yuzaのブログ

幕末から明治を舞台にした小説を中心に載せています。

雪上遇別

 一

 

 午後になって学舎の周りの立木に藁を巻いていると、元々心配だった空模様が一層暗くなった。同じ班になった級友たちと天気について囁き合っている間は保ってくれたが、いざ下校しようという時になって白いものがちらついた。

「意地悪め」

 勝子はそう毒づいて足元の小石を空に向けて投げつけた。冷え切った石が手を離れた瞬間軽率さを後悔したが、幸い誰もいない校庭に落ちた。

 今朝方城下の家を出る時の清々しさは見る影もない空へ一睨みくれてやると、勝子はいつも登下校を共にする邦子と連れ立って、足早に徳川幕府の時代には藩校だった学舎を後にする。誰もが初雪はもっと先だと考えていたから、雪沓や簑を用意してきた者は皆無で、いつもの冬なら雪の備えに奔走する人足たちの仕事ぶりが楽しみな勝子も、備えがなくて心許ない今は雪を楽しむ余裕はなかった。

「風が心配ね。壊れないかしら」

 小学校の狭い庭を出ると、邦子は足を止めて振り向いた。かつて藩校だった学舎はペリーが浦賀に来航した年に竣工したそうで三十年以上が経っている。建物が過ごす年月としては少し長いといった程度なのだろうが、新潟県はかつて「山の後方」を意味する越後国といい、氷に閉ざされた僻地だった。古代や中世には流刑地でもあったという土地柄である。苦労を重ねた人間が心身をすり減らすように、建物も冬の豪雪や強風に傷んでいるはずだ。

「初雪が早いからといって、本格的な雪まで時期が早まるわけじゃないわ。風だってほとんどないし、一度雪が降ったら明日から雪囲をするでしょう」

 細やかな気配りができる分心配事を抱えやすい邦子を勇気づけるように、勝子は努めて強気に言った。確信を込めた声に心配が和らいだのか、微笑んで頷いた邦子は止まっていた足を再び歩ませた。

 小学校と城下町を結ぶ道は下校する子供たちで一頻り賑やかだったが、笑いながら走り去っていく子供たちが通り過ぎた後に歩くと、森に挟まれた道は冷え込みもあってやけに身の引き締まる思いがする。深い森の奥に何かが潜んでいるような気がするのはいつものことで、今日は薄暗さが不安に拍車を掛けていた。

「もっと早く出たらよかった」

 邦子はさり気なく体を寄せてきた。不用意に出かけた時運悪く大雪に見舞われ、そのまま凍え死ぬという話が珍しくない土地で生きていると、身内にそのような不幸に遭った者がいなくても、暗がりが冷たいというだけで怖くなる。邦子はその点人一倍恐がりで、うなじに雪の粒が落ちただけでも驚いて声を上げるということがあった。

 とりあえず景気づけに足元の小石でも森の奥に向かって投げつけてやろうと身を屈めた勝子は、ぽつねんと佇む地蔵に藁が巻かれているのに気がついた。

 自分たちの小学校でも空模様が急変したのをきっかけに急遽立木を雪から守るために藁を巻く作業が行われたが、雪との付き合いが長い分人足たちも身軽らしい。この分なら明日には城下町の地蔵や祠はもちろん、樹木や石灯籠に至るまで藁が巻かれることだろう。

「そんなに怖いなら手を叩いていきましょうよ」

 藁の冬着をまとった地蔵は仏像めいた柔和な顔で自分たちを見ていた。自分や友の波立った不安を紛らわすためとはいえ、乱暴な方法を容易く選ぶことの軽率さを、その静かな視線で諫められたような気がした。

勝子は石に伸ばしかけた手を左手に合わせ、しゃがみ込んで柏手を打った。

 それに邦子も倣う。地蔵の頭はうっすらと白くなっていて、二つの音が重なって森の奥へ消えた。

 

 かつての城下町に着いて間もなく、邦子は別れを告げてこけら屋根の家へと歩いていった。彼女の家は北川といって下級武士の家系である。明治九年に達成された秩禄処分によって禄を失った士族の多くは困窮したが、昔から収入の少なかった北川家では手内職として樺細工を続けてきていて、秩禄処分を転機と捉えた彼らは副業を生業にする決断をした。 

北川家の樺細工は勝子の家にもあって、独特の光沢を放つ品を父は気に入っている。北川家の作る樺細工はなかなかの評判を収めていて、士族が新たに始めて失敗する商売を士族の商法と揶揄する風潮がある中で、邦子の家は成功していた。

 戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の一員として一度は新政府軍に立ち向かった割に、城下町は整っていた。街が発展する時中心にあった城は石垣だけが残っている。新政府は明治五年、各地に残された二百近い城の処遇を決めた。政府が軍のために使えると判断したり払い下げに応じる者が現れたりした城は今でも残るが、多くは取り壊された。それを除けば、かつての城下町は戊辰戦争以前と変わらない様子を保っている。

 戊辰戦争も御一新も自分が生まれる前の出来事だが、女子供が籠城戦をするまで追い込まれた会津藩と比べて、実につつがなく明治を迎えたような気がする。小学校の行き帰りで街を行き交うたびに思うことが、今日は何故か胸を締め付ける痛みを伴った。

「カチ坊、寒くなかった」

 道に雪が薄く積もり、静けさを増した空気を声が破った。

 少し離れた道の先に義姉の紘子が立っている。人気がないとはいえ往来で名を呼ばれた気恥ずかしさを覚えながら近づき、簑と笠を持ってきてくれた彼女に、勝子は笑いかけた。

「心配することなかったのに、これぐらいの雪で」

 小学校を出た時に比べて雪の量は増えていたが、視界が充分確保できるなら降ったうちにも入らない。勝子は平気さを装うように足元の雪を蹴った。

「そんな振る舞いは似合わないわ」

 紘子は瓜実顔に困惑気味な表情を浮かべて咎めた。八歳年上の義姉は初潮を迎えたばかりの自分から見ても美しくて、本来なら他に面倒を見なければならない子供がいるはずだった。

「わたしは紘子姉さんとは違うもの」

 端麗な容姿という、努力ではどうにもならないものを前にして反発したくなった勝子はそう嘯いて、でもありがとう、と付け足した。

「ちょっと帰るのが遅かったら危なかったかもしれないし」

 そう言いながら勝子は簑と笠を身に着けていく。年齢を差し引いても、紘子とは容姿の面では勝負にならないだろう。自分の髪が醜く縮れているから真っ直ぐ伸びた黒髪も羨ましい。口さがない男子などは「鬼のカチ坊」などと呼んでいる。悪口に黙っているほど勝子は臆病ではなかったが、髪を結わえる苦労も知らない男子に縮れ毛をはやし立てられて平気でいられるほど、勝子はがさつではなかった。

 紘子と並んでいると、見目の面で自分がひどく劣っているような気分になるが、自分のために寒い中を駆けつけてくれた優しさに素直な気持ちで甘えると、劣等感や妬みが消える。髪のことをからかわれるようになってから紘子と並ぶのが嫌になった時期もあるが、そんな時でも彼女は突然の雪に構わず迎えに来てくれた。そんな人の優しさを、誠ではないと斜に構えて受け止めるわけにはいかなかった。

「紘子姉さんは大丈夫なの」

 こぎん刺しを身に着けた紘子が持ってきた簑と笠は一人分だった。

「これぐらいなら平気よ。一度は結婚までしようとした大人ですもの」

 紘子は明るかった。軽い言葉に自嘲のつもりは感じられなかったが、紘子が結婚という言葉を口にすると勝子は哀れなような、申し訳ないような気持ちになる。

「紘子姉さんは、兄さんのこともう忘れたの」

 結婚までしようとした大人の女が何を考えているのか知りたくなって、紘子の反発を覚悟して訊いてみた。

 紘子は控え目で落ち着いた態度を崩さなかった。

「忘れはしないわ。でもどうしようもないでしょう。だから諦めているの。わたしが今青柳の家にいられるのは、平一郎さんを諦めることが必要だから」

 紘子の結婚相手は実兄の平一郎であったが、二年前式を挙げる段になって忽然と姿を消したのだ。兄が何を考えていたのか知る由はないが、何やら兄の周りが忙しくなったと感じ始めた頃、父と言い争うことが増えたと思う。父も兄も怒ったところを見たことがなく、それだけに二人の剣幕が恐ろしく、何か別の生きものを見るようだった。

 兄との結婚のため、既に実家を出ていた紘子は、破談になったからといって実家に帰るわけにはいかなかった。平一郎の不始末でもあったから、責任を取るような形で両親は別の縁談が見つかるまで紘子を娘として家に入れることを決め、彼女は勝子の血のつながらない姉となった。

 この二年間、紘子は兄を責める言葉を漏らしたことはない。怒りや憎しみを内に秘めて我慢しているようにも見えない。仮にあるとすれば、諦めという受け入れやすい形に変えて向き合い続けているのだろう。紘子や母がしたように、異性を愛することがどういうことかわからない勝子に細かな部分は想像できないが、兄のことで悩んでいる様子は見えなかった。

「カチ坊はどうかしら。平一郎さんが帰ってきたらどうするの」

 水を向けられて勝子は言葉に詰まった。

 何も告げずに突然出ていったことに怒りはあったが、二年経ってそれはかなり収まった。今あるのは、カチ坊などという男児のような呼び名をつけて家中に広めた茶目っ気のある兄への思慕であった。

「どこ行ってたのって怒ってやりたいわ」

 それでも兄の所業を許すこととは別の問題だった。異性へ愛を向けた経験がないとはいえ、式の当日に捨てられた紘子が、傍目には平静を装っていても深く傷付いたことは想像がついた。

「紘子姉さんは兄さんのこと怒ったりしてないの」

 もしも頷いたらそれは嘘だろう。それでは愛情も何もない結婚をしようとしていたことになる。

 勝子は本人たちの気持ちより優先される事情があることを知っていて、理解も及ぶ年齢だったが、そのような常識を凌駕する人間の感情も信じていた。

 紘子は微笑んだ。

「色々思うことはあるわ。だから諦めて、死んだって思うことにしたの。それを知ったら平一郎さんはすごく辛くならないかしら」

 表情自体はいつもと同じ優しいものなのに、言葉はひどく冷酷だった。

 しかしいたぶってやろうと思っているのではないのだろう。紘子の微笑みは悪戯っぽく見えて、それ面白いわ、と勝子が言うと、そうでしょ、と紘子は笑って同意した。

「できれば平一郎さんが帰ってくる前に縁談をまとめたいところだわ。そうしてあの人が帰ってきたら、見せつけてやって後悔させてやるのよ。それってすごく面白いわ」

 儚げで、ともすれば雪に紛れて消えてしまいそうな命を包んだ紘子の笑みが、この時ばかりはおかしいほど強かに見えて、勝子は声を上げて笑った。

 

 城下の外れにある家に戻ると、奉公人たちが板塀の外で忙しく動き回っていた。そろそろ七十に手が届く下男頭の爺や女中たちも、それぞれ身の丈にあった筵を持って庭木や石灯籠などに巻き付けていく。これから雪を本格的に迎え撃つ作業に年寄りほど張り切って見えたが、開きっぱなしの門の向こうで目が合った爺は表情を緩めて出迎えた。

「お帰りなさいませ。冷えたでしょう」

 雪の降り方は穏やかで、時代をまたぐほど長く生きた爺にとって慌てるほどの降り方ではなかったらしい。

 だから言ったでしょ、と言うように勝子は紘子を見遣る。彼女は素知らぬ顔をして、これから頑張らないといけませんね、と爺に言った。

「この国の雪は滅茶苦茶に降りますから。お疲れでしょう、お嬢様方はお休みくだされ」

 老いた見た目に相応しいしわがれ声を出し、爺は作業に戻っていった。若い奉公人たちを張りのある大声で動かし、自分も忙しく動き回る。寒さもあってともすれば体が心配になるほどだったが、子供の時分から奉公人として生きてきた老人の生き甲斐の一つでもあるだろう。勝子と紘子は顔を見合わせて困惑気味に笑って家に戻った。

 勝子の家は青柳といい、藩政期には家老を務めていた家柄である。父の津右衛門は祖父の死によって七歳で家督を相続し、長じてから改めて家老としての仕事に就いたが、ちょうどその頃は幕末の動乱期で、戊辰戦争になだれ込む激動の時代でもあった。

 父をはじめとする藩の首脳は鳥羽伏見の戦いで幕府軍が大きく後れを取ったことは理解していたのか、新政府軍の猛攻に立ち向かうことはしなかった。城下町が焼かれずに済んだのはそのお陰もあるのだろうが、女子供まで動員して立ち向かった藩の行く末を、父は複雑な思いで見ていたようだ。降伏後は明治二年五月に中央政府が樹立されるまで占領下にあった白河に捕らえられ、釈放後父は家老ではなくなっていた。

 早く降伏したお陰で武家屋敷は残ったものの、生活の保障を失った父は屋敷の一部を潰して跡地に桑畑を作って養蚕農家を相手に桑を売り始めた。若くして家老という大役に就き、挙げ句の果てに主君が激動を経験した父は疲れていたはずだが、勝子には農夫として新たに行く人生を楽しんでいるようにも見えた。

 一部を潰して畑にしたとはいえ、庇の深い藁葺屋根を持つ武家屋敷は元々かなりの広さを誇っていた。屋敷は石の築地に取り囲まれ、その上には低い板塀までついている。門は頑丈な鉄の蝶番で支えられ、両側に細長い格子窓がついている。夜に訪れた客の身元を確かめるための小窓で、その役目は屋敷の中で最も年を重ねた、生き字引とも言える爺が努めていた。

 門から玄関まで、勝子は凹凸の多い飛石と飛び伝っていった。石と石の間には草丈の低い釦のような形の丸い花がいくつか咲いている。奉公人の一人が種をもらい、珍しがって植えたのだが、彼を含めて花の名を知る者はいない。わかっているのは、人に踏まれやすい場所に咲いているにもかかわらず、丈夫で雑草じみた生命力を発揮することだ。

「異人の国は花まで頑丈なのですかな」

 日本の雪にもめげずに庭のあちらこちらに広がった花を見て、爺が嘆息したことがある。戊辰戦争奥羽越列藩同盟が曲がりなりにも戦うことができたのは外国の力添えがあったからだが、それを打ち負かしたのもまた外国の力である。経済はもとより土という国の根幹まで容易く踏み込まれたようで、爺はぞっとしないのかもしれなかった。

 勝子は荷物を玄関先で紘子に託すと再び外へ飛び出していった。門の近くで声を上げていた爺に仕事がないか訊くと、少し迷ってから女たちが藁を巻くのを手伝うよう頼んだ。本当は男の奉公人たちがやるような屋根に上っての仕事をしたいところだが、爺を困らせたいわけではない。勝子は素直に応じて女中たちのもとへ駆け寄った。

 勝子が藁を運んだのは下校からの二時間程度で、そうこうしているうちに辺りは暗くなり、雪はすっかりやんでいた。

 家族で夕餉を済ませ、大人たちが心配したほどのことはなさそうだと思いながら勝子は床に就いたが、朝起きてみると足首ぐらいの深さまで雪が積もっていたのに驚かされた。

 出かける時に雪は止んでいたが、いつ降り出してもおかしくない空模様だった。小学校に行くことを苦にしない勝子だが、今日は気が進まない。小学校に入ってからはき続けた雪沓をこの冬に新調してもらう約束だったが、その準備がまだ間に合っていない。仕方なく勝子は履き古した雪沓で学校へ向かった。

 雪は日中降りしきって夕方にはやんだ。朝に比べて歩きにくくなった道を紘子が迎えに来てくれて、一緒に家路に就いた。

 家に着いてからしばらくして再び雪がちらついてきた。暇を持て余して奉公人たちが夜なべ仕事をする部屋へ向かった。冬の夜長などはそこへ行くと、手の空いた小間使いたちがお喋りに付き合ってくれていい暇つぶしになるのだ。

 広い屋敷には曲がりくねった廊下がある。そこを通って夜なべ仕事をしている部屋へ向かうと、屋根から雪が落ちる音が聞こえた。

 それに交じって人の声が聞こえる。特徴的なしわがれ声で、爺のものに間違いはなかった。

「こんなに積もっていては明け方までに家が潰れてしまうだろうて」

 何やら不満らしき声に、爺はそう応じているのだった。

「もうお寺の夜のおつとめの頃です」

 別の声が言った時、近くの寺から緩やかな鐘の音が聞こえてきた。それでも爺は手を動かせと言って退かず、人足たちも不承不承従った。

 爺はきっと、これから雪が降ると読んでいるのだろうと勝子は思った。雪は油断すると手に負えないほど積もってしまい、毎日処理しないと家が潰れかねない。この雪国で、当主とは違った形で家を守り続けた老人の判断なら信じられる。

 奉公人たちが夜なべ仕事をする部屋は広く、台所の仕事は全て行えるようになっている。半分は板敷きになっていてそこここに筵が敷いてあり、奉公人たちはその上で各々の仕事をしていた。

 すすけた高い梁からは自在が下がっていて、炊事用の器がいくつも吊るされている。炉の煙は天井の煙出しから出ていって、その上には雨よけの小さな屋根がついていた。

 家族が過ごす居間は、父が物静かな人柄のせいか家族の笑い声は密やかだったが、台所は逆に笑い声でうるさいほどだった。それに混じって石臼を回す音や糸車を回す音が聞こえ、仕事場特有のざわめきに満ちていた。

「カチ坊さまのおいで」

 自分に気づいておどけた声を上げたのは女中の多喜だった。紘子より更に十歳ほど年上で子供もいるそうだが、まだ人生はこれからとばかりにきらめく瞳を持っている。

 多喜はこちらが何か言う前に座布団を勧め、糸車の前に座らせた。内より外にいることを好む勝子だが、糸車を回すことだけは別で、柔らかい糸の感触が指の先の篠から紡がれていく感触が好きだった。

 もっとも、好きというだけで上手いわけではない。まして糸車を回すことなら奉公人の誰にも負けないと思われるほどの多喜の足元にも及ばない。彼女の、まだ滑らかさを保っている手の導きによってようやく形になるというぐらいであった。

 勝子にとっては遊びのようなもので、多喜をはじめとする奉公人たちは子供の遊びに付き合ってくれていることになる。それが申し訳なく思えた時期もあって足が遠のいたこともあるが、彼女たちにしてみれば自分がいるだけで仕事が楽しくなるものらしい。どういう理屈かわからないが、望まれていることが心強く、勝子は元通り台所に来るようになった。

 糸車の仕事を終える頃、いつの間にか爺が外から戻ってきていた。女ばかりの部屋に一人あぐらをかく爺は職人めいた渋みを放ってかなり目立つ。何やら縄を綯っているようだが、少し近づくと正体がわかった。

「爺様、お客様がおいでですよ」

 多喜が声をかけると爺は集中のみなぎった顔を上げて一礼した。それからまたしばらく縄を綯い続け、手を止めて笑いながら紐の先にぶら下げた雪沓をかかげた。

「カチ坊さま、遅くなりまして」

 それは今年新しく作ってくれる約束だった雪沓だった。藁の香りを漂わす雪沓を受け取りながら勝子は礼を言った。

「明日には道が雪で埋まっているでしょう。雪沓がなければ歩けないでしょうな」

 果たして爺が言った通り道は雪に埋もれ、雪沓なしでは歩けないほどだった。そして爺をはじめとする奉公人たちが頑張ったおかげで屋根に積もった雪は少なく、潰れずに済んだ。

 この日から堰を切ったように雪が降りしきるようになり、道どころか街全体を雪が埋め尽くす厳冬が始まった。

 

 二

 

 穢れから守るためとはいえ、目張りされた仏壇を見るのは胸苦しいものである。目張りする前に家族と奉公人全員で礼をして、女中の手で目張りした後謝罪の意味が強い祈りを捧げた。

「旦那様、こちらが牛肉を煮込んだものでございます」

 そう言ったのは四人分の牛鍋を運ぶ女中たちについてきた爺である。青柳家の生き字引も牛肉を食べたことはないと見えて、鍋に興味深げな視線がわずかに流れている。

「ご苦労」

 父の津右衛門は厳粛な面持ちで鍋を見つめていた。

「では取り分けてくれ」

 厳かな言葉に応じて爺が小皿に牛肉の煮込み料理を四人分取り分けていく。肉を引き上げるたびに炭の臭いが染みついた居間に未知の香りが広がっていく。ほのかな甘みのある嗅ぎ慣れない香りが心地よい。

 場を仕切る津右衛門が黙っている間は母も義姉も口を利けず、重苦しい空気が垂れ込める。夕餉の時はいつも仏壇を開け放ち、小さいお膳に乗せてお供えし、ご先祖と一緒に家族と笑い合って食べるのが慣わしだったから、ご先祖を交えずに食事をするのは異例なことだ。ご先祖の怒りを買いそうな気がして怖くなってくる。

 落ち着かなくなって爺の手つきや表情をなくした父の顔を見ているうちに、四人分の牛肉が取り分けられた。爺が居間を後にして四人だけが残される。

「慣れないことをするので辛いかもしれないが、せめて一口は食べてくれ。我が家、そしてこの国はこれから異人たちと渡り合わなければならない。そのためには異人の生活を知る必要があるのだからな」

 父が宣言した後、家族で手を合わせて牛肉に箸をつける。茶色の肉を見た瞬間、これが屍であることを思い出す。だからこそ仏壇を目張りして、穢れに注意を払った食卓になったのだ。肉食がこれまで避けられたのは穢れが大きな理由で、死んだ牛馬を処理するのもごく卑しい身分の人に限られたほどだ。幕政期には家老まで務めた青柳家が牛肉を屋敷に入れるなど、御一新の前なら有り得なかった。

 思い切って勝子は薄い肉を噛んだ。魚の肉とは違って弾力があり、何度目かでようやく噛み切ることができた。その間顎を動かすごとに肉から旨みのある汁がにじみ出て、面白い噛み応えよりも汁の味の方が印象に残った。

 一緒に煮込まれた野菜も食べていくが、肉の味にはかなわないと思う。肉を全部食べたのは勝子と津右衛門で、紘子と母の伊代はわずかに縁を噛み切っただけで、あとは野菜を食べるに留まった。

「わたしはもう結構です」

 青ざめた顔の伊代が津右衛門に言うと紘子も同調した。父の言うことに逆らうのが難しかったのかもしれない。

 父は頷き、部屋の外に待っていた爺を呼んだ。腰は曲がっても健脚の爺は素早く皿をまとめて盆に載せて持ち去った。

 父の号令で重苦しい夕餉は終わる。勝子は紘子と共に居間を出ると、二人で顔を見合わせて思い切り肩の力を抜いた。

 

 台所では紘子と伊代が残した牛肉について奉公人たちが議論を交わしていた。小皿の中にある牛肉を物珍しげに見つめながら、牛の屍という見方も捨てきれないような、誰もが穢れを忌むような目をしていた。

「わたしと父上は食べたのよ。何ともないんだから誰か食べたらいいのに」

 大人たちの煮え切らない態度に業を煮やして勝子は声を上げた。それでもお互いに顔を見合わせるだけで、何かを囁き合うだけだった。

「食べないんだったらわたしがもらうわ」

 勝子が宣言すると皆はいくらか安心したようだった。牛の屍だと思わなければ穢れは感じないし、途中で思い出したとしても美味さがそれを忘れさせる。危険な魅力かもしれなかったが、自分が親や学校から授かってきた教えはその程度で薄れるものではない。

 爺から箸をもらって肉をかじる。それを奉公人たちが取り囲んで見つめていた。自分がまるで巫女か何かになった気分でむずがゆい。

 冷めたせいか食感は固くなり、居間で食べた時ほどの美味さは感じなかったが、不味いとも思わない。どうでしょうか、と奉公人の一人が訊いた。美味いとも不味いともいえないのが正直な感想だが、うかつなことを言ったら皆に異人への妙な誤解を抱かせることにもなりかねない。父は単なる道楽で牛肉を家族に振る舞ったわけではない。

 そう思うと残り物に手を出したことが軽率に思えてくる。嘘をつくのは心苦しいが、父の手前仕方がない。勝子は精一杯の笑顔を作ってとっても美味しい、と大げさに言った。

「別に毒じゃないわ。機会があったらどんどん食べてみたらいいわ」

 紘子は今ひとつ信じられないような目をしていたが、カチ坊様がそう言うなら、と奉公人たちは信じてくれたようだった。

 小皿の片付けを女中に任せている間多喜とお茶を飲み、一頻り語らってから勝子と紘子は部屋を出た。

 その頃には良い具合に眠くなっていて、雪明かりの差す冷たい廊下を足早に歩く。ざわめいていた台所にいた間は気づかなかった風の音に加え、固い雪の粒が壁に当たる音も聞こえた。明日も大変ね、と紘子は言った。その言葉はそれぞれの用事で出かけなければならない人々よりも、その人たちのために未明から動かなければならない人足たちに向けられて聞こえた。

「ますます積もるわね」

 勝子の声に紘子は頷いた。厳冬期の雪国では、夜通し降り続いた雪が軒の高さまで降り積もることは珍しくなく、人足たちが外へ出なければならない人々のために立ち向かうのは雪の壁である。木鋤を持って雪を掘って雪洞を作ったり、雪に階段をつけて雪の頂を歩けるようにしたりするのだ。掘り進んだ時に出る邪魔な雪を捨てることも考えなければならない。

「爺たちへの感謝を忘れたらいけないわ」

 勝子にとって雪の頂は格好の遊び場である。しかし雪の階段は頂に登って遊ぶためにあるのではなく、本来は川へ雪を捨てに行く道なのだ。兄がいた頃は雪の備えをしていく街の様子を楽しんで見ていたが、雪と戦う大人たちの苦労を見ているうちに無邪気な気持ちは薄れた。

「こんな調子でも異人は来るのかしら」

 勝子は首を傾げるだけだった。これまで聞いた異人の評判というと、商売熱心な上日本人よりも強かに交渉を進めるという逞しいもので、その評判通りなら豪雪ぐらいものともせずにやってくるだろう。

 仏壇を目張りして、いつもの夕餉の雰囲気を変えてまで牛肉を振る舞った父は、異人のそういう強さにあやかりたかったのだ。

「できれば来てほしくないわ」

 紘子は白い顔でためらいがちに呟いた。理由は訊かない。紘子の気持ちもわかるからだ。

 御一新の後、屋敷の一部を潰して作った桑畑に異人が興味を持っていると、隣村出身の仲買人が知らせてきたのは夏の終わり頃のことだ。異人を相手にする仲買人は、近隣の村落から蚕の種紙を買い歩く商売をしており、その途中に養蚕に欠かせない桑の葉を提供する父を知って興味を持ったようだ。

 その仲買人は秋口から屋敷に姿を見せるようになり、この冬の間に異人を紹介することを約束していた。その時勝子は仲買人の姿を見たが、やたらとぎらついた目をしていたのを覚えている。

「これからの時代、異人と渡り合うぐらいでないと何でもやっていけませんよ」

 父をそう言って誘う時、目の光が一層強くなって見えた。それは仲買人の信念であったのだろうが、金銭の管理を相変わらず爺に任せて自分は農夫として過ごす父が巻き込まれる謂われはないはずだ。結局のところ仲買人にあったのは、商売相手の異人に対する対抗心だったのだろう。

「ずっと今の調子で生きていってはいけないかしら」

 二人で使っている寝室に入り、布団を敷いて床に就くとすぐに紘子の方から口を開いた。

 紘子は異人が生活に関わってくることで、この雪国での暮らしが変わってしまうことを恐れているのだろう。いずれ両親が見つけてくる縁談に従って結婚して家庭を築く。紘子が許せる変化といえばそれぐらいらしい。

 紘子が牛肉を食べなかったのも、異人の強さや逞しさにあやかろうとした父へのささやかな反発であるらしかった。多喜と茶を飲んでいる時に、異人のように強く逞しくなろうとは思わないと本音がこぼれた。

 これがせめて、日本人同士の商売なら紘子も別の考え方をしただろう。もう御一新から二十年近くが経っているのに、未だに武士の家で受けた教育を大事にして金銭に関わりを持とうとしない父は頑固者と言える。異人を相手にした商売でなければ、その頑なさを和らげるための転機なのだと考えてもいいはずだ。

「そんなことはないと思うけど」

 紘子の不安はよく伝わってくるが、それを和らげてやる言葉を持たない勝子は、うかつな言葉で義姉を一層迷わせるのが怖かった。

 勝子は紘子ほど異人を怖いとは思っていない。生まれた場所が違うというだけで、人間という括りなら同じ生きものだろう。この土地の雪を見て感じることは違うかもしれないが、触れてみて冷たさを覚えるのは同じはずだ。それだけがわかれば、勝子は同じ人間として彼らに接することができる気がした。

「誰と結婚しても、ここから出ていくことはないと思う。冬になれば雪と戦って、夏の間は雪に備えて。そういう暮らしを続けたいわ。カチ坊に言っても仕方がないけれど」

 自分の幸せは血のつながらない両親の見つけてくる縁談の成功にのみあると思っているような口ぶりだった。それは全く正しい考え方で、紘子の背中を見ていると数年後の自分が思い描ける。紘子が片付いたら両親は自分の結婚に関心を移すのだろう。

 ただ、願わくはこの雪国から自分を連れ出してくれるような人であればと勝子は思う。父は藩政期家老という役目があり、現在でも治めるのに関わった土地に特別な思い入れがある。だからこそ同じ家で生き続ける。そんな父を尊敬しながらも、自分と深く関わる他人は父と反対の生き方をしてほしいと勝子は思う。

 ちょうど兄のように、父と言い争ってまで出ていくような勢いを持った人が現れてほしい。何を思って式の当日に出ていってしまったのか、どこで何をしているかもわからない人の心の内を、勝子は急に覗きたくなった。

 平一郎兄さんならどうしたかしら。そんな言葉が喉から出かかったが、紘子を困らせることになりそうで口を噤む。

 話すことがなくなって自然とお喋りはお開きになる。目を閉じてしばらくの間は風と雪の粒が壁を叩く音が気になったが、布団の温もりでそれもすぐに気にならなくなって眠りに落ちた。

 

 異人は雪がやんだ冬日和を選んで訪ねてきた。家の屋根を残して街は雪に埋まってしまったので若い奉公人が迎えに行った。

 異人がどんなものか見てやろうと思った勝子は、その男の黒くない髪や瞳よりも、彼についてくる少女に驚かされた。自分と同じくらいと見える年頃の彼女は金色の縮れ毛をしている。縮れ毛は女の容姿を貶めると考えられているものだが、彼女は特に髪型を恥じらう様子は見せない。縮れ毛を複雑な形に編んでいた。

 代わりに周りを落ち着きなく見回して廊下を歩いていった。物珍しさではなく、周りから何かが飛び出してこないかと警戒しているようで、雪山で狩人の警戒をする小動物のようだった。

 途中で目が合っても、会釈の代わりに目を逸らして立ち去ってしまう。前を歩く男の異人は堂々としているのに、子供とはいえ対照的な姿を見ると、これまで周りで語られてきた異人の姿は何だったのだろうと思うようになった。

 その日は短い時間、客間で話をしただけだった。二人が辞した後父に訊くと、しばらく城下町で宿を取るということだった。

「一体何を話していたのかしら」

 異人が訪ねてきた翌日は休みで、紘子の方から話をしようと声をかけてきた。陰気な性格ではないが女の割に口数が少ない義姉が話しかけるのは珍しく、話題も予測のつくものだった。

 人足たちが川へ雪に捨てに行くために作った雪の階段を上りきると白い平野が広がる。足跡がいくつも川の方に向かってついており、自分が休んでいる間も人足たちは雪と一生懸命戦っていたことがわかる。当たり前の風景で、今更感慨深さを覚えることはないものの、異人たちはどう感じるのかと思うと、縮れ毛の少女が何となく気になった。

 冷たい平野の遠くで小さな人影が見える。雪を背負ったように重たげな動きに加え、ふざけ合うようなふらふらした足取りも見える。雪と付き合うことは戦いだが、そればかりでは疲れ果ててしまう。戦いの最中に遊びを交えることができてはじめて、雪国で生きることができるのだった。

「商売の話でしょう。別に趣味が合うとも思えないし」

 言いながら勝子は、商売とはいえ異人と日本人の父がある程度親しくなっておく必要を感じていた。農作業も仕事の分担が大事で、同じことが金銭を扱う仕事にも言えるはずだった。

 そんな二人が親しくなるためにどんな接点が必要だろうか。父は書を嗜むが、それ以外にも家老を辞した後は時々東京へ出かけて新しいものを見聞きしてきた。父がため込んだもののどれかが、名前も想像つかない異人の興味を惹けばいいと思った。

「紘子姉さんは、お父様の決めたことに反対なの」

 思い切って訊くと、紘子はわずかにたじろいだ。切れ長の瞳に微かな猜疑が宿り、それが横へ流れる。

「そんなこと訊かれても困るわ」

 ややあって紘子が選んだのは言葉を濁すことだった。白い平野に人の姿はなく、階段からは遠く離れていて、仮に父が現れたとしても話題を聞くことはないのに、紘子は慎重だった。

 心のどこかで、父の機嫌を損ねることを恐れているのかもしれない。良縁が見つかるまで娘として扱うことを決めた父に感謝しながらも、ふとしたきっかけで途切れてしまうような危うさを感じているようだった。

「わたしはいいことをしてると思うんだけど」

 代わりに勝子は自分の思いを素直に口にする。牛肉を食べることも拒み、異人の強さにあやかることもしたくないと言った紘子の気持ちはわかるものの、豪雪をものともせずに訪れた異人の逞しさは、冬は雪と戦う日々が続く生活に変化をもたらすかもしれない。根本を変えるのではなく、一日の中にわずかな楽しみを生むような気がした。

 父が東京で見聞きしたものを周りに語って聞かせると、ほとんどの人間は迷惑そうな態度が出るものの、勝子にはそれがわからない。藩政の屋台骨を打ち壊した人々の政治に複雑な思いはあるものの、北国に向けて鉄道を延ばす異人めいた逞しさは頼もしいし、その熱気が冬の雪国にまで届いたらと思うと、無性に胸が躍るのだった。

「カチ坊は勇気があるのね。いつもそうだけど」

 好きな義姉に褒められた割に嬉しくはなかった。紘子の笑顔がぼんやりした輝きに見えたせいかもしれない。

 義妹と見比べて自らを貶めているだけの卑屈さが見え隠れした。

「でも失敗も多いわ。紘子姉さんみたいに考えて動けないもの」

 紘子は口元で笑ってみせたが、泣きそうな目をしていた。

 自分にはない紘子の落ち着きは目標でもあったが、ちょっとしたことを悪い方へ捉え、時に卑屈になる暗さは好きではない。口には出さないが、ため息が出るのはこらえられなかった。

 これ以上紘子と話をすると、今度は愚痴を聞かされる羽目になりそうだった。そうなる前にどこか遠くへ歩いて気分転換をしてこようと思った時だった。

 遠くの方で声がした。さっきの人影がふざけ合う感じではない。子供のものだが、よく聞くとはやし立てる声に聞こえた。

「何やってるのかしら」

 立ち上がった勝子に、心配げに紘子が呼びかける。子供のこととはいえ、余計なことに関わりを持つなと言っているようだった。

 そんな紘子を無視して声のする方へ行くと、小学校でいつも見る子供たちが、棒を振り回しながら、縮れ毛の少女を追い回していた。

「何やってるの」

 勝子は叫び、動きを止めた少年たちに、足元の雪をすくって投げつけた。咄嗟のことで形にならなかった軽い雪はすぐにばらけて舞ったが、次は落ち着いて雪玉にして少年の顔面に向けて投げつける。

 雪玉は少年の鼻に当たって小気味よい音がした。怯んだ隙に二つ、三つと投げつけ、更に走り寄って棒を奪い取り、逆に追い立てる。

「鬼のカチ坊が来たぞ」

 少年たちは捨て台詞を残して走り去った。

「うるさい。今度こんなことしてるの見つけたら頭を雪に埋めてやるからね」

それに大声で叫び返して追い立てる。走り回って大声を出して、体はすっかり熱くなっていた。

 大きく息をついてから、勝子は追い立てられていた縮れ毛の少女に向き直った。厚手の頑丈そうな布地のどこにも継ぎ接ぎはなく、一見して裕福な異人らしく見える。風雨を避けるためか、首の後ろには帽子のようなものが首回りにつながっていた。

「大丈夫、あなた」

 怯えた横顔に何気なく声をかけると何故か逃げられてしまう。手を思わず伸ばしたが、咄嗟のことで呼び止められなかった。

 しかし少し離れたところで少女は雪に足を取られて転んでしまう。避けられているような気がして足がすくんだが、雪をぶつけられて濡れていた姿が哀れで見過ごせない。

 近づくまで少女はうつぶせのまま動かなかった。つま先が深く雪に突き刺さっている。

「大丈夫、かしら」

 勝子は恐る恐る声をかけ、少女の肩を叩いた。ゆっくりと体を起こした少女は伏し目がちで、強い警戒を青い目に宿していた。

 あなたもいじめにきたの、と問いかけるような目に、勝子は戸惑いながらとりあえず笑ってみた。

「わたし、あなたのこと知ってるけど、わかるかしら」

 言葉での遣り取りができないことで思い出すのは、三年前に亡くなった飼い犬の「白」のことだ。大きな体に似合わず臆病な性格をしていたが、害意がないとわかれば一転して人懐こくなる現金な犬だった。

 害意のなさを伝えるのに勝子は最初に笑い、そして体に触れた。そうすると機嫌のいい時には背中に乗せてくれることもあった。背中に乗っている時言葉で語りかけると、何となく伝わったような気もした。

 それが人間相手にも通じるのかどうか。不安を覚えながら勝子は笑顔を保って口を開いた。

「こんにちは。今日は寒いわね」

 すると小さな声だが言葉で返事があった。

 雪国でよく見られるような、濃く白い息が言葉と共に立ち上った。

「Yes」

 言葉に込められた意味などわからないが、確かなのはこちらの笑顔を信用してくれたことだ。

 控え目で、紘子に似た微笑みを見せてくれた。

 

 三

 

 フォスターという名の異人は年末の前に一度城下町を離れ、雪解けの時期に戻ってきた。最初に来た時は単なる商売人としか知らなかったが、二度目は別の評判を聞くようになった。

「今来てる異人さん、牛の飼い方を教えに来たらしいわ」

 勝子の耳にフォスター氏のもう一つの評判を最初に伝えたのは邦子だった。普段おとなしい割に新たな噂話については人一倍聡い彼女は、普段の控え目な態度にそぐわないはしゃいだ様子を見せていた。

「うちには桑の葉を買い付けに来てたわ。異人っていうのは色々手広くやれる器用な人なのね」

 雪解け水で水浸しになった道を歩みながら、勝子は正直な感想を口にした。桑の葉を売り買いする商売人というだけなら驚きはしないが、家畜の飼い方と重なるところが多いとは思えない。東京をはじめとする各地の学校でも異人たちが高額な報酬を得て進んだ知識や技術を授けているようだが、フォスター氏もそういうことを仕事にしている、多芸な人なのだろう。

「すごく背が高くて、大きくてね。目も青くて、ちょっと見ると怖いわ」

 素を覗かせた邦子は、街でフォスター氏を見たことがあるようだった。紘子も同じような感想を抱いていたが、どうしても彼女らに共感できないのは、フォスター氏が連れていた少女と短い間交流ができたからかもしれない。

 地元の少年たちに追い回されていた少女と、冬の間は言葉を交わす間もなかったが、巷の噂を聞く限り彼女は再びフォスター氏についてきているらしい。相手が覚えているかどうかわからないが、相手が忘れていても再会して、今度こそ記憶に自分のことを刻んでもらいたい。

 髪、瞳の色はもちろん顔立ちや服装まで、見た目に親近感を覚えるところがほとんどなかった少女は異質そのものであったが、白い息を吐きながら笑顔で返してくれた言葉は、挨拶の類ではなかったかと思う。少なくとも敵意ではなかっただろう。顔かたちは違っても、その奥にある本質的なものは、この国で培われた礼儀と何ら変わるところはなかった。

 邦子は城下町で別れ、勝子は一人で家路を歩む。家を出た頃まだ冬の装いだった武家屋敷からは藁が取り去られていた。冬の間厳重な雪構に守られていた屋敷は、来るべき春に窮屈な防寒具を脱ぎ捨てたように見える。板垣や壁の、元々の色味を現していた。

 門を叩き、ふざけて「頼もう」などと声を上げると小窓に爺の顔が出る。下男頭としての責任から常に用心深い爺は、小窓を覗く瞬間まで険しい顔つきでいたが、目があった途端情けないほど目尻を下げる。爺は早くに親を亡くし、せっかく作った家族も何年か前の冬に亡くしたと聞いている。紘子や自分を見る目は娘や孫を見るそれで、彼にとって青柳家は生きるための寄る辺なのだろう。

「これからしばらくは雪で苦労せずに済むのね」

 門の鍵を開けた爺の後に続くと、庭の中の樹木や石灯籠からも藁が取り去られていた。雪解け水で水浸しになった土に足を触れないよう、気をつけて飛石を歩いていくと、行く手に津右衛門が現れた。

 身長の関係からいつも人を見下ろして喋っていた父が、今日は振り仰ぐようにして話をしている。話し相手はフォスター氏だった。

「桑畑を見てくる」

 爺に向けて言うと、二人は連れ立って裏手へ回った。二人とも水浸しの上を歩いて足元が汚れていくが構う様子を見せない。長身で見た目も異質なフォスター氏だが、父は少し打ち解けたように優しい表情を見せていた。

「ずいぶん熱心な異人さんですな」

 爺は二人を微笑ましく見ているようだった。桑の葉が畑に茂るのは五月頃からで、まだ一ヶ月ほど早い。わざわざ実りのない厳冬に訪ねてきたことといい、フォスター氏は桑の葉や牛にしか関心のない利己的な人とは違うだろう。

「そうね。本当はいい人なのかもね」

 一度認めてしまうと、背の高ささえ親しむための取っかかりに思えてくる。言葉が通じないのは問題だが、必死で伝えようとすれば何とかなるような気もする。

「そうだ、あの異人さんと一緒に女の子はいなかったかしら」

 爺は一瞬思い出す目をして、ええいました、と答えた。

「はじめ台所におりましたが、すぐにどこかへ行ってしまわれて。家から出てはおらぬはずですが」

 言葉が通じない上、周りは異人を同じ人として見ないような者ばかりだろう。紘子や爺でさえ戸惑うのだから、悪くしたら冬の時のようにいじめられるかもしれない。

 そう思うといてもたってもいられなくなり、勝子は雪沓を脱ぎ捨てて屋敷に飛び込んだ。始めに台所を覗くが見慣れた顔しかなく、自分の部屋や居間をのぞき込む。ここに人はおらず、心当たりが消えてしまった。

 屋敷の中を探し回っても見つからず、ふと一人で外に出ていたことを思い出して、勝子は庭に出た。見た目は恐がりだったが、異国の土地を一人で歩いていたのだから、好奇心に誘われやすい性格をしているのかもしれない。

 玄関で雪沓を回収し、奉公人たちが使う扉から飛び出した勝子は、水浸しの庭で雪沓が汚れるのも構わずに走った。泥が跳ねて一層汚れるのも気になったが、彼女に早く会いたいと思った。

 自分のことを覚えているのかどうか。あの時笑い返してくれたのは、礼儀への返事だったのか。わたしとあなたは生まれた国は違っても同じ人間なのでしょう。訊きたいことはいくつもあった。

 玄関前の庭の他は、石灯籠や樹木があって狭い道がいくつも伸びている。障害物をすり抜けながら急いだ勝子は土蔵にたどり着く。

 そこに冬と同じ格好で縮れ毛の少女が佇んでいた。

 彼女を見つけた瞬間に水音を立ててしまった。するとびくりと身を縮める。まるで狩人の気配を察した野兎だ。山に入ったことはないが、狩人は未熟なうち何度も野兎が一目散に逃げる姿を見るそうだ。

 目の前にいる野兎じみた臆病な少女も、逃げるつもりか足が反対方向へ向いた。

 それが実際には動かなかった。戸惑った表情で、下や横を向いて落ち着きのない佇まいに変わる。近づいたら本当に逃げてしまうような気がする。勝子は自分が熊になった気分だった。野性の熊は相手が逃げ出すと本能的に襲いかかるというが、自分も少女が逃げたら追いかけてしまいそうだ。

 しかし自分は人だ。人ができて熊ができないことは何か。

 相手の動きに釣られて襲いかかってしまう獣と違うのはどうしてなのか。

 勝子は冬にその答えを知っていた。

「お久しぶり。わたしのこと覚えてるかしら」

 言いながら笑顔を見せる。温度のせいか、冬の時と比べて頬の感触が柔らかくなっているような気がした。

 問いかけに少女は答えなかった。代わりのように、傍目にも固くなって見えた体から力が抜けたのがわかった。

 慎重に踏み出すと、少女はわずかに足を下げたが、逃げることはなかった。

 野兎が人間に、熊が人間に戻った。そうなれば後は、人間にしかできない笑い合うことをする。言葉が通じなくても表情は世界共通だ。そして言葉がわからずとも、表情に乗せて紡いだ言葉は壁を超える。

 会話をするのに自然な距離になっても、少女は逃げなかった。

「わたしは、勝子。でもカチ坊と呼んで」

 笑顔でそう問いかける。重ねて自分の名と愛称を口にすると、少女が小さな声で繰り返した。

「そう、勝子。名前。でもカチ坊と呼んでいい」

「Katuko.Namae.Kachibou」

 間延びしてどこかおかしな発音だったが、通じ合った。

「My name is Hazel.Hazel Foster.」

 変に滑舌の悪い音に聞こえたが、辛うじて名前らしき音を聞き取れた。

「ヘイゼル?」

 あまり自信が持てずに言うと、ヘイゼルは満面の笑みを見せた。

「Yes」

 雪の平野で聞いたのと同じ、にこやかな挨拶だった。

 

 昨日青柳家の桑畑を見ていたと思ったら、今日のフォスター氏は野田家の土地に足を運んでいた。野田家は青柳家武家屋敷からそう遠くない場所に住む士族で、藩政期には祐筆を務めてきた。そのため家老の役目だった青柳家とのつながりは深い。大人同士は互いに一定の線を踏み越えないよう気を遣っていたようだが、御一新の後数年経ってから生まれた勝子は藩政上の役割など気にせず、物怖じせずに野田家の人々と関わっていた。

 フォスター氏が野田家の当主と共に訪れたのは、かつて勝子が野田家の次男坊と遊んだ土地だ。次男の松蔵は格式張った野田家が窮屈だったのか、いくつかの職を経た後東京府囲碁を教えているらしい。野田家は松蔵と縁を切っているようだが、勝子にとっては広い土地を使って馬に乗せてくれたり流鏑馬の真似事をさせてくれたりした愉快な人で、不思議な道筋を辿った果ての勘当も松蔵らしい人生と微笑ましくなる。

弓矢で的を射抜いた時は、松蔵が褒めそやすので家族にも得意げに語ったものだが、両親は考え込んだ顔をしていた。彼らの何とも言えない複雑な表情を見たのは初めてで、あまり活発だと嫁のもらい手がなくなると心配していたのだと気づいたのは最近のことだ。

松蔵は家の気風が合わなかったし、自分は生まれ持った性にそぐわない振る舞いをしていた。そうした風変わりな気質が、年齢や性別を超えて通じ合ったのだろう。松蔵は、父や爺など家中の者を除けば、初めて信頼を寄せた男だった。

流鏑馬の真似事をした広場は雑草が生い茂る荒れた土地と化していたが、フォスター氏はそこを牧場にするつもりらしい。思い出が一つ消えてしまうようで残念だが、フォスター氏の成功は娘のヘイゼルにとっても喜ばしいことだろう。彼女に思い出を譲り渡し、異国での嬉しい記憶にしてもらうと思えば惜しくはない。

何より牧場で生産されるのは牛肉である。あの噛み応えのある肉がすぐ近くで手に入るのは楽しみだ。野兎の肉とは比べものにならないほど柔らかかった肉は、食べて数ヶ月経った今でも勝子の舌に旨みを残していた。

「Oh,Sorry」

 勝子が野田家の奉公人に聞いて牧場の用地を訪れた時、ちょうどフォスター氏は戻るところで、彼は腰を曲げてもまだ高い目線を、しゃがみ込むことでようやく合わせてくれた。

「カチボウ」

 その後ろにはヘイゼルがいる。一日で発音はかなり日本語に近くなった。それしか言えないのか、カチボウと何度も口にする。同じ日本人ならからかわれている気分になったかもしれないが、おどおどした印象の方が強いヘイゼルが笑顔で言っているのを見ると、喜びを表しているように思えてくる。

「少し二人で遊んでくるといい。そう言っている」

 フォスター氏が何ごとかを言うと、野田家の当主で松蔵の兄である玄蔵が微笑んで言った。戊辰戦争中は銃を担いで戦闘にも参加したというが、戦後の空気と当主の椅子が人を変えたのか、戦場帰りの過去を感じさせない穏やかさだった。

 フォスター氏は娘に何か言って野田玄蔵と屋敷の方へ向かった。残された勝子は、とりあえず青柳家武家屋敷に向かった。

 その時ちょうど髪結いと一緒になった。女の顔を見て、今日が髪結いの来る日だったことを思い出した。

「そちらの異人さんもやってあげましょうか。縮れ毛を伸ばしてあげれば」

 若い髪結いの表情は澄んでいたが、人見知りが強いのかヘイゼルは自分を盾にするように身を寄せてきた。

 何か恐ろしいことをさせられるのではないかと警戒しているように見える。誤解を解くには言って聞かせるのが一番だが、今はそれができない。ややあって勝子は、髪結いを見せることで怖いことなどないと伝えようと思った。二人で居間に戻ると紘子と伊代が待っていた。

「約束の時間に来ないとは何ごとですか」

 母は少し厳しい口調で咎めた。素直に謝った勝子を髪結いは呼んだ。

 元は何のためにあったのかわからない小部屋で、髪結いはいつも決まった日に行われる。伊代と紘子の髪はまっすぐで、血のつながりはなくてもそこだけはそっくりだった。

 対する勝子の髪は縮れ毛で、それが醜いと思っている。髪結いは勝子の髪を洗ってから熱湯につける。お湯には美男葛が浸してあり、充分温まってから髪に固い伽羅油を染みこませる。その上で力一杯引っ張って初めて勝子の髪はまっすぐ伸びる。それも僅かな時間だが、結い上げるには充分だった。

 居間に戻ると紘子と伊代がヘイゼルと向き合っていた。お互いにどう接していいかわからずに落ち着きなく視線を巡らせている。勝子はヘイゼルの笑顔がとてもかわいらしいものと知っているが、母と義姉はそれを知らない。

 勝子が戻ると三人はそれぞれほっとした表情を見せた。超えようと思えば容易い壁を、三人揃って無闇に高く思い込んでいるような気がして、勝子はため息をついた。

「どうかしら」

 気を取り直して二人に訊く。伊代と紘子はそれぞれの言葉で褒め、ヘイゼルも何か言った。相変わらず意味はわからないが、無邪気な表情をしているのが嬉しかった。

 伊代、紘子の順で髪結いを追えるとヘイゼルの番になる。ここまでの展開で何をしているのか理解できたようで、顔から不安は消えていたが、髪結いには抵抗感があるのか、少し身を退いていた。

「髪を洗うだけでもしてもらったら」

 紘子が恐る恐るといった様子で声をかけたが、それを伝える術を誰も持っていない。仕方なしに月に二度の髪結いは終わりになった。

 フォスター氏が野田家を訪れてから程なくして、久しく人の手が入っていなかった土地で人足たちが草むしりを始めた。膝丈まで伸びた草が日毎に数を減らし、均一な高さに揃えられていく。色も枯れ色に近い暗さだったのが萌えるような緑一色に均され、馬で駆け回った頃を思い出させた。

 地ならしと同じくして、土地の隅では牛舎の建設が始まっていた。広場が昔の色味を取り戻した頃には柵が設けられ、いよいよ本物の牛が入れられる。フォスター氏の指揮で行われた牧場建設は九月に終わり、肉に先んじて牛乳の販売が始められた。

 牧場の営業が始まったら肉が食べられるとばかり思っていた勝子は拍子抜けだったし、野田家が真っ白な飲み物を売り始めてから、生まれた赤子に角が生えていたとか手が牛の蹄のように指がくっつき合っていたとか変な噂が流れ出したから、根も葉もないこととわかっていても飲むのがためらわれた。

 そんな状況を見かねたのか、フォスター氏は野田家で作られた牛乳を城下町の往来で元気に飲み干して、安全を伝えようと躍起になっていた。それにはヘイゼルも付き合わされていて、見るからに人前に出るのが苦手そうな少女が、父の言いつけに応えようと必死だった。

 そうやってヘイゼルが頑張っているところを見ると、勝子も放っておけなくなる。フォスター氏もヘイゼルも、牛乳をいくら飲んでも平気でいるところが背中を押した。

「わたしも協力させてください」

 ある時牛舎にいたフォスター氏を捕まえて勝子は直談判したが、日本語を解さない異人は困ったような微笑みを見せて肩をすくめた。

 彼は何ごとかを言った後、ついて来いと言うように手で招き寄せた。そうして案内されたのは野田玄蔵の部屋で、勝子は彼に向け改めて思いを伝えることになった。

「ならば牛乳を買ってくれ。家老だった青柳家がすることなら、人々も少しは考え方を改めてくれるだろう。ご家老にそう頼んでくれ」

 せっかく始めた新商売が思うようにいかないせいか、野田玄蔵はいつもの朗らかさをなくして、思い詰めたような顔をしていた。もういいだろうとばかりに、話が終わると挨拶もせずに立ち去ってしまう。いつもとは違う様子に勝子は不安を覚えたが、大人たちのすることに関わることはできない。言われた通り父に牛乳を買うよう頼み込むしか、自分にできることはなかった。

 父に頼んでも状況がすぐに良くなるわけではなく、怪談じみた噂もなかなか消えない。それでもフォスター親子の努力が実ったのか、邦子の家を始め城下で牛乳を飲む者は徐々に増えて見えた。

「頑張った甲斐があったみたいで良かったわね」

 街で野田家の奉公人と共に牛乳を売っているヘイゼルに声をかけると、相変わらず言葉は理解できていないようだったが、労いの気持ちは汲み取ってくれたらしい。にっこりと笑い返してくれた。

 言葉が通じなくても、真なる感情で以て語りかければ、異人でも人である以上応えてくれる。勝子とヘイゼルは会えば話すようになった。お互いの言葉を学ぼうと努力もしたが、先生になってくれそうな大人もおらず、結局身振り手振りや表情での遣り取りになってしまう。それでも伝わることは伝わったし、伝わりにくい時のもどかしさも慣れていった。いずれお互いが学んだ単語を組み合わせて会話ができるようになれればいいが、焦らずともその日はやがて来るだろう。勝子はそうのんびり構えていた。

 ヘイゼルが笑い、野田家の商売が軌道にのり、桑畑の方もフォスター氏が関わってから一層需要が増えたようだった。フォスター氏とヘイゼルはよく青柳家に足を運び、初めはおっかなびっくりだった奉公人たちも言葉が通じにくいことを除けば同じ人間であることをわかってきたのか、接する時の態度に硬さや警戒が混じらなくなって、フォスター氏が世話した牛肉の生産を待ちわびる声も聞こえてきた。自分が何か助けたわけではないにせよ、フォスター氏が異国で信頼を集めるために努力を惜しまないのは充分感じ取れて、そんな人の仕事が成功するのは自分のことのように嬉しかった。

 桑畑の商売も上向いているから、野田家でも同じく明るい未来を見ていると思っていた勝子には、牛肉の生産を雪解けの後に控えた冬、野田家の屋敷で起きた事件は衝撃的だった。

 街中のあらゆるものに藁を巻いて冬構えを済ませ、初雪を迎え撃った日だった。小学校から帰ってくると、屋敷の居間に一人ヘイゼルが青い顔をして座っていた。どうしたのか尋ねても、初めの頃に戻ったように泣いてしまって要領を得ない。本人かフォスター氏に何か起きたのだろうと察したが、ヘイゼルの感情の揺れは本人に由来するものでないような気がして、勝子はフォスター氏を探しても。

 フォスター氏のことで一番事情を知っていそうな父は見つからず、代わりに爺を探し出した。彼は事情を話すことに迷いを見せたが、強い口調で勝子が求めるとため息混じりに口を開いた。

「野田家のご隠居が自害なされたそうです」

 爺の言葉は右から左へ通り抜けた。それでわずかに耳の奥に残った声で事情を知った勝子は、どうしてそんなこと、と呆然と呟いた。青柳家にも何らかの責任を取るために自害した者がいるものの、それは全て藩政期の出来事だ。廃藩置県が済んで十五年以上経った今になって、誰が自害など強いたのか。

「ご隠居様が何で死ななくちゃいけないの」

 隠居とは、自分の立場を息子などに受け継がせて自分は静かに余生を暮らすことのはずだ。世の中の雑事とは関わりないところにいる人が、自害などする理由がわからない。

 野田家のことは部外者の爺に向かって勝子は声を荒らげる。紘子が優しく両肩に触れなかったら、もっと激しく感情を迸らせていたかもしれない。

「いくら爺でも何でもわかるわけではないわ。ただ、しばらくヘイゼルをここに置いてほしいとフォスターさんから頼まれたそうなの。ヘイゼルを守ってあげましょう」

 紘子の淑やかな声で落ち着きを取り戻した勝子は、冷静になった頭で紘子の言葉を噛み砕く。守ると言ったのが不穏な気配を孕んでいる。フォスター氏が何かとんでもない不始末をしたのだろうか。不安が急に重さを増したが、二人に訊いてもたいした答えは返ってこないだろうし、万が一詳しい事情を知ってしまった時が怖い。勝子は居間へ戻りヘイゼルと過ごすことにした。

 野田家で起きた事件が詳らかになったのは葬式の翌日だった。フォスター氏の指導で牧場を開き、新たな商売を始めた野田家だったが、現当主と先代との間で対立があったらしい。牛乳を売るところまでは良かったが、それまで穢れたものと考えられていた牛肉を、自分の土地で生産して売ることに先代が反対し、家名の恥とまで罵ったという。以前野田玄蔵と会った時、彼は思い詰めたような表情をしていたが、あれは商売がうまくゆかないことばかりでなく、野田家の行く末についての対立に疲れていたせいだったのだろう。

 現当主と先代の間に起きた対立は収まることがなく、雪解けの後本格的に牛肉の生産を始めることが決まった時、先代は腹を切った。

 それは抗議の自害ではなく諫死であったという。勝子の目から見て先代の行動も考え方も古すぎるものだったが、人が一人命を落としたことに変わりはない。やがて先代を死に追いやった者として、野田家の内外からフォスター氏の名がやり玉に挙がるようになった。

 紘子が言った、ヘイゼルを守るという意味がようやくわかった。フォスター氏は自分の仕事を忠実に行い、商売が振るわなければ上向きにするための努力を惜しまなかったが、人の命が失われる原因を持ち込んだと糾弾され、彼についてきたヘイゼルも巻き込まれるような形になった。

 御一新から二十年が経ってもまだ家老としての影響力を保つ青柳家も、異人を責める城下の風潮を抑えることはできなかった。フォスター親子は青柳家の客分として過ごしていたが、フォスター氏を庇っているとして屋敷の門に石を投げる者が現れたし、勝子には奉公人が付き添うほどだった。

 そんなことが三日続いた日の夜、冬の夜長を持て余していた勝子を津右衛門が呼び出した。

 何か叱られるようなことをしたかと記憶を辿り、何を言われてもいいように腹を決めてから父の文房の前に立つ。呼びかけると静かな声で入るよう言われる。果たして父は硬い表情でそこに座りなさいと言ったが、続いた言葉は叱られた方がましと思えるものだった。

「フォスター親子のことで話がある」

「はい」

 フォスター親子への風当たりが強くなれば、いずれ父も決断するだろうと思っていたが、それがやってきてしまったらしい。父はフォスター親子との付き合いを絶つつもりだと話した。

「別にフォスターさんがご隠居様を殺したわけではないのでしょう」

 改めて言うと、フォスター親子が理不尽に巻き込まれているのがわかる。親子で野田家の商売が成功するように努力してきたのに、手のひらを返すような仕打ちに義憤で体が熱くなってくる。

「もちろんだ。しかしそう思っているのはもう我が家だけだ。いかに青柳家といえど、一度根付いた異人への嫌悪をぬぐい去ることはできない」

「せっかくわかり合えるかもしれないところまで来ているのに」

 元々外部との交流が少ない土地柄で、外見の違う異人を相手に警戒するのも仕方がないだろう。しかしフォスター氏はそれをものともせず溶け込む努力をしてきたし、少なくとも父はそれに応えていた。彼の努力が、理不尽によって意味のないものにされてしまうのが、雪国の人々の狭量さを表しているようで、勝子は残念というより悲しかった。

「明日の夜には発ってもらおうと思う」

「そんな、早すぎます」

「あまり長く置いておけば、おまえにも危害が及ぶかもしれん。おまえたちを守るためだ、わかってくれ」

 元々親を戴くよう考えることに慣れている上、親心を示されると何も言えなくなる。わかりました、と素直に応じるより仕方なかった。

「フォスター氏のお嬢様とも最後になるだろう。今のうちに言いたいことを言っておくがいい」

 フォスター氏の不遇にばかり関心が行っていて忘れていたが、彼がこの土地を離れるということはヘイゼルもついていくということになる。父に頼めば連絡をつけることぐらいはできるだろうが、実際に会うのは難しい。日本国内でさえ勝子には広すぎるのに、彼らの母国ともなると想像もつかない。この先縁もなく人生を終える可能性の方が遥かに高かった。

 何かを言うにしても、お互い会話を交わせるだけの言葉を知らない。急なこととはいえ、焦らずに言葉を覚えていけばいいと悠長に構えていた自分が恨めしくなった。

 親子が寝泊まりしている部屋を訪ねるとヘイゼルが出迎えた。名を呼ばれて小首を傾げる彼女は元々聡い心を持っているのか、何も言えずにいると心を映したように顔を曇らせた。

 勝子はその顔と向き合い、

「元気で」

 日本語で伝えた。別れを惜しむ気持ちが言葉の壁を超えてヘイゼルに伝わることを信じた。

 フォスター親子を送り出した翌日の夜は雪になった。穏やかな降り方だったが、雪を警戒する雪国の人々が出歩くことのない夜だった。

 家中の者は奉公人を含めて総出で二人を見送るために、雪の中へ立った。突き詰めて考えれば、人の命が失われるきっかけを作ったことになるのだろう。それでも青柳家に益をもたらしたことも確かで、家中の者は商売に努力を惜しまないフォスター氏に信頼も寄せた。

 父はフォスター氏と関わるようになってから学んだ英語で何ごとかを伝えた。するとフォスター氏は、大きな体を折って応えた。

「カタジケナイ」

 ヘイゼルもそれに合わせて礼をした。

 上げた顔で笑い、口を開く。

「元気で」

 初めての日本語を残し、ヘイゼルは父親と共に青柳家の門を潜っていった。

 二人が出ていった後、未成熟のまま指導する者がいなくなった牧場は一時廃れたが、牛乳の評判だけは残っていたのでそれを頼りに盛り返し、野田家は酪農で身を立てるに至った。彼らが商売の成功に努力を惜しまなかったフォスター親子にどこまで感謝しているのか、酪農の成功に沸く野田家を外から見るだけではわからなかった。

 

 四

 

 紘子にとって二度目の縁談が決まったことを、勝子は家族会議の場で知らされた。兄の時もそうであったが、家族に何か大事が持ち上がると父は居間に全員を集めて話し合いの場を持たせる。

「神仏の守りあって紘子の嫁入り先が決まりました」

 母がそう告げると、紘子は申し合わせてあったように畳に額をぴたりとつくほど丁寧な礼をした。

 縁談が持ち上がったのはまだ雪の時期で、結納の式は雪解けを待って行われた。森山次雄というのが紘子の夫になる男だったが、最初の婚約者だった兄とはまるで違う印象の、悪く言えばくそ真面目な男で、女に男の呼び名をつけるような茶目っ気など期待できそうになかった。

 彼が商家の長男と聞いて、勝子はフォスター親子を思い出した。フォスター親子が出ていってから既に三年が経ち、父が作る桑の葉は徐々に買い手を失っていった。父は森山家にフォスター氏のような役目を期待しているようだった。どこまでいっても紘子は青柳家とは赤の他人であったが、兄が出ていってから数えて五年間、青柳家の娘として扱われた紘子には、相応の役目を求めているのだろう。

 紘子が真面目な男をどう思っているのか、本心を尋ねたことがないのでわからないが、婚約は個人の問題ではなく家同士で語るべきことだから、紘子本人の気持ちが介する余地はない。紘子も止まっていた時間がようやく動き出したと感じたのか、結納の式では晴れ晴れとした顔をしていた。

 紘子が結婚という形で家を出ると、今度は自分の番になる。いずれは結婚して家を出るのだと思っていた勝子だが、結納の式を見たのは紘子で初めてで、彼女のようにできるかどうかわからなかった。

 初めはどこか他人事で漠然と捉えていた結婚も、夏を迎える頃にはそう遠くないことに思えてきた。小学校を卒業してからは母親や時折尋ねてくる紘子に家政を学ぶ日々で、よく晴れた日が続くにもかかわらず外を駆け回れないのが物足りなかった。

 学校を卒業してからは、同じように家政を学んで来たるべき日に備えている邦子と会うのが楽しみとなった。一度卒業してしまうと、同じ土地に住んでいるにもかかわらず同窓生を会うのは難しくなって、邦子のような親しい者、その上同じ結婚を控える女子でないと付き合いを続けにくくなっていた。

 冬は人足たちが雪を捨てに来る川の畔に腰を下ろし、足を冷やして楽しんでいると、邦子が袖を引っ張った。

 名を呼ぶ声が不安げに聞こえて勝子も身構える。邦子が示した先には黒っぽい洋装の男が佇んでいる。足を露わにしている自分たちを見ているわけではないが、無防備を覗かれたような気分でいい気持ちはしない。

 そうかと言って男に出ていけとは言えない。男が気になるなら出ていくしかないが、行動を決めかねているうちに男の方から視線を合わせてきた。

 勝子は顎を引いて出方をうかがうように男の視線を受け止め、石から飛び降りて一息に岸へ上がった。

「何か御用ですか」

 視線では警戒しながら、しかし声は優しく聞こえるように気をつける。母親から言われたことだが、自分の喋り方はがさつに聞こえるらしい。以前野田家の土地で流鏑馬の真似事をした後、男のようなことをしていては嫁のもらい手がなくなると言われ、その時は真剣に考えなかったが、現在は洒落にならない。

 男は勝子の視線を受け止め、たじろぎもせず微笑んだ。

「失礼、道を尋ねたいのですが」

 長身の男は慇懃で、見知らぬ男が時々見せる侮りが見られない。

「どちらへ行きたいのですか」

「この近くに青柳という家はないでしょうか。藩政期には家老も務めたという名門とうかがっております」

 いつの間にか後ろに立っていた邦子が、カチ坊、と不安と驚きがない交ぜになった声を上げた。

「青柳家へ、どのような御用でしょう」

 男の出方をうかがうような視線を送り、勝子は抑えた声音を出した。

「青柳平一郎君のことで伝えたいことがあって東京府から来ました」

 思わぬ形で平一郎の名を聞かされ、お兄様が、とこぼれ落ちる。男はそれを聞き逃さなかったのか、それでは君が勝子か、と訊いてきた。

「君の兄上から家族のことは聞かされている。妹が勝子という名だと聞いたが、君がそうなのか」

 男の態度が、見知った者を相手にするような気安さに変わったが、品の良い喋り方を保っているおかげで嫌らしさがない。信じられると思って勝子は頷いた。

「いかにもわたしが青柳勝子です。平一郎はわたしの兄ですが、一体兄がどうしたんですか。まさか何かあったとか」

 兄が家族のことを教えるほどの仲ならば信頼に足るだろうが、それだけに別の想像もしてしまう。兄は動けないほどの状態に陥って、信頼できる友に伝言を頼んだのではないか。

 不安げに訊くと、男は優しい笑みを見せて首を振った。

東京府で元気にしているよ。ただご両親にも伝えたいと思うから、家への案内を頼みたいのだが、構わないか」

 勝子はもう一度男を見上げた。フォスター氏ほどではないが背は高く、面長の整った顔をしている。優しげな風貌ではあったが目つきだけがやけに鋭く、軍装を想像するとやけに似合っている気がした。

「兄についてのお話なんですね」

 そう訊くと、そう重大な話を持ち込んだわけではないんだがね、と苦笑された。

「そう身構えないでほしい。近況を話したいだけだから」

 男の声にはまだ広い世間を知らない子供を相手にするような優しさが宿って聞こえた。丁寧なだけに慇懃無礼にも思えたが、結婚のための修行をしている今は子供と侮られても仕方ないと思い直す。

「わかりました。わたしが案内します」

 そう言うと邦子が心配するような声を上げたが、平気だからと笑って友人と別れた。

 元来口数が少ないのか、藤野と名乗った後黙ってついてきた。あの優しい表情の持ち主なら有り得ないと思うが、後ろを歩かせると突然襲いかかってくるのではないかとあらぬ心配をしてしまう。結婚するということは、時には男に身を任せることにもなるが、往来でさえこれほど不安になるのだから、実際に結納の式を挙げたら何が起きるのか。急に怖くなる。

「どうかしたのか」

 不意に後ろから声をかけられて勝子は飛び上がった。道が人通りの少ない街道だったこともある。森を突き抜ける一本道で、姿を隠せそうなところも簡単に見つかる。

「いいえ、ちょっと」

 怖くなって、と正直に言いかけて飲み込んだ。すると藤野ははたと気づいたような顔をして前に立った。

「私が後ろに立っていたのが気になったのか」

 自分から言い出したとはいえ、認めてしまうと失礼に当たるような気がして勝子は固まった。その様子がおかしく見えたらしい、藤野は破顔した。

「気にしなくていい。私の気遣いが足りなかった。それでは行こう」

 そう言って歩き出した藤野だが、数歩行ったところで足が止まる。

「君が道案内してくれているんだったな」

 照れくさそうに笑って頭をかいた藤野が平一郎と重なって見えた。友人ならば似たところを持っていておかしくないが、それを手がかりにすると、初対面なのに親しみ深い人間に見えてくるのが不思議だった。

「平気ですよ。後ろからついてきてください」

 兄の友人なら心配など要らないと信じられる佇まいだった。

 

 門を叩くと爺が小窓をのぞき込む。彼は男が後ろについてきているのを見て訝しげな表情をして、その方はどちら様ですか、と訊いてきた。

「お兄様のご友人の藤野様よ。信用のおける人だから大丈夫」

 そう言っても爺は訝かしむ態度を変えず、平一郎様の、と懐疑的な声音で訊いてきた。

「藤野正澄と申します。青柳平一郎君の近況をお伝えしようと思いました。通していただけないでしょうか」

 自分から名乗ったのが、爺の警戒を少しだけ解いたのか、旦那様に訊いてくるから待っていなさい、と言い残して一度小窓から姿を消す。少し経ってから門が開かれた。

「旦那様と奥様が客間でお待ちです。カチ坊様もよろしければ同席して構わないとのことです」

 藤野本人の口とはいえ、この二年間連絡がつかなかった兄のことが聞ける。それだけで勝子は胸が高鳴った。藤野の様子からして苦しい状況に陥っているわけではないのだろうが、それでも東京府にいたら無事では済まない気がする。フォスター氏が巻き込まれた理不尽に近い出来事も兄を傷つけるかもしれない。雪との戦いがない場所に暮らしたら、自分はどう生きていくか。想像がつかないのが恐ろしかった。

 爺の案内で客間に通された藤野は、丁寧に両親に向けて挨拶をした後、平一郎が東京府で巡査を経て教導団に入団し、優秀な成績を収めて陸軍に入り、現在は下士官として辣腕を振るっていることを熱心に語った。

 父はその間硬い表情で藤野を見下ろすような目つきを保ち、母はその父の顔色をうかがうような目で、藤野と父を交互に見ていた。

 勝子は藤野の語る兄の姿が楽しみで、片時も彼から目を離さずにいたが、わかりました、と不意に言った父に視線を引き寄せられた。

「ご用件はそれだけですか」

「ええ、そうでございますが」

 藤野は戸惑ったような表情で答えた。

「世の中には優秀な方もいらっしゃるようだ。しかしあなたは何か勘違いをしていらっしゃる。この家にはそこにいる勝子と、嫁に出た紘子しか子供はおりません。息子などいないはずですが」

 父の言葉が信じられなかった。五年前に兄が犯した所業は、青柳家にも紘子の実家にも大きな迷惑をかけた。そのことで恨みを買うのは仕方がないにしても、実の親が子の存在を認めないのは残酷に過ぎるのではないか。

 父親であることを忘れて津右衛門に食ってかかろうとした勝子だが、藤野のわかりました、という落ち着き払った声に気勢を削がれた。

「私の勘違いであったようです。お手間を取らせて申し訳ありませんでした。これにて失礼いたします」

 そう言って立ち上がった藤野を、父は呼び止める。

「東京から来たのならお疲れでしょう。勘違いとはいえ何かの縁を感じます。今夜は泊まっていきなされ。私はこれでも東京の風物が好きでしてな、知っていることを交換したいと思います」

 そう言った父の表情は打って変わって親しげだった。藤野はそれに合わせるように笑い返し、呼び出された爺についていった。

 

 夕餉に誘われた藤野はそのまま父と酒を飲み始めた。普段を東京で過ごしている男の話は勝子にとっても興味深いものだったが、酒の場には相応しくないと父に言われて追い出され、仕方なしに奉公人たちが集まる台所で夜の時間を潰した。

 台所で糸車を回したり、朝餉の仕込みを手伝ったりしている内に夜も更けていく。夜なべ仕事が残っている奉公人を除いてそれぞれ台所を出ていくのに勝子も従った。

 廊下を歩いていると自分の部屋の前に客間に通りかかる。障子がぼんやりした光を透していて、影を映している。

 父に友人のことを否定されて本心ではどう思っているのか知りたくなって、勝子は部屋の前に正座して声をかけた。

「こんな時間にどうしたのかな」

 子供を相手にするような優しく、それでいて侮りの感じられない丁寧な響きが障子越しに聞こえた。

「父のことで傷付いてはいないかと思って」

「どうして」

 障子に映る影が揺らめいた。こちらに近づいたようだった。

「せっかくここまで来たのに、父は平一郎兄さんを認めないようなことを言って、これじゃ苦労が報われないと思います。お酒に付き合ってくれたようですけど、無理はしていませんでしたか」

 言ってしまってから藤野や父に失礼なことを言ったと後悔したが、そんなことはないよ、と穏やかに藤野は答える。気にした素振りは見せなかった。

「君の兄上から、紘子さんのことも聞いている。知らないことにされても仕方がないとも言っていた。それほどのことをしたのだと。それでも紘子さんや自分が出ていった後の家がどうなったのか心配だったそうだ。身勝手な話だと思うが、友人としてはよく出来た人間だと思うから叶えてやろうと思った」

「それでは、あなたの目から見て我が家はどうですか」

「明るくて賑やかだな。紘子さんに会えなかったのは残念だが」

「平一郎兄さんは、五年前のことについて何か言っていましたか。理由も何も聞かされていないのです。平一郎兄さんは何か考えがあってあのようなことをしたのでしょう。でもそれだけでは紘子姉さんがかわいそうで」

 青柳家の娘となってからの五年間、彼女はおとなしい娘として過ごした。物静かな中にも、奉公人を含めた大家族での暮らしを楽しんでいるようで、抑圧を感じているようには見えなかった。

 だから時々影が見えてしまったのは自分の思い込みだったのかもしれない。実際嫁入りした時の紘子は晴れ晴れとした表情をしていた。それでも、羨ましいほど見事な黒髪を持っていた紘子を好きだったからこそ、心の奥底に、兄に捨てられたことを悲しんでいるような響きを勝子は覚えていた。

「君の兄上は故郷で人生を終えたくなかったからと言っていたな」

「それは紘子姉さんが邪魔だったということですか」

「多くは語らなかったし、全て話していても私には言えないよ。だからいつか、兄上と会って話し合うべきだ。こんな言い方はどうかと思うが、兄上は陸軍の中でも期待を受けている。いずれもっと高い地位に昇ると思う。東京の中に埋もれるということはないだろう。東京府に来さえすれば、見つけ出すのも難しくない」

 そこで一度言葉を切った藤野は、襖を開いた。

 来客用の甚兵衛から覗く裸の胸が、妙に逞しいものに見えた。

「もしその時が来たらここに手紙でも送ってほしい。力になろう」

 紙片に書かれたのは住所と思しき地名で、いつか聞いた郵便制度を思い出した。

「どうしてそこまでしてくれるのですか。今日初めて会ったのに」

 そう訊くと、だが知ってはいた、と藤野は答えた。

「兄上から家族のことは聞いていたからね。カチ坊と呼ばれる妹のことをよく語っていたから、どういう娘か会ってみたいとも思っていたよ。男のような呼ばれ方をするなんて、普通ではないからね」

 男に会ってみたいなどと言われて恐縮する一方、好奇心を刺激したような兄の呼び名が今更ながらおかしくなった。藤野という初めて会った男が、兄の面影を外しても不思議と親しげに思えて、もう少し話してみたいと思った。

「もう少しいてもいいでしょうか」

 純粋な興味であったが、藤野は首を振った。

「嫁入り修行をしている女子は本来こんな時間に男を訪ねるものではないんだ。もう遅いから眠りなさい。いつか東京府に来た時はどんな人と結婚したのか、話を聞かせてくれ」

 そう言って藤野は戸を閉めた。誰かの妻になることを彼も当たり前のように考えている。今まで自分でも受け入れていたことだが、この時ばかりは何故か、じん、と小さく胸に痛みを宿した。

 寂しいのか悲しいのか、もっと別の気持ちに端を発しているのか、自分でも掴みきれない不思議な気持ちだった。

 藤野は翌朝、朝餉を摂ってから発った。夜が駄目なら昼に話をしてみたいと密かに思っていた勝子は残念な気持ちで彼の背中を見送る。

「次に会う時は美しく成長していることを期待しているよ」

 藤野はそう勝子に言い残した。彼にとっての自分は友人の妹でしかなく、外から眺める以上のことはしないのだろう。それは当然で、望ましい態度のはずだが、昨夜感じた小さな痛みがぶり返して、勝子は釈然としない気持ちで立ち尽くした。

 藤野が去った後は、客人をもてなす必要がなくなった奉公人たちがいつも通りの仕事に戻る。紘子が離れたことで変わった家中の空気にも慣れ、自分が紘子のことを話さない限り忙しい奉公人たちは話題に上らせない。

 フォスター親子も同様であったが、思い出させると何人かは牛肉を作って欲しかったと惜しむ声を出してくれた。

「どこかで同じことしているわよ。あの人たちは雪をものともしなかったんだから」

 冬のたびに雪と戦うような場所でなく、もっと暖かな場所で牧場を開いて、今度こそ感謝を一身に集めて充実した人生を送っているはずだ。

 ヘイゼルはどうしているだろう。まだ気弱な性格を直せないだろうか。できれば強気を少しだけ身に着けて欲しいが、そうでなくてもいいと勝子は思った。

 言葉の壁を超えて通じ合った瞬間の嬉しさがいつまでも消えない。それをもたらしただけでも、ヘイゼルは小さくない意味を持って勝子の胸に刻まれた。

 勝子はふと自分が、まだ十数年しか生きていないことを思う。母は四十を超えてもまだ元気に過ごしている。少なくとも四十年ぐらいは残っているのなら、藤野はもちろんヘイゼルやフォスター氏、そして平一郎と再会する日が来ることは充分有り得るだろう。

 そして近いうちに自分にも、紘子と同じように誰かの妻となる日がやってくる。再会も新たな出会いも、勝子の前途には一緒になって待っているように見えた。

 

2013年6月作品