yuzaのブログ

幕末から明治を舞台にした小説を中心に載せています。

光去る時

 一

 

明治五年に導入された太陽暦は十月を刻んだが、新網町の粘りつく空気は晩夏のものである。少なくとも霜が降りる頃までは団扇が要りそうだった。

 梨花はぬかるんだ地面で滑りそうになって、傍を歩く双子の妹、梨沙の手を強く握った。細い腕はほとんど動じることはない。目の不自由な梨花にとって実に頼りがいがあった。

「松公のところまで、どれくらいあるの」

 歩き慣れた道ではあったが、右目のわずかな視力しかない梨花にとって、一人で歩くなど考えられない。目の代わりをしてくれている梨沙が必要だった。

「もうすぐ。まっすぐ、行けば着く。横道も、ないし」

 梨沙の言葉はたどたどしいが、弱い右目だけでは捉えきれない道の情景を思い描くことができる。くすんだ色が左右に並び、同じ色のぬかるみが一直線に延びている。残された視界は薄い煙がかかったように頼りないものであった。

「そうね、足音も聞こえないし」

 目の代わりをしてくれた礼をするように、梨花は梨沙に足りない感覚を補った。梨花が弱い右目しか利かないのに対し、梨沙は聞こえづらい左耳しか音を捉える手段がない。

 半歩前を歩く梨沙が立ち止まったのに合わせ、梨花も足を止める。曖昧な視界の中ではどれも大差なく見えるが、その茅屋だけ藍色の暖簾がかかっている。文字は読めないが、いつか梨沙が『まつや』とひらがなで書かれているのを教えてくれたことがある。

「松公、梨花と、梨沙です」

 梨沙が茅屋の中に向けて声を上げる。それに横柄な声が応じた。入れと聞こえたが、健常な耳を以てしても聞こえにくい低さだった。

 梨花が言葉を伝えてから梨沙は暖簾をくぐる。梨花の視界は暗転した。遠くに明かり取りが見えたものの、そこから入り込む光は弱く店先までは照らせない。辛うじて人影らしきものが輪郭として見えた。

「奥へ行け」

 目の前の輪郭が身じろぎした。『まつや』の主人で、松公と呼ばれる老人であるが、彼が隻腕であることと新網町の中では財産家であることしか梨花は知らない。

 梨沙は短い返答をして、梨花の手を引いた。段差があるからと注意を促すが、右目一つでは距離感を掴めず、一歩目を踏み外してしまう。また梨沙を転ばせそうなほど強く手を握ったが、梨沙は踏ん張った。気遣わしげに、大丈夫、と声をかけてくる。

「平気、それより行かないと」

 慎重に段差を上って奥へ行く。帳面に双子の名を書き入れるのは梨沙の役目だ。松公の世話を受けた者が仕事の前に名を書く出勤簿で、ここに名前のない者は松公あるいはその配下から仕置きを受けるのだ。

 芝や四谷、下谷といった下町に広がる低所得者層が住む町は、俗に貧民窟と呼ばれている。住民の多くは日雇い労働や人力車夫などをして日銭を稼ぐが、それができるのは五体が健常で、その健康が取り柄のような者たちだけだ。福祉政策の主役が民間の篤志家である現状では、非健常者たちが働ける場所は限られており、職にあぶれた非健常者たちは貧民窟へ流れていくことになる。

 松公も隻腕故にその一人となったが、彼には商才があった。冬の寒さをしのぐための毛布にも事欠く貧民窟にあって、松公の開いた損料屋は既存の店よりも安い値段で必需品の融通を実現したことで繁盛した。そうして得られた財産と信頼を使って彼が始めたのは、『まつや』を拠点にした非健常者たちの職の周旋だった。非健常者たちが放り込まれる職場の主は、皆松公から金の融通を受けなければ立ちゆかないため断り切れず、意思に関わりなく非健常者を受け入れる羽目になっていた。

 目の不自由な梨花は、松公の世話を受けていた瞽女(ごぜ)から三味線を習って木賃宿で余興を

するようになり、梨沙は按摩と鍼を覚えて同じ宿で客を取る。金の融通に根ざす強引なやり口は反感を買っているが、それがあるからこそ梨花には仕事があった。

 帳面の前から立ち上がった梨沙は、部屋の隅から商売道具の三味線と舞台衣装の入った行李を引っ張り出して梨花に手渡す。促されて歩き出そうとした時、店先に足音が踏み込んだ。

 その荒々しさにただならぬ気配を感じ、梨花は梨沙の手を引いて足を止めた。

「三太郎を見つけやした。おら、松公様に謝れや」

 男の横柄な声は、梨花を萎縮させる。耳を塞ぎたくなったが、梨花はつないだ手に込める力を強めるに留めた。

 松公は善意で世話しているのではない。上納金を払えるかどうかで、非健常者の価値を決めているのだ。

「舐めた真似してくれたのお、三太郎よ」

 激しい男の恫喝とは別の冷酷さを宿す松公の声がその場に染み入った。立ち去りたいが、下手に彼らの間合いに入ったらどんな言いがかりをつけられるかわからない。梨沙も同じ恐怖を感じているようで、前に踏み出す気配を見せない。

「一度目の借金も返せてねえのに、二度も同じことをするとはなあ。行き場のないお前たちを働かせてやってる恩を仇で返すかい。すぐ金を作らなきゃ、収まらんな」

 松公が横目で自分たちを睨めたような気がした。松公は三太郎を使って見せしめに使うつもりのようで、普段より大きな声で罵倒を始めた。

 乾いた音とうめき声が混ざり合って聞こえ、その合間に挟まれる許しを請う声はいよいよ必死さを帯びてくる。きっと暴力を振るわれているのだ。痛みの訴えも聞こえだして、せめて店の奥で修羅場をやり過ごしたかったが、松公の見せしめであれば見届けなくてはならない。

 一頻り続いた修羅場も、三太郎の絶え絶えな吐息で終わったことを知る。後を引き取ったのは「どうしてもできないのかい」という松公のしわがれ声であった。

「決まりを守らないような奴は、わしの傍に置いておけんなあ」

 息を呑む音が聞こえた。続いて土間の地面を引っ掻くような音がする。

「そういう奴は仕事先でも同じことをする。それじゃあわしの沽券に関わるのよ」

 松公の声は愉悦に満ちていた。元々健常者のような働きができないために困窮しているところを、松公のごり押しで職を得た者たちである。その松公に見放されたら、彼らの行き場はなくなってしまう。

「必ず金を作りますから。遅れている分も払います。だからどうか、わしを捨てないでくだせえ」

 顔も姿も見えない男が、隻腕の老人へすがりつこうとしているのが脳裏に描かれる。すると「離れな」と若い横柄な声が聞こえた。うめき声が続いたが、呼吸音が聞こえない。必死に訴え、暴行を受けていたにも関わらず、上がった息が聞こえてこない。

「すいやせん、死んだかもしれません」

 事もなげに言った若い声に、梨花は戦慄する。目の前で修羅場を繰り広げた男と老人は、決まりを守らないという理由で人を殺せるのだ。

「まあいい。二度も借金をするようじゃ、もう金を稼げねえっちゅうこっちゃ。蹴転(けころ)には

適当に言っておけ。片付けも任せた」

 松公の声も静かだった。直接手を下したことはなくても、配下の者が繰り広げる修羅場を幾度となく見物してきた者の平静さだった。

蹴転とは場末の女郎屋を指す言葉で、年季が明けても借金を返せていなかったり、まともな見世では使い物にならなかったりする妓が働く場所だ。行き場のない女が蹴り転がされるように行き着くことから生まれた言葉だが、松公はたいした稼ぎのない非健常者たちを蹴り転がした劣悪な職場を指して使っていた。彼が独自に階級付けした職場の内、蹴転に分類される職場に送られる非健常者には期待をせず、死んでも構わないと放言したこともある。

「へえ、それで、手間賃は」

 男は多少へりくだった声になった。

「二十銭だ。部屋頭の下で日雇いやるよりいいだろう。確か昨日の仕事じゃ、ぼろぼろの鶴橋だの半纏だのを貸されて上前跳ねられたんだったな。昨日もらうはずだった分をそっくりわしが払ってやる」

 毎度、と応じた男の声は明るく、不満は聞こえない。かけ声が聞こえ、足音が遠ざかっていく。

「何をしておる。早く行かんか」

 松公の声で、梨花は金縛りから解ける。落ち着かない足取りの梨沙について歩く梨花は、松公の傍を通り過ぎる瞬間「稼げよ」と囁かれた。

 耳の聞こえない梨沙に代わって梨花が短い返答をした。難癖をつけられない内に、梨花は急いで外へ出る。梨沙もまた早く『まつや』を逃れたかったようで、足取りはいつもより格段に速い。

「追放、かな。あの、三太郎って、人」

 松公の下で働く非健常者たちにとっては最も重い罰を口にする梨沙の声は乾いていた。

「働けないなら、それしかないよ。ああならないように、働かないと」

 残忍な暴君の術中にはまっているのが癪だが、現実の問題でもあった。生きながらえたければ、松公にせっせと金を納め続けるしかない。そうしている限り仕事は松公が保障するだろう。

「行こう、遅れたら松公を怒らせるよ」

 梨沙の手を引くと梨沙が先に立って歩き出した。梨花は梨沙の真横より半歩下がった位置に立つ。梨沙の耳の不自由さを補えるため、取り決めたわけでもないのに自然と取るようになった立ち位置であった。

 松公にねじ込まれた木賃宿にたどり着き、出入りのない土間から入ると、梨沙が主人を呼んだ。帳場に見えた人影が動き、すぐに準備するように言う。梨沙は客が雑魚寝する十数畳の座敷へ直接向かい、残された梨花は相方の菊乃の手引きで、控え室として使われている炊事場へ向かう。張りのない乾いた手だが温かい。

「もっと部屋らしい部屋が欲しいねえ」

 藍染めの小袖を脱いだ梨花に、舞台衣装の派手な模様の描かれた小袖を着せてやる菊乃のぼやきは、本心と思えるほどの重みは感じない。

「着替えられたらいいじゃないですか」

 服の捩れを直しながら、曖昧な視界の中で着替えを始めた菊乃の真意を測りながら言ってみる。「まあそうだけどね」と言いながらも諦めきれないようだった。

「一応芸人だから、もっと何か恵まれた環境が欲しいと思ったことないかい」

「働けるだけいいですよ。今日も嫌なもの見たし」

 襦袢一枚になった菊乃の肌には、左胸から左太ももにかけて黒っぽいものが広がっている。子供の頃に負った重い火傷で、服を着れば隠せたが、嫁入りするには大きな障害だったと、何度か仕事を共にしてから聞かされたことがある。傷を含めて愛してくれる寛容な男に出会えないまま歳を取り、やがて家にもいられなくなり、流れ着いたのが新網町であった。

「三太郎さんって知ってますか」

「ああ、少しね。最近体を壊したって聞いてたけど、働けなくなって松公に金を納められなくなって、怖い人に殴られた、かな」

「まさしくその通りです。しかも死んだかもしれないです」

 菊乃に伝えようと言葉を紡ぐたび、松公の情念に絡め取られる思いだった。松公に背けば三太郎と同じ運命が待っている。視界が満足に利かない中で加えられる暴行は、受け身を取ることもできないから怖いはずだ。

「松公も相変わらずだ。きっとそれが楽しみなんだろうけどね」

菊乃は飄然と言った。

「でもあたしらに、他に生きていける場所はない。松公が働いたり生きていけたりする場所を作ってくれたのは確かだよ。所業で引かれた分が多すぎて、それすら感謝に値しないけどさ」

 菊乃の姿がきらめいていく。一応金糸を使っていて、不自由な梨花の目にも豪奢な印象を与える。彼女は踊り手だから、後ろに控える梨花がかすむほど派手な着物が必要だった。

 菊乃の実家は武家であったから、生きていく気力をなくした娘をある程度養っていくことはできたかもしれない。しかし御一新の後に士族となった旧武家を襲った嵐は、若い頃に世間を拒んで働く術を身に着けなかった菊乃を、いきなり世間へ放り出すことになった。唯一生きる手がかりとなりそうだったのが、教養として学んでいた踊りで、それを非健常者たちの芸能組織、瞽女の指導によって人に見せられる程度にまで引き上げたが、厳しい規律に耐えきれずに出奔し、新網町で松公の世話によって余興の仕事を得たのであった。

「やっぱり松公が死んだら困るだろうし」

 菊乃が口にした可能性も、松公に追放を言い渡されたのと同じくらい絶望的だった。松公が死ねば、金だけで縛られていた各雇用主や男たちはしがらみから解き放たれて手のひらを返すだろう。木賃宿の主人も、隙あらば追い出そうと常に機会をうかがっているようだった。

 三味線や踊りを披露できる場所を失えばどこへ行けばいいのか。想像がつかず、梨花は慄然とする。

 立ち尽くす梨花の肩が、不意に力強く叩かれた。

「そう簡単に死ぬような奴かい。向こう十年ぐらいは平気だろうよ。その間下手を打たずに生きていけば、怖い思いもしなくて済むんだ。そのためにも今日頑張らないとな」

 菊乃の壮齢にさしかかりつつある温かな手に触れ、梨花は戦慄が収まっていくのを感じた。この人についていけば平気だ。その信頼感は、松公がもたらす恐怖を追い散らす。

頬がほぐれて微笑みも浮かべられた梨花は、菊乃の手引きで歩き出す。座敷に足を踏み入れても拍手一つ聞こえず、余興を歓迎する雰囲気にはないものの、生きる手段と捉えれば批判も賞賛もない無反応が最も気楽であった。

 元々明るい性格の菊乃が前口上を述べた後で、反応も聞こえないまま撥で弦を叩く。何かの役に立っていると確信するにはあまりに虚ろな音色であったが、松公のことや日常の不自由さを忘れられる。

菊乃が畳を踏む音を聞きながら、梨花は演奏へと意識が集約されていくのを覚えていた。拍手も罵声もないまま二人の余興は続く。

 

 余興を終え、松公の元へ道具を返して家路に就く頃、日射しは赤く染まっていた。暗くなれば水気の蒸発も落ち着き、風の本来の冷たさを感じるようになる。梨沙の足も心持ち速かった。

 梨花には全貌が見えないが、十四歳の頃から二人で住んでいる長屋は汽車の客車を何台も連結したように見えるらしい。三畳の座敷に二尺の土間という作りの家がいくつも連なって、多くはそこに二、三世帯が体を詰め込むようにして暮らしている。

姉妹二人暮らしというのは珍しいと同時に贅沢なものに見えるのか、周りから嫌みを聞かされたこともあったが、それ以外に日々の中で鬱積した感情を解き放つ術がないのだろう。そう思うと、梨花は言い返したり恨みに思ったりする気分がしぼんだ。

 鍵のない引き戸を開き、茜色の光で照らされた室内に足を踏み入れると、梨沙は土間の隅にあるかまどの前で料理を始める。味の薄い汁や『虎の皮』と呼ばれる焦げ付き混じりの飯を温め直すのだが、目の不自由な梨花には危険な仕事のため、常に梨沙が担ってきた。

 土間と座敷の境に腰を下ろした位置だと、梨沙の輪郭が辛うじて見える。手際よくかまどの前で立ち回る姿に、梨花は覚えのない母親の姿を見たような気がした。

盲目の芸人、瞽女であったというから、一人で自由に動くことはできなかっただろうが、危険から遠ざけるために火の扱いを一手に引き受ける梨沙の優しさは充分に母親らしい。現実には自分たち姉妹を捨て去った母親から、何故梨沙のように優しい子が産まれたのだろうと不思議に思うほどだった。

 新網町で生まれ育った母もまた、松公の世話を受けて仕事をしていたものの、ある時町を訪れた長岡出身の瞽女組織に弟子入りして三味線を覚えた。何を瞽女に期待したのか知る術はないが、菊乃が逃げ出したような規律に縛られた苦しい毎日に飛び込んだことは想像できる。その癒しを、異性との関係を厳しく制限する規律に反して男に求めた母は双子を身ごもり、組織から破門か年落としを迫られた。

 母の選択は、生まれた双子を松公へ預けて自分は年落としという、出世を一年ないし三年延期する罰を甘受することで許してもらうことだった。妹弟子を「姉さん」と呼ぶことも有り得る屈辱的な処分であったが、破門された瞽女は「瞽女くずれ」や「はなれ瞽女」と呼ばれて瞽女社会から疎外されて一人で生きていく運命に突き落とされる。新網町の非健常者たちが松公の庇護なしでは満足に仕事に就けないように、体の障害がこの世で生きていくのにどれほどの枷になるか、梨花には理解できる。

 理解はできるが、生まれたばかりの子供を捨て去った所業の罪は消えない。今はどこで何をしているのか知れない母親を梨花は許せない。同時に一時の癒しを男に求めた軽率さを蔑み、自分たちを産んだことさえ恨むのだった。

「おっかさん、のこと、考えてる」

 不意に声をかけられて梨花の回想は途切れる。二人分の食事が載った盆を持った梨沙が目の前にいる。明確な表情は見えないものの、声の調子と口や目のおぼろげな形だけでだいたいの表情は想像できた。

「りっちゃん、怖い顔、してる」

 梨花は無言で立ち上がり、梨沙を迎えるように食卓についた。

「あの人を、恨んだことはないの」

 生来の優しさ故か、梨沙が母親への恨みや不満を漏らしたことはない。今回も「あんまりないな」と微笑むように優しい声で応えた。

「捨てられた、けど、産んでくれた」

 産み落とされたことすら恨めしい梨花とは対極の見地だった。不自由な目が煩わしくなる。慈愛に満ちた顔をしているはずの梨沙の顔を目に焼き付けたかった。

「楽しいの、今のこんな暮らし」

 たとえ捨てられなかったとしても、今度は瞽女組織の庇護から外れて乞食に成り果てた母との困窮生活が待っていただろう。どちらに転んでも、自分たちの人生は地獄の苦しみである。それならばいっそのこと産まれない方がどんなに楽であったか。

「りっちゃん、菊乃さん、みたいに、いい人がいる。それだけで、いい」

 梨沙の声は軽やかだった。諦念でなく、『いい人』を大事にしたいと心底から望んでいるようだった。

『いい人』の中に自分自身や信頼を預けられる菊乃が含まれているのは救いであったが、「どうかしらね」と梨花は唇の両端を引き上げた。

 菊乃や梨沙の優しさは貴重だが、それだけで飢えや寒さを凌げるわけではない。自分たちを捨て去った母親を恨む理由を突き詰めれば、梨花は困窮した暮らしを強いられる環境に産んだことにたどり着く。「いい人」さえいれば平気だと思える梨沙ほど、梨花は肌で触れられない幸せに好意を抱けなかった。

「わたしは、もっといいものを食べられる生活がしたい」

「それも、いいよ。きっとそれは、欲張りじゃない」

「本当に、そんなことできると思うの」

「できる。そう、信じなきゃ、できない」

彼女の言葉はそのまま梨花の願望でもあったが、叶うと信じ込むことはどうしてもできない。だからこそ一片の曇りも見えない明朗な言葉で、輝かしい未来を信じている梨沙が、不自由な目にもまぶしく映る。

梨花はそれ以上応える言葉を思いつけず「そうね」と短く応じるに留めた。

陸軍兵舎から引き取ってくる残飯を片付けると、梨花は梨沙が食べ終えるのを待って井戸の傍へ空の食器を持っていく。そこで自分の分をそれぞれ洗い、土間へ持ち込んで水気を乾かすように逆さにして置くと、一日にやるべきことの全てが終わる。

できることなら体を洗いたいが、個人で風呂を持つことが許されなかった旧幕時代の名残で、新網町はもちろん境界を接する麻布にも風呂は少ない。周辺で体を洗えるのは松公の店のみだが、彼は当然のように入浴料を要求してくる。毎日入れるだけの余裕が姉妹にはなかった。

入浴は諦めて、梨花は梨沙と体を並べて床に就く。松公の傍を離れてからずっと変わらずに続いてきた夜であったが、松公の残忍な見せしめを間近にしたせいか、目を閉じると耳に残る暴力の音が甦ってきて、それが実際には見えなかった像をまぶたの裏に結ぶ。

そのせいで眠れずにいると、開いたままの感覚が隣の動きを感じ取った。

梨沙がおもむろに立ち上がった。足音が遠ざかり、扉が開く音がした。沈黙が降りてから梨花は目を開く。闇の中で一人取り残された恐怖心に突き動かされて梨沙を追ったが、三日月が照らす視界はあまりに心許なく、漆黒とほとんど変わりなかった。

追いかける術のない梨花は諦めて部屋へ戻る。黙って自分の目の役割を放棄した梨沙への不信感が、松公によって植え付けられた恐怖心を塗りつぶす結果になった。

 

 

 夜が更けるまで一睡もできなかった梨花を、いつも通り朝餉の準備を終えた梨沙は何食わぬ顔で気遣った。

「松公を、気にしてるの」

「見たわけじゃないけど、同じことされたらって思うと怖いもの。梨沙は眠れたの」

 空が白み始める頃に帰ってきた割に、梨沙の声に疲れは聞こえない。いつものように眠っていれば明るく優しい普段通りの様子に騙されていただろう。「肩こりで、眠れた」と何食わぬ態度で言った。

「松公も、お金納めれば、何もしない」

 松公の残忍な所業に、貧民窟の中で受ける理不尽な扱いなど、傷つく場面は数え切れない。そんな時に接する梨沙の楽天的な態度はこの上ない癒しであった。

 それを今は白々しく感じている。声を聞けば梨沙の笑顔がわかるものの、その表情の裏で何を考えているのか気になってしまう。

 不信感は徐々に憎悪や恨みといった、松公や母親に向けられていた感情に変化していく。長年助け合った双子を陵辱するような辛い感情に苛まれる梨花を、梨沙の声が救う。

「おっかさん、のこと、思い出してるの」

 梨花は頷くことで心の内を濁し、心情を悟られないように薄い汁に口をつけた。薪が足りないせいか中途半端な熱しか加えられていない汁に味はほとんどないものの、喉の渇きを潤せるだけでもありがたかった。

 いつものように松公の店を経由して仕事に向かった梨花は、炊事場で菊乃と二人きりになると昨夜のことを話した。

 最初こそ冗談めいた受け答えをしていた相方も、梨花なりに必死の訴えをすると着替えの手を止めて真剣に受け止めるようになった。そして追放の可能性を示した

「もし梨沙が会ってるのが男だったら。それが松公に知られたら。自分の手を離れて勝手なことをする奴を許す松公じゃないよ」

 梨花は戦慄する。この貧民窟に一人で取り残されたら、目を失った自分はどうやって生きていけばいいのか。どうすればいいんですか、と梨花は状況を忘れて菊乃にすがりついた。

「落ち着きなよ。本当に追放されるようなことをしてると決まったわけじゃないんだ。もしそうなったとしても、あたしが目の代わりぐらいしてやるよ。だから今は安心して、仕事に打ち込むんだね。金を稼げなかったらお互い困るんだから」

 自分より十歳以上若い女をすがりつかせたまま菊乃は言った。短い言葉でやり過ごそうとするのでなく、言葉を重ねて納得させようとしてくれたことで、梨花は素直に頷くことができた。

 着替えを済ませて座敷へと向かう。客の関心が薄いのは、ほとんど間を置かずに余興をしているせいもあるのだろう。木賃宿の主人がどれだけ松公に借金しているのか知らないが、その重荷をできるだけ早く完済するために、ほぼ休みなく余興の場を持たせているのだ。

 そして自分たちにとっても、金を得るための手段でしかない。そうでなければ、喝采も罵声もない場での演奏や踊りなど空しいだけだ。

 この日の余興もほぼ無反応で終わった。着替えを済ませ、梨沙と合流した二人を木賃宿の主人は、厄介払いでもするように給金を押しつけた。今日三人に渡された給金で、借金の全てを返し終えたのだ。再び主人が借金しない限り、もう来ることのない宿を一度振り向き、梨花は菊乃の手を取ったまま歩き出す。いつもと違う立ち位置を取ったことに梨沙が何か言うかと思ったが、彼女はいつもと変わらない。仕事の感想や次の職場への期待といった前向きな言葉だけが聞かれてくる。片割れの変心にまるで気づいていないとはいえ、不信感を抱いていることが恥ずかしくなるほど、梨沙は明るかった。

 松公に三人揃って上納金を渡すと、次の職場を探すまでの猶予は休みになる。別れようとしたのを菊乃が呼び止め、梨花を引いた。梨沙だけが先に家へ戻り、梨花は菊乃に手を引かれて逆方向へ歩く。

「梨沙のことだけど」

 松公の店からも充分に離れてから切り出した。

「男のことなら野暮かもしれないけど、ここは自由な場所じゃないんだ。あんたの母親の例もあるし、あたしとしてはこのまま放っておくことはできないね」

 母親の話を持ち出された梨花の心中は複雑だった。菊乃の協力が得られたことは嬉しいものの、根深い恨みを抱く母と梨沙を同列に語られるのは心苦しい。

「協力してくれるんですか」

 複雑に渦巻く心情を隠すように、梨花は精一杯の愛想笑いをした。菊乃に別の目的があったとしても、目になってくれる者がいなければ梨沙の行動一つを追いかけることもできない。今まで誰かの手を借りずに生きたことのない梨花は、どんなに菊乃から理不尽な要求があっても耐える覚悟を決めた。

「一応何をしてるのか確かめてみるよ。あたしの知り合いにも声をかけて、交代で見張ってみる。そこまででいいかい」

「そこまでって、追いかけて何をしてるのかわかったら、その後は」

「その後は、あんたがやるんだよ」

 梨花は言葉に詰まった。

「あたしはあんたの目の代わりにしかなれないんだ。目は口を利けないよ。それに、姉妹の問題に他人が口を挟むのもよくないし。梨沙のしていることを止めたいなら、あんたが話をして止めるんだ」

 菊乃は両肩を力強く叩いた。不安に陥った時、何度も勇気づけたその衝撃は、梨花の口から出かかった言葉を飲み込ませる。

 そんなことできるわけないです。菊乃さんの方がうまくできます。

 そう言いたかったし、家の前で別れた後も消えない言葉である。そして梨花は、初めて菊乃を信じられなかった。

 

 慣れない休みと梨沙への不信感が梨花から睡眠を奪っていく。深夜になると出ていく時があると伝えてあるし、仕事が始まるまでの時間は三人ともほとんど変わらないのだから、菊乃に任せても梨沙のしっぽを掴むことはできるはずだ。

 そんな確信めいた思いがあっても、梨花は梨沙が出ていく瞬間を自分で見届けたかった。もしも菊乃が見逃してしまったら。菊乃がいなければ追いかけることはできないが、見逃しただけなら自分が出ていく瞬間を伝えることで菊乃をけしかけることはできる。梨花はそれまでの信頼が急速に失われていくのを感じていた。

一週間経って次の職場が決まる。その間も梨花と菊乃はそれぞれの場所で不寝番を続ける。

二週間経った頃、あれは手水場に行くのを勘違いしたのではなかったかという、自分自身への不信感が芽を出した。

手水場は家の裏で、提灯がなければ真っ暗闇になる場所にあるのだ。そしてあの時、自分は扉の前で立ち尽くしていて、梨沙を追わなかった。

しかしそれなら、手水場へ行くにしては長すぎる時間はどうだ。

そこまで考え、梨沙は何かよからぬことをしていたのだという結論へ戻ってくる。

それは松公の怒りを買うようなことで、同時に自分との決別と引き替えにすることだ。

つまり、裏切りに等しいのだ。

不信感に怒りが加わる。今まで足りない感覚を補い、助けてきた片割れに対して許されざる所業だ。

三週間目に初めて梨沙の動きを捉えた。

扉を出ていくのを音で確認して、梨花は梨沙を追う。扉の前には菊乃が降り、肩を軽く叩いてから歩き出した。

空を見上げれば形のわからない月が出ているのがわかるものの、光源としてはあまりに頼りなく、菊乃はすぐに漆黒へと紛れ込む。

寒さを避けて部屋へ戻ると、初めて梨沙が出ていった時よりも深い孤独が寄り添った。

あの時は前触れもなかったので、半ば夢のように感じていたのが、準備して待ち構えていた今夜ははっきりと現実の出来事として捉えている。

不信、怒り、憎悪、不安、孤独。梨沙がいて初めて打ち消せる負の感情が、容赦なく吹き出す。

それらのやり場はどこにすればいい。その答えは翌日に出た。

「ここで男と会ってたよ」

 新しい職場に馴染むための練習がしたいと菊乃に連れ出され、梨花は境の寺と呼ばれる場所でそう聞かされた。

 南北に長い新網町は、北側に山の手の麻布と接する場所があり、そこに関所よろしく寺がある。食べ物から雑貨まで、ありとあらゆるものを売る香具師を始め、行商の末に行き着いた商人や山の手での出稼ぎを終えて戻ってきた住人たちなどでごった返す寺の境内は、健常な梨花の耳を以てしても騒がしく、ともすれば人の声と砂利を踏みならす音に紛れてしまいそうな声ではあったが、その分は強い衝撃が補う。嘘でしょう、と訊き返してしまうほど信じがたい事実だった。

「嘘ついても仕方ないよ。梨沙は確かに、ここで男と会って何か話をしてた。あたしが心配してる通りのことだね。松公に知れたら追い出されるよ」

 菊乃は往来を見遣って言った。境内は夜間でも鍵がかからず、人の行き来がある公共の道に等しい場所だ。梨沙と男が入り込むのは造作もない。

「会ってただけなんですよね。会って、会ってそれで」

「会って、何をするかって。男と女が会う理由はいくつかあるけど、夜に、それも双子の姉妹に気づかれないように会う理由は一つしかないよ。だからあたしが心配した通りって言っただろう。梨沙はその男と」

 梨花は最後まで聞かずに飛び出した。一人ではゆっくり歩くことさえ怖くて避けてきた二十五年間である。走ったことなど一度もない。同伴者に負担をかけるのを避けたかったのもあるが、障害物をよけきる自信をどうしても持ち得なかったからだ。

 その封印を衝動的に解いた梨花は、早速往来で何かにぶつかった。しなやかで引き締まった感触から人であること、吹っ飛ばされて背中から落ちたことから相当の力でぶつかったこと、気遣わしげな声が聞こえたことから優しい相手であることを知る。

 梨花はすぐに返事ができなかった。背中を角のある小石で強く打って息が詰まる。必死で空気を吸い込み、声を上げようと何度か腹に力を込めて、五回目でやっとそれが成った。声をかけてきた相手は驚いたような声を上げる。無用のいざこざを避けるため、すぐに立ち上がって駆け去った。

 すぐに門柱と思われる丸くて固いものに激突し、足の裏の感触が変わった直後に滑って転び、冷たい泥にまみれる。境の寺と家を結ぶ道は、買い物のために何度も通ったことがあったものの、全て梨沙の同伴があってのことだ。どこに何があると聞かされたことはあったが、必要ないと決めつけて覚えようと思ったことはない。男と会っていた事実を聞かされた今となっては、根拠のない未来にすがっていた自分が滑稽であった。

 諦めずに走り続けたが、再び滑って転んだところで冷静になった。今まで道案内を梨沙や菊乃に頼っていたために道順が全くわからない。壁伝いに行けば、わずかに見える右目が見覚えのある輪郭を捉えてくれるかもしれない。梨花はささくれだった壁を警戒しながら歩いていく。

 走っていた時と比べて大きく速度は落ちた。そのせいか、菊乃に追いつかれるまで時間はかからなかった。

「一人で何しようっていうの」

 菊乃が肩を掴む。薄い生地を通して叩き込まれた衝撃は肌がひりつくほどで気遣いはない。

「わたしなりに何とかしようとするんです」

「だからって一人で駆け出してどうするの。あんた一人じゃまともに歩けもしないのに」

 自分自身も当然のこととして受け入れている事実が、他人の口で初めて指摘されると無性に腹が立つ。そんなことありません、と背後にいるはずの菊乃を振り返って鋭く言い返す。

 菊乃はため息をついた。

「泥まみれの顔でよく言えたものだよ」

 梨花は自分の顔を汚す冷たいものに触れる。最初にあった粘つきは乾きつつあり、元の土に近い感触へ近付いていた。

「一度訊くけど、梨沙に今会って、どうするつもりなの」

「その男との付き合いをやめさせます」

「どうやって。あたしの目から見て、簡単に別れそうな二人じゃなかったよ」

「松公に知られたらひどいことになるって、わからせます。そこまでして梨沙も意地をはらないでしょう」

 梨花には確信があった。この町の非健常者たちが、最大の支配者である松公に逆らってまで我を通すはずはない。松公は残忍な老人だが、確かに仕事と生活を保障しているのだから。

「わかっちゃいないねえ、初心なんだから」

 菊乃の声は冷ややかだった。どこに無知が含まれているのかわからず、何ですって。と気色ばんで訊き返す。

「松公は確かに強いし、あたしだって怖いよ。でも男が絡んだらあの程度の怖さ、女は簡単に飛び越える」

「菊乃さん、梨沙が痛い目に遭った挙げ句追放されてもいいんですか」

 梨花は自制が利かなくなっていくのを感じる。これまで生きてきた中で出した覚えのない、気色ばんだ声で言い募る。更に菊乃の胸ぐらを掴もうと手を伸ばしたが、それは宙を掴んだ。

「そうじゃないよ。瞽女の話でよくあるだろ。今どれだけ強く愛し合っていても、それが冷めて男に捨てられたら、梨沙はどうやって生きていけばいい。あんたのおっかさんだって、そのことに気づいたから男を捨てたんだろう」

 自分たちが産まれるまで、母と相手の男に何があったのか梨花は知らず、情動については想像するしかない。厳しい規律に縛られた日々に対する癒しを男に求めたという瞽女の話はよく聞いていたので、母も同じだろうと漠然と思っていたに過ぎない。

 その話は、規律を破って瞽女から妻になった女が結局離婚の憂き目を見るという悲劇へつながる。情動は一時的なものでしかなく、冷めるのも早いものだ。愛を感じなくなった非健常者は、男に取って重荷となって、追い払われるように離れ瞽女へと転落してしまう。菊乃はそんなありふれた瞽女の未来を、梨沙に重ねているようだった。

「あたしも、いつか飽きられて捨てられて、離れ瞽女みたいな乞食になったり遊郭に売り飛ばされたりする梨沙を見たいわけじゃない。梨沙を説き伏せなきゃいけないと思うけど、それにしても慎重にならなくちゃ。たとえ梨沙のためと言っても、梨沙にとって大事なことをしてるんだから」

 男との色恋を言っているのだと思うが、梨花は見立てに自信が持てなかった。男と夜中に逢い引きすることが、菊乃が言うほど大事なこととはどうしても思えない。

 ともあれ、菊乃の言葉を信じるなら頭ごなしに男と別れろと言うのは避けるべきということだ。菊乃と話をすることで、自分が取ろうとしていた行動の無理に気づいてくる。家に飛び込んで梨沙を問い詰め、男との付き合いをやめろと言い放つつもりであったが、その高圧的な物言いなら間違いなく反発を招くだろう。

 梨花は頭が冷えていくのを感じながら、わかりましたよ、と言った。それでいい、と応じた菊乃が肩を叩く。彼女が持つ温かみを思い出した。

 戻ろうと思った梨花だが、練習のために出てきたことになっていると菊乃に思い出させられる。その時間稼ぎと称して湯屋へ誘う菊乃に従い、梨花は一人で走ってきた道を戻っていった。

 新網町の境の寺を抜けて間もなくのところにある、江戸時代以来の湯屋の代金は菊乃が二人分を出した。ここ最近の不安や不信を見抜いていたような気遣いがありがたく、梨花は一人で突っ走ろうとしていたことを恥じた。

 湯屋を出ると、菊乃の導きで家へ戻る。扉を開けて梨沙を呼んだが返事がない。湯屋で溶けかけた不安感が急速に固まっていくのを感じた。常に二人で一人の行動を貫いてきたから、梨沙も一人歩きは避ける。

何かあったのだ。そう思ったが、菊乃も去ってしまった今、手がかりも持たない自分にはできることがない。梨花は不安を抑えながら座敷に座り、梨沙を待つしかできなかった。

 梨沙が戻ってきたのは、部屋に注ぐ光が完全に絶えた時間であった。梨沙の声で呼びかけられて返事をすると、行燈の火を付けるという予告の後視界の片隅で光りが生まれる。梨沙の名を呼ぶ声に不安がにじむ。一人で生きてきた覚えに乏しいと、わずかな時間でも片割れを手放したくない。

「ごめん、りっちゃん、一人にして」

 ぼんやりした橙色の光が人影の形に遮られた。正面に梨沙が座ったのがわかる。

「どこに行ってたの。一人じゃ危ないのに」

 これまでの人生では起こりえなかったことが立て続けに起きている。梨花はその事実におののいていた。

「一人じゃ、ない。りっちゃん、聞いて、ほしい」

 一人ではない。男のことか。そう問い質したいのをこらえ、梨花は梨沙の言葉を促す。

 すると梨沙の声が震え出す。堰を切ったように急速な変化は、瞬く間にそれまでの軽やかな梨沙の印象を変える。不自由な視界にも、動揺しおののいている表情が思い描かれた。

「さっきまで、松公のところ、行ってた。りっちゃん、出かけた後、松公の、手下たち、来て、連れ出された。あたしが、男の人と、会ってるの、知られてた」

 梨沙の影が揺れた。左右に微動したと思うと視界から消える。のめり込んだのだ。梨沙がひざにすがりついているのがわかった。

「梨沙、松公のところで怖い目に遭わされたのね」

 梨沙の背中を優しく撫でる。震えているのがわかった。三太郎のように暴行を受けた痕は感じ取れないが、恫喝ぐらいはされたのだろう。

「追放か、男と別れるかって」

梨花には何を迷っているのかわからない。梨沙の立場に立って考えても、導き出す答えは一つしかない。

「梨沙、わたしたちが松公の傍を離れて生きていけるわけない。男を選んだって幸せにはなれない」

 確信の元に梨花は言い切った。新網町も松公の保障する暮らしも満たされているとは言い難いものの、きっと他の場所に自分たちが生きる場所はない。目の見える者や耳の聞こえる者と競っても勝ち目はないし、悪くすれば理不尽な差別に苦しむかもしれない。たとえ残忍な仕打ちをすることがあっても、松公の庇護の元であれば、そんな懸念とは無縁でいられる。

 梨沙は双子だから、同じ結論に達していると信じていた。だからこそ、追放されてもいい、とか細く震える声で言った時、梨花は絶句した。

「あたし、一人じゃない。だから、素臣様と、出ていくの、怖くない」

 梨沙の声が僅かに落ち着いた。手のひらに伝わる震えが若干弱くなり、声にも芯の強さが宿る。

 梨沙はゆっくり体を起こした。

「何を、言ってるのよ。松公から離れることがどういうことか、わかってるの」

 梨沙が抑えた震えが、増幅されて自分の声に移ったような気がした。

「素臣様なら、何とかしてくれる」

「あなたはわたしの目なのよ」

「でも、あたしはあたし。りっちゃんが、あたしの耳なのと、同じに、りっちゃんなのと同じだよ。あたしも、あたしの、やりたいように生きて、みたい」

 いつしか声から震えが消えていた。

 さっき後先考えずに駆け出して、往来で派手に転んだことを思い出した梨花は戦慄した。一人では走ることもおぼつかない自分が生きるには目が要るのだ。それも幼い頃から互いの感覚を補い合って生きてきた、誰よりも理解の進んでいる双子の姉妹でなくてはならない。梨沙でなくては駄目だ。自分の片割れは梨沙でなくては生きていけない。

 梨沙が立ち上がる。反射的に手を伸ばすと運良く梨沙の手に触れた。すかさずそれを掴み、引き留める。

「どこ行くのよ」

「素臣様と、話す。事情、話して、一緒に出て行くの」

「そんなこと、できるわけないわ。ねえ、今何時だと思ってるの。わたし一人じゃ行燈の火も消せないのよ」

「ちゃんと、消していく」

「そしたら真っ暗闇よ。月明かりじゃ全然見えなくて、闇の中に一人で取り残される怖さが梨沙にわかるの。怖いのよ、怖いから行かないでよ。どこにも行かないでよ」

 言葉を重ねるごとに声が涙で割れていく。歪んだ声音は自分でも聞き取れないほど滅裂になる。うずくまるようにして梨沙の腕を引きずり込み、転ばせた。

 自分の声には実感がなかった。頼むよ、とか、行かないで、とかいう言葉を発しているように聞こえたが、薄い壁でも隔てているように心許ない。

 聞こえない耳を補ってきた自分が、泣いて頼んでいるのだ。いくら梨沙でも聞いてくれるだろう。そう思って梨花は梨沙の腕を引っ張り込んだまま顔を上げる。

 顔面に平たいものが押しつけられたのはその瞬間だった。

 それは勢いよく顔面の中心を叩き、押し出そうとした。梨沙の平手が押し込んでいるのだとわかった時、梨花は抱え込んだ腕を一層強く抱いた。これを離すと二度と戻ってこない予感がした。負けられない。一人で闇に沈むのは嫌だ。一緒に暮らすこともできない菊乃では力不足なのだ。梨沙でしか有り得ない。

「何で行くのよ、何でよ」

 激流のように強い力に抗って、梨花は前へ出ようとする。そうすることで腕を抱くのが幾分楽になった気がしたが、長くは続かない。一瞬強い力が顔の真ん中に加わり、突き飛ばされた。その拍子に梨沙の腕が抜ける。背中から転がりそうなところを、梨花は両手をついて支えた。

 扉が開く音がした。梨沙の気配が消える。慌てて追いかけるが足音も聞こえない。梨花は為す術なく立ち尽くす。

 一人取り残されたことに気づくと、闇から逃げるように行燈の火がつけっぱなしの座敷へ転がり込んだ。それで闇に閉ざされる恐怖心は消えたものの孤立感が残る。喧嘩の経験がないわけではないが、今までは次の日には解決していた。それが今度は、解決の糸口さえ見えない。お互いに望むことが正反対で、梨沙は我を通せるほどの強さを身に着けていた。譲るつもりのない梨沙に勝てるだけの強さが、今の梨花にはどこを探してもなかった。

 梨花はうずくまり、一刻も早く眠りに就くことを願った。しつこくまとわりつく嫌な感情から逃れるためにできることは他に思いつかない。望み通りに眠りに落ち、再び目覚めた時には激しい空腹と喉の渇きを覚えていたが、梨沙が戻ってくるのを座敷で待つしか出来ない。

 日射しが戻ってきた頃に扉が開く音を聞いたが、呼びかけたのは聞き覚えのない男の声だった。

「あなたが、梨花さんですか」

 低く落ち着いた印象ではあるが、物怖じしないというわけでもなく、初対面の相手に対する警戒も含んでいる。誰、と尋ねた声には、驚くほど力がこもらない。相手に聞こえたかどうかの自信もなかった。

「大久保素臣と申します。梨沙のことでお話があります」

 長く出会ったことのない真摯な印象の声は、空腹の梨花に体を起こす力を与えた。少し体を前に動かすと、微かな匂いを嗅ぎ取る。それがあまりに香ばしく、美味しそうだったから、何の匂いなの、と尋ねた。

「梨沙が、お腹が空いているだろうから持っていってほしいと。水もありますが、食べますか」

 紙を擦り合わせるような音の後、匂いは一層強くなった。どこかで串焼きでも買ってきたのだろう。それが声と同時に目の前に突き出され、梨花は紙で包まれたそれを探り当てる。

慎重に竹串をつまむと、口の周りを切っ先で突かないよう気をつけながらゆっくり肉を口に入れる。噛み切りにくい生焼けの肉は、血の味に似ている。豚か牛の肉を取った後、使わずに捨ててしまう部分を焼いたものであろう。

 昨夜の昼以来何も口にしていなかった梨花は、五本あった竹串の肉を貪るように食べ尽くした。

 更に差し出された水を飲んで人心地ついたところで、ようやく頭が回り出す。目の前にいる男の名は知らないが、彼が親しげに言った名前は忘れられない。

「あなた、梨沙の男なのね」

 梨花は嫌悪を隠さなかった。大久保素臣と名乗った男こそ、梨沙をたぶらかしたのだ。きっと彼は、二人で足りない感情を補い合って生きることの苦労など何も知らず、梨沙の見てくれだけを気に入っているに違いない。

「梨沙はどこにいるの」

 目の前の男に掴みかかるつもりで手を伸ばしたが、何も掴むことはできずに宙をさまよい、やがて疲れて床に手のひらを落とす。

「私の家にいます」

「あなたのって、新網町を出たの」

「まだです。いずれは出て行きたいものですが。こういう場所での暮らしがどういうものか、私にもよく知るところです」

「それがどうしたっていうの。松公のところに一度行ってみなさい。自分がしてる苦労が、どれだけ甘ったるいかわかるから」

「それならば、もう行ってきました」

 落ち着き払った声に梨花は言葉を失う。わざわざ暴君の元へ行く理由がわからない。

「梨沙がどうしてもと言ったので。新網町を出た後に私と暮らすためには、松公の気の済むようにしなくてはならないと」

「どういう意味よ」

 素臣は淡々と言い放つ。

「追放だと言われました。それを言い渡したかった松公の意図が、今ひとつわかりませんが」

 気づくと梨花は土間に突っ込んでいた。上から気遣わしげな声が降ってくる。素臣に掴みかかろうとして、失敗して勢いのまま土間へと突っ込んでしまったのだ。

「何もわかってもいないのに、梨沙を連れ出すなんて笑わせるわ。体のどこかに欠陥のある女が、男に一時癒しを求めて、結局重荷に感じた男に捨てられるなんてよくある話よ。梨沙がかわいそうよ、元の暮らしに返して。ここでずっと、二十年以上一緒に暮らしてきたのよ。あなたなんかに邪魔させない」

 体を起こした梨花は、素臣の体を探した。男の体を掴んで床に叩きつけてやりたかったが、どんなに周りを探しても男の体にかすりもしない。徐々に疲れてくると涙が溢れてくる。一人では我を通すこともできないという事実が、今更のように胸を揺さぶった。

梨花さん、もうやめてください。あなたが何を言っても、梨沙も私も思いは変わりません。これは私だけの意思でなく、二人の意思です。あなたこそどうして、一緒に長い間助け合って暮らしてきたなら祝ってあげないんですか」

 素臣の声に初めて非難めいた響きが混じった。それは梨沙の声を借りて放たれたようにも聞こえる。今まで助け合って生きてきた事実を捨ててまで男の元へ走り、松公に追放を言い渡されることも恐れなかった行動力に責め立てられた気分だった。

 辛うじて口にできたのは、「梨沙がそんなこと言うわけない」という自分でも信じられない空虚な言葉であった。

「梨沙はわたしの目で、わたしは梨沙の耳なのよ。あなたじゃ、他の人じゃ駄目なのに」

 虚ろな声に返事はなかった。代わりに応じたのはため息である。一段高いところから見下ろして嘲るように聞こえ、言い様もない悔しさがこみ上げる。

「もう駄目だ。あなたとはもう話すことはない。双子の姉妹のことも信じ切れないような人では、梨沙も離れたくもなるでしょう。私たちはもう行きます。お元気で」

 傍で微かに空気が揺れた。梨花は咄嗟に男の足首を掴もうと手を伸ばしたが、扉の開閉音を聞くに留まった。

 もう追い切れない。二人がどこで暮らしていくのか知る術がない以上、追いかける術はない。菊乃が目の代わりはしてくれるだろう。食事も作ってくれて、梨沙の代わりになろうと努めてくれるだろう。

それでも大きな違いがある。菊乃は赤の他人なのだ。今までのように自分と密着した生き方をしてはくれないだろう。

 半身を失い、生まれた穴を菊乃では完全に埋めきれない。隙間には容赦なく心許ない視界から来る不安感と恐怖心が流れ込み、苛むのだろう。そう思うと、梨花は動けなくなる。土間に倒れ込んだままうずくまる。菊乃が食べ物を持って来てくれることを期待するしか思いつかなかった。

 

 三

 

 仕事場は変わっても、客の反応はこれまでと変わりないものであった。賞賛も罵声もない舞台には快不快の気持ちも生まれず、淡泊に梨花は弦を叩き続ける。

少しでも耳の肥えた客がいれば、その起伏に乏しい演奏に注文をつけてくるのかもしれないが、職場を移した一ヶ月間、演奏中に菊乃以外の声を聞くことはなかった。

 菊乃が明るい声で場を締めくくり退場すると、帳場に座る主人は無言で給金を渡してきた。不意であったため小銭を取り落としそうになったのを菊乃が防ぐ。菊乃の手を取って歩き、着替えのためにあてがわれた便所の前の廊下で舞台衣装を脱ぐ。

「梨沙、あれから会わないね」

 上着を着せながら切り出した菊乃の声には似つかわしくない慎重さが宿る。

「ここにいたくないから、松公から離れたんでしょう。会わないのは当たり前です」

 梨花は投げ遣りに言った。感情的だった別れ際の心が今は凪いでいる。追いかける術はなく、向こうから戻ってくることもないと思えば未練は失せる。菊乃も目の代わりをしてくれている今、以前ほどではないにせよ生きていくのに思ったほどの不自由はなかった。

「ちゃんと二人で生きていればいいんだけど。男に捨てられた瞽女の話は、腐るほど聞いてきたから心配だよ」

「わたしたちが気にしても何もできません。もう追いかけられないんですから」

「あんた、冷たくなったね」

 前紐を結ぶ手が自分の意思に反して止まった。それ以上菊乃は言葉を継がない。

傷つくような言葉を引き出すのも嫌なので梨花は深く訊かなかった。菊乃にも話を展開するつもりがないのか、それきり喋らなくなって、二人の着替えは無言で進んだ。

 昼過ぎには日が照っていたのに、演奏していた二時間ほどで日射しは消えていた。元々日当たりの悪い土地は、わずかな時間陰りが続いただけでも急激に冷え込む。外へ出たのを狙ったように吹き付けた北風に、梨花は両手で自分の体を庇った。

「一雨くるかな。風が強かったせいかな」

 本当に風のせいだったのかどうか知らないが、やがて雨が降り出した。小雨がしばらく降っていたものの、ほどなくして雨脚が強くなる。

 そんな殺生な、と菊乃は嘆息していた。

「早く松公のところに行きましょう。寒いですし」

 仕事が終わったからといってそのまま帰れるわけではない。三味線も舞台衣装も全て松公からの借り物だし、日銭を得たのならその中から世話代としていくらかその日のうちに収めなければならない。何度も遅れれば三太郎の二の舞だ。好きにもなれない仕事をして稼いだ金を、何もしていない老人に搾り取られるのも癪だが、金を払えないばかりに暴力に晒されるのも地獄である。

 松公の店へ戻り、用を済ませた後も雨脚は弱まらない。元々緩かった地面を緩め、踏みしめる感覚を弱くする。菊乃の支えがなくてはその場に立ち尽くすのも怖いほどで、その張りに乏しい手を転ばないように強く握りしめた。

「大丈夫だよ。ちゃんとここにいるから」

 菊乃はわかっていない。地面がないかのように感覚が乏しくなっている怖さを打ち消すために強めた力を、離れるのを止めるためのものだと勘違いしている。周りを最もわかりやすく捉えてくれる目を使えないことの恐怖心を、菊乃は梨沙ほど理解できないだろう。

 不満ではあったが、それを素直に口にして菊乃の気分を害するのも望ましくない。菊乃までいなくなってしまったら、自分はどこへも行けなくなってしまう。

「雨宿りでもしようか」

 そう言った菊乃に引かれるまま梨花は歩いた。ほどなくして足を止め、方向を変えた菊乃に従うと、薄い生地を通して染みこんでいた雨粒の感触は消えた。視界は日光が雲に遮られて往来とは違う見た目に変わる。夕焼け空のような光が点在しており、全体的にほのかな明るさを宿している。雨宿りという目的と結びつけ、どこかの茶屋にでも入ったのだろうと思った。

 それなのに菊乃が何の気なしに酒を注文するのを聞き、梨花は首を傾げた。

「気にしなくていいよ。お茶でもいいんだから。頼んでやろうか」

 菊乃に全てを任せると、ほどなくして机に置いた両手にほのかな熱を感じた。熱い茶の入った湯飲みが置かれたのだろうと思ったが、その膨らんだ形は明らかにとっくりであった。

「そりゃあたしのだよ。飲みたいならおちょこがいるね」

 一献傾けることを期待するような声だったが、梨花は控え目に断った。

 向かいで酒が猪口に注がれる音の後にすする音が聞こえる。熱っぽい吐息に重なるように湯飲みが来たことを店員が告げる。さっきと同じように両手で熱を感じ、指先で慎重に磁器を探り当てる。数秒も触っていられない真っ直ぐな円筒形は、確かに湯飲みであった。

「しばらくやまないか。客もそんなに来ないから、ゆっくりできるね」

 傍でよけいなお世話だよ、と湯飲みを届けたのと同じ女の声がした。ぞんざいな響きで、菊乃が常連であることがうかがえた。

「いつも来てるんですか」

 見えづらい目で周りを見回し、梨花は訊いた。赤っぽいぼんやりした光が壁と見られる垂直な面の傍に点在し、それが雨降りの往来よりもわずかに強い光で照らしている。ぼんやりした心許ない視界ではその程度しかわからないが、客が全くいないことは長年梨沙を助けてきた耳が教えてくれた。

「他に楽しみがなくてね。もう少し若い頃にはほとんど毎日来てたよ。昼間からこうして酒を飲んでた時もある。毎日が嫌で嫌で仕方なくて、酔ったまま死ねたらいいなんて思ってたんだね」

 本当にそうだったら迷惑だよ、と横やりが入る。笑みを含んで応えているところから察するに、菊乃が心情を吐露できるほど親しくしているようだった。

「いくら底辺といっても、人間の生きる場所なんだ。死ぬのが簡単にあっていいはずないんだから」

 顔の見えない女が独り言のように漏らした言葉は、新網町の現況に抗うようであった。 

壊れた体で無理に働かされ、金を納めなかったという理由で暴行された三太郎が思い出される。その死をもたらした者たちの態度からすると、道端で腐った亡骸をさらす鼠や小鳥と同じ程度の価値だったのかもしれない。

 それが異常か正常か、比べるものを知らない梨花には長らく判断がつかなかったが、迷いのない女の声を聞くと常識から外れた町なのだと思えるようになる。母と梨沙は、そうした異常を嫌ったのかもしれなかった。

「今はそんな馬鹿なこと考えないよ。そりゃ嫌な毎日だけど、生きていくのも少しは楽しくなった。死ぬのが嫌になるくらいは」

 いつも明るい菊乃が、死生に関する悩みを抱えていた時期があったとは意外だった。思えば菊乃の過去について知っていることは来歴程度でしかなく、彼女自身を形作るものはほとんど知らなかった。

「そんな話をしたくて、誘ったんですか」

 訝かしむように問うと、そうじゃないけど、と戸惑ったような答えが返ってきた。

「だいたいあんた、死にたいなんて言ってないじゃないか。ただ雨宿りがしたいだけで、あんたが訊いたことにたまたまそういう話題が浮かんだだけ。それともあんた、死にたいの」

 梨花は歯切れの悪い言葉でやり過ごす。梨沙が去り、菊乃では補いきれない毎日が辛いとも思うが、死ねば楽になるなどと考えたことはない。

「何でもいいけど、お茶冷めるよ。体を温めたくて入ったんだから、冷たいもの飲んだら意味ないだろ」

 菊乃に促され、指先で平らな磁器の腹をつつくと著しく温度が下がっている。温もりを感じられるぎりぎりのところだろう。急いで飲み込むが体の準備が追いつかず、胸でつかえてしまった。反射的に下を向いた瞬間、逆流した茶が僅かに唇に触れた。

 むせ込みながら混乱しているところに、菊乃の高い笑い声が聞こえた。

「期待を裏切らないねえ、あんたって」

胸の奥に残る液体を吐き出そうと咳き込む。ほどなくして背中をさする手がある。それで少しだけ楽になった。

「楽になったかい」

 一分足らずの間で梨花の喉は、礼を言える程度に回復した。

「よかった」

 菊乃の声には安堵感も含まれて聞こえた。梨沙が去ってから久しぶりに聞く質の声であった。

「あんたが元気なら、ここまで流れ着いたのも無駄じゃなかったって思えるからね」

 酒を注ぐ音とすする音が間断なく聞こえる。向かいに座り直した菊乃はまだまだ飲み足りないようだった。

「死んでもいいなんて思ったのは、何のために生きてるのかわからなかったからだしね」

「今は楽しいんですか」

「それはどうかな。でも死んだら駄目だなとは思うよ。あんたのこともあるし。あんた、あたしがいなくなったら困るだろ」

 梨花は強く頷いた。梨沙に及ばなくても目は目だ。

「それだけ強く認めてくれたら、人間どんな場所でも生きていけるものだよ。あんたもそうだろ。今は梨沙がいなくなって迷ってるだろうけど、同じように何かしてやれる人がいるといい。その意味じゃ、あたしは不足だろうけどね」

 苦笑気味に声は、梨花の胸の内を見透かすようだった。

「あんた、ここを出ることを考えたことあるかい」

 梨花は迷うことなく首を振った。

「普通はないか。あたしだって松公から見放されて生きていけるかどうか、自信はない。一応踊って暮らしてはいるけど、それだって松公が借金で宿の主人を脅してるからだし、新網町の外で通じるとは思えない。本当はあたしたちには何もないんだ。こうして飲み食いして、お店者の暮らしを助けてやるぐらいさ」

 酔いが回って自制が利かなくなったのか、いつもの菊乃からは考えられない弱気な声だった。何か気遣いを見せたかったがそのやり方がわからず、菊乃の名を呼ぶしかできない。

「それにしたって、いつまでも続くわけじゃない。そうわかってたらどうしたらいいだろね」

「どうって、踊りを練習するしかないんじゃないですか」

 辛うじてそんな答えを返してみたが、他にはなさそうだった。芸に生きる者がその道を行き通すしかないのは、この世のどこでも変わらない真理だろう。

「気に入らないのかもしれませんけど、生きていけるんだからいいじゃないですか。それに、菊乃さんがいなくなったらわたしが困ります」

 そうだなあ、と菊乃は納得しかねるように言った。直後に聞こえた酒を注ぐ音に酔いが言わせた戯言だろうと梨花は思うことにした。事実、それから音の間隔は短くなり、目の不自由な梨花にも酒量が増えているのがわかった。

 耳を澄ますと客の声の代わりに雨音が聞こえる。外で降られた時と雨脚は変わっておらず、それを言い訳に酒を飲み続けることは想像に難くない。ようやく雨音が途切れた時に店員の女が伝えた時間は午後九時、どれほどの時間か理解できない菊乃に、日付が変わるまであと三時間という補足があった。

「飲んだ飲んだ、ああ飲んだ」

 満足げな菊乃の声に、さっき聞こえた寂しげな感じはない。導きの手を取って立ち上がるが、酔いでふらつくような感じもなく、ぬかるみの上の恐怖心が増すようなこともなかった。

「あんたもたまには飲んだらいいよ。これだけ楽しくなれるんだから」

 いつもより大きな声を出す菊乃は、やはり酔っているのだろうか。判断がつきかねた。

 答えを探しあぐねていると菊乃は不意に足を止めた。やばい、という呟きも聞こえた。

 菊乃を呼ぶ声がした。それは今まで聞いたことのない厳しいものだった。

「人と約束しておいて酒盛りをした挙げ句、この寒空の下で待たせるとはいい度胸ですね。頼んだのはあなたですよ。わかっているのですか」

 鋭い叱咤が自分に向けられたのではないとわかっていても身構えてしまう。強い影響力を感じさせる声は新網町には似つかわしくないと思う。

「まったく、あなたがやろうとしてることは甘さが通じるものじゃないというのに」

 さっきよりは小さな声で吐き捨てた女に、菊乃は謝っていた。さっきまでの大声は鳴りを潜め、飲んでいる時の僅かな間に見せた弱気さに近い声である。

「まあ、わたしもそうたくさん暇あるわけじゃないので、酔った頭でも平気なら付き合います。でも二度目はありませんからね」

 女の姿は闇に紛れて見えないが、声の感じは明らかに菊乃よりも若い。それなのに菊乃はひたすら小さくなって謝っていた。まるで師と教え子のような関係に思えてくるのが不思議だった。

「すぐ行きます。でもその前に、この子を送り届けさせてください。目がうまく見えないんで」

 へりくだった態度のまま菊乃は言った。女はそこで初めて、菊乃の傍にいた梨花に気づいたように、そうだったんですか、と意外そうな声を上げた。

「ではあなたの家で待っています」

 ぬかるみを踏む音が遠ざかっていく。当事者ではなかったとはいえ、嵐が過ぎ去った後のように力が抜けるのを感じた。

「悪いな、用事があったの忘れてて。ちゃんと送るから心配しないで」

 そう言って歩き出した菊乃に、梨花は訊かずにはいられなかった。

「一体何ですか、今の人」

 新網町をはじめ、貧民窟と呼ばれる町は無法地帯というのが世間一般の評である。政府が意図的に目を向けないから、法律が届かないというのは間違っていない。ただ、それが犯罪と単純に結びつくわけではない。住民の多くは犯罪に走る元気もなく、他人と関わることさえ避けている。犯罪が起きる以前の状態であった。

 そういう実態を、山の手をはじめとする別の場所で生きる人々が知る由もない。ただ汚い無法地帯という印象が一人歩きして、それは犯罪者の巣窟という怪物的な噂に成長する。普通はそれに翻弄されて足が遠のくはずで、やむにやまれぬ事情で流れ着く者が圧倒的に多かった。

 梨花は酒宴の最中に表れた菊乃の弱気な態度を思い出す。外へ出ることを匂わせていたが、あれに関係しているのではないか。

「菊乃さん、まさかさっきの女と一緒にこの町を出ていくんじゃないでしょうね」

 根拠もないのに、責める調子になることを止められなかった。その反動か、そんなわけないだろ、と答えた菊乃の声は険しいものだった。

「松公に生かされているあたしたちが、ここ以外に生きられる場所があるもんか。あたしだってわかってるよ、それぐらい。どんなに馬鹿でもそれくらいわかってるって」

 梨花は剣幕に圧倒されて謝るしかできなかった。

 ほどなくして足が止まる。着いたよ、とぶっきらぼうに言った菊乃は、梨花の礼に応じることなく立ち去った。梨沙に続いて菊乃までいなくなった時のことなど想像したくなかった。一人きりの自分が脳裏で描けない。

 扉を開き、手探りで土間と座敷の境を見つけ、板張りの上に転がった梨花は薄い布団を部屋の隅から引っ張り出してくるまる。それ以上できることはない。自分自身が消えてしまった錯覚さえ覚える真っ暗闇は脅威であったが、火打ち石一つ扱えない自分には闇を払う術がない。

 冷たい闇の中、梨花は菊乃が思い直して戻ってきてくれることを願いながら眠りに落ちた。

 

 二日間の休暇の後、普段通りに仕事が始まる。喧嘩別れとまではいかなくても、梨花の前では声を荒らげたことがなかったためか、菊乃はあいさつにも覇気がなかった。

 相手が梨沙であれば、決まりの悪さをぬぐい去るために努めていつも通りの態度に徹することもできただろう。友人づきあいが希薄だった分姉妹の関係は濃密になり、喧嘩があった後も早く立ち直る術は心得ていたのだ。

 着替えの間も会話なく進み、梨花はいよいよ居心地の悪さを感じる。仕事を共にし、時には私的な会話もしてきた相手に対し、仕事だけいつも通りにこなせばいいと冷めた感情に徹するには付き合いが深すぎた。

 何か糸口を掴もうと焦りだした梨花は、まず菊乃の名を呼ぶことから始める。反応は覚悟したほど刺々しいものではなかった。

「この前、悪かったね」

 最後に別れた時と同じく、ぶっきらぼうに菊乃は言った。

「酔ってたって言ったら、怒るかな」

 だから仕方なかったというのなら、話し合いをするには公正とは言い難い態度だろう。

「怒ると思います」

 梨沙以外に怒った経験はなく、どんな発露をするか想像つかない。そうすることで相手の反撃を呼んだ時が怖いからだ。

「もちろんそれだけじゃない。ただね、知られたくないことを知られたって言うのかな。そんな風に、ちょっと」

 菊乃に舞台衣装を着させられながら、その言葉の意図を考えてみる。しかし歯切れの悪さが迷彩になって掴みきれない。

「つまり、あまり話したくない。しつこく訊いたら、また同じように怒るかもしれない」

 菊乃は梨花が怒りに対抗する手段に乏しいことを知っている。その上で言っているのだから卑怯だと思ったが、実際に菊乃が怒り出したらどうすればいいのかわからないので、素直に応じることにした。

「出ていくわけじゃないんですよね」

 結局のところ、大事なのはその一点だった。菊乃が目の代わりをし続けてくれるならいい。休みの日は夜だけ訪れて行燈に火をつけて食事も置いていってくれたが、そうして生かしてくれることが望みだった。

「ああ、行かない」

 言葉少なながら声の調子で充分に信用できた。

 お互い着替えを終えて座敷へ踏み入れる。相変わらず反応は乏しく、弦を叩いて音を出すのが虚しいほどである。

 菊乃が前口上を終えたのに合わせて音を奏でる。それに応じて始まる菊乃の舞を畳の揺れで感じ取れる。いつもはそうだった。

 始まって間もなく狙い澄まして床を踏みつけるように、軽やかな舞の足取りとは明らかに違う感触があった。初めての出来事に梨花は演奏の手を止めて前を見る。不自由な視界でも人の動きぐらいはわかる。正常なら前で一定の動きをしている菊乃の影が見えるのだが、それが見えない。菊乃の名を呼ぶと、それに応じるように立ち上がる影があった。

 悪い、と一言菊乃の声があった。

「始めな」

 小声に促されて梨花は演奏を再開する。その後何ごともなかったかのように菊乃は最後まで踊り終えたが、それまでに梨花は異質な感触の正体に気づいていた。

「菊乃さん、転んだんですか」

 着替えの時に梨花は訊いた。

「ああ、まあね。いつもはないことだけどね、弘法も筆誤りって言うだろ、そういう失敗だってあるさ」

 議論の余地のない正論で、菊乃の失敗のことはその場で終わりになる。翌日には忘れるほど取るに足らないことだったが、それが仕事のたびに続けば気になってくる。

「どうしたんですか」

 三回続けて転倒してから、梨花は訊いた。

「ごまかしきれなくなったんだよ」

 思いの外静かな答えを、足の異常を匂わすものと梨花は受け取ったが、菊乃は否定した。

「そんな難しいことじゃない。単に年を取ったってだけだよ。あたしがいくつか思い出してごらんよ」

 初めて出会った時に聞いた年齢と、それから共に歩んできた年数を重ねて、三十七歳という結論に達した。

「遊女として働くんだったら間違いなく蹴転しかない。要するに体を使って働くのは難しい年さ。こんな場所で踊りをするのも同じ、足が追いつかないし息も続かなくなってきた。座ってるだけのあんたにはわからないかもしれないけど」

「そんなことないです」

 苦労知らずと言われたようで、梨花は言い返した。

「ああ、そうだよな。ごめん、言い過ぎたよ」

 菊乃は似つかわしくないほどしおらしかった。

「醜態をさらしたな」

 着替えを終えて宿の主人に声をかけると、給金の代わりに冷ややかな声が飛んだ。

「お前何度こけたら気が済む。借金があるから仕方なく雇ってやってるが、下手な踊りをする奴に払う金は普通ない。松公がいなけりゃ役立たずだって思い出せよ」

 言うだけ言って、主人は日銭を押しつけた。日銭は松公へ返す借金でもあり、払わないわけにはいかない。

主人の罵りは、松公へのどうしようもない憎悪が矛先を菊乃に変えて吹き出したものだ。借金に縛られた者たちは気晴らしさえ満足にできず、歪んだ形で噴出させるしかできないようだった。

 帰路に就く菊乃は愚痴をこぼすでもなく、静かに歩き続けた。借り物の返却と日銭の上納を済ませて二人揃って歩き出すと、ほどなくして足が止まる。

 理由を問うつもりで菊乃の方を見上げると、聞こえたのは女の声だった。

「今日は酔ってないようですね」

 聞き覚えのある、鋭く響く女の声に皮肉はない。

「あんたにそっぽ向かれて困るの、あたしだからな」

「わたしもいい関係を続けていきたいと思っています。また、その人を送ってから始めますか」

 自分とは関わりのないところで繰り広げられる菊乃の秘密。それを覗けば、離れないと言った菊乃の言葉の真偽がわかるのではないか。

 そう思ってついていきたいと声を上げかけた梨花は、その言葉を菊乃が先んじたことに驚かされた。

「いいんですか、知らせたくないと言ってたのに」

 女は訝かしんでいた。

「でもいつかは知られますんで。先送りしたって仕方ない」

 吐息に似た微かな音が聞こえた。菊乃に似つかわしくない静かな音は、女の笑い声だろうか。

「あなたの好きなように」

 女はそれ以上言わなかった。

 菊乃にどういうことか尋ねたが、着いた先で話すと言われ、往来ではそれ以上何も引き出せなかった。

 菊乃に手を引かれるうちに、いつもとは曲がる方向が違っているのに気がついた。入った道が違うことを知るや、菊乃の家を目指しているのがわかった。

 やがて足は止まった。家の構造は変わりがないのか、扉を開いてから座敷へ上がるまで、自宅に戻ったような錯覚を覚えた。

「先生、まず説明したい。ちょっと外にいてほしいんですけど」

 わかりました、という言葉の後扉の開閉音が聞こえた。

「出ていくつもりなんですか」

 最初に見知らぬ女が現れた時から芽生えた不安がその一言に集約される。否定することを願っての言葉だが、菊乃はあっさり認めた。

「出ていくよ。きっと戻ってくることもない」

 以前声を荒らげてまで守った言葉をいとも簡単に翻した菊乃に、梨花は反射的に手を伸ばしていた。顔に平手打ちをかましてやるつもりだったが、指先がどこかの肌をかすめただけだった。

「嘘つき、あんなに怒って出ていかないって言ったじゃないですか」

 瞬時に燃え上がった感情を持て余し、とりあえず投げつけるように今度は菊乃に掴みかかろうとしたが、今度は逆に手首を掴まれていなされてしまう。勢い余って床に手をついたまま嘘つきと繰り返す梨花はいつしか涙を流していた。

「どうしたらいいんですか。火もろくに扱えないわたしが、一人でどうやって生きていけって言うんですか」

 菊乃と別れた時に包まれた闇の冷たさが肌の上で甦る。暖を採ることはできたが、光だけはどうにもできずに不安は拭えなかった。梨沙を連れ戻せない今、菊乃しか希望がない。光になれるのは菊乃だけだ。

梨花よ、ずっと思ってたことがあるんだ。言った方がいいのかどうかずっと迷ってた。でももっと早く、梨沙がいる間に言えばよかったな」

 梨沙の名を聞いて振り返る。

「あんた、弱い振りするのもうやめなよ」

 投げかけられた言葉は不可解だった。「どういう意味ですか」と辛うじて訊き返す。

「誰かが助けてくれるのを期待するなってことだよ。そりゃ目が見えないのは不便だし、手伝ってやらなきゃ火も危なくて使えない。だけどだから弱いって結論にはならないだろ。そんなに人は単純じゃない」

「何が言いたいんですか」

 梨花は声を抑えた。なじられるか罵倒されるか。嫌な攻撃に対する心の覚悟を固めて菊乃の言葉を待つ。

 そして聞こえたのは、予測をはるかに超えて静かな声だった。

「あんた本当は、自分が弱いかどうかさえよく知らないんだ。目が見えない不安に負けて、誰かに守ってもらうのが一番楽だから弱い振りをしてるだけだ。本当は助けの要らないところがあるかもしれないのに、それを知られたら守ってもらえなくなるかもしれないから探さない。あんた自身が知らなきゃ周りにわかるはずないものな」

 まるで自覚のないことだったが、胸の奥が確かにうずいていた。

 自分の中にあるかもしれない、守られる必要のない強さ。それを菊乃の厳しい言葉に従って探そうと心の内を覗いてみるが、反射的に拒んだ。梨花は初めて、菊乃に指摘された通りの自分自身を知った。

「あたしはね、あんたたち姉妹に比べたらまだ恵まれてると思う。目も耳も利くし、傷は服を着れば隠せる。でも隠してるものを見られたら。それが男だったら。結婚した後だったら、捨てられるんじゃないか。そう思うと誰かを愛したり愛されたりするのが怖かった。本当は時間をかけて、傷を見ても動じない男を見つければよかったのに、そうしなかったからここに落ちてきた。目が見えなくて怖がっているあんたを見て、それを支えてやるために流れてきたって思うようにしてた。それならあたしの今まで逃げっぱなしの人生、全然無駄じゃないって」

 長く静かな声を、梨花は居住まいを正して聞いていた。菊乃に限らず自分自身の内心を素直に吐露するような話を前にするのは初めてで、一番無難と思える態度を取ってみる。ただ仕事を共にし、暇な時には食事にも付き合う気軽な相手の知られざる本心が妙に新鮮だった。

「だけど最近気づいたんだよ。自分の人生が人のためにあるって信じるのは、誰でもない自分自身を舐めてるってね。あたしが送りたかった人生は、あんたのためじゃない。あたしのためだった。当たり前のことだけど、あたしの人生はあたしが好きに使うものだ」

「だけど、わたしを助けるのが嫌いじゃないんでしょう。だったらそれでいいじゃないですか」

「駄目だ、やりたいことができちまった」

 そのきっぱりした声に梨花は突き放された気がした。

「あの人な、先生なんだ」

 これまで二度現れた女と結びつけるまで一瞬の間が必要だった。

「あたしに字の読み書きを教えてくれてる。前に怒られたのは、勉強する日なのに酒を飲んでたから。毎回わざわざこんなところまで来てくれてる。普通怖がるはずなのに」

「勉強なんか、ここでどうやって役立てるんですか」

 本心からの疑問だった。松公から回される仕事の多くは会話すら必要としない身一つの労働で、文字の読み書きが活かされる場があるとは思えなかった。

「ここじゃ確かに役に立たないかもしれないけど、外ならわからない。あたしは、ここでの暮らしを人に伝えたいんだ。そうすれば誰か優しい人が何かしてくれるかもしれない。本当に必要な助けをしてくれるかもしれない。先生もそういうことならって協力してくれてる。逃げまくってやっと見つけた、これがあたしのやりたいことなんだ」

「そんなこと、できるわけないですよ」

 辛うじて返した言葉は空虚に聞こえた。菊乃の考えをこの瞬間まで気づかなかった自分にはどうこう言えるものでない。

「できるよ。そう信じてるんだ」

 あくまでおだやかな言葉は単純で、自分の目の代わりにしてきたのと何ら変わらない。ただ菊乃のすることが、ここで為せることとは違うことがわかる。何かを成し遂げようとする時、何を信じればいいか梨花は思いつかなかった。

 お互いに言葉が絶え、沈黙が降りた時菊乃が声を上げた。続いて扉が開く。外で待っていた女だろう。

「話は終わりました。送ってきますから待っててください」

 梨花は菊乃の手に引かれて帰路に就く。その途中で冗談でしょ、と訊いた。今までの真剣な声を聞いておいて冗談なはずがないとわかっているが、梨花は訊かずにおれなかった。

「違うよ。本当にあたしは、もうあんたの目の代わりにはなれないんだ。わかってよ」

「どうしたらいいんですか。外も歩けないのに」

「それは自分で探せばいい。誰か助けてくれる奴はきっといる。もっと人間を信じろよ。梨沙のことも、あたしのことも信じてくれよ。そうでなきゃ自分自身が信じられない。それはかわいそうなことだよ」

 菊乃は家に入って行燈に火をつけた。これが最後になる。

 菊乃は最後に肩を叩いた。部屋の中へ押すような感じが残り、突き放された気がする。立ち尽くすと無言で菊乃は去った。

 明るくなった座敷に倒れ込んだ梨花は、床を這いずって布団を引きだし、寒さに抗するようにくるまった。以前のように闇に囚われた不安感はなくとも、孤独感はどうしようもない。そしてそれは、解決の術がないものだ。梨花は現実と向き合うのを避けるようにきつく目を閉じ、ひたすら眠りに落ちるのを待った。

 

 四

 

 失敗の相次いだ菊乃は松公から警告を受けていたものの、もたらされた機会を使うまでもなく町を出た。

 松公は菊乃の後釜を探すと約束した。それでも一日や二日で見つかるものではなく、年明けまで音沙汰はなかった。自分の周りで何が起きているのかわからないまま年が改まっていく。梨沙に菊乃と、新網町を出ていく者が周りで相次いだせいなのか、梨花はいつになく知る術のない世界の出来事に興味を覚えていた。

 後釜が見つかるまでの時間は暇でしかない。話し相手もいない日々に疲れを覚えた時、梨花は独りでに外へ出ていた。当てのない彷徨である。菊乃は誰か助けてくれる者を探せと言っていたが、自分一人で外へ出ればそんな優しい人に出会えるだろうか。

 それが難しいことだとわかるまで時間はかからなかった。心許ない視界では、誰に声をかければいいかわからない。明暗を捉えるので精一杯な視界においては影が突然現れたようにしか思えず、声をかける機会を逸してしまう。どうしようもなくなって泥の上に座り込んだ梨花は、家に帰って泣きたくなる。

 その気持ちに従って来た道を戻ってみたが、いつまで経ってもたどり着かない。家の壁には、目印として突起をつけておいたが、それにどうしても触れない。

 闇雲に壁を伝って歩くが、どうしても目標は見えず、やがて視界も黒く塗りつぶされていく。夜が来たのだ。

 それでも構わずに歩いているうちに雨も降り出した。小雨は徐々に粒の大きさを増し、屋根やぬかるみを叩く音も強まっていく。ただでさえ冷え込む夜は、氷雨と一緒になって梨花を底冷えさせた。

 元々寒かったので羽織を持ってきたが、傘は荷物になると思って準備しなかった。一人になって日が浅いにもかかわらず、誰の助けも得ずに歩こうとした自分がこの上なく浅はかに思えてきたが、誰にどうやって助けを求めればいいかわからぬ以上、梨花は軒下を探して立ち尽くすしかできなかった。

頼りなげな視界を、人影が何度か通り過ぎていく。現れ方は突然で、特に全く見えない左側から歩いてくるものは気づいたと同時に視界の外へ抜けてしまう。声をかける機会さえ掴めないまま時間を過ごした梨花は、いつしか人影すら見えなくなってきた。

光が完全に絶えて少し経つと、梨花はいつの間にか両手で自分の腕を覆っているのに気がついた。冷え込みが日中とは比べものにならない程度になってきたのだ。幸い雨は防げているが、暖を採るものを持たない今の事態にいつづけたら風邪では済まない。

ここで凍え死ぬとしたら、つまらない人生だった。習い覚えた三味線は誰かを感動させるほどには至らず、単に日銭を稼ぐための手段だった。残ったのは愛の覚えも乏しい、何の役にも立たない、不自由な目を持つだけの女だ。梨沙が男を選んだ理由も、死を意識するところまで追い込まれて初めてわかった。

もう探し出すには遅すぎて、当てすらもない。しゃがみ続けて足が痺れ、疲れてきた。汚れても構わないと開き直って体を横たえようと思った時だった。

水たまりを踏む音がした。最初のそれは激しい雨音の向こうで聞こえたため、聞き違いと切り捨てることもできたが、徐々に近付いてきてはっきりした形で耳に届くようになった。

日射しと同時に人影も絶えていたから、激しい雨に誰もが追い立てられたと思っていた梨花は、その足音の方を向いた。

「あの」

 雨音に負けないように声を張ったつもりだが、相手の返答はない。

 雨音に紛れてしまっただろうか。そう思って同じ言葉を、今度は叫ぶように発した。助けを求めるように、我知らず必死な声となる。

 それでも相手の返答はない。通り過ぎてしまったのだろうか。絶望的な気分になったが、足音がまだ近付いてくる。もしや幽霊ではないか。信じたことのない現象が頭の中で形を取り始める。

 やがて足音が止まる。最後に聞こえた足音はこれまででもっともはっきりした音だった。

 つまり、足音の主は傍にいるのだ。

 注意して周りに注意を巡らせてみると、確かに誰かが立っているような感じがある。立ち尽くしているのか動きは感じない。すぐに行動を起こさないところを見ると、悪意を持って近付いてきた人間ではないだろう。梨花は少し安心して、心細さがわずかに和らいだのを感じる。知らない他人とはいえ、孤独感を消してくれた。

 その気持ちが感謝を生み、どうにかして伝えたい思いが生じる。梨花は考える前にもう一度声を上げていた。

「あの」

 反応はなかった。わずかに身じろぎしたような動きを肌は感じたが、確信できるほどではない。

「ありがとう」

 素直な気持ちをそのまま持ち出すことしか思いつかなかった。それだけで梨沙も菊乃もわかってくれたし、素直ないい子だと評してくれた。しかし誰かもわからぬ相手だと不安になる。これで本当に、自分の気持ちを受け取ってくれるのか。変な風に誤解して怒り出さないか。その時口を使う人か、腕力に訴える人か。心身のどちらも相手の攻撃に耐えられる自信はないだけに、沈黙が不気味だった。

 這ってでも逃げた方がいいのではないか。そう思い始めた時だった。

 今まで不確かな気配しか捉えていなかった肌に、初めてはっきりした温もりを感じた。

 息を呑むほど突然の事態に混乱する間もなく、無遠慮に乳房を掴まれ梨花は声にならぬ声を上げる。傍で立ち尽くしていたのは品定めだったのか。これから身の上に起きると思われる事態から逃れようと体をよじった梨花は、腕を闇雲に振り回そうとしたが、それをすんでのところで思いとどまる。乳房を掴んだ手が全く動かないからだ。冷静になって自分の体に注意を巡らせてみると、邪な気持ちを持った男の手にしては小さく、力も弱い。

 恐る恐る全身を覆う体をなぞってみる。肉の付き方、体の大きさはやはり幼い少年のそれである。そうとわかると、乳房を掴まれていることもやんちゃの悪戯のようで愛らしくさえあった。梨花はその手を包んでやる。自分と同じように冷えており、長い時間底冷えしていたことがわかる。

「迷子、なの」

 相手の正体がわかってきた安堵で、梨花は落ち着きを取り戻していた。相変わらず少年の声は聞こえず、冷えた体を梨花の体の上で震わせるだけである。

梨花は少年の体を避けながら羽織を脱ぎ、彼の体に被せてやる。その上で抱き合う体勢になって腰を下ろした。冷たくて気持ち悪い感触が尻を侵すが、それで少年を寒さと恐怖から守れるなら些末なことであった。

 寒さに慣れ、一人ではない安心感の中にいるうちに梨花はまどろんでいく。寒さの中で眠ったら死ぬという警告が頭に響いたが、親に捨てられることから始まった愛のない人生の最後で、凍えそうな少年と共にいられたのなら充分な思い出になるだろう。梨花は死を意識しながら穏やかな心持ちで、雨音も底冷えも遠ざかっていくのを感じた。

 

 話し声が聞こえる。

 二人の会話ではない。何人いるのか掴めないほどの人数で、聞いたことのない音だ。知り合いなど両手で数えられる程度しかいない梨花にとって、多くの人が話し合う場所自体経験がない。

 そもそも一人で住んでいる家にどうして話し声がするのか。泥棒にしても、仕事場で無駄口を叩くとは思えないし、盗むに値するようなものを置いた覚えがない。では、何が自分の身の上で起きているのか。

 体が横たわっていることに気づいた梨花は、唸りと共に体を起こす。すると話し声がやんだ。

「起きましたか。よかったよかった」

 女の声がした。さっきの雑多な話し声の中で一際目立っていたような気がする。決して大きいわけではないが、華やいだ響きがあって一度聞いたら忘れられなさそうだった。

 女に続いて次々と声が上がる。よかったとかもう安心だとか、それぞれ異なった声音であったが、どれもが笑みを含んでおり、祝福されるような心地よさだった。

「見たところ目の見えない方のようですが、お一人ですか」

 目の代わりとはぐれたのかと訊いているのだろう。梨花は首を振った。

「それならそのままお帰りいただいても大丈夫ですね。もちろん体が治るまでいていただいて結構ですけど」

 女の声に悪意は聞き取れない。心が信用へ傾きかけた時、目を覚ます直前の記憶が甦る。

「わたしは、どこで何を」

 腰を下ろしているのは泥の上ではない。

「近くで吉司を抱えて眠っているところを見つけました。熱もあったのですが、体は平気ですか」

 言われて体に注意を巡らせてみるが、わずかに頭痛が頭の芯に残る以外普通と変わりない。

 それよりも吉司という名前が気になった。深く聞くと、一晩抱き合った少年に間違いないようだった。

「元々弱い質でしたから、寒さが身に応えたのでしょう。まだ眠っていますけど、起きれば元気になれるでしょう。わたしの息子を救ってくれてありがとう、あなたがいなければ吉司は助からなかったはずです」

 頭を深く下げたのが脳裏に描けるほど、女の声は真摯だった。その後ろで口々に感謝が述べられる。梨花は返す言葉に迷って戸惑いがちの声を出すに留まった。

「あなたたちは一体。ここはどこですか。目が悪くて、何もわからなくて」

 女の真摯な態度に、梨花は戸惑いながらも安堵を覚えていた。誰もが自分を歓迎している状況は夢見心地だが、肌が感じる湿気と耳が拾う声は現実味があった。

「新網町です。その中でも南の方」

 梨花は驚くと同時に無事で済んだ我が身が嬉しくなった。新網町は麻布に接する北部と東京湾に面する南部に分かれた区分けが為され、それぞれ生活の程度が違う。一般に麻布という山の手の町に近い北部は行商人の出入りがあって経済が活発に展開し、その恩恵を受けて比較的住民の暮らしは豊かとされる。

 対する南部は麻布から遠いこともあって未開の地のような印象を持たれ、行商人の立ち入りもほとんどない。人の出入りも少ないことから経済が滞り、麻布と新網町の境の寺のように活気のある場所もなく、元々少ない生活物資が一層手に入れにくくなっている。同じ町でありながら北と南は別々の発展を遂げ、住民の生活も別の町のように格差が開いていた。北に対して犯罪も起きやすいとされる南部に迷い込んだ女の身が無事だったのは、氷雨のせいだったのだろうか。一晩底冷えを我慢したことで無事を得たのなら充分な結果だった。

「そんなに驚いてるのを見ると、あなた北で暮らしているんですね。目が見えないのに一人で来たから、迷い込んできたのかしら」

 梨花は素直に頷いた。上品でさえある声を聞いていると、失敗に気づかれたことも些末だった。

「帰れそうなら言ってください。案内しますから。仕事があるので、わたしたちはこれで。お話なら夜にしましょう」

 どうやらまだ朝を迎えたばかりらしい。

 横になって眠ろうと目を閉じた時、思い出したように女が言った。

「申し遅れましたが、わたしはさのといいます。特に気を遣わず、そう呼んでくれて結構です」

 反射的に梨花は体を起こし、自分の名前を告げた。梨の花という字を教えると、さのは春めいた名前ですね、と笑って言った。

「俳句で春の季語に梨の花というのがあると聞いたことがありますが、今それを聞くと温かいです。吉司もそれを感じたのかもしれませんね」

 名付け親は母だと聞いているが、そんな深い意図があったとは認めたくない。きっとたまたま梨の花が目に着いたに過ぎないだろう。春の季語を使うような風雅さを、軽率な女が持ち合わせたはずがない。

 母への憎悪が吹き出した心を抑えるのに精一杯な梨花は無言だったが「行ってきます」と言ったさのの声は気を悪くした風には聞こえなかった。

 一人になって体を横にした梨花は、目を閉じて力を抜いた。それだけでまどろみに飲まれることができ、考える間もなく心地よい闇へ意識が落ちていった。

 目覚ましになったのは、傍で繰り広げられた酒宴であった。

 最初はただうるさい音がするとしか思えなかったが、妙に甲高い笑い声に気づいたあたりから酒を結びつけた。普段酒を飲まない分、菊乃のように酒を好む者を傍で観察する機会があったために、そういう見立てには確信が持てた。

 体を起こすと彼らも気づいたようだった。「おはよう」という男の声がした。

「うるさかったかい、だったら飲むか。飲んでれば気にならなくなるからな」

 無遠慮と同時に気さくな声だった。男といえば松公とその手下のように下劣な者か、借金に縛られた仕事先の主人のように陰湿な者しか知らなかった梨花にとり、その明るさは心地よく新鮮だった。

 酒を断ると、食べるだけでも、とさのの声が誘った。

「ただの水もありますから。何か食べないと治りも遅くなりますよ」

 顔も知らないさのの声には無条件に信じたくなる頼りがいがある。梨花はゆっくり体を起こして、床の上を手探りしながら布団を這い出た。誰かの乾いた手がやがて添えられ、そこに席があることを教える。そこに正座するとすかさず楽にしていいと言われた。声に従って足を崩すと歪な形の器が手渡される。ほのかな温かみを宿したそれに顔を近づけると、水のようなものが揺れて見えた。

「白湯です、安心してください」

 さのの声に促されて口をつけると、程よい温度が唇に染み渡る。飲み込むと体の芯から温まっていく感覚に陶然とするほどであった。

 酒宴が進むと、一人ずつ抜けていくのがわかった。抜けた者の寝息が足元で聞こえ、最終的にさの一人になる。その頃にはさっきまでの騒がしさが嘘のような静けさが場に広がっていた。

「あなたは飲まなかったんですか」

 鍋を挟んで向き合う人影に向けて訊くと「飲まないようにしているんです」と笑い声が聞こえた。

「子供を身ごもった頃から酒を断って、それがずっと続いています。もう飲んでもいいんですけど、習慣のようなもので断酒している方が気楽なんです」

 人影が身じろぎした。こぼれた笑みを手で隠したように見えたが、うまく見えないにもかかわらず一挙手一投足に気品を感じさせる。新網町には似つかわしくない女だと思った。上級の士族などから転げ落ちてまだ日が浅いのかもしれない。少し興味もあって、梨花はさのの出自を訊いた。

「両親もこの町で暮らしていました。その前のことを語る前に逝ったので、詳しくは知りません。わたしの生まれは北の方で、後から南側へ移ってきたんです」

「事情があったんですか」

 失礼かもしれないと思いながら訊いた。南の方が生きるに苦しいというのは評判に過ぎず、誰かが正確に調べたわけではない。

 さのの声に気分を害した様子はない。一安心だった。

「追い払われたのです。梨花さんは、松公の世話で暮らしていますね」

 何気ない風を装った声に、梨花は声を詰まらせた。南側である以上かなり遠くまで歩いてきたはずだが、そこでも松公の名を聞くとは思わなかった。

「そうですけど、松公を知ってるんですか。どうして」

 上品なさのと残忍な松公が結びつかずに訊くと「簡単なことですよ」と彼女は言った。

「昔は松公の妻妾だったんです。目が見えないならわかりにくいかもしれませんが、わたしは幼い頃左手を砕きました。そのせいかどうか知りませんが両親と別れることになった後松公に拾われました。長じるに従って、松公はわたしに美しさを見出したようです。当然のように妻妾として抱えられ、身の回りの世話をさせられました。時には夜伽もね」

 当時が楽しかったとでもいうようにさのの声は明るかった。全ての記憶が心許ない視界によって刻まれてきたせいか、松公の夜伽を想像すると恐怖心を覚えてしまう。

 そんな思いを見透かしたように「夜伽の時は割と穏やかでしたよ」とさのは笑って言った。

「もう二十年は前になります。まだ明治が始まる前でしたね。松公自身も片腕で苦労したから、同じ苦労を生みたくないと思っていたんでしょう。借金を使って雇い主を脅すのは強引でしたけど、それで救われていた人もたくさんいました。梨花さんは違いましたか」

 それはそうですけど、と梨花は口ごもる。

「でもせっかくいいことをしても、他にやることがひどすぎました。せっかく稼いだ日銭を上納させたり、それができないと手下を使って脅しをかけたり。そういうことはなかったんですか」

 さのが認めてくれることを願っての言葉だった。さのの記憶にある松公も残忍な男なら、救いようのない者として遠慮なく憎むことができる。

 果たしてさのは「ありましたよ」と答えた。

「話を聞くとずっと変わらないみたいですね。雇い主を借金で縛るのも復讐のようなものだったんでしょうし、世話をする人を踏みつけるようにするのも楽しみだったんでしょうね。わたしもだいぶ泣かされたわ」

「そんな人の声には聞こえませんけど」

 さのはあくまで穏やかに松公を語っていた。泣かされた過去があるなら混ざるはずの怒りや悲しさが微塵も聞き取れない。目が不自由な分鋭敏になった耳でも、さのの声に心の動揺は捉えられなかった。

「そうね。泣かされはしたけど、あの人がみんなのために仕事をしていたのは確かだったのですよ。どんなにひどい人でも、たった一つの美点があれば愛せるものです。わたしはそうでした」

どうしたらあの残忍な老人に愛を感じることができるのか。梨花は不思議であった。

「吉司も、松公が育てたらどんな子になってたかしらね」

 さのの言葉に嫌な想像が頭を巡る。ここまででさのの夫らしき者は現れていない。会話だけしか判断基準はないが、どれも仲の良い者たちの間で交わされる程度のもので、それ以上の親しさはないようだった。

 ここにはいない吉司の父親。そのことを想像していると「松公じゃないですよ」と再びさのに先を越された。

「もう十年ぐらい前、吉司が生まれた後すぐに流行病で死んだんです。それからはずっと一人で。仲間もいましたからそんなに苦労はしなかったのが幸いでした。苦しくはあっても、わたしたちにとってはいいことだったんでしょうね」

「だから松公に追放されたんですか」

 よくわかりましたね、とさのは初めて声音を変えた。愛していたと言うだけあって、触れられたくない部分だったようだ。

「すみません。わたしも同じように男を選んで追放された人を知ってるんです。ずっと目の代わりをしてくれた双子の姉妹でした。耳が聞こえないからわたしが耳の代わりをして。ずっと一緒に暮らしてきたのに、わたしより男を選んで」

 恨み節になるのを止められなかった。梨沙の男がどれだけの価値を持っていたのか、一度きりの会話ではわからないし、何より大事なのは最大の理解者を失ったことだった。今も梨花は、梨沙を素直に祝福してやれない。

「松公は誰かに頼られていたい人でした。だから別の拠り所を見つけた者を許せなかったんでしょうね。松公に見捨てられたのは痛手でしたけど、吉司と子供を育てるのを助けてくれる仲間たちに会えたのも大きな収穫でしたから、わたしは今の暮らしも充分幸せです。みんな厭わないでいてくれますから」

 親に捨てられたという、自分と同じ過去を持つはずの女はあくまで優しく身の上を語った。

「恨んではいないんですか」

「恨むとは、親をですか」

 さのは不思議そうに訊き返した。

「わたしなら許せません。わたしも同じですけど、とてもさのさんのようには」

 梨花瞽女であった母の話をして、彼女の軽率から自分たち双子が産まれたことを語った。語れば語るほど母への恨みが強くなっていって自身の嫌悪に陥るが、勢いがつくと止められない。

「松公に預けられたら確かに生きていくことはできました。でも楽しくなどない生活です。たとえ松公がいなくても、わたしがこういう身であったり母が瞽女であったりしたら同じ運命でした。産み出されたことさえ恨みに思います。梨沙だけを産めばよかったのだと」

どんなことを言われても耐えられるように身構えた梨花は、吉司を助けられたのにですか、という穏やかな声に肩すかしを食う気分だった。

「あなたが産まれていなかったら、吉司は十年そこそこの人生で終わっていたところです。あの雨の中で、他に助けてくれる人が通りがかったとは思えません。あなたが吉司を温めたから、吉司は生き延びたんです」

 言い過ぎだというのが率直な思いだった。自分が産まれたことと吉司と出会ったことを結びつけるのは強引と思う。そもそも自分を助けたのはさのたちではないか。

 そんな皮肉が頭に浮かんだものの口にできなかった。さのは本心からそう思っているようだったし、嬉しさも感じていた。

いくら楽器を弾いても今まで関心を持った者はおらず、松公に脅された雇い主は厄介事を預かったような態度でしか迎えてくれなかった。何かをやって、誰かのためになったという実感はずっと乏しいままだった。

 感謝といえば梨沙や菊乃から受け取ったものしか覚えがない。それも他人の命に関わる大事の立役者になど、想像もしなかった。

「吉司に代わって感謝します。ありがとうございました」

 人影のさのが、深く頭を下げた。受け方がわからず、梨花は戸惑った返事しかできない。

「松公の妻妾だった女のところに、松公のところで生きてる子が来たのも何かの縁でしょうね。いっそこちらに移ってきたらどうですか。吉司を助けた者として、きっと皆歓迎しますよ」

「そういうわけには。それに早く帰らないと。助けられて何日経ってるんですか」

「まだ一日です。確かに明日帰れば、咎めも受けないでしょうね。本当にそうするなら残念です。話したいことはたくさんあるのに」

 あまり長く松公の目の届かないところにいるわけにもいかない。仕事の相棒が決まらない今なら、松公も関心を持たないから早めに戻ればごまかせるだろう。しかしその休暇もいずれ終わる。南部に行っていることを知ったら、逃亡しようとしたなどとあらぬ疑いをかけるかもしれない。

「松公が怖いんです。ちょっと前にも、上納金が遅れたから殴られた人がいたばかりで」

 男でも意識を失うほどの暴行に、女の自分が晒されたらどうなってしまうか想像するのも恐ろしい。

「でも松公の傍にいれば生きていけます。そうでないと仕事も見つけられないんです。あなたも手が砕かれたならわかるでしょう」

 それでも松公から離れることを決断したさのの胆力に感心するほどであった。それは我を通した梨沙や菊乃と同じで、到底自分にはできないことだ。

 そう信じ込む梨花には「そうでしょうか」と疑問を投げかけたさのの声が意外だった。

「松公の庇護がなくてもわたしは生きていけました」

「それはあなただからでしょう。わたしは駄目です。松公の傍を離れてやれることも、やりたいことも思いつかないんです」

「大丈夫ですよ。たとえば誰かの光になることなら、別に誰かの世話にならなくてもできるでしょう。吉司があなたに光を見て、あの氷雨の中で引き寄せられたように。見ず知らずの女に近寄って一晩耐え抜くことが、幼い子供に簡単だと思いますか」

 子供でなくても、全く知らない人間に近付いていくのは難しいことぐらいは想像がつく。

「あなたが自分で思うように弱い人なら、きっと吉司は近付かなかったでしょう。子供は大人よりも簡単に人の本質を見抜くものです。あの寒さの中であなたに身を任せたのは、あなたなら守ってくれると信じたからでしょう。この人の傍にいれば安心して眠れて、朝には母のところへ帰れると。梨花さん、あなたは自分で思うほど弱くはないのです。本当は人の光になれるほどなのですよ」

 薄くぼんやりした光を追いかけるだけの人生で、闇が訪れれば恐れおののき、一人で生きていくことも困難な自分に、そんな力があるとは信じられない。さのの言葉は言い過ぎと思えたが、否定すればせっかく芽生えた心地よさを潰すことになる。

 菊乃は弱い振りはやめろと言ったが、どんな可能性があるかまでは教えてくれなかった。何ができるかを教えてくれたのは初めてだった。

「ともかく、わたしは松公のところへ帰らないと」

「そう、それは残念です。でも気が変わったら言ってください。帰るのもできるだけ遅らせてくれると、わたしたちも嬉しいです」

「それなら、体が治るまではいてもいいですか。まだ気分が悪くて、北の方まで歩いて帰れる気分じゃなくて」

「いいですよ。留まるのも帰るのも、あなたが決めればいいことですから。わたしはどちらでも認めますから」

 その夜の語らいはそれで終わりになった。

 その後幾度かの夜を迎える度に梨花は早く帰らなければという思いに囚われたが、朝を迎えると与えられた寝床から動けなくなっていた。歩けないほど体の調子が悪いわけではなく、体の痛みもない。さのに頼めば案内もしてくれるはずだ。自分の家に帰るのは難しくない。

 しかし急いで家へ帰ってみても待つ者はいない。そう思うと簡単に動けなくなる。火打ち石一つ扱えないから、夜が来れば闇の中で息を潜めてひたすら朝を待つしかできない。それを思えば、暗くなってから仲間たちが戻ってくるこの場所の方が、まだ楽しく暮らせそうだった。

 松公の支配が南側まで及んでいるとは考えにくい。逃げてしまえば追いかけられず、暴力に怯えることなく過ごせそうだった。

 二度、三度と夜を超していく。その間に周りの者たちの名前を知り、話をすることもできた。顔は見えなくても、彼らの声に悪意がないと知るだけで充分に満たされた。三味線を弾かず、常に誰かがいるとわかる日々は久しぶりで安堵感がある。仕事先が借金を返し終え、手持ち無沙汰になった時は梨沙と一緒に散歩をしたり買い物をしたものだが、その時の穏やかさに近い。

 四日目を過ぎると、さの以外にも親しく話せる者が現れた。六之助という男は自分の容姿をお岩さんみたいだと話した。彼の左まぶたはじゃが芋台に膨れあがり、それが目を圧迫して見えなくしてしまったという。子供の頃に疱瘡を患い、それをこじらせた結果周りから敬遠され、気づけば新網町にいたと話す彼の声にはおどけた風である。

 彼の口からは、周りの者たちが普段どんな暮らしをしているのかが聞けた。北側なら松公の世話になる資格のある非健常者たちがほとんどで、中には実際に松公の世話で仕事した経験のある者もいた。それぞれ紆余曲折を経て現在の暮らしに落ち着いている。そう六之助は話した。

梨花が何もせず日々を過ごすことに文句をつける者はいなかったが、自分自身の内から責める声を聞くようになる。傷つく心配のない家の中に閉じこもって暮らすことを望みながら決して許されなかった立場に追い立てられて身に付いた習慣が、体の復調に気づいて働くことを強く言い立てているようだった。

 吉司を含めてそれぞれの仕事で皆が出ていくと、一人取り残された梨花は出歩くようになっていた。今まで必ずあった誰かの手引きがないと不安で仕方ないが、誰かが帰ってくるのを黙って待ち続ける方が苦しい。怖くても自分の足だけで歩いていれば、少しは気が紛れることに気づいた。

 杖を使い、茅屋の壁を伝い歩く内に、特徴的な姿形をしたものを一里塚の代わりにすることを覚えると、思ったより行動範囲は広がった。それに触れれば、どの道を行けば仲間たちのいる長屋へ戻れるか掴めるようになった。

 それを繰り返す内に、一人で歩き回ることが楽しくなった。不自由な目では色や大まかな形でしか景色を捉えられないが、長屋に留まっている限り見えるものは変化しない。それに比べれば、何だかわからないものでも見るだけで嬉しくなった。

 梨沙や菊乃の手引きで歩いたことは何度もあるが、一人で歩いたことはない。隣に誰もいないと、道を覚える手がかりを探さなくてはならなくて、今までより真剣にぼやけた色や体に触れたものの感触を覚えようとする。単に今までしてこなかったことをやっているだけだが、それだけに新鮮な日々であった。

 一人歩きを始めたばかりの頃は、道に迷うのを恐れて十分も経たないうちに長屋へ戻っていた。それが徐々に、新しい色や形を見つけに行きたい気持ちが募って、歩き回る時間が増えた。

 やがて梨花は海を目標にするようになった。新網町を南に行けばやがて海に行き着くことは知っていたが、北側に住んでいた頃は縁遠い場所であった。

 さのに海への道筋を聞くと、帰り道に一つだけ小さな分かれ道があるが、行くだけならひたすら真っ直ぐ進めばいいと教えられた。他の仲間たちに聞いても同じ答えが返ってきて、六之助は皆で一緒に行って釣りをしようと言い出した。

 仲間たちは口々に同意して、一人歩きが仲間を伴った釣りになりそうな雰囲気だった。

 早くも当日の予定合わせまで話し合い始めた仲間たちに、梨花は大きな声で割って入った。

 その時六之助は珍しく戸惑いがちの声を返した。

 正直な気持ちを口にすれば、誰かが面白くなさそうな声で異を唱えるかもしれない。見当違いなことを言っていると思われるかもしれない。恐れはいくつも立ち上ったが、それをねじ伏せるように梨花は言葉を返す。

「一人で、歩いてみたいんです」

 仲間たちは沈黙した。それがどういう気持ちに端を発するものか、表情を見られない梨花にはわからない。雰囲気も何とも言えぬ微妙なものである。驚いたのか、不思議がっているのか、訝かしんでいるのか。様々な可能性が脳裏に渦巻き、反対の声も耳の奥で上がった。

 心を身構えた梨花が聞いたのは「行ってきなさい」というさのの言葉だった。

 すると仲間たちも口々に同意する。単に中心人物たるさのに従ったのではなく、本心で語っているような実のある声であった。

 厳しい冷え込みの夜明けに出発した。道筋自体は単純だから心配ないとさのに言われたが、今まで歩いてきた中では飛び抜けて長い距離を歩くのも事実である。道に迷った時、暗くなる前に帰れるように時間には余裕を持っていたかった。

 見送りは声ではなかった。仲間たちにそれぞれ背中を押されて踏み出していく。

 途中までは歩いたことのある道筋で、目印の位置や形は熟知している。しかしそれも十数分で終わる。その先は未知で、方向の感覚を保つため茅屋の壁を慎重に伝い、時間をかけて歩かざるを得ない。

 茅屋の壁を触り続けるのは簡単ではない。ささくれだった壁に手を滑らせると指に棘が刺さることもある。何度もあると触ることが億劫になるが、真っ直ぐ歩くためには壁を伝うのが最も確実だから我慢するしかない。

 壁が途切れると恐慌に陥りそうになる。何も見えないわけではなく、ものの形や色は捉えられるが、見えているものを目標にしても大丈夫かどうか信じられない。それは今まで梨沙や菊乃の役目だった。

 帰れなくなったらどうすればいいだろう。そんな思いが芽生えると、その時の心配が胸を占める。そうならないうちに帰った方がいいのではないか。

どうせ歩ききることなど誰も期待していないだろう。もし成功したら少し話の種にできる。その程度の期待しか、自分にはかけられていないのだ。

 そう思うと徐々に初めの決意が軽く感じるようになる。足が空転を感じるようになる。やがて泥深い道を踏んでいる感触がなくなったように思え、足が止まる。

 期待の薄いことを続けることが馬鹿らしくなり、梨花は踵を返す。来た道を帰るだけなら一人でできる。そう思っていたが、いくら歩いてもたどり着けない。感覚の上では行きに費やした時間を超えている。もしかしたら知らず知らずのうちに別の道に入ってしまったのか。

 さのの言葉が思い出される。帰り道、途中に小さな分かれ道があると言っていた。そこに入ってしまったのか。だとしたらもう通り過ぎているかもしれない。梨花は壁を伝っている手で道を探す。やがて壁が途切れて右手が空気に触れる。この道を歩けば仲間たちの元へ帰れる。そう信じて角を曲がったが、いつしか心許ない視界が暗くなってきた。あれほど早く出発したのに、一日を使い果たしてしまったらしい。

 そうすると焦り出す。ただでさえ心許ない視界の中で一人歩くのは不安が大きいのに、夜が来てしまったら、方向を掴むための手がかりが見えなくなってしまう。

 必死でさのたちの長屋を探すうちに視界は文字通り光を失った。

 梨花は何とかねじ伏せてきた不安が一斉に立ち上がるのを感じた。一気に心の深い部分まで攻め込まれ、為す術無く座り込む。

 元々冷たかった空気は夜を迎えたことで痛みを増している。梨花は少しでも冷え込みを小さくしようと、うずくまった自身を強く抱きしめた。

 目を閉じても、何も見えないという点では変わらない。いっそ全く目が見えなければと思う。そうであったら、海へ行きたいなどと大それたことを夢見ることはなかっただろう。目が見えなければ、中途半端に視力を残しているよりも周りが気に掛けてくれたかもしれない。その方が生きやすかったのではないか。

 目が一層深い闇へ沈むように首を潜らせた時、肩を揺さぶられた。

 無視する梨花であったが、続いて聞こえた声に目を引き寄せられた。

「りっちゃん、じゃないの」

 視界は相変わらず真っ暗だが、声のする方ははっきりわかる。梨花は声を追うように手を伸ばした。すぐに人の体に触れる。冷たい手だった。

「りっちゃん、大丈夫なの。立てるの」

 その声を聞くと思っていなかった梨花は、手に触れたまま動けなかった。すると向こうから掴んで立たせられた。

「放っておいてよ、梨沙。今更何しにきたの」

 自分よりも男との日々を選んで新網町を出たとばかり思っていた梨沙が現れるとは思っていなかったが、再会を喜ぶつもりはない。呟くような声で吐き捨てたが、

「どうして、ここに来たの」

 耳の不自由な梨沙に、呟き程度の声は届かない。ともすれば自分本位と受け取られそうな梨沙を理解してやれるのは双子の姉である自分だけで、それが自分のいる意味だと信じていた。

 梨沙はそれを振り切って出て行った。裏切られた気分は今もある。

 そんな思いに気づくはずもない梨沙は、手を額に当ててきた。

「ずっと、ここにいたの」

 梨花は答えなかった。いつも手を引いてきた分情けない部分を嫌でも見てきたはずの梨沙に、途中で物事を投げ出した情けなさを知られたくない。

「とにかく、歩こう」

 そう言って梨沙は手を引いた。それに従うことに梨花は疑問を持たない。自然な立場だと思った。梨沙が手を引き自分がそれに従う。耳が聞こえないがために一人では会話ができない梨沙の耳となって他人との声を介する。どんなに嫌な気持ちになっても、それ以外に生き方がないのかもしれなかった。

 やがて梨沙が立ち止まった。

「どこまで来たの」

 さののいる場所ではないだろうと思った。さのから梨沙の話を聞いたことはない。双子だから容姿にほとんど違いはないはずで、彼女が知っていれば何らかの反応を示したはずだ。

「家だよ。素臣様と、住んでる」

 梨沙が選んだ男だと思い出す。

 彼もまた、自分の言葉に耳を貸さずに振り切ってしまった。そのことを思い出すと対面する気になれないが、「今は出て行ってるけど」と言われて安堵する。

「仕事、やっと、見つかったけれど、ずっと、働かないといけないから」

 厳しい職場のようであるが、梨沙の声に不満はないようだった。

 梨沙に引かれるまま家に入ると、急に視界が光に満ちた。

 梨沙はいつもしてきたように座敷へ自分を招き入れ、座れる場所を、手を引くことで示した。梨花はそれを何でもないように信じる。一度裏切った人であっても、手を引いている限りはひどいことはしないと思っていた。

「本当に梨沙なの」

 程よい温度の畳に座って、梨花は人影の梨沙に訊いた。

「どういう、意味。聞こえるでしょ、わたしの声」

 耳の不自由な梨沙に配慮して少し声を張ったことで、彼女は一度聞いただけで訊き返してきた。

「新網町を出て行ったと思ってた」

 言葉を紡ぐと、配慮が余計だったような気がしてくる。自分だけ幸せになろうとした裏切り者という思いに囚われかけるが、決して余裕のある生活をしているわけではないことに気づいて少しだけ溜飲が下がる。

「この畳、ずいぶん荒れてるのね」

 梨花は細かくささくれ立った畳を撫で、嘲り笑いを見せた。

「あまり、余裕、ないから」

 梨沙の声から笑みが消えた。どこか悲しげに聞こえるから、狙った通りの感情を伝えられたのだろう。

 梨花は追い打ちをかけてやることにした。

「希望を持って出ていったのに、このていたらくとはね」

 すると梨沙は押し黙る。きっと一番言われたくないことだったのだろう。男と出て行くと宣言した時の彼女は、乏しい光しか感じ取れない梨花にもわかるほど輝いていた。感覚を補い合って生きてきた姉を捨ててまで選んだ生活が、親にも仕事にも恵まれなかった人生を変えると信じていたのだろう。

 それでも、梨沙は結局外へ出ることができなかった。どんな生活をしてきたのか知らないが、こんなはずではなかったという思いが少なからず胸に渦巻いて生きているはずだ。

 そこを徹底的に突けば、妹は戻ってくると言い出すかも知れない。しかし受け入れてやるつもりはさらさらない。

「男は仕事だったかしら。どこで何をしているの」

 新網町に留まらざるを得ない者ができる仕事など訊かずともわかる。「車夫をしてる」とぼそぼそと言った梨沙の言葉は予測の範囲内だった。

「いつからやってるの」

「半月くらい前から」

 梨沙の男は、二人で駆け落ちしてから一ヶ月以上何もしてこなかったことになる。

「稼ぎは、たいしたことないのね」

 梨沙は答えなかった。希望を抱いて手に入れたはずの二人きりの生活で直面したままならない現実を改めて突きつけられて苦しんでいるのが手に取るようにわかる。

「余計なことを考えず、わたしの目であればよかったのに。わたしだけが梨沙の耳にもなれるのに」

 そうかもしれないという言葉を導くために梨花は言った。苦しい生活で最初に固めた決意が揺らいでいるところに救いの手を差し伸べ、それを握ったところで突き放してやる。かつて梨沙がやったことだ。

「梨沙、同じ苦しい生活なら、元に戻った方がいいんじゃないの」

 互いに感覚を補い合ってきた双子の絆は強いと思っていた。この言葉を受け入れれば、あとは叩き落とすだけだ。

 人影の梨沙が身じろぎした。言葉を紡ぐのを予期した梨花は、梨沙が泣きを入れてくるのを楽しみに待つ。

「苦しいのは、苦しい、けど、元には、戻らない」

 そして梨沙が紡いだのは、望みとも予想ともまるで違う言葉だった。

「何を、言ってるの」

 以前梨沙が出て行くことを宣言した時とまるで同じだと思った。あの時も彼女は、現実の話をする自分を振り切って決然と言い放ち、それに戸惑わされた。

「だから、戻らない。苦しくても、素臣様がいる生活の方が、いい」

 梨沙は言葉を紡ぐ間身じろぎ一つしなかった。顔も動かさず、その見えている目で目の見えぬ姉を真っ直ぐ見据えている。見える代わりのように聞こえぬという枷は、恐れずに外の世界を歩くという利に対して滑らかな会話を妨げるという欠をもたらしている。ずっと補ってきたはずの欠落を、梨沙は恐れないかのように、ところどころつかえながら言い切った。

「素臣様っていうのは一体何なの」

 暮らしてきた時間で測ったのなら、その価値は比べるべくもない。自分たちの暮らしに男などおらず、いたのは松公やその取り巻きのように獣じみた残忍な者たちと、借金によってねじくれた性根を持つに至った者だけだ。素臣というのは、そんな下劣な者たちから一線を画して男と呼ぶに相応しい男なのか。

「わたしの、愛しい、人」

 梨沙の声音は幸福な夢を見るように甘かった。

 梨沙はもちろん、これまで言葉を交わした誰もが発したことのない声である。笑うとしたら何かを諦めたように乾いたものしか知らない梨花にとって、これほど情感豊かな声は知らない。

「わたしは違うの。わたしだって愛しいんじゃないの」

 男と自分の両方に愛を感じているとしても、その度合いが劣っているとは思いたくない。そうでなければ梨沙は連れ戻せない。優しくても頼りにできない今の仲間たちより、ずっと頼りにして生きてきた梨沙がいなくては、やはり生きていけないのだ。

「ねえ、わたしが一緒にいたら駄目なの」

 梨花はいつしか必死になっていた。二十年以上に渡って目でありつづけた梨沙がいてくれたら、ここを出て松公の下で再び暮らすこともできる。菊乃は戻ってこないだろうが、松公は後釜を見つけると言っていた。梨沙さえ傍にいれば二人で助け合っていた頃に戻れるのだ。

「駄目じゃない、けど」

 たどたどしい言葉遣いだったが、他人の言葉を受け入れるつもりはないようだった。

「わたしは、りっちゃんとは、違う。りっちゃん、みたいに、誰も信じないの、嫌だ」

「そんなことない。そんなこと言われる筋合いない」

「りっちゃんが、何を言っても、わたし素臣様が好き。りっちゃんの傍より、素臣様の方が、いい。わたしの耳は、今は素臣様、だから」

 梨沙の頭が少し動いたのが、梨花には目を背ける動きに思えた。

 それが長年共に過ごした姉を忘れ去ろうとしているように見えて、梨花は梨沙にすがりついていた。

「素臣様が、どれだけ一緒にいたって言うの。ずっと耳になってきたのはわたしの方でしょう。わたしは梨沙がいないと生きていけない、後生だから戻ってきて。一緒に帰ろうよ、梨沙がいたら松公の下でも生きていけるから」

 思いつく限りの言葉から自分が言われて嬉しく思うようなものを選び出して声に出す。最後の方は声にならなかったが、みっともない姿をさらすだけで梨沙が戻ってくるなら安いものだと思った。 

 やはり自分は、一人では行きたいところへ行くこともできない無力な女でしかない。弱い振りなどしていない、事実弱いのだ。精一杯生きても周りの方が遥かに強く、満足に生きるには誰かの力が必要だった。

 それを双子の妹に求めることの何がいけないのか。これまでそうやってお互い生きてきたではないか。

「それでも、嫌。松公の下も、りっちゃんの傍も。素臣様が、いてほしい」

 そう言って梨沙は静かに梨花の体を離した。見つめ合う格好になった梨沙のぼやけた顔は、どことなく悲しげに見える。

「りっちゃん、わたし、苦しくても、幸せだから」

 二の句が継げないほどきっぱり言われた時、梨花は急に居たたまれなくなって立ち上がった。入ってきた時の記憶を頼りに扉へ向けて駆け出したが壁にぶつかって跳ね返される。立ち上がろうとした時唇にぬるりとしたものがかかった。

 畳の上についた手に、梨沙の手が重ねられた。

「大丈夫、りっちゃん」

 梨花はその手を振り払い、扉を探り当てた。梨沙を顧みずに闇の中へ飛び出していく。後ろで梨沙が名を呼ぶものの応えない。幸せと何の不安もない様子で言い切る梨沙が輝かしく、その分自身の影が深く見えた。

 居たたまれなさに突き動かされるままに飛び出そうとした梨花は後ろから肩を掴まれて仰向けに転びそうになる。倒れそうな背が抱き留められた。

「どこに行くの。見えないから、危ない」

 自らの耳で人の声を聞けなかったためか、情感のこもった話し方のできない梨沙だが、その分両肩に爪が食い込むほど強く掴まれていることが、梨沙の内心を伝えてくる。

「だって、梨沙の傍にいたら惨めで」

 思いの外簡単に内心はこぼれ落ちる。どれほど恨んでいても半身であった頃は簡単に忘れられない。

「どうして」

 淡泊な声で梨沙は訊いてきた。

「わたしはそんな幸せになれない」

 梨沙への気持ちを考えず素直に答えると、目元が熱く濡れていることに気づく。それは程なくして頬を流れ元々心許ないものだった視界をにじませ、光の乱反射を見せた。

 声が漏れるのを止められずにいると、梨沙は両手を胸の前へ回してきた。

「今日は、休んで」

 二十五年間他人からの声を頼りに脳裏で作り上げた梨沙の顔が微笑んでいるのがわかった。恨みを述べるためにいたような母親が不意に思い浮かぶ。世の多くの母親とは、このようなものかもしれない。

 子供にどれほど憎まれ、恨まれたとしても、涙を流しているところを見れば自らの気持ちを抜いて慈愛に満ちた行動が採れる。自らを産み、捨てたということしか知らない母が、そうであったらよかったと心底から思った。

 梨花は母を感じさせた梨沙に言われるまま横になった。その頭には膝らしき柔らかなものが当たる。

 暗くなっても戻ってこないから、さのたちはさぞかし心配しているだろうが、無事を伝える術がない以上一晩落ち着かない気持ちで過ごしてもらうのも仕方がない。

 明日どうやって帰ればいいかと考えている間に梨花は眠りに落ちていった。

 

 五

 

 目を覚ますと梨沙の膝から降りていて、薄い布団が体の上に乗っていた。その下には自分の羽織があり、体を丸めていればある程度の寒さは防げる。

日射しが格子窓から注いでいたが、空気が暖まるまでは時間がかかる。人の気配のない家の中で、梨花は固く体を丸めて冷え込みが和らぐのをひたすら待つ。

 そうしているうちに『ドン』が鳴った。明治五年に採用された太陽暦によって一日を二十四時間とする定時法へと変わり、不定時法に慣れた市民に正しい時刻を知らせるため、毎日正午に陸軍砲兵連隊の号砲係が、皇居本丸の砲台から空砲を鳴らすようになった。

午砲と呼ばれるこの空砲は市民の間では『ドン』と呼ばれ、これが鳴ると昼食を摂る習慣が、東京府の市民たちには根付いている。梨花も貧しいながら規則正しい食生活をしてきたので、全く動いていなくても何かを食べたくなった。

 おもむろに動いて布団から這い出すと、顔で感じていた空気はわずかに暖まっているように思えた。梨沙を呼ぶが返事はない。駆け落ちしたものの、結局新網町から出ることが叶わない二人の暮らしは苦しいのだろう。素臣だけでなく梨沙も働いているに違いない。

 耳が聞こえず、会話も不自由な梨沙は、松公の下では木賃宿の客を相手に針や按摩をやって日銭を稼いでいたが、あれは松公に借金のある宿の主人が強引に仕事をねじ込まれたためであって、梨沙の実力ではなかっただろう。

 自分ならどうだろうか。さのと出会わず、別の幸運によって生きながらえたとしたら、どうやって生きるだろう。

 三味線を弾くことしかできることはないが、それも松公がいたから金になっていたのであって実力ではない。梨沙も同じはずなのに、彼女は決然と帰ることを拒み、素臣への愛を叫んだ。梨沙には別の方法で日銭を稼ぐ術があったのか、それがなくても平気なほど強く生きているのか。

 考えるほどに梨花は梨沙との差を痛感する。何の保障もない場所で生きていくなど考えられず、飯の種さえ捨て去ろうとしてもなお生きようとしているのは何のためかわからなくなる。

 梨沙であれば明確に答えを出せるのだろう。素臣という愛する男のために生きていくつもりなのだろう。いずれは結ばれ、この汚濊な街で家族を作り、老いていく。親も子も貧しいままであろうが、何故だか幸せそうな姿が思い浮かぶ。

 それに対して自分はどうか。周りから頼れる人は去り、一人になっても満足に生きられるほど強くない。梨沙のように男を愛してその男の傍にいるために生き、家族を増やしていくことなど考えられない。

 布団から這い出たものの、梨花は立ち上がる気になれなかった。自らの足で立ち上がることは一歩を踏み出すための前段階になるが、それだけの勇気が今はない。歩き出せばまた道に迷い、一人では何も出来ないことを痛感することになる。しかも今は人の目がある。たとえ空腹でも、誰かとぶつかって因縁をつけられる方が嫌だった。

 座り込んだままの梨花はそのまま横になる。すぐに寒くなって布団の中へ戻る。冷えた体には布団の温もりが心地よく、目を閉じれば速やかに眠りへ落ちていける。

 梨花が目を覚ました時日は落ちていて、代わりに行燈の頼りなげな光が室内を照らしていた。体を揺らされて目を開くと人影が見えた。

「りっちゃん、大丈夫」

 梨沙の声だった。感情に乏しい声であったが心配が宿っているのを感じる。二十年以上共に暮らし、半身として過ごしていればさざ波程度の変化で感情がわかる。

「もしかして、風邪、じゃない」

 そう言って額に手が乗せられる。「大丈夫みたい」と自身に言い聞かせるような声が聞こえた。

「出て行った方がいいの」

 部屋にいるのは梨沙一人のようだが、いずれ素臣も戻ってくるだろう。ここは梨沙と素臣の家であるし、自分は二人を散々罵ったのだ。眠った後梨沙と素臣の間に何があったのかわからないが、これ以上この場にいたら二人の間を険悪にしそうだった。

「どうして」

 梨沙の声から深意は読み取れない。

 思った通りのことを言うと、特に気にしていないという答えだった。

「素臣様も、わたしも、気にしてない」

 梨沙の言葉に裏を感じられず、梨花はそれ以上何も言わなかった。

「出て行くなら、もう駄目。もう遅い」

 夜の闇は、梨花にとって幽霊のようなものだ。何が怖いのかはっきり説明できないのに得体の知れぬ怖さがある。闇の向こうから何が飛んでくるかと思うと身動き一つ取れなくなる。目が見えていればかわしようもあるのだろうが、耳に頼るだけでは限界があった。

「行くところがあるの」

「どこに」

 意外だったのか、淡泊な声音は興味を惹かれたように少し上がっていた。

「わたしが世話になってる人。心配してると思うから」

 さのの家を出てもう二日が経とうとしている。家の中に閉じこもっていたから仲間たちの動きはわからないが、探し続けてほしいと思った。彼らしか、今は頼る人がいないのだ。

「よかった、ちゃんと、人と一緒に、生きてる」

 梨沙は安堵しているようだった。

「人が、いないと、人は、生きていけない」

「そうね、わたしは弱いから」

 当然のことを認めるのに苦は感じない。

「そういうことと、違う。強くても、一人で、生きていけない」

 説教臭い言葉であったが、梨沙はそれ以上言わなかった。長く共に生きてきた妹は分別臭いことを言わない代わりに、思ったことを素直に言う女だった。そこに相手がどう感じるかという配慮はない。

「どういう人、りっちゃんと生きてる人」

 梨沙に訊かれてさのの名を出す。

「松公の妾だったこともあるみたい。恨んでないみたいだけど」

 彼女の話では、松公に蹴られたこともあるようだった。それなのに男を恨まず穏やかに人と接するのは並大抵ではないと思う。他人に理不尽な扱いを受けた人間は、その恨みに思う気持ちを弱いとわかっている者に向けることがある。梨花が知っている人間はそういうものばかりであったから、さのはとても高潔に思えた。

「松公、ずっと、同じことするのかな」

 新網町北側の支配者である彼はかなりの高齢で、その歳になるまで隻腕であるために理不尽な仕打ちをいくつも受けてきたという。長年積み重なった鬱憤を晴らすように健常者を借金で縛り、非健常者たちも恐怖で縛ることに悦楽を感じているようである。老い先短い人生で、今更悔い改めるとも思えなかった。

「松公はそういう人だから」

 梨花は投げ遣りに言った。

「あんな人の下で生きて死んでいくのが嫌だったんでしょうね。梨沙と同じに」

 そのつもりがなくても皮肉っぽい言い方になるのは止められない。実際二人はよく似ていた。男のために失うものを恐れずに逃げたのだ。

「何度も訊くようだけど、ここでの暮らしってやっぱり幸せなの。わたしと一緒にいた時と同じように貧乏みたいだけど」

 梨沙の人影が頭だけ動いた。

「お金、じゃない、から」

自信の持てない三味線を弾いて生きてきたのは日銭を得るためだった。それで恵まれない暮らしから脱することはできないことはわかっていても、金を稼いでいれば生きていくことができた。

同じ生き方をしてきたはずの梨沙の口から出た言葉は、松公の下での暮らしぶりを強く否定するものであった。

「やっぱり、梨沙はわたしと違う人になった。もうわたしの目じゃない」

 いい加減認めるしかないという気分になっていた。自分の傍を離れる時、再会した時、どちらも梨沙は男の傍で生きることを最上の喜びとする女になっていた。相手のことを、感覚を補うための者として見ているのではない。だからこそ自身も人間として独歩ができる。

 ようやく梨沙の独歩を認められた自分との大きな隔たりを感じた。

「どうしたら梨沙のように人を好きになれるかな」

 男を好きになり、姉より男を選んだ女としての梨沙を素直に見られるようになると、人のことを正しく愛してきたのかどうかと思うようになる。梨沙や菊乃が嫌いだったのではない。しかし二人が目の代わりをできなくなったとしたら途端に愛することに飽き、拒んでいたかもしれない。

 他人の価値を損得でしか計れなかった頃が、今の寂しさに繋がっているように思えた。

「わたしは梨沙を正しく愛していたのかしら」

 表情が見えなくても、伝わってくる気配や雰囲気を読むことで相手の内心を察する術がある。目が見えない分発達した感覚は鋭敏で、何も言わなくても心が傷つくのを感じることがある。

 想像ができたとしても、梨花は訊きたかった。それまで積み重ねてきた、姉妹の時間を。目と耳の感覚を補い合って生きているのとは違う、一人の人間として生きてきた妹の言葉を。

 梨沙の影が身じろぎする。そう思った時には抱き寄せられていた。

「昔の、こと、より、今、りっちゃんがいる、ことが、大事。わたしから、逃げないで、ありがとう」

 二度聞くことはないと思っていた言葉は、梨沙を傷つけてやろうと思っていた二日前までの自身の影を濃く浮き上がらせた。居たたまれない気持ちもあるが、それよりも梨沙の体が心地よい。

「ここにいてもいいの」

 梨花が尋ねると、梨沙は静かに体を離した。

「いつまでもは、駄目。ここは、わたしと、素臣様の、家」

 梨沙が一人の人間だと認めた時から何となくわかっていた言葉だ。一人の人間には他の誰のものでもない居場所が相応しい。

 そして梨沙が離れたことを認めた今、自分も一人の人間となった。居場所を手に入れなければならない時だろう。

「明日、海に続く道に連れて行って。そこをまっすぐ行けば、世話になってる人のところへ帰れるから」

 さのの元を離れてから無事を知らせる術もないまま二日が過ぎてしまった。どこへ行くにせよ、まずはさののところへ戻らなくてはならない。

「まず、食べよう。りっちゃん何も食べてない」

 あまり体を動かさなかったせいか、いつの間にか空腹は薄れていたが、体を動かすのが億劫になっていた。

 北で食べているのとあまり変わらない残飯を食べているうちに素臣が戻ってきた。お互いに話すことはなかったものの、かつてのわだかまりを感じることはなく、何でもないように食事を済ませ、その後すぐに眠りに就く。

 二人の目覚めは早く、行燈の灯がついているのに気づくと同時に底冷えも感じた。二人に気づかれないよう薄く目を開けて様子をうかがうと、誰かが座っているのが影となって見えた。

そこにもう一つの影が重なり、男女の声が交わされる。身を切るような寒さにも関わらず二人の言葉から不満は聞こえてこない。朝食を摂っているようだが酸っぱい臭いが強く混じっており、あまり質の良くない残飯を食べているのがわかる。

 少し気を抜いた隙に睡魔に絡め取られ、再び目を覚ました時に素臣は姿を消していた。目を開けた時に梨沙と目が合ったのか、彼女の方から挨拶をしてくる。梨花は仕方のない気分で体を起こした。

「よく、寝られたの」

 梨沙が手を差し伸べてきたのがわかって、梨花は素直にそれを取った。素臣がいたちゃぶ台までの距離はないに等しかったが、二人の家の構造が見えない以上梨沙の導きは必要だった。

「いつもこんなに早いの」

 目の前に朝食を置いた梨沙に尋ねる。

「素臣様の、仕事はいつも、早くに始まる、から。人力車、の車夫は数が、多いから、頑張って働かないと、食べて、いけない」

 保障のない生活は梨花にとって考えられないものであったが、昨夜話をした限りでは、素臣はそんな生活に不安や不満を感じているわけではないようだった。

 梨沙もまた、いつ失うかわからない生活に恐れを抱いているようには思えない。恐怖を我慢する代わりに保障された生活を捨て、自分の望みに従ったことで培われた強さだろう。

 朝食を終えると、間を置かずに梨花は発つことにした。梨沙も屑拾いの仕事があるようだから、できるだけ早く離れてやらなければならない。

 二十年以上そうしてきたように、梨沙に手を引かれていく先を信じて歩き続ける。時々周りの風景を梨沙が伝え、梨花は手探りで特徴を探す。歩くごとに覚えのある感覚が増えていく。海を目指す前に一人で歩こうと思って何度も触り、手のひらに覚えさせていったものだ。

 やがて決定的なものを手が触る。歪な形をした地蔵である。触っただけでわかる個性は、梨花にとって確実な道標である。それだけで御利益としては充分だった。

「ここよ」

 梨沙に声をかけて足を止めさせると、扉を叩いてさのを呼んだ。返事はない。彼らは皆仕事をしているのだから、病気でもない限り家にはいられない。

「もういいわ、あとはここで帰ってくるのを待つから」

 梨沙にも仕事はある。何もせずに待ち続けることを許されているのは自分だけだ。これから夜になってさのたちが戻ってくるまで、自分一人で待つしかない。彼らが探し続けていたことや、生きて戻ってきたのを信じてくれるのを。

「りっちゃん、どうしてあそこに、いたの」

 もう会えないと思っているような訊き方だった。

「海へ行きたくて。でも一人じゃできなかったわ。梨沙がいなかったら、凍え死にしてたかもしれない」

 道に迷った時点では暗くなっていたから、探しに来たさのたちに助けられる場合も有り得た。しかしそうであれば、一人では何も出来ないことを痛感しただけで、一層外へ出ることを拒むようになったかもしれない。

 結果的に貧しくても充実している妹の暮らしぶりを知り、自分もまた少し前を向いて生きていくことができるようになったと思う。

「りっちゃん、また、海へ行きたいの」

 それは全く考えなかったことだ。一度できなかったことに再挑戦してもやり遂げられるとは思わないから、自然に避けていた。

 たとえ何か諦めきれなくても、出来ないことを何度も痛感するのは嫌だから、思いは胸の内にしまっておく。そうしてやり過ごして、松公の下で満たされぬまでも平穏な毎日を送り、老いていく。いつの間にかそんな毎日を目標にして生きるようになってしまったと思う。

「海は、海には何があるの」

 海からは遠い場所で生まれ育ったから、希に漏れ聞く話しか想像する要素はない。潮の香りがするというが、そもそもどんな香りなのか。残飯の酸っぱい臭いや道端から流れる生臭さとは違うものだろうか。事実に近づくには、新網町の狭い世界では得られる手がかりが少なすぎる。

「わたしも知らない。いつでも行くこと、できる。でも音は聞こえ、ない。だから、いつか、来て。わたしはずっと、海で待つから。りっちゃん、が、聞くものを、教えて」

 今度海へ行くとすれば、それは梨沙のためにもなる。梨沙が海を眺めて景色を教える代わりに、自分は聞こえる音を伝える。海の色と引き替えに知らせる海鳥の鳴き声や寄せて返す波の音。それは長く目の代わりをしてきた梨沙にとり、大きな贈り物になるはずであった。

「わかった、約束する。松公のところに戻って、一人の居場所を作って、海の音を教えてあげる。わたしは梨沙と同じ一人の人間だもの」

 梨沙の影は身じろぎした。笑ったのが気配でわかった。

「またね」

 梨沙はそう言って遠ざかっていった。一人になった梨花は、霜が溶けて元の泥深さに戻った道に座り込むのを避けて立ち尽くす。視界が暗くなってきても、さのたちが帰ってくることを信じて待ち続ける。

 ここはさのの家なのだから、戻ってくるのは当然である。しかし自分がいない間に何かがあって、誰も帰ってこなくなったら、自分のしていることは無駄となる。寒空の下で立ち尽くして馬鹿を見たことになってしまう。

 そんな思いに囚われて、自分は一人で海へ行けず、一人で何もできないことを痛感して戻ってくる羽目になった。

何かをしたいのなら、何か信じるものを作らなくてはならないことを知る遠出になったと思う。信じたことで痛い目を見る羽目になるかもしれないが、そうでないかもしれない。それが決まるまで梨花はさのたちを待ち続けるつもりであった。

赤っぽい視界は色を失って、やがて真っ暗になる。幼い頃から幽霊のような得体の知れなさを感じてきた暗闇である。耳を塞いで座り込んでしまいたくなるが、全てから顔を背けるような姿はきっと傍で見て情けなく思われるのだろう。これから元の場所へ戻る決意を秘めた女の姿としては、さのたちに心配を残すはずだ。

彼女たちに快く送り出して欲しいのなら、出迎えるつもりで毅然と立ち尽くしていなくてはならない。梨花は恐怖心だけでなく疲れに侵されつつある足に気を入れて伸ばし、ひたすら人の帰りを待った。

 やがて雨音が鳴り出して気温が急激に下がりだした。我知らず足踏みするうちに足元が緩くなる。遠くの人の声しか届かないよりは、すぐ近くで絶え間なく音が聞こえている方がましと思える。聞くだけで底冷えを誘うものであっても。

 梨沙や素臣はこの雨に降られていないだろうか。梨沙は家に戻っているかもしれないが、毎日遅くに戻ってくる素臣は、雨の中で車を引いているのかもしれない。車夫の仕事はよく知らないが、梨沙が言った通りなら多少の無理を承知で仕事をしなくてはならない状況なのだろう。そのことを二人は恨みに思うことはないと梨花は信じた。

 目を持たずに生まれてきた代わりに、歳を重ねることで研ぎ澄まされた耳で雨音の奥を探る。期待した音は程なくして聞こえだし、確実に近づいてきた。

梨花さん、ですか」

 激しさを増してきた雨音にも紛れぬ芯の強さを秘めた声はさののものである。

「さのさん、わたしです。あの、申し訳ありません。こんなに遅くなって」

 真っ暗な視界で声を頼りにさのの姿を探ろうと手を伸ばす。触れて何かをしたいわけではない。布も持たない自分には、雨に濡れた肩を拭くこともできない。

 ただ、声が真っ直ぐさのに届いているかどうか不安がある。手を真っ直ぐ伸ばし、指先がさのに触れたら、さのと向き合って話していることになる。

 指先は何か柔らかなものに触れた。さのが手でどこかへ導いたのだ。

「冷たいわ、ずっと待っていたんですか」

 指先を吸い込むような感触から、頬に触れているのがわかった。さのの頬もだいぶ冷たいが、そのことには触れず「昼間からです」と答えた。

「ここで待っていれば誰か帰ってくると思って。そしたら、その通りでした。当たり前のことですけど、信じた通りになるのって嬉しいですね」

 自分が何か働きかけたわけではない。さのはいつも通りに一日を初め、いつものように帰り道を辿ってきたに過ぎない。

 たとえ帰りが遅くなったとしても立ち続けると決めた時、信じる気持ちが作用していたのだろう。どれほど寒くてもさのたちが帰ってくると信じていた。その通りになると、ただ立ち尽くしていただけなのに報われた気分になる。安易という囁きも耳の奥に聞こえるが、他人を信じ切ったことの清々しさは確かにあった。

「お帰りなさい、とどちらが言ったらいいかわかりませんけど」

 照れくさくくすぐったい気分だった。これほどぎこちない気持ちで他人に言葉を届けた覚えが梨花にはない。常に一歩引いたような位置で他人と接していれば、心を開かずに相対して話すこともできる。それで信頼が得られるかどうかなど考えたことはなかったし、傷を負わずに済む。

 心を開いたことはなくても感情をさらけ出した時はある。梨沙や菊乃が傍を離れようとした時、必死で泣きついて引き留めようとした。それにしても、少しでも信頼を得ようと考えたことがあったなら、もっと後味の良い別れがあったのではないか。

「どちらが言ってもいいんですよ。ここはわたしたちの家です。わたしの家であれば、梨花さんの家でもありますから」

 梨沙と再会する前に聞きたい言葉であったが、その時は離れがたくなっていて、海に一人で行く気も起きなかったかもしれない。

「それで、海には」

 結果はわかっているのか、さのは訊きづらそうにした。

「結果は、まあ駄目でした。道に散々迷って、知り合いのところに泊めてもらって、やっと帰ってきました。でもけがもなかったですし、無事に帰ってきました」

「そうですか」

 努めて短く言ったように聞こえた。戸を開く音の後、さのに手を引かれて長屋へ入っていった。

 壁に手を沿わせながら空いているところを探して座った梨花は、さのに呼ばれてちゃぶ台を探した。その上には熱を発するものが置かれている。梨花は慎重に湯飲みの形をなぞった。

「いいんですか、こんな」

 薪が爆ぜる音を聞いたからもしかしたらと思っていたが、さのは貴重な薪を使って湯を沸かし、あまつさえ茶を淹れたのだ。全員の稼ぎで長屋の賃料を払い、冬をしのぐための薄い毛布を損料屋から借り、残りは毎日残飯を手に入れるので使われる。嗜好品の部類に入る茶を淹れるだけの余裕があったのか。

「ずっとわたしを待ってくれたのですから、礼はしないと」

「そんなにたいしたことでは」

「少なくとも熱いお茶一杯分ぐらいの価値はあったと思います。帰ってくるのはいつもわたしが最初でした。生活の上での長ですから、最初に帰って家の安全を確かめないといけないんです。それからみんなが帰ってきます。わたしは今までただ出迎えるだけでした。だから梨花さんが出迎えてくれたこと、嬉しかったんですよ」

 そういうものかという疑問は浮かんだが、それを素直に口に出せばさのを戸惑わせてしまう気がした。

 誰でも心を動かされるものは少しずつ違っている。そのことについて今まであまりに関心を払わず、いかに人にうまく頼って生きていくかを考えるばかりだったから、自分のことに置き換えて考えても明確な答は出ない。ただ、とても些細なことであるのはわかる。さのは小さなことに喜びを見出して生きていく類の人間なのだろう。

「わたしがいたから、ですか」

 口からこぼれ落ちた独り言であったが、さのはしっかり拾い上げて「そうですよ」と言った。

「惜しむらくは、いつまでもいるわけではないことでしょうけれど」

 思いがけず胸の内を言い当てられて、梨花は言葉に詰まった。明日に出て行くつもりなのを言い当てたのではないから何の気なしに言ったのであろうが、さのが時折見せる鋭さは侮りがたいものがある。

「どうして、そう思ったんですか」

 そう尋ねると「ここが梨花さんの居場所ではないと思って」とさのは答えた。

「誰もあなたがいることを疎ましくは思っていません。ずっとここに身を置きたいならそれでもいいんです」

「海へ行こうと思う前なら、さのさんの言葉に甘えたと思います」

「今はそのつもりはないんですか」

「結局海にはたどり着けませんでしたけれど、元の場所に戻るつもりになりました」

「帰ってみたら仕事がなくなっているかもしれないのに」

「それでも、どこかに自分だけの居場所を見つけないといけない気になりました。妹がそうでしたから」

「妹さんに会って来たんですか」

 さのは興味を惹かれたような声を出した。

 梨花は海へ行くことを断念した後に再会した梨沙の話をする。新網町の北側で、お互い足りない感覚を補い合って生きてきたことから、二ヶ月ほど前に突然訪れた別れと、彼女を恨み続けた自分の惨めさ。そして貧しいながら自分の気持ちに正直に生きることで実感している幸せ。他人に頼り、去っていった他人を恨むだけだった自分には手に入れることの叶わぬものだった。

「新網町の北、今までいた場所に戻れば、妹さんのようになれると。そう思ったわけですか」

 試すような声で訊かれ、梨花は心が揺らぐのを感じる。確信というほど強い思いがあったわけでなく、目標とするにはあまりに朧気であったことだが、さのの元にいても妹のようになれるとは思えない。

 何より妹と約束したのだ。元の場所で居場所を作り、海へ一人で行って、聞こえてくる音を教えると。代わりに梨沙からは景色を伝えてもらう。それまで外の世界を歩くために過ぎなかった、互いの感覚を補い合うことを、そこで初めてお互いの心を満たすために行う。それを思うだけで楽しくなった。

「自分のためだけじゃないです。梨沙も、妹もそれを望んでいると思うんです。誰かのために何かをしようと思ったの、初めてだから。いつかこの長屋の前を通るかもしれません。その時見かけたら、声をかけてください」

 また一つ、目標ができたような気分だった。

 仲間たちにも別れを告げ、翌朝に梨花はさのの導きで北を目指した。元々北で暮らしていたためか、足取りに迷いは少ない。

「家の周りで何か目印はありませんか」

 そう尋ねられ、自分たちが暮らしていた長屋の扉付近に手がかりがつけられていたのを思いだす。万が一梨沙の助けを借りず一人で外を出歩くことになった時、家の位置を知るためだと菊乃がつけたものである。必要ないと思っていたし、梨沙がいる間使ったことはなかった。

「丸い石が埋め込まれたような形をしているそうです。わたしには見えませんけれど」

「松公の家からどれくらい離れていますか」

「二十分は歩かないと思いますけれど」

 それだけわかれば充分だったのか、足の動きは一層滑らかになった。松公の家を中心に二十分以内で行ける場所にあり、手がかりがある長屋はそう多くはない。

 やがてさのは足を止めた。

「これでしょうか」

 そう言って手を取り、導いていく。菊乃に触らされた時と同じ感触がある。鍵のない扉を開くと埃の臭いが微かにした。出かける時は常に二人一緒だったから、誰も出迎える人がいないことは当たり前だが、梨沙が去った後はまともに掃除もできなかったから、部屋の臭いは変わりつつあった。

「埃が溜まっているみたいですね。掃除しましょうか」

「大丈夫ですよ、一人でやりますから」

 少しでも早く独歩したかったが、まだ一人で何も成し遂げたことはない。

「一人でやるのは大変ですよ」

 さのの何の衒いもない言葉が嬉しかった。

「わたし、一人で何かをしたことはないです。家のことはいつも梨沙に任せきりで」

 今まで当然のこととして言っていたことも、梨沙の決別を受け入れた後では情けない気持ちを呼び起こす。目が不自由とはいえ、二十五年を生きてきて一人では身の回りのこともできないのでは、あまりに粗忽な生き方ではなかったか。

「では、今からやれるようになりましょう。少しの間ここに泊まってもいいですか」

「急にそんなことして、みんなが心配しませんか」

「一旦帰って、そのことを伝えてきますよ。仲間が新しい道へ踏み出したんです。その助けをするなら、文句を言う人もいないでしょうしね」

「食べるものもほとんどないですけれど」

「一度帰った時に、お金を持ってきましょう。それで残飯でも買えばいいでしょう」

 さのは自分の思いを曲げるつもりがないようだった。

 断る理由もない梨花は申し出を受け入れることにした。実際梨沙から離れて一人で暮らす決意を固めたとはいえ、いきなり誰かの助けもなく自立できる力はない。一人で火も扱えないことも以前のままだ。

 話がつくとさのはすぐに立ち去った。いずれ戻ってくるのがわかっているとはいえ、梨花は久しぶりに一人取り残される。さのの長屋を出発した時日射しはまだ弱く、北に戻ってきた時も太陽はそれほど高く昇ってはいないようだったから、冬といえどさのが帰ってくるまで暗くなることはない。しかし万が一さのが帰ってくるのが遅れに遅れ、暗くなるまで一人になったらどうするか。

 梨沙が去った後、行燈の火をつけるのは菊乃の役目だった。菊乃の役目を継ぐ者はいなかったが、その後すぐにさのの元へ迷い込んだから、家の中で闇に怯えることはなかった。しかしさのが去った後、うまくできなければ今度こそ闇に怯えることになる。その恐怖を慰める者もなく、朝が来るのをひたすら待つことになるのだろう。

 そもそもどこに火をつける道具があるのかわからないから、やはりさのがいないと何もできない。まだ独り立ちは早いと思い知るのだった。

 さのは残飯を持って戻ってきた。ちょうど『ドン』が鳴った時間で、昼食のつもりで持ち込んだらしい。『虎の皮』が椀に盛られただけであったが、今は自分一人では食糧を手に入れるのもおぼつかない。素直に感謝して食べ終えた。

 掃除をすると言ったさのに、梨花は松公の元へ行くと告げた。もし自分がいない間に菊乃の後釜が見つかっていて、仕事を干されていたら、他に食べる手段を考えなくてはならない。

「わたしが案内しましょう。松公の家はよく知っていますから」

 さのは事もなげに言った。

「さのさんは松公のところから駆け落ちしたんでしょう。近づいたらどうなるかわかりませんよ」

「もう二十年も前の話です。それより一人じゃ道がわからないでしょう」

 梨花は言葉に詰まった。誰かの手引きが常にあると信じていたから、自分一人で歩く時が来るとは考えず、手がかりの場所もわからない。さのの助けがないとまた道に迷いかねない。

 さのに案内を頼み、梨花は彼女の手を取って外へ出た。差し出されたのは右手で、長く梨沙の左手を頼りに歩いてきた梨花には微かな違和を感じさせた。

 左手が砕かれているせいなのだろうが、万が一彼女が転ぶようなことがあれば、自分が左手の代わりをしてやらなければならないだろうか。無事に目的地へ到着してほしいという強い思いの一方で、自分が役に立つような場面に出くわして欲しいという気持ちも微かにある。それはさのの不幸を望むことに他ならないが、歪んだ形でも誰かの役に立ちたいという望みを抱いたことは、今までの人生で覚えがない。

「さのさん、わたし、さのさんが転んだら支えてあげます」

 言葉にすればさのも泥深い道で足を滑らせることを恐れなくて済むかもしれない。

「大丈夫、ぬかるんだ道は南にもあります」

 さのは梨花の内心には気づいていないようだったが、そんなものだろうと冷めた気持ちを感じた。自分の気持ちが簡単に他人へ通じることなどなく、長い時間をかけて築き上げた信頼や上手い言葉遣いを駆使して初めて可能性が生じるのだ。今の自分とさのの間にはそのどちらもなかった。

「さのさん、松公のところまで行ったらどうするんですか」

 会うつもりではないかと梨花は心配になった。松公が二十年以上前に出て行った女にどれほどこだわっているかわからないが、駆け落ちだったということは、彼にとっては寝取られたことになる。残忍で他人をいたぶるきっかけを常に探しているような老人が、さのに何をするかわからなかった。

「会うのはわたしですよ」

「ええ、一人で会ってくれれば助かります。さすがにわたしは、松公の前には出られません」

 さのに妙な気がないことを知って一安心した梨花は、生まれた余裕からその理由を尋ねた。

「さのさんは、松公のことを今はどう思っているんですか」

 松公の妻妾だったことを話した時、彼に恨みを抱いているようには思えなかった。それどころか彼に一定の功績を認めるような発言もしていた。

「前に話したと思います。松公は松公なりに、人を助けようとしたのだと思います」

「でも今は、残忍な老人でしかありません。自分の息のかかった人たちを虐めて楽しんでいるんです」

「そうだとしても、梨花さんたちが生きていく場を作ったのに変わりはありませんでしょう」

 松公がいなければ生活が保障されることもなかったのは認めざるを得ないことであろう。

「もっと優しい人であったら、さのさんのように考えられたかもしれないです」

「惜しいことをしたということですね。あの人の傍にいて色々なことがありました。蹴られたり殴られたりもしましたけれど、愛されたことも確かにあったんです。それを頼りに笑ってあげたい気もしますけれど、できないのは残念ですね」

「今松公に会ったら、どんな目に遭わされるかわかりませんからね」

 さのは答えなかった。彼女の人影は横顔を見せていたが、何となく笑ったように見えた。どことなく寂しげな雰囲気が伝わった。

 やがてさのは足を止めた。何も言わなかったが、貧民窟の中では一際大きな建物の形が見えた。

「少し離れたところで待っています」

 そう言ってさのは離れていく。一人になった途端言い知れぬ不安感が襲ってくる。松公の元までのわずかな距離、たった一人で歩くこともそうだが、松公と一人で対峙することが何より怖い。他人への暴力を見せしめにするような残忍な老人が、何をしてくるか。暴力を振るわれたら、老人の力とはいえ目の不自由な自分にはかわせないだろう。

 怖さを挙げればきりがない。それでも前へ進まなくては何のために戻ってきて、さのと共に歩いたのかわからない。梨花は前へ一歩ずつ、泥深い道で滑らないよう注意しながら歩いた。

 やがて足元の感触は固くしっかりしたものに変わった。視界も急に暗くなる。声を上げる前に薄闇の向こうから誰何する声がした。

「り、梨花です。松公、おりますか」

 たどたどしい言葉遣いが我ながら情けない。菊乃は全く物怖じせず、松公と対等に渡り合っていたが、彼女ほどの胆力は持ち合わせていない。

「何だ、何しにきた」

 松公が傍に寄ってきたのがわかった。

「あの、菊乃さんの後釜のことです。見つかりましたか」

 恐る恐る尋ねてみる。彼と一対一と話をしたことはないから、どんな言い方が有効か見当も付かない。

「見つからん。そんなことお前が気にすることじゃない」

 松公は苛立ちを隠さなかった。仕事がなくなっていないことを確認できただけでも収穫で、余計な怒りを買う前に立ち去る。歩いてきた方向へ行くとさのが声をかけてきた。

「どうでしたか」

 かつて妻妾として仕えるような生活をしていた場所にいるにもかかわらず、さのの声は落ち着いたものだ。

「仕事は残っていました」

 応じた言葉には寒さのせいではない震えが残っている。

「きっと後釜が見つかれば誰かが伝えに来るんでしょう。それまでは何もすることがありません」

 松公から離れている間に物事が動いてしまう心配が杞憂に終わり一安心ではあったが、仕事がないとわかると出鼻を挫かれたような気分になる。

「それなら、掃除のやり方や火の使い方、色々覚える時間が取れますね」

 さのに明るく言われ、決して松公から回される仕事をするばかりが大事ではなかったことを思い出す。一人で生きていくために身に着けなければならないことは多く、大人になった身で覚えていくのは子供が習うより難しい。旅先に置き忘れてきたものを拾い集めるように途方もないことだ。

 家に帰り着くと、どこからか探し出してきた箒を持たされた。隅に塵を集めるように言われ、杖で障害物を探るような慎重さで手を動かす。箒の先は何度も何かに触れ、そのたびにものを避ける。目が見えればいう思いが何度も沸き上がるが、補ってくれる人もいない今言っても詮無いことであった。

 箒で避けたものはさのが一つずつ隅へまとめていく。一通り掃き終えるとものの位置を教えられ、それを触って場所を覚え込む。さのの家の周りで道を覚える時にやったのと同じやり方で、壁との距離を測りながら形をなぞる。

 最後に触ったのは紙と細い木のようなもので作られた小さな角柱だった。行燈だとわかると、一人になった後が少し不安になる。梨沙がいた頃も一人になることを考えなかったわけではない。その時最も心配だったのは火の取り扱いだ。

 燃えやすいものが傍にあると気づかず、うかつに火を起こしたことで火事にしてしまう。そんな失敗を想像して背筋が寒くなったところでさのが声をかけてきた。

「掃除は何とかなるとしても、火はどうやって扱ったら良いんでしょう」

 心配を素直に表へ出すことで、解決に一歩近づいたような前向きな気持ちになれる。

「火を起こすことができても、周りに燃えやすいものがあると気づかなかったら、火事を起こしそうで怖いんです」

 その上で心の奥に根付く心配の大元をもさらけ出す。さのであれば他意なく答えてくれると信じることができる。顔の見えない相手に猜疑を向けることから初めてきた今までは、どんなに長い付き合いのある相手の言葉でも、奥に何か屈託があるのではないかと疑ってきた。

「では、今のうちに燃えやすいものを全て隅に集めて、これから位置を絶対動かさないよう決めましょう。その上で練習してみたらどうですか。わたしもしばらく付き合います。もし火が燃え移ったらわたしがすぐに消しますから」

 さのは手を重ねてきた。言葉よりも濃密な安堵感に包まれ、初めて扱う火打ち石を手にしても心の動揺が抑えられる。信じられる人の傍で何かをするなら、どんなに自信のないことでもやり遂げようとする勇気が生まれるらしい。

 梨沙のことも信じていないわけではなかった。目が見えていた彼女なら、練習するといえば失敗した時の始末もつけてくれただろう。あとはやる気の問題であったが、梨沙がいる間は怖がるだけで、ついに一歩を踏み出すことができなかった。

 火打ち石は黒い影となって視界にある。それを打ち鳴らすことは難しくない。しかし火花が散るように力をかけあうのは、石の目がはっきり見えない梨花にとって至難である。火花を飛び散らせたとしても、燃やしたいものに乗り移らせるのも簡単ではなかった。

 さのは火打ち石の使い方を最初に言っただけで、それ以上は口を開かなかった。万が一の事故に備えての緊張感だけが伝わってくる。失敗を補ってくれる人間が構えていることの安心感だろう。誤って指を打ってしまうこともあったが、挑戦する気持ちは失われない。思い切りやって失敗しても、さのは何とかしてくれる。他人を強く信じられる、清々しい時間となった。

 しかし傍にさのがいることが成功を保障するわけではない。何度も打ち鳴らした火打ち石は徐々に削れていき、指を打つことも増えてきた。指を器用に動かさないと落としてしまうほど石は小さくなっていた。

 さのが手を重ねてきた。

「今日はここまでにしましょう。焦らなくても時間はありますから」

 梨花は素直に従った。いつ仕事が始まるかわからないが、明日仕事をすることになっても、さのは火打ち石を使えるようになるまでいてくれるだろう。

 窓の方へ目を向けると、日射しが赤く色を変えていた。

 

 残飯市へ出かけることはかなり勇気のいることだった。残飯を手に入れるには定期的に立つ市へ出かけていく必要があるのだが、特に夕方は混み合う。梨沙がいる時でさえ、夕方の混み具合には恐怖を覚えるほどで、食欲がその恐怖を抑え込んでいた。

 今はさのがいる。目が見えることでは梨沙と変わらず、案内も的確である。しかし厳しい冷え込みのせいか全体的に忙しない雰囲気があり、少しでも戸惑えば後ろから怒鳴られそうな緊迫感も広がっている。

「活気がありますね。南側とは違います」

 さのはそんなことを言った。目が見えているさのが感じ取るのはだいぶ違った状況のようだ。

「南でも残飯市ってあるんですか」

 北に比べて貧しいと言われる南側だが、人々は全体的に穏和な雰囲気があった。貧しくて手に入るものが少ない分、平等に分け合う習慣が根付いていて、食料も競争のように手に入れるやり方ではないのだろうと何となく感じていた。

「お金を出してものを買うのは当たり前です。ただ品物が少ないし質も悪いから、あんまり買い物も楽しくないのですけれど」

 山の手の経済に触れる機会の多い北に比べて、山の手から遠い南は良い食べ物も手に入りにくいのだろう。買い物を楽しむという発想はなかったが、美味しくないものしかないとわかっている買い物なら、来る度にげんなりしそうだった。残飯ばかりの食べ物でも、時には美味しいものもあるのだ。

二人分の食事を手に入れてから二人は家へ戻る。『虎の皮』に加え乾いた食べかけの漬け物が今日のおかずで、普段と変わりのないものだ。

二十年以上暮らした家で、梨沙以外の者と向き合って食べるのは初めてで、話すことに迷いながら、久しく忘れていた何かを思い出せるような気がした。

「今更ですけれど、さのさんがいなくて大丈夫なんですか」

 梨花が選んだのは、数日では量れないさのの果たす役目の大きさについてであった。

「あまり長くいて、みんなが困らないんですか」

 さのをマリア様と呼んだ六之助を初め、誰もがさのの下に集まって満足し、また彼女に従っているように思えた。さのにはそうしたくなるだけの人間性があるのだろうが、それだけに離れている間残された者たちがどう行動するのか、少し興味があった。

「平気ですよ。わたしがいなくても好きに生きていきます」

「そういうものですか。誰か導いてくれる人が必要なんじゃないですか」

「吉司は子供ですけれど、あとのみんなは梨花さんよりも年上です。一人で何かをしようと思えばやるでしょう。別にわたしは、みんなを従わせてその上に立っているのではないですし。あくまでもんな好きなように生きていて、たまたま集まったに過ぎないんですよ。自由って言葉を知ってますか」

 梨花は首を振った。最近は外国語を日本語に訳したような耳慣れぬ言葉が多く入ってきているようだが、商売に関わっているわけでもない梨花が知る機会は少ない。耳を外へ向けていない限り自然には入ってこないものだ。

「自分で物事を決めたり、やってはならないことを決めたり。要は望むように生きることを指すそうですよ。誰にでも許される生き方ですって」

「みんなその、自由に生きていくようなことができるんですか」

 梨花は懐疑的に言った。自分自身に自由とやらを課したとしても、どこを見据えて生きていけばいいかがわからない。自立すると決めたものの、一人で歩けるようになってどこまで行きたいか思いつけない。とても魅力的な自由という生き方を、今与えられても持て余すばかりのように思えるのだった。

「わたしには歩いていく目標がありません」

 探そうにも見つけるにも目の良さがいるだろう。さのの助けが要るだろうが、彼女が傍にいられる時間は決して長くない。

「自分だけの力で立って、自分だけの力で歩いてみようと思っても、どこへ目指せばいいかと思うと、歩くのが怖くなります。いつまで歩き続ければいいのかと。どこで足を止めていいのかと」

 昼間は心許ない視界で恐る恐る歩き、夜は全く利かない視界を諦めてじっと動かずにいる。その日々を一人で繰り返すのは覚悟の上で、梨沙の自立を認めてさのたちの傍を離れたのだ。

 海へ向けて歩こうと思った時でさえ内に抱いていた目指すものも、闇雲に飛び出すだけでは決して見えてこないのだった。

「さのさんはどこへ向けて歩いているんですか」

 砕かれて使い物にならない左手を抱えて、子供を一人育てている女の行き先は、想像したことがなくても予想がついた。

「子供が梨花さんみたいに独り立ちしようと思うように育てるところまで、でしょうか。そこから先は見えませんけれど」

「わたしには子供を作るあてもありません。いずれできるでしょうか」

「わかりません。でも本来の居場所で気を張って生きていれば、わたしのようではなくても何か目指すものが見つかるような気がします。まずは海へ向けて歩いてみるんでしょう。大きく遠いものを追うのもいいですけれど、妹さんとの約束を果たすのが先です。妹さんは、梨花さんが約束を果たしてくれることを信じてくれているのでしょう」

 梨沙にも仕事があるから、海へ行く時には梨沙の家へ寄って行く必要がある。ある程度周囲にあるものは手に覚え込ませたが、さのの家から真っ直ぐ歩けばいいだけの海と違って、梨沙の家がどこにあるのか正確には掴めていない。海へ行く以前の関門となりそうだが、約束を果たす決意を固めた時なら、乗り越えられると自分自身を信じるつもりであった。

 そして一人で海へ行く。全てを乗り越えた時に浜辺で待っている梨沙と会えれば、彼女に抱いていた全ての悪感情から解き放たれる気がする。

 そして双子を産んだ母の軽率も許せるだろう。思い描いた通りになるのなら、それは恨みではなく感謝へ変わっているのだから。

 食事の後火打ち石の練習に入った。眠気を感じ始めた頃に、視界の真ん中でぼんやりと赤く丸いものが灯った。

 

 六

 

 さのとの暮らしは数ヶ月に及んだ。松公が菊乃の後釜を見つけたら、一人の暮らしが本格的に始まる。その心づもりでいる梨花の傍にいることが許されるのは今しかないと思っているのだろう。まるで成長を見守られているような安心があり、いつまでもそうしてほしいとさえ梨花は思う。信じられる他人に見守られる心地よさを自覚できるだけでも、戻ってきた甲斐はあったような気がするのだ。

 それも終わりが来る。突然松公からの使いが訪ねてきた。

「今すぐ松公様のところへ来い」

 若い男と思われる使いはそれだけ告げて踵を返し、まだ霜が残る道を踏んでいった。夜の冷気は道の中の水気を凍らせて道全体に霜や霜柱を作る。それを踏み鳴らす音は朝の時間帯だけのもので、時間が経つごとにぬかるみの粘つく音が戻ってくるのだった。

梨花さん、いよいよですね」

 後ろから聞こえてきた声に振り返り、梨花は腰を下ろして向き直った。

「ありがとうございました」

 命を救ってくれたことに始まり、何もしない自分を養い道案内までしてくれて、最後は一人で生きる術を身に着ける手助けまでしてくれた。それだけ多くのことをされると、却って言葉が出てこない。

「どういたしまして」

 さのの声は笑っていた。彼女もまた多くの礼を期待する者ではないことを充分わかっている。お互いに通じ合っているようでとても自然なやり取りに思う。そう思うと笑みがこぼれるのだった。

「笑い方が少しうまくなったみたいですね」

 他人と接する時の基礎基本がようやくできるようになったと言われたようで、梨花は少し照れくさくなる。

「さのさんと話していると、色々嫌なものが抜けていったようで。親の話をしたこと、覚えてますか」

瞽女をしていたと」

「たくさん恨み節を、さのさんにぶつけましたよね。まだ軽率なことをしたって、親を恨む気持ちは消えませんけれど、ここで満足な生き方をすれば、それも消える気がします。さのさんみたいに、親を恨まない生き方を始められる気がします」

「では、お願いしてもいいですか」

「何でしょう」

 梨花は喜ばしくなった。言葉で感謝を表すしか礼はできないから、さのの願いを叶えられたら少しは気が済むだろう。

「生まれてきたことを喜んで欲しいんです。自分がいたから動くもの、救えたものがあると信じてください。吉司がそうであったように」

 さのたちと出会うきっかけとなった彼女の息子は、熱が下がってから活発に動いていた。仲間たちの間でも愛されていて、そのかわいげが大人たちの活力となっているようだった。

「あなたが一つの命を救ってくれたことを、わたしたちは忘れません」

 さのの影が動いた。心許ない視界でも、影の形を見れば何をしているのかがわかる。

 両手を揃えて深く頭を下げ、最上級の礼をしているのだ。

「そんなこと、わたしが受けていいんですか」

 自分の声が微かに涙ぐんでいるのに気づく。今まで生きてきて言葉や手の暴力を受けたことは何度もあり、感謝を受けるようなことなどできないといつの間にか思っていたから、不意に向けられた感謝に心が大きく揺り動かされ、涙が振り出されているようだった。

「あなたがいたから吉司はまだ生きていられます。それは吉司だけでなく、母親のわたしをも救っているんです。だから受けてください。あなたは一つの命と一つの心を救ったんですから。なかなかできないことを成し遂げたあなたには、生まれてきたことを喜んでほしいんですよ」

 さのの願いは、他人を頼りに自らの命をつなぐことしか考えなかった頃からすれば途方もないことであった。軽率の果てに産み落とされた命と自らの命を蔑み、そうした母を恨み、いずれ人生を終えるまで三味線を弾くことだけをして過ごす。今振り返ってみれば、そんな日々を送っていた頃がぞっとしない。

 今ならばさのが望んだように生きられると思った。梨花はさのの頬を探り出して触れ、顔を上げさせた。

「できないこともあるかもしれませんけれど、生まれたことを恨むことだけはしません。それだけは約束します」

 梨花は身を起こしたさのと固く抱き合い、外へ出た。

 出かけるまで時間がかかったかもしれないと思ったが、松公への恐怖心は自分で驚くほど薄いものだった。松公のところまで案内するというさのの申し出を断り、梨花は壁を頼りに一人で歩く。遅いことを責められると考えないのではなかったが、たとえそうなったとしても受け流すことができるような気がした。

 以前、すぐ傍で見せしめのような暴力に接したことがある。あの時暴行されていた男がどうなったかわからないままだが、そのことを怖がってばかりでは、いつまで経っても一人で生きていくことはできないだろう。

 梨花は身構えながら松公の家へたどり着く。到着したことを告げると唸り声が返ってきた。待ちの時間は許容範囲だったのか、機嫌の悪い感じはしない。松公らしき大きな影の隣に細い影がある。新網町に溶け込むような暗い色の服を着ているのか、目で見た限りでは特徴を見出せない。

梨花、こいつが菊乃の後釜だ。はるという。踊りは一通りできるし、菊乃のように途中で転んだりする心配もない」

 菊乃を貶める言葉は聞いていられなかったが、うかつなことを言って仕事がなくなっても困る。女と見える影に向き直った。

「お前、稼ぎがなくてよく生きてこられたな」

 まるで死んでもやむなしと考えているようだった。かつての妻妾で、男との間に子供を作って出て行った女とさっきまで一緒に暮らしていたことを言ってやったらどんな反応を見せるだろう。

「はると言います。踊りをするようにと言われて来ました。あと目の代わりもしろと」

 淡泊な声だった。自分自身の声を聞いているようにさえ思うが、これまで周りにいなかった類の人間だから聞き慣れない。

「何も見えないわけじゃないけれど、うまく見えないから迷惑をかけるかもしれない」

 自らの挨拶にもぎこちなさを感じながら言うと、「構いません」と淡泊な答えが返ってきた。

「それより、給金は毎日くださると」

 影は松公の方へ向いていた。

「心配するな、五銭払ってやる。遅れたり少なくなったりはせん」

 長屋の多くは日掛け三銭の家賃を店子に課す。はるの住処の家賃がその程度だとして、残った金で買えるのは余った漬け物と飯といったところだろう。毎日食うためにはどこかの時間で我慢もしなくてはならない。一日三食を満足に食べようと思えば、最低でも三十銭は残飯に費やさなくてはならない。

「それで結構です」

 はるは不満がないのか、平坦な声で答えた。貧困の中で諦めを抱いた結果、一切の感情を捨て去ってしまったような者が新網町には数多くいる。はるもその一人だろうかと思いながら、二人のやり取りを聞く。

「もし金がないなら相談するといい。仕事を回してやる」

 梨花は嫌悪を覚えた。初めて松公に会った時にも言われたことで、どういう仕事なのか見当もつかず、とりあえず礼を言おうとしたら付き添った三味線の師がきっぱり断った。後年考えてみると、あれは色を売る仕事ではなかったかと思う。梨沙も同じ仕事を持ちかけられたようだが、菊乃は何も言われなかったらしい。彼女の体にあった大きな火傷が原因だろう。

 そうだとすると、はるの体には大きな傷はないことになる。どこが悪くて松公のところへ来たのかと思っていると、はるは「お願いします」と言った。

「そのことも含めての仕事ですから」

「何を言ってるの」

 事もなげに言ったはるを咎めるように声を上げたが、「そういう話でここに来ましたから」と再び平坦な声がした。声音は固く、とりつく島もない。

 何も言えなくなって梨花は口を噤み、はるの影を見る。背筋を伸ばして毅然と松公に向き合う姿は印象的だが、何かを諦めたように投げ遣りな態度も見て取れる。新網町では珍しくない類だが、明朗な菊乃との仕事が長かった分不安も覚える梨花であった。

 外へ出ると、梨花ははるに手引きを頼む。一人で歩くことの恐怖心はかつてに比べれば薄くなっており、家に戻るぐらいなら挑戦してみたいという気持ちもある。しかしはるがどんな風に手引きをしてくれるのか知っておきたい。今まで手引きをしてくれた梨沙や菊乃にとても助けられた分、赤の他人と協調して歩けるのか、自分自身でも未知数であった。

 はるの手引きに問題は感じない。梨沙や菊乃に比べれば違和感もあったが、初めて行き先を委ねるのだから、信じ切れない部分があっても仕方がない。歩くのが速すぎることもなく、拒絶的な態度を取ることもない。

 やりにくいと思うのは、はるとの間に会話がないことであった。これも互いに知っていることが何もないから、話しようがないのだが、梨花は松公とのやり取りが気になっていた。

 色を売る仕事があることをほのめかす松公はともかくとして、それをも受け入れようとするはるの背景に、暗いものを感じずにはいられない。そのことを訊いてみたい気もしたが、知ったところではるの背負うものを軽くできるわけではない。

「どのあたりですか」

 はるが初めて口を開いた。壁に突起のついている長屋のことを言うと、それらしいものが見えると彼女は言った。壁に触れてゆっくり探っていくと、程なく覚えのある感触があった。

「ここよ」

 はるの足を止め、梨花は手がかりを探して戸を開く。

「助かったわ」

「いいえ」

 はるの返答は短い。影にしか見えないからわかりにくいが、目を背けているようにも感じた。

 態度を追及する間もなく、はるは立ち去っていく。粘ついた音を背中で聞きながら戸を開き、声を上げる。応えるものはなく、早くも淀み始めた空気が出迎える。

 さのはいつまでも自分の傍にいていい人間ではない。彼女を頼る者は多く、一日でも傍にいてくれただけで思いがけないことだった。望めば来てくれるだろうが、それでは独り立ちにはならない。

 部屋へ踏み入れると視界が薄暗くなる。闇に対する恐怖心はいまだ残っているが、怖いと叫んでも落ち着かせてくれる者はなく、その必要がなくなるように生きていきたいと思う。梨花は光を求めて部屋の隅の行燈と火打ち石を探り当てる。

 何度も練習した着火は一度で成功し、ぼんやりした赤い光が灯る。その上に囲いを被せ、梨花は壁に寄りかかる。久しぶりに知らない相手と言葉を交わしたことでの気疲れであった。今日限りの関係ではなく、生きていくための仕事をする上で何度も関わる相手だ。そして菊乃のように他人を引っ張っていく類の人間ではなく、自分だけで先へ進もうとするような人間に思えた。その手を取って、突出しないようにするのは自分の役目であろう。

 それができるかと自らに問うても、快い返答はない。これまで状況や人に引っ張られてばかりであったし、時には自分から容易く縁を切って関わりをなくしてきた。勝手にすればいいという姿勢であるが、これからはそれが通らない。

 考えるほど後ろ向きな言葉が積み重なっていく。それを解決するだけの力は今はなく、梨花は腹が空き始めたのを我慢して逃げるように目を閉じた。

 眠りへと落ちる望みが叶うまで、それほど時間はかからなかった。

 

 次の日に呼び出されると、松公は舞台衣装と三味線を持って練習に行くように言った。松公の持ち物には空き家があり、そこでは芸者になる者が練習できるようになっている。練習は梨花にも覚えのあることで、瞽女から三味線を習い、それの音色を菊乃の踊りに合わせることを覚えたのもその場所であった。

 はるは今日のために下見したことがあり、場所も覚えているそうだった。はるの手を取って急ぎ足で出ていこうとすると松公に呼び止められる。今度は逃がすなよ、と脅しじみた低い声で言われる。梨沙や菊乃が出ていったのは自分に落ち度があったように思っているらしい。

「わたしのせいでは」

 こらえるつもりが飛び出してしまった言葉を、松公は聞き逃さない。言いたいことがあるなら言ってみろ、とねぶるように言葉を重ねてくる。ここで梨花は理性を働かせて黙り込む。本当に言いたいことを言ってしまったら、それをネタにどんなことをされるかわかったものではない。さすがに暴力に晒されることはないだろう。松公にとって自分たちは借金回収の道具で、働けるようでなくては困る。いたぶるとすれば心の方だ。たとえば上納金を上げるとか。自分が同じような境遇で生きてきた分、松公は非健常者たちの泣き所を心得ている。

「何だ、不満があるんじゃないのか。言いたいことがあるなら言ってみるがいい」

 目の前の女には沈黙しかないと決め込んでいる者の優越感がありありとにじむ。反撃できるほど強くないと舐めきった態度は梨花に怒りを植え付けたが、そのやり場がない。

 梨沙と菊乃さんが去ったのは自分の意思だ。誰のせいでもない、それぞれが新しい道を見つけただけだ。

 いつかそんなことを言えるようになりたいと思いながら、松公に頭を下げる。満足げな声で恩赦を告げた松公へ早々に背を向けて、梨花ははるを引っ張って外へ出た。自分の足で動けたのはそこまでで、その先ははるに先導してもらわなければならない。今日初めて知り合い、品のいい言葉遣い以外に人となりがわからない女を頼りにしなくてはならなかった。

 記憶と重ねても、かつて三味線を覚えた茅屋まではまだ遠いはずだ。その間を埋めたくなって、はるの歳を訊いた。

「十九になりました」

 歳が離れているというのが最初の印象である。ずっと一緒に暮らしてきた梨沙は同い年で、他に親しくしていた菊乃も十歳以上年上であった。それを思うと、年下の女と過ごすのは初めての経験となる。六年遅れで人生を歩んできた、娘とも言い換えられる女とどう付き合えばいいか考えあぐねていると、はるの方から話題を振ってくる。

「どうして梨花さんはここで暮らしているんですか」

 初対面の相手に興味を覚えているような声だった。親に捨てられたからだよ、と梨花はぶっきらぼうに答える。

「あなたはどうなの」

 何も説明はなかったが、松公に世話を受ける以上体のどこかに障害があって働き場所に困っているのだろう。家族はおらず、頼れる知り合いもいない。孤独のままにこの新網町まで落ちてきた。そんな想像を巡らせていた梨花は、逃げたいから、という答えが意外と同時に意味が解せなかった。

「逃げるって、借金でもあるの」

 新網町は政府も東京府民も関心を持たない陸の孤島である。反政府過激派が秘密の拠点を作っているという噂もあるぐらいで、逃亡の果てに流れ着く者も多い。後ろ暗い過去を持って暮らす者はかなり多い。

「それとは違うんです。ただ、会いたくない人がいて」

 はるの答えは要領を得ない。歯切れの悪いところから、触れられたくないところに踏み込んでいると気づいた梨花はそれで話を終わりにした。ちょうど目的地に着いたところで、自然に会話を切り上げることができた。

 菊乃に及ばない程度というはるの踊りは、確かにそのままでは人前では披露できないと思った。足取りを梨花はあぐらをかいた膝で感じ、それを菊乃のものと重ね合わせることで程度を測る。

 練習ははるが疲れを訴えたところで終わらざるを得なくなった。そればかりでなく、茅屋の中は光に乏しく、練習するには厳しい状態であった。それに足を酷使した結果踊れなくなれば罰を受けるのは自分だ。梨花は練習を切り上げ、はるの導きで帰っていく。

 松公のところに道具一式を戻し、はるに導かれて家へ戻る。松公から言われていたのか、行燈を灯そうとするはるを制した。いずれ出て行くかもしれない人に、自分の生活を委ねるわけにもいかない。

 火種が尽きるに任せ、梨花は行燈の火をつけたまま横になる。話し相手もいない日々で、仕事が終わって食事も終われば眠るしかやることはない。いつもと同じであったが、今夜だけは眠りを妨げられた。

 扉を激しく叩く音に起こされた時、火はまだ消えていなかった。まだ半時くらいしか経っていないだろう。夢から覚めるにつれて、音に対する現実的な恐怖が先に立ってくる。どうかんがえてもまともな用事ではないだろう。梨花は扉から飛び退いて壁にすがりつく。

 音に混じって女の声がする。それは自分の名を呼び、はるを名乗った。

「はる、なの。本当に」

 警戒して問い返すと、そうですよ、と返事がある。扉を断続的に叩くこともあって必死さを感じた。最初に聞いた品の良さは消え去り、なりふり構っていられない切羽詰まった事情を感じさせる。

「入れてください。匿ってほしいんです」

 梨花は躊躇した。何かから逃げているという事情に、匿うという言葉が結びつくと厄介事を持ち込むのは間違いない。無視してしまいたいが、はるは辛抱強く名前を呼んで扉を叩き続けている。近所迷惑だろうし、なりふり構わぬ態度は普通ではない。

 意を決して扉を開くと、人影が駆け込んでくる。そして扉を勢いよく閉めると、座敷へ飛び込んだ。つっかえ棒がしてあり、余程の事情があると思わせた。

「何の用なの」

 言いたいことは色々あったが、その一言で大方の事情は察することができそうだった。

 だが、はるはちょっとあって、という言葉で終わらせようとした。

「何の用なの。こんな時間に押しかけてきて、普通じゃないわ」

 梨花は声を険しくした。本心では一人にならなくて嬉しかったのだが、はるの真意を確かめておきたい。

 考えられるのは、逃げたい相手に居場所を掴まれたということだ。

 問い質すと、はるは歯切れの悪い言葉で認めた。

「一体どういう人なの、逃げたい相手って。借金でもあるの」

 昼間と同じ質問に、はるは違いますけど、と答えた。どう問い質しても歯切れの悪い言葉で逃げられそうで、梨花は責め手を失う。

「そのうち話しますから。だから少しここに置いてください。借金とか、そういう怖い人じゃないんです。ちょっと面倒な人で、梨花さんには迷惑をかける人じゃないですから。お願いします」

 座敷の上で、人影が体勢を低くした。細部がわからなくてもその形で何をしているのかわかる。

 はるは土下座していた。

 梨花は拝み倒されるように思いながらはるとの同居を認めた。そうすれば自分も助かると思ったのだが、しこりが残る。はるは誰から逃げているのか。本当に当事者間で問題が解決できるような相手なのか。疑問は残ったが、はるから答えを引き出す術が見当たらなかった。

 

 七

 

 約束の二週間が過ぎ、梨花ははると共に初舞台に臨む。やはり木賃宿で、借金によって必要ない芸者を雇う羽目になったのも、あからさまに疎ましく対応するのもこれまでと変わりない。

 もはや慣れていた梨花ははるが心配だった。品の良い言葉遣いは生家の環境の良さを物語る。他人に冷たくされたことのない環境から、いきなりがさつな空気にさらされて、動揺していたら踊れない。

 そんな危惧も杞憂に終わった。はるは冷静で、松公に持たされた舞台衣装を炊事場で身に着けている間、泣き出すようなことはなく、手際よく梨花の衣装を着せていった。

 菊乃の仕事をそのまま受け継ぐことになったはるの前口上は堂に入ったものである。菊乃が威勢の良さを売りにしていたのに対し、淑やかで上品な魅力がある。客の興味を惹くに至らないのは同じだが、こればかりは仕方がない。眠っていたいのに強引にねじ込まれた余興を聞かされるのは迷惑だろう。

 菊乃と組んでいた時と同じように、罵倒も賞賛もない舞台を終え、日銭を主人から受け取り、そのうちの何割かを上納して仕事を終える。居候となったはると一緒に家路に就こうとした時、その声は響く。

「はる、見つけたぞ」

 険しさと同時に、ようやく会えたという喜びを含んだ、若い男の声である。相手の正体を考える前に、手を引くはるは走り出していた。前触れもなく駆け出したので転びそうになったが何とかこらえ、あとは必死でついていく。以前一人で駆けた時と違ってちゃんと標があるため、足元に気をつけていれば転ぶ心配はない。

 後ろから声が追ってくるが、徐々に離れてやがて聞こえなくなった。はるは足を止め、大きな息を吐き出す。薄暗く冷えた空気からすると、茅屋と茅屋の隙間に身を潜めているようだった。

「今のは何。今度はちょっとって答はなしよ」

 息を整える間を惜しむように、梨花は掠れた声で問い質す。

「あれは、その」

 はるは相変わらず歯切れの悪い言葉しか言わない。はると男の関係は掴んでおきたい。また梨沙のように出ていってしまったら、また目の代わりを探さなくてはならない。

「さっきの男から逃げて、ここまで来たのね。いったいあの男はどういう人なの」

 梨沙の二の舞を演じそうな不安が、梨花の声を大きくする。それははるの頑なな心を開くきっかけになったようだ。許嫁だった人です、と小さな声で答えた。

「許嫁だったって、今は違うの」

 言い回しの妙に気づくと、そのはずなんです、と彼女は答えた。

「もう終わったはずの約束なんですが」

 はるの生家は士族であったが、御一新の後に没落し、慣れない商売から体を壊した両親の世話を長女として続けていた。その両親が亡くなってからは、自立した妹たちの後を追うように自分自身の身を立てようとしたがうまくいかず、いつしか仕事にあぶれて新網町へ流れ着いたのだという。

 追いかけてきた男は西崎礼助といい、許嫁の関係はお互いの家が士族であった頃に始まったという。それがはるの家の没落と同時に破談となり、はる自身も落ちぶれた自分を見られたくなかったのだが、しつこく追い続けてきたらしい。

 まさかこんなところまで追ってくるなんて、と吐き捨てたはるは疲れているようだった。

「どうやったら追い払えるんでしょう」

 独り言のような声に応える言葉を梨花は持たない。もしもあるなら、あの時に使いたかったぐらいだ。梨沙と男を引き離すことができたなら。

 選ばれなかった未来を想像すると、何故かさのの姿が思い浮かぶ。松公がもし駆け落ちさえ認めず、強引に男と引き離されていたらどうしていたか。おおかた穏やかだった態度は、もっと別の不安定なものになっていたのではないか。

 梨沙にとって、長年受けてきた庇護を捨ててまで得たかった大事なものを取り上げることは、大きな罪になっていたかも知れない。

梨花さん、聞いてますか」

 不意にはるに語りかけられ、遠くへ行ってしまった女たちの記憶が消え去る。何のことかと訊くと、恋のこととはるは言った。

梨花さんぐらいなら、一度ぐらいはあるでしょう。男の扱いぐらいわかるんじゃないかと思って」

 梨花は困惑する。はるが期待するような経験はまったくない。うまくいくはずがないと思って自分から遠ざけてきたのだが、年下の女の質問に全く答えられない現実を前に、初めて情けなさを覚えた。

 黙っていてもらちが開かず、出任せを教えるわけにもいかない。梨花は正直に未経験であることを告げた。

「近付く男もいなかったし、わたし自身も近付かなかったし」

 原因を端的に言い表すと、はるは驚きの声を上げた。

梨花さんきれいなのに。ああいう仕事してたら、興味を持つ人が一人くらいいると思うんですけど」

 予期せぬ評だった。まさか自分を、何の衒いもなくきれいだと評する者が現れるとは思ってもみなかった。気恥ずかしさから、そんなことないよ、と謙遜する。

「今日やってみてわかったと思うけど、誰も関心を持たないもの。それにこういう場所じゃ、目の見えない女を養おうなんて奇特な男もいないでしょう」

 それでは何故、耳の聞こえない梨沙や同じように目の見えなかった母は男と通じることができたのだろう。その気がなかっただけなのか。それとも他に理由があったのか。梨花は忘れようとしていた母のことを久しぶりに思い出した。

「男と通じた瞽女を離れ瞽女とかくずれ瞽女っていうけど、そういう女はだいたい男に捨てられるっていうわ。わたしの母はそれが怖かったのかもしれない。それで罰を受ける覚悟で元の環境へ戻っていったのかしらね」

 しかしもし、梨沙が同じ立場なら子供を捨てはしないと思う。松公の庇護を捨ててまで男を選んだ女なら愛情を選ぶのだろう。

 愛情。これまで決して考えず、松公の庇護を得るために避けてきた言葉が今更のように熱を持った気がした。

「そうですよね。それは分不相応ということなんですよね。礼助とわたしは、もうそうなってしまったんです。どうしてそれをわからないんでしょう。分不相応な男と女がくっついたって幸せになれるわけがないのに」

 茅屋の弱い壁が軋んだ。はるが寄りかかったのだろう。独白のようにぼんやりした声が、遠くを見つめる姿を思い描かせた。

 梨花と同じ考え方だったが、素直に認められない。分不相応な愛を選んだ女たちを知っているせいかもしれなかった。

「そんなに嫌なら、一度話し合えば。わたしの家もいつか見つかるかもしれないし」

 梨沙や菊乃の選んだ道を認めず、話し合いさえ拒んだ自分が言うのもおかしな話である。しかしもしも別れに際して話し合い、二人の方針を認めていたらどうだったろう。まさか自分の決めたことを曲げはしなかっただろうが、後味の悪い別れだけはしなかったのではないか。

 以前のようにはいかなくても、二人との縁はつながっていたかもしれない。

「話し合い、ですか」

 はるは今ひとつ捉えきれないようだった。さりとて否定的という風でもなく、新たな可能性にどう向き合えばいいかを考えあぐねているように思えた。

「そうしておけばと後悔することもありそうだから。わたしはそうだから」

 もっと梨沙や菊乃と言葉を重ね、お互いにとって良い別れの仕方を探せば、夜が来る度に怖がることもなかったように思う。

 万が一はると礼助が和解すれば、自分の元を離れてしまう。三度目を失う結果になる。それが恐ろしくないわけではない。しかし自分と同じ轍を踏んだはるが、これからもずっと傍にいたらどうか。きっと楽しくはない。まるで鏡像に責められるように苦しむ自分が脳裏に浮かんだ。

 どういう意味ですか、と訊いてくるはるに、梨花は双子の姉妹と菊乃の話をしてやった。どちらも選んだ道を認めてやれずに後味の悪い別れしかできなかった二人だ。口下手の自覚のある梨花は、どれほどの実感を持って説明できたか自信はないが、はるは感じ入ったような声を漏らした。

「わたしは松公の庇護が全てだと思ってた。でもここ最近周りで違うことを考える人が出てきて、本当は違うような気もしてる。まだわたしみたいに染まってないあなたなら、礼助と一緒に抜け出せるかもしれない」

 そして一人になった自分を思い描くが、何故か絶望的な想像にはならない。はるが話し合ってみますと言ったのに嬉しささえ覚えていた。

 

 一年の時を置いて、はるは新網町を出て行った。

 松公が色を売ることもできる貴重な女を手放すはずがないとわかっていたのか、黙って出て行こうと考えていた二人であったが、梨花は話をつけてから出て行くように言った。

 はるたちの援護をするつもりで、松公の元へ付き添っていった梨花だったが、彼は暴力を背景にした脅しをしなかった。

 ただ一言、追放と言い放っただけだ。

 それが何を意味するのか、自分の世話を受けて生きる人間ならわかるだろうと言うように、とりつく島もない様子を彼は装った。はると礼助も、わかりました、と短く応じて踵を返した。梨花はこの先何度同じことを繰り返せば、松公は学ぶのだろうと思った。

 松公の世話の外に幸せがあると確信している者たちに、彼の言葉は全く力を持たないのだ。梨沙、菊乃、はる。自分の目の代わりを務めてくれた三人の女たちはそれぞれの道を見つけ、松公の元を離れても生きていけるほど強く歩んでいった。

 梨花はもう、彼女たちが自分を裏切ったとは思わなかった。彼女たちの選択と歩みを認め、自分も彼女らの後に続く気持ちを固めていた。

 目の代わりが去るたびに感じた孤独も三度目になるが、自分自身がそれを探しに行けばいつか見つかるはずだ。

 梨花は壁を頼りに泥深い道を歩いていた。新網町の南側のほとんどは東京湾と接しているから、南を目指せばいずれ突き当たるはずだ

たどり着いた浜辺に梨沙がいるとは限らない。妹と待ち合わせる日時や場所を決めたわけではないし、決めてあったとしても目の不自由な自分では目印が見つけられない。会えなければ何度でも浜辺を歩き、互いを探すことになっていた。

途中で何度も、突然壁が途切れたから恐慌に陥りそうになった。左右へ壁を探してそちらを頼りにしようと思った。一人で長い距離を歩き続けるのは苦しく、ふとしたきっかけで動けなくなりそうになる。

 道中何度も不安へ転びそうになるたびに、梨沙と会えずじまいではお互い残念な気持ちだけが残り、一生涯の後悔になりそうだと思い直した。以前一人で海を目指した時、さのに叩かれた背中が急に痛みを思い出す。少なくともあの時、さのは自分を信じていた。かつての自分はさのの信頼を裏切った。二度目は嫌だった。

何度もささくれがささるのをこらえてひたすら前へ歩き続ける。何度か人とすれ違った時に前へ転ばされたが、少し休んでから歩き出す。歩くことしか考えずにいるとそれ以外のことに関心が向かなくなる。梨沙のことはいつしか頭から消えていた。

 やがて酸味の利いた臭いに別の香りが混ざり始めた。初めは正体が全くわからなかったが、徐々に聞き慣れぬ音が届き出すと、話に聞いたことのある潮の香りだろうと思った。規則正しく引いたり寄ったりするような音は波音なのだろう。海が近いのだ。

 香りや音が歩くごとに強く感じられる。目では見えなくてもはっきり海を感じ取れる。近づけば近づいただけ強く感覚に訴えかけてくる。素直な反応をする友人のように思え、梨花の胸は高鳴った。

 海へたどり着くことばかりが頭を占めて歩き続けるうちに、泥深い道を踏み続けた足の裏が、明らかに違う感触を覚えた。足が流れやすく、歩くのに一層の力のいる地面であった。踏みしめつづけた道は乾いた砂地に変わっていた。

「着いた……」

 呟きは呆然としたものだった。少し前へ歩くと杖が水を叩き足が濡れた。その場に佇んでいると規則正しく足が濡らされる。茶色や黒といった暗色が主だった視界はいつの間にか青を中心とした鮮やかな色に占められていた。ぼやけてはいたが、日当たりが悪く水はけの悪い土地にいる内は見られなかった色模様であった。

 不意に膝が抜けて梨花は背中から砂の上へ倒れた。するといくつかの色が合わさってできていた景色が青一色になった。視界のどこにも余計な色は混ざらない。

 自身を省みると、膝だけでなく体中が震えていた。もうどんな形で自分の体を動けなくしてもいいと思った。帰り着いて初めて一人歩きをした甲斐があったというものだが、今は体の震えが収まるのを待ちたい気分だった。

 心許ない視界であることを忘れるような青一色の視界は何の動きも見せない。初めて見ることでの新鮮さも徐々に薄れてきた時、視界の端に影が差し込んだ。

 りっちゃん、と懐かしい声が呼んだ。

 傍に座り込む気配を感じ、梨花は声を上げた。

「音が聞こえるよ。行ったり来たりして、砂を削り取ってくみたいに荒々しい音。それに海鳥の鳴き声が聞こえる。甲高くて、波の音に負けないぐらいはっきり聞こえて。何だか仲間と話をしてるみたい」

 聞こえた音を知る限りの言葉で声に出すと、応じる声があった。

「空よりも、ずっと、青くて、藍色かな。その上で、光が、きらきら、してる。空に、雲一つない。海と、空、しかない」

 梨花は体を起こし、ぼんやりした視界で色を捉えた。梨沙が言った通りの彩りが見える。

「そういう風に見えるのね」

「そういう、風に、聞こえるの」

 梨沙が顔を目の前に近づけてきた。その顔が笑ったような気がした。目でははっきり見えないが、そういう気配があったし、何かに感動した時自分より素直に笑えることを知っているから、笑顔を確信した。

 梨花は笑い返した。久しぶりに補い合った互いの感覚に、二人は笑い合った。

 

2012年9月作品