、綾音は三人分の食器を持っていって流しで洗い始めた。一人ならともかく、三人分は大変だろうと思って潤は綾音を手伝いにいく。のんびりしてていいのに、と笑った綾音に、大変だと思ったからと答えると、聞こえよがしに弟の方がよっぽどよくできてるなあと言った。言われた方は黙ってチャンネルを変えた。

 千裕が選んだのはケーブルテレビで放送されているプロ野球の試合だった。自分が生まれて間もない頃、小学生の頃から西武ファンだという千裕は、大人になって自由にできる金が増えるとケーブルテレビを契約して西武の試合を全試合見られるようにした。仕事は忙しいようだけれど、一年に一度は西武ドームに試合を見にいくほどだ。

 歓声とマーチ、実況と解説の声。さっきまでのドラマとはまるで性質の違う音が聞こえてくる。

 三人分の食器も二人で洗うと一層早く片付く。テレビではようやく一人のバッターがアウトになったところで、まだ西武の攻撃が続いていた。

「じゃあ潤ちゃん、わたしは帰るから」

 手を拭きながら言った綾音に、潤は軽く頭を下げて礼を言った。綾音がいてくれて本当に助かる。彼女が来てくれないと、兄弟の食生活は総菜漬けになって栄養も偏りそうだった。

「明日は来るのか」

 千裕が振り向いて訊いた。

「来れるかどうかわかんないけど、行けたら行くよ。あんまり期待しないで。たまには自分でも作ってよね」

「努力はする」

 そう言いながら千裕は立ち上がり、綾音を送り出す。のそのそとした動きながら、前を行く綾音の横顔は送られることを喜んでいるように見えた。やはりこの二人は幸せらしい。近いうちに一緒になるのは決まっているのだろうし、喜ばしいけれど、自分は素直に祝福できないかもしれない。

 千裕と綾音が玄関に行くと、つけっぱなしのテレビから流れる音がやけに大きく聞こえ出す。玄関に二人がいるのに何故か孤独感が募る。そうなると早く兄に帰ってきてほしいと願うようになる。今はほんの数分の別れで済むけれど、千裕と綾音が結ばれたら、自分がいくら望んでも帰ってきてくれなくなる。

 千裕と綾音が幸せになるということは、兄弟で違う道を歩み始めることだ。その時自分は、一人でいることに耐えていけるのか。

 立ち尽くして西武の試合を眺めていると、千裕が玄関から戻ってきた。彼はテレビを見遣ってから風呂に入ると言い残して去った。試合はいつの間にか西武が四点差をつけていた。きっとこれを見て安心したのだろう。

 廊下からドアの軋みが聞こえる。それから潤はテレビのチャンネルを変えた。一人でいる時の静けさは苦手で、何か音を聞こうと思って番組を探すけれど、関心を持てそうなものがなかなか見つからない。

 それでも五回くらいチャンネルを回すと、適当にボタンを押す手が止まる。番組と番組の間にやっているミニ番組で、各地の喫茶店を紹介するものだった。

 タイトルの後、潤は胸の奥にうずきを感じた。それはすぐに頭の奥に移動して、痛いところをしつこく突いてくる。学校で感じたのと同じ痛みは、テレビのピアノ曲から聞こえてきていた。

 潤は再び、西武の試合にチャンネルを戻した。淡々としたピアノの演奏とは全く違う性質の音が画面から溢れてくる。ほんの五分では試合の展開に変わりはなく、スコアはさっきと同じだった。

 そして胸と頭にある痛みも消えない。椅子に座りながら体を屈め、胸を押さえていると、

「大丈夫か」

 低い声がかけられた。

「何が」

 急に話しかけられた驚きに、長い言葉が出てこなかった。振り返ると頭を濡らした千裕が立っている。表情に乏しいのは相変わらずだけれど、長く一緒に暮らしている肉親だからわかる。垂れ目がちの目に、わずかな心配が宿っていた。

「嫌なこと思い出したんじゃないのか」

「何でそう思うの」

「お前が野球の試合をずっと見てるなんて有り得ない」

 試合のスコアは、千裕が出ていった時と変わっていない。

「ピアノの曲でも聴いたのか」

 弟の状態と、その原因をしっかりわかっている。かなわないと思いながら、潤は頷いた。

「チャンネルを回してたら、聞こえてきて」

「さっさと寝れば良かったな」

 千裕はキッチンの冷蔵庫からビールを持ってきて注ぐと、くつろぐ姿勢で椅子に座った。

「平気なのか」

 試合を見ながら訊いてきた声は、試合の歓声に紛れそうだった。実況や解説に比べると覇気も張りも感じない声だったけれど、代わりに気遣いに満ちて聞こえた。

「うん、持ち直してきたけど」

 嘘はついていない。千裕はそれを確かめるようにこちらを見遣って、また試合に関心を戻した。

「まだ痛むのか」

 顔はテレビの方へ向いているけれど、テレビの音と一緒に聞こえてくる声は、確かに優しさを持って届いた。

「どうしても、簡単に忘れられなくて」

 潤は自分自身に問いかけるように胸の上に手を置いた。あの時、あの音を出した時、どんな気持ちだったろう、と。

 その瞬間のことを潤はほとんど覚えていない。ただ、師事していた先生が推してくれたピアノコンクールの場であったこと、数え切れないぐらいの観客がいたこと、ほんの一つの間違いから全体の演奏が崩れていったことを覚えている。

 間違えたとしても、素知らぬ顔をして演奏を続ければ良かった。もしかしたら誰も気づかないまま終われたかもしれないし、最後まで演奏すれば不格好でも形をつけて終わることができた。あの時選んでしまったのは、失敗に動揺して、頭の中にあった音を追いかけられなくなって、沈黙の時間を作ってしまったことだ。

 どんなに音楽を知らない人でも、続いていた演奏が途切れた上沈黙が長く続いたら異変が起きていることに気づく。その時の観客たちの不安げなざわめきは、自分の耳の中で嘲りに変わって胸の奥で響いた。

 演奏を終えることはできたけれど、推してくれた先生に合わせる顔はなかったし、何よりピアノに触るのが怖くなってしまった。お陰でクラスの合唱祭でやるはずだった伴奏を降りざるを得なかった。代わりの人も見つからず、急遽音楽の先生がやってくれることになったけれど、クラスメイトと一緒に歌うこともできなくて、その日は休んだ。

 中学三年生の秋のことで、目指す高校も決まりかけていた頃だ。実家の近くにある高校にしようと思ったけれど、実際に受けて合格したのは、その頃社会に出たばかりだった兄の家に近い学校だった。自分の失敗を知っている人たちから少しでも離れたくて、電車で二時間はかかるような場所に来た。

「兄さんは、俺が来て迷惑だとか思ったことない?」

 千裕は肩越しに振り向いた。見遣るような一瞬の動きではない。まるで睨むような鋭さのある目つきで、咎めているように感じた。

「だって会社に勤めはじめたばかりなのに、俺のわがままで一緒に暮らすことになって、お金だって余計にかかるようになったと思うし」

 千裕は一息ついて、ビールを呷って、試合に目を戻した。何だか気にするようなことは何もないと言われたような気がする。

 実際、この生活が始まって三年目になる。それを支えている人を前にして、今更お金を心配するのも馬鹿馬鹿しい。

「綾音さんと二人で過ごせなくなったでしょ」

 おどける余裕ができて、潤は少し笑って言った。すると千裕は、また肩越しの視線を送ってくる。今度はだいぶ柔らかくなって、さっきみたいな険しさは感じない。

「お前が心配することじゃない。この家じゃなくても、二人きりになれる場所ならたくさんある」

 たとえばどこ、と訊いてみたい気もしたけれど、わざわざ聞き出すのも野暮だと思った。二人にとって大事な場所を踏み荒らすことにもなりかねない。

「音楽はやらないのか、もう」

 試合を見始めた千裕に、潤は頷いた。

「今は何だかね、まだ忘れられてないし」

「俺は残念だけどな」

「期待してくれてたの?」

「当たり前だろ。中学の頃から人に認められることなんてそうないんだ。高いところまで行けるかもしれないって思いたくもなる」

「兄さんは、そうじゃなかった?」

「俺の話は別にいいよ」

 千裕は少し笑ったようだった。もしかしたら嫌な話題を蒸し返すことになったかもしれない。けれど心配はいらないらしく、自分から話しかけてくる声は笑みを含んでいる。

「期待って言ったって、プロになれって思ってたわけじゃない。ただ上手いってことはそれだけで価値があるんだ。弾く場所も機会も、たくさんあるだろ。本人にその気がないんじゃ、俺がいくら言ったって仕方ないけどな」

 言いながら千裕の声から笑みの感じは薄くなっていき、何かを諦めたような寂しさが宿って聞こえる。

 自分を助けてくれる人を残念がらせるのは本意ではないけれど、彼が言ったように、自分自身にその気がないのでは仕方がない。いや、できるならやってみたいけれど、できないだけだ。

「ステージに立つのも怖いんだよ。失敗した時のことを考えるから。ピアノにも触れないし、期待に応えるのは難しいね」

 千裕は黙って聞いていた。きっとわかっていた答えなのだと思う。あれこれ言葉を投げかけてこないのはありがたかった。

「受験があるな」

 不意に千裕は話題を変えてきた。一瞬反応が遅れるほど急激な変化だったけれど、音楽の話に比べればずっと気楽だ。

「今はそっちの方が心配だね」

 自分の声から絶えていた笑みが戻ってくるのがわかった。

「大丈夫なのか」

「勉強は毎日してるよ。行きたいところもこの前先生と面談してある程度決めたけど、お金が心配だよ」

 今度は日々の生活費どころの騒ぎではない。さすがにこれ以上千裕に負担はかけられないから、親に頼ることになるだろう。

 その時、兄弟の二人暮らしを支援してやる余裕がないとなったら、自分は実家へ戻らないといけない。失敗したことを知っている人たちがたくさんいる場所へ、帰らないといけない。

「金の心配はすることない。ちゃんとした大学ならどこだって大丈夫だろ」

「私立でも国公立でも?」

「多分な」

 そう言う千裕は私立の大学を出ている。兄でお金がかかった分、弟は国公立でお金をあまりかけない方が正解かもしれない。実際自分は、親に心配も迷惑もかけてきた。これ以上負担をかけるのも申し訳ない。

「行きたいところへ行けばいいさ。値段だけで選んで、それで後悔したらそっちの方が問題だろ。金をどぶに捨てたようなもんだからな」

 千裕の声は静かで、やはりテレビの音の方が大きさでは優っている。それでも耳に届いた後は胸の奥で励ましとなって反響する。あのステージでの失敗と同じことが起きているけれど、感じた気持ちはまるで違った。

「頑張る」

 そう言うと、反響するばかりで収拾の付かない状態になっていた気持ちがまとまる。千裕のもう一つの期待に応えてやるために、しっかり勉強して納得のいく進路を選び取ろうと思った。

 西武の試合はまだ終わりそうにない。四点差をつけた後、西武は更に二点を加えていたけれど、相手チームも点を取り返している。話をしている間に西武の二点リードに変わっていた。

「寝るよ」

 千裕は唸り声で答えた。少し険しい感じのする声で、どうやら追いつかれそうになっている西武に怒っているようだった。潤は自分の部屋へ戻り、寝る前に毎日やっている日本史の勉強をしてからベッドに寝転がった。

 暗くした部屋の中で目を閉じると、失敗した時の演奏が断片的に耳の奥で甦ってくる時がある。けれど今日は千裕の励ましから生まれた気持ちがあるから、身もだえすることはない。少し穏やかな気持ちで潤は眠りに就いた。

 

 部活をやっていないと放課後は暇でしかない。二年生まではさっさと帰って、何も考えずにその辺を散歩したり昼寝したりといった過ごし方をしたけれど、三年生になって受験が現実味を帯びてくると補習と自習に費やすようになった。熱心な先生はいてくれて、頼めば個人的な補習をやってくれる。日本史や現代文などは自分でも何とかなるけれど、英語は苦手で、自分一人だと勉強のやり方もわからなかった。

 今日の放課後は英語の水島先生に頼んで補習をやってもらおうと職員室に先生を訪ねたけれど、その場で職員会議があると知らされて引き下がった。自習室は開いているけれど、英語だけを勉強するつもりだったから、他の参考書がない。図書館も開いていない月曜日だから、今日だけは家に帰って自室で勉強しようと思った。

 活発に聞こえてくる部活の音に押し出されるようにして、潤は自転車を駆って道路へ出た。米軍基地を隔てた道路の向こう側に傾いた日が見える。

 駅員のいない小さな駅の傍の踏切にたどり着くと、電車がちょうど発車するところで、遮断機は下りていた。

横断歩道を渡り、車線の左側に寄って、電車を見送ると車が唸りを上げて動き出す。ちょうど米軍基地で仕事を終えた職員の車が出てくる時間帯で、道路はどこも混んでいた。

自転車から降りて踏切が開くのを待っていた潤は、サドルに跨がらず、そのまま自転車引っ張った。

音が聞こえたのは渡りきった時で、背を向けている米軍基地の方からだった。

 金管楽器が軽快なリズムを鳴らした後、それよりも低い音が続く。毎日夕方五時になると基地のスピーカーから時報のように流れてくる音楽である。スピーカーの音質は最悪で、注意して聞かないとただの雑音にしか思えない。

 多くの雑音の奥には、確かに『君が代』の旋律が隠れている。宝探しをするような感覚で、つい音の奥を耳で探ってしまうけれど、音質がひどすぎるせいか却って頭痛の種にならない。

 いつもは音を聞きながら通り過ぎるけれど、今日は足が止まった。スピーカーから聞こえるのとは明らかに違う音が流れてきたからだ。

 雑音だらけの音楽を支えるように控え目な音が聞こえてくる。楽器の種類自体は同じでも遥かに生々しい。聞き比べれば、実際に楽器が鳴らされているのがわかった。

 潤は足を止めた場所で音の出所を探った。狭い道を警戒するような速度で車が行き交う。道路の音はいくつもの種類の車が重なっているが、楽器のようにアンサンブルの計算らしきものはない。単に降り積もり、大きくなるだけだ。

 そんな中で生の音は、控え目ながら存在感を強く持っている。やがて潤は車列の向こう、フェンスの向こうにその音を見つけた。

 赤い自動販売機の傍に、トランペットのような楽器を吹く男女がいる。一人は鈴木先生よりも一回りは年上だろうけれど、もう一人はかなり若い。自分と同じぐらいの、女の子と言ってもいい歳だろう。薄緑のブラウスは大人びたデザインに見えたけれど、キャップとその後ろから伸びる髪が大人と子供の狭間で印象を引き留めているように見えた。

男は顔をうつむけながら体を車道側に向けて、女の子は横を向いてそれぞれの楽器を吹いている。どちらも良く似た形をしているけれど、大きさやパイプの構成が微妙に異なっている。女の子の持つ楽器の方が小さい。音質にも違いがあるのか、スピーカーの音と合わせて三重奏になっていた。

君が代』が終わると、今度は『星条旗』が流れ出す。二人の肌や髪の色は日本人に近いものの、わずかに伏せた顔は明らかに外国人だった。二人とも地味だがくつろいだ格好をしている。基地内で暮らす軍人とその家族かもしれない。だから曲が変わった瞬間、楽器の音質が伸びやかなものに変わったのだろう。『君が代』の時は窮屈で広がりに欠けた音が、『星条旗』を奏でる時には流れるように耳へ染みていく。 

車道とフェンスを隔てただけの、声も届きそうな距離で音を聞いているのに、痛みがどこにも表れない。潤は痛みを探るように胸や頭に触れたものの、やはりない。その間にも二人の旋律は融け合いながら車道の音を突き抜けて届く。

 国道へ出る道の信号が赤になったのか、車列が止まった。タイヤがアスファルトをこする音が遠ざかり、曲の終盤になって生のトランペットの音が目立ち始めた。

 するとわずかにトランペットは音を下げた。それはスピーカーから流れる音を立てようとする心配りに聞こえた。

 音楽が終わる頃には車列が動き出す。音を下げていたせいで、最後の音が車道の音に紛れて聞こえなかった。

 何台もの車がひとしきり通り過ぎると空白の生まれる瞬間があった。見ると基地と反対方向の交差点で信号が赤になっていた。道に遮るものがなくなり、フェンスの向こうのトランペット奏者と向き合う格好になる。

 うつむいて吹いていた男が顔を上げた。目が合った瞬間、気難しそうな顔立ちの男はその顔で笑ってみせて、高く片手を掲げて左右に振った。

言葉はない。けれど、聞いてくれてありがとう、そんな思いを伝えてくるようだった。

男は脇で同じように楽器を吹いていた女の子の肩を叩いた。そしてこちらに目配せしてくる。女の子はちらりとこちらを向いたものの、警戒したような顔のまま小さく手を振っただけで、すぐに目を逸らして薄暗くなってきた景色に顔を沈ませた。

男は肩をすくめてから再び手を振った。潤は小さく頭を下げる。その時国道に向けて車が通りすぎる。ややあって逆方向からも車が来た。

行き交う車の向こうで、女の子が楽器をケースにしまって遠ざかるのが見えた。足早な動き、髪の揺れなどが、車がゆっくり通る度途切れ途切れに目に映る。

女の子の後ろ姿を目で追っている間に再び信号が赤になって車列は止まった。ちょうど目の前に隙間があって、立ち尽くしたままの男と向き合う格好になる。女の子の後ろ姿は消えていた。

彼はまだ笑っていた。そしておもむろにマウスピースに口をつける。

またも聞こえてきたのは『星条旗』だ。三つも音の出所があったさっきとは、音の厚みは比べるべくもない。

だからといって下手ではない。一本調子ではなく、単に大きな音を出しているだけでもない。力を入れたり抜いたり、音を上げたり下げたり、指だけでなく息をも自在に操って一人で音楽を作り出している。

良い演奏だと思う。音楽を受け付けない体になった自分が惹きつけられた演奏を、時間の許す限り聞いていたい気もする。彼の前に帽子でも置いてあったら百円玉ぐらい入れてやってもいい。男がそういうものを求めているわけでないのはわかるけれど、評価の形が他に思い浮かばない。

一分程度の演奏を終えた男は手を振って踵を返した。女の子の時と同じで、その後ろ姿は車列に遮られながら遠ざかり、気がついたら見えなくなっている。

取り残された潤は、不意に懐かしい気持ちがこみ上げた。居場所は動いていないのに、音によって心が知らないところへ連れ出され、途切れると同時に戻ってきたからだろう。十分にも満たない時間で、フェンス越しの二人にどこか遠くへ連れ出されたような気分だった。

ぼんやりした気分が、踏切の警報で覚める。音の後列車が来て、ホームで客を乗降させた後走り出した。踏切をゆっくり通り過ぎるとまた車が行き交う。流れの滞りはまだ続きそうだった。

 

 

久しぶりに図書館で勉強しようと思ったのは、自習室での日々に変化が欲しかったからだ。勉強する範囲や内容は毎日変わって退屈はしないけれど、毎日のように顔を見る生徒たちに囲まれていると、勉強中強い孤立感を覚えることがある。それが集中を乱す原因にもなるから、知らない顔ばかりの環境が欲しくなった。

国道沿いの歩道から、駅へ向かう道へ入る時、潤は自転車を降りて車道の奥を見た。フェンスの向こうには赤い自動販売機と芝生、倉庫のような飾り気のない建物がある。車も増えてきて、同じではないにせよ、あの二人がいた時と似た状況ではあった。

二人の音楽には、音を嫌がる自分さえ惹きつけるものがあった。そして音楽が呼び起こす痛みもなかった。何度も聞いていたら、その理由がわかるような気がした。

潤は時報が鳴るまで立ち尽くしていた。その間図書館へ急かす声が内側から何度も聞こえたけれど、ねじ伏せて待った。寄りかかるものや足を休めるものがなく、時間と共に疲れが積み重なっていったけれど、苦労は報われず、時報は終わってしまった。

待ち続ける理由をなくすと、勉強から逃げる口実が欲しかっただけではないのかと責める声が聞こえる。あの二人の音楽を聴いている間は幸せだったけれど、あんな幸せな偶然が、そうそう起きるはずがない。フェンスと車道を隔てた自分たちは、声を交わすことさえできなかったのだ。

サドルにまたがった潤は、未練を振り払うようにペダルを強く踏み込んだ。図書館は坂の下にあって、周りは森に囲まれている。夏休みに来た時、セミがうるさいくらい鳴いていたけれど、今日は近くの中学校から威勢の良いかけ声が聞こえてきていた。

潤はそこの読書室で一時間半を過ごした。中学や高校でテストが重なる五月や七月は混み合うけれど、まだテストには遠い時期で、参考書より資格試験のテキストを開いている人の方が多い。自分が場違いな感じはしたけれど、同じ高校生が見当たらないのは気楽だった。

勉強している間に日は暮れて、中学校も静まり返っている。自転車置き場へ向かう間に、すぐ近くを走る線路を電車が通り過ぎた。その後は静けさが戻ってきて、スタンドを蹴ってタイヤを降ろす時の軋みがやけに大きく響いた。

図書館は家と逆方向で、更に少し坂を上らないといけない。自習室で勉強した方が体も楽だったけれど、集中はできた気がする。

その通り道には市営の野球場がある。小学生の頃家族で行った西武ドームとは比べるべくもないほど小さく、千裕が毎日のように見ている試合の華やかな雰囲気はない。けれど小さいながらもナイター設備があって、スコアボードも電光掲示板になっている。その中でプレイしている人たちの年齢は様々で、それが親しみを感じさせた。

野球には詳しくないけれど、興味はある。兄が西武の試合を熱心に見るから、潤にとっての野球は身近だった。

球場のバックネット裏には観客席があるけれど、一塁や三塁を見下ろせるような位置には石段があるだけで、選手の関係者らしき人たちがまばらに腰をかけていた。ほとんどは男だったけれど、一つだけ細い背中がある。女の子がこんな時間の野球場にいるなんて珍しいと思いながら、潤はスコアボードに目を向けた。

まだ試合は四回の裏までしか進んでいない。どうやら草野球のチームらしく、個性的な名前が表示されている。両チームは初回で二点ずつ取っていて、後攻チームは二回に二点加えていた。

ユニフォームを見るに、今は先行チームの攻撃らしい。ランナーが二塁と三塁にいて、まだアウトカウントは一つだ。次の打者が素振りしながら右打席に入る。アナウンスもないから、バッターがどれほどの力を秘めているのか全くわからないのが残念だった。野球経験者の兄がいたら、素振りを見ただけでどれほどの打者か見極められるだろうか。

「青山くんか?」

 プレイが再開された瞬間、後ろから声をかけられて潤は飛び上がった。振り向いた時自転車を支えきれずに倒してしまい、音が立ってしまった。

「驚かせたかな、悪いね」

 本当ですよ、と言おうとして言葉が出なかった。突然声をかけられたことはもちろん、野球場で鈴木先生と出会うとは思っていなかった。

「試合を見ていたようだけど」

「そうですけど、何で先生が」

「知り合いがプレイしてるんだ。それを見ようと思ったんだけど、試合開始に間に合わなくてね」

 鈴木先生は球場の中を見渡していた。その視線は広く遠くに行き届き、誰のことを言っているのか、視線を追うだけではわからない。

「図書館に行ってたのかな。いつも自習室で勉強していると思っていたけど」

「今日は図書館です。時々は別の場所で勉強した方がいいと思って」

「この時間だと、もう終わったのか。せっかくだから一緒に見ていくか。楽しめるかどうかは保障しないけど」

 そこは自信を持って誘ってくださいと、潤は心の中で突っ込んだ。鈴木先生の言動はどこかとぼけていて、芸人が聞いていたらツッコミを入れずにはいられないだろう。

 潤は球場の方を見遣った。ランナーはいなくなっていたけれど、スコアボードには二点が加えられていた。まだアウトカウントは一つのままだ。

 更に続くバッターがセンター前にヒットを放った。素人目にもピッチャーが追い込まれているのがわかった。

「これはいけないな。一緒に応援しないと。来てくれるね」

 何となく鈴木先生の声に気迫と権威を感じて、潤は反射的に頷いてしまった。頼まれると断れない人の好さが恨めしい。

鈴木先生に引っ張られるように、客席の役目を果たす石段を下りていく。意外だったのは、鈴木先生が客席で唯一の女の子の方へ寄っていったことだ。

「お待たせしました、ニコラスさん」

 そして鈴木先生は、女の子の傍に座る男に声をかけた。その呼び方には親しみがこもり、男も呼ばれたことを喜んでいるような笑顔を返す。壮年の男で、目尻にしわが見える。隣の女の子と見比べると年齢差が際立つけれど、むしろ男の顔を魅力的に見せる大事な要素に思えた。

「やっと来たか、ケイスケ。序盤が荒れたから、もう残り時間は一時間もないぞ」

「いや、仕事が色々残ってましてね。ニコラスさんにも経験あるでしょう」

「まあ、よくあることだな」

 潤はニコラスと呼ばれる男から流暢な日本語が聞かれるのを、純粋な驚きで持って見ていた。ナイター設備の光を横から受けて陰りを帯びる顔は彫りが深く、どう見ても日本人のそれではない。

 彼はふと、こちらを見た。訝かしむような顔をしたのは一瞬で、続いて何かを探るように慎重な面持ちを見せた。

「もしかして、あの時の子か」

 あの時と言われて、目の前の外国人とつながる記憶は一つしかない。

「あの、トランペットの」

「やはりそうか。こんな偶然もあるものだな」

 嬉しそうな声を上げて立ち上がった男の背丈はやたらと高い。潤は一段高い位置に立っていたけれど、それでちょうど目の高さが合う。それでも威圧感を覚えないのは、男のにこやかな表情と柔らかな物腰、そして流暢な日本語のお陰だろう。

「ニコラスさん、青山くんとお知り合いですか」

 今度は鈴木先生が探りを入れるような慎重な面持ちを見せた。

「三日前だったかな。トランペットを吹いていたらこの子が偶然聞いてくれてね」

 鈴木先生と言葉を交わした後、彼はこちらに向き直った。

「あの時は聞いてくれてありがとう。言葉で伝えたかったが、規則があったものでね。こうして直接言葉を交わせる偶然に感謝したいね」

 それから手を差し出してくる。背丈に違わず大きな手だった。

「ニコラス・ハンセンという。ケイスケとは趣味の友人でね」

「青山、潤です」

 緊張から姓名を区切って喋った。ニコラスさんはすぐさま「よろしく、ジュン・アオヤマ」と自分で言いやすいように直した。

 それからニコラスさんは、傍らで座ったままの女の子を見下ろす。さっきから戸惑いがちに、試合と会話を交互に見ていた。

 名前らしき言葉を口にしたけれど、ビリーという名前で女の子が立ち上がったのが一瞬信じられなかった。

 顔の印象は薄いものの、黒いキャップは覚えている。暗がりの中では目立ちにくく、暗い赤色で書かれた『B』の文字が特徴として辛うじて見て取れた。

「この子はビリーだ。私と一緒にコルネットを吹いていたのを覚えているかな」

「あ、はい。わかります」

 一見二人とも同じ楽器を吹いているようだったけれど、彼女の楽器は小さくて管の巻き方も違っていたと思う。

 何より二人が重ねていた音色は、それぞれに特徴があった。具体的にはわからないけれど、スピーカーの音と合わせて立派に三重奏が成り立っていた。

 体の大きなニコラスさんに対し、女の子の方はあまり背丈が変わらないらしい。一段上に立っていると潤の方が見下ろしてしまう。

 あまり気の強い性格ではないらしい相手を気遣うつもりで、潤は石段を下りた。思った通り、女の子と自分の背丈にあまり差はなく、ニコラスさんは大男だった。

 鍔に隠れていた目が合ったのは一瞬で、すぐに逸らされてしまう。けれどその瞬間が、潤に何かを置いていった。

 音楽を聞いた時に生まれる、胸のうずきに似ている。けれど痛いだけでなく、温かさがある。内側を覗いて正体を探っていると、視界に手が滑り込んだ。

 ニコラスさんとは対照的な、細い指と小さな手のひらだった。

 軽く開かれた手が、宙に浮いて待っている。握手を求められると遅れて気づき、潤はおずおずと手を差し出す。さっきとは全然違う感触だった。冷たいけれど滑らかで、握り返す強さも控え目だった。

 ビリーは日本語がわからないのか、一言も喋ろうとしない。潤もまた、ネイティブスピーカーを相手に英語を喋る自信が持てず、無言のまま戸惑いながら手を離した。

「ジュンと呼んでもいいかな。私のことはニコラスでいい。この子もビリーと呼んでほしい」

 ニコラスさんはビリーの両肩に手を置いた。まるで後ろから見守るような頼もしさだった。頷き、潤は「改めてお願いしますニコラスさんと」言った。

「自己紹介はそれくらいにして、試合はどうなっていますか」

 ずっと聞き役だった鈴木先生の声で、潤は球場へ目を向けた。スコアボード上で試合は動いている。先攻チームはさっきの攻撃で四点を加えて、逆に二点差をつけていた。

 鈴木先生はニコラスさんの傍に腰を下ろした。潤もそれに倣おうとしたけれど、ビリーの傍には座れず、鈴木先生の方へ寄った。

「知り合いってどの人なんですか」

 まだ攻撃は続いていて、ランナーが溜まっていた。

「ピッチャーだよ。城崎というんだけど、今日は何だか調子が悪いみたいだね」

 鈴木先生は苦笑しながら、スコアボードと城崎投手を見比べた。四点が入って、まだチェンジになっていない。アウトカウントは二つになっていた。

「代えないんですか」

 四回を終える前に六点も取られている。プロの試合なら『試合を壊した』と批判されそうな内容だった。

「確か代わりのピッチャーがいないんだったかな。いつもはいるんだけど、今日に限ってピッチャーが来られないらしい。だからどんな内容でも最後まで投げきると意気込んでいたんだけど」

 鈴木先生が話している間に、城崎投手は四つ目のボールを出して歩かせてしまった。マウンド上で汗をぬぐい、少し苦しそうな顔をしているのが見えた。

 キャッチャーがマウンドに駆け寄って、何か会話した後でプレイが再開される。まだ点が入るような予感がしたけれど、城崎投手は次のバッターを三球三振に仕留めてチェンジを迎えた。

「踏ん張るね」

 ニコラスさんが呟く。鈴木先生とほとんど歳の変わらない人のはずだが、マウンドを駆け下りる男の顔が高校球児のように見えた。

「試合、こんな調子で九回までやるんですか」

 三十分もしたら八時になる。さすがに九回まで観戦に付き合うことはできそうにない。

「最大で九回までやるのはルール通りだけど、球場使用料の関係もあるから、八時になったらゲームセットなんだ。だからこの回の攻撃が終わったら、そのままゲームセットになるかな」

「三十分でそこまで行けるんですか」

「駄目なら三回までのスコアで試合終了だから、城崎のチームが負けになる。二点差を三十分で逆転するのは難しいかもしれないね」

「しかしフォアボールで出したランナーを返すようなことがあったら、時間的にも点数的にも逆転は難しかった。あそこで踏ん張って、二点差で抑えた城崎投手の殊勲だな。どれほど打ち込まれても代わりのいない状況で、よく踏ん張ったものだ」

 ニコラスさんは試合を見ながら静かに語った。三十分で二点を入れないといけないのがどれほど大変なのか、潤には実感が伴わない。

 ただ、一塁側のベンチから左打席に向かう選手の表情は真剣で、諦めたようには見えない。ニコラスさんが言うように、城崎投手が踏ん張ったお陰で希望が残されたのかもしれない。

 けれど最初のバッターがセカンドゴロ、次のバッターもライトフライに倒れると、もう駄目だなと潤は思った。

 このまま試合が終わるだろうと思ったけれど、続く二人がヒットとフォアボールで塁に出た。

 八時まであと十分もない。ここでホームランが出るようなことがあれば、逆転サヨナラ勝利ということになるだろう。

「次が城崎だ。打撃の方が得意だとか言ってたけど」

「代打は出さないのか」

「あいつはファーストとサードも守るんですよ。下手なバッターよりもよく打ちます」

 鈴木先生が喋る間に、城崎投手は右打席に入った。背中を向けているから顔は見えないけれど、姿勢が良くて、スイングのフォームもきれいだった。

「どちらにしてもこれが最後になるか」

 ニコラスさんは前のめりになって試合に注目していた。その奥のビリーは、ニコラスさんの大きな体に隠されていたけれど、キャップの鍔がわずかに見えている。同じようにして試合に見入っているのがわかった。

 城崎投手への初球はボールになった。次のボールを二球続けてファウルにするとストライクのカウントに変わる。

「これは、駄目かな」

 鈴木先生が呟く。潤にも何だか期待がしぼんでいくような感じがあって、鈴木先生の声に内心で同意しかけた。

 それを咎めるように、微かな声が聞こえた。

 唇を巧みに使った発音はむしろ聞き取りづらいものだったけれど、辛うじて「ネバーギブアップ」と言ったのがわかった。

「ビリーが応援しているんだ。最後まで諦めないでくれ」

 ニコラスさんは何だか嬉しそうな声で言った。ビリーのキャップの鍔が、彼の体の向こうへ引っ込む。その動きに潤ははにかむような表情を見た気がした。

「そうですね」

 鈴木先生は苦笑しながら試合に目を戻す。実際城崎は、何度かファウルを打ちながら更にボールを二つ重ねてフルカウントまで持ってきていた。選手に諦めの姿勢は見えない。応援している方が先に諦めるのは申し訳ない。

 潤はいつの間にか、見ず知らずのピッチャーとそのチームを応援していることに気がついた。スコアを改めて見る。六対四で事実上最終回のツーアウト。バッターは、六点を取られてリードを守りきれなかったという失敗を犯した城崎投手。失敗の直後なのに踏ん張って希望を繋ぎ、今も諦めずにフルカウントまで粘っている。

 ふと、自分自身がバッターボックスの城崎と重なった。自分ならどうしただろう。城崎の立場なら、どういうプレイをしただろう。

 一つの失敗に恐れをなして、逃げるように兄の元へ転がり込み、音楽とのつながりを絶ってきた自分。そんな自分がピッチャーとしてマウンドに立って、味方がせっかく作ったリードを守りきれなかったら、諦めて逃げ腰のプレイしかできず、更にひどいスコアを生み出したかもしれない。

 野球などやったこともないのに、何故かプレイしている自分の姿が鮮明に浮かぶ。打ち込まれてマウンド上で立ち尽くし、それでも助けのない状況に絶望している。潤はまだ粘る城崎投手がとても立派な人に見えてきた。

 粘りを見せていた城崎投手は、思い切り振ったバットにボールを当てられず、結局空振り三振に倒れた。ちょうど八時になったところで審判がゲームセットを宣言した。高校野球みたいにホームベースを挟んで挨拶した両チームは、握手した後グラウンド整備の道具を取り出してグラウンドに散っていった。

「君の知り合い、残念だったな」

 ニコラスさんの声には気遣いが宿る。

「まあ、よくやったと思います。踏ん張ったから最後にチーム全員ががんばれたんでしょうし」

 スコアボードにはまだ両チームのスコアが残っている。六対四。そのうちの四点は、自分たちが球場に着いた五回の表に入っている。その真下の数字はゼロだ。

 数字は冷徹に勝敗を示しているけれど、グラウンド整備をしている選手たちに、勝ち負けの悲壮さはない。両チームが入り交じって、時折笑顔を見せ合いながら協力して整備していた。

鈴木先生、僕はもう」

 そう言って時計を見遣る。試合が終わってから既に五分が経っていて、妙に時間が速く進んでいるような気になる。

「ああ。こんな時間まで付き合ってくれてありがとう。一人でも多くいた方が応援らしいかと思ってね。引き留めて悪かったね」

「まあ、いい気分転換になりましたから」

 まんざら表向きの発言でもない。嫌な想像もしてしまったけれど、草野球とはいえ、小学生以来の野球観戦は楽しめた。

 何より、あの時音楽を奏でていた二人と再会できたのはとても嬉しい。鈴木先生の誘いに乗らなかったら、きっと会えなかっただろう。

「私たちはもう帰るが」

 鈴木先生に向けて言ったニコラスさんは席を立っている。

「城崎と話をしてから帰ります。今日は来てくれてありがとうございました」

「何、私もビリーも野球は好きだからね。草野球でも何でも、こんな近くでやっていたら見たくなるさ」

 ニコラスさんは同意を求めるように、脇に立ったビリーを見下ろした。彼女は一瞬大男を見上げた後、頷いた。

「素敵な偶然もあったことだしね」

 今度はこっちに目を向けた。柔らかな笑顔を保っていて、それは友人だという鈴木先生に向けるのと同じ表情だった。

「今日は再会できて嬉しかったよ、ジュン」

 表情があるからこそ、この流暢な日本語を信じることができた。潤もまた、ニコラスさんと会えたのが嬉しくて、頷いた。

 ビリーも小さく顎を引いた。鍔に隠れて目は見えなかったけれど、口元だけを見ると微笑んでいるのがわかった。一緒に観戦したのを楽しんでくれたようで嬉しくなった。

 鈴木先生はグラウンドの方へ石段を下りていった。それを見送って三人は球場を後にした。何となくニコラスさんと同じ道を歩こうと思ったけれど、途中までは同じらしい。

「しかし野球場で会うことになるとは思わなかった」

 少し歩いてから、ニコラスさんはおもむろに口を開いた。

「野球は好きかな」

「兄がやっていました。でも自分でやったことはないです。今日も偶然鈴木先生と会ったから連れてこられたし」

「ポジションはどこだったのかな」

「ピッチャーです。高校の頃は一度もベンチに入れなかったですけど」

 兄の高校の野球部は強豪で、甲子園での優勝実績もあるほどだった。それだけに競争は激しかったのだろう、兄をマウンドで見る日は、三年間でついに訪れなかった。

 代わりにテレビの中で兄がいたのは応援席だった。背番号のないユニフォームを着て、メガホンを叩いて声を張り上げていた。グラウンドでプレイしている選手と同じかそれ以上に真剣な目をしていたのを覚えている。

「それでも三年続けたんだろう。それならたいしたものだ」

 兄が褒められて悪い気はしない。運動が得意だった兄と比べられて辛い思いをしたこともあるけれど、自分を養ってくれる兄に、今は感謝しかない。

「わたしもビリーも運動は苦手でね。だからこそ野球チームや選手には憧れがあるのだろうけどね」

 その言葉で、彼の影に隠れるようにして歩いているビリーを思い出す。さっきから全く喋らないから、ともすれば存在を忘れそうになる。

 潤は何気なく、ニコラスさんの向こうをのぞき込んだ。ビリーは微かに顔をうつむけて歩いている。キャップのせいで表情は見えない。

 お互い会話するために、共通の言葉がないから仕方がない。けれどせっかく知り合えた女の子と、挨拶のための握手だけで別れてしまうのは惜しい気がする。知り合いとはいえ、彼らはフェンスの向こう側へ帰っていってしまうのだ。今日のような偶然が続かない限り再会はない。

 けれど今日始めて対面した相手のことで、盛り上げるようなこともできず、やがて分かれ道にさしかかる。潤は真っ直ぐ行くが、二人は坂を上っていくようだった。

 挨拶をして立ち去ろうとした潤だが、それをニコラスさんが呼び止めた。

「気になっていたことがあるんだ。どうしてあの演奏に足を止めてくれたんだ」

 答えようとして、潤は下を向いていたビリーの目が見つめているのに気がついた。わけもなく緊張して、出かかった言葉が止まる。

 夜の闇と鍔の影で瞳の色はわからないけれど、光を映して輝いて見える。見た目は暗くても、まっすぐ見据えてくる瞳はきれいだった。

「音がすごく良かったっていうのもありますけど、あの音質の悪いスピーカーの音を立てようとしてました。それに興味を惹かれたんです」

 素直な気持ちで外に出た言葉は、ニコラスさんから微かな唸りを引き出した。

 潤は口を噤んでニコラスさんとビリーが満足するのを待ったけれど、彼の語りかけは続いた。

「音楽は好きなのかな」

 けれどその後で出てきた話題は、潤にとって一番避けたいものだった。

「少しは」

 曖昧な返事をすると、更に「楽器をやっていたのかな」と訊いてきた。

 嘘をつくのがためらわれて、潤は「ピアノを少し」と答えた。

「もう弾けませんけど」

「練習をしなくなったのか」

「そうです」

 ピアノの前に座る以前の問題があるけれど、そのことを語るつもりはない。会話の間に生まれた沈黙を突くように、もういいですかと潤は訊いた。

「明日も早いんです」

「ああ、受験生か。引き留めて済まなかったね。でも、ピアノを弾けなくなったのは残念だ」

 何気ないニコラスさんの言葉は、潤の胸にうずきを生む。何も知らないとはいえ、勝手なことを言わないでほしいという思いもある。音楽に触れることも今は拒んでいるのだから、弾けるわけがない。

 日曜日以外、毎日のように先生のもとへ通った日々も、今は遠くなっていた。

 家に帰ると千裕が夕飯を食べていた。料理をした後の匂いがなく、テーブルに並んでいるのはプラスチックのトレーだ。

「勉強してきたのか」

 テレビで西武の試合を見ていた千裕は、肩越しにこちらを見て訊いた。潤は適当な返事をして冷蔵庫から麦茶を出す。千裕はいつでも牛乳を飲むけれど、ご飯に牛乳というのも変な組み合わせに思えて、潤は麦茶を飲むことにしていた。

「勉強した後に野球を見てたんだ」

「野球って、どこでそんなことを」

「市営球場だよ。あそこで草野球の試合をやってたんだ」

 千裕は西武が大量リードをしている試合から目を離してこっちを向いた。

「こんな時間でもやるんだな。でもお前、そんなに野球好きだったっけ」

「担任の先生と会ったんだよ。それで誘われたから、最後まで見ちゃった」

「俺も呼んでくれればよかったのに」

 西武戦を熱心に見ている千裕にしては意外な言葉だった。

「西武の試合続いてるのに」

「生で試合を見る機会なんてそんなにないからな」

「でも、草野球だよ」

「でも野球には変わりないだろ。生で試合を見るっていうのが大事なんだから」

 そんなもんかな、と潤は曖昧に返事をした。野球の話をする時の兄は何歳か若返ったように見えて、しっかり者の友人のように思えることがある。

「兄さんの話もしたよ。三年間ベンチ入りできなかったけど最後まで続けたって言ったら、三年続けただけで立派だって」

「大学じゃやらなかったけどな」

「それって野球はもういいって思ったから?」

 千裕は一瞬黙ってから、そうだな、と言った。

「好きなことだったけど体は大変だったし。もう見る側でいいって思ったんだな。ベンチ入りできなかったのは関係ないけど。野球は今でも好きだしな」

「でも、どうして三年間も続けられたの。試合に出ることできなかったんでしょ」

「好きだったからとしか言えねえな。それに投げられなかったわけじゃない。レギュラー連中の練習相手になるとか、試合に出られなくてもやれることはあったからな」

 千裕の声は、長く付き合ったものでないとわからないような変化だったけれど、確かに明るさを宿して聞こえた。観客席で試合を応援する野球部生活だったけれど、そのことは大きな問題ではないらしい。

「辛くなかったの」

 潤は千裕が首を振ってくれることを期待したけれど、ため息をついただけだった。

「期待は大きかったからな。何も考えないで、楽しむばかりでいられるほど脳天気じゃなかったさ」

 高校では実績を残せなかった千裕だが、中学時代はチームのエースだったそうで、県大会で優勝した時の中心選手だった。高校に入って競争に敗れて、ついに公式戦でマウンドに立つことなく終わってしまったのだ。

 大学でも野球を考えなかったわけではないと思う。けれどそれをしなかったのは、単に体の問題だけではなかったのだろう。

「それでも野球を手放したくはなかったな。辞めたら後悔するような気がしたし」

 それは潤にとって耳が痛くなる言葉だった。逃げたことで後悔も生まれて、今はその後悔を消そうにも努力ができない状態にある。これがいつ治るのかわからないし、学生時代が終わるまで変わらなかったら、今度はピアノを弾く機会がなくなっているかもしれない。

 無言でいると、「飯を食え」と千裕は言った。

「これ以上は説教臭くなるから終わりだ。もうお前の話には付き合わないからな」

 潤は黙って頷いた。

 食事を終えた後、シャワーを浴びて部屋に戻る。千裕はまだ起きているつもりのようで、リビングからテレビの音が聞こえてきていた。

 机に向かってから、昔の千裕の姿をもっとよく見ておけば良かっただろうかと思った。そうしたら、失敗にめげずピアノを弾き続ける未来もあっただろうか。

 考えると頭が痛くなる。後悔を消そうにも、そのための方法も時間も、今は手にする余裕がない。大事なことは過去を振り返ることでなく、受験をやり抜くことだろう。潤は日本史の参考書に立ち向かった。

 

 自習室へ向かう途中に音楽室が開いているのに気がつき、何気なく中の様子をうかがった。人の姿はない。開かれた窓から通り抜ける風が心地よく、潤は少しの間風に吹かれていた。

 立ち尽くしていると外から音が流れてくるのに気づく。まだ詳しい日程はわからないけれど、吹奏楽部は七月から始まる高校野球の応援の主役になる。そう思って聞けばどの曲も前向きだった。

 音の源が離れている分、痛みはほとんど感じずに済む。その余裕からか、潤は自分からピアノへ歩み寄っていた。

 三年前までは何気なく触っていたグランドピアノだ。家にはアップライトも置けなかったから、先生のところへ通って弾かせてもらって、そのうちに素質を認められて褒められるようになった。それが嬉しくて毎日のように弾いているとその分だけ上達した。

 それでお金を稼ごうとか有名になろうとか考えたわけではないけれど、広く自分の腕を知らせたいと思うのは、自分の内から出てきた自然な気持ちだったと思う。

 一度の失敗くらいで、と叱る声は確かに自分の中にある。今までそれは、無視しようとすれば訳もないような小さな声だったけれど、最近大きくなってきている。

 千裕から、まだ期待を捨てていないと聞かされた時、ニコラスさんがピアノを辞めたことを残念だと言った時。フェンス越しに二人の演奏を聞いた時。どれも、背中を向け続けた音楽へ振り向かせようとする引力を放つ出来事だった。

 それでも力に抗うのは、痛みがいつまでも引かないからだ。

 音楽の授業で使われることもあるグランドピアノに歩み寄ると、潤は鍵盤に触れた。砂の塊を潰すぐらいの力で音を出せるけれど、それだけの力が指先に込められない。

 触れただけならまだ、うずきや痛みはない。けれど音を聞いたら苦しむ。吹奏楽の音と違って、自分が使って失敗した楽器なのだ。それを自分自身の手で鳴らす。苦しみは承知しなければならないだろう。

 指を置いたまま迷っていたところから、一歩踏み出すように力を入れる。恐る恐るといった風で、あまりにゆっくりだったから弦が鳴らなかった。

 それに少し安堵していることに気づく。何度やっても同じで、そのたびに自分から音を聞かなくて良かったと思っていた。

「青山くん?」

 思いも寄らないところから声がかけられ、腕が縮んだ。そのせいで力加減ができなくなって、指先が力を得た。

 高い音が鳴る。それは沈黙する直前の音と同じだった。

「君、ピアノを」

 三年前、失敗した瞬間が脳裏に甦ってくる。音を聞いただけで表れるものと比べて、はるかに鮮明な映像だった。自分の内側で響いて嘲りになった不安げなざわめきや、焦りで火照った体の熱なども表れてくる。

 潤はピアノを突き放すように飛び出した。進路に鈴木先生がいるのも構わずに走り出す。鈴木先生の方から避けてくれて、潤は勢いを落とさずに音楽室から離れることができた。

 そのまま階段を駆け下り、廊下を抜けて自転車置き場へ走り込む。鈴木先生が何か言ったような気がしたけれど、今更振り向いて確認する気にはなれない。 

 何だか情けない。自分の痛みだけでなく、関心を持ってくれた人からも逃げたようで泣けてくる。けれど鈴木先生のところへ戻って、実はピアノが弾けたんですと過去を語る勇気もない。

 潤は自転車を引きだして乱暴にペダルを踏み込み、国道沿いの歩道をがむしゃらに走った。自習室でこなすつもりだった勉強を、図書館に場所を移してやろうと思って、潤は単線の踏切を渡る。四月の頃のように、ニコラスさんとビリーの音楽を期待したけれど、当然のように人気はない。

 スピードを緩めた潤は、未練を振り払うように加速した。図書館で勉強を終える頃には空が暮れなずんでいる。ここ数日で、また日が長くなったような気がした。

 市営球場の傍を通る時に潤は足を止めた。今日は使われておらず、グラウンドに夜のとばりが落ちている。少し前にここで、照明の中で派手な乱打戦が繰り広げられたのが嘘のような静けさだった。

 あの時、鈴木先生が応援していた城崎投手は最後まで投げて、最後の打席にも立った。

 そうしなければならないような状況だったようだし、最後の打席を他の選手に任せなかったのも。自分の方が打てる可能性が高いと自信を持っていたからだろう。どこまで自分が望んだことだったのかわからないけれど、鈴木先生の信頼感に満ちた言葉からもそれがわかる。

 野球場には兄の思い出もある。兄は中学の頃中心選手として県大会優勝を経験して、高校でも野球で活躍することを期待されて強豪校へ入学した。そんな兄を待っていたのは、地元の学校のみならず県外からも集まってくる強力なライバルたちと、彼らと繰り広げられる競争だった。土日も構わず兄は毎日練習に出ていたから、大きなけがを負ったことはないのだろう。彼は純粋に実力で競争に敗れて、三年間ついにベンチ入りできなかったのだ。

 期待を受けて戦った先で結果を残せなかったから、期待が失望に変わる辛さも経験したはずだ。それでも最後の夏まで毎日練習に出ていて、形式を揃えられた応援にもかかわらず、応援席ではひときわ目立っていた。

 最後まで役割を全うした城崎投手と、失望の眼差しにも負けずに最後まで野球を続けた千裕。自分にはどちらも重ならない。

 逃げた後は勉強に打ち込んだ。受験もあるから、間違ったこととは思っていない。けれど何か、自分の力の使い方を間違っているような気持ちで過ごしてきた三年間でもあった。

 城崎投手や兄と自分を比べてしまって辛くなる。野球場を離れると、家に向かうところを、ニコラスさんとビリーが辿った道に入った。米軍基地の方へ戻る。とっくに時報は鳴り終わっていて、元々人気のなかった区域は、国道から聞こえる音のお陰で一層静けさが際立って感じた。当然人影もない。

 約束もなく会えるような人たちではない。それに、彼らがいるとして、何をしてほしいのだろう。

 潤は車道を渡ってフェンスに寄り添った。金網を片手で掴む。背後の音にかき消されるほどだけれど、軽快な軋みがあった。力を強めても何も変わらない。立ち尽くして待っていれば、もしかしたら会えるかもしれないと根拠なく思う。会えたとして、何をしてほしいのだろう。

 潤はいつしか、脳裏で音を追っていたことに気がついた。音楽を受け付けない自分が、逃げずに立ち尽くした音楽を待っているのだ。

 聞いてどうすると、逃げ出したことを責めるのと同じ声が訊いてくる。あの二人に何を期待しているのか、と。

 答えが導き出せず、一向に人が現れる気配のないのを見て、潤はその場を立ち去った。未練を感じて何度か振り向きながら自転車を引くけれど、聞こえてくるのは車の唸りだけで、いくつものヘッドライトが視界を塗りつぶしていた。

 兄からのメールが届いたのは、長い横断歩道の信号が変わるのを待っている時だった。

 今日は帰らないから食事は自分で何とかしろという内容で、口数の少ない千裕らしく素っ気ない文面だった。その中に潤は、綾音の存在を感じ取る。今日は金曜日で、仕事が終わった後すぐに行動すれば、新幹線に乗ってどこかへ旅行にも行ける。土日の二日間でゆっくり旅先を見て回ることもできるだろう。

 急な話なのが気になるけれど、元々気まぐれなところがあった兄のことだ。去年も、連休の中日に突然京都へ行くと宣言して一人で日帰り旅行を敢行したことがある。

 信号が変わり、潤は真っ直ぐ進むところを右折してコンビニに立ち寄った。そこで弁当とインスタントスープを買う。二つ合わせて八百円を超えたのは大きな出費だけれど、今から料理をするのに比べたら遥かに楽だ。金で楽を買ったと思えば、何とか納得できた。

 千裕がいないとなれば、当然部屋の明かりは消えている。綾音が食事を作って待っていることもない。潤は手探りでスイッチを探した。

 スイッチを入れる音がやたらと大きく聞こえた。鞭でも叩きつけたかのような鋭い音がするのだと今更のように感じる。

 リビングではいち早くテレビをつける。家を出る前に見ていたのか、ケーブルテレビの西武戦を中継するチャンネルが初めに現れる。まだ試合は二回までしか進んでいない。西武の攻撃で、時々観客席が映し出される。

 潤はチャンネルを地上波に変えた。ニュースをやっていたが、チャンネルを適当に変えてめぼしい番組を探して、結局見つからない。無難なところでニュースに戻す。米軍基地所属の兵士が無銭飲食をやって捕まったというニュースをやっていた。

 沖縄での話で、そこに比べると平和なこの街が、何だかとても貴重に思えてくる。

 潤は弁当を温めながらお湯をわかして夕食の準備を整える。温めた弁当の肉は悪くなかったけれど、千裕も今頃綾音と一緒にご飯を食べていると思うと、何だか自分がひどくわびしい暮らしをしているような気持ちになった。

 

 3

 

 六月になると中間テストの結果も出て、三年生全体が四月に比べてざわめきだす。現実を知った不安であり、予想以上の結果に喜ぶ気持ちでもある。自習室に来る人数も、少し増えているように感じた。

 潤はほとんど予想した通りの結果で、自分が目指したい方向が明確になった。努力の方向性は間違っておらず、報われる可能性は充分にあると確認する機会となった。

「中間テスト、良かったね。どの教科も平均以上だったし、クラスでも十番以内に入れたから、希望を持っていいよ」

 二ヶ月に一度の担任との面談で、鈴木先生は満足そうな笑顔を見せた。期待してくれているのがわかる。掲げた目標としては、偏差値が五十台半ばの私学あるいは公立で、国立を受ける人と比べたら目立たないけれど、四月に言ったことを修正しなくても済む。そのことが嬉しいと言ってくれた。

「成績を落としたのもいるけど、君は大丈夫そうだな。そうなると欲が出てこないか。もっといいところへ行きたいとか」

「そういう気持ちもありますけど」

「まだ六月だし、狙ってみてもいいんじゃないのか」

 潤は答えを避けて、曖昧に返事をした。目標を上げるということは、それだけ期待に応えられない確率が増えることでもある。気にかけてくれる人を失望させるよりは、確実にできることをやった方がいいのではないかと思う。

「九月になったらもう一度話を聞く。夏休み中に模試でも受けてみたらいい。そこでどういう判定が出ても気にしなくていいから」

 返事をぼやかしたのを、鈴木先生は控え目に頷いたと受け取ったらしい。少し前のめりになって勧めてきた。

「そうしてみます」

 そんな鈴木先生の熱意に応えるように、潤はさっきよりも明確な返事をした。予期せぬ形で他人を苦しめることがあるとしても、鈴木先生が生徒のことを考えて色々なすすめをしてくれる良い先生なのは確かで、そんな人だから失望感は味わわせたくない。

「君は学力的にいいものを持っているから、できるだけのことをするといい。それで結果が出なくても、ちゃんと取り返すこともできるから」

 そういうものでしょうか、と疑う気持ちがあったけれど、元気づけるつもりで言ってくれたのだろう。真実ではないという確証もない。潤は出かかった疑いの言葉を飲み下し、頑張ります、と言った。

「じゃあ、次は九月だね。模試の時、少し上の学校を志望してみるといい。それで可能性が少しでもあるならやってみるといい。模試での評価がいくら低くても、本番で結果を出せば勝ちなんだから」

 推薦入試ならともかく、潤が選ぶのは一般の試験での受験だ。学校での成績さえ関係ない。本番での成績が全てだ。

「色々言ったけど、体調管理はちゃんとやってほしい。時々は気分転換も大事だ。野球を見にいくなら僕も付き合うから」

 草野球を一緒に見た夜が思い出された。自分で野球が好きだと言った覚えはないけれど、鈴木先生の中であの時の自分が野球好きなように覚えられたらしい。誘う言葉をかける声は本気に聞こえた。

「草野球、見てるんですか」

 面談とは関係のないことを話してもいいのか戸惑いはあったけれど、鈴木先生は気にした様子もなく頷いた。

「全てとは言わないけど、城崎が出る試合はできるだけね。だいたいそこの球場でやってるから、学校帰りに見ることもできるし」

「まだ試合に出るんですか」

「リーグ戦は八月まで続くんだ。その後二ヶ月休んで、来年の三月まで別のリーグ戦に出るらしい。一年の半分以上が草野球というのも、社会人としてどうかと思うけどね」

 言い方は皮肉っぽいけれど、笑顔は温かい。むしろ羨ましがっているようにも見える。生徒を相手に授業をやるばかりでなく、夕方になっても進路相談をやっていたら、自分自身の時間を確保するのもままならないのだろう。

「また見たいのかな。それなら今度は君のことをファンとして紹介してもいい。城崎も喜ぶだろうし」

「いや、そこまでしなくても。見られるかどうかもわかりませんし」

「そうか。まあ、その気がないなら仕方ないけど」

 少し落胆させてしまったかもしれない。空気を紛らわすように、潤は次の試合のことを訊いた。

「次もまたあの球場なんですか」

「そう言ってたね。あれでチームのエース格らしいから、きっとまた先発で出てくるよ」

「あれだけ打ち込まれて、その場所でまた投げるんですか」

「対戦相手はみんな同じ市内か隣の市から来てるから、他の場所を確保するメリットもないみたいだよ」

 自分だったらきっとマウンドに立ちたくなくなる。

「気にしてないんですか、負けたのに」

「城崎はよくやってるみたいだけど、それでも勝てないことの方が多いそうだから、いちいち気にはしてないんだろうね」

 それは負け癖というものではないかと一瞬思ったけれど、追い込まれながらもあと一歩で逆転できるところまで粘ったチームに、その言葉は当てはまらないだろう。

「城崎は投げるのが好きだからね。勝ち負けよりその気持ちを満たしにマウンドへ登るんだ。だから負けてもちゃんと投げた意味を持ち帰ってくる」

 意味、と潤は言葉を噛み砕くように呟いた。負けの、失敗の意味を考えたことは今までなかった。

「あの試合の意味は見つかったんですか」

 野球の試合結果で、スコア以上のものを求めたことがなかったのに、初めて結果の奥へ潜ってみたくなった。

「僕は城崎と学生時代から仲がいいけど、だからといって野球に詳しいわけじゃない。解説してやれないから、聞いたことをそのまま喋るけど」

「はい」

「ストレートの回転が悪くて走らなかった。お陰でチェンジアップがうまく使えなかった。カッターとシュートの精度も悪かったからフォアボールも増えた。だからどんな時もストレートをちゃんと投げられるようにしたい。そう言ってたね」

「はあ」

 とりあえず城崎投手が使った球種はわかったけれど、それらがどうやってあの敗戦に結びついてくるのか、バッターに対してどんな効果を発揮するのかわからない以上詳しく思い描けない。チェンジアップもカッターもシュートも、あの試合の中でも投げていたのだろうが、横から見ている限りどのボールも同じ軌道を描いているようにしか思えなかった。

 戸惑っていると鈴木先生は苦笑した。

「だからわからないと言っただろう。城崎は野球はうまくても語彙が貧困でね。野球素人が相手でも解説してくれないんだ」

「じゃあ仕方ないですね」

「本を読まないからね。技術書とかも読んだことがないらしい。それで周りから認められるプレイができるのはたいした才能だと思うけど、頭打ちになった原因だろうね。あれでも高校まではプロに行きたかったそうだし」

「じゃあ高校時代はすごかったんですか」

「学校の中ではね。でも大会に出ると二回戦か三回戦で負けていたらしい。もっと本を読むとかして、勉強もしていれば違った未来もあったんだろうけど、今更言っても仕方ないね。ちゃんと仕事もしているから、僕も説教じみたことを言う気はないし」

 けれどもし、城崎投手がプロのマウンドに立つところまで行っていたら、鈴木先生とあの夜に出会っても、そのまま別れていたかもしれない。

 そうでなければ、今でも自分はニコラスさんとビリーの名前さえ知らなかった。お互いの顔と、初めて出会った時の出来事を覚えているだけでは、再会の手がかりとしてあまりに弱い。

「ともかく城崎は、あの試合では全然駄目だったわけだ。でも原因がわかっているから、次はいいピッチングをしてくれると思う」

「駄目でも最後まで投げましたよね。どうしてだったんでしょう」

「それは代わりがいなかったからだよ。本当は野手の中にもピッチャーができる人はいたらしいけど、その人は何年も試合でマウンドに登っていなかったそうだよ。何より城崎自身が交代を拒否したみたいだ」

「あれだけ打ち込まれたのに」

 何度も同じ疑問を口にしている気がする。代わりがいるなら、逃がす絶好のチャンスだったはずだ。それを誰であろう本人が拒否した。もっとひどい状況に追い込まれたかもしれないのに、どうしてマウンドに立ち続けたのだろう。

 鈴木先生は答えの代わりに時計を見た。横の壁掛け時計は四時半を回っている。

「悪い、ちょっと用事があるんだけど」

 それならいいですと言いかけたところで、鈴木先生は一瞬、何かに気づいたような顔を見せた。

「続きを話してもいいよ。僕の用事を手伝ってくれたら」

僕にできることなんですか」

「弦楽器の弦を張り替えるんだ」

「やったことないですよ」

「大丈夫、そんなに難しくないし、やり方は教えるから。嫌ならいいけど、もう話をしている時間はないな」

 鈴木先生はもう一度時計を見遣った。決断を急がせているのが見え見えだった。

 時間がないのは同じで、これから勉強しないといけない。どれだけ時間がかかるかわからないことに関わっている暇はない。

 けれど今を逃すと、何度も沸いては消える疑問の答えが出ない。やがて消えたままになるのだろうけれど、釈然としないものが残されそうだった。

「時間、どれぐらいかかりますか」

「六時には終わらせたいね。まあ全部やらなくてもいいんだけど」

「話聞いてくれますか」

「もちろん」

 鈴木先生は何でもないことのように頷いた。

 鈴木先生に連れられて来たのは音楽室だった。前にピアノに触れて、嫌な過去を思い出して取り乱して、鈴木先生を突き飛ばして逃げ出した場所だ。鈴木先生はそのことを気にしていないのか、ピアノには見向きもしない。

 音楽室の片隅には準備室への出入り口がある。そこにはいくつもの楽器が一つずつケースにしまわれ、種類ごとに整理されて棚に置かれている。吹奏楽で使われるものが多いけれど、ギターやマンドリンといった、クラシックではあまり見ない楽器もある。

 鈴木先生はそれらの楽器に歩み寄ってマンドリンのケースを開いた。

「そのへんに座っていいよ」

 そう言って鈴木先生は、ネックの上にある糸巻を回していく。やがて弦がたわんでいくのが見て取れて、楽器のわずかな動きにも応じるように小さく揺れた。

 弦は小さな突起に開けられた穴を通して巻き付けられ、糸巻を回すのに応じて締めたり緩めたりできるらしい。鈴木先生が用意したのはニッパーだけだった。

「まずは全部の弦を外してくれ。今日はマンドリンをやるから」

 棚に置かれたマンドリンは十前後ある。潤は初めてマンドリンという楽器を見た。八本も弦があるけれど、二本ずつ詰めて張られているのを見ると、どうやら二本一組で弾けるように調弦するらしい。手で弾くのは小さくて難しいから、ピックを使って弾くのだろう。間隔の狭さから、弦を一本ずつ弾くようにはできていないと見えた。

 潤は言われるまま、鈴木先生の手を見ながら糸巻を回して弦を緩めていく。元々緩めてあったらしく、すぐに見た目にわかるほどたわんだ。糸巻の動きに連動して回った突起から弦の先端を抜き、輪を作ってピンに引っかけられていた弦の反対側を外す。鈴木先生に目を向けると、それでいいと言うように頷いた。

 一度自分でやってみただけで要領は覚えられた。確かに難しくない。リズムに乗って一本ずつ外していこうとしたところで、鈴木先生に止められた。

「一本外したらそこに代わりの弦を張るんだ。あとでブリッジの位置調節をしないといけなくなるからね」

 楽器のどこの部分を言っているのかわからないけれど、興味はなかったので素直に従う言葉だけを返した。

 鈴木先生が最初に手本を見せてから、見守られながら新しい弦を張る。テールピースというらしいピンに、あらかじめ輪になっていた弦の先端を引っかけ、弦を糸巻の方へ伸ばしていく。その時親指を支えにして弦を少し持ち上げ、先端は突起の輪に通す。

 突起に巻き付けたら、先端を弦に巻きつけて強く引っ張る。更に突起が回転する方向を確認して、それに合わせて弦を巻きつけて完成となる。試しに爪で弾いてみたが、古いものと張り直したばかりのものでは、確かに音の響きは違っていた。

「その要領でできる限りやってほしい。うまくいかなくても、後で僕が直すから」

 未経験のことが思った以上にうまくいったのもあるけれど、鈴木先生がちゃんとフォローを入れてくれるとわかると気楽になった。教えられた通りに一本外しては新しい弦を一本張るという要領で、作業を進めていった。

「さっきの話なんだけどね」

 目の前の仕事に集中し出したところで鈴木先生が口を開いた。のめり込みそうだったところを邪魔された気分で、何ですかと素っ気ない返事をした。

「城崎のことだよ。どうして交代を拒否したのかって訊いただろう」

 そもそもそれが知りたくて、興味を持ったこともない楽器に触っているのだ。弦の張り替えに夢中になって忘れていた。

「城崎が交代を拒否したのは、あの試合を自分で引っ繰り返すつもりだったかららしい」

「どうやってですか」

「自分のバットで。負けていたから、あの後どんなにいいピッチングをしても勝てなかったからね」

「そんなの有り得ませんよ」

 仕事を持っている大人のくせに、そんな都合の良い展開を信じられることが不思議だった。

「でも本人はできると思っていたようだし、周りもそう信じていたみたいだね。監督も同じだったから交代は告げなかった」

「そんなの、有り得ませんよ」

 野球をやったことはないけれど、城崎投手たちが信じたことの無謀さはわかる。実際簡単にツーアウトまで追い込まれていたし、一点も取れないまま負けてしまった。

「現実には負けたし、そもそも城崎にまで回るとも限らなかった。それでも城崎まで回せれば何かが起こると思ったらしいね。それに、負けた価値もあったそうだ」

「負けた価値、ですか」

 ピンとこない言葉に訊き返す。時間制限があって九回までできなかったとはいえ、六対四で敗れた。それ以上の意味がどこにあったのだろう。

 話が佳境に移りそうなところで、鈴木先生は場所を移そうと言った。

「別のことをしながら話すことじゃないね」

「でも弦の張り替えは」

「元々静谷先生とやるはずだったんだけど、来られなくなってね。君なら手伝ってくれるような気がしたから誘ってみたんだ。別に急ぐこともないし、その一本だけ終われば今日はいいよ」

 いい加減な気もしたけれど、鈴木先生がそう言うなら平気だと思って、潤は弦の張り替えを進めていく。初めてやったことで、時間はかかるけれど、どうにか一つを終わらせる。その間に鈴木先生は四つの楽器の張り替えを終えていた。

 鈴木先生は弦の張り替えが終わった楽器のケースに、張り替え済みのメモを貼っていった。準備室を去る頃には空が暮れなずんでいる。今日も吹奏楽の音色はどこか遠くから聞こえてくる。グラウンドとは逆の方向で、音の感じからすると体育館のように思えた。

 鈴木先生はお礼と言って一階の食堂でコーヒーを買ってくれた。自分には紅茶を買い、隅の方に生徒が少し残っているだけの食堂で語り出した。

「僕自身も理解が及んでいるわけじゃないけど、城崎はあの荒れた試合の中で最後まで投げ出さなかったことがいい経験になると言っていたよ。きっと最後まで責任を務めて投げたかったんだろうね」

「もしあれ以上点差を広げられてたらどうなってたんでしょう」

「責任のことは僕の推測だけど、そういう考えだったとしたら、交代を自分から言ってたんじゃないかな。城崎は投げるのが好きだけど、それよりもチームがどうやったら勝てるかというのを大事にするからね。まだ抑えられると自信があったんだろう」

 自分が三年前に選ばなかった道だと潤は思った。仕事としてステージに登ったわけではないけれど、最低でも最後まで、胸を張った演奏をする責任はあったのかもしれない。

 胸が痛むけれど、その痛みを消す術がわからない。ニコラスさんやビリーの演奏が、一時的に忘れさせてくれるかもしれないけれど、根本的な解決につながるとは思えない。二人に会えて演奏を聞いたからといってその場しのぎにしかならないし、会うたびに頼むのは迷惑だろう。

「ニコラスさんから聞いたんだけど」

 わずかに声が潜められたように聞こえた。他人がこういう喋り方をする時、面白い話題だったことはない。

「君はやっぱりピアノをやっていたらしいね」

 思った通り、それも一番したくない話だった。ニコラスさんが初対面だと思って油断したのがいけなかった。わざわざ待ち合わせをして野球を見るぐらいの仲なのだから、雑談のネタにされることぐらいは予測できたのに。

「それは、事実ですけど」

「今までそんな話を一度も聞いたことがなかったから、どうしてかと思ってね。学校でも部活には入っていないし」

「それだけの理由があるってことですよ」

 幸い鈴木先生は、その突き放すような一言でわかってくれたらしい。追及を避けて代わりに小さく息をついた。

「でも、残念だな。続けてきたのに辞めるなんて」

「惜しまれるような腕じゃなかったですよ」

 更に言うなら心もそうだった。少なくとも鈴木先生の友人の城崎投手には及ばない。

「また弾こうとは思わないのか」

「もう僕は辞めたんです。期待されても困ります」

 自分の痛いところに触れられた反射から、険のある声が出てしまった。潤は周りを気にしたけれど、みんな自分たちの話に夢中で、関心を払う様子はない。

「何がそんなに残念なんですか、僕が弾いたのを見たこともないのに」

 野球に忙しかったにもかかわらず、弟がピアノに親しんでいたのを見てきた兄が復活を期待するのはわかるし、期待に応えられないことを済まなく思う気持ちもある。けれど鈴木先生もニコラスさんも、高校に入って初めて知り合った人たちだ。ピアノを弾いていた頃の自分を知っているわけではない。そんな人たちに復活を願われても、うっとうしいだけだ。

 鈴木先生は悲しそうな顔をして、それはそうだけど、と呟いた。

 けれど自分は、ピアノから離れたいのだ。一つの音を弾いただけで脳裏に甦るあの過去を、何度も見たくはない。

「昔何かがあったのはわかった。詮索するつもりもないけど、ピアノは弾いてほしいと思う。ニコラスさんもそれを望んでいたよ」

「どうしてですか。ニコラスさんも鈴木先生も、何も知らないのに」

「聞いてみたいからだよ。少なくとも音楽は好きなんだろう。そうでなかったら、ニコラスさんたちのトランペットや、僕のギターに惹きつけられたりしない。ピアノに近寄るのもそうだ。その気も少しはあるんじゃないのか」

 気持ちを見透かされたような気がする。音楽を聴くと胸や頭が痛む一方で、自分にできる方法で奏でることを望む気持ちも確かにある。とても小さいけれど、音楽が好きという気持ちは死んでいない。

 それを認めたら、苦しさへ踏み込んでしまう。

「そんなの、有り得ませんから」

 いつか解決したいものではある。そうしたら音楽へ戻っていけると思う。

 けれどそれは、今でなくてもいい。今は受験もあるのだから、また余裕ができてからでもいいはずだ。

「有り得ませんよ」

 まだ諦めていないかのように真っ直ぐ見据えてくる鈴木先生に、突き放す言葉を重ねていく。口にするたびに言葉は力を失い、自分の方が追い詰められていく気がする。

「悪かった。もう帰ろう」

 鈴木先生は缶を大きく傾けて、残った中身を飲み干した。潤もそれに倣い、話に夢中で飲めなかった分を一気に飲む。砂糖が多めの味を一度に多く口に含むと喉が渇く。水が欲しくなったけれど、冷水器は食堂の隅にあって遠い。そのうちに収まるだろうと思って、鈴木先生についていった。

 電車で二駅のところに住んでいる鈴木先生とは、交差点を渡りきったところまで帰り道が同じだ。学校を出たところで別れることもできるけれど、米軍基地を大きく回り込むことになって、三十分は余計にかかってしまう。サイクリングコースにはちょうどいいけれど、薄暗くなるまで全然勉強しなかったことで、少しでも早く勉強机に向かいたい気持ちがあった。

 自転車置き場の近くで一旦別れ、潤は自転車を引きだして門へ向かった。鈴木先生はそこで待っていて、合流すると歩き出した。

 こうやって誰かと一緒に帰るのは久しぶりだった。

 フェンス越しに歩いている間無言だった。日によっては暗くなってからわざわざ夜間発着訓練をやるけれど、今日は芝生に囲まれた滑走路は静かで、等間隔で配置された誘導灯が幻想的にさえ見えた。

「青山くんは、この街の生まれだったかな」

 潤は首を振って、違いますと答えた。ピアノに関する話題が出ないかと警戒しながらの返事だった。

「ここから結構かかるところです。中学まではそこに住んでたんですけど」

「高校からは確かお兄さんのところに住んでるんだったね」

「まあ、色々あったので」

 兄の家で住む理由こそ、ピアノを弾かなくなった理由でもある。潤は踏み込まれないよう予防線を張るつもりで言葉を選んだ。こう言っておけば、無理に言葉を引き出そうとはせず、当たり障りのない話題でやり過ごしてくれるはずだ。

「僕は隣町だね。でもここから飛んでくる飛行機がうるさいところでね」

「この辺りに住むよりはマシじゃないんですか」

「どうかな。寝泊まりした経験がないから、何とも言えないけど」

「僕も同じです。鈴木先生の家がある方には行ったことないですし」

 鈴木先生の家がある方角には山があって、昼間なら線路が山の麓へ飲み込まれていくように見える。中学まで住んでいた場所に比べて最初に田舎っぽい雰囲気だと思ったのは、すぐ近くに山があるせいだった。

「飛行機が飛ばなくなることがあるのかな」

「さあ。とりあえず市長が替われば何か起きるんじゃないですか」

 選挙権はないけれど、街中のポスターや駅前で聞く演説から、今の市長が米軍基地と共存していく方針なのはわかる。夕方基地から出てくる人たちに日本人らしき人は多くいて、政治はわからなくても、米軍基地が日本人の仕事に大きく関わっているのは知っていた。

 市長が替われば米軍基地に対する態度や方針も変わるかもしれない。たとえば、長い時間をかけて米軍基地から米軍がいなくなるとか。

「飛行機うるさいの、嫌なんですか」

「それはそうだよ。あれは騒音以外の何物でもないしね」

「なくなってほしいんですか」

 冗談っぽい口調になったけれど、鈴木先生は思ったよりも真面目な様子で、そうじゃないよと答えた。

「基地がなくなったら、ニコラスさんもアメリカに帰らなくちゃいけなくなるかもしれないじゃないか」

 潤は胸を衝かれる思いがした。飛行機の轟音が騒音なのは確かだけれど、基地がなければ起こり得なかった出会いもある。

鈴木先生とニコラスさんってどういう知り合いなんですか」

 ニコラスさんがやたらと日本語に堪能な理由も含めて知りたかった。

「音楽で知り合った仲だね。駅前で毎年夏祭りをやっているだろう。僕とニコラスさんが同時に出た時に知り合ったんだ」

「趣味で出会ったってそういう意味だったんですか」

「ニコラスさんがあれほど日本語が上手いなんて、僕も驚いたけど」

 当時のことを思い出しているのか、鈴木先生は温かい目で遠くを見るようにした。明らかに年上だったニコラスさんに敬語を使っていた鈴木先生だったけれど、実際に話している様子に、年齢差を意識するような固さはなかった。音楽を通して知り合っただけあって、二人は実質的には対等の友人なのだろう。

「米軍が毎年やっている市民交流の一環でね。ニコラスさんはあの基地の中にあるハイスクールの先生をしているんだけど、そういう活動にとても熱心なんだ。色んなところで演奏もしているよ」

「アマチュアなんですか」

「お金は取っていないから、そうだね。ニコラスさんは本業が先生で、それに不満があるわけでもないしね。単純に好きだから外で演奏するんだろう。城崎と同じだね」

 初めて彼らを見た時の演奏もそうだったのだろうか。誰かに演奏を聞いてほしい思いがあって、道行く人たちに向けて音を届けていたのかもしれない。

「ビリーもそういう活動をしているんですか」

 初めて姿を見た時、ニコラスさんと息の合った演奏をしていたから、アンサンブルに慣れた間柄だと思っていた。

 けれど鈴木先生は違うんじゃないかなと答えた。

「あの子が来たのは今年の三月みたいだね。今まで一度も見なかったニコラスさんもそんな話を一度もしなかったのに、三月に会った時突然紹介してきてね」

「どうして来たのか、教えてくれなかったんですか」

「何だか詮索してほしくない感じがしたから、訊かなかったんだ。そうしたらニコラスさんも喋ろうとしなかったから。ビリーもあの通り日本語が喋れないから、僕は全然あの子のことを知らない」

 何だか残念な気がした。そして不思議な気がする。日本語に堪能なニコラスさんは訊けば色々なことを教えてくれそうだ。そんな気さくな人に隠し事は似合わない。

「何でビリーっていうんでしょうね」

 名前を初めて聞いた時感じた疑問が口を衝いた。

「ああ、不思議だね。僕が知っているビリーは、ビリー・ザ・キッドとかビリー・ジョエルぐらいだけど、どっちも男の名前だしね」

「ビリー・ホリディがいますよ。本名じゃないですけど」

「よく知っているな。やっぱり音楽が好きなんだな」

「先生、僕は」

「いや、何も言わないから安心してほしい」

 安堵してから、ビリーという名前がつけられた経緯について考えてみるけれど、それを推理するにはあまりに情報が足りない。

「まあ、そのうち訊いてみよう。教えてくれるといいけど」

 あまり期待はしない。鈴木先生が雰囲気で察するほど詮索を避けている女の子のことを、ニコラスさんが簡単に教えてくれるとは思えない。まして二人の間には友情があるのだ。国境を超えた友人にも話したくないのなら、もっと遠い存在の自分に知る権利を与えてくれるとは思えない。

 いつしか交差点まで来ていた。目の前で信号が変わって、鈴木先生はうめいた。

「運がないね」

 ここの信号は長いけれど、横断歩道の距離も長い。そして車は途切れずに走る。焦れて信号無視などしようものならあっという間に交通事故だ。

「先生、今日のことですけど」

 無言で立ち尽くしていることで生まれる手持ち無沙汰な感じに耐えられず口を開くと、それだけで心が軽くなったような気がした。

「何か気になったかな」

「どうして僕に弦の張り替えを手伝わせようと思ったんですか。マンドリンとかギターを弾く人なら、他にもいたんじゃないですか。だいたいマンドリンクラブのものなんだから、クラブでやればいいのに」

 長く喋ると息を継ぐタイミングがわからなくて、少し息苦しくなった。

 変に聞こえていないか心配になったけれど、鈴木先生は気に留めた様子もなく、ああそれはね、と間延びした返事をした。

「君が偶々今日の面談の最後だったのもあるけど、やってくれそうな人が他に思いつかなくてね。あれは新入生用の貸し楽器なんだけど、今マンドリンクラブは練習で忙しいんだ。それで僕が手伝ってあげようと思ったんだけど、頼んだ本人が来ないんじゃ仕方ないね」

「静谷先生のことですか、マンドリンクラブの顧問の」

「自分がいなくても大丈夫だと楽観していたみたいなんだけど、クラブの演奏の出来が予想以上に悪いから、放っておけなくなったみたいだね」

 マンドリンクラブの静谷先生は指揮者もやっていたけれど、指揮台よりもダグアウトで怒鳴っている方が似合いそうな雰囲気で、体格もかなり立派だ。鈴木先生がギターを弾くのは似合うけれど、静谷先生が指揮台と燕尾服で指揮台に上るのは違和感がある。

「そういう管理とか、しっかりしてそうですけど」

 部活はもとより、日々の学校生活では全く接点のない先生で、鈴木先生に言ったのは第一印象である。

「そうでもないよ。良くも悪くも楽天的でね、状況を見誤ることも多い人なんだ。計画性もあんまりないしね」

 鈴木先生が語る静谷先生の人物像は何だか明るい。ニコラスさんと喋る時と同じような表情に見えた。

 二人の間にも、同じような友情があるのだろう。だからこそ静谷先生は、クラブに無関係の鈴木先生に応援を頼んだのだ。

「それで、どうして僕しか思いつかなかったんですか」

 それを訊いた時、車の流れが止まって、一瞬置いてから信号が変わった。向こうから向かってきた人と、横断歩道の中ほどですれ違った。

「これを言うと怒るかもしれないけど」

 伺いを立てるように、鈴木先生は横目で、なおかつ上目遣いをしてきた。

 鈴木先生が何を言おうとしているのか、わかる気がした。

「いいですよ、言ってください」

 鈴木先生は苦笑して口を開いた。

「僕が頼み事をできる生徒の中で、君が一番音楽が好きだと思ったからだよ」

 弦の張り替え自体は淡泊な作業だったけれど、音楽を奏でる大事な道具だ。音楽を好いている人に頼みたいと思うのも自然だろう。

 けれど、どうしてそこまで自分のことを信じ込めたのだろう。

「そう思ったのって、ニコラスさんとビリーの演奏を聞こうとしたからって、ニコラスさんに教えられたからでしょう。それだけで何で僕を信じたんですか」

「前にピアノの傍に立ち尽くしていた時の横顔かな」

 その言葉と同時に交差点を渡りきった。一歩先に歩道へ踏み込んだ鈴木先生は足を止めた。その先を聞くかどうか、視線で問いかけてくる。

 後ろで車が動き出した。潤は鈴木先生の目を見つめ返す。

「このまま楽器に触れてもいいのかどうか、そういう悩みが一目でわかるような顔をしていたね。きっと何かがあったんだってその時にわかったけど、そういう悩みは音楽が好きでないと出てこない」

 あの時は鈴木先生を突き飛ばしてしまったから後味の悪さを感じたけれど、今は隠し続けた内面を気取られたのが嫌だった。

「そうだとしても、ピアノを弾くことは有り得ませんから」

 そう言うと、潤は挨拶せずに自転車に跨がった。失礼は承知だったけれど、ピアノの話をされるよりマシだった。期待を受けたとしても、できないことだってある。それは早く断るべきだ。そうしたら誰も傷付かず、迷惑もかけずに済むのだ。

 いつもの帰り道を、いつもより力を入れてペダルを漕いで進んでいく。向かってくる車のヘッドライトがすれ違う度に目の上で通り過ぎる。まぶしさに目を細めながら進んでいくといつもの曲がり角にたどり着く。踏切へと続く道を横切る横断歩道がある。

 車道の信号が赤になっているのを見て、潤は横断歩道を渡ろうとした。その直前でペダルを踏み込む足を止めたのは、音が聞こえたからだ。

 一瞬時報かと思った。スピーカーが出す管楽器の音に似て聞こえたけれど、時間は六時近くになっていて、時報はとっくの昔に鳴り終わっているはずだ。

 何より音の存在感が段違いだ。機械を通した音とは違い、音の奥にいる人間の息遣いまで聞こえてきそうな、活き活きした演奏だった。

 可笑しげでいて寂しげな音色は、聞き覚えがある。潤は横断歩道を渡らずに曲がった。遮断機が下りかけていたけれど構わずに突き進んだ。

 踏切を渡りきると、音色が一層鮮明に聞こえる。間近で音楽を聴くと出てくる頭痛がない。これは、間違いない。

 フェンスの向こう、赤い自販機の傍、街灯の下。そこに黒いキャップと薄緑のブラウスを着た女の子がいる。少し顔をうつむけて、手の中の楽器を吹いている。

 自転車を降りて足をついた瞬間、電車が通り過ぎていった。車道の音にもコルネットの音色もさすがにかき消されてしまう。

 電車が踏切を通り過ぎるまで、楽器の音も、声も聞こえない。フェンスの外から内側の人に声をかけるのはいけないことだったと思う。けれどそれを立証することができなければいい。

 潤は外の音に構わずコルネットを吹き続けるビリーの名を呼んだ。届くことは期待しないものだった。だからビリーが、不意に演奏をやめてこちらを見た時、驚くよりも焦った。

 初めて握手をした時にも感じた、温かさを含んだ胸のうずきが生まれる。声をかけたのを気づかれた焦りに加え、自分の声で振り向いてくれた嬉しさも感じている。ビリーはこちらをじっと見ていた。表情はなかったけれど、警戒心も怯えも感じないと思うのは、都合が良すぎるだろうか。

 フェンス越しに見つめ合っている内に、逆方向から電車が到着した。アナウンスの後乗客が乗り降りする時の足音が聞こえて、発射ベルが鳴る。再び踏み切りを電車が渡り出す。それでまた、耳の中は金属の車輪とレールが擦れる音に満たされる。

 ビリーはそんな中で、再び顔をうつむけてコルネットを吹き始めた。やはり電車の音には勝てないけれど、電車が通り過ぎたら再び聞こえ出す。

 元々の音色があまり明るい印象を与えないけれど、ビリーがうつむいているせいで、一層悲しい曲に聞こえてくる。もっと顔を上げたらいいんじゃないか。もっと明るい音楽を聴いてみたい。そんな望みを伝えるためには、法律と言語という二つの壁を超えなければならないだろう、

「聞いていてもいいかな」

 ふと口を衝いた言葉は、自分でも辛うじて聞き取れるぐらいの小さな声だ。演奏に集中しているビリーに届くはずもない。

 ビリーはフェンス越しからの視線にも構わず、街灯の下でずっと吹き続けていた。言葉の代わりに音楽で、好きなだけいてもいいと伝えてくれているような気がした。

 勝手な解釈なのは自覚している。狭い歩道に立ち尽くしていたら邪魔だろう。そして今日は全く勉強していない。

 立ち去った方がいいと冷静な部分が告げてくるけれど、潤は抗った。

 ビリーが立ち去るまで、この場所で音楽を聴いていたい。音楽を受け付けないはずの自分が惹きつけられる音楽を、少しでも長く聴いていたかった。

 

 4

 

図書館で一時間過ごすうちに雨は止み、潤はカッパを着なくて済むのが嬉しくなった。まだ夏には遠いけれど、時期は気温の代わりに湿気を多く運んでくる。通気性のないカッパは着ているとすぐに蒸れてしまう。

 腕時計の数字は午後七時を示していた。いつもより一時間ほど長くいたことになる。閉館にはまだ時間があるけれど、人の出入りはほとんどなくなって、どこかから届く水音が大きく聞こえる。

 潤は自転車にカッパを引っかけていた。図書館に着いた時はまだ雨が降っていて、止んだ後も湿気が立ち去らないせいで、カッパにはまだかなりの水滴が残っている。潤はカッパの上下を大きく降って水気を飛ばしてから、畳んで前かごに入れた。それでかごの中はほぼ満杯になってしまう。いつもかごに入れていたバッグは肩にかけて運ぶしかない。

 図書館を出た後で坂を上っていけば市営球場に着くけれど、坂を上らず真っ直ぐ進めば駅にたどり着ける。最近図書館で勉強していると、帰りがけに駅前のスーパーで買い物を頼まれることがある。その連絡が、帰る十分ほど前にメールであった。

 潤は返信する代わりに電話をかけた。メールより確実にコミュニケーションが取れる。

 自転車を引きながら、家の電話にかけると千裕が出た。

「兄さん、今終わったんだけど」

「メール見たか」

「買い物があるなら今から行くよ」

「牛乳も買ってきてくれ。入口に綾音がいるから、あいつの荷物を持ってやってくれ」

 さり気なく言って千裕は一方的に電話を切った。綾音がいるのにどうして自分をよこすのだろう。いつも彼女一人でやっていることなのにと思ったけれど、一人だと大変だと思ったのかもしれない。

 潤は少し力を入れてペダルを漕いだ。兄のことは好きでも、毎日顔を合わせていれば飽きてくる。その点綾音は一週間に一度会えるかどうかの間柄で、思いがけず会えるのはとても新鮮だった。

 十分ほどで駅前のスーパーに到着する。一階に二十四時間営業の食料品売り場があって、二階から五階まで服や生活雑貨などを夜九時まで売っている。レジに並んでいる客はそこそこいたけれど、売り場はとても広いから、売り場に散っている客はまばらに見える。

 兄に言われた通り入口の周りで綾音を探し、内と外を行ったり来たりしている間に、反対側の出入り口の方から声をかけられた。

「勉強帰りだったんでしょ。大丈夫なの」

 綾音は少し着崩したようなスーツ姿で現れた。何だか新鮮な気がして、それは見慣れないからだと気づく。綾音は青山家に自分の着替えを置いているから、料理中の彼女は常に部屋着だ。何だか知らない人のように見えてくる。

「どうしたの、潤ちゃん」

 怪訝そうな声をかけられ、潤は我に返った。何でもないよと言いながら売り場へ誘った。

「何を買うの。俺は牛乳を買うようにしか言われてないんだけど」

「野菜のカレーでも作ろうかと思って。まあ適当に野菜を買って、あとはいつでも食べられるような非常食を買ってね。男手がいると助かるとは言ったけど、自分の代わりに潤ちゃんをよこすなんてね」

「頼りなくてごめん」

「千裕が弟をこき使うから、ちょっと腹が立っただけよ」

 綾音は苦笑しながら、手前の野菜売り場の前で歩みを緩めた。ピーマンやにんじんを掴んで入れていく。そのわずかな時間の中で、素早く売り物の状態を見ているような目と手の動きをしていたけれど、何を確認しているのか潤にはわからない。

「きっと野球見てるんだよ。電話した時そういう音が聞こえたし」

「ふーん。彼女の買い物を手伝うより野球の方が大事なわけだ」

「そうかも」

 潤も少し笑う。

「変なお兄さんを持って大変ね。でも素直に来てくれるなんて偉いわ。ご褒美に何か買ってあげようか」

「アイスがいいかな。暑いから」

「よしよし、アイスね」

 綾音は嬉しそうに頷いた。綾音の買い物を手伝うのは初めてではないし、そういう時は決まって何かを手間賃代わりに買ってくれる。暑ければアイス、寒ければ肉まんだ。

 綾音は慣れた手つきで売り物をかごに入れていく。少しの間それを眺めていた潤だが、牛乳だけは自分で取った。千裕も自分も、乳飲料と書かれた牛乳もどきは飲まないと決めている。多少高くても牛乳と書いてあるものだけを選び取るのだ。

 最後に潤が、自分で百二十八円の棒アイスをカゴに入れた。三千円ほどかかった買い物は、綾音が全て支払った。

 レジの向こうで綾音と一緒に袋詰めをしていく。買い物を手伝う時に教えてもらったことで、牛乳など重いものから入れていく。そうすれば安定するし、重いものが軽いものを潰すこともなくなる。

「潤ちゃん速くなったね」

 袋詰めの手つきを見ながら綾音が言った。「別にたいしたことじゃないから」と言いながら、照れ笑いが止められない。

「コンビニのアルバイトできるんじゃないの」

「高校卒業したらね。うちの学校バイト禁止だから」

「そうだっけ。今時厳しい学校ね」

「そんなもんかな」

 髪を染めるのも禁止で、そういう校則を厳しすぎると反発する生徒はいるけれど、潤は窮屈に感じたことはない。

「わたしの出た高校なんて自由だったんだけどな。バイトもやりたかったら勝手にやってって感じで」

「そうだったの」

 兄よりも年上で、道理をわきまえた大人の女性だと思っていた綾音が、そんなに自由な校風の学校にいたのは意外だった。

「綾音さんはバイトしてたの」

「ビルの掃除をね。そういう家事みたいな仕事は得意だったし」

 高校時代も今とあまり変わらないことをしていたと思うと安心する。これで昔は荒れていたと知らされたら、話をする時にちょっと身構えてしまいそうだ。

 袋詰めを終えるとそれぞれ荷物を持つ。潤は綾音から荷物を受け取って両手に持つ。やっぱり若い男の子は頼りになるわと綾音は感心しきりだった。

 両手が塞がった潤は、綾音に自転車を任せることにした。カゴにはカッパがあって、買い物袋を入れると上の方が安定せず落ちてしまう気がする。綾音はカッパを持つと言ってくれたけれど、濡れているからと潤は綾音に自転車を引いてもらうだけにした。

 綾音に頼んで、ポケットから自転車の鍵を出してもらい、更に精算機の操作をしてもらう。二時間までは無料のところで、程なくして鍵は開いた。戻ってきた綾音が自転車の鍵を外して引き出す。先に綾音が立って歩き出した。

「助かったわ、潤ちゃん。一人で持っていくのはやっぱり大変だし」

 兄の彼女とはいえ、女の人に感謝されて悪い気はしない。潤は顔をうつむけて、照れ笑いを見られないようにした。

「兄さんが頼んだからね」

「千裕は仕方ないね。もうじき離れることになる弟をこきつかうなんて」

 何気ない言葉だったけれど、潤は来るべき時を思って心が揺れた。今まで当たり前のように傍にいた千裕や綾音と、いつまでも一緒にいられるわけではない。二人には二人の道がある。

「結婚、近いの?」

 綾音は言葉に詰まり、まだ先の話よと答えた。その言葉にどれほどの真実味があるのか潤には見抜けない。

「わたしが三十になるまでには答えを出すって言ってるんだけどね」

「すぐには結婚しないんだ」

「わたしはいつでもいいんだけど、千裕は自分の収入に不安があるみたいね。わたしもまだ働く気はあるんだけど、それをよしとしないのよ。家のことをやってほしいって」

「それがいいかも」

 普段の生活を思って、そんな言葉が口を衝いた。

「あら、どうして。やっぱり兄さんの味方するの」

「そういうわけじゃなくて。綾音さんがいなかったら誰がご飯作るの。一日や二日ならいいけど、毎日兄さんにご飯なんか作れるわけがないよ」

「兄さんを信じてないのね。でもその通りかも」

 綾音はおかしそうに笑った。

 喋りながら歩道を歩き、やがて交差点に着く。その直前に車が動き出した。学校近くの交差点ほどではないけれど、ここも変わるまでが長い信号だ。

「結婚したら、どこで暮らすの」

 まだ先と言っている人が答えられる質問ではないと思いながら、それでも訊いてみたかった。案の定綾音は、まだ考えてないと答えた。

「この街を出ていくの」

「そうね。ここは飛行機がうるさいし。この機会に静かなところに移り住むのもいいかな。遠くなりそうだけど」

「アイス買ってくれる人がいなくなるのは寂しいよ」

「そうね。でも大学に入ったらアルバイトだってできるようになるんだから。人に頼るより自分のお金で買った方が美味しいよ」

 潤は曖昧に返事をした。自分の働きがお金になったことはないから、綾音の言葉に実感が呼び起こされることはない。けれど実際に社会で働いている人の言葉なら信じる気にさせてくれる。

「たとえ別の場所で暮らすにしても、外国に行くわけじゃないんだから。何のために日本の公共交通機関は発達してると思うの。同じ日本なら会おうと思えば会えるって」

「そうだね」

 まだ遠い街へ行くと決まったわけではないし、もし実際に新幹線でも使わなくてはいけないところへ移ったとしても、自分も新幹線を使って会いに行けばいいだけだ。

 信号が変わって歩き出すと、横断歩道の途中でウインドブレーカーを来た三人の男たちとすれ違った。小走りで向こうの歩道に渡り、駅を目指していった。

「こんな時間から試合やるのかしら」

 綾音は振り返って、男たちの行方を追っていた。

「試合って、草野球の」

「そう。あのロゴのチームは見たことあるから」

「市営球場で?」

「千裕と一緒に見にいったことがあるの」

 草野球の試合を見ていたと言った時、声をかけてくれればよかったのにと残念がったのを思い出した。

「でも時間も時間だし、さっきまで雨降ってたし。やらないんじゃないかな」

 以前鈴木先生に誘われた試合は八時になった時点で終了していた。もう残り十分もない。彼らはもっと別の用事があったのだろう。

「試合って、あのチームに兄さんの知り合いがいるの」

「違うみたい。試合を生で見たかったんだって」

西武ドームに行けばいいのに」

「入場料かかるし、半日以上は時間を使うから、面倒だったのかもね」

 そうだとしたら、西武ファンを自称するわりにいい加減だ。きっと日程が合わないとか、自分ではどうしようもない理由があったのだろう。

 けれど野球が好きという気持ちは、社会人になっても変わらない。そんな人が自分でやらない理由がわからない。

「道具はあるんだから、自分でやればいいのに」

「でも今は、仕事で忙しいからって」

 言いながら綾音は嬉しそうにしていた。収入を気にして結婚に踏み切れない千裕は、その忙しさを綾音に捧げているのだ。

 いつか自分たちのための道を歩むと思うと、残される自分は寂しくなるけれど、自分以外の人のためにがんばれる兄が潤には誇らしかった。

「早く帰ってご飯作らないとね」

 角を曲がったところで綾音が言った。まっすぐ行けば家までたどり着く道だ。

「毎回ありがとう。でもお金はいいの」

 綾音が何かを買ってくる時、兄からお金をもらうなどして精算しているところを見たことがない。

「ちゃんと千裕と折半してるよ。潤ちゃんの見えないところでね」

「レシート持っていってるの」

「そうしないと千裕はお金出さないでしょ」

 潤は苦笑した。千裕に買い物を頼まれた時、金を精算する段になってレシートを出せず、お金を払う払わないで千裕と揉めてしまった。千裕は頑として譲らず、結局は潤の方が折れて決着を見た。お陰で遊びに使うはずだったお金を失う羽目になったのだ。

 マンションの自室に着くとリビングの方から歓声が聞こえてくる。電話口の音で思ったとおり、野球を見ていたのだ。

「おう、お帰り」

 千裕は呑気に手を挙げて、リビングに入ってきた二人を出迎えた。

「弟を働かせて何やってるんだか」

 綾音は呆れたようなため息をついた。

「いや、潤がもう少し早く用事を終わらせてたら俺が行くつもりだったんだ。でも試合の最初のプレイはみないといけないし」

「わけのわかんないこと言ってないで、お金出してね」

 綾音はレシートを千裕の前に置いた。綾音の方がやけに強気だったけれど、ガス抜きのような気楽さも漂う会話だった。

 くつろいでいた千裕だが、最低限の仕事はやってくれていたらしい。キッチンに入った綾音は特に文句を言わず料理に取りかかった。炊飯器の準備はできているようだし。綾音が電気ケトルのスイッチを入れないところを見ると、お湯も沸かせているのだろう。

「潤ちゃん、お風呂入ってきたら。まだ時間かかるから」

 何気なく野球を見ていた潤は、綾音の声に促されて風呂に向かった。ここも充分温まっている。綾音の仕事に比べると少し温度が高かったけれど、すぐに入れたから充分だった。

 十五分で戻ってきた時、まだ料理はできていなかったけれど、既に匂いが漂ってきていた。

 図書館の帰りで、すぐに勉強する必要に迫られてはいない。部屋に戻ってもすぐに呼び出されるとわかっているから、潤は西武の試合を見ることにした。

「西武勝ってる?」

 椅子に座ったところでバッターが打った。センターの頭を越えて長打になる。ランナーはいないようで、点にはならないだろう。けれど千裕の表情は明るい。

「同点だ。でもきっとここで突き放せる」

 どうやら四番打者らしい。出ばやしはロックのような激しい音楽で、音は広い球場で拡散して聞こえる。そのお陰で潤も負担には感じない。

 実況が言うには、プロに入りたくてもがいていた頃、勇気づけてくれた歌らしい。プロに導いてくれた歌だから今でも使っているという選手のコメントが寄せられていた。

 選手が打席に入ってプレイが再開されると、右隅にスコアが表示される。五回の裏でツーアウト、一対一の同点だった。

 バッターは立て続けにストライクを取られて追い込まれたけれど、続く二球はボールとなり、更に一球ファウルにした。六球目がボールで、七球目はファウル。城崎投手の粘りを思い出した。

 時間制限で終わりかけていた草野球の試合と、まだ中盤のプロの試合では状況が違いすぎる。けれど粘る様子は城崎投手が重なってくるのだった。

 八球目が投じられた。その瞬間、千裕が「あ」と声を上げた。

 それが打ち取られることを予感しての声だったことを、潤はテレビの中の結果を見て理解した。

 空振り三振。歓声がため息に変わって、ピッチャーが小さくガッツポーズをしながらマウンドを降りていく。千裕も小さなため息をついていた。

「残念ね」

 キッチンから綾音の声が聞こえた。カレーの匂いは強くなっていた。

「まだ次がある」

 そう言う千裕の声には力がある。単に言い返しただけではないようだった。

 六回の表の攻撃の間に綾音のカレーができあがり、準備を始める。六回の裏、西武の攻撃が始まる頃に三人揃って食卓を囲んだ。スーパーで買った野菜が全て入っていて、一見単純そうだったけれど、どれも食べやすい大きさに切られている。ほぼ一定の大きさで、綾音の丁寧さが存分に発揮されていた。

 試合が八回に入る頃、綾音は片付けを終えて帰っていった。その間に試合は大きく動いていた。両チームが五点ずつ取って、それまでの緊張感に満ちた投手戦が嘘のように、球場全体が盛り上がっていた。

「まだ続きそうかな」

「打撃戦だからな」

 テレビを見たいと弟が言うとは、全く考えていないような素っ気なさだった。

 スコアは六対六で、実況も解説もまだまだ点が入るでしょうと言っていたのに、残りの二回はあっけないほど終わって、スコアは変わらず延長戦になった。長くなるなと千裕が呟く。最後まで見届けそうな眼差しだった。

「お風呂は」

「終わったら入る」

 千裕は淡泊に答えた。意識の大半は試合に持っていかれているようだった。

 潤も一緒になって試合を見ていると、今日は勉強しないのかと言われた。

 自分の部屋へ戻らないのを咎めているわけではないらしい。潤は気楽に返事をした。

「もう図書館でやってきたよ」

「いつも部屋で、暗記の科目やってるんじゃなかったか」

「試合が終わったらやるよ」

「いつまでかかるかわからないぞ」

 延長十回が始まっていた。ツーアウト満塁まで西武は追い込まれたが、最後のバッターを空振り三振に打ち取って守備を終えた。

「何か話がしたいのか」

 潤は言葉に詰まった。自分で思ってもみないことだったからだ。

 けれどその一瞬で自身の心に触れ直すと、千裕の指摘は正しいかもしれないとわかる。綾音と話す内に現実味を帯びてきた二人の結婚話は、潤にはっきりした形で寂しさを予測させた。

「そうかも」

「何が心配なんだ」

 大学受験のことで悩みがあると思っているらしい。

「兄さんと綾音さんのこと、かな」

 千裕にとって予想外だったらしく、彼は初めて試合から目を離して振り向いた。

「さっき綾音さんと歩いてる時に話をしたんだけど、結婚したらどこに行くの」

「そこまではわからないな。まだいつ結婚できるかわからないし」

「でも少しの間は、ここに住もうって考えてない?」

 千裕は一瞬だけ言葉に詰まった。

「それが何だ」

「もしそうなら、俺はどうしたらいいのかなって。もちろんここは兄さんが借りてるところだから、兄さんが出ていけって言うなら、俺は実家に帰るけど」

 今まで面倒を見てくれた兄が。そう簡単に自分を見放すはずがない。そう思うけれど、一人暮らしと夫婦の生活は違う。今はともかく、綾音がいつも一緒にいるようになったら、やはり自分は邪魔になるだろう。

 千裕から返ってきたのは意外な言葉だった。

「もしお前が望むなら、ここに住んだらいい」

「それって、兄さんと綾音さんのすぐ傍で暮らすってことでしょ」

「その時は俺たちの方が出ていく。結婚を機会にどこか別の場所で新しい暮らしを始めるのも悪くないだろ」

「それは、何だか変じゃないかな。ここは元々兄さんの家じゃん」

「実家に帰って辛くないって、断言できるのか」

 音楽を聞くと昔の失敗を思い出してしまう以上、断言できるとは言えない。実家で暮らすこと自体は辛くないけれど、家の周りを歩いて知り合いに会うのが嫌だ。特にピアノの先生や、合唱祭に出るはずだった当時のクラスメイトと会うと思うと、家を出たくなくなる。

 言葉に詰まった時、千裕も喋らなかった。遠い西武ドームからの歓声を届けるテレビが、二人の間にある空気を察しようともせずかしましく音を出していた。

「お前の辛さをわかってて、苦しむような選択をさせようとは思ってない。綾音もそれで納得してくれるだろ」

「じゃあ、一人暮らしでも」

「潤、俺たちのことを考えず、ちゃんと自分のために考えろ」

 千裕の声は硬く響いた。普段のらりくらりとした態度の千裕が、珍しく強くはっきりした感情を見せている。

 千裕や綾音は意識の外にして、これからの生活をどこで送りたいのか。実家に帰った時、知り合いと会って平気でいられるのか。

 やはり自信は持てず、駄目かも、と呟いた。

「少なくとも、家にはまだ戻りたくない」

 潤は上目遣いに千裕を見ながら言った。甘えるなと咎められるような気がしたけれど、わかったと千裕は静かに返事をしただけだ。

「三年は短いだろう」

 あれからもう、それだけの時間が過ぎている。けれどまだ心は変わらない。

 傷が癒えるには、三年では足りないらしい。

 誰にも触れない心の中のことで、誰にもわからないと思い込んでいた。それが千裕には、いとも簡単に理解された。恥ずかしい反面嬉しくなる。肉親が、これほど傍に寄り添ってくれている。それほど頼りになると知って。

「別に一人暮らしを反対してるわけじゃない。ただ、お前がどこへ行こうと止めるつもりはないんだ。俺たちのことは気にするな」

 千裕と綾音が結婚したら自分の居場所は実家にしかなくなると思っていたから。突然示された自由な道は、魅力的でありながら戸惑いに満ちていた。それを選び取るとしても、どう活かしていけばいいか、見当もつかない。

 言葉を返せずにいると、千裕は試合に目を戻した。結論を急ぐことはないという声には、いつもののんびりしたものが宿っている。

「いずれ結婚するのは確かだけど、どんなに早くても来年になる。それまでは今までと変わらない。そのことも心配していたんじゃないか」

 心を見透かされた動揺を気取られないように、潤は務めて言葉少なに返事をした。自分が高校を卒業するだけでも大きな変化だろう。その上で千裕と綾音がいなくなる変化まで重なったら、どうしたらいいのかわからなくなりそうだった。

「綾音さんがあんまり自然にお母さんみたいになったからね」

 ずっと抱き続けてきた気持ちだった。千裕が初めて綾音を家に連れてきたのは、千裕と同居を初めて二ヶ月も経っていない頃だった。まだ母親の作る料理の味を鮮明に覚えていて、誰かが食事を作ってくれるのを当然のように受け止めていた時期だ。そんな中で、綾音は潤の意識にあった母親の位置に、食事の世話という形で自然に滑り込んできた。もちろん母親が実家で待っているという思いはあるけれど、普段食事の世話をしてくれるのは綾音に違いなかった。

 一人暮らしもやむを得ないと思い始めた今は、さすがに意識が変わってきている。それでも綾音は、男二人の家にとっての母親代わりだった。

「実際、いつかそうなるんだ。そうなってもらわないと困るな」

 千裕は前を向いたままだったけれど、楽しい話題に声が笑うのを止められないようだった。西武がチャンスを迎えて盛り上がってきた。その歓声の中でも笑みを含んだ声は聞こえてきていた。

「さっきの続きだけどな」

 潤はさっきの、兄にしては珍しく強い感情を含んだ声を思い出して少し身構えた。けれど当の千裕は、くつろいだ様子を崩していない。

「必要なら仕送りだってやれる。俺と親父たちで何とかできる。綾音も、時々は何か買ってやれるかもしれない」

「そんなことまで、いいのに。悪いよ」

「潤、自分のことだけを考えてみろ」

 この声だけが、強い感情を取り戻した。

「意に沿わないことをして、体を壊す方が悪い。金ぐらいでお前が元気でいられるなら、安いもんだ」

 年寄りじみた言い方に聞こえたけれど、それだけに確かな温もりが宿っていた。

「父さんたちがお金を出してくれるのかな」

「自分の息子なんだ。大学もきっと、どこにでも行けるようにしてくれる」

 千裕の声には確信があった。

 返事をしてから、もう少し話そうとしたけれど、ためらわれた。試合が佳境に入っていることが、素人目にもわかったからだ。

 バッターは五回の裏、同点の場面で空振り三振に倒れた選手だった。ここまで良い成績を残していない。

「交代ってしないのかな」

 何気なく言うと、有り得ないなと少し怒ったようにさえ聞こえる返事があった。

「不動の四番が、今日ちょっと成績悪いくらいで交代なんて有り得ないな」

 折しも実況が、同じ質問をして、解説が千裕と似たような答えを返していた。監督も信用しているんでしょうと付け加えた。

「チームも、かな」

 口を衝いた言葉に、千裕が振り向いた。どういう意味だと目で問いかける。

「何となくね」

 チームメイトの姿はほとんど映されていないから、このバッターがチームでどれほどの信頼を集めているのか知りようがない。千裕のようなファンが期待している姿から推し量っただけだ。

 自分はどうだっただろう。失敗をしてピアノから逃げてしまったけれど、その前は、先生にどれほど腕を信じられていただろう。

 あの会場に集まった客たちに、どれほど信じられていただろう。

 千裕は前のめりになっていた。一瞬のプレイさえ見逃すまいという気迫さえ感じた。

 それにつられて潤も試合に見入る。千裕に付き合って野球を見るのは、もしかしたら小学生以来かもしれない。今年に入ってからは食事を一緒にすることも減って、すれ違いが続いていた。

 今日はまだ、寝る前の暗記系科目の勉強が終わっていない。もう少しで十時になる。けれど損をしたとは思わない。

 三球目をバットが捉えた。本来なら走り出すはずが、バッターはバットを放り投げてから両手を上げ、ゆっくり歩き出した。

 弾ける歓声、手を叩く千裕、バッターの笑顔。そして切り替わる画面は、ボールがレフトスタンドに入ったのを捉えた。

「だから交代なんて有り得ないんだよ」

 千裕の声は嬉しそうだった。

 サヨナラホームランを打ったバッターは、ヒーローインタビューに望んだ。顔も名前も知らない選手だったけれど、素晴らしい瞬間を見届けたような達成感がある。時間は遅くなってしまったけれど、一ページ見るくらいの時間はある。それから寝ようと思った。

「兄さん、俺は寝るけど」

 ヒーローインタビューの途中で立った潤に、千裕は機嫌の良さそうな声で返事をした。

「潤」

 リビングを出ようとした時に呼び止められた。その声が、さっきまでの浮ついたものと違っていて、潤は足を止めながら身構えた。

「金のことは心配するなよ」

「それはもうわかったよ」

「お前をまだ音楽へ戻せていない。そのことに比べたら、金ぐらい」

 兄の本音を見るような気分で、潤は振り向いていた。

 兄もまた、振り向いていた。

「兄さんも俺にピアノを弾いてほしいの」

 最近繰り返される期待に身構えた。

「お前次第だけど、俺は弾いた方がいいと思う」

「難しいことを勧めるね」

 潤は苦笑した。きっと体にはまだ、昔覚えた曲の指遣いが染みついているはずだ。それがコンクールで賞を取れるぐらいかどうかはわからないけれど、普通の人に比べたら高い演奏技術がまだ残っているだろう。

 それも、体が望んでこそだ。どんなに高い演奏技術があっても、体がピアノから逃げようとしてしまう今は、発揮する機会がない。

「でもピアノを弾いている時のお前は、いつも楽しそうに見えた。発表会にも行ったけど、そう見えた」

 中学校に上がったばかりの頃、発表会に家族で来てくれたことがある。照れくさくて、失敗できないとプレッシャーにもなったけれど、誰も来なかったらと想像して妙に安堵した記憶がある。

 そして当時は、温かくなった。演奏技術に優劣をつけるようなものではなく、話をするとしたら互いの演奏の良い面ばかりを見る、優しい演奏会だった。失敗しても誰かに叱られるわけではなかったけれど、無言で応援してくれている家族がいるというだけで、自分が弾くことを認められていると心強くもなった。

「好きなことをやっているのが伝わってきたよ。俺に音楽はわからないけど、それでも演奏からそういうのが伝わってきたんだ。音楽をやる中で色々あったのは知ってるけど、そういう気持ちは今も変わらないんじゃないのか」

 潤は頷きかけて、よくわかっていないような、曖昧な返事に切り替えた。下手に返事をしたら、またピアノを弾く羽目になってしまう。

 けれど音楽への思いが消えたわけではない。そうでなかったら見ず知らずの人たちの演奏に足を止めはしないし、担任の知り合いというだけのピッチャーが投げる姿を見て、過去の自分に重ね合わせることもない。

 失敗に悩んで、ピアノから逃げたことを悔やんでいる。けれど今は、戻っていく勇気が持てない。体も受け付けないのだ。

「俺にはよくわからないけど。あれから全然考えたことないし」

 応援してくれたこともある兄に嘘をつくのは胸が痛むけれど、ピアノから遠ざかれるなら安いものだった。

「答えを急ぐことはない」

 千裕はそう言ってテレビへ視線を戻した。ヒーローインタビューは終わって、解説者と思われる人とアナウンサーがスタジオで話をするコーナーに移っていた。

「今は受験の方が大事だからな」

 千裕の声は、関心がテレビに移っているように聞こえた。

 答えづらい話題から解放されたようで、潤は密かに安心した。

「勉強するよ」

 いつもの野球が好きな兄に戻っていると思いながら言ったものの、

「俺は待ってるからな」

 と言われて、潤は少しだけ気が重くなった。

 部屋へ戻って、最低限の勉強だけをしたけれど、それでも十一時近くになってしまった。こんなに遅くまで起きていたことはない。明日ちゃんと起きられるかどうか不安になりながら、潤は明かりを消してベッドに入った。窓のない正方形の部屋で、完全に明かりを消してしまうと真っ暗になる。ドアの隙間から廊下の光が漏れてくるけれど、壁に物陰を映すほどのものではない。

「そんなに期待しないでよ」

 千裕の言葉を思い出して、潤は決して聞こえない返事をした。期待に応えられないことを苦しみながら、三年間野球を続けた兄には、一度の失敗くらいで悩んでいる自分がとても小さく見えるのだろう。けれど兄と弟でも人間としての特徴は違う。得意なことと不得意なことはもちろん、強いところと弱いところも違うのだ。

 自分には、千裕のように一つのことに自分の身や時間を賭けつづけられるような強さがない。できなくても、仕方がない。

「兄さんとは違うよ」

 運動ができない代わりに音楽ができることをずっと昔に兄は認めてくれた。その優しさで、ピアノから逃げていることをそっとしてくれたらいいのにと思った。

 

 5

 

 土曜日の夜に見た天気予報で、翌日の降水確率は五十パーセントだった。雨具の準備がいると思いながら眠りに就いた潤は、翌朝の曇り空を見上げて唸った。雨が降るかどうか、空を見るだけではわからなくて、テレビの天気予報に頼ったけれど、画面の上に簡素な予報が出ているだけだった。少し待ってようやく東京の予報に切り替わったけれど、雨マークはなく、降水確率も三十パーセントまで下がっていた。

 空模様と合わせて考えると微妙な数字であるのに変わりはない。ベランダに出てしばらく準備をどうしようかと考えていると、リビングに人の気配を感じた。

「何やってるんだ」

 千裕がいつも以上に低い声で話しかけてくる。

「今日どうしようかなって。雨が降りそうだけど天気予報は三十パーセントって言ってるし」

「折りたたみ傘持っていけばいいだろ」

「自転車だから。傘じゃ意味がないよ」

「カッパ持っていけばいいだろ。使わなくても困らないんだし」

「そうだけど、荷物増えるの嫌だから悩んでるんだよ」

 千裕は鼻を鳴らしてキッチンへ消えた。改めて空を見上げる。降水確率三十パーセントというわりに、空の色が暗く見える。カッパを持っていかなくてもいいような気はするけれど、もしも降り出した時の帰り道は悲惨だろう。千裕は車を持っていないから、濡れて帰る羽目になる。

 けれど使わない確率の方が高い荷物を持っていくのも嫌で、朝食を食べている内に出した決断は、雨具を持っていかないというものだった。

 図書館で広げる参考書や教科書をまとめて鞄に入れた頃には九時を回っていた。図書館が開くのは十時で、今から行っても三十分以上待つことになるけれど、その間は参考書でも読んで待っていればいい。図書館の入り口に屋根はなく、雨が降り出したら列を離れないと雨から逃れられない。

 自転車で図書館に着いた時人影はなく、潤はドアの前に立った。まだ開館まで三十分以上ある。潤はとりあえず、昨夜のおさらいをしようと思って日本史の問題集を広げる。文庫本より少し大きいぐらいのサイズで、立ち尽くしたまま読むにはちょうどいい大きさだった。

 昨日の分を見直すまでに後ろには何人か並んだようだった。今日の夜進めるつもりの分を流し読みしている間に十時を回った。開館したのは、それから更に三分は遅れてからだった。 

 先頭の潤は読書室に一番乗りした。好きな席を選び放題で、入口から一番離れた窓際の席に座った。窓が近いと集中力が乱れると聞いたことがあるけれど、手軽に気分転換ができるから好きだった。

 二時間半経ってから食べに行こうと思った時でさえ席は埋まっていない。雨が降りそうだと思ってみんな敬遠したのかもしれない。

 席に参考書を広げっぱなしにして、鞄を持って読書室を出ていく。場所取りをしないようにという張り紙が目に入ったけれど、こうしないと座る席がなくなっているかもしれない。何より空席の三割ぐらいは、参考書で場所取りをしてあった。

 雨が心配になって空を見上げたけれど、少しだけ明るくなったようにさえ見えて、その心配は要らなさそうだった。潤は自転車を引きだして、道へ躍り出た。

 日曜日に図書館で勉強をする時いつも訪れるハンバーガーショップへ続く道には文化会館がある。失敗をした会場は地元の文化会館だったけれど、発表会で家族が見に来てくれたのもまた同じ文化会館だった。住み始めて三年目の街の、縁もゆかりもない文化会館だけれど、良い思い出と悪い思い出が二つ思い起こされて、それらは混ざり合って甘酸っぱいような苦いような、不思議な味へ変化する。

 その味を感じる時にはいつもお腹が空いていて、すぐ近くにはハンバーガーショップの看板も見える。いつもはこぢんまりした建物を気に留めることはないけれど、目の端に見知った顔が映った気がして潤はブレーキをかけた。

 行き過ぎた掲示板の前に戻ると、何枚かあるポスターの中に、ニコラスさんの顔があった。

 トランペットを持ったニコラスさんが、こちらを向いて笑っている。最初に会った時のような清々しい笑顔で、楽器に興味はなくてもつい惹きつけられてしまいそうな表情だった。

 笑顔の下に書かれていたのは、トランペットリサイタルの案内だった。午後一時から三時まで、ニコラスさんがステージに立つらしい。リサイタルというぐらいだから、他の出演者はいないだろう。

 ステージ名はカタカナで『インタープレイステージ』と書かれている。音楽の用語だろうかと思ったけれど、ピアノをやっている間聞いたことはない。

 ニコラスさんが屋外で吹いているのを見たことがある。ビリーが立ち去った後に自分が立ち尽くしていると、自分の方から演奏を続けたのだ。屋外だったし、周りもうるさかったけれど、彼の音は確かな存在感があった。

 それを、小さいとはいえちゃんとしたステージで聞くことができる。今日だけしかやらないようだし、貴重な機会だろう。けれど二時といえば午後の勉強を始める時間だ。音楽を聞く時に生まれてくる痛みを生じない音楽を、響きが計算されたステージで椅子に座って聞くことができる。想像するだけで楽しくなるけれど、勉強の方が今は大事だ。

 外に出たのも、昼ご飯を食べに来たからだ。そう思った時、横から誰かに覗かれているのに気がついた。

 傍に立っている。視線を感じたのは、ポスターでなくこちらに視線が注がれていたからだ。

 誰だろうと思って顔を向ける。その瞬間目は伏せられてしまったけれど、赤い『B』の文字が描かれた黒いキャップが目に入った。

「あ……」

 会話をするには少し近すぎて一歩下がった。

 潤が漏らした声で引き上げられるように、伏せられた目が上がった。

 そんな色をしていたんだ、と潤は思った。

 今まで会ったのは夕方や夜だったから、影のかかる目の色はわからなかった。

 日本人と比べて色の薄い肌や髪の色、ビリーという名前、細く滑らかで小さな指と手。

 おかしくも悲しげな音色を奏でるコルネット

 そんなふうに、それまでいくつか知っていたビリーのことが、もう一つわかった。

 一言で表すなら青い色だけれど、そう淡泊に言い表すには色味が薄い。ずっと昔見たテレビの教育番組で、空と海の青を言い表すためのうまい言葉がなく、皆が悩んでいる時に、登場人物の一人が濃さと薄さで分けることを提案したことで問題が解決した。ビリーの色は青の中でも薄くて、青空の色に近い。それも冬の澄み渡った空の色でなく、夏の白みがかった青空の色だった。

 英語で挨拶するには何て言えば良かっただろう。ほんの一言、学校で学ぶ前にもよく聞く言葉であったような気がする。その一言が出てこないでいると、ビリーの方から口を開いた。

 それは不自然なイントネーションだったけれど、確かにジュンという発音だった。

 あえて不慣れな言葉で、自分の名を呼んでくれたのだ。

「ビリー……」

 潤はとりあえず、彼女の名を呼んでみたけれど、それ以上の言葉が出てこない。単に通りがかって顔見知りに挨拶をするというだけなら、少し残念な気持ちを抱きながらこの場を気軽に立ち去ることができていた。けれどビリーは、明らかに何かを伝えようとしている。不慣れな日本語で名前を呼んで、自分にわかるように何かを言おうとしている。それを放って立ち去るなんて、できるわけがない。

 けれど名前の後に言葉が出せないビリーから、次の言葉を引き出す方法がわからない。自分も英語で語りかけたいところだけれど、どうしたの、と訊くことさえできない。習っているか、そうでなければ受験勉強で勉強しているはずだ。それなのに、いざという時に出てこない。今まで何を勉強してきたのだろうと自虐的な気分にもなった。

 困って周りに助けを求めたいけれど、いつも一緒にいたニコラスさんの姿はない。それでもどこかに、助けを求められる人はいないかと周りを見ていると、再びビリーが名を呼んだ。

 返事をした時、ビリーはポスターに手のひらをついていた。

 ニコラスさんがトランペットを持って笑いかけているポスターを軽く叩いている。自分とポスターを見比べるように視線を動かしていて、潤は何を伝えたいのかわかった気がした。

「ビリー」

 ガラスの扉が開かれて、薄暗い光で満ちている文化会館のロビーを指差すと、ビリーは笑った。

 一瞬驚きの表情を見せて、それから普通より時間をかけて、慎重に、控え目に表情を変えていった。

 ビリーはニコラスさんのトランペットリサイタルに自分を誘ってくれていたのだ。彼女が日本語を知っていたら、トランペットを聞きませんかとポスターの前で言うだけで理解できていた。夏祭りのステージに上ってトランペットを吹いたことのあるニコラスさんなら、文化会館で演奏するのも不思議ではなかった。

 言葉にしたのはお互いの名前だけで、後は身振り手振りだったけれど、伝わった。伝え合うことができた。もし日本語にできていたら、トランペットを聞きませんか、いいですよ、そんなとても短い遣り取りで済んでいた。時間にして十秒もあったらできていただろう。それが、優に三分はかかっていた。

 間の抜けたことをしたと思う。けれど大仕事をした気分にもなっていた。おかしいけれど達成感もあって、ビリーの笑顔に引き込まれるように潤も笑った。

 もう一度潤はロビーの方を指差す。ビリーは笑顔で頷いてくれた。

 読書室に開きっぱなしの参考書が脳裏をかすめたけれど、喜んでくれているらしいビリーの前にはどうでもよくなった。そんなことぐらいで勉強を投げていいのかと、頭の冷静な部分が言ってくるけれど、無視するのは難しくない。

 ビリーが笑ってくれるから、それでいい。

 ロビーへ歩みを進めた時、もう一度ビリーに呼ばれた。

「アリ、ガト」

 途中で途切れてしまったけれど、確かにお礼の言葉だった。

「ユア、ウェルカム」

 発音に自信はないないけれど、どういたしましてに当たる言葉なのは間違いない。言葉に拠らないコミュニケーションだけでなく、会話まで成立したのはすごいことだと思えた。

 ついてきてくれるのかと期待したけれど、ビリーはこちらに歩み寄ってこない。そしてどこかへ行ってしまった。

 一緒にニコラスさんの演奏を聞こうということではなかったらしい。何だか損をした気分だけれど、今更帰るわけにもいかない。

潤は受付でプログラムをもらった。お金の心配が頭をよぎったけれど、受付の女の人はどうぞとだけ言って客席を指し示した。思えば自分の発表会も無料だった。ニコラスさんも音楽のプロというわけではないのだし、文化会館の小さなステージでお金を取るということの方がナンセンスかもしれない。

会場を見渡すと三百席ぐらいはありそうだった。その三分の二ぐらいは既に埋まっている。ロビーと同じぐらいの薄い光で客席は満ち、スポットライトがついていないステージにわずかな光を届けている。ステージの上には伴奏用らしきピアノが下手寄りに置かれていた。

ステージから見てほぼ真正面の、真ん中の列に潤は座った。唯一両端に客がいない列で、申し訳ない思いをしながら前を通らなくて済んだ。

席に着いてからプログラムを読み直す。一番目がリムスキー・コルサコフの『熊蜂の飛行』で、次がクライスラーの『愛の喜び』となっている。ピアノをやっていた頃に聞いたことがあるもの、実際に演奏したものも多く含まれている。頭痛が襲ってこないかと心配になったけれど、不思議とニコラスさんの演奏は素直に受け止められる。世の中にあふれる音楽とニコラスさんの音楽の何が違うのかわからないけれど、今の自分が素直に聞ける音楽を聞かせてくれるというだけで嬉しくなった。

その気持ちが、千裕の言葉を思い起こさせる。ピアノから遠ざかってもまだ音楽は好きなんだろうと見透かした一言だ。

そういう気持ちがあることを自覚はしていたけれど、何となくごまかしたままだ。そして否定的な気持ちを被せようともした。周りがピアノへ戻そうとしてしまう。そうならないためには、音楽が好きではないと知らせるのが一番いい。

けれどそういう人間が、客席に来るだろうか。

女の子に誘われたからと言って、嫌な記憶を呼び起こすものへ触れに行って、開演を今か今かと待っている。ピアノからは逃げたくても、音楽を好いている気持ちだけはまだ残っている。自分自身の複雑な気持ちが、潤には掴みきれなくなる。

 そのうちに客席の明かりが落とされ、スポットライトが白い光をステージに注ぐ。ピアノが光を受けてつやを見せる。演奏中の注意事項と演奏者の紹介がマイクを通して読み上げられた後、上手の方から女性が現れる。拍手が鳴り、ピアノの前で足を止めたところで一旦止む。その直後ニコラスさんが現れて再び拍手が鳴った。

 演奏が始まる。ステージが始まる。ただステージを見ているだけで、お金も払っていないのに緊張してくる。思えば客席から音楽を聞いたのは本当に久しぶりだ。

 ニコラスさんはステージ中央に大股で歩いてきた。落ち着いた足取りで、決して小さくない拍手の中で実に堂々としている。

それから柔らかい動きで客席へ向き直って一礼した。アメリカ人のニコラスさんが頭を下げるのには少し違和感を覚えたけれど、客席のほとんどを占める日本人に合わせたのかもしれない。潤が知る限り、ニコラスさんはアメリカ人の割に謙虚で日本人好きのする人柄だった。

 ニコラスさんと伴奏者は互いに目配せしてから、お互いの楽器と向き合う。最初は『熊蜂の飛行』だった。突然ニコラスさんのトランペットからスタートし、それをピアノが低音で支えるように追いかける。潤は難度が高いと思ってずっと弾くのを避けてきた曲だ。それをニコラスさんはトランペットで表現している。少し遠くて手元の動きまでは見えないけれど、速さに惑わされることなく正確に音を出している。いつかのように潤は、ニコラスさんのトランペットによって遠くへ意識を連れ出され、演奏が終わって拍手が鳴ると同時に客席へ戻ってきた。ニコラスさんがトランペットで奏でた『熊蜂の飛行』は、時間にして一分程度の短い演奏だった。けれどその短さが却って印象を鮮烈にし、オープニングを飾るのに相応しい音楽となった。

 二曲目の『愛の喜び』、三曲目の『美しきロスマリン』とクライスラーの音楽が続いた。どちらもバイオリンで聞いたことのある音楽で、当時は気品と近寄りがたさを同時に感じたものだったけれど、ニコラスさんがトランペットで演奏すると色艶を感じた。

 それはクラシックにありがちな敷居の高さを取り去って、親しみやすさを演出して聞こえる。日本語に堪能で穏和なニコラスさんの人物像を知っているお陰かもしれない。そうだとしても、過去の失敗を思い出さなくて済む演奏が心地よいのは確かだ。

 一曲終わるごとに拍手と演奏が繰り返される。曲間に曲の説明はない。人によっては淡白に感じるかもしれないけれど、潤は純粋な感じがしていいと思った。どんな楽器でも、音楽に関係のない人の声は余計だ。

 ニコラスさんは途中で十五分の休憩を挟んで二十曲、一時間半の演奏を続けた。最後まで曲の紹介はなく、トランペットとピアノのアンサンブルと拍手が繰り返されるだけだった。派手なものはない代わりに、聞いているだけで色々なところへ意識を飛ばしてくれる素晴らしい演奏に触れられる。時間が大きく失われたけれど、勉強を放り出して来るだけの価値はあったと思えた。

 プログラムにあった曲が全て消化されると、ニコラスさんにステージの下からマイクが渡された。彼は得意の日本語で自己紹介をした後、ピアノを弾いていた女性を紹介して拍手を受けていた。伴奏者は控え目に頭を下げてから退場した。

「本日はインタープレイステージにお越しいただきありがとうございます。今回の演奏で、皆様の心に何かを残したり、影響を与えたりできたのなら、プレイヤー冥利に尽きるというものです」

 ニコラスさんは穏和な語り口で言った。

「予定されていた演奏は終了いたしましたが、もしお時間が許すのなら、もう少しだけお付き合いを願います」

 アンコールにしては少し形式が変わっているような気がした。潤が知っているアンコールは、演奏者が一度退場して、ステージが終わったと思われたところで奏者が再登場して行われるものだ。

 ピアノのソロ演奏しか知らないから、こういうやり方もあるのだろう。そう思いながらステージを見ていた潤は、ステージに現れたもう一人の奏者に言葉を失った。

「最後に私の血縁者であるビリー・ハンセンとのアンサンブルをお届けいたします。私はトランペットを、ビリーはコルネットをそれぞれ奏でてきましたが、一緒に演奏する機会をなかなか作れずに歳を重ねてしまいました。今回偶々その機会に恵まれましたので、皆様にも演奏をお届けいたしましょう」

 ステージ上でビリーは、少し戸惑うような素振りを見せていたけれど、ニコラスさんに倣って頭を下げた。

 いつも被っていたキャップがないこと以外、さっき入口の前で会った時の服装と変わりがない。少しカジュアルすぎて、ステージに出るには相応しくないような気もする。正装のニコラスさんと並んで立つと違和感は強い。

 潤は最前列の客席に移動した。誰も座っておらず、滑り込むのは楽だった。

 入口で演奏を聞いてほしいと身振り手振りで伝えてきたビリー。あれはニコラスさんの演奏を聞いてほしいという思いだけでなく、自分自身も見てほしいという願いもあったのではないか。あるいは飛び入りかもしれない。そうでなかったら、もっと整った格好をして、長い髪を少しぐらい飾るだろう。きっとあの時点では、まだステージに出るつもりがなかったのだ。

 どうしてステージに立つ気になったのか。その思いは始まった演奏の前にかき消される。曲は初めて会った時に聞かされた『星条旗』だった。

 音質の悪いスピーカーの音はない。そのお陰で、二人の演奏が前に出る。

 ニコラスさんの音は大きく、ビリーの音は控え目だった。その音量の違いか、自然と二人の役割は分かれていく。ニコラスさんが主旋律、ビリーが伴奏だ。

 けれど途中で役割が変わる場面もあった。すると曲の雰囲気が変わる。楽器が元々持っている音色のせいだろうか。それとも弾き手の技術や個性が反映されたのか。ニコラスさんの明るい旋律は、ビリーに引き継がれると少し悲しさを映したものに変わった。

 フェンス越しに聞いた時は控え目ながらもミスのない演奏だったけれど、今日は少し様子が違った。音を大きく出そうとして、その分指遣いへの意識が疎かになって見える。注意しないと気づかないような一瞬のミスが何度かあった。

 ミスをしてもビリーは表情を動かさなかった。思ったよりも舞台に慣れているのか、失敗を気にせず前へ進めている。

 潤は間違いに気づくたび、がんばれと念じていた。声をかけることもできないけれど、目を合わせて気持ちを伝えることはできると思っている。さっきも、言葉をほとんど使わずに気持ちを通わせたばかりだ。

 フェンス越しに聞いた時とは響きの違う演奏だった。あの時は音が四方八方へ拡散してしまっていた上、雑音がとても多かった。ともすれば車に音楽を踏みにじられそうな状況だったけれど、今は純粋に音楽を楽しめる。それだけに二人の演奏技術がはっきりわかる。

 ニコラスさんはあの時と変わらない上手さを見せ、ビリーはニコラスさんには及ばないまでも、悪くない演奏をしている。勉強を放り出して来ただけの価値はあった。

星条旗』が終わって拍手を受け、二人は無言で次の曲を演奏する。『君が代』だった。

 時計は三時十分前を指している。きっと最後の演奏だろう。『星条旗』に比べて厳粛な響きの旋律に、潤は息を潜めながら聞き入る。三分にも満たない短い演奏の間、それまでのどの演奏の時よりも客席は静かだった。

 ニコラスさんがフェルマータを意識したような音を最後に出して演奏が終わる。客席からは待ちかねたように大きな拍手が鳴り響く。

 ビリーはその音の圧力に一瞬たじろいだように体を揺らし、その背中をニコラスさんがさり気なく片手で支えた。彼を振り仰いだビリーは、ニコラスさんと一緒に頭を下げる。一層大きな拍手が起きた。

 ニコラスさんに舞台の下からマイクが渡される。それを見て潤は手を叩くのをやめ、周りからも徐々に拍手の音が引いていく。

 ニコラスさんはステージを見渡し、最後の音が消えてから語り出した。

「予定にない演奏にもかかわらず、最後までお付き合いいただきありがとうございます。今回演奏いたしました曲は、ご存知アメリカと日本にとってとても大事な曲であり、国を代表する音楽であります。古くからこの街に住んでいる方にとり、米軍基地から夕方五時になると聞こえてくるこの音楽は馴染み深いものでしょう」

 誰も声は出さなかったけれど、心の中で同意の声を上げたのが潤には感じ取れた。周りを見ると年配の人が多い。ニコラスさんが言うように、この米軍基地のある街で暮らして長い人たちなのだろう。

 潤もまた、彼らに倣うように頷いた。住み始めてまだ三年目に過ぎないけれど、この二つの曲に思い入れがあるのは同じだ。

「歴史上日本とアメリカの間には様々な確執があり、それは現在も続いております。基地の問題もそうですが、せめて文化の面では日本もアメリカもない柔軟な交流ができればと思っております。今回演奏を聞きにきてくれた方々には、プレイヤーとして深い感謝を述べさせていただきます。そして夏祭りでも、是非米軍基地所属の人間によるステージを見ていただき、文化を愛する心の前に国境はないということをわかっていただきたい。今回の演奏が、そしてこれからの演奏が、わたしにとり、皆様にとり、インタープレイとなることを願います。本日は最後までお付き合いいただき、ありがとうございました」

 拍手をしようと思ったところで、ニコラスさんがビリーにマイクを渡した。コルネットを持ったまま突っ立っていたビリーは、びっくりした顔で振り仰いだ。それでもニコラスさんに勧められると、はにかみながら口を開いた。

「アリ、ガト、ゴザイマシタ」

 さっきと同じく、変なイントネーションで、途切れ途切れの声を出した。けれどそれだけで充分に伝わってくる。演奏を最後まで聞いてくれたことへの感謝の気持ちが。

 潤は手を叩いた。それが最初で、周囲へ拍手の音が波紋のように広がっていく。

 ビリーはその音を受けて、今度はたじろがなかった。両手でコルネットを持って一礼した。一層拍手は大きくなったけれど、それでも動じなかった。

 二人がステージから去り、客も席を後にしていく。潤はほぼ最後に出ていった。

 潤はロビーに二人の姿を探した。演奏者がロビーにいて、最後の一人を見送るまで立っているものだと思ったけれど、二人の姿はない。少し時間を置けば現れるだろう。けれど三時を回ってしまった。それだけで二時間遅れてしまっている。潤は少し迷って、二人を待たずに図書館へ戻った。

 夕方五時の閉館まで読書室にいた潤は、外に出た時遠くで『星条旗』と『君が代』が鳴るのを聞いた。元々音質の悪い音楽が、遠ざかることで一層旋律を不鮮明にしている。辛うじて聞き取ることができたけれど、注意しなければ風の音と間違えそうだった。

 元の道具に差があるとはいえ、あの音楽に比べたら、と思ってしまう。正確で、毎日夕方五時ジャストに鳴る音楽は決して間違いがない。音符や休符の長さを微妙に間違うようなミスも起こり得ない。

 二人の演奏にはミスがあった。音符の長さを間違うような、注意深くないと気づかない微妙な失敗だったけれど、ミスはミスであって、機械の演奏に比べたらその点だけが劣っている。

 それでも心を震わされるのは、同じ人間、それも決して知らない仲ではない二人が奏でているということ、単に時間を伝えるためだけでない音楽だったこと、何より自分の中で音楽が好きという気持ちを呼び起こさせてくれた、確かな働きをしたからだ。もう一度、二人の演奏を聞いてみたいという気持ちにもなれた。

 遠くの時報を聞きながら潤は走り出した。いつもなら真っ直ぐ行くけれど、今日は道を逸れた。さっきの文化会館へ立ち寄ろうと思った。

 演奏直後は人が賑やかに行き交っていたロビーも明かりが落とされていた。演奏直後の熱に浮かされたような賑々しさも周りになくて、車が行き交う音を聞くだけだ。

 勉強があったとはいえ、挨拶をせずに立ち去ったのが気まずくなって来てみたけれど、あれから二時間も経っているのだ。捕まえられないのも仕方がない。

 けれど次に会えるのはいつになるだろう。鈴木先生に頼めば引き合わせてくれるだろうか。

 いずれにせよ今日はもう会えないと思って、諦めて引き上げようとした時、文化会館の裏手から名を呼ばれた。

 最初の声は日本語に不慣れなのがすぐにわかる変なイントネーションで、次はとても流暢な言葉遣いで。

 振り返ると楽器ケースをそれぞれ担いだ二人がいた。

「ジュン、わざわざ来てくれたのか」

 ニコラスさんは嬉しそうだった。

 突然の登場に言葉を失った潤は、辛うじて頷いた。

「挨拶がまだでしたから」

「挨拶をするのはこちらだよ。その予定もなかったはずなのに聞きに来てくれて嬉しかったよ」

 ニコラスさんはそう言って手を差し出してきた。大きな手を握り返すと、横から控え目に別の手が差し出される。

 潤はその手も握った。最初に握手を交わした時を思い出した。細長い指と、慎重に扱わないと壊れそうなほど華奢な手。そして握るとひやりとする感触。違うのは、ビリーが口を開いたことだ。

「ドウモ、アリ、ガト」

 お互いの手に目を落としていた潤は、途切れがちの声に視線を上げた。少し下向きで、四時間前に色を知ったばかりの空色の目は鍔に隠されていたけれど、口元には確かに笑みが上っていた。

「少し時間はあるかな。今日のお礼に何かおごってあげよう」

「僕に、ですか。別に何もしてませんけど」

「ビリーがステージに上る気にさせてくれた。たいしたことだよ」

 潤は思わずビリーを見た。相変わらず表情は見えにくい。

 ステージに上る気になった出来事とは、四時間前にこの場所であった遣り取りのことだろうか。もしかしたらと思っていたけれど、本当に自分がビリーの背中を押していたとは思わなかった。

「おごってもらうほどのこととも思えませんけど」

 本心だった。あの場にいたのも、ビリーと会うことができたのも全てが偶然だった。あの時はニコラスさんの演奏を聞くことしか考えていなかった。

「ジュン」

 ビリーが名を呼んだ。余計な言葉がないせいか、最初の時に比べて発音は上手くなっていた。

 その聞き取りやすい声の向こうに誘う気持ちがある。遠慮がちではあったけれど、不自由な言葉を使って何とか客席へ向かわせようとしていたひたむきさが表れていた。

 潤はビリーの言葉に応えるようにニコラスさんの誘いに乗った。今日は昼ご飯も食べていないと、その時思い出した。

 次の日、自習室へ向かおうとしていた潤を鈴木先生が呼び止めた。

 面談の予定も入っていないし、何の用だろうと思って足を止めると、ニコラスさんが訪ねてきていると言われた。

「僕に、ですか」

「そうみたいだね」

 鈴木先生と一緒に玄関へ向かうと、確かにニコラスさんが立っていた。よそ行きと思われるスーツで身なりを整えている。

「やあ、ケイスケ、ジュン。急に呼び出して済まない」

「いいえ、それより青山君に用事とか」

「ちょっと話したいことがあってね。少し彼を借りたい。勉強があるなら少し待ってもいい」

 潤は鈴木先生と顔を見合わせた。ニコラスさんの意図がわからないけれど、信頼できる人だし、気も遣ってくれている。潤は自習室で勉強してからと言い、ニコラスさんは六時頃また来ると言って立ち去った。

「何だろうね」

 ニコラスさんの背中を見送りながら鈴木先生は呟いた。

「よくわからないですけど」

 ステージのことなら昨日で終わったはずだ。あれ以上おごられるというのも恩着せがましい気がして嫌だけれど、ニコラスさんに下心は似合わない。

「ともかく言った通り勉強してきたらいい」

 鈴木先生に促されて、潤は自習室へ向かった。吹奏楽部の音楽が聞こえてきたけれど、不思議と嫌な感じはない。音が遠いというだけでなく、元から苦しさの原因がないかのように清々しい。

 ニコラスさんとビリーの音楽のお陰だろうかと一瞬思う。上手いとはいえ、たかだかアマチュア二人の音楽にそこまでの力があるのだろうかと疑う気持ちもある。けれど機会があればもう一度聞いてみたいと思うのは確かだった。

 自習室での勉強を終えて職員室に鈴木先生を訪ねる。机で書き物をしていた彼は立ち上がり、一緒に玄関へ向かった。ニコラスさんはまだ来ていない。何の用だろうねと呟く鈴木先生に、わかりませんけど、と潤も戸惑いながら返事をした。

 けれど、訊きたいことはあった。だからニコラスさんが来たのは渡りに船でもあった。

 二人で待ってから五分もしないうちにニコラスさんはやってきた。形ばかりの挨拶をして、潤は自転車を引きだしてからニコラスさんと校門を出ていった。

 ニコラスさんも自転車を持ってきていた。通学に使うのを許されている安っぽいものではなく、チューニングが施されていそうなマウンテンバイクだった。ニコラスさんほどの巨体が乗るには少し頼りない気もしたけれど、走る姿は実にスムーズだった。

「急に来て済まないね」

 門を出た途端にニコラスさんが言った。

「こっちこそ、待たせてしまって済みません。でもどうして」

「そうだな。走りながら話すか、それともどこかで座って話そうか」

「できれば座った方がいいです。僕も訊きたいことがありますから」

 ニコラスさんは意外そうな声を上げた。

「それならいい場所がある」

 ニコラスさんの笑みを見て、どこへ行くつもりか察しはついた。

 ニコラスさんの自転車が前を走り、潤がそれを追う。自転車の性能差もあるのかもしれないけれど、油断すると引き離されてしまう。あるいは脚力の差かもしれない。ただ背丈が大きいだけの人ではないのだろう。

 見失わないようについていくうちにたどり着いたのは市営球場だった。まだ選手の姿はないけれど光が満ちている。スコアボードにもチーム名が入っていた。

「今日対戦するチームは強豪同士でね。見ていると面白いと思うよ」

 ニコラスさんのにこやかな態度は、同好の士に対するそれだろう。彼の中では自分が野球好きになっているらしい。勘違いは解いておきたいけれど、言い出すタイミングが掴めずに、潤は曖昧な返事をしただけだ。

「今日は楽しみな試合になりそうだ。どうしても見ておきたくてね」

「それならどうして、今日僕を訪ねてきたんですか」

 それほど見たい試合なら、話などしないで観戦に集中した方が楽しめるはずだ。

「少しでも早く君と話がしたかったからね」

「それは、昨日のことですか。お礼ならもう受け取りましたけど」

「二人で話をする機会はなかなかないと思ってね。君は受験生だろう。夏以降は大変だろうし、話をするとしたら今しかないだろう」

 日本とは学校が始まる時期も違うのに、ニコラスさんは日本の学校の事情に詳しいようだった。人柄の良さもあるけれど、こうやって深く理解してくれているところを見ると、自然に引き寄せられる。

鈴木先生から聞いてるんですか。そういうことは」

「ケイスケは日本人で、それも学校の先生だからね。関わりそうな事情は知っておきたい。それにここは日本だ。日本には郷に入っては郷に従えという言葉あるが、私はあの言葉が好きでね。その国の事情や文化は大事にしたいし、私自身もそれに浸かってみたいんだ」

 昨日の、ともすれば定型的にも思える言葉が思い出された。文化を愛する心の前に国境はないと訴えかけたニコラスさんは、普段から日本文化を大事にしている。そうでなければ、日本人めいたお辞儀などできなかっただろう。

 会話をしているうちに両チームの選手がそれぞれのダグアウト前に出てきた。キャッチボールをしたりストレッチをしたりして、思い思いのウォーミングアップをしている。

「どっちを応援するんですか」

 草野球は全く知らないから、ニコラスさんに倣って応援しようと思っていたけれど、

「ひいきのチームはないから、試合を観戦するだけだよ。応援はしない」

 何だか難しい見方だと思った。

 二十分ほど経ってから両チームはホームベースを挟んで並び、一礼した。まるで高校野球みたいに見えたけれど、並んでいるのは全ていい大人だ。背の低い選手はいるけれど童顔は一つもない。

 後攻チームが守備位置につき、先攻チームのバッターが左打席に入るとプレイボールが宣告される。いつの間にか客席には応援する人がいて、試合に見入っている。プロの試合と違うのは、応援席から歓声や鳴り物が聞こえてこないことだ。周りが住宅街だからだろう。以前見た試合でも、聞こえる音はほとんどグラウンドの中からだった。

「昨日はビリーが世話になったね。改めて礼を言わせてほしい」

「何かをしたつもりはないんですけど」

「それでも、君が来てくれたからステージへ上る気になったと言っていたよ。私が言っても踏ん切りがつかなかったのに、君が最後の一押しをしてくれたんだ」

 今ひとつ実感がわかないまま、潤は曖昧に返事をした。勉強の時間を削ったことはともかく、自分がしたのはビリーの誘いに乗ったことだけだ。あの時ビリーが何を抱えていたのか、知る由もなかった。

「ああいうステージはいつもやってるんですか」

 ニコラスさんの舞台運びは、演奏技術から立ち振る舞いまで堂に入っていた。初めてではなかっただろう。

「あの文化会館では一年に二回、五年前からやっているんだ。君も見たことはないか」

「僕がこの街に来たのは三年前ですし、あまり音楽には触れないようにしてましたから」

「意味深だな。何か理由があるのか訊いてもいいか」

 潤は少し考える素振りを見せてから、口を開いた。

「高校に入る前のことですけど」

 前置きをしたのは、逃げ道を確保するためだ。喋っている間に本当に語ってもいいのかと自問する。

 短い間に潤は結論を出して、先へ進むことにした。

「ピアノの発表会で失敗をして、それが元でクラスの合唱会にも伴奏ができなくなったんです。それで音楽には嫌な思い出ばかりが残って、ピアノに近づきたくもなくなって」

「そうか。でも私たちの音楽は聞いてくれたな」

「あれは僕にも不思議なんです。音楽を聴くと嫌な気分になって逃げたくなるのに、二人の音楽にはそういうものがないんです。どうしてかわかりませんけど」

「他人を癒すつもりで吹いたことはなかったが、そういう効果があるならいいな」

 ピアノを弾いてみたらいいという流れになる気がしたけれど、もしそうなるなら、それでもいいような気がする。

 記憶がなくなったわけではないけれど、無意識にビリーに対してしていたように、背中を押す人が欲しいような気もした。

「少し前にもビリーの演奏を聞いてくれたらしいね。もしかしたら、その時のことがあって君には信頼を寄せているのかもしれないね」

 思い出すのに一瞬の間が必要だったけれど、記憶を結びつけることができた。

「あれも僕は、ただ音に惹きつけられただけです」

「君にとってはそうでも、ビリーにとってはそれ以上の意味があった。それでいい」

「演奏も良いものでした」

「そう言ってやればビリーも喜ぶ」

 言葉で伝えられる日が来るだろうかと思う。仮にそれだけの語学力が身に付いたとしても、いつまで同じ街にいるかわからない。ビリーのために、昨日やっとまともに笑い合うことができただけの女の子のために、この街に残れるような選択をするというのも、何だか馬鹿馬鹿しいと思う。

 会話が途切れ、話題を探していると、ひときわ大きな音が響いた。その音を追いかけてグラウンドへ目を向けると、ボールはレフトフェンスを越えていった。先攻チームの先制ホームランだった。

「今日は充分に時間がある。九回までできるかな」

 スコアボードの、先攻チームのスコアに一点が加わる。まだ二回の表で、ニコラスさんの読み通りならまだ試合は始まったばかりだ。

「訊きたいことがあるんじゃなかったか」

 ニコラスさんはグラウンドを眺めながら訊いた。

「それは、もうわかった気がします。どうしてビリーが僕を誘ったのか知りたかったんですけど」

「それならいずれ君が訊けばいい。姪から聞き出すことはできるけど、会話のチャンスを摘み取るのももったいない」

 何気なく出てきた言葉が気になった。

「あの、姪って」

「ビリーのことだが」

「そうだったんですか。その、娘さんだとばかり」

 二人の正確な歳は知らないけれど、見た目は親子程度の年齢差だったから、一番自然な可能性を根拠なく信じていた。

「ああ、何も知らないとそう見えるらしいね」

 それからニコラスさんは熟考するように黙って、言葉を継いだ。

「話に付き合う気はないかな」

「それって、何のですか」

「ビリーのことだよ。きっとビリーの口からは伝えられないだろうから」

 言葉の問題もあるだろうが、たとえ日本語を自在に遣えても話してくれないような気がする。最初にフェンスの向こうにその姿を見た時から、自分のことを簡単には話してくれなさそうな、高く厚い壁を持っているような印象だった。

「どんなことを教えてくれるんですか」

「ビリーに関する、色々なことだよ。興味があるなら知っておいてほしい。ビリーが演奏を聞いてほしいと望んで引っ張り込んだ子だからね」

 あの悲しげな顔と、野球チームのキャップをかぶっている理由を知ることができる。興味はあるけれど怖い気もする。

 何ごともなく生きている人は悲しそうな顔をしない。まして言葉の通じない人の心を垣間見るのは簡単ではない。そこに悲しみがあるとして、どんな慰めの言葉をかけてやったらいいかもわからない。

「嫌ならいい。野球を見ていよう。いい試合になりそうだ」

 試合はホームランの一点だけで攻撃が終わっていた。その裏、さっそくランナーが出て、盗塁で二塁まで進む。更に送りバントでワンアウト三塁となる。

 後攻チームはセンターへの犠牲フライで一点を取ったけれど、次のバッターがアウトになって同点止まりで終わる。すぐに同点になったあたりは、さすがに強豪同士の試合だった。

 試合を眺める彼の横顔を見遣る。繰り返されるボールの遣り取りを穏やかな顔で見つめていた。時々周りの拍手に合わせて手を叩く。スタンディングオベーションという言葉が浮かんだけれど、ニコラスさんはそれをしようとしない。これも彼の、郷に入っては郷に従えという信念かもしれない。

「ビリーは野球好きなんですか」

 そう訊いたのは、三回の裏の攻撃が終わってからだ。三者凡退で、スコアボードにはゼロが表示された。

「それも、私がしようとした話も、全て関係のあることだ。その質問だけに答えることはできない」

 些細なことを知るのにも、あの悲しげな表情の裏へ踏み込む勇気や覚悟が要るらしい。

 お願いします、と言うことができたのは、あの言葉の通じない女の子のことが知りたいからだ。

 ニコラスさんは頷いてから、立ち上がった。

「何か飲むかな」

 少し離れているけれど、確か自動販売機があった。

 潤は素直にコーヒーを頼んだ。球場を離れて五分もしないうちにニコラスさんは戻ってきた。

「さて、ビリーが野球が好きかどうかという質問だけど、その通りだよ。驚くほどのことではないと思うけどね」

「それは、見ていたらわかります。いつもキャップかぶってますし」

「ビリーはレッドソックスのファンでね。出身はミネソタだが、ツインズのファンにはならなかったな」

 レッドソックスもツインズもメジャーリーグのチームなのだろうが、どこに本拠地があるのかもわからず、曖昧な相づちを打つしかなかった。

「じゃああれは、そのレッドソックスのキャップなんですか」

「私と一緒にフェンウェイパークへ行った時に買ったものだ。他にも女の子向けのグッズはあったんだが、あれがいいと言ってね。もう懐かしいな」

 ニコラスさんは目を細めてグラウンドの向こうへ目をやった。昼頃に比べて日射しは弱まり、太陽もスコアボードの方へ傾いている。

「その時はまだアメリカにいたんですね。どうして日本に」

 それがこの話の核心のような気がした。

「私は単に仕事のためだよ。あの基地の中に勤めることになってね。今年で五年目だ」

「じゃあビリーは」

「来たのは今年だ。本当なら今もミネソタで暮らしていたはずなんだ」

「それがどうして」

「父親、私の弟が撃ち殺された」

 その言葉の瞬間、周囲がどよめいた。グラウンドではいつの間にか試合が進み、先攻チームが二点を追加していた。ランナーがゆっくり回っているから、さっきのどよめきは勝ち越しホームランだったのだろう。ホームインした瞬間、客席から控え目な拍手が起きた。

「大丈夫か、こういう話は聞きたくないか」

 ニコラスさんの慮るような言い方に、潤は首を振った。楽しい話題ではないのは確かだろうけれど、乗り越えないとビリーに近づいていけない。

「そうか。まあ、何しろ弟のことだから、私も話したいわけじゃないが」

「あの、何て言ったらいいか」

「ああ、気を遣わないでいいよ。四ヶ月ほど経っているから、葬儀などは済んでいる。もっとも、周りの人間にとって終わったと思える日は永遠に来ないだろうがね」

ニコラスさんの弟、そしてビリーの父親は撃ち殺された。つまりある日突然、理不尽に命を奪われたのだ。覚悟ができていたはずはない。だからこそ、済んだ出来事になど、永遠にできないだろう。

「弟は警察官でね。子供の頃は私とよく喧嘩をしていたから少々血の気の多い性格になってしまって、やり方を問題視されたこともあったけれど、真剣に街の平和を守ろうとする良き警察官だったよ。少々常識的でないところもあったのはご愛敬だったが」

 いちいち過去形で語られるのが、何とも言えない気持ちを生み出していく。話に同調して笑っても、潤にはその人のことを具体的に思い浮かべられない。あまり正確に想像すると、来るべき時が来た時に気分が悪くなりそうだった。

「とはいえ娘には優しい父親だったよ。妻のウィルマを早くに亡くして、それからの約十年、一人でビリーを育ててきた。野球が好きなのも父親の影響だったが、彼はツインズファンで、ビリーはレッドソックスファンになった。だいたい親が応援するチームのファンになっていくものだがね」

「どうしてそう分かれたんですか」

ミネソタは私たちの一族にとって第二の故郷でね。そこのスポーツチームを応援するというのは半ば常識的なことだったのだが、ハーバート・クラークの教則本を手にした時にビリーの運命が決まってしまったね」

 ニコラスさんはおかしそうに笑った。

「誰なんですか、その人」

「ハーバート・クラークか。有名なコルネット奏者でね、亡くなったのはかなり昔だ。そのハーバート・クラークはマサチューセッツの出身で、レッドソックスの本拠地もマサチューセッツにある。その関係だろうね。その教則本を使って練習を重ねるうちに興味を持って、やがて彼の出身地も好きになっていったようだ」

「音楽が好きなんですね」

「そうと知っていなければわからないことが、ビリーにはいくつもあるよ」

 地元でも父親が応援する球団でもないレッドソックスのファンであること、一人でコルネットを吹いていたこと。この数ヶ月で知っただけでもそれぐらいわかる。

 話が逸れたな、とニコラスさんは言った。

「今年の三月のことだったな。弟が職務中に撃たれた。首に銃弾が当たったらしい。私はその時日本にいたが、急遽戻らせてもらった。だが間に合わなかったよ。私を待っていたのは医者の報告と、弟の遺体と、ビリーの泣き顔だった」

 言葉が浮かばずに潤は沈黙する。バットとボールが衝突する音と、スパイクが地面を噛む音、審判の宣告が聞こえる。

「ビリーはとても一人にしておける状態じゃなかった。元々あの子は心が脆くてね、成長していけばそれもなくなっていくと楽観していたんだが、その途中にあんなショッキングなことが起きてしまった。成長に期待している場合ではなくなったんだ」

「だから傍にいてあげようと思ったんですか」

「私がミネソタに帰ってくれば一番だったんだろうが、どうしてもここを離れられなかった。ビリーには私以外頼れる親類はいない。だから連れ帰ったよ。一ヶ月間、何とかビリーを説得して、引っ越しの準備をして、それから私と一緒に来た」

 ビリーの見せる表情の奥にあるものが少し見えたような気がする。あれは肉親を理不尽に亡くした悲しみだったのだ。そしてコルネットを吹いている時にそれがわずかに癒えて、演奏が終わると元に戻る。そんなことを何度も繰り返したのだろう。

「もちろん初めは難色を示したよ。ミネソタは北欧系移民の子孫も多いし、ずっと良い環境で暮らしてきた。それがまるで違う国に来るのだから、戸惑いも当然だろうがね」

「でも閉じこもってばかりじゃないみたいですけど」

「初めはなかなか外へ出られなかったが、徐々にね。初めて君と会った時のあの演奏も、言わば外へ出るための練習だった。楽器を吹くのは好きだったからね」

 音楽を足がかりにして、少しずつ傷を癒していくつもりだったらしい。何だか音楽から逃げて、逃げ続けて兄のところへ転がり込んだ自分と比べてしまう。そして自分がとても小さく感じた。

「前にここで野球を見た時のことを覚えているかな」

鈴木先生に連れられて来た時のことですか」

「あれも大きな進歩でね。野球がすぐ近くで見られると知って、自分から行きたいと言い出したんだ。その決意を口に出すまで一ヶ月ほどかかったようだけど、タイミングが良かったな。後に観客となる君と出会えた」

 昨日のステージの中では大勢の観客の中に紛れてしまったけれど、一度だけ一対一で音楽を聴く機会があった。暗くなるまでいたのは帰るきっかけが掴めなかったからでもあるけれど、足を止めてよかったという思いは今も変わらない。

「あの時足を止めてよかったと思います」

「ビリーもそう思っているよ。一人でいる時、逃げなくて良かったとね。だからこそ昨日、君が誘いに乗ってくれたのだと思っているようだしね」

 あながち間違いではないと思う。ビリーの演奏が、いくら気軽に聴けるものでも下手だったら、最前列で最後まで聞いていなかったかもしれない。

「いずれは聞くだけでなく、ビリーの傍で弾くこともできるようになってほしいね」

 そういう話題につなげられることを覚悟しなかったわけではないけれど、いざ聞かされると辛くもあった。

「どうして僕なんですか。他にも、ニコラスさんでもいいんじゃないですか」

「姪が自分の演奏に誘ったのは君が初めてだからだよ。それだけで何か可能性を感じるんだ。きっと何か、いい方向へ作用してくれると思う。ピアノの経験を活かしてみないか」

「それは……」

 ピアノの前に戻ってきた自分を想像しないわけではない。それが現実になったら、少し前へ進めた気がして清々しい気分になれると思う。過去を乗り越えるための努力をする価値があるかもしれない。その先にはビリーの喜びと自分自身の充実が待っている。

 けれど今の自分の腕が、信じるに足るものかどうかわからない。ビリーの演奏は素晴らしいものだったけれど、自分がそれについていけるような技術を今も持っているかどうか怪しい。三年間、音楽から遠ざかって暮らしてきたのだ。楽譜の読み方は覚えているけれど、それを指が表現できるかどうか疑問だった。

「今の僕にできるかわかりませんけど」

「無理はしなくていい。受験もあることだしね」

 余裕を与えてくれたのはありがたいけれど、決意するなら早いほうがいいだろう。受験はどうしても避けられないけれど、期待に応えるための気力は時間をかければきっと萎えていく。

「でもいつか、できるようになりたいと思います」

 そう言ってみると、大きな決断をしたような気分になる。いつまでという明言こそしなかったけれど、今までできずにいたことをできるようにすると言ってしまった。ニコラスさんの期待に応えることを受け入れてしまったのだ。

「期待しているよ。君たちのインタープレイを聞いてみたいね」

 その言葉は昨日、ニコラスさんがステージ上で口にしていた言葉だ。ステージの名前にもなっていた。彼にとって大きな意味があるのだろう。

「ニコラスさん、インタープレイってなんですか。昨日も言ってたし、ステージの名前にもなってたし」

「ああ、私が好きな言葉でね。元はジャズの言葉だった」

 ピアノを弾く時選ぶのはクラシックの音楽ばかりで、ジャズは全く興味を持たなかったから初めて聞く言葉だろう。

「日本語だと相互作用と訳せるかな。優秀なプレイヤー同士が演奏を通して影響を与え合うこと、またはそういう演奏のことをいうんだ。あのステージでは、演奏者が聴き手に何か影響を及ぼすのが目標だったからそう名付けた。少し本来の意味を外れているかもしれないけどね」

 ニコラスさんは苦笑したけれど、自分が勉強を終えた後、わざわざ文化会館へ戻ってくるほどの引力を持った演奏だったのだから、良いネーミングだったと思う。

「ビリーはまだ、肉親が突然いなくなった悲しみを乗り越えられていない。そんな中でも音楽だけは捨てていない。一人で楽器を弾く時、それは両親への弔いであると同時に自分自身への癒しなんだよ。だから音楽に、ビリーを癒す術があると思う」

「音を重ねるだけでそれができるんでしょうか」

「君が優秀なプレイヤーだったら、可能性はあると思う」

 一度も演奏を聞いていないのに優秀などと言われても困ってしまう。苦笑しながら、潤は悪い気分ではなかった。

 期待されている。ビリーにとってのインタープレイヤーとして復活することが望まれている。失敗したら、と思うこともあるけれど、それ以上に胸が躍る。

 あの素晴らしい演奏を支えてやることができるかもしれない。それは一人でピアノを弾いていた頃には考えもしなかったことで、残された力で実現できるかもしれないと思うと、少し勇気が湧いた。

 試合はニコラスさんが呼んだとおり九回まで続いた。後攻チームも六回と七回に一点ずつ返して三対三のまま引き分けに終わる。

「こういう時はどうするんですか」

 選手たちは挨拶をして、グラウンド整備に取りかかっている。

「再試合はしないで、引き分けという結果でリーグ戦が続くそうだ。どちらも強いチームだから、そのうち優勝決定戦で顔を合わせるかもしれないね」

「あの人たち、仕事あるんですよね」

「そうでなかったら道具代も球場や練習場の使用料も払えないね」

「どうしてそこまでできるんでしょう」

 時々休日出勤をしたり、残業で帰りが遅くなったりする兄を見ていると、野球をする余裕がないと言うのも当然のような気がする。兄の姿が一般的な社会人だったら、選手たちはただでさえ少ない自由時間を野球に費やして日々を過ごしていることになる。

「好きだからか、そうでなかったらプレイそのものが誰かのためになっているんだろう」

 試合中、周りでは何度も拍手を聞いて、笑顔を見ることができた。彼らのプレイでお金は集められないけれど、観客を楽しませることはできていたのだろう。

「ニコラスさんのトランペットもそうなんですか」

「初めは自分のためだったよ。他人のことも考え出したのはずっと後のことだね。ケイスケもそうだったし、ビリーは昨日私と同じ境地へたどり着いたと思う。君はどうだった」

「僕は、そうなる前に辞めたから」

「それはもったいないことをした」

「でもいつか、ニコラスさんと同じところへ行けるかもしれないです。いつまでかかるのかわかりませんけど」

 ニコラスさんは答える前に立ち上がった。

「その時を待っているよ。ビリーもきっと待ち続ける。楽しみにしていると思うから」

 自分の音楽に、久しぶりに期待がかけられて、それを素直に受け止めようと思うことができている。それだけで泥に濡れたように重かった心が爽やかに晴れた気がした。

 

 6

 

 誰もいない音楽室のピアノへ近づくことは苦にならない。勇気を持って鍵盤を押し込んで音を出すと頭に痛みがある。どうしても昔のことを思い出してしまう。失敗の過去と、そこから逃げてしまったことが苛むのだ。

 それでも潤は、右手だけで次の音を奏でた。それを連続させて旋律にしていく。過去に弾いたことがあるわけでなく、即興の音楽だ。思いつくままに弾いていく。中学生ぐらいの、ピアノを弾くのが一番楽しかった時期なら何でもないことだったけれど、今は一つ音を奏でるたびに頭痛がする。そして旋律を作る力も、頭に浮かんだものを表現する指先の力も、衰えているのを自覚せざるを得ない。音域が狭くて表現力に欠けると自分でも思ってしまった。

 痛みに耐えきれなくなって演奏を終えると名を呼ぶ声があった。

「どうしたんだ」

 鈴木先生は気遣わしげな顔をして近づいてきた。

「久しぶりに弾いてみたいと思って」

「だいぶ苦しそうだったね」

「無理をしましたから」

 潤は自嘲気味に笑った。自分の顔が引きつっていたのがわかる。頬のあたりに、まだその感じが残っていた。

「どうして急に」

 ニコラスさんから何も聞いていないらしい。潤はニコラスさんが訪ねてきた月曜日のことを語り、いつか再びピアノの前に座れるようになりたいと話した。

「前向きになれたのか。昔何があったのか知らないけど、それを超えていく気持ちが出てきたわけだね」

 鈴木先生は温かく笑いながら歩み寄ってきた。

 突き飛ばして逃げ出した時のことが思い出されたけれど、他人に自分のことを話せて、もう一度ピアノの前へ戻ろうとする理由ができた今は、穏やかに受け入れることができた。

「しかし苦しそうだったね」

「もう何年も弾いてなかったですから」

「リハビリしてからの方がいいんじゃないか」

 思いも寄らない言葉に、潤は返事ができなかった。

 鈴木先生は一度準備室へ消えてから、何かを抱えて戻ってきた。

「前に弦の張り替えを手伝ってくれたのを覚えているかな」

 結局一つしかできなかったのも覚えている。あの時は弦の張り替えより話をすることが大事になってしまった。あの後マンドリンとその他の楽器の弦がどうなったのか、知らないままだった。

「ピアノを弾く前にこれをやってみたらどうかと思うんだけど」

「弾いたことないですよ」

「教えてあげるよ。それに、ピアノが弾けるなら案外弾きやすいものだよ」

 鈴木先生の気楽な言葉を疑いながら、潤は言われるままに楽器をケースから取り出した。弦にピックが挟んであって、それを使って弦を弾いてみる。締まりのない、鈍い音がした。

「最初に弦を締めるんだ。弦を長持ちさせるために、しまう時は弦を緩めるからね」

 鈴木先生はそう言って、楽器と一緒に持ってきた箱形の機械を見せた。箱の底から伸びるコードの先はクリップになっていて、隅から椅子を引っ張り出してきてから座り、ネックに挟む。そうやって音を鳴らすと『E』の文字が表示された。

 鈴木先生は糸巻をしめながら弦を鳴らしていく。すると『F』、『G』の順番で変わっていく。何となく『G』のところで一番いい響きが出たような気がする。

 それは間違いではなかったらしい。鈴木先生は『G』の表示を見ると次の弦へ移った。

「こんな調子で弦の調子を合わせていくんだ」

 次の弦は『D』、その次が『A』、一番下が『E』の表示になるように鈴木先生は弦を締めていった。更に上下の弦の音を合わせていく。不協和音が徐々に消えていった。

 全ての弦から不協和音が消えると、鈴木先生は楽器を手渡してきた。

「これで準備は完了だ」

 潤は受け取りながらも戸惑いが消えなかった。今まで触ったこともない楽器を前に、どう扱えばいいのかわからない。

 鈴木先生は準備室へ戻って、もう一つのマンドリンを持ってきた。調弦を手早く済ませると弦を弾く。足を組んだ座り方を真似て、潤は鈴木先生の手元に注目した。

教則本を開いて、フレットのどこを押さえればどんな音が出るのかを言いながら音を出していく。すると鈴木先生の言葉の意味がわかった。フレットの並び方はピアノに似ている。右手と左手で必要とされる動きは大きく違うけれど、左手の指をどう動かせばいいのか、それはすぐにわかった。

「やっぱりピアノの経験があると筋がいいね」

 鈴木先生の言葉に照れ笑いが浮かび、潤は隠すように横を向いた。

 教則本には練習用の楽譜が書かれている。単純に四分音符の高さが上がっていくもの、八分音符が上がったり下がったりするものなどがある。ピアノを弾いている時と似た内容で、いつも基礎練習をやってから本格的な練習に移ったものだ。

 音を出している間にも胸や頭の痛みはあって、楽器を投げ出したくなる。けれどピアノに比べると楽だったし、ニコラスさんの前でいつか弾けるようになると言ってしまった。そしてビリーの演奏を担うとも言った。どれも自分の望みから出た言葉で、言わされたものではない。

 そのためには克服しなければならない。過去の失敗を忘れることはできなくても、せめて音楽から逃げた自分自身を超えなければ、望みは叶わず、期待にも応えられない。

 単純な演奏はやがて意識をどこかへ連れ去る。痛みを忘れた心と体に自分自身の音楽が染みていく。久しぶりの感覚だった。

 鈴木先生に声をかけられるまでその感じは続いて、余韻にも浸ることができた。

「どうかな」

 最初に出た言葉は息とも声ともつかない音だった。意識がまだ現実の中で覚めていない感じがあって、鈴木先生の声が遠くに聞こえた。

「弾けないこともないだろう」

 それは自分の両手への問いかけだった。

「結構動きますね。三年間音楽はやってこなかったのに」

 弦を押さえている間は鋭い痛みが指先にあって、演奏を終えれば痺れるような感じが続く。鍵盤を押さえて音を出すピアノにはなかった刺激で、心の奥に封じていたものを呼び覚ますようだった。

「リハビリにちょうどいいだろう。弾いている間、苦しそうじゃなかった」

 自分ではわからないことを言われるのは照れくさい。潤は少し笑って顔をうつむけた。

「勉強もあるのに」

 思い出したように潤は言った。受験勉強に加え、間もなく期末テストがある。推薦は諦めているから飛び抜けた成績を残す必要もないけれど、あまりに点数が悪いと補習を受ける羽目になりかねない。

 そういう心配事があるけれど、久しぶりに音楽に、それも弾いたこともない楽器に触れたのは楽しかった。単純な練習だけだったからか、過去の失敗を思い出すこともなかった。

「リハビリと、気分転換にもなるだろう。勉強で根を詰めるばかりよりはいいんじゃないのかな」

「そうでしょうか」

 素直に応じるのも照れくさくて、潤は少し捻くれてみせた。けれど弦を撫でるように弾くと、自分の求めていたものが少しずつわかってくるような気がする。

「まあ、担任としてあまり強くは勧めないけど、その気があったらいつでも来ればいい。空き教室を貸してもらえるから、そこで一緒に弾こう」

きっと鈴木先生がギターを弾いていた教室のことだろう。ニコラスさんとビリーの時のように頭痛を感じなかったわけではないけれど、その音にも惹きつけられたのだ。

 音楽室の時計は五時を指していた。ちょうどいい頃合いだと思って、潤は挨拶して出ていった。その後自習室で七時まで勉強して帰る。まだ日は沈みきっていなくて、夏めいた感じがした。

 潤はその次の日、鈴木先生を訪ねてマンドリンを貸してもらった。昨日弾いた基礎練習用の楽譜を一通り弾くと、覚えている限りのメロディーを奏でていく。マスネの『タイスの瞑想曲』であり、ショパンの『別れの曲』であり、サティの『ジムノペディ第一番』であったりした。どの曲も完璧ではなかったけれど、メロディーだけは完成させられた曲で、マンドリン一つで弾くにはちょうどいい音楽だった。

 過去の失敗を思い出さないわけではないけれど、これを超えたらニコラスさんやビリーの元で音楽がやれるかもしれないと思うと、まだ我慢できた。

 それからの一週間、潤は放課後の二時間を練習に、一時間を自習室での勉強に費やした。家に帰ってからは一時間から二時間の勉強だ。受験から逃げているようで後ろめたさはあるけれど、何かが覚めていくような感じがあって、止めたくはなかった。

 一週間経った頃、隣で好きなように弾いていた鈴木先生が、何も言わずに音を合わせてきた。何気なくドビュッシーの『亜麻色の髪の乙女』を弾いていると、一人では到底手が回らない伴奏の部分まで鈴木先生のギターが下支えしてくれた。言葉はなかったけれど、お互いの間で呼吸を感じながらの演奏になった。

 曲の中盤になると、自分の演奏に鈴木先生がついていくような演奏をしてくれているのがわかった。メロディーを立てるような音を出してくれている。頭の中にある旋律をなぞるような演奏しかできない自分を支えてくれていた。

 一通り終えた時、言い知れない気持ちが体に満ちていた。ピアノを弾いていた頃にも感じた気持ちのようで、少し違う。あの時は全ての気持ちが内にこもっていたけれど、今日は逆に発散されているような気がする。

 まるで一緒に弾いた人に惹きつけられるように。

「よかったね、今の。またやってみたいね」

 鈴木先生は微笑んでいた。クラスにいる時も笑っていることの方が多くて、あまり怒ったところも見たことがない。見慣れているはずの表情だったけれど、いつもの顔と何かが違って見えた。

 楽しさが映し出されたような気がした。

「あ、そうですね」

 潤はそんな鈴木先生の顔に惹きつけられるように笑い返した。

 もう一度一緒に演奏する。一緒に音を重ねる。鈴木先生と笑い合うような演奏をする。それはピアノを弾いている頃でさえ、考えたこともないことだった。

「青山くん、せっかくだから突き抜けてみないか」

 鈴木先生は笑顔のまま、硬く響く声で言った。何のことかわからなくて訊き返すと、もっと多くの人に聞いてもらうようにしてみないかと言った。

「前に僕が夏祭りに出ている話をしたと思う。それに一緒に出てみないか」

「それって、僕がマンドリンで出るんですか」

「今やってみたら結構いけると思うんだ。毎年一人でやってるんだけど、一人より二人の方がやる方も聞く方も楽しいだろうからね」

「そんな急に」

 戸惑いながら、潤は音楽を人に聞かせたい気持ちを見つめていた。失敗のことを思わないわけではない。けれど、久しぶりに音楽を奏でるうちに、後ろ向きだった気持ちが前を向くようになっていた。

「ビリーやニコラスさんも喜んでくれるかもしれないよ」

 二人の名前を出されると渋ってばかりではいられなくなる。彼らの元で音楽をやってみたいと思ったのが、再び音楽へ向き合った理由だ。

「どうして二人が出てくるんですか」

「二人に影響されたから、こうやって音楽をやる気になったんだろう。だったら充分に関係があると思う」

 潤は曖昧に頷いたけれど、次の言葉に目が覚める。

「僕は君と音楽をやってみたいと思ったんだ」

 小学校から中学校まで音楽をやってきて、初めて言われた言葉だった。ピアノを弾いて発表する時は常に一人でステージに上って一人で帰っていった。それが自分の音楽だと思っていたし、誰かと一緒に音楽をやりたいと思ったこともなかった。

 けれど改めて言われると、断る気持ちは起きない。さっき感じた、気の合う人と演奏する時の気持ちは心地よいもので、大きなチャンスに思えた

「崩壊してもしりませんよ」

 自分が鈴木先生の立場なら、たとえ自分から誘ったとしても不安は拭えないだろうと思う。

「きっとそうならないよ。信じているからね」

 けれど鈴木先生の声はあくまで晴れやかで、不安は全然感じていないようだった。

「その期待に応えられるようにします」

 潤は本心を口にした。今まで事あるごとに逃げてきた期待が、今は全く重荷に感じなくて、楽しみでさえあった。

 鈴木先生とステージに上ることを話してから、それまで勉強にほとんどを費やしていた放課後を音楽にも振り分けるようになった。六月の下旬のことで、三年生に上がったばかりの頃は勉強に追いまくられていると予測していた時期だ。

 他人に聞かせるための音楽を、他人と一緒に弾くとなるとかつてとは勝手が違う。そればかりか使う楽器も違って、伴奏を他人任せにしなくてはならない。鈴木先生がかつての自分の左手で、自分は右手だけを担当している。ただしピアノの時は左右で同じ音色を奏でていたのが、今は違う音になっている。

そのことに不安がなかったわけではないけれど、鈴木先生は常に献身的で、決して目立とうとしない。指導者ではなく共演者として、頼れる人を得たのは初めてだった。

 単純にメロディーを奏でるだけなら難しくなかったけれど、手こずったのはトレモロで、これはピアノの経験がほとんど役に立たない。

一度だけ弾くのではない。そのままでは震えが収まるのに合わせて消えてしまう弦の響きを、小刻みに何度も弾くことで持続させるのだ。ピックを持つ指には力を入れず、弦を上下に撫でるように奏でるのがコツだと教わった。潤はマンドリンの演奏を見聞きしたことはないけれど、トレモロが演奏に深みを与えてくれるのはわかる。ピアノでもペダルを駆使しないと不自然な沈黙が生まれてしまう。構造自体は単純なマンドリンが、音を持続させる唯一の手段だった。

演奏曲は時間がないこともあって自分が弾ける曲を選んでくれた。以前何気なくメロディーを弾いていた『タイスの瞑想曲』や『ジムノペディ第一番』を弾くことになって、久しぶりに人に聞かせるためにそれらの曲を練習する。それは昔に向き合うことでもあって、引きながら頭痛に悩まされることもあったけれど、鈴木先生やニコラスさんたちの期待に応えると思うと乗り越えていけた。

 鈴木先生が花火を見ようと言い出したのは、七月三日の練習後だった。突然のことだったけれど、どこで打ち上がるのかはわかった。七月四日はアメリカの独立記念日で、毎年米軍基地から花火が打ち上げられるのだ。住み始めてから二回見るチャンスはあったけれど、一緒に行く人もいなかったから見たことがない。

「二人で見るんですか」

 それも何だか気を遣いそうで嫌だと思ったけれど、ここでも鈴木先生はニコラスさんとビリーの名を出した。

「ニコラスさんが誘ってきてね。穴場があるそうだ」

 基地の中で暮らすニコラスさんが言うなら確かだろう。以前野球を見た時は既に良い思い出になっている。そういうものをいくつも集められたら、少しはここでの暮らしも思い出深いものにできる気がした。

「いいですよ。でも天気は大丈夫なんですか」

「予報は晴れだったけどね」

「最近あてにならないから」

 それでなくてもまだ梅雨明け宣言は出されていない。いくら予報に問題がなくても、最近の変わりやすい天気を思うと不安は拭えない。

「明日になればわかるよ」

 鈴木先生はもっともなことを言った。

 花火が打ち上がるのは八時からで、鈴木先生と一緒に行くはずだったけれど、急用が出来たと言って練習にも来なかった。潤は一人で練習をしてから自習室で勉強して、六時半まで過ごした。鈴木先生は時間ぎりぎりになってからでないと来ないと言っていたので、昼間のうちにもらった地図を頼りに待ち合わせ場所へ向かうことにした。

 いつもの帰り道とは逆方向で、線路と道路があるだけの無機質な潤の通学路に比べて、家や畑が多く目に着いた。薄暗くなった今は畑から人は絶えて、道も人通りが少なくなっている。

 地図を頼りにたどり着けるかどうか不安はあったけれど、よく読むと米軍基地のすぐ傍にあって、フェンスに沿って走り続ければ着くような場所だった。暇つぶしに自転車で走ったこともある道だったけれど、昼間に比べて何とも寂しい。

 そんな道を外れると店もなくなって、米軍基地と畑に挟まれた道に入る。そこには更に人気がない。時々通りがかる車は米軍基地の中を走っていた。

 やがて鈴木先生に教えられた場所にたどり着く。米軍基地と向かい合うのはだだっ広い畑で、時々基地の中の道路を車が通る時以外に光を感じることはない。立ち尽くしているといつの間にか日が暮れて、その後は心なしか、いつも見ている星空よりも星が多く見えるような気がした。

 潤は地図で場所を確認してから自転車を停め、フェンスに寄りかかった。他にニコラスさんやビリーも来ると言っていたけれど、二人の気配はない。フェンスの軋みがやけに大きく聞こえた。

 畑のずっと向こうの方でサイレンのような甲高い音が鳴っている。少しの間聞いていると低くなって消えていく。風が流れていく音が梢の震えで聞こえてくる。フェンスの向こうからは車のエンジン音が低く聞こえて遠ざかる。

 潤の住む場所は道路も近く、窓を開けておけば電車が走る音も聞こえてくる。早朝や夜遅くなどは車の通りも少なくなって、駅のアナウンスまで漏れ聞こえてくる始末だ。良くも悪くも音に溢れた場所で暮らしているから、基地の反対側に梢が鳴る音が聞こえるほど静かな場所があるとは思わなかった。

 その音が少ない場所に立って人を待つのも初めてのことだ。アメリカ独立記念日の日に花火が上がるのは知っていたけれど、その時間を狙ってよく見える場所で眺めようと思ったことはない。坂の中ほどにある千裕のマンションからでは見えづらくて、音が鳴っているのに気づいてもほとんど見えなかった。

 過去二年間の七月四日はどちらも平日で、花火が打ち上がる時千裕はいなかった。いつも八時前には帰ってくる兄が、その時だけは残業で、綾音も来られなかった。一緒に見ようと思ったわけではないけれど、一人で花火の音だけを聞くのはわびしいものがあって、テレビの音を少し大きくして時をやり過ごした。

 その時とは逆に、静けさの中で待っている。それも、当時は知り合うことすらできなかった人たちと眺めることになっている。わからないものだと思って、潤はおかしげな笑みを漏らす。人とのつながりもさることながら、音楽へ再び向き合う気持ちが残っていて、それを実現させようとする自分自身にも驚いていた。

 再び風に梢が鳴って、さらさらと音を立てる。フェンスに寄りかかるのも背中が少し痛くなって身じろぎする。微かな軋みが聞こえた。その前後から車が近づいてきていて、潤の視界に数秒間自分自身の影が現れた。

 音が光と共に通り過ぎたけれど、耳に届く音はまだ残る。それは車の音よりもはるかに密やかで細かい音だった。

 潤は音に振り向いた。こういう音を立てそうな人で、フェンスの向こうにいる人が一人いるような気がした。

 コルネットが入っているケースを持って、すっかり見慣れたレッドソックスのキャップを被ったビリーが、街灯の光の中に立っていた。

「ビリー」

 自分自身が確かめるために呟いた。相手に聞こえたとは思えない。実際相手は、こちらが振り向いた時戸惑ったように足を止めたけれど、返事はしない。声は聞こえなかっただろう。

 けれどビリーの方は、はっきりと聞こえるような声で名前を呼んだ。相変わらずイントネーションはおかしいけれど、しっかり通じるような声だった。

「ビリー……」

 何かを言わなければと思った。こんばんはにあたる英語ぐらい知っているはずなのに、実際使おうと思うと出てこない。

 それはビリーも同じかもしれない。ビリーは名前を呼んだきり黙ってしまった。沈黙の中には、言葉を探すような思慮が感じ取れたけれど、声として成果は表われない。

 ニコラスさんはどうしたのか。花火を見る予定は聞いているのか。あれから楽器を吹いているのか。いくつも訊きたいことはあるけれど、それよりも返事を期待せずに伝えたいことがある。

 僕は昔ピアノを弾いていたんだ。

 君やニコラスさんが音楽をやっているのを見て、もう一度やってみる気になったんだ。

 いつかは君やニコラスさんと一緒に演奏をしてみたい。そのために頑張ってみたいんだ。

 そう言いたいけれど、夜の挨拶さえできない潤に、そのための英語は出せない。たとえ喋ることができたとしても、フェンス越しに言葉を交わすのは色々問題があるような気がしてためらわれるけれど、もしそれだけの語学力があったらやってみたい。どんな形でもいいから、せめて気持ちだけでも伝えられたら素敵だった。

 お互いに黙っていると、ビリーは背を向けてフェンスに寄りかかった。会話が出来ない状況に居たたまれなさを感じたのかもしれない。どうにかして場を盛り上げるようなことをしたいけれど、英語の一つも喋れない自分にはどうしようもない。潤もまた、居たたまれなくなってフェンスに背を預けた。

 まだ八時までまだ三十分以上ある。ニコラスさんか鈴木先生がいたら何か喋ってくれるはずなのに、無口が二人いるだけでは周りの音を淡々と聞くだけで時間が過ぎてしまう。

 大人が早く来ればいいのにと思った時、手のひらに指先が触れた。

 びっくりして手を見遣ると、腕の影になって見えづらいけれど、ビリーの指先が手のひらに触れているようだった。

 フェンスが軋みを上げるほど強く握っていた。フェンスがなかった手を握れていたのかもしれない。

「ジュン」

 ビリーは基地の方を向いたまま名を呼んだ。響きは少しおかしくても、静けさの中ではっきりと聞こえた。

 何か言いたいのだろうかと一瞬思ったけれど、沈黙の中にさっき感じたような思慮がない。言葉を探してはいないのだ。

 潤は振り返らずに、ビリーの行動を待った。すると何かが地面に落ちるような音がした。金属が軋む音と、草がわずかに揺れる音だ。それから硬いものが地面に倒れるような音もした。

 何をしようとしているのか、音を元に頭に思い描いていくと、振り返るまでもなかった。

 そしてその推理が裏付けられる。すぐ後ろで、音が鳴った。

 自然のものが折り重なって生まれた音ではない。人の息遣いが、考え抜かれた機構を通って、指遣いによって操作されて、楽器の音となる。

 それがいくつも積み重なって、旋律となる。その旋律は潤にも聞き覚えがあった。

「ウェン・ユー・ウィッシュ・アポン・ア・スター……」

 小学生の頃に弾いた曲の原題を思い出して、それが途切れ途切れの言葉になって口を衝いていた。ネイティブスピーカーから見たら間違った発音なのだろうけれど、ビリーに何かの影響を与えたらしく、わずかに息継ぎのタイミングが狂った。

 ビリーの演奏は三分程度で終わった。短い時間の演奏は、楽器本来の音色のせいか寂しげに聞こえて、何か自分も応じてやりたかった。両親への弔いであると同時に自分自身への癒しだというビリーの音楽は、ただ聴くだけでは不充分だろう。会話と同じで、投げ返すような反応が必要だった。

 以前よりも近くで聴く演奏は、息遣いの微妙な加減や息継ぎの微かな音まで伝わってくる。そこまで伝わっていながら、応じるための道具がないのは残念だった。

「ビリー」

 だから潤は、せめて気の済むまで聴いてやろうと思った。これが弔いだったら、聴くべき相手はずっと遠くにいて、地上に観客は必要ない。けれど今のは、そのための演奏ではなかったと思う。弔いであると同時に、すぐ近くにいる観客のために奏でられた音楽に聞こえた。

「ウェン・ユー・ウィッシュ・アポン・ア・スター」

 名前と、曲の名前しかビリーに理解できるような言葉を持たない潤は、フェンスの上で体を弾ませた。微かにフェンスは軋んで、独特の音を立てる。

 観客はここにいる。だから待ち合わせる人が来るまで、あるいは花火が上がるまで奏でてほしい。そう促したつもりの言葉と音は伝わったらしい。背後で同じ音楽が鳴り始める。

 やがて鈴木先生とニコラスさんがほとんど同時に現れるまで、ビリーは同じ音楽をずっと奏で続けた。ビリーの音楽に応えるつもりで口にしたリクエストを、律儀に守り続けたのかもしれない。

 四人が揃ってから五分もしないうちに花火が打ち上がった。昔家で聞いた時よりも大きくて重い音が鳴り響く。色とりどりの光が地上へ降る間、潤は上空と地上を交互に見ていた。

 ずっと演奏をしていたビリーの横顔は心なしか満ち足りて見える。花火で色々な変化を見せるせいかもしれないけれど、その表情がやけに印象深く脳裏に残る。

 それがもし音楽を奏でたお陰だったとしたら、ずっと聞いていて良かったと潤は思った。何も応えてやることできなかったけれど、受け止めることができた証拠だった。

 

 7

 

 梅雨明けが宣言されたあたりから気温は上がりはじめ、寝苦しい夜も増えてきた。昼間の雨は減ったけれど、夕方から夜にかけての雨は激しく降るようになって、潤は常にカッパを持ち歩くようにした。

 それでも何日か雨の降らない日が続くと油断につながって、夕立の可能性を忘れてしまうこともある。潤がその日久しぶりの雨に出くわしたのは図書館の読書室にいる時で、帰るまでには降り止んでほしいという願いは叶わなかった。

 時計は七時を指していて、兄が帰っているかどうかは微妙な時間だった。電話に出てくれることを願いながら番号を電話帳から呼び出してかけたけれど反応がないまま留守番電話に切り替わる。

 潤は一縷の望みを綾音に託すことにした。もしかしたら今頃家に向かっているところで、荷物を置いたら雨具を持ってきてくれるかもしれない。

 コール音が長く続いて、こっちも駄目だろうかと望みを捨てかけた時、綾音の声が応じた。

「もしもし、どうしたの」

 綾音は声を潜めていた。その後ろでアナウンスらしきやたらとはっきりした声が聞こえる。

「ごめん、電車乗ってたの」

 潤も声を潜めて言った。

「いいよ、どうしたの」

「外雨でしょ。でも傘もカッパもないんだ。兄さんも帰ってなくて。綾音さん、もしこれからうちに来るなら図書館までカッパもってきてほしいんだけど。今図書館にいるんだ」

「そう。カッパはないけど傘ならあるから。今から迎えに行ってもいいけど」

 潤は腕時計を見た。綾音の言葉を受け入れるかどうかで三十分ぐらいは変わってくるだろう。傘を差しながら自転車を走らせるのはずぶ濡れになるのを覚悟しなければならないけれど、歩いていけばそれほど濡れなくてすむはずだ。何よりあまり待たされなくて済む。

「じゃあ直接来て」

「わかった。すぐ行くから待っててね」

「ありがとう、お願い」

 潤が言った直後に、ドアが開く音が聞こえた。

 電話が切れてから、もう一度腕時計を見る。最後に聞いたアナウンスで読み上げられた駅から図書館の最寄り駅まで十分ぐらいあれば着いたはずだ。合わせて二十分を見込んでいればいいだろう。果たして綾音は、見込んだ通りの時間でたどり着いた。

「お待たせ」

 綾音は少し着崩したようなスーツ姿で現れた。以前のように、親しみ深い人が遠ざかったような気がした。

「潤ちゃん、お待たせ」

 綾音がちょっと怪訝そうな顔をして言葉を継いだ。潤は我に返って頭を下げた。

「こういうのしかないけど、我慢してね」

 綾音は自分のバッグから小さめの折りたたみ傘を取り出した。留め具を押し込むと薄いピンクの生地に花柄がプリントされた傘が開かれる。綾音が自分で使っている黄色い傘の方がまだ使いやすそうだったけれど、助けてもらう身で文句は言えない。自転車置き場から自分の自転車を引きだして、潤は甘んじていかにも女の子っぽい柄の傘を差して歩き出した。

「千裕、帰ってないんだって?」

「家に電話しても出ないから、たぶんそうだと思う」

「一緒に食べてる時間はないかな」

 ふと時間が気になって、潤は時計を見た。七時半を回っている。

「綾音さん、今日無理して来ることなかったんじゃないの」

「あら、見られたくないものでもあったの?」

「違うよ。何か作るにはちょっと遅いと思って」

「ちょっとした炒め物ぐらいなら三十分でできるから平気よ」

「でも材料がないでしょ」

 綾音は買いだめをしない。次に来るのがいつかわからないし、二人に任せても使ってくれるかどうかわからないからだそうだ。

「今から買うよ。駅前のスーパー、いつでも開いてるし」

 千裕がビールを飲みたい時も、彼の好みを充たしてくれた偉大なスーパーだ。

 けれど何だか違和感がある。千裕の帰りが遅いのは計算外だろうけれど、料理を作って待つには少し遅すぎる。いくら綾音でも、明日のことを思うと簡単には踏み出せない決断ではなかったか。

「綾音さん、兄さんに何か話があるんじゃないの」

 考えられるのはそれだけだった。今日中に何かを話しておきたいのではないか。それほど大事な話、たとえば別れ話とか。

 交差点に来たところで信号が変わり、足が止まる。綾音はそうだけどと答えた。

「でも潤ちゃんは心配しなくて平気だから」

 綾音は笑顔を見せてはいたけれど、何だか突き放すような感じを声の中に聞き取った。まるで潤ちゃんには関係ないとでも言っているようで、潤は頷きながら釈然としないものを抱いた。千裕という大事な人がいる以上、自分はその弟でしかないのだろうけれど、ただの顔見知りというほど、軽い存在ではなかったはずだ。

「勉強進んでるの」

 歩き出すと綾音はそう訊いてきた。予定通りのことはできたけれど、胸を張って答えるほどのこととも思えず、潤はそれなりにと謙遜して答えた。

「なら良かった。潤ちゃんまた音楽を始めるって言うから、ちゃんと進んでるのかって心配だったんだけど」

「全部わかってやってるよ。俺だって自分のすることに責任ぐらい持てる」

 受験は周りに合わせてやっていることだけれど、音楽は紛れもなく自分自身の意思だ。逃げ続けた過去を乗り越えるつもりで、再びピアノの前に座ろうと新しい挑戦を始めたのが今なのだ。

「頼もしいわ。いつの間にか大人っぽいことが言えるようになったのね」

 綾音と知り合って、まだ三年くらいしか経っていない。その時間の中で、自分が他人にわかるほど成長したとは思えない。だから綾音の言葉は正面から受け止められるようなものでなくて、戸惑いを生んだ。

 少なくとも、音楽をやろうとも思わなかった一年前とは違うけれど、それは成長というのだろうか。

「潤ちゃん、買い物付き合ってくれる?」

 少し賑やかになってきた通りで綾音が言った。急いで帰っても食べるものはないから、綾音を助けた方が時間の使い方としては有効だと思った。

 図書館から駅前のスーパーまで、自転車ならちょうどいい距離だけれど、歩くとなると少し時間がかかる。自転車に乗ることで雨粒を全身に受けることはなかったけれど、小さな折りたたみ傘では服の裾を守りきれない。

 スーパーは雨のせいか客が少なく、広い店内が一層広く見える。以前遅い時間にビールを買いに行かされたことがあるけれど、その時を思い出した。

 綾音は潤に意見を求めず、野菜と肉をカゴに入れていく。にんじんやほうれん草と豚肉。そして炒め物ぐらいならできるという言葉。簡単に野菜炒めで済ませるつもりなのだろう。

「綾音さん、珍しいね。いつも野菜炒めなんて作らないのに」

 野菜炒めなんて料理の邪道だと言っていたことがある。実際彼女が料理を作る時、出てくるのはそれなりに練習しないとできないと一目でわかるものばかりだった。

「時間ないからね。便利だし」

 綾音は悪びれもせず言った。

 炒め物の材料と総菜、それからビールを買うのも忘れない。千裕が夜、わざわざ買いに出かけたほどの代物だ。

「よく気がつくね」

 食料品はともかく、千裕のビールまで気にかけるほどの気遣いを期待されても困りそうなものだ。

「そりゃ、近いうちに結婚する相手のことだから。酒乱ってわけでもないし」

「酒乱だったらどうするの」

「とりあえず禁酒ね。そうならないことを願うけど」

 綾音は苦笑した顔を少し伏せた。その目線が、少し内側へ向いているような気がする。まるで自分自身と対話するように見えた。

 綾音は更に箱入りのアイスを三箱も買い、更に手間賃だと言って自分にも一本棒アイスを買ってくれた。アイスはこれからの季節に必要だからと明るく笑う。自分は婚約者の弟でしかないけれど、綾音はいつでも優しくしてくれる。それはこれから先もなくならないでほしいと思う。

 綾音はバッグからデニム地の買い物袋を取り出して、馴れた手つきで買ったものを詰めていく。買い物袋は程よく膨らんで、それを潤が持たされる。ここまでものを運んでくれたのは綾音だし、アイスまで買ってくれたのだ。それぐらいは何でもないことだった。

 買い物袋を前カゴに載せ、潤はアイスの袋を開ける。チョコレートがバニラアイスを包んでいて甘い。いずれ自分の傍から、兄と一緒に離れていってしまえば、こうしてアイスを買ってくれる人もいなくなる。そう思うと、一本百二十円のアイスがやけに貴重な味に思えた。

 やむ気配のない雨の中を歩いて、マンションへ帰る。千裕はまだ帰っていない。

 綾音に言われてシャワーを浴びている間に、彼女は着替えて台所に立っていた。買ってきたばかりの材料を刻んでいる。

「潤ちゃん、テレビつけて」

 言われるままに潤はテレビをつける。最初に表れたのは西武の試合だった。六回の裏、西武の攻撃中で、スコアは四対三、西武が一点リードしていた。この街とそれほど離れていないからドームの外は荒れているはずだけれど、応援席には何ごともないかのように応援団がいた。

「兄さん見たかっただろうけど」

 潤は時計を見ながら呟いた。もう八時を回っていて、いつもだったらビールを空けてくつろいでいる時間だ。残業でもやっているのだろう。

「録画してるのよ。いつ見るんだか」

 綾音の声にため息が混じり、潤は野球を見ながら苦笑した。千裕の野球好きには時々手を焼くこともあるらしい。

「休みの前とかかな。優勝できそうな時なんかは徹夜で見てることあるから」

「そこまでして、体を壊したらどうするの」

「やめさせる?」

 そう訊くと綾音は押し黙った。千裕の楽しみを奪っていいのかどうか迷っているらしい。酒乱の気があったら禁酒を強いるとまで言っておきながら強気を通せないのだろう。そこに綾音らしさを見た気がした。

 潤に綾音をからかうつもりはなく、何も言わないでいると包丁がまな板を叩く音が目立ち、ほどなくして炒め物が始まる。急激に野菜の水気が乾いていく音がした。

 チャンネルを適当に変えていくけれど、この時間にやっている番組に面白いものがなく、結局野球に落ち着く。千裕と共に何となく見ている内に食卓の一般的な風景になって、見ていると安心するのだった。

 野菜炒めができあがり、それから少ししてご飯が炊きあがる。程なくして綾音がご飯を茶碗に盛ってリビングまでやってきた。

「潤ちゃん、明日も早いんでしょ。先に食べてたら」

「俺はいいけど」

「わたしは待つから」

「兄さんを?」

「いつもそうじゃない」

 千裕とすれ違いそうな時、ぎりぎりまで待つのはいつものことだ。けれど今日の綾音には、いつもと違うものが宿って見える。何か大事な決意を抱えているような気がした。

「兄さんに話をしにきたの」

 まさか別れ話じゃないだろうか。いつもの熱愛振りを見ている身としては信じられない展開だったけれど、心を読んだかのように「別れ話じゃないよ」と言った。

「それだったらわざわざ家に来ないよ。だいたい別れたがってる男のために料理するなんて、ロマンチストのすることでしょ」

「綾音さん、違うの」

「潤ちゃんはわたしをどう見ていたのかな」

 綾音は苦笑した。世の中の女の人は現実的だと言われるけれど、プロ野球中継を一緒になって見ることがあるほどの綾音は男心に理解がある方だろう。

「もう食べていいよ。冷めないうちにね」

 潤は言われるまま綾音が用意した野菜炒めに箸をつけた。塩胡椒のシンプルな味付けながら量はそれなりにあって満足な内容だった。

 西武の試合は食べている間に七対三になっていた。途中で長い攻撃があったせいか、あれからまだ一回しか進んでいない。

 八時半を回ったけれど、千裕は連絡一つよこさない。食器を下げて洗っていた綾音は、キッチンから千裕に電話してと声をかけてきた。

 潤は家電の受話器を上げて、兄の番号を押した。いつも電話帳の番号をワンタッチで選択しているから、一つずつ押すのは久しぶりだったけれど、首尾良く呼び出し音が鳴り出した。やがて千裕の声が聞こえる。

「どうした」

 平坦な声の向こうにざわめきが聞こえる。もしかしたら電話に乗るところだったのかと思って、後にしようかと言う。

「何か用事があるんじゃないのか」

「いや、綾音さんがいるんだけど、今どの辺か気にしてるから」

「ああ、駅に着いたところだ」

 自動改札を無事通過したことを教える音が聞こえた。

「すぐ帰ってくるでしょ」

「ああ、綾音が何か言ってるのか」

 潤は綾音を見遣った。水仕事を終えた綾音に声をかけるが、場所がわかったら切ってもいいよという答えだった。

「家で話がしたいみたい。ずっと待ってるんだ」

「そうなのか」

 考えを巡らせるような声にアナウンスが重ねられた。また次の電車が来るところらしい。

「悪いけど切るぞ」

「うん、ごめん」

 そう言って潤は自分から電話を切った。

 ちょうど駅に着いたところだったと綾音に言うと、そんなに遅くはならないねと手を拭きながら言った。千裕が帰り着くのは九時頃になりそうだけれど、明日は平日だったはずだ。そんな日に綾音が、こんなに長く家にいたことは今までない。

「いいの、綾音さん。もうこんな時間なのに」

「どうしたの、やけに気にするね」

 綾音はにこにこ顔で言った。そうやって見つめられると変な想像をしてしまう。それが半ば本気だったのはだいぶ前のことで、最近は自分でもわかるほど落ち着いてきた。

「綾音さん、いつもと違うから。気になるよ」

「どこが」

 わざわざ訊いてくるところが何だか意地悪だ。

「どこがって、だからこんな時間まで残るなんていつもなかったでしょ」

「そうね、ちょっと千裕と大事な話があるから。言っとくけど別れ話じゃないから」

「それは聞いたよ。そんなロマンチストじゃないんでしょ」

 綾音はおかしそうに笑った。

 野球はいつの間にか九回の表に入った。四点差のまま試合は進んで、素人目にも西武の勝利はほぼ決まって見えた。

 綾音は何も言わないけれど、時々玄関を気にしていた。自分が抱えてきた話が気になるのだろう。それほどのものだったら、自分は邪魔なのかもしれない。

「じゃあ、俺は寝るから」

 そう言うと、綾音は心なしか安堵したようだった。

 おやすみ、と返事をした綾音は、すっかり青山家の住人だった。

 ベッドに横たわり、気がつくとテレビの音が聞こえなくなっている。目覚まし時計を探し、バックライトを点けるボタンを探り当てる。午前二時を示していた。変な時間ではあったけれど、喉の渇きを覚えて潤は麦茶を飲みに出た。

 廊下でリビングの薄い明かりに気がつく。まさかまだ綾音がいるのかと思ってのぞき込む。綾音の姿はないけれど、代わりに千裕の姿があった。

 驚いて兄さんと声を上げる。イヤホンをつけて体を丸めた千裕は、一瞬反応が遅れたけれど、振り返った。

「何だ、寝ないのか」

「眠れないんだよ。目が冴えちゃって」

「明日早いんじゃないのか」

「それは兄さんも綾音さんも、そうじゃないの」

 まあな、と答えた千裕の顔に笑顔はない。元々表情豊かな人間ではないけれど、苦笑ぐらいは返してくれるはずだ。やはり綾音も千裕も、今夜は何かが違う。

「兄さん、綾音さんと何を話したの」

「何でそんなこと気にするんだ」

「だって綾音さんも明日仕事なのに、わざわざ野菜炒め作って兄さんを待ってたんだよ。野菜炒めは邪道とか言ってた人なのに。変じゃん」

 言い募るうちに声が大きくなる。正体はわからないけれど、自分ではどうしようもない不安が大きくなっていく。千裕と綾音、そして自分を巻き込んで何かが起こっているのではないか。そうだとしたら、自分はどうしたらいいのだろう。

 千裕は振り向いた姿勢のまましばらく見つめ、ため息をついて、もう寝ろ、と言った。

「お前が気にすることじゃない」

 突き放すようではなく、あくまで柔らかな声音だった。もしも話を望むのなら付き合うつもりがあると伝えてくる。

 けれどその裏に、気にしないでほしいという願いも感じ取れた。表情の少ない千裕だが、潤は弟として長く付き合ってきた時間から、深く突っ込むと兄を困らせることになると悟る。少しの間黙って見つめ合い、潤は頷いた。

「でも綾音さんはどうしたの。結構遅い時間だったけど」

「俺の部屋で寝てるよ」

「兄さん、俺に遠慮してるの?」

 若い女の人が恋人の布団で寝ていたら、考えられることは一つしかない。ちょっと茶化すように言ってみると、違う、と千裕は答えた。今度は癇に障ってしまったのか、わずかに突き放す感じが混じった。

「終電を逃しただけだ。とにかく今日は駄目だ」

 ここにも追及を避ける願いが含まれた。その意図を汲んでそれ以上突っ込む気にはなれなかったけれど、疑問はまだ尽きない。

「でも兄さん、寝ないの?」

 来客用の布団がないからこそ綾音は千裕の布団で寝ることになったのだろう。兄弟の部屋以外に、他に寝られる部屋も思いつかない。

「そろそろ寝る、ここで」

「大丈夫、疲れ取れないんじゃ」

「一日くらい平気だ。とにかくお前は早く寝ろ。お前の方が早いんだから」

 追い立てるような言葉に従って、潤は麦茶を飲んでから部屋へ戻った。

 翌朝千裕はソファに横たわって眠っていた。既に綾音は起きていて、昨夜と同じようにキッチンに立っている。

 あいさつを交わして潤は自分でパンを焼く。焼き上がるまで千裕を何度か見遣ったが、彼は起きる気配がない。

「兄さん、昨日夜中まで起きてたんだけど、どうしたの」

 綾音はリンゴの皮を剥く手を止めずに口を開く。

「ちょっとね。もっとタイミングを考えた方がよかったかな。どんな感じだったの」

「イヤホンで音楽聴きながらソファでじっと座ってた。俺は麦茶を飲んだらすぐに帰ったんだけど」

「そう、何だか悪いことしたかな」

 喋りながら綾音の手元にぶれはない。リンゴの皮はほぼ一定の幅で剥かれていく。厚さも一定なのか、むき終わるまで見ていても皮は切れなかった。

 綾音は視線を気にせず切り分けていく。更には半月切りのリンゴが並べられていた。

「今日も早いんでしょ、大変ね」

「俺はいいけど、兄さんは大丈夫なのかな」

「あと一時間ぐらいで起きてもらおうかな。会社に間に合わないし」

 言いながら綾音は、更に目玉焼きを出してきた。彼女にしては手間のかからない料理だった。

 兄と交わした会話は気になるけれど、二人ともはぐらかすばかりで、その奥に追及を避けたい気持ちがあるのがわかる。上手く心を開かせる方法も思いつかない。けれどどうしても気になることがある。

「昨日来たのって、俺には関係があるの」

 いずれ兄も綾音も自分の傍を離れていく。綾音と初めて会った時、今までとは違う空気を感じていたから、薄々そういう結末は感じていた。いつそうなっても構わないと密かに構えていた。

「関係はあるのかな。まあ、時期が来たら話すってことでいい?」

 またもはぐらかされる。これ以上言葉を引き出す術は見つからない。

「約束してね」

「もちろん」

 綾音はにっこり笑った。初めて出会った頃と変わらない、魅力的な笑顔だ。その上に家事も気遣いも欠かさない。自分と血を分けた兄にはもったいない。そんな言葉を、どうやって場を和ます程度の冗談にすればいいかわからずに、潤は何も言わずパンをかじった。

 

 二週間余りの間に期末テストとその結果発表も終わり、夏休みが始まった。去年までは特別することがなくて、三年生になったら勉強漬けの日々が待っているだろうと思って身構えていた時期だ。

 終業式の日の夜から千裕は出かけていて、帰ってきたのは三日後の夜だった。土日と国民の休日が重なって、千裕は三日間家を空けた。図書館で帰ってきた時、三日ぶりにマンションの中に人の気配を感じた潤は心の底から安心した。

 挨拶をした時、千裕はいつものように野球を見ていた。

「西武勝ってる?」

 千裕は肩越しに振り向いて、二点差で勝ってると答えた。

「あんまり安心はできないけどな」

 まだ五回までしか進んでいない。その回の守備で、ノーアウトでランナーを二塁に背負っていた。

「綾音さん来ないんだよね」

「しばらくは来ないだろう。自分で何とかするんだな」

「兄さんは食べたの」

「帰りがけに食べてきた」

 まだ七時もなっていない。少し早い夕食だっただろう。

 潤は冷凍庫から、冷凍のチャーハンと餃子、引き出しからインスタントのスープを取り出した。お湯を沸かしている間に冷凍食品を解凍して食べられるようにする。その間にお湯が沸いて、スープ皿にスープの素を入れてお湯を注ぐ。ほんの五分程度で食事の準備が整った。

 これから先も、きっと同じような食事をするだろう。綾音はもう、この家には来ない。少なくとも自分のために食事を作ってくれることはなくなる。

 そう思うと、濃い味付けからくる匂いが、頼もしくも寂しいものに思えてくる。これから先、料理を覚えない限りはずっと付き合う匂いだろう。

 完成した食事を持ってテーブルへ向かう時には、西武は同点に追いつかれていた。

「挨拶はもう済んだの」

 少し機嫌を悪くしたような後ろ姿へ、潤はおずおずと話しかけた。千裕は短く返事をして、これから忙しくなると答えた。

「これから受験って時に慌ただしくして悪いな」

 千裕はこっちを向いて言った。いつも淡白な声が、この時ばかりは深い感情を宿して聞こえた。

「いいことなんだから、気にしないでよ。それに俺が何かをするわけじゃないし。大変なのは兄さんでしょ」

 千裕はため息をついた。疲れや心配事を吐き出すようなものではなく、自分自身の心を落ち着けるためのものに聞こえた。

 千裕はこの三日間で、自分の実家と綾音の両親の元へ挨拶に行っていた。いつそうなったのかわからないけれど、以前泊まった時、綾音は自分の妊娠を告げに来たらしい。あの時千裕の様子がおかしかったのは、まだ遠い出来事だと思っていたことが、突然近づいてしまって混乱したからだろう。それも二週間ほど時間をかけ、お互いの両親に挨拶をして、結婚の意思を確かめ合うと落ち着いてきた。

 けれど共に暮らすようになって三年目の弟から見ると、まだまだ本調子ではない。どこか浮ついたような感じが拭えなかった。

「こんな急に物事が進むなんて思いもしなかったな」

 ぽつりと言った千裕は、また野球の方へ顔を向けた。その後ろ姿だけでも戸惑いが見て取れる。綾音が三十歳になる頃までには答えを出すと言っていたことがある。あと三年ぐらいは今のままでいたいと考えていたはずの千裕にとって、この急展開は戸惑うのに充分のようだった。

「俺もびっくりしたけど、でも済まなく思うことなんてないよ。これはいいことなんだし、いずれ兄さんもそうなるつもりで綾音さんと付き合ってたんだし」

 言葉を一つ紡ぐたびに、潤は千裕と綾音が遠ざかっていくような気がした。本当に手の届かないところへ行ってしまうのはまだ先の話だろうけれど、二人はついに一線を越えたのだ。考えるたびに何となく不安になっていたことが、現実となって向き合ってくる。中心にいるのは千裕と綾音ではあるけれど、その脇で二人をずっと見てきた自分も無関係ではいられない。

 二人の旅立ちを見送ってから、自分も変わっていかないといけないのだ。

「でもな、俺は不安だよ。最初に考えた通りにいかなかったし」

 千裕の不安を見るのは珍しかった。立場のせいか、弟の前で不安を口にすることはほとんどなかった兄である。それほど今回のことは予想がつかなくて、困惑する出来事だったのだろう。

「お金のことが?」

「お前にしたら高い金をもらってるんだろうけどな。家族を養えるかどうか不安だな」

「綾音さん、働いてくれるよ。働くのが嫌で兄さんと結婚するわけじゃないでしょ」

 今までずっと見てきた綾音の姿を思い出しながら言うと、千裕は口を噤んだ。試合は同点のまま続く。その試合を相変わらず眺める千裕だったけれど、微笑んだのが背中が発する気配でわかった。

「俺の方が不安だよ。兄さんは綾音さんの料理を食べられるからいいけど、俺はこうやって冷凍食品を毎日食べることになるんだから」

「綾音に料理を教われ」

「それにはちょっと上手すぎるよ」

 潤も自分自身の不安を吐露すると、現実に向き合って重くなりつつあった空気が少しだけ和んだ。

「兄さんは俺がここに来た時どう思った?」

 虚を突くことになったのか、千裕は振り向いた。

「古いことを訊くんだな」

「でも二年ぐらい前でしかないよ」

「もうそんなに経ったのか。そう言えば俺が社会人になったのとほとんど同じぐらいだったな」

 お互いに新しい環境に入ったばかりで馴染めなかった頃、それぞれが慌ただしい日常を過ごして、すれ違うことばかりだった。部活にも入らなかった自分は学校が終わるとすぐに帰ってきて、今日のように冷凍食品を適当に解凍して食べ、その間に千裕が帰ってくるという日々の繰り返しだった。会話ができるのが一時間ぐらいしかなく、兄弟を思い遣る余裕も持てなかった頃だから、風呂が沸かせていなかったり洗濯物を取り込むのを忘れて雨に濡れたりという失敗から喧嘩になって、それが長引いたこともある。その頃、潤は密かにここに来るべきではなかったのかもしれないと思っていた。

「綾音さんがいたから良かったのかな」

 思えば険悪になりがちだった兄弟の仲を取り持ったのは綾音だった。献身的に家事をやってくれて、まるで母親のような仕事をしてくれた。兄にとっては彼女でも、自分にとっては保護者に近い人だった。

「色々あったけど、綾音さんが来るまで俺はここを出た方がいいんじゃないかって思ってたんだ」

 二年余りの間、ずっと胸に秘めていたことを口にすると、引っかかり続けたつかえが取れた気がした。

「出ていって、どこへ帰るつもりだったんだ」

「それは、家に帰るしかないよ。兄さんがせっかく新しい暮らしを始めたのに、邪魔をしてたら悪いと思ってて」

「俺は別に、お前が邪魔だなんて思ったことはない」

 その言葉を聞いても、特別な感情は起きてこなかった。

「あの時は何があったのか詳しくわからなかったけど、何だかすごく傷付く出来事があったことだけはわかってたからな。そんなのを放り出せば後悔するのが目に見えるだろう」

「兄さんみたいにはいかなかったけど」

「それはしょうがないだろ。俺とお前は違うんだ」

性格の強さも弱さも個性だと、あっさりと認めてくれた。そういう考えの下で一緒に暮らしているのだとわかってはいたけれど、言葉として聞くのは初めてで、記憶として心に落ちていくと大きな支えになるような気がした。

「でもお前は大丈夫だな。また音楽を始められたんだ。お前は強いよ、ちゃんと昔を乗り越えようとしてるんだからな」

失敗を苦にして逃げ出したことは正しいことではなかったけれど、それで自分の全てが否定されたわけではない。そして今、最も近しい人が、自分の前身を認めてくれた。嬉しくて笑みが広がっていくのがわかって、嬉しそうだなとからかうように言われても止められなかった。

「兄さんも大丈夫だよ。大事なところで俺を元気づけてくれるんだから。お金のことは、俺にはどうしようもないけど」

 今まで自分を住まわせてくれた兄に何か恩返しをしたい気持ちがある。けれどすぐに思いついたのは、今まで使った生活費を返すことだけで、それはまだ社会に出られない自分には当分叶わない。

「そんなこと気にするな」

 千裕はそう言って試合に目を戻す。西武が再び二点をリードしていた。

「兄さんたちはこの後、どこへ行くの」

「まだ考えてないな。しばらくはどっちかの家に身を寄せることになるだろうけど、早く見つけないとな」

「この家はどうするの」

「お前が住んでもいい。まだ実家には戻りたくないんだろ」

「そうだけど、でも、兄さんたちが必要なら俺は実家に戻るよ」

 千裕は振り向いた。目つきが鋭くなっている。

「何も気にしなくていいんだぞ」

「そうだけど、でもここは元々兄さんの家じゃないか。必要なら俺はできるだけのことはやるよ。恩返しにもならないだろうけど」

 千裕は返事をしなかった。腕を組んでテレビに向き直る。

 ツーアウトまで進んでいた試合が、スリーアウトチェンジを迎えた時、千裕は口を開いた。

「綾音と相談してから決める」

 一番無難な返事だったけれど、将来の妻をちゃんと思い遣っているのがわかって、安心する答えだった。

 

 夏休みに入ると受験勉強が本格化して、学校へ行く時間に図書館で勉強したり、時には大学へ行って模試を受けたりする。そういう日々を、三年生に上がる直前の三月には思っていたけれど、実際に迎えてみると違う日々が待っていた。

 朝から気温の上がる日に学校へ行くのは勉強のためではなく、鈴木先生と楽器を弾くためで、参考書ではなく楽譜を読むことになった。鉛筆の代わりに右手ではピックを持って、左手は弦を押さえる。ピアノを弾くのとは勝手が違うと戸惑った楽器も、一ヶ月ほど練習すると、ピッキングからトレモロまで基本的なことはできるようになった。

 一人で弾くことができるようになると、共演する鈴木先生と音を合わせる練習が主になる。いつも一人で弾いていた鈴木先生は、共演者が現れたことが嬉しいようで、時々音が大きくなりすぎることもあった。けれど自分でそれをわかっているらしく、潤が言わなくても、次の演奏では修正してきた。

 七月最後の日曜日には、夏祭りの会場になる駅の西口にステージカーがやってきて、そこの上でリハーサルも行われた。出演する潤と鈴木先生は、同じようにステージに上るニコラスさんと再会する。何度か参加している上、他のステージでの演奏経験も豊富なニコラスさんは落ち着いていて、ステージや観客が集まる場所を見渡す余裕を見せていた。

「野外で楽器を弾くのは初めてですよ」

 ニコラスさんがステージに上るのを脇で眺めながら呟くと、いい経験になるなと鈴木先生は言った。

「こういう場所で弾く機会があった時、戸惑わずに済むじゃないか」

 これから先のことを思った時、不特定多数の人たちを相手に弾く機会があるとは言い切れない。望みはニコラスさんやビリーと一緒に弾くことで、自分の音楽を発信したいのとは違う。

 ワイシャツにスラックスという、以前のコンサートと同じ出で立ちでステージに上ったニコラスさんがリハーサルを終えると、潤と鈴木先生の順番になる。ステージカーから見下ろした景色は、記憶にある景色よりも高くて、視界も遥かに広く遠い。目抜き通りは日常が繰り広げられていて、こちらに関心を持つ人も少ない。ステージカーの周りに無関係の客たちが集まってくるのは本番のことだ。今は音の聞こえを確かめる人や、本番の運営に関わる人たちしかいない。

 潤は指定の場所に置かれた椅子に座って、楽器を構えた。屋外で弾くことを聞いた時からわかっていたけれど、音の響きが良くない。それを補うためにマイクを置くのだろうが、それでも微妙な調整が必要らしく、適当な音を何度も弾かされて、その間に調整役がマイクの高さを上下させたり、マイクを微妙に動かしたりしていた。かなり神経を使う仕事らしく、暑さもあってその人のシャツは見る間に汗だくになっていた。

 やがて二人のマイク位置調整が終わった。何か適当に弾いてくださいと下から言われ、鈴木先生と顔を見合わせる。予定ではサティの『ジムノペディ第一番』を最初に弾くことになっていて、リハーサルの前にも予定通りに弾こうという話になっていた。

 鈴木先生の静かで単純な音に乗せて、ピッキングで一つずつ音を鳴らしていく。元々があまり大きな音を鳴らさない曲で、それを再現しようとすると、思ったより音量が伸びない。観客席からもっと音を大きくというカンペが出された。それに従うと、鈴木先生と曲の息が合わなくなる。ギターの音が大きくなりすぎたり、反対にマンドリンが目立ちすぎて伴奏がないも同然に聞こえてしまったりする。『ジムノペディ第一番』はそうやって不完全に終わったけれど、次の『亜麻色の髪の乙女』は、音の出し方に慣れたせいか、お互いによい音の出し方ができたと思う。

 本番で演奏する曲を全て終えると、次の演し物のリハーサルが始まる。速やかに係の人がマイクを片付けて、潤もそれに倣って立ち去る。

 ステージを下りて何気なく振り仰ぐと、女の人たちが浴衣姿で並んでいた。

「我々の後がミスコンか。ちょっと不利な順番だね」

 自分たちの演奏がミスコンの人気で忘れられるのか、あるいは逆なのか。どっちの意味で言ったのか、鈴木先生は語らなかった。

 同じ年頃の人はいなくて、千裕の年代に近い人たちが並んでいる。綾音がいたらどうだろうと想像していると、端の方にひときわ目立つ容姿を見つけた。

「ビリー……」

 何人もの人に隠れて、横顔が辛うじて見えるだけだったけれど、一番遠くには確かにビリーが立っていた。それも浴衣を着ている。周りに合わせたのだろう。

「ケイスケ、ジュン、ご苦労さん」

 ニコラスさんは冷たい缶ジュースを持って現れた。遠慮しながら受け取り、鈴木先生に倣って缶を開けたけれど、口をつけると一気に中身を流し込んだ。

「姪御さんが出るようですが」

 鈴木先生もビリーの方を見ていた。

「エントリーはギリギリだったけど、間に合った。こういうものには出たくないと言うのかと思ったけどね」

 ステージの下から、出場者たちが何か説明を受けている。ビリーはひたすら目線を下に向けて注目していたけれど、きっと何を言葉の内容は理解していないだろう。通訳の一人もつけないのは不親切だと潤は思った。

「心境の変化があったのかな」

 独り言のようなニコラスさんの声は、ビリーに向けられていた。 

 出場者たちは一旦退場して、それから各自が一芸を披露しはじめた。

 一番端にいたビリーの出番は最後で、途中から予想できたように、彼女はコルネットを吹き始めた。

 他の出場者たちと同じように、一分にも満たない持ち時間を終えてビリーはステージを後にする。曲の名前はわからなかったけれど、最後まで演奏できず、中途半端に途切れてしまったのはわかった。

「青山くん、僕たちの仕事はもう終わった」

 鈴木先生は暑さから逃れたがっているようだった。

 潤はニコラスさんに会釈して、鈴木先生についていった。近くの自転車置き場に停めておいた自転車を引き出して、踏切の前まで鈴木先生についていく。そこで図書館に行くからと言って別れた。

 踏切の前で立ち尽くした潤は、少し迷ってから会場へ戻った。自転車は目立たないところに置き去りにして、身一つでステージへ戻る。ニコラスさんとビリーは、ステージの脇にいて何かを話し合っていた。

 ビリーは笑みを見せていて、安心しているようだった。

 二人の間に入るのは少し勇気が必要だったけれど、声をかけると二人は意外と友好的に迎えてくれた。

有意義なリハーサルだったと思う。あとは本番を迎えるだけだね」

 ニコラスさんはそう言って握手を求めてきた。それから肩を叩く。それはもう一つの握手を促すものだった。

 視界の隅に、ビリーの手が入り込む。おずおずしたものではなく、何か確信を持っているように滑らかな動きだった。

 潤はその手を無言で取った。するとビリーは、それまでにない強さで握りかえしてきた。何か大きな決意を秘めた力で、同時にエールを送られた心強さが胸に宿った。

 

 演奏の当日は晴れて、リハーサルの時よりも日中の日射しは厳しくなった。演奏自体は夕方からで、日射しの中で楽器を弾くことはないものの、蒸し暑いことに変わりはない。潤はその日、昼頃から学校に来て軽く練習してから鈴木先生と一緒に会場まで来た。それでも時間は三時間ぐらい余っていて、時間を潰すために目抜き通り一杯に広がった出店を見て回った。

 その中にはアイスを売っている店もあった。一本百四十円でスーパーで買うより割高だったけれど、構わずに潤は買った。暑かったのもあるけれど、綾音がよく買ってくれたチョコミントのアイスだったから欲しくなった。

 綾音は音楽をしない自分しか知らないから、今の自分を見てほしいと潤は思っていたけれど、あまり無理はできないのだろう。綾音の妊娠を知ってからもう二週間以上経つけれど、一度も家を訪ねてこない。どんなに間が空いても、一週間に一度は訪ねてくる人で、兄のこととはいえ他人事だった事件が、にわかに接近したような気がした。

 人の集まり具合から見て大きな祭だと思っていたけれど、実際に歩いてみるとそれほどの規模でないことに気がつく。目抜き通りはせいぜい三百メートルぐらいしかなくて、先端まで進むとその先はいつも通り車が通っている。七月の終わり頃から姿を現した七夕飾りは力作揃いではあったけれど、作ったのは小学生が主で、おかしみの漂うデザインと、微笑ましい願い事が書かれた短冊が目を引いた。

 目抜き通りを端から端まで往復するのに二十分もかからない。潤は緊張もあって歩き回る気になれず、出演者にあてがわれた控え室へ戻った。駅の中にある、市民ギャラリーのためのスペースを一つ借り切っていて、様々な団体の参加者が思い思いの時間を過ごしている。

 鈴木先生はその隅にいて、窓から目抜き通りを眺めていた。

「まだ時間はあるから、散歩を続けていいのに」

「あんまりそういう気分になれなくて。それに結構狭いから、すぐ飽きるんです」

「出店も似たようなものが多いと気づいてしまうからね、大人になると」

 潤は地元の夏祭りや縁日が好きだったけれど、とりわけ出店に興味を惹かれていた。昔はどれもこれも個性的に見えて全ての店で買い物をしたくなったものだ。それが今日眺めてみると、鈴木先生が言うように似た者同士が多くて興ざめしてしまう。

「でも出店を楽しむために来たわけじゃないですし」

「そうだとしても、ほんの三十分ぐらいのことだからね。今日を逃すと一年待たないといけないよ」

 それを惜しく思うようなものがここにあっただろうかと思う。

 何なのかわからないけれど、何かがあると思ったからここまで来たのだ。

「さっきビリーとクラウスさんに会ってきたよ」

 何気ない鈴木先生の言葉に潤は引きつけられた。

「まだ普段着ではあったけど、それぞれ練習をしていたね」

「様子はどうでしたか」

「ニコラスさんは慣れているからいつも通りだったけど、ビリーはさすがに緊張していたね。こういう場所に楽器を持って出てくるのは初めてのことらしいし」

 何とか緊張を落ち着けてやりたい。少なくとも人前に出て何かをすることについて、自分はビリーよりも慣れている。緊張を抑える方法も知っているけれど、どうやって伝えたらいいかわからない。

 肝心なところで何もしてやれないのが、自分の限界かもしれなかった。

「緊張してるみたいだね」

 静かな声に見透かされ、他人の心配どころでないことに気がつく。自分の正念場はまだ来ていない。

「こうやって人前で何かをするのって久しぶりですから」

 三年ぶりになるだろう。そしてあの時は一人でピアノを弾いていた。今日手にする楽器はピアノですらない。そして一人ではない。

「でも初めてなわけじゃないんだろう」

「もちろんです。でも、どんな時だって緊張はすると思ってます」

「無理に抑える必要はないか」

 鈴木先生は緊張しているように見えない。いつもの通り飄々としていて、声も涼やかだった。

「正直言うと、失敗は怖いんですよ」

 その言葉が思いの外素直に出た。ピアノを弾いていた頃にも、出番の直前まであった不安だったけれど、それを口にする相手はいなかった。

「失敗したらどうしようって、ずっと考えてました」

 一度はその心配のために、音楽から遠ざかっていた。

「今は、どうなんだ」

 鈴木先生はゆっくり訊いた。一言ずつ、どんな言葉でも受け止めると言ってくれているようで、潤は安心する。

「今は、失敗する怖さより、演奏する楽しさの方が大きい気がします」

 抱えている不安を認めた上で、それでも本心を口に出来た。そうすると心は軽くなって、一歩前へ進めたような気がした。

 やがて夕方を迎えると、潤と鈴木先生は係員に呼ばれて外へ出た。ニコラスさんが先にステージ脇のテントに待っていて、何か説明を受けていた。ニコラスさんと話をする係員は時々驚いたような顔を見せる。ニコラスさんは本番前にもかかわらず、いつもと全く変わりがない。こちらに会釈する余裕さえ見せた。

「まずは観客として見てほしいね。肩の力を抜いてね」

 そう言ってニコラスさんはステージへ上がっていった。

 ニコラスさんについての説明が、ステージ脇の放送席から読み上げられる。近くの文化会館で五年も演奏活動をしていて、普段は米軍基地の中で教師をやっているという経歴が読まれると、ステージカーの周りに集まっていた観客たちの何人かは興味深げな顔を見せた。

 ニコラスさんはそれぞれの反応を見せる人たちを笑顔で見下ろしていた。そしてトランペットを構えて、いつかと同じように『星条旗』と『君が代』を奏で出す。どうやらこの演奏から始めるのが、ニコラスさんの流儀であるらしい。

 以前聞いた演奏と違って伴奏がない。ニコラスさんの完全な独壇場で、音楽の厚みは保てるのだろうかと少し心配になった。けれど『熊蜂の飛行』や『チゴイネルワイゼン』のように、一瞬でも指先から目を離したら一切追えなくなるような速さの曲は、小難しい理屈よりもニコラスさんの演奏技術を裏付ける説得力があった。曲の合間には相変わらず説明がなく、ニコラスさんは畳みかけるように難しそうな曲を奏でていく。潤は音に、ニコラスさんの指遣いに圧倒されていく。音楽が生む苦しみよりも、その力で意識を遠くへ連れ出されるのが先で、演奏が終わって戻ってきた時に、胸にも頭にも痛みは残っていなかった。

 拍手はニコラスさんが日本人のようなお辞儀をした時にだけ沸き起こった。ほとんど間を置かず、客に息をもつかせない演奏で、拍手と共に耐えてきたため息が吐き出されたようだった。

 ニコラスさんがステージを下りていく間、送り出すようにアナウンスがあって、再び拍手が起きる。潤と鈴木先生の演奏の予告はその後で、準備に十五分かかる。ニコラスさんは立って演奏していたけれど、ギターとマンドリンは座って演奏するのが基本になる。更に金管楽器が持つ音の力強さもない撥弦楽器のために、高さや角度が調整されたマイクが置かれる。

 その間後ろの方の観客が何人か離れていったけれど、それを上回る数の客が寄ってくる。物珍しさだろうか。あるいは音楽を期待してくれているのだろうか。

 そう思うと、昔の失敗のことが思い出されてしまう。あの時は失敗の後音楽をやるのが怖くなって、それが三年間続いた。

 今は違う。客の求めから逃げないと決意できる。

 ステージ脇からの説明が終わると、鈴木先生と目配せする。

 ピアノを弾いていた頃から、潤は指揮者と共に音楽を作り上げることをしたことがない。

 その代わり、伴奏者と弾くこともあまりしてきていない。

 呼吸を合わせて音楽をすることに、不安を感じないわけではない。ずっと好きなようにやってきて、失敗を怖れて逃げてきた自分に、他人との音楽ができるのかと不安がっていた時期もある。

 けれどここに来たのなら、客を満足させるだけのことをするだけだ。

 潤は目配せに小さく頷いて見せて、それから鈴木先生が楽器を叩くのを見て、拍を胸の内で数える。

 一曲目はサティの『ジムノペディ第一番』だ。リハーサルの時と同じように、ピッキングで音を出していく。

 鈴木先生の伴奏は単調なメロディーがずっと続く。それに飲まれないように演奏するのは集中力が必要で、リズムに乗るのが難しい。

 ピアノを弾いていた会場と違って、音は響かずにひたすら遠くへ広がっていく。弦の調べはマイクを通して大きくなる。それを前へ向けて落としていく。遠くへ届けるのではなく前へ落としていく。

 一曲終わるごとに潤は、ずっと心につかえていたものが溶けていく気がした。

 期待を背負うことから逃れるために、ピアノの前から遠ざかってきた。人の前に出て音楽をすることを避けてきた。失敗した過去から逃げるためだったけれど、鈴木先生の音楽に合わせて自分の音楽を築き上げていくと、失敗への不安が小さくなっていく。

 ニコラスさんと同じように、曲の合間に説明は挟まずに進めていく。『亜麻色の髪の乙女』を弾く頃には、前を見る余裕ができていた。

 客の表情はそれぞれだ。笑みを見せていたり、無表情だったりしているけれど、皆が注目している。

 時にはピッキングで、時にはトレモロで、音を奏でていく。これで客たちを満足させることができるのかどうかの不安が、弾いている間に何度も顔をのぞかせる。潤はそのたびに考えるなと言い聞かせる。

 失敗しても、客と最後まで向き合うためにここへ来たのだ。乗り越えるために必要なことなのだ。

 最後の六曲目の、最後の音を弾き終える。大きく遠くへ広がった。

 一瞬の間を置いて、拍手が沸き起こる。

 潤は鈴木先生と一緒に立ち上がり、頭を下げた。

 三年ぶりに聞く客の拍手は、潤の中にあった音楽への恐怖を消していく。

 潤は昔を乗り越えられたと確信できた。

 司会者の声と拍手を聞きながらステージを下りていく。その時には、今まで音楽の何に苦しんでいたのか忘れるほどだった。

 こんなにも良い気分になれる場所から、どうして逃げていたのか。何を怖がっていたのだろうか。

「いい演奏だったね」

 鈴木先生が微笑みかけてきた。潤も同じように笑い返す。けれどそれは、鈴木先生と同じ気持ちではなかったと思う。

 今にして思えば小さなことから逃げ続けていた自分を笑う表情だった。

 ふと、ニコラスさんが声をかけた。

「二人とも、応援席へ行ってくれないか」

 ニコラスさんが指差したのはステージカーのすぐ傍で、観客が入ってこないように仕切られた柵の内側だった。

「ミスコン出場者の関係者はあそこに入れるんだ」

 客よりも近いところで応援してやってほしいということだろう。

「わかりました」

 潤は応じ、準備が整うのを待った。まだ演奏の後の片付けが済んでいない。出場者の姿も見えない。

「どういう姿で来るのか楽しみだね」

「リハーサルの時に見たじゃないですか」

「本番になったら何か変わるかもしれない」

 鈴木先生は何故か潤の肩を軽く叩いた。

 以前のリハーサルで見た時、参加者は全体で二十人はいた。それだけの人数が一度にステージへ上れば、どうしても二列以上になってしまって、後ろの方に並んだ人が見えなくなる。去年のミスコンで優勝したという、妙齢の司会者の説明では、参加者は七人ずつ三組になって順番に登場してくるということだった。

 ビリーの組は最後の三組目で、純たちが応援席に入るのも待たされた。

 更に、ビリーの順番はその中でも最後だった。他の参加者たちが、英語でのスピーチやダンスなどを披露していく。それを他の応援者たちが声援を送る。ビリーが雰囲気に飲まれていないかと心配になった。

「ビリーは大丈夫でしょうか」

 潤はステージの端に立ち尽くすビリーを見ながら、脇に座るニコラスさんに訊いた。コルネットをまだケースから出しておらず、両手で支えながらステージに置いている。その顔は下を向いていて、一見すると緊張に戸惑っているようだった。

「平気だよ。君が自分の音楽をやり遂げたんだから、ビリーも自分の音楽をちゃんとやるだろう。君たちも私も、お互いに影響を与え合うことができるインタープレイヤーなんだ。それほど優秀な弾き手なんだよ」

 ニコラスさんは気楽に答えた。

インタープレイヤー……」

 その言葉は自分にも向けられている。ニコラスさんにそう思ってほしくて、今回初めての楽器を持ってきて、音楽に戻ってきたのだ。充分な成果だ。どんな拍手や賛辞よりも嬉しい言葉だった。

 やがてビリーの番になる。参加者たちの中には外国人もいて、彼女らはそれぞれに特徴のある日本語で司会者の質問に答えていた。

 けれどビリーは、ほとんど日本語を喋れない。喋れるのは、知り合いの日本人の名前と、お礼の言葉だ。とても司会者と会話ができるような力はない。

「通訳としてニコラスさんがいった方がいいんじゃないですか」

「そう思ったんだけど、どうやらそれは駄目らしい」

「不利じゃないですか」

「でもビリーの演奏が本当に素晴らしいものなら、それを乗り越えられるかもしれない」

 道路の喧噪を超えて届いたほどの音に、観客が魅了されたのなら、ニコラスさんの言葉も希望的観測ではないと思った。

 司会者はビリーの名を呼ぶと、日本語が喋れないことを観客に向けて告げた。

 その代わりのように、ビリーのことについての質問を、応援席の三人に向けてきた。

「まずお名前についてお訊きします。女の子の名前としてはあまり馴染みのないお名前ですが、どういう由来があるのでしょう」

 ニコラスさんがその質問に応じた。マイクが渡され、声を上げる。

「彼女の母親はウィルマといいますが、その愛称形がビリーです。母親が娘とつながりを持たせたかったからです。それと、母親がテニスファンだったことも由来の一つです。ビリーの名は、ビリー・ジーン・キングから取ったものでもあります」

 潤はニコラスさんの言葉に聞き入っていた。男のような名前にこめられた意味を知ると、ビリーの奥が見えた気がする。

「なるほど。ではビリーさんはどんなアピールをしてくれるんでしょう」

コルネットを吹きます。あまり人前では吹かない子ですが、決して下手ではない」

コルネットとは?」

「トランペットの妹分と思ってくれればいいでしょう」

 トランペットに比べて小さく、おかしげな音を奏でるコルネットの表現としては、言い得て妙だと思った。

「ではビリーさんに代わって、何かアピールはありますか」

 その質問は何故かニコラスさんではなく、潤に向けられていた。司会者と目が合い、ニコラスさんもマイクを渡してくる。

 ビリーのことをそれほど多く知っているわけではない。良さも悪さも知っているのはニコラスさんの方で、アピールの役目を代わるのに相応しいはずだ。

 潤はニコラスさんを見遣った。けれど任せるつもりのようで、マイクもさり気なく押してくる。

 まだ知らないことがたくさんあるビリーを褒めるための言葉を必死で探して、やがて潤は、一つの言葉にたどり着いた。

「ビリーは、インタープレイヤー、です」

 その言葉はきっと、会場にいるほとんどの人に理解されなかっただろう。司会者も言葉に詰まったし、一瞬だけ何とも言えない沈黙が生まれた。

 けれどビリーは、確かに反応した。

 下を向いていた顔を上げ、こっちを向いた。

「それは、どういう意味ですか」

 司会者に訊かれ、少し困ったけれど、あまり飾る必要のない賛辞だと思い出した。

「とても上手い弾き手ということです」

 ビリーに今の言葉が伝わったとは思えない。けれど、伯父の好きなインタープレイヤーという言葉はちゃんと届いたはずだ。遠くを見渡したビリーの表情には自信が宿る。

「言葉が通じない代わりに、素晴らしい演奏をしてくれると思います」

 道路の喧噪を突き抜けた音楽を、静かなステージの中で聞いた音楽を、星空の下で響いた音楽を。

 潤は脳裏に甦らせながら、その一言に集約した。

 司会者は質問を打ち切り、ビリーに演奏を促した。

「ビリー、ジュンへのインタープレイだ」

 ニコラスさんが言って初めて、ビリーは楽器をケースから取り出した。

 日が暮れ始める時間帯で、金色の楽器が輝く。それはあの時の、初めて二人の音楽を聴いた時と同じ輝きだった。

 そうしてビリーは『君が代』と『星条旗』を奏でた。ニコラスさんのトランペットに比べて、おかしくも悲しげな音が目抜き通りの喧噪を突き抜けて響き渡っていく感じがした。

 胸も頭も痛まない。けれどそれは、ビリーの演奏だからではない。

 きっともう、自分は乗り越えることができたのだ。あの時の失敗に、もう立ち止まったり振り返ったりはしない。

 ビリーの演奏はゆっくりしたテンポで、二分ほどで終わった。演奏が終わると、明らかに遅れて拍手が観客席から鳴った。真相はわからないけれど、ビリーの演奏が素晴らしかったから、感動したせいだと思った。以前音楽の素晴らしさに、意識をどこか遠くへ連れ去られたように。

 ビリーの演奏が終わって、司会者はミスコンの終了と審査の開始を告げた。出場者たちが退場していき、潤も応援席を後にする。結果発表まで一時間近くあって、また時間を潰す必要が出てきた。

 潤は鈴木先生とニコラスさんと共に控え室へ戻った。一通り祭は見てしまったから、暑い中を歩き回るのも気が進まなかった。

 六時からだという結果発表まで、潤はニコラスさんや鈴木先生と、今日の感想を話し合って過ごした。二人から音楽で認められるというのが何だか心地よくて、ここ最近遅れがちだった勉強のことなどどうでもいいという気にさえなった。

 ステージへ戻ると、一足先に出場した二十人余りがステージに上っていた。三人で応援席に入って結果を見守る。ビリーはやはり一番端にいて目立たない。

 司会者が結果を読み上げて、そのたびに応援席から歓声が上がる。潤は自分たちが最も嬉しい声を上げるのを待ったけれど、ビリーの名が読み上げられることはなかった。その時潤はビリーを見た。

 いつも表情に乏しかったビリーは顔を背けていた。その時確かに、顔を歪めていた。

「ご苦労様……」

 自分たちの中で唯一、競争に出場した女の子に向けて、静かな労いをかけた。

 

 それからステージでは、米軍基地所属の軍人たちによるロックコンサートが行われた。その賑やかな音を聞きながら、潤はニコラスさんと鈴木先生と共に、ビリーの着替えが終わるのを待った。

 一足先に着替えを終えてから駅の改札口で、行き先表示板が二回変わるぐらいの時間を過ごした頃、ビリーは現れた。

 もう見慣れた黄緑のブラウスと、レッドソックスのキャップをかぶっている。浴衣姿も悪くはなかったけれど、こっちの格好の方が似合うような気がする。そう言えればいいと、潤はいつにも増して思った。

「ビリー、いいものをもらったみたいだね」

 ニコラスさんはビリーが持っている小さな熊のぬいぐるみを見ながら言った。

 ビリーは英語で何ごとか言い、それを聞いてからニコラスさんはこっちに向き直った。

「参加賞らしい。あのステージに上った全員がもらえたそうだよ」

 ビリーは照れくさそうにしていた。

「ニコラスさん、今日はお疲れ様でした」

 鈴木先生がニコラスさんに握手を求めた。それに応じたニコラスさんは、潤に手を差し出してくる。

「君もよく頑張ったね」

 近づいてみたいと思った人の笑顔と、認めるような言葉は、今日一日の疲れを全て溶かすようだった。

「ありがとうございます」

「立派なインタープレイヤーだったと思うよ。いずれそのことを実感してみたいね」

「喜んで」

 そのためにマンドリンを弾き、音楽へ戻ってきたのだ。いずれは本来の居場所、ピアノの前に戻ってきたい。

 手を離すと、ビリーの手が差し出された。

 潤はその手を迷わず握った。

「アリ、ガト」

「サンキュー」

 それぞれ言葉を交換したように礼を言い合うと、やっぱり不慣れな分変な発音になって、おかしくなって、二人は笑い合った。

 ビリーとニコラスさんは祭の会場へ戻っていき、潤と鈴木先生が残された。鈴木先生は電車に乗るつもりらしい。

「今日は本当によかった。いい演奏だったと思う。一緒にやれてよかったよ」

「僕も、嬉しかったです。ニコラスさんの言うインタープレイがわかったような気がします」

「君はやっぱり素質があるね。大学に行ってからも、またやってみないか」

 そう言われると約束できない。この街に残るかどうか、まだ不透明なのだ。

 大学に入る頃、実家へ帰るかもしれないと言うと、それでも通えるなら来てほしいと鈴木先生は言った。

「君みたいな奏者を簡単には手放したくないね。それに、今度はピアノも聞いてみたい」

 何度も聞かされた期待の言葉で、そのたびに逃げてきた言葉でもある。けれど今は、できるだけのことはしますと、嘘を交えずに言うことができた。時間さえあるなら、また弾いてみたい。そして観客たちに聞かせたい。今日みたいに、音楽をやっていてよかったと思う瞬間にまた出会ってみたいと思えた。

「あのまま終わらなかったらよかったのに」

「そんな子供みたいなことを」

 潤は苦笑して言ったけれど、鈴木先生の気持ちもわかった。失敗の恐怖もあったから、このまま滞りなく終わればいいと思っていたけれど、心のどこかには、終わらずにずっと弾いていたいという気持ちもあった。

「でも、もう一度弾けたらいいですよね」

 偽らざる本心を言うことができた。真っ直ぐに、笑顔で音楽への思いを口にできることが、今はとても嬉しかった。

 

 8

 

 千裕のマンションに入る道を通り過ぎて、緩やかな坂を上っていき、交差点を通り抜ける。単線の踏切を抜けると米軍基地がある。その傍を歩いているうちに後ろから貨物機が飛んでくる。久しぶりに聞いた飛行機のエンジン音に足を止めた潤は、住み慣れた街に帰ってきたのだとしみじみ感じた。

 濃淡二種類のグリーンのラインが機体に入った貨物機は、ずっと遠くの方の滑走路に着陸した。潤が立ち尽くす位置からは見えなくなる。以前もこうやって飛行機が着陸するのを見たことがあるような気がするけれど、いつのことだったか思い出せなかった。

 飛行機のエンジン音が消えて道路の喧噪が戻ってくると、潤は来た道を戻っていく。踏切を渡ったところで足を止めた。

 フェンスの向こうには芝生と道路があって、赤い自販機が目印のように目を引く。まだ昼下がりと言える時間だったけれど人気はない。道路の喧噪ばかりが聞こえてきた。

 ここで音を聞いて、それから始まった縁が、とても遠く懐かしい感じがした。

 そんな思い出を遠い目で眺めると、自販機の傍に懐かしい佇まいが見えて、それが懐かしい音を奏でたような気がした。

 夕方の、車で騒々しくなる道路を突き抜けて届いた音だ。その記憶が、景色が鍵となって呼び起こされただけにすぎないけれど、思い出に浸るように潤はしばらくの間立ち尽くした。

 フェンスの向こうは相変わらず人気がない、思い出を眺めていたら、それに呼び寄せられるように本人たちが現れるかもしれないと、根拠のない願いを信じたけれど、当然起こるはずのないことだ。踏切が警報を鳴らしたところで我に返った潤は、千裕のマンションへ向かった。

 自転車で通い慣れた道を通っていき、千裕の部屋のインターホンを押す。ややあって返事が聞こえた。それに名乗りを返すと待ちかねたような声が聞こえて通話が切られる。そしてドアが開かれた。

「潤ちゃん、久しぶり」

 出迎えたのは綾音だった。一年前と見た目は変わらないように見えるけれど、元々あった頼りがいが一層強くなったような気がした。

 男二人で住んでいた頃に比べて、家の中ではいい匂いがするようになった。子供のためか、それとも綾音の趣味かわからないけれど、千裕と綾音が共に住むようになって、このマンションは確かに変わった。

 リビングのテレビの位置は変わっていないけれど、テーブルがあった場所にカーペットが敷かれて、テーブルは隅に移動している。

 テーブルの反対側にはベビーベッドが置かれていて、そこには今年の二月に生まれた千裕の子供が寝かされていた。

「千弥ちゃん、叔父ちゃんが来ましたよ」

 綾音が柵の中の子供に笑いかけたけれど、生まれてまだ三ヶ月しか経っていない子供は反応しない。気持ちよさそうに眠っていた。二人で顔を見合わせ、どうしようもないねと笑った。

「せっかくの連休なんだから、もっと別の場所に行けば良かったのに。千裕はそうしてるよ」

 綾音はキッチンで紅茶の準備をしながら言った。まだ見慣れた光景だと思うことができて、卒業してからそれほど時間が経っていないのだと思えた。

「行く場所ないから」

「寂しいわねえ」

「でもなかなか来られてなかったから」

「そんなのいつでもいいのに」

 綾音は後ろを向いて、引き出しから何かを出そうとしていた。

「兄さんどこに行ったの」

西武ドームに野球見にいってるのよ。会社の同僚と一緒みたい。仕事上の付き合いもあるから、まあしょうがないんだけど」

「不満なの?」

「一人で子供の世話任されたら、いくらかわいくたって疲れるしね。もっと先のことだと思ってたから、まだどこか心の準備ができてないのかも」

 話をしている間に、電気ケトルの湯が沸き立ってきた。あまり多く入っていなかったから、すぐに沸いたようだ。

 綾音は馴れた手つきで紅茶を淹れていく。ミルクが注がれたものがテーブルに並べられた。

「大学どう?」

 向かいに座った綾音は興味深そうだった。

「まあまあだよ。勉強もしてるし、友達もできたから」

「サークルは?」

「あんまり面白そうなものがないんだ」

「ピアノせっかくまた始めたんだから、音楽系のサークルにでも入ったらいいのに」

 綾音の声はもったいないと言っているように聞こえた。

 興味を惹かれなかったわけではないけれど、多人数で集まってやるという音楽に踏み込む気になれないまま、五月の連休を迎えてしまった。いつか鈴木先生と一緒に音楽をやることになった時、サークルにいたら時間が取れなくなってしまうと言い訳めいた思いがずっとあったけれど。

「わたしたちのところへ来るだけなの」

 他に何か目的はないのかと訊かれて、友達に会いに来たと潤は答えた。

「本当は先生にも会いたかったんだけど、何だか異動しちゃったみたい」

 鈴木先生が別の学校へ移ったのは新年度が始まってからで、その報せを聞いた時何かすごく惜しいものをなくした気がした。一緒にずっと音楽を続けていたいとまで言ってくれた人が、仕事のためとはいえ離れていってしまった。何だか二度と会えないような気がしていた。

 綾音と最近のことを話し合い、紅茶を飲み干すと、潤は外へでかけた。自転車は実家へ戻る時一緒に持っていってしまったから、ここにはない。歩いてうろつくしかない。すると昔は狭く感じていた街が、思いの外広いことに気がつく。市営球場もやたらと遠くなったと思った。

 試合は行われておらず、グラウンドやその周りは静かだった。ここでニコラスさんやビリーと出会い、彼らの名前を知ることになったのは一年も前の話だ。あの時の出会いが、ピアノを再び弾くことにつながっていったけれど、卒業してからは連絡を取り合うこともできなくなった。

 潤はそれから、文化会館へ向かった。ニコラスさんのステージを見たのは六月のことで、今頃なら予定表にも名前があるはずだ。

 文化会館の掲示板に、これからのステージの予定が載っている。けれどその中にニコラスさんの名前はない。ステージをやめてしまったのかもしれないけれど、あのニコラスさんが簡単にやめるとも思えない。

 ステージに上るのをやめたのでなかったら、考えられるのはこの街を離れたということだ。もしかしたら日本にいないのかもしれない。

 ニコラスさんについてきたビリーも、きっとついていっただろう。一人になることのできない人だったのだから。

 ニコラスさんとビリーに出会い、二人の音楽を知って鈴木先生と共に再び音楽を聴かせるようになって、まだ一年も経っていない。それぞれのことを知っていくのはこれからだったはずなのに、ほんの数ヶ月勉強に集中して、街を離れている間に周りの人たちが遠ざかってしまった。夕方に近づく時間の、特有の空気が少し寂しくて心に染みた。

 あと二十分もしたら五時になる。潤は思い出して、坂を上って、単線の踏切の近くへ戻った。たどり着いた時、ちょうど五時になった。あの音質の悪いスピーカーが『君が代』と『星条旗』を奏でた。

 潤はフェンスの向こうに人を探した。さっきと同じように基地内に人の気配は全くなくて、道路を行き交う車が増えただけだ。

 やがて演奏が終わって、潤は立ち去った。もう一度野球場へ向かう。薄暗くなってはいたけれど、明るいうちにはなかった人の姿が球場の周りにはある。グラウンドにはユニフォーム姿の選手たちがいて、それぞれ練習をしていた。

 何となく、以前鈴木先生と一緒に見たチームのユニフォームに似ているような気がした。

 もしかしたら鈴木先生が、また同じように見に来ているかもしれない。そう思って探すけれど、それらしき姿はない。ニコラスさんもビリーも、同じだった。

 潤はそれでも諦めきれずに、三人のうちの誰かが来るかもしれないと思って試合を眺めることにした。観客席に一人で座って、ボールの遣り取りを見つめる。去年見た、城崎投手ほどの気迫はどちらのピッチャーにも感じられない。両チームとも守備があまり上手くなく、エラーがいくつも出て、三回まででスコアは六対五と荒れた。

 素人目にも面白くない試合だったけれど、それでも野球に引き付けられてニコラスさんやビリーが現れるかもしれないと、根拠なく期待していた。結局七回までのスコアは十四対十となり、七回裏の終了時点で時間切れとなって、先攻チームの勝利となった。光の中でプレイし続けた選手たちは満足そうだった。

 最後まで誰も来ることはなく、潤は一人で試合を見続けた。この結果が当然のことで、何もおかしいことはない。鈴木先生も、ニコラスさんも、ビリーも、もうこの街にはいない。それだけのことなのだ。

 家に戻ると千裕も帰っていた。同居をやめてまだ二ヶ月ぐらいしか経っていない。四月の誕生日を経て二十五歳になったとはいえ、二ヶ月前に別れた時よりも風格が漂うような気がした。

「綾音さんは」

 リビングにはテレビを眺めながら箸を持つ千裕しかいない。

「もう寝たよ。子供を寝かしつけて、自分もそのまま寝たんだ」

「いいの、自分はここにいて」

「俺だってさっき帰ってきたんだ」

 テレビは西武の試合を映し出していた。大きく上がった打球を追う映像は、壁の向こうに日射しがあるのを伝えてきた。

「今日デイゲームじゃなかったの」

「試合が長引いたんだ。それと色々遊びもした」

 千裕の声はどこか言い訳めいていた。もしかしたら綾音にもそのことについて何か言われたのかもしれない。好きな野球の試合を見にいったにしては、疲れの根が深いように見えた。

 千裕に食事を勧められ、潤は冷蔵庫から煮物が入った鍋を取り出してコンロで温め直す。その間にご飯をよそい、準備を整える。一分もあれば温め直しは終わった。

「どこに行ってたんだ」

 千裕はテレビを眺めながら訊いた。

「ちょっとその辺を歩いて、あと野球見てた」

「市営球場でか」

「ちょうど草野球やってたから。ひどい試合だったけど」

「お前が言うなら相当だな」

 潤はテレビの中のプロ野球と、さっきまで見ていた草野球を比べてみた。映し出されるのはダイジェストだけれど、プレイの一つ一つに無駄がなく、動きも鋭い。サードからファーストへ投げる時も、ワンバウンドになったり逸れたりしない。仕事として野球をやる人とそうでない人とでは、技術にこれほどまでに差が出るのかと感心した。

 食事を終えると、千裕はビールを勧めてきた。去年までは抵抗があったけれど、大学で誘われて飲んだ後は、未成年であることを気にしなくなった。

「ピアノ、弾けるようになったのか」

 テレビを見ながら千裕は訊いた。

「少しずつね。もう音楽から逃げたりしないよ」

「ちゃんと地元で暮らしているんだからな。それは心配してない」

 素っ気ない言い方で、嬉しいような残念なような、複雑な気持ちになった。

「去年のマンドリンのお陰だと思う。あれがあったから、少しずつ音楽に戻っていけるようになったんだ」

 鈴木先生はリハビリだと言った。全く弾いたことのない楽器を弾くのは、指の使い方に似たところがあるとはいえ苦労した。けれどそのお陰で、また音楽をやる勇気を取り戻せたのだから、充分な効果があっただろう。

「いつか聞いてみたいな」

 以前重荷になっていた兄の言葉は、今は心地よく背中を押す力になった。

 休日は次の日までで、潤は綾音が作った昼ご飯を食べてから駅へ向かった。休みの最終日で、明日からはまた大学へ行かなくてはならない。

 新しい家庭を築いた千裕と綾音に会いに来たのが目的の一つではあったけれど、もしかしたら去年知り合った人たちに会えるかもしれないと思っていた。とても小さな確率を乗り越えて出会った人たちだったから、今回も根拠のない願いを超えて現れるかもしれないと思っていたのだ。

 けれど当然のように、誰とも出会うことなく休みの日は過ぎていった。約束もないのだから仕方のないことだけれど、期待を裏切られた気持ちは少しだけあった。

 音楽でつながったような気がした人たちだったけれど、時間が過ぎてみれば消えていく絆でしかなかったらしい。

 寂しさを感じながら、潤は市営球場の方へ向かった。これから先、何度も千裕のもとを訪ねる機会はあるだろうけれど、何度も行けるわけではない。会うことができないのなら、せめて一つのきっかけになった場所で思い出に浸ろうと思った。

 昨日の夕方から試合が行われていた市営球場に人の姿はない。今日も夕方から試合があるのかもしれないけれど、その手がかりはどこにもない。

 そして、知っている姿もない。これ以上いることに不毛さを感じて、潤は駅の方へ歩こうと思った。

 少し調子の外れたイントネーションで名を呼ばれたのは、一歩を踏み出した時だった。

 女の声で、少し笑っているように聞こえて、微笑ましくなるようだった。

 どこかが違うような気はしたけれど、声自体に聞き覚えはあった。

 潤はその声の主を思い描きながら振り向いた。

 レッドソックスのキャップが最初に目に入った。

「ジュン、やっぱり」

 探していた人の一人だった。喜ばしいことではあったけれど、本人を目の前にすると言葉が出てこない。

「どうしたの、ジュンでしょ」

 潤は驚きに、言葉が出てこなかった。本当に自分が知っている人だろうかと思ったほどだ。

 自分が知っているビリー・ハンセンは、片言とはいえ会話ができるような日本語を使える人ではなかったはずだ。

「あ、そうだけど、その、本当にビリーなのか」

 思わず言ってから失礼なことを口走ったと後悔したけれど、ビリーは苦笑しただけで済ませてくれた。

「一年ぐらいで忘れるのね。この帽子、忘れたの」

 そう言ってレッドソックスのキャップを人差し指でつつく。忘れるはずがない。ただ、もっと違う理由がある。

「いや、本当に出るなんて思ってなくて」

「人を、幽霊みたいに」

 ビリーはまた笑った。発音の仕方はどこかおかしいけれど、充分に通じる日本語だ。いくつか言葉を交わす内に冷静さを取り戻して、潤は記憶と目の前のビリーを見比べる。日本語が格段にうまくなっていることを除けば、目の前のビリーは記憶の中の女の子と同一人物だ。

「ビリー、なんだね」

「そういうあなたは、ジュンなのね」

 お互いの記憶が通い合った。音ではなく、きっと無理だろうと思っていた言葉によって。

 ビリーの方から差し出された手を、潤は握った。初めて握手を交わした時と同じように、ビリーの手は冷たく、それでいて滑らかだった。

「戻ってきていたんだね」

 日本語が通じるとわかると、潤の口は軽くなった。以前と違って気安く話すことができる。ビリーもそれに応じるように、優しい微笑みを見せてくれた。

「戻ってきちゃった。伯父さんは心配してくれたけど」

 市民球場から文化会館の方へ向かう坂を下る間に、ビリーは夏祭りの後のことを話してくれた。

ニコラスさんが米軍基地を離れ、母国へ戻ることになって、それについていくはずだったけれど、米軍基地の中に残ったらしい。ニコラスさんと共に帰れば、住み慣れたミネアポリスでの暮らしを再開して、大学にも通えるはずだったけれど、ビリーは日本に残ることを選んだ。日本の大学に留学生として通っているようだった。

日本語は、そこで必要になると思って学んだらしい。その成果は確実に表われていた。

「いつまでも伯父さんに頼ってはだめだと思ったから」

 日本に残った理由を、ビリーははにかんで答えた。

「ジュンは今、どうしているの」

「実家に帰って、地元で大学に行ってるよ。もうここには住んでいない。今日は兄さんに会いに来たんだ」

「じゃあ、九月にもう一度来てくれるかしら」

 その理由を、ビリーは肩に背負った楽器ケースを見ながらビリーは語った。

 ニコラスさんが五年間続けたインタープレイステージを、今年の九月からビリーが引き継ぐらしい。楽器は変わり、演奏技術も拙くなるけれど、去年の夏祭りでの演奏を覚えてくれている人はいて、その人たちは期待してくれている。ビリーはそう、少しはにかみながら語った。

 掲示板の予定表にはまだ名前がないけれど、それはまだ先の話だからだろう。掲載されるのは三ヶ月ごとの予定で、六月が終わらないと次の予定は発表されないのだ。

「ジュン、もう一度会うことができたらやってみたいことがあったんだけど」

 文化会館の前で、ビリーは言った。

「音楽をやりたいの?」

 そう訊くと、どうしてわかるの、とビリーは声を上げた。

「ニコラスさんから前に聞いたから。今はピアノが弾けるようになったんだ。練習に付き合ってもいい」

 ビリーは嬉しそうに頷いた。

 ビリーに案内されたスタジオは程よい広さで、一目見て音の響きが良さそうだと思った。

「いつもどちらかの演奏を聴くばかりだったわね」

「ああ、一緒に弾くのは初めてだけど」

 そのためにもう一度音楽をやろうと思ったのだ。

「何を弾くの」

 ビリーは少し考えてから答えた。

「『星に願いを』」

 潤は特別な感慨が胸に沸いてくるのを感じた。ビリーが覚えているかどうかわからないけれど、星空の下で、背中合わせに聴いた曲は、今も耳の奥に残っていて、その時の風の流れも、遠くで聞こえていた雑音も、全て覚えていた。

「ちょうどいいね、お互い知ってるから」

 そう言いながら潤は、ピアノの前に座った。嫌なことを思い出さなくなったわけではないけれど、それ以上に音楽をやれる喜びの方が大きい。

 記憶の中にある音を追って、潤は音を奏でていく。ビリーがそれに合わせて自分の音を出す。その喜びが大きくて、潤は嫌な記憶が薄れていく気がした。

 インタープレイとは、優秀な弾き手同士が感じ合う相互作用だとニコラスさんは言っていた。少なくとも自分は、その影響を受けていると思う。あれほど嫌がっていた音楽が、ただ嬉しい。知り合った相手と一緒に音を重ねていけるのが、楽しかった。

 潤とビリーは、演奏の途中に何度も目を合わせて、音の調整をしていく。そうやってアンサンブルを作り上げていく。

 決して長い曲ではない。短い時間に集中して、今できる最高の演奏を作り上げて、完結させたい。

 でも、ずっと終わらないでいてほしいとも思う。ビリーの奏でる音楽と共に、もっとアンサンブルの時間を過ごしていたい。

 いくつも、いくつも音を重ねて、いくつものアンサンブルを形作っていく。それがどれほど楽しくて幸せなことだったか。失敗の記憶を乗り越えていく価値があったのか。それはもはや、考えるまでもないことで、潤は思いのまま楽しさを感じ続けた。

 

                    [了 四百字詰め原稿用紙 四一二枚分]

2014年11月作品