yuzaのブログ

幕末から明治を舞台にした小説を中心に載せています。

遠花火

 

 濃墨を塗ったような空を花火が照らし、それから二拍ほど遅れて音が体を震わせる。雪に囲まれて待った春若が待ち望んだ瞬間だった。

 色の付いた火がはらはらと夜空に紛れたと思うと次の弾が打ち上がる。光と音を一瞬残して消えていく。その繰り返しに見入るうちに静寂が戻る。残ったのは冴え冴えとした雪明かりだけだ。

「気は済んだか」

 重たげな白い息をつきながら、父の武義は手を揉みながら訊いた。

「結構です」

 最近教わった言葉で応じたが、何となく舌がくすぐったい。

「ならば行くぞ」

もう一度息をついた武義が歩き出したのに従い、春若は三日前堤の上に降り積もった雪に足跡をつけていく。花火の残した重い音が耳に残るせいか、雪を踏む音がくすぐったい感触を耳に植え付けた。

春若の脳裏には、決して小さくはない隔たりがあってもなお強く焼き付いた花火が未だに残り、胸を大きく揺さぶっている。胸が抱えきれずに落ちたものを、どうにかして表に出したいと思う。

言葉にするのが一番楽だろう。数えで七歳になる自分は表す言葉を多くは知らない。雪深い夜道を歩くことを直前まで渋っていた父は一切語らない。その黙然とした背中に向け、春若は口を開いた。

「父上、とても美しゅうございました」

 その言葉だけでは、自分が感じたことを全て表せる気がしない。美しいとは少しも目を離したくないようなものに向けて遣う言葉だったと思うが、あの花火はそれだけに収まらないものを含んでいたはずだ。

「お前には、あれが美しいものに見えたか」

 足を止めた武義が見下ろす。笑いかけた記憶の少ない父の顔は影を被っているものの、何故か微笑んでいるような気がした。

「美しゅうございました」

 それ以外にあの花火を表す言葉を知らない春若はひたすら繰り返す。

「私には鮮やかに見えた」

「鮮やか」

 聞き覚えのない言葉を春若は訊き返した。

「あるいは儚い。お前が美しいと感じたことも含め、どれもあの花火を表せる言葉だ。誰かにあの花火を伝えるのなら、今の三つを覚えておきなさい」

 それだけ言うと父は再び歩き出した。鮮やか、そして儚い。あの花火のどれを取っての言葉かわかりづらいが、どこかに当てはまる言葉なのは間違いないだろう。

 そして何度も付き添いをせがんでようやく重い腰を上げてくれた父が、花火を表す言葉を教えた後少しだけ和らいだものを感じさせた。あの美しく、鮮やかで、儚い花火が父の何かを変えてくれたのだと春若は思った。

 

 桧内川上流の町では毎年二月頃紙風船を打ち上げる祭を行い、その締めくくりとして冬の花火を打ち上げる。花火のことは知っていても実物を見たことのなかった春若はどうしてもとせがんで父と共に見にいった。城下とその周辺には花火を打ち上げるだけの空間がなく、近くで見ることはずっとかなわなかった。

花火がよく見える桧内川の堤まで、自分一人で何度も通ったことがあるものの、昼と夜とでは景色の見え方が違う。密かに幽霊や妖怪の類を信じている年頃でもあったから、夜に出歩くだけでも大変な勇気だった。

 勇気を振り絞って見にいった花火は、何日置いても春若の胸に染みついて消えない。何とか表す術が欲しかったが、父に教わった言葉だけでは形に残らなくて面白くはない。言葉遊びのつもりで美しい、鮮やか、儚い、といった言葉を口にして、それで終わってしまう。

 花火の表し方を探しあぐねて思い至ったのは、父が使う書の道具で絵を描くことであった。自分の脳裏には見た瞬間のものが残っているし、色はつけられなくても、難しい言葉で表すよりは簡単に思えた。

 数日かけて父がいつも道具をしまっておく場所を確認すると、出仕するのを見計らってから一式を引っ張り出した。

墨をすって水を加え、墨池に墨を溜めていく。父を見て覚えたことだ。最も父が使っていた筆を持って、半紙に脳裏にある光景を映すつもりで、墨を吸った筆先を滑らせていく。

花火の形は確か丸かったと思う。その周りに数え切れないほど多くの光の線が出ていた。しかし墨の色で表すことはできなくて、ただの線にしかならない。

 そうして完成した絵は、真っ白な背景もあって、同じく強い光でも太陽のように見えた。

 春若は癪に障る出来に終わった絵を丸めて部屋の隅に投げ捨てた。それを何度繰り返しても、脳裏に残る花火のようなものは表せない。

 自分が美しいと感じ、父が鮮やかで儚いと思ったあの夜空の一瞬を描けない。回を重ねるうちにだんだん苛立ってくる。

 同時に没頭していく。今回は駄目でも次はできるかもしれない。手や小袖が墨で汚れていくことには構わない。その繰り返しをするうちに、父に黙って書の道具を使っていることを忘れていった。

 父に見つかったら大変という、最初あった警戒心も消えていく。日射しの色が変わってくるのにも気づかず、自分が納得できる形を追い求めた。

「何をしておるか」

 何枚目になるかわからない半紙を丸めて捨てた時、父の怒声が鳴り響いた。驚いて声の方を見た途端、脳天に拳骨が振り下ろされた。遠慮会釈のない、目が眩むほどの衝撃で、どちらかというと温厚な父にしては珍しく、感情が先に立ったような一撃だった。

 その夜、書の道具を玩具にした春若はもちろん、見守りを怠ったとして母も父の怒りに晒された。何の落ち度もない母を巻き込んだのは心苦しいが、それよりも最後まで思った通りの形を表すことができなかったことが残念で、それを成し遂げる瞬間を思うと、父の説教もどこか遠くに聞こえるのだった。

 父の説教や怒声が怖くないわけではない。実際父に怒られてからの数日、春若はおとなしくしていた。言われた通り書の稽古に出て、母の手伝いをして、子供らしく親の言葉に従って来た。

 それも数日の辛抱しかもたず、我慢できなくなって墨でいたずら描きを始めてしまう。自分だけの道具があればそれを使うが、絵を描けそうな道具が父の持ち物しかないから、危険を冒さなければならない。

 前回の失敗を踏まえて気づかれないよう注意したつもりだが、あっさり見破られてまた説教を食らう。

 今回は少し様子が違い、そんなに絵を描きたいのか、と訊かれた。

 父の顔色をうかがう時間を置き、春若は頷いた。

 父はため息をつき、書の道具を玩具にされるよりはましか、と呟いた。

 翌日の午後から、春若は西村尚孝の画塾に行かされた。

 西村尚孝は藩で狩野派の絵を学んだ後江戸詰を経て故郷に戻り、現在は藩の御用絵師として活躍する男だった。彼の業績について詳しくは知らないし、絵を描かせてくれるというだけで嬉しかった春若には知らなくてもいいことであった。

 彼の画塾に通うのは同じ武家の子女ばかりで、歳もほとんど変わらない。絵筆と紙を渡された春若は好きに描いていいのだとばかり思っていたから、続いて茄子や葱などの絵が描かれた手本を模写するよう言われたのは期待外れだった。

 二日間はおとなしく言われた通りのことをしていたが、ここでも春若は花火を描きたい気持ちを抑えきれず、三日目から手本を無視した絵を描き始めた。

 すぐに尚孝に咎められた春若だが、ここでも好きなことができないと思うと、魅力的だった画塾が急につまらないものに思えた。

「こんなことつまらない」

 そう言い放って春若は画塾として使われていた庵を飛び出していった。その時人にぶつかってよろけたが、勢いは衰えずに走り続ける。気づいたら桧内川にたどり着いていた。冬の花火を見た堤には桜が満開だが、同時にそよ風で花びらが散っている。見ているうちに、じん、と胸の奥にかゆいようなくすぐったいような感覚が根付いた。

 桜の花びらが散る中を何となく歩いているうちに、熱っぽかった頭が冷えてくる。父に言われたことにまた背いてしまったという、自分の大それた行動に思いが回る。

 父は少しだけ絵を描くことに理解を示してくれたようだが、それも駄目となれば二度と絵を描かせてくれないかもしれない。あの墨を使った絵は絵と呼べるものでなく、ただのいたずら描きでしかないことはわかっていた。それでも絵を取り上げられるのは辛い。

 師に謝ったら続けられるだろうか。だけどあの画塾にいても、延々とつまらないことをやらされるだけではないか。そう思うと簡単に謝れない。

 あの画塾に戻りたくはない。あの師から絵も学びたくない。だけど絵は描きたい。

 どうしようもなく、行き止まりにぶち当たったような感覚に陥った。春若はあてどなく堤の上を歩き続け、やがて並木が終わると見覚えのない景色にうろたえた。

 仕方なしに来た道を戻ると、途中で男と出会った。

 すれ違おうと脇に逸れた春若を、男は呼び止めた。

「さっきの子だね。こんなところでどうした」

 咎める響きはなく、むしろ優しさを感じたが、見知らぬ顔に警戒は解けない。下手に心を許したら何をされるかもわからない。

「西村尚孝殿の画塾から飛び出すのを見たのだが。違ったか」

 さっきまでの師の名を聞いて春若ははっとした。庵を飛び出す際、誰かにぶつかったことを思い出す。姿形まで覚えてはいないが、西村の名を出す以上可能性はある。

「連れ戻すおつもりですか」

 春若は身構え、きっと睨んだ。背も足も細長く、捕まっても大人とは言え必死に暴れたらどうにか逃れられるだろう。無理に連れ戻されたところで、素直に教えを受けていられる自信はない。

 男は相好を崩し、腰を落とした。

 目線が同じ高さになる。それだけで今まで抱いていた警戒心が薄らいだ気がした。

 男の思いもしなかった態度に戸惑っていると、西村のところは嫌か、と訊かれた。

 素直に答えていいものかと答えあぐねている内に、男の方から素直になっていいと背中を押した。

「戻りたくありません」

 言ってしまってから、素直すぎたのではないかと後悔した。男は不意に立ち上がる。叩かれるのかと身構えたが、落ちてきたのは言葉だった。

「では私の方はどうだ。西村殿ほどではないが、私にも絵を描く才があって、同じように教えている。武家の子もいれば町人の子もいる。西村殿のところが嫌でも、私のところなら好きになれるやもしれぬよ」

 父がいつも遣っている、いかにも士分らしい言葉遣いだったが、父のものとは違って恐れを和らげるような感じだった。

 今まで自分の周りにはいなかった類の男の背中に惹きつけられるものを感じて春若は追いかけた。見知らぬ人間についていってはならないと父から教わったことがある。しかし彼は、西村の画塾を訪ねていた。西村の知り合いならその弟子だった自分にとって、全く関係がないわけではないだろう。

 他人に話す気にはなれない考えを胸に抱きながら春若は名も知らない男を追いかけた。歩幅の違いは徐々に距離を開いていくが、男はそのことにも敏感で、時折振り向いては距離を縮めようと努めて歩幅を小さくしてくれた。

 彼の行き先は見慣れた武家屋敷の建ち並ぶ城下であったが、そこを通り過ぎて少しうらぶれた道へ入ると不安になる。それが大きくなる前に男は茅葺きの庵のような家に案内した。表戸の横には、『秋明舎』と書かれているのが辛うじてわかるくすんだ看板がかかっている。

「空いているところに座っていい」

 表戸を開くと広い板の間があって、その奥に居間がある。そこには男が言ったとおり、様々な身なりの子供たちがいた。一人だけ女がいるものの、他は全て男で埋められている。

 物怖じしないのを自覚する春若だが、いきなり連れてこられた場所で好きに振る舞うことはできない。とりあえず言われた通り、隣に誰もいない男の子の席に着いた。

 程なくして男が紙と絵筆、そして墨の入った硯を渡してくる。それで好きなように描けと言い残して、前の方へ戻っていった。

 好きなように絵を描くことはやりたいことだったはずだが、大人から言われたのは初めてで戸惑いがある。それでも少し時間を置くと落ち着いて、春若は筆を持った。

 描きたいものと言われても、やはり花火しかない。そもそも茄子や葱を描き続けるのが嫌で飛び出したのだ。

 とりあえず一枚、花火の絵を描き上げる。以前描いたのと変わりない出来だった。

 丸めて捨てようと思ったが、周りが誰一人そうしておらず、床もきれいに片付いているからできなかった。失敗したものは脇に寄せ、新たな絵を描き始める。

 そうして花火を描くことに没頭した。いつの間にか周りに人はいなくなり、男と二人きりになっていた。

「これだけ長くいて、花火だけか」

 近寄ってきた男の声には興味が沸いたような響きがあった。西村の画塾だったら最初の一枚で咎められ、改めて見本を描くことを強いられていただろう。

 西村とは対極の柔らかさに、好きにしろと言われたから、と答えた。

「確かに。それはいい。しかしもっと描きたいものがあったのではないのかな」

「いいえ。他には何も」

 立ったまま絵を見下ろす男を見上げて正直に答えるのは、思いの外重苦しいものだった。

「花火だけを描き続けたいというのか」

 春若は頷いた。認めるのではないが、咎めもしない静かな態度だった。

 おもむろに脇へ避けていた絵を拾い上げて見つめると、更に何枚か同じように見入った。欠点を探しているように見えるので穏やかでいられない春若は、男から目を離せずにいた。

「花火といえば、桧内川の遠花火のことか」

 不意に口を開いた男が、急に近しく思えた。

「この辺りで花火を見ようとすればそれしかないと思うが、違うかな」

「そうです。冬にそれを見て、それがすごく美しくて、鮮やかで、儚くて、それで、きれいで」

 不意に花火を表すのに相応しい言葉を思い出せたので付け加えてみた。夜空に散っていく光は星の瞬きを派手にしたようなまぶしさで、あれはきれいと言ったらいいのだろうと最近思い始めていた。

「それを描きのこしたいのだね」

 男が胸の内を見透かした。たったそれだけのことにも関わらず、春若は射すくめられた。

「いや、なかなか面白くていいことだ。追いかけたらいい。自分が納得できるような花火を描けばいい。しかしね、好きなことばかりをやっていても好きなことは納得できる形にはならない」

 どういう意味かわからず、春若は間の抜けた返事をする。

「君が西村の画塾でやらされていたはずの、茄子とか葱の模写をするんだ。そうしなければ花火は描けない。描いても構わないけれど、そこにある絵と同じものをいつまでも描き続けることになる」

 男の言葉について考えようと思った時だった。

 庵の入り口の方で訪う声が聞こえた。

 聞き間違うはずがない。父の声であった。

「おや、来たのかな」

 のんびりした声を上げた男は、庵の入り口へ腰を曲げて歩む。短いやり取りが聞こえ、ややあって父の武義が現れる。

 春若の脳裏に自分の所業が描かれた。父の硯や筆で遊び、父に言われて通わされた画塾を飛び出し、行き着いたのは見知らぬ男の元である。どんな言われ方をしても仕方ないと、苦虫をかみつぶしたような顔の父と向き合い、正座した。

 怒声に身構えていたが、何故か武義は苦い顔で見下ろすだけで、そのうち居たたまれなくなった春若が目を逸らした。

「春若」

 不意に呼ばれて返事ができず、息を吐くような声が漏れた。

「ここで何をしておった」

 相変わらず苦み走った顔をしている父から目を逸らし、絵を描いておりました、とぽつりと答えた。

「絵を教えたのですか」

 その言葉は幾分和らいで聞こえた。自分と同じか上の身分を相手にしているとわかる。少なくとも子供を相手にする父の声ではなかった。

「私は何も。好きにさせておりました。花火の絵ばかりを描いておりましたが」

 まだ名前を知らない男は、笑顔でない武義を前にしても平然と答えた。自分だったらあの顔の父を前にしたら怖くて何を喋ったらいいかわからなくなるだろう。

「基礎を疎かにして何ができましょう」

「ええ、そう思います。私の教える絵は所詮遊びです。大人でもするようなことです。小田野直武のようにね」

 人の名前らしきものを出した男に、父の眉が微かに動いた。あまりいい噂のない人物なのだろうか。父の険しい顔は変わらなかった。

「しかし絵は絵、弱い基礎しか積まなかった者が人の心を動かすことなどできはしません。それほど浅薄なものではないし、何より自らが納得できず、心に淀みを抱えるでしょう。だから茄子と葱を描けと言いました。花火の絵を描いて、自らも他人も心を動かすために。そのように伝えました」

 春若には男の言葉にほとんど理解が及ばなかったが、西村尚孝の画塾でやったようなことを大事に考えていることだけはわかった。それが花火を描くのに大事なことだという。

 本当にそうかと疑う気持ちはあるが、これ以上ただ絵を描き続けても自分の描く花火がうまくならないような気がしていた。

 二人の師が同じように勧めてくることなら、正しいことかもしれない。春若はそんなことを思っていた。

 そして父が勧めた師と名前も知らないのに自ら背中を追う気になった師と、比べたらどちらに従えるだろう。

「春若。西村殿のところで茄子や葱を描くのがつまらないと言ったそうだな」

 険しい表情のまま問い質され、春若は辛うじて頷いた。

「だが誰についても同じことをやらされる。それが嫌なら絵など描くな。別のことをするがいい」

 そう言って父は手首を掴み、少し乱暴に引っ張った。連れ戻されたらここはもちろん、西村のところにも行かせてもらえなくなる。たった今絵を描くなと言われたのだ。

 花火が描けなくなる。あれだけ強く胸に残るものを表す術がなくなってしまう。

 それは嫌だ。そう思うと空いた手を伸ばし、男の手に助けを求めた。

 士分、特に侍として鍛錬を欠かさない父の手に似た、細くて固い手だった。

「どうした。絵を描きたくはないのだろう」

 男の手を掴んだ春若に、感情に乏しい声がかけられた。どう言葉を返したらいいかわからない春若は、とりあえず首を横に振った。

「基礎を嫌がる者には何もできん。お前に絵は向かない」

 父は怒っているのだろうか。師の言いつけを守らなかったからだろうか。

「申し訳ありませんでした」

 とりあえず謝れば怒りを鎮めてくれるような気がした。それでも駄目なら、花火を描くことを認めてくれた人に助けてもらいたい。

「葱でも茄子でも描きます。だから花火も描かせてください。お願いします」

 泣き叫ぶ春若は男の名を知らないことを思い出した。口を開いたまま言葉が途切れる。

 男は握るように掴まれた右手に左手を被せ、堤の上で言葉を交わした時のように目線を合わせた。強風に煽られた時大人に咄嗟に手を握られたような安心感が胸に満ちた。

「私は田中周造という。絵を描く時には秋明と名乗っている。他にもいくつかあってね、君がもっと大きくなった時には字を一つくらいあげよう」

 何を言っているのかわからないのは相変わらずだが、男は微笑んでいた。柔らかくて決して頼りには見えないのに、槍を振るう稽古を欠かさない父と向き合っても負けないような気がした。

「こう言っております。西村にはまあ、私の方から言っておきます。その方が彼も話を聞きやすいと思いますので」

 気楽に言った男に、父は鼻を鳴らしただけだった。この後どうなるのか何もわからないままその日は屋敷へ戻り、筆と墨で遊んだ時よりも長く叱られ、まんじりともできなかった。

 次の日から父は、昨日の庵で絵を学ぶよう言った。あまり嬉しそうには見えなかったが、あの男について学ぶことを許してくれたのは幸いだった。

 田中周造。画号として秋明の他に大孔や陽翁といった名を持つ男が、西村尚孝と同門にして御用絵師でありながら、故郷に戻った時に職を辞して細々と画塾を運営する道を選んだと知り、そのことの意味を考えられるようになったのは、春若が元服して武宣となった後のことである。

 

 二

 

 常磐色を雨が叩かなくなってきたと思う内に気温は上がり、梅雨の間にため込んだ湿気と激しさを増す日射しでうだる時期となった。

 夕刻、屋敷囲いや防火のために植えられた枝垂れ桜や樅の木のそびえる侍屋敷のひしめく通りを抜けると内町は終わり、火除け地と呼ばれる空き地を境に外町に出る。町人たちの住む町であり、士分の子とばかり関わっていたら足を止めることなどなかった場所である。

 静かな居住まいの内町に比べて外町は活気に溢れている。火除け地を隔てても伝わってくる活気が、祭で御輿が通る予定の今日は一層高まっている。華やぎのある通りを抜けると桧内川の堤に出て、そこに安治が佇んでいるのを見つけた。

「おれもおまえも部屋住みだが、その分打ち込めるものを見つけたら邪魔をされなくていいな。二番目に生まれたことを感謝したいぐらいだ」

 元服するも長男の武明が父の平野武義から家を継ぐことが決まっていて、兄に何かが起きない限り平野家としては必要とされない立場に生まれたことを知った時には捨て鉢になりかけたものだが、商家の次男という似たような立場にいながら前向きに言い放った安治が、武宣には一歩先を進んでいるように見えたものだ。花火にこだわる武宣の姿勢を安治は認めてくれていて、彼が好んで描く花鳥図も常に新鮮味を持って武宣の目に映る。そこに身分差などはなく、同じ年頃の人として半人前の絵師として交わり認め合う関係だった。

「夕刻といえど暑いな」

 西の茜空を見上げながら言った安治に、見る方向が違うぞ、と武宣は言った。

「花火は向こうから上がる」

 武宣の視線は日が昇る方向で、川の上流だった。

「本当に好きだな。そこまで言うなら絵師より花火職人にでも弟子入りしたらどうだ」

 ため息混じりに言った安治に、それは違うんだ、と武宣は答えた。

「おれは花火を打ち上げたいのではなく、見るのが好きなだけだ。打ち上げる方に回ってしまえば、絵のためにゆっくり観察する暇もなくなるだろう」

 学ぶ相手を秋明に変えてから、彼に言われるまま茄子や葱の模写に励み、時々は息抜きのように花火を描いてきた。初めは墨絵で、胸に残るものを表すには限界があったものの、父が無理解ではなかったことに助けられて、墨や紙などはそれなりに好きな量を使うことができた。

 その甲斐があってかどうか知らないが、少しは形の良い花火が描けるようになってきていると思う。

 まだ画号をもらうほどではないが、仲間内では密かに彩火という名を使っていた。自分なりに花火を文字で表してみた結果であった。

 茜空に薄い墨を塗ったような色が広がっていくにつれ、葉を茂らせたソメイヨシノが並ぶ堤の上に人が増え、彼らも密やかな興奮を漏らすようになった。

 その中に武宣は安治と身を置く。闇が深くなり、星が見えてくる。

 御輿が通り過ぎていくのを見送った後は息を詰めて待った。

 焦れてきた頃に、漆黒の空が明るくなった。

 強い光が一瞬夜空全体に広がり、末端が大きく広がり、次の瞬間には輝きも勢いも失ってはらはらと落ちていく。遅れて音重い音が聞こえた。初めて冬に花火を見た時よりも近い場所だったこともあるのか、印象はより鮮明だった。

 自分が感じた美しさと、父に教えられた鮮やかさと儚さという印象が、今ならばわかる。胸と目に強く残る上目を離せないほどだったのに、瞬きでもしたら夜空に溶けるように消えている。父は冬の花火を見た時、こういう感じを抱いていたのかと思うことができた。

 祭を行えたことを祝うように何発か花火が上がった後、夜空が静けさを取り戻す。誰もが自然と終わりを受け入れて三々五々堤を後にする。

「どうだった」

 外町へ戻る人の流れに乗って訊いた武宣に、安治はきれいだったな、と答えた。

「でもおまえが入れ込む理由はわからなかったよ。あれをずっと追い続けたいとは思わないな」

「おれはどこかが変わっているからだろう。それを秋明先生が受け入れてくれている」

「いい人だな」

 二人で頷き、笑い合った。この城下で他にも変わり者めいた部分を受け入れてくれる絵師がいるのかもしれないが、六年もついてきてこれからも学ぶことに異存がない以上、他の師について想像するのは無意味だろう。

「美津も誘えればよかったな」

 安治が何気なく口にした名前に、仕方ないだろう、と武宣は嘆息した。

「十三歳なら縁談が来ておかしくない。画塾の帰りを共にするぐらいならともかく、関係ないところで一緒にいるところを見られるのはまずいだろう」

 自分で言いながら武宣は、この社会の理めいたことを受け入れられるようになるまで時間がかかったことを思った。安治はそうだな、と言い募る様子も見せずにあっさり言い、それ以上美津の話をすることはなかった。

 秋明の画塾に集うのは、武家の子なら元服前の子供がほとんどで、歳を重ねても二十歳にならない若輩ばかりだった。家の都合で一ヶ月に一度しか通えない者もいれば、それなりの身分のある親を持って好きなだけ絵を学べる余裕を持つ者もいる。武宣も余裕のある方だが、境遇の違いがつまらない諍いを起こすことはない。始まりは武宣のようにいたずら描きだったのかもしれないが、絵を描いて身を立てようとする意欲を感じさせる弟子は何人もいる。彼らにしてみれば、境遇の違いを嘆くことほど無駄なことはないのだろう。

 美津も余裕のある方に属する弟子だった。三百石の上士である末長家に長女として生まれ、家格だけならば二十二石五人扶持で侍の平野家を凌ぐ。ただ、安治を含めて何かが起きない限りは家を継ぐことのない立場にいるということが共通していて、好む絵や性格などは似通うところが少ないにもかかわらず、武宣は安治を交えて同門の中ではたった一人の女弟子と親しくなっていった。

「生まれによって自らの気持ちを曲げざるを得ないなんておかしなことでしょう。人生を立派に独り立ちして歩むのに生まれは関係ない証を絵で立ててみたいのです」

 美津が入門したのは二年前、天保十四年の夏であった。その後、育ちの良さをうかがわせる楚々とした笑顔で強気なことを言ってのけたのが印象に残っている。できるかどうかは問題ではなく、当時少しずつわかってきていた社会の理を叩き切るような物言いは、彼女の個性であり魅力だった。

 美津は安治と同じく花鳥を描くことを好んだが、描き方は初め異質なものに見えた。かつて秋田藩には小田野直武や佐竹曙山といった文人画家がおり、彼らはそれまで日本で培われた絵と蘭画を組み合わせた新たな絵を描いていたという。美津の絵はそれと同じで花の茎や花びらの模様や色を細かく描写する、西洋的な絵を描くのだった。絵といえば狩野派の、派手だが現実味に欠ける絵をそれまで多く見てきたから、異質であると同時に新鮮でもあった。

 美津の絵は物珍しさもあったが、存在感があった。そのため本人共々自然と目立つようになっていったが、優しく控え目な気性のためか、褒めそやされることを好まずくすぐったく感じているようだった。

 その美津が、数ヶ月前から画塾を訪れる日を減らしている。ここ最近は一ヶ月に一度、来るかこないかといったところである。

「とうとう末長殿の娘も結婚か」

 美津が姿を見せなくなってきてからすぐ、年長の弟子たちがそう囁き合っているのを武宣は聞いた。女子の幸せが良縁に恵まれること以外にないという理ぐらいは知っていたが、あれだけ大胆に絵の可能性を語り、信じていた美津が粘ついた現実に絡め取られていくようで、見るに堪えない思いがした。

 晩夏には一ヶ月に一度が二ヶ月に一度となり、画塾に来ない代わりに家政を学んでいるという噂を聞くと、美津の結婚が現実味を帯びてくる。年が明けて街が雪を装う頃、武宣は安治と二人で歩くことに慣れていた。

「遅かれ早かれ、いつかはこうなっていたよ」

 それが分別というものだろう、と安治は付け加えた。

 安治の言葉は全く正しかったが、納得できるものでなかったので、武宣は黙っていた。

 安治は更に言葉を重ね、武宣は黙って聞いていた。その裏で、女子である美津が自分たちと同じ道を歩んではならない理由を考えていた。女子の幸せが結婚にあるとは色々なところで既に聞いてきたことで、侍の次男に過ぎない自分がいくら喚いたところで変えられるものではない。

 しかしその理由がいくら考えてもわからない。何もしなければ部屋住みとして日陰に生きるしかない自分たちが、道を切り開くために努力を重ねるように、美津も望んだ形での努力をしてはならない理由があるのか。

「これが筋というものだろう」

 安治は重ねてきた言葉をそう締めくくった。何気ない言葉であったのはわかるが、意に沿わぬ事を無理に納得させようとしているように聞こえ、筋が何だというんだ、と武宣は声を荒らげた。

「努力を続ければいずれ独り立ちできるかもしれない腕だったのは知っているだろう。秋明先生もそれを認めていた。それを、どうして何もしていない親がしゃしゃり出て、邪魔する必要があるんだ」

 安治は言葉をなくしていた。何か言い返されるのを覚悟したが、彼は黙って聞くのに徹していた。

 その大人びた態度が、余計に申し訳なく思えた。

「済まん。おまえに言っても詮無いことなのに。八つ当たりに過ぎないことを言った。済まない」

 安治は首をゆっくり振って優しく肩を叩いた。

「腹が立つのはおれも同じだよ。秋明先生も残念がっていただろう。あの目立つ絵が、江戸などで人を喜ばせたらいいと思う。だがおれたちに力はないんだ。せめて美津の夫になる男が、優しくて頼りがいのある男であるのを願おう。おれたちにはそれしかできない」

 安治が頻りに口にした、自分たちの無力さを思い知らせるような言葉は、あるいは自身にも向けられていたのかもしれない。

「悔しくて残念だけど」

 武宣はできるだけ強く同意した。そうすることが安治への気遣いだと思った。

 

 美津の縁談を機に、武宣もまた世の中が自分の思いを中心に回っているのではないことを実感した。思い続ければ思いは貫けると信じ込むことこそ子供の証で、世の中の正体は複雑なものと知った。

 画塾に来なくなってから一年も経たない内に美津は嫁いでいった。相手方の家格など詳しいことは聞けなかったが、同じ上士の跡取りで家としては特に不満はないようだった。

 美津の方はどうだったのだろう。彼女は結婚を明るい門出と捉えていたように、退塾の挨拶をしにきた時は終始明るい笑顔を保っていた。

「絵は嫁ぎ先でも描けます。それぐらいの理解はありますから」

 それで満足できるのなら武宣に言えることはなかった。しかしあらかじめ制限された自由を与えられて、満足な姿勢で絵を描けないのならそれこそ飼い殺しだろう。本当はどう思っているのか訊きたかったが、家に抗えなかった女は一切を受け入れて生きていくしかない。明るい笑顔と悟りきったような言葉がその証なら、美津を困らせるような言動は慎むべきだと思った。

「惜しい腕だったな。ずっと鍛えてやりたかったのに」

 秋明は沈痛な表情でそう語った。あれだけ独特の絵を描く人が、絵を好きでなかったはずはなく、素直に送り出さないことが美津へのはなむけだったのかもしれない。

 武宣は秋明に同調したかったが、気の利いた言葉が思いつかなかった。

 安治と共に家路を共にするので精一杯だった。

「久しぶりですね。こうして三人揃って歩くのは」

 画塾を離れてからすぐに美津は口を開いた。出会いは十歳を超えたばかりの頃で、まだ自分の性別を意識せず、それが背負う役目を知りもしない時期だった。三年が経って、自分と安治が男で美津が女であることを知った。たとえ縁談がなかったとしても、いずれ離れて歩くことになっていただろう。

 美津がどちらかを自ら選んでいたら話は違ったのだろうか。

「分別はつけないといけませんからね」

 丁寧ながら気の置けない相手に対する気安さがにじむ声で安治が答えた。この家路が終わったらもう自由に会うことはかなわなくなる。そう思うと武宣は落ち着かないが、安治は平静を装っていた。

「お二人はずっと絵を続けていくのでしょう。わたしの分まで頑張ってください。わたしはここまでのようですから」

 今まで見せなかった本心がこぼれ落ちたように聞こえた。絵を描くだけで満足していたら、夭折を予期したような悔いを感じる言い方はしないだろう。

 甘く幼すぎる夢だったのかもしれないが、美津は確かに絵師になりたかったのだ。

『秋明舎』からだと、内町にある末長家は最も遠い。まず外町で暮らす安治が別れ、侍屋敷が集まる場所にさしかかると、別れのために足を止めた。

「では、達者で」

 うまい言葉が思いつかなかった武宣に対し、美津は小さく声を上げて笑った。

「達者でなんて、今生の別れみたいに」

 たいしたことではないと捉えているように、美津の顔は明るかった。

「望んだ道ならこんな言い方はしない。おれにはそう見えないから、こんな言い方をしてる」

 夜気が震えた。感情任せになって、それほどの声を女に向けて上げたのを悔いていると、あがいてもどうしようもないことがあってもいいのでしょう、と美津は動揺した様子も見せずに言った。

「誰もが何もかもできるわけではないのですから、ままならないことがあってもいいと思います。わたしが大事に思うのは、ままならないと諦めるのではなく、周りに合わせながらわたし自身に誠実でいることでしょう」

 事もなげに紡がれる言葉に貫かれた気がした。この世には変えられないことがあることぐらいは知っていたが、必死で足掻けば何とかできるのではないかという希望も捨てきれなかった。美津の言葉はその希望を捨てているように聞こえるが、同時にままならないことを受け止める覚悟を語っているようでもあった。

 安治ばかりでなく美津もまた、同じ場所で学びながら子供のままの自身を追い抜いていたことを、今更のように思い知らされた。

「誠実とはどういう意味ですか」

 退塾する時から見せていた明るい表情は、あるいはこれから襲ってくる困難を怖がらずに受け止める覚悟を表していたのかもしれない。その顔を真っ直ぐ見据え、武宣は訊いた。

「絵を捨てぬことだと思っています。絵師になる道は絶たれました。でも絵師でなければ描いてはならぬという決まりはありません。これから先、わたしがどうしようもなかったことも変わっていくかもしれません。だから希望は捨てないでおこうと思います。そのために良き妻となり、良き母となり、胸を張れるようでいます」

 武宣はもう何も言えなかった。それでも達者で、という言葉以外には思いつけず、その言葉を去りゆく美津に送るしかできなかった。

 美津は笑顔のまま頷いて背中を向けた。自分たちが変えられなかったことがいつか変わるかもしれない。その言葉が不思議と胸に残り、信じられた。

 程なくして美津は祝言を挙げ、人妻となっていった。それ以来息災という便りはないが、病に倒れたという知らせもない。便りがないのなら元気なのだろう。そう思うことしか、取り残された武宣にはできなかった。

 

 三

 

 いつか変わるかもしれない。最初に聞いた時は何を指していたのかわからなかった美津の言葉も、時を経ると意味がわかってきた。

 アメリカの使者ビッドルが浦賀を来航し、通商を持ちかけた弘化三年(一八四六年)のことである。幕府が即座に拒絶したことと合わせて伝わった事実を知り、武宣はその二年前既にフランス船が琉球に来航し、薩摩藩に限り貿易が許されていることを知った。

 アメリカやフランスから日本に来るまで、かなり長い航海をしなければならないことぐらいは知っていたので、初め武宣は異人とはずいぶん奇特な連中だなとしか思わなかった。

 その奇特な連中に幕府は実は脅かされていたと知ったのは嘉永六年(一八五三年)のことである。浦賀をアメリカの使者ペリーが訪れ、開国を迫った年で、幕府はその時開国の可否を諸国に問うた。かつて誰にも相談せず即座に追い返した幕府にしてはやけに弱気な態度で、よほど厳しい脅しをかけられているのが想像できた。

 幕府の問いかけは列島をあまねく渡っているのか、北国の小藩に過ぎぬ土地でも、話題は開国か否かということが主となった。

鎖国をやめたらこの国はどうなるんだろうな」

 安治と辿る家路で、外交問題を語らうのにもいつの間にか慣れていた。既に二年前、八歳差の兄が父の後を継ぎ、いよいよ家での肩身が狭くなってきた時期だけに、子供の頃から学んできた絵についてもっと語り合いたいところだったが、脅かされていると思うと落ち着いて絵のことばかりは考えていられなかった。

「国というのは、藩がいくつか集まっている土地のことか。それとも天領を含めた全ての土地か」

 安治の静かな問いかけに、武宣は答えに迷った。ペリーが相手にしているのは江戸幕府であって、この雪国の小藩ではないだろう。しかし自分が生まれ育った藩の外に外国が入り込んだところでどんな影響があるのか、思い描けないのも事実だった。

「おれたちが暮らしてきた藩だよ」

 ややあって武宣は答えた。思いを巡らせても想像がつかない土地のことは切り捨てて、藩のことを話し合うしかできなかった。

「さて、どうなるだろうな。アメリカがどんな国かも知らないからな」

 安治の笑みを見ていると、どうしてか美津の笑顔が思い起こされた。彼女が言っていたいつか変わるという言葉が胸に迫る。

「もし鎖国をやめるとして、何か変わることがあると思うか」

「おれには何とも」

「誰もが好きな道を好きに選び取れるようになると思うか」

 安治は黙り、足を止めた。彼にも言葉の真意はわかったようだ。

「そうなればいいさ。だけど美津のことは、仕方ないことだよ。もしかしたら変わるかもしれない。でも美津が間に合わなかったことは変えられない。もう考えるのはやめた方がいいと思う」

 諦観をうかがわせた言い方は冷静な安治らしかったが、家を継いだ兄ほどの歳も重ねていない身で言うのは不遜にも思う。気持ちのままに口を開きたいところだったが、幕府とペリーの間に立つこともできない身では、黙って事の成り行きを見守るしかないのだろう。

 そして行き先の決まった時流にできるだけ早く乗り、振り落とされないようしがみつく。明日何かが変わるとしてもそれぐらいしかできることは思いつかないし、これから先も同じだろう。

 絵筆で道を切り拓くという気概は今も『秋明舎』に満ちていて、その中にいることを武宣は心地よく思う。しかし幕府が戦くような力を前にして、絵筆がどれほどの力を発揮できるかと思うと、自分をはじめ安治や秋明が積み上げてきたことが急に心許ないものに思えるのだった。

 同じ環境に身を置いているはずの安治の表情や声はあくまで前向きだ。

「おれたちがやるべきなのは絵を学ぶことだよ。それ以外やれることもないまま来たんだから、後戻りもできないしね」

 自らの引き出しの少なさを自嘲したようには聞こえなかった。安治の目は真っ直ぐ前を向いていて、子供の頃から追い続けてきたものを見据えている。いつかそこまで必ずたどり着くことを信じているように見えた。

「兄上たちがやっているのと同じように、おれたちにできることをしようということか」

 自分なりの解釈を口にすると、安治は満足げに頷いた。

 ペリー来航と開国可否の問いかけは、絵に生きるしかなくなりつつある男たちが腹を括るきっかけになったのかもしれない。武宣は花火の絵にこだわりつつも花鳥図の上手い描き方を安治に訊くようになったし、秋明の手伝いで彩色をほどこすようになってから彩墨を使いだし、それまで白と黒の濃淡でのみ表現していた安治の絵は色を帯びるようになった。

「良い味の華やかさが出ている」

 ソメイヨシノの花びらに混じって枝に佇む鶯を描いた作品を、秋明はそう評した。どちらも春の象徴で、ありきたり故に驚きは感じないものの、下手に新しいものを追いかけない慎重さも彼の持ち味だろう。そう思ってみると、どこか西洋的で繊細な線を持った絵が、単に珍しい技法で輝いているようには見えなかった。

 秋明の手伝いをしていたのは武宣も同じで、彩色の修行をするようになってから色を遣うことを許されてきた。花火を濃淡のみで表現することは難しく、苦痛に感じた時も少なくなかったが、反復することで花火の形は精緻に描き出すことができた。そこに色をつけると、幼い頃に遥か遠くで咲くのを見た花火が、掠れた部分を補って胸に迫ってくるのだった。

 それぞれ初めて色をつけた絵は、手直しを経て、商家で予定されていた書画会に並ぶことになった。書画会に絵を出せるということは師に認められたということで、二人にとって大きな励みになった。そればかりでなく、もしも誰かが絵に値段をつけてくれるようなことがあれば収入になるし、奇特な後援者ができるかもしれない。絵を学び続けて初めて掴んだ好機だった。

 武宣と安治はそれぞれ秋の字をもらうことになっていた。それを画号として使うことが許されるまで少なくとも二年はかかるものの、一つの大きな目標を達成できたような気がして、前途が少しだけ広がったような気がした。

野洲川』という商家で行われたが、そこで武宣は西村尚孝と再会した。

「まさか同門がここまで育てるとは」

「逸材を逃したわけだ。残念だったな」

 秋明は気安い態度で西村と接していた。西村は今回の書画会には全く関わっていないが、かつて同門として絵を学び、江戸で仕事をしたこともあることを思い出した。指導の方針が違っていて、今はもう関わりがないのかと思っていたが、二人の間に流れる空気を察するに、決して悪い関係ではないようだった。

「使えると思ったら昔のことはさっぱり水に流して、御用絵師として抱えてみたらどうだ。今はそれだけの地位があるのだろう」

 秋明は冗談半分の笑みを見せて言ったが、頷く西村は重々しい態度で、彼の言葉をどう捉えているのか、傍から見て不安になった。

 書画会では安治共々絵に値段がつくことはなかったものの、一歩前進できただけに、進路に光が宿ったような気がする一日となった。

 

 書画会に出品したことはそのまま師の評価となり、実績となった。武宣はある程度自分の判断で絵を描くことを許されるようになり、色をつけられるようになったことで一層強く思い出される花火を描ける機会が増えた。

 安治の絵にも繊細さと鮮烈さを併せ持つ印象深さが良い比率で混ざり合うようになった。書画会を目標として描き続け、それがいずれ誰かの目に留まって値段がつけば、一歩ずつ絵師としての段階を上り詰めていくことができる。その夢は日毎に現実味を帯びていくようだった。

 安治の口から退塾の意思を聞かされたのは、次の書画会で出す絵を、秋明に預けた夜であった。

「嘘だろう。笑えないぞ、質が悪すぎて」

 画号をもらってから二人でよく行くようになった料理茶屋の座敷で、武宣はそう絞り出した。

 安治は瞑目してから頷いた。

「絵をやめてどうするんだ。だいたいやっと足がかりを得られたところだろう。ここで諦めてどうする。臆病風にでも吹かれたのか」

「家を継ぐ」

 その一言で武宣は全てを察した。家を継ぐことが決まっている兄に何かが起きない限りお呼びがかからない部屋住みだからこそ、絵筆を持って家を出ることもできるのが自分たちの立場だった。起こり得ないと思って今まで過ごしてきたことだが、兄に不幸が起きてしまったのだ。

 感情的になって立ち上がりかけた武宣は、へなへなと座敷に腰を下ろした。

「こんなことで、こんなことで」

「仕方がないよ。店を潰すわけにはいかない」

 安治の実家は瓶やすり鉢などの日用雑器を生産する窯を持ち、それを売ることで大きくなってきた。主人の双肩には窯で雑器を作る職人と店の従業員の暮らしがかかることになり、簡単に潰すわけにはいかないのだろう。

「最近兄上の体調が悪いから嫌な予感はしていたけど、こんなところで死ぬことはなかったんだよ。これからおれは、父上について仕事を覚えていくことになる。もう絵は描いていられない」

 こんなことは考えてもみなかったけど、と悲しげに微笑んで安治は言った。

 またも絵を共に学んできた仲間を失う羽目になった。美津の時のように、納得出来ないからといって感情任せに大声を上げることは抑えられたものの、抑え込んだ分目頭が熱くなった。

「情けない顔するな。こういうこともあるだろう」

 成功への階段を一歩ずつ上り詰めていた男にしては、あまりに晴れやかであっさりした表情を見せられた武宣は、何か言ってやろうと口を開きかけた。

 それでもどうにかこらえたのは、一人の力ではどうしようもないことについて責めることになると思ったからだ。

 酒が運ばれると、安治は積極的にとっくりに手を伸ばして酒を注いだ。二人で酒を飲むのは初めてではないが、それと比べて今夜はとっくりを空けるのが速い気がする。特別強いわけではない安治に、武宣はそれとなく抑えるよう言ったが、ほとんど耳に入らないようだった。

 五本目のとっくりが空になった時、安治は顔をうつむけたまま動かなくなった。

「大丈夫か」

 体調を崩されて介抱する羽目になっても困る。何とか切り上げようと思った時、すすりなく声が聞こえてきた。

「これからって時に、こんな時に死ぬことはなかったんだよ」

 さっきと同じ言葉ながら、ずっと強い悲壮感を伴って武宣の胸に刺さった。誰にも認められないままであれば良い区切りとして前向きになることもできたのだろう。可能性が増した時に状況が変わったのは痛切な皮肉だった。

「なるべく早く独立しろと言われて、おれなりのやり方で従って、その言葉通りにできそうだったのに、今更どうしてこんなことになるんだ。おれが積み上げてきたものを何だと思ってるんだ」

「絵は商売の合間にも描くことができる。美津もそうしているはずだ」

 彼女の生活について全く聞かないのが心許なく、慰めになると信じられないまま言った。

「かなえられない夢に何の意味がある」

 安治はくしゃくしゃの顔できっと睨み、そう声を上げた。

 絵師として絵筆で道を切り開いていく気概に満ちているのは今も同じで、これまで以上に勢いがついていた。だからこそ今はまだ止まるのに時間がかかる。諦めなければ店で働くために前へ進めないが、無理に止まろうとすれば転んで傷付くだろう。

 武宣は再びしゃくり上げる安治にかける言葉を見つけられなかった。足を止める時まで共に走り続け、最後に倒れないよう支えることしか、自分にやれることが思いつかなかった。

 

 四

 

 落ち着くまで時間がかかったのか、安治が秋明に退塾を告げたのは、酒を酌み交わしてから十日が過ぎた頃だった。

 十日の間に気持ちの整理をつけられたのか、心配したほど暗い顔はしておらず、むしろ晴れやかな表情で同門たちに挨拶をしていった。

 最後に秋明に、十数年の礼と最後まで師事できなかったことへの詫びを残して、安治は『秋明舎』を後にした。

「もう一緒に歩くこともなくなるか」

 画塾からの家路を付き添った武宣に言った安治の晴れやかな表情はやけにまぶしく見えた。

「外町と内町の違いだけだ。美津とは違う。会おうと思えば会うのは難しくない」

 美津との間にあった、同門としての信頼関係が消えてなくなったとは思わない。しかし簡単に会えないことで弱くなったのは事実だった。彼女に比べれば会いやすい安治なら、美津と同じようにはならないだろう。

 絵だけでつながっていたわけではないが、最も強く繋いでいたのは絵だった。その絵が安治の人生において色をなくす。それだけで悲劇だった。

「簡単には会えなくなるけど、まあ良い方なのかな」

 安治は悟りを開いたように言った。確かにそれだけで良いとする見方も成立する。この雪国の小藩では話が届いてくるに留まっていて平和だが、江戸やその周辺では不穏な動きが少しずつ見え隠れしているらしい。それはある日突然人と会えなくなってしまうという類の話も含まれている。それを思えば、長く打ち込んできたことができなくなったことを除けば、命もあってつながりも切れない自分たちは、まだ恵まれているのかもしれなかった。

 安治の言葉は正論だったが、だからこそ武宣は訳もなく反発したくなった。

「だが絵がなくなった。おまえの人生から絵がなくなったんだぞ」

「全くなくなったわけではないよ。美津もそうだろうけど、描くことが許されないほど忙しくはならないだろう。これからは画家ではなく文人画家を目指すさ。その方が気楽で楽しいかもしれない」

 強引に自らを説き伏せているように見えたが、安治が笑ってそう言うのであれば、武宣には何も言えなくなる。

 師の画号から字をもらうほどまで高めた技術は、決して別の仕事の片手間にやるためのものではなかったはずだ。だからこそあの時大声で嘆いたのではなかったのか。

 思うとおりにならないことを悔やんだのではなかったのか。

 その気持ちを武宣はやっとの思いで飲み込んだ。安治は現実を受け入れて前を向いている。大事なことができている男に、未練がましいことを言うのは雑音に過ぎないだろう。

 だからこそたった一つだけの願いを言うことにした。

「絵を捨てるなよ。あれだけおれたちが頑張ったことなんだからな」

「おまえもな。ここまで来たら最後まで秋明先生についていってくれよ。おれたちはもう追えないからこそ、おまえに夢を託すんだ。美津もきっと同じ気持ちだったろうよ」

 おとなしい安治に強く見返され、武宣ははっとした。花火の絵だけを描きたいが為に秋明の方へ乗り換え、周りに感化されるように絵師を目指してきたが、美津や安治が望んでいるということは、花火の絵を描きたいがためでは通用しないだろう。

 自分のためだけではなく、他人のための絵も描く。それができないなら、二人の思いを背負うべきではない。

 自分にできるかどうか。安治や美津を失望させないためには、どんな返事が相応しいか。

 ややあって武宣は口を開いた。

「わかった」

 武宣は力強く頷いた。

 抱いていた夢が、初めて二人分の重さを持った。

 

 美津と安治が『秋明舎』から去って更に四年が過ぎると、秋明からもらうことになっていた秋の字を画号にできる日がやってきた。それは絵師として独り立ちしてもいいことを師から認められた証でもあった。

 同門や師から認められた腕前ではあったが、秋明を超えられたわけではない。秋励という名前は無名に近く、たまに書画会で値が付くことがあっても、物珍しさで買っていったということばかりで、絵に対する評価や、絵師本人への信頼といった類ではなかった。

 絵師としての評価が伴わない収入に不満はあったが、それが嫌ならできるだけ多くの人を色彩や絵柄で魅了して、それを長く続けていかなければならない。必要に迫られると二人分の思いが乗った自分の夢は途端に負担を増してくる。自分一人なら投げ出すこともできるのに、残念そうな顔をする美津と安治を思い浮かべるとそれはできなかった。

 帰る場所があれば幾分気持ちも楽になるが、ここ最近の情勢を思うと、余程のことがない限り、平野の家も頼れるものではない。

「怖い時代になったものだな」

 ある時書画会で顔を合わせた秋明が、久しぶりだからと酒をおごってくれた。一献傾けた時に、彼はため息混じりにそう言った。

 以前安治が退塾の意思を伝えた場所であり、何となく嫌な巡り合わせだと武宣は思った。

「時代と来ましたか。先生らしからぬお言葉ですが」

「どうしてそう思う」

 秋明は下がっていた眼差しをふっと上げた。さっき一瞬だけよぎらせた曇りがちの表情が失せ、何かを面白がるように純真な笑みが戻っている。

 初めて出会った時にも見せた表情で、それがあると秋明は十数歳若く見えた。

「先生は時代とか、そういうものとは無縁の境地にいるような気がします」

 秋明が注いだ酒に口をつけ、武宣は言った。

「そういえばいつか訊こうと思っていたことがあります。何故御用絵師をお辞めになられたのですか」

 ふと思い出して武宣は訊いた。入塾して間もなく、秋明が狩野派を学び、一時期江戸で御用絵師としての仕事をしていたのを聞いたが、現在も御用絵師として活躍する西村尚孝と並ぶ名を挙げながら、市井を相手に絵を教える日々を送る理由が気にかかっていた。

 元服して何年も過ぎ、美津や安治を初め、自分ではどうにもならない事情で絵を諦めていく者たちがいる中で、自分は幸運にも絵を続けることができ、ついには独立までできそうなところまできている。そんな武宣にとって、かつて秋明が就いていた地位は、絵師として一つの到達点に見えていた。それをわざわざ手放すなど、余程の理由が必要だと思った。

「たいしたことではないよ。御用絵師というのは、目標にするべきものだろうし、それに就いている者を非難するつもりもない。ただ、一度やってみてわかったことがあった。私は肩書きを画塾の看板につけるのではなく、秋明の名前だけで人を集めてみたかったのだとね。私の画塾には、少ないながら色々な人が集まった。おまえのような多少問題のある子も来た。それが期待した面白さだったよ。私は絵で人を魅了するより集めたかったのだな。西村とはだいぶ考え方が違うし、もしかするとおまえとも相容れぬ考え方やもしれぬがね」

 巣立って初めて聞かされた師の考えは器の大きな話だと思った。今はもちろん、これから先も自分は絵を描くことを懸命に務め、見る人を魅了することを目指すだろう。それはそれで偉大なことだと思う。しかし秋明がいたからこそ、西村の画塾から逃げ出した自分を拾い上げた器の大きな男がいたからこそ、今の自分がいるのも確かだった。

「おれはまだ、描くので精一杯で、先生の境地にはとても」

 自嘲するように笑うと、境地などと大層な言い方は似合わんね、と彼は運ばれてきた浅漬けを口にして言った。

「そうだとしたら、おまえや西村の目指すものを貶めてしまう。私もおまえも正しいのだよ。ただ、私は私が向いている方を選んだ。そしておまえが生まれた。それだけのことだ。おまえはおまえが向いていると思う方を選びなさい。より多くの人を魅了することも、修練を重ねないとできない偉業なのだ。西村と同じ方を向いているというのも皮肉なものだがね」

 それを言われると照れくさい。しかしあのまま西村の画塾にいたとしてもどこかで絵筆を折っていたと思う。御用絵師の仕事や大変さを知った今なら、逃げてしまったことを申し訳なく思うほどだが、彼の画塾を覆っていた厳粛な雰囲気は、やはり自分には合わなかったのだ。

「その言葉を安治にも聞かせてやってください。退塾するつもりなのを打ち明けた時、形にできぬ夢に何の意味があると嘆いていました。あの時おれは何も言えませんでした。先生ほど広くは考えられなかったので」

 たとえやむにやまれぬ事情で絵を諦めたとしても、人生の中で最も大事なものでなくなったというだけで、絵がなくなってしまうわけではなかった。実家で兄の代わりを務めることでそれまで思い描いてきた夢は、形を変えただけで、なくなってしまったわけではない。

 今なら秋明の言葉が素直に聞けるし、理解も及ぶ。それだけに、安治を慰められなかった当時が悔やまれた。

「そう言えば、時代がどうと言っておりましたが」

 自分が話を逸らしてしまった気がする。そもそもの切り口は、秋明が怖い時代になったと切り出したことからだ。

「いや、江戸や京都で刃傷沙汰が相次いでいるようでな。江戸城のすぐ傍で老中が殺されただろう」

「老中ではなく大老では。井伊直弼殿が斬られたという話ですね」

「ああ。考えられぬことがどんどん起きるな」

 そう言って秋明は酒を呷る。江戸から遠く離れた雪国で、政治からも遠く離れた場所にいる気楽さが見えるが、武宣は共感できない。石田家に侍として仕える実家も、役目で殺伐とした江戸へ出向く時が来るかもしれないと思うと、他人事として考えることはできなくなる。

「絵師として身を立てなくてはなりません。それができなくても、きっとおれに帰る家はないのでしょうから」

 江戸から遠く離れていても、何か大きなことが起ころうとしていることがわかる。ペリーが浦賀に来たのは七年も前の話だが、その時よりも人々の噂話が切羽詰まっている気がするのだ。

「絵を描くことが仕事なら、どんな時でもそれしかできないな」

 秋明は何故か諦念をにじませた表情を見せた。

「先生は絵師でしょう。ならば当然のことです」

 師の自信のなさげな姿が情けなく映り、武宣は苛立った声を上げた。

 のらりくらりとした態度は時に頼りなく見えたのも事実だが、それを含めて慕い、今までついてきたのだ。今更絵に自信がないとでも言うような姿は見たくない。

「言いたいことを言うのは昔から変わらんな。こだわりを貫き続けるところも」

 花火のことを言っているのだと思った。絵師として生きていくために花鳥図や美人画なども描いてきたが、最も多く描いてきたのが花火なのは変わらない。その花火は、売れ行きで言えば最も芳しくないのだが、まだ胸に残る感動を完全に表したと思った絵には出会っていない。だからまだ途中なのだと思えば、こだわりを貫き続けることもできる。

「彩火の名を使ってはどうだ」

「その名を知っていたんですか」

 仲間内だけの秘密だと思っていたから、師の口からその名前が出るのは驚きで、同時に悪い気もする。

「私はおまえたちの師だったからな。だがもう、おまえは私の元から離れた。いちいち画号ぐらいで私の伺いを立てる必要はない」

「まだ先生の家にお世話になっている身で、それもどうかと思って」

 師から独立のお墨付きをもらったとはいえ、まだ本当の意味で独立できる体勢は整っていない。時々得られる収入は紙や彩墨に消えるから、住まいなどは師に頼るしかないのが現状だった。

「そのことだが、独立の機会が巡ってきたかもしれん。おまえ次第だが」

 武宣は師の目を見返した。酒が入って据わった目をしてはいたが、声音に浮ついた感じはない。

「西村が手伝いを欲しがっている。今度江戸へ戻ることになったようだが、江戸は今不穏だからな。ついてこようという気骨のある者がいないらしい。おまえさえよければ私が推してもいいのだが」

 願ってもないことだが、二十年以上前の話とはいえ彼の方針に反発して逃げ出した経緯がある。そのことを根に持たれてはいないかが不安だった。

 その心配を口にすると、今では笑い話だろうよ、と秋明は笑った。

「子供の癇癪を根に持つほど狭量な男ではない。心配は要らんよ」

 おまえこそ二十年も昔のことを気にするな、と秋明は気楽に言った。大人としての常識で西村尚孝という御用絵師を量れと言われたような気がした。

「昔のことにこだわり続けるような男なら、御用絵師として今まで仕事はしてこられなかったと言うのですか」

「私の知る限り、あの男はさっぱりしているよ。御用絵師は、絵師としては一つの到達点だろう。私にはおまえの前に大きな好機が転がっているように見える。それに乗ってみるのもいい。その機会は決して多くない」

 こういう時代だから尚更だ、と秋明は付け加えた。

「怖い時代だからこそ、ですか」

 秋明は一瞬虚を突かれたような顔をして、そうだな、と答えた。

「私が江戸にいた頃も内憂外患の時代だったが、幕藩体制が揺らぐことなど考えもしなかった。今はまた違う事情だな。幕府が脅しをかけられて、毅然とした態度を取れなくなっている。夢を形にするのなら急いだ方がいい。それどころではなくなるような気がするからな」

 異国に脅かされた幕府が、その圧力に耐えかねることを、武宣は考えないようにしてきた。想像がつかないというのもあったが、今まで自分たちが立ってきた大地が根底から覆される事態を招く気がする。その混乱の中で、絵にどれほどの力があるだろう。

 秋明の言葉を自分の部屋に持ち帰って、数日考えた後に武宣は結論を下した。秋明に声をかけると、待っていたと言うように彼は西村の画塾へ武宣を伴って訪れた。

 二人の間で話し合いはなされていたのか、案外な速さで西村は江戸へ武宣を連れて行くことを承諾してくれた。秋明が言った通り、彼は昔のことにこだわってはおらず、堅苦しさに耐えきれず逃げ出した二十年前よりも印象が柔らかくなって見えた。

「あの時他の私が追いかけていればよかったな」

 西村はそう言っておかしそうに笑った。西村の画塾から逃げ出した時、偶々書画会のことで訪ねてきた秋明に追いかけるのを頼んだそうだが、出会ったのが秋明でなかったらそのまま絵から逃げっぱなしで終わったように思う。西村に追いかけられても同様だっただろう。

「元々はおまえの弟子だった男だ。二十年経って返されたと思えばいいだろう」

 育ててもらうことが弟子の本分なら、秋明の言葉は少し違和感を覚えるが、入口は秋明の闊達な絵ではなく西村の厳粛な雰囲気であった。どんな形であれ、入口は変わらないのだろう。

 その夜は三人で酒を酌み交わした。厳格で怖いと思っていた二十年前と印象は打って変わり、老いた西村は穏和になっていた。元々そういう人間だったのかと酒が回ってから訊くと、時間が経ったからだよ、と彼は真っ赤な顔で答えた。

「おまえが出ていった頃は私も若かったから必死だった。元々生真面目なところもあったが、適度に緩めながらまとめていくような器用さがなかったのだな。二十年経ってそれを身に着けられたよ。あの頃と比べておまえは内も絵も成長したようだが、私も同じだ」

 自分より二十歳以上年上の男の言葉は、暗におまえにもまだ育つ余地があると言っているようだった。根拠のない思い込みに過ぎないかもしれないが、そう思わせるほど西村には包容力があった。

 二十年の歳月が彼の棘を削り、自分もまた人との関わりで触れ合い方を知った。その時間の間に秋明をはじめとする多くの人がいて、巡り巡って西村の元へ戻ってきた。そう思うと不思議ながら素晴らしい遠回りに思えた。

 その日は店を追い出された後も『秋明舎』に戻って酒宴が続いた。秋明がそうしろと引き留めたためであるが、遠からず江戸へ旅立ってしまう同門と弟子を惜しんでいるように見えた。入口は秋明だったが過程は西村だったことを思うと、心ゆくまで付き合ってやりたかった。

 江戸への旅立ちは翌年の春だった。西村の画塾から逃げ出した時と同じく、桧内川の桜が満開の時期で、それを眺めてから旅立っていった。

対馬にロシアの軍艦が停泊する事件があったらしい。こちらでは噂にもならなかったが、江戸は確かに揺れている。おまえは大丈夫だな。それに戸惑うことがあっても自身を見失うことはないな」

 道中で西村にそう尋ねられ、武宣は力強く頷いた。言葉を添えなかったのは、どんな言葉も軽く浮いてしまう気がしたからだ。藩を出たことがなかった武宣には、自身の内に揺るぎないものが宿っている感覚がなく、心許なかった。

 

 絵の大半を市井で教えるだけだった秋明に学んできた武宣は、御用絵師の仕事の多彩さに戸惑った。武家の子女に絵を教える仕事もあるが、それは決して重きを置いた仕事ではない。絵を描くばかりでなく調度品の修繕まで含まれる仕事というのは予測も付かなかった。

 故郷にいた頃は絵を描くことだけを考え、全てがそこへ向かっていると信じられたが、御用絵師として西村について働いていると素直にそうと信じられない時もある。絵の修繕は絵をより深く理解するのに必要と言われたが、掠れた線や色の上へ新たに筆を滑らせるだけの作業が、自分のどこで役に立っているのかわかりにくい日々だった。

 子供の頃と同じように、思ったことをすぐ外に出していては不遜という判断を招くと思ったから口にはしなかったが、江戸に知り合いはおらず、疑問を口にできる相手がいないというのは武宣にとって辛い。秋明や安治のように、長く絵を学んできた人間が恋しくなった。

 江戸詰となってから徐々に、西村についてこようという人間が少なかった理由を知ることになった。二年目には老中安藤信正が坂下門外で斬られる事件があり、イギリス人が斬り殺される生麦事件も起きた。幕府が外国に圧倒されていると感じた時から怖い感じがしていたのは、血なまぐさい方向へ向かう流れを止める者がいなくなっていたと、どこかで悟っていたせいかもしれなかった。

 そんな状況下でも西村は泰然と絵を描くことに務め、武宣にもそれを求めた。

「絵に務めると決めたからにはどんな場所でも描くことだ。私たちももう簡単に生き方を曲げられないところまで来ている」

 武宣も三十歳を超えて、最後には実家に従った美津や安治とは違う道を選んだことを改めて思った。安治も結婚したことを聞いたが、それに比べて自分には縁談もない。絵に徹するのだから当然と強がってきたのが二十代だが、それを終えると他にすがりつくものがないことを不安に思う。もしも絵を取り上げられたらと思うと怖くなった。

 江戸に来てから五年が経つと、その不安は顕現した。大政奉還に続いて戊辰戦争が始まり、江戸城の主が変わった。

 それは江戸狩野派の御用絵師として仕事を続けてきた西村や武宣にとって、雇い主の消滅を意味した。江戸城に新たな主である明治天皇が入場した日、武宣は堀に絵筆を投げ捨てようとして思いとどまった。

 墨すら手に入らなくても、いつか手に入った時に筆がなかったらどうしようもない。武宣は信じることに決めた。

 

 

 桜が三月中から咲くことも起こりうると知ったのは、東京府と名を変えた江戸で生きることを決めてから間もなくだった。慶応年間が九月初旬で終わった後明治天皇江戸城に新たな主として足を踏み入れた年の冬は、雪こそ降らなかったものの冷え込んだ。江戸に来てから一度も故郷に帰らなかった武宣は雪の少ない冬に慣れてきていたが、寒さに雪がついてこないことはどこか奇妙な景色を見るようだった。

 冷え込んだ時期を経ると桜は咲くのを急ぐのか、三月の中旬からつぼみが膨らみだし、末には花が開いた。今までの冬では四月にならないと咲かなかった桜が、この年は急いたようだった。

 その桜の大半が、五月の中旬に傷つけられた。一日で終わったものの、寛永寺を本拠として蜂起した天野八郎彰義隊に向け、明治政府は大砲を撃ち込んで攻撃した。避難を勧告していたし、兵でない者たちは無関係の顔をしていたから影響はなかったものの、武宣は桧内川の桜にも似たソメイヨシノが傷付くのを止められないことに胸が痛む思いだった。

 戊辰戦争が終焉を迎えた頃には、武宣も新たに寝泊まりする場所を確保できた。下谷に広がる細民街に、幕政の頃に建てられた日掛け四銭の長屋で生きることに決めた。絵で生きていく術に乏しく、秋明の家に世話になっていた頃の方がましな暮らしではあったが、ようやく人に頼らず生きていけるようになったと思うと、寂しいだけではなかった。

 江戸と東京府での暮らしで楽しみになったのは、夏に両国で行われた川開きであった。両国界隈の料亭や船宿が主催して、数百発の花火が打ち上がる夏の風物詩である。上野からも、少し高いところに上るとその花火が見える。その花火は、故郷の花火と違って多くの人が両国の方を見ているから、花火の興奮を伝えてくる。遠くで鮮やかに儚く散っていく故郷の花火とはまた違った味わいがあった。

 それを見た夜には、子供の頃に桧内川の堤の上で見た花火の記憶が胸に蘇ってきて、描きのこしたい気持ちに駆られる。

 絵を受け入れてくれる場所はなくなり、修業時代よりも絵を描く条件は厳しくなった。それでも武宣は絵筆を捨てずに描き続けていたかった。

 子供の頃遠くに見た花火を描きたいがために選んだ道を、最後まで歩き通そうと決め、故郷から遠く離れた土地に身を置く武宣は、仕事を離れて花火を描き続けていた。

 故郷を離れて絵師として訪れた時から何度目かの夏が今年も来て、高台に上って武宣は花火を眺めた。故郷で初めて見た花火は美しいと同時に鮮やかで華やかだったが、東京府の花火は華やかさがとても強い。消えていく時ですら夜空に溶けていく感じではなく、音を発しながら最後の瞬間まで輝きを訴えかけるようで、愚直な人間らしさを武宣は覚えた。

 その記憶を持ち帰って眠った後、朝を迎えて武宣は絵筆を持って紙に向かった。一日で墨の絵を描き上げ、色をつけて完成させる。

 子供の頃から数えて何枚目になったかわからない花火の絵ができあがると、武宣は落款した。

『彩火』という名前が、色をつけた花火の下に踊る。きっと師が望んだ通りではなかっただろうが、いつかこの名前をつけた絵が世に出回ればと思えば、それが希望になると武宣は思った。

2013年6月作品