yuzaのブログ

幕末から明治を舞台にした小説を中心に載せています。

寒夜の客

 一

 

 一人の朝餉を終え、黙って店の出入り口から外に出ると、松野(まつの)春(しゅん)太郎(たろう)は思わず冬日に手をかざした。ここ数日のすっきりしない空模様と薄暗い部屋に慣れた目には、冬晴れでも強烈に目を眩ませた。

 かざした手の向こうには一際目立つ凌雲閣が見える。これまで高い建物といえば火の見櫓しか知らなかった春太郎にとって、煉瓦造りの十二階建て約七十メートルは人知を超えたものに見える。その高みへエレベーターなるものによって昇れると聞いた時には、建設の指揮を執った異人たちの国と戦わなくてよかったと背筋が凍る思いだった。

 浅草寺や花屋敷を含んだ浅草公園内を、仲見世に寄ってから通り抜け、隅田川沿いまで来たところに太古前染物店がある。春太郎は藍染めの暖簾をよけて店の中に声をかける。色とりどりの染め物に囲まれて、何やら書き物をしている女が顔を上げた。

「おはようございます、松野さん。主人ですか」

 店に踏み入れて延子に近づくと、白い紋がちりばめられた鮫小紋であるのに気づく。控え目な笑顔と調和する慎ましやかな柄で、艶っぽさが少ない分若さを感じた。

「頼んでいた幟を取りに来ました」

「言えばこちらからお伺いしましたのに。遠慮したんですか」

 水くさいという言葉を飲み込んだように見えた。確かに赴く理由はなかったのだが、自分から用事を作っていかないと閉じこもってしまう。特に連れ合いのいない人間は、閉じこもるのが日常になると、ある日終わりが来た時にさえ気づかれないだろう。

「まあ、そういうことです」

 死をほのめかすには漂う空気が気楽に思え、春太郎は適当な返事をする。奥で仕事をしていると言われ、上がり框に腰をかけて草鞋を脱ぎ、主人の吉右衛門を呼びながら廊下を歩いた。

 戸を叩くと唸り声がした。心なしか高く聞こえ、仕事は一段落しているのだろうと思った。

 六畳間の仕事部屋に詰めていた吉右衛門は、染めの道具の前で足を崩して座っていた。

「わざわざ来るとは感心な奴だな」

 夫婦で似たようなことを言われて春太郎は苦笑した。

 花川戸町の太古前染物店は吉右衛門で四代目になるという。文化年間創業の店は代々主人の名を店名としていたが、吉右衛門の代で初めて苗字が店名になった。二十年前に明治政府は戸籍作成の必要から、士分以外ではなかった者たちにも苗字を許し、東京府で苗字を持たない者はいなくなった。

 地名や家の立地条件に由来した苗字が多い中で、吉右衛門がつけた太古前(たいこまえ)という苗字は由来が全くわからなかった。詳しく話を聞くと、花川戸で最も古い染物屋という主張を吉右衛門自身が込めたという。武家の常識からいえば生まれ得なかった苗字ではあるが、物心ついた時から一国の何かが急激に変化していくのを感じていた春太郎には妙に納得がいった。

 春太郎が畳に腰を下ろすと戸が叩かれた。ともすれば聞き逃しそうな音に吉右衛門が入るように言うと、娘のふみ子が戸を開けた。

「春太郎さん、こんにちは」

 今年八歳になった太古前夫妻の娘は、柔らかそうな頬を一杯に緩めて舌足らずな声で挨拶した。まだ暖まりきらない春太郎の頬が、その笑顔で一気に緩くなる。

「ふみ子、松野さんにも茶を持ってきなさい」

 盆に載せた茶を父に渡したふみ子は、頷いて自ら戸を閉めた。廊下を引き返していく音が遠ざかっていく。

「躾けが行き届いた良い子ですな」

 挨拶から立ち去る時の所作までを含めて言うと、外面の良さが身に付いただけだ、と吉右衛門は言った。そう言いながらも微笑みは満更でもないように見える。だいぶ歳の離れた妻と娘を持つ男は、口元を隠すように湯気の濃い茶をすすった。

「今頃が一番かわいいと、周りは皆言うんだが」

「そういうものですか」

 姿勢を崩した春太郎は適当な返事をした。吉右衛門の周囲が言うことを肯定したいところだったが、子育てどころか夫婦の営みもしたことがない身では説得力に乏しいだろう。

「でも、良い子だとは思います」

 素直な感想を言うことしかできなかったが、あんたがそう言うなら、と吉右衛門は満足したようだった。

 程なくして戻ってきたふみ子から湯飲みを受け取ると、五郎は仲見世で買ってきたあめ玉を渡した。微かな甘みしかない最も安いあめ玉だったが、ふみ子は甲高い声で礼を言った。

「あまり甘やかすなよ。事あるごとにものをねだるような癖がついたら困る」

「それは考えすぎでしょう」

 苦笑した春太郎は、幟はどうなりましたか、と訊いた。

 小さな声で応じた吉右衛門は、隅の棚に歩み寄った。寝かせられた幟を持ってきて広げる。

「あんたのところでも牛鍋をやるのか」

 特に決まりがあるわけではないが、牛鍋を出す店の店先には『御養生牛肉』と白地に赤く染め抜かれた幟が立っていることが多い。牛鍋の発祥は横浜で、少し遅れて江戸に伝わり、明治に入ってから流行したという。

 春太郎の営む小料理屋でも牛鍋を求める客が増えてきた。無いとわかった時落胆を見せるのはまだ良い方で、因循だの品揃えが悪いだのといった悪口を残していく客もいる。味について文句をつけられるよりも業腹だが、客の流れが絶えないほどの繁盛店でもなく、気に入った客だけを相手にする強気さを保てるような身代でもない。店と暮らしを維持していくには、客の望みに応えなければならない。

「人に食べさすだけのものは作れるようになりました。我ながら、薬を作ってるような妙な気分になりましたが」

 牛肉を口にする習慣が、徳川幕府の時代からなかったわけではない。ただし食用というより滋養強壮の効果を狙った薬用で、主に武士階級に限られる習慣だった。

 今から振り返っても切り抜けたのが不思議なほど激動だった慶応年間、倒れた父が食べていた時期があった。牛肉のお陰かどうか知らないが、父は回復して御一新を生きて迎えた。

 約三百年に渡った政権が、西国出身の下級武士たちに倒され、別の文化が入り込んだ国になろうとしている。歴史的な瞬間に立ち会ったことは事実だろうが、それが幸せだったかどうか、断言するには迷いがある。

「今日の夜にでも食べに来てみませんか。正直な感想さえ聞かせてくれればお代は結構ですから」

 二十数年前の父と牛肉の記憶を顧みながら、春太郎は出来映えを確認するように幟を眺める吉右衛門に言った。そうこなくちゃな、と吉右衛門は顔をほころばせる。

「あんたが俺の染めたものを掲げて商売するなら、料理の評判が悪いと俺にも迷惑がかかる。まずかったら承知しねえぞ」

 妙な理屈だと思ったが、見知った相手が客の立場から助言をくれるならこれ以上のものはない。

「延子さんとふみ子ちゃんも連れてきてください。三人分作れますから」

「そうかい。実は延子が、牛鍋を食いたいと前から言っててな。ただで食わせてくれるならちょうどいい」

吉右衛門さんには、うちの暖簾を染めてくれた恩がありますから」

 職人から夫の顔になってきた男が醸し出す空気は和やかだった。浅草公園の向こう、長らく放置されていた長屋に店を出そうと思った時、仕上げとなったのは暖簾であった。布を織って暖簾の体裁を整えた後、紋と文字、更に下地を染め上げたのは吉右衛門である。自分より十以上年上の男の仕事は、紺屋のことには疎かった自分にも凄さを訴えかけてきた。

「繁盛してるのかい」

 何気なく訊かれ、それなりには、と春太郎は応えた。

「独り身の気楽さでしてね、店の半分ぐらい埋まっている状態がずっと続けば生きていけます」

「結婚の予定はないのか」

「この歳ではもう」

 来年四十歳となる身の上を思い、春太郎は自嘲気味に笑った。店を開くにあたって他人の助けを借りなかったわけではないが、その借りも働き続けることで返せている。今は誰の助けを得ることもなく小料理屋を続けていた。

 他人に頼らないということは、裏を返せば人付き合いが希薄ということになる。御一新の前に縁談があったきり、春太郎の前に縁談が持ち込まれたり女が現れたりといったことはない。小料理屋の主人としてやっていく目処がついた頃から、家庭を持つことについては諦めていた。

 吉右衛門は小さく息をついて首を振った。何か言いたそうだったが、無理に聞き出しても無責任に思えそうで、深く追及する気にはなれなかった。

 ふみ子が運んできた茶をすすりながら口を開くと、自然に互いの仕事について語らう流れになる。年の差は小さくなく、接点も少ない男同士だったが、不思議と会話が続く。茶でなく酒であればいつまでも話し込めそうだった。

 湯飲みが空になると、春太郎は夜七時に吉右衛門が来ることを確認して辞去した。店先で延子に見送られ、幟を担いで来た道を戻る。長居するつもりはなかったが、南西の方角から大砲の発射音が聞こえた。皇居本丸の砲台で陸軍砲兵連隊の号砲係が、毎日正午に鳴らしている空砲である。時の鐘に変わって明治四年から始まったが、暦が太陽暦に変わってからは一日が二十四区切りとなり、それに慣れない市民たちに正しい時間を教えるという意味も持つようになった。鐘の音に慣れた春太郎も、『ドン』とあだ名される空砲を聞かないと正しい時間がわからなくなる時がある。

 寺社に囲まれ、長らく持ち主がいなかった長屋を買い取って小料理屋を始めたのは三年前のことだ。それ以前は本所の老夫婦が営む小料理屋に住み込んで働き、御一新の前は武家の嫡男だった。

 松野家は築地に屋敷を持つ、表祐筆を務めてきた御家人であり、いずれは春太郎も父の後を継ぐのが当然とされる環境で育ってきた。できれば別の道を歩みたかったところだが、御家人として生きていく才が目立つと自然に他の道は閉ざされていく。諦めて周りが言う通り御家人として生きていこうと覚悟を決めた十六歳の秋、御一新によって仕える相手が消えた。

 一度は諦めた御家人以外の道を歩む好機にも思えたが、現実には生活に追われるだけの日々だった。松野家が明治政府に帰順したのが慶応四年五月十五日における彰義隊上野戦争以後だったこともあって、明治政府から支給される家禄は、それまでの収入の八割未満となった。病に倒れ、牛肉を食べた後に回復した父は、底から這い上がってきた者の強さで剛胆になり、彰義隊の勝利を信じて帰順を遅らせた。そのために一層厳しい処分を受けたのは皮肉であった。

 敗戦と拠り所の喪失という衝撃を同時に受けた父は再び倒れ、母はその介抱に追われた。春太郎を初めとする息子たちは日傭取りとして生活費の工面に走ったが、新政府がかつての敵を迎え入れていることがわかると、父は家の再興を望むようになった。春太郎はその期待を受け、日傭取りの仕事ばかりでなく役人となるための勉強にも打ち込む日々であった。

 次第に御家人となる才に縛られている感じを覚えるようになった春太郎を解放する出来事は突然だった。明治五年二月、和田倉門から出た炎は京橋、銀座、築地を松野家屋敷諸共焼き払った。火事から生き延びたのは日傭取りの仕事で芝にいた春太郎一人で、家族の遺体を見つけることもままならないほどだった。

 屋敷のあった場所は程なくして新たな建物が建った。松野家の痕跡は開発を急ぐ新政府によって有無を言わさず埋め立てられたのだが、抗議する力もない春太郎は政権に仕える足がかりを失い、日傭取りとしてその日暮らしを続ける羽目になった。

 当時から開発が盛んだった浅草や本所で埋め立ての日傭取りをして十一年が過ぎた頃、小料理屋の下男を欲しがっていた老夫婦と本所で知り合い、彼らの店に住み込みで働いた。

 その暮らしも四年で終わった。ある時店主は、思い切って独立してみてはどうかと持ちかけてきた。突然のことに戸惑っていると、散々おだてた挙げ句金を渡し、春太郎の背中を押して外へ出した。

 店主は知り合った時既に高齢だったし、三十を過ぎた男を賄い付きで雇うことを負担に感じていることは察していた。渡された金が手切れ金のように思えたが、どうせなら店主の勧めに応じてみようという気になった。おだてられたせいではなく、四年間で料理人としての腕前が宿っているような気がしていたのだ。

 金は店の体裁を整えるのに使ったため手元にはほとんど残らなかった。空腹から売り物に手を着けたい衝動に駆られたこともあるが、一年経てばわずかながら常連もつき、自分一人が生きていく分には何とかなる稼ぎも得られるようになった。巷では士族の商法という言葉も漏れ聞こえたが、生きていくだけの稼ぎになっている分成功した方だろう。

 吉右衛門が藍に染めた暖簾を潜って店に踏み入れる。六畳間が四つ連なった長屋の内三つを店に、残りの一つを自分の家にしている。席が全て埋まる時や愛し合う者がいる日々を夢見ないわけではないが、家禄を打ち切られた士族たちが辿る末路の多くが悲惨であったことを思えば、住処と仕事を同時に持っている自分は恵まれた方だろう。それ以上は高望みに思えた。

 幟を置いてから牛鍋の材料を仕入れに行き、準備が整った時には四時を回っていた。鍋料理は作り慣れている方だったが、牛鍋についてはその自信が通用しない。文明開化の肩書きを背負っているような料理に気後れを覚えている気がして、春太郎は余裕を持って下ごしらえを始めた。

 時間をかけて下ごしらえを終えた頃には店は薄暗くなっていた。行燈の火をつけて視界を確保してから、奥の竈に鍋を持っていって火にかける。上野の店に通って盗んできた味を参考に作ったタレを加えながら味を見て、納得がいった時には吉右衛門が来る一時間前であった。

 鍋の隣で飯が炊きあがるとちょうどいい時間になる。七時を少し回ると、吉右衛門が戸を叩いた。

「試作ではありますが」

 昼間と同じ格好で現れた一家の前に鍋を置くと、彼らは中身をのぞき込んだ。茶色く染まった牛肉に視線が集まっており、表情には好奇心や不安感が宿って見える。未知の食べ物を前にしているのだから当然の反応だろう。

 自分も食べたことを言おうかとした時、ふみ子が箸を伸ばした。肉をつまみ上げ、小鉢に溶いた卵につけてから口に入れる。両親は娘の反応を気にしてか、咀嚼する様子を見つめている。

「美味しいかい」

 穏やかさを装って尋ねると、嚥下したふみ子は笑って頷いた。

 そこから先は団らんの空気が流れた。春太郎が久しぶりに目にする光景で、次第に場違いな気持ちになってくる。

 食べ終わったら呼ぶように言い残して奥に引っ込んだ春太郎は、遅らせていた夕餉を摂る以外にすることが思いつかずに、少し固くなった飯と薄い味の味噌汁を腹に流し込んだ。

 

 二

 

 太古前一家の試食を経た後、更に自分で食べてみて納得がいってから、春太郎は『御養生牛肉』の幟を店先に立てた。試作の牛鍋は揃って好評を得たが、最後に信頼できるのは自分自身の舌である。その舌が問題を感じなかったのだから、あとは客に振る舞うだけであった。

 牛鍋がないことで文句を言われることはなくなったが、味に注文をつける客が現れた。曰く、上野界隈の店の方がましだという。後で聞いた話だが、東京府で牛鍋を扱う店は五百を数え、いくつもの支店を出すような大店もあるらしい。舌の肥えた客がそれらの店が出す牛鍋と比べれば、俄仕込みに思えるのだろう。

 とはいえ、客の指摘を恐れてはいられない。周りには牛鍋をもてはやす風潮があって、牛鍋がない店は因循姑息と見なすような雰囲気さえ感じた。牛鍋はともかく、他の料理を食べてもらえば帳尻は合うのだ。客寄せのためでしかないとしても、牛鍋は続けなくてはならない。

 思ったほどの評判は呼ばなかった牛鍋だが、発売して一ヶ月経つと完売する日が訪れた。肉の保存が難しいため一日五食限定としていたが、それを売り切るには丸一日が必要だった。

 完売した日の夜には吉右衛門も現れた。仕事上では暖簾を一度染めただけの付き合いだが、小料理屋の常連客でもある男の来店は客がいない時ほど安心できた。

「家長のくせに自分の部屋がなくてな」

 わざわざ一人で簡単な料理と酒を求めて訪れる理由を、いつか吉右衛門はそう説明していた。

「酒には付き合ってやれませんが」

 周りに客がいないと吉右衛門との間には和やかな空気が流れる。年齢にして十五の違いがある男は、物心ついた時から職人一筋の道を歩んできたという。背負わされた運命に中途半端にしか立ち向かえず、落ち着くまで三十年余も費やしてしまった自分にはない一本気は清々しく、何より強く見えた。

「繁盛は、してるみたいだな」

 取りようによっては皮肉に聞こえる言葉も、吉右衛門が相手なら違うとわかる。本当に皮肉であったとしても、彼なりの意図があると考えて真摯に受け止めたいと思った。

「男一人で生きていく分には」

 自分の言葉こそ卑屈にならないよう明るさを装って言うと、盃を傾けた吉右衛門は愛想に欠ける表情をほころばせる。見た目に反して酒の強さは人並の彼は、杯一杯の安酒で顔を染めた。

「一人は気楽か」

 末を期待と共に案じる優しい表情に見えた。素直に頷いた春太郎は、蓄えなど持てませんから、と続けた。

「この長屋を買い取って改築するので、手持ちの金をほとんど使い切ってしまいました。この三年の収支はようやく黒字です。自分一人を養うので精一杯ですよ。こんな男に嫁ぐ女にも、そこから生まれてくる子供にも、幸せなど保障してはやれません」

「甲斐性なしか」

「まあ、ずっと昔に諦めてしまったことですが」

 十年ほど若ければ吉右衛門の言葉を受け流せなかったかもしれない。当時は日傭取りとして生きながら、周りで何か巨大な変化が起きて、それが自分を幸せへ押し上げてくれるのではないかと夢を持っていた。

「十年前といえば、何をしていましたか」

 客が吉右衛門一人になった店内を見回してから、消毒液を染みこませた布で包丁を拭く。閉店が近い時間だし、片付けならば吉右衛門と話をしながらでもできる。

「今と何も変わらんよ。ああ、ふみ子は産まれてなかったか」

「でも結婚はしてたんでしょう」

「なかなか子供ができなかったけどな。諦めかけた時に産まれた時には、何て間の悪い子だと思ったけどな」

「それはまたどうして」

 会話の間に三本の包丁を拭き終えてから、今度は食器をすすぐ。帳場と隣り合った流し台の上で、柄杓で掬った水を食器にかける。新しい水道建設のための調査が三年前から始まり、完成すれば必要に応じて水を出し入れできるようになるそうだが、まだ御一新以前と同じように、汲み置きの水を柄杓で掬って使っている。

「ふみ子が産まれた時、俺はもう四十五だった。娘が年頃になった時俺が妻子を遺して逝くかもしれないだろ。そういう心配はずっとあるんだよ。死なないまでも、他人の世話がなきゃ生きていけないかもしれない。どっちにしろ染物屋は廃業だ。延子はともかく、ふみ子に苦労はさせたくねえ。浅草の夜は、飲まれたが最後生きて出られるものじゃねえんだ」

 似合わぬ長広舌を終え、吉右衛門は杯を音高く置いた。それに応じ、春太郎は酒を注ぐ。

「俺に妹はいませんでしたし、浅草に来て三年しか経っていませんから何とも言えませんが」

「そうか。ならその方がいい。まともな男なら娘や妹を持ってると苦界の心配をしちまう時がある。なかなか辛いもんだ」

 吉右衛門は浅草で生まれ育ち、職人一筋の人生を送ってきた男である。御一新以前から住む町の表情が昼と夜でどのように変わり、その裏の悲喜こもごももを知っている。喜怒哀楽を醸し出す人間たちのことも同様だろう。

 盃を勢いよく傾けた吉右衛門は一層表情を緩めた。

「ふみ子が産まれた時、そういう心配を延子に言ったらな、鍋で叩かれたよ。俺を殴るためにわざわざ台所まで行って取りに行ったんだ」

「余程腹に据えかねたということですか」

 控え目な所作が魅力的な延子には初め、自分と同じ武家の育ちで身に付いた匂いを感じていただけに、吉右衛門と同じ浅草の生まれと聞いて意外に思ったものだ。彼女にも江戸前気質と呼ばれるようなものが宿っていたのかもしれない。

「延子の気持ちがわかるか」

「女は男が思うよりも子供を深く思うものでしょうから。母上がそうでした」

 火事の前、父の世話に追われながらも母は三人の息子を常に思っていた。日傭取りとして生きる一方、松野家再興のために官員への道を探っていた自分が一番大きな心配だったようで、無理をするなが口癖であった。

 そんな母を助けるために、炎に立ち向かうことさえできなかった。いつか吉右衛門にその話をした時、現実などそんなものだ、と言われた。だから自分の努力が足りなかったなどと責める理由にはならないと続いた言葉には救われたが、未だに吹っ切れてはいない。

「俺はずっと一人でしょうが、吉右衛門さんは妻子がいて恵まれていますよ。あなたの一家が元気なら、俺も救われます」

「生意気をぬかすな。食いに来てやらねえぞ」

 酔いが回ったのか、少しずつ言葉の響きが怪しくなってきている。背後の時計を振り向くと閉店まで十分を残している。

 吉右衛門が酔いつぶれる前に追い出してしまおうか。そう思った時、戸が開かれた。

「いらっしゃい」

 反射的に声を上げた春太郎は、客の見た目に目を奪われる。服の柄や生地は目立つものではないが、女と少年は下町の小料理屋、それも夜の時間には似つかわしくない。

「いくらだい」

 二人にただならぬ気配を感じたのか、吉右衛門は告げられた金額分の硬貨を置いて逃げるように立ち去った。足取りと戸を開く動きがおぼつかなく心配になったが、目の前の二人は親子の客だろう。

「あの、牛鍋を」

 女はためらいがちに言った。直前まで感じていた和やかさを攫うように冷え冷えとした声音で、春太郎は言葉が出なかった。

「表の幟を見たのですが」

 品の良さをうかがわせる語り口ではあったが、せっかくの整った容姿を無表情が陰らせている。春太郎は一瞬幽霊を前にしているような気分に陥り、商売のことを思い出して我に返った。

「ああ、申し訳ないですが、牛鍋はもう終わったんです。一日五食までしか出せなくて」

「では明日なら平気ですか」

「ええ、それならば。でも今からなら二区に行けば食べられる店もあるかもしれません」

 浅草寺周辺の田圃を埋め立てて完成した浅草公園は明治十七年に七区に分けられた。そのうちの二区は仲見世周辺に当たる。同じような場末ではあったが、大店の支店もあって、料理人の判断からしても味は保障できた。

「あまり人のいるところは。今日のところは何か温まるものを用意していただけますか」

 訳を抱えた女に見えてきて、春太郎の目は傍らの少年に流れた。ふみ子より四、五歳年上に見えるが、自分を見るとよく菓子をねだってくる天真爛漫なふみ子とは違う類だろう。表情が乏しい顔で、店を絶え間なく見回している。

 警戒しているようには見えない。彼の目の動きは何かをじっくり見定めているようで、歳に似つかわしくない冷静さだった。

「ほとんど材料も切れて、たいしたものはできませんが」

「お任せいたします」

 二人を座らせた春太郎は、頭を切り換えて料理にかかる。飯は二人分あるが魚肉すらない。容貌通り温まるものをを用意することはできるだろうが、味気ない食事になりそうだった。

「辛いものは平気ですか」

 棚に唐辛子を見つけた春太郎は、手っ取り早く体を温める料理を思いつく。女が最初に頷き、声をかけられた少年も頷いた。

 任せると言ったのだから、どんなものを出しても文句はないだろう。

 鍋に火をかけ、豚と鳥の脂で作っただし汁を加えてかきまわす。沸き上がるまでに材料を全て切り終えるのが理想である。

 磨いたばかりの包丁を取ってにんじんの皮を剥く。十年前ならすぐ近くの畑から仕入れることができたのだろうが、今は多摩の方で採れたものを使っている。運ぶ手間暇が家計に負担を強いる上、にんじんからもわずかに新鮮味を奪っているのが惜しい。どうせ始めるなら十年ぐらい早く本所の老夫婦と出会えれば良かったと思った。

 銀杏切りにしたにんじんをまな板の隅にやり、白菜をみじん切り、筍を千切りにする。本来なら豚肉を加えるところだが今日はない。最後に春太郎は唐辛子を手にしてみじん切りにした。

 包丁を置いた時鍋は小さく沸いていた。春太郎はその中に酢を注いでかき回す。そのうちに泡の上りは激しくなり湯気も立ってくる。乾燥椎茸を加えた具を鍋に入れ、完全に火が通る瞬間を見極める。

「よし」

 脂と唐辛子、更に酢の匂いがちょうど良い割合で混ざり合った瞬間に春太郎は鍋を持ち上げた。手早く器に移し替え、火を消してから飯を盛る。自分ならもう一品欲しいところだが、どれほど金を持っているかもわからない客が相手なだけに、これ以上のもてなしは勇気が要った。

 仕上げに胡椒を振り、二人の前に湯飲みと茶碗をつけて差し出した。

「鳥獣の脂でだしを取り、酢と唐辛子で味をつけたものです」

 女の横顔には一瞬いぶかしげな表情が見えた。品書きの中でも珍奇な立ち位置にある料理で、好んで注文する客は少ない。唐辛子と胡椒の辛みは即座に体温を上げてくれるから、冬には僅かながら需要がある。そのためやめるにやめられないというのが本音である。

 二人を残して帳場の向こうに引っ込むと、汁をすする音が聞こえ出す。女はすぐに水を求めた。二人の額には早くも汗がにじんでいる。

「温まるでしょう」

 二つの湯飲みに水を注いでやりながら訊くと、本当ですね、と女は微笑んだ。

「食べたことのない料理です」

「清の料理と聞いています。こういう酸っぱくて辛い料理が人気のようですが、日本ではあまり好まれませんね」

 ふうん、と小さな唸りが聞こえた。興味を惹かれたように料理とこちらを交互に見ていたが、それ以上言葉を発することはない。

「さあ、冷めないうちに。外は寒いのでしょう」

 二人を促して春太郎は帳場の向こうへ戻る。時計は閉店時間を過ぎていて、その分眠れる時間は少なくなるが、早く店を閉めたいとは思わなかった。

 二人の間に会話はない。しかし吉右衛門との間に感じたような空気が流れているようで、澄んだ雰囲気は眺めていて心地よい。

 食べ終わるまで二人は口を利かなかった。もしかすると静けさを乱さないために遠慮していたのではないか。汗ばんだ二人の顔は満足げで、嫌な時間を過ごしたようには見えなかった。

「お勘定を」

 女に金額を告げ、二人分の食事代をもらう。閉店時間から三十分ほど過ぎていたが清々しい気持ちだった。

「明日良ければ来てみてください。牛鍋を取り置きしておきましょう」

 女は意外そうな顔をして、そんな申し訳ないことを、とためらいがちに言った。

「牛鍋は新参者が入り込むのは難しいので、売れる保障があるならこちらも助かります。ついでに良い評判を広めてもらえれば願ってもないことです」

 こちらにとっても得があることを仄めかすと女は笑みを浮かべた。公正さを重視する性格が見える。ますます育ちの良さが窺えた。

「いつになるかわかりませんが」

「明日の内であればいつでも結構です。ただ、肉を取っておけないので明日中でないと約束は果たせませんが」

「わかりました」

 来るとも来ないともつかぬ態度を見せ、女は少年を連れて外に出た。一瞬寒風が吹き込んで、店内の温もりに包まれて溶ける。春太郎は楚々とした印象の女を思いながら残りの片付けを終え、一人の寝床へ戻る。

 翌朝春太郎の脳裏に残っていたのは、久しぶりの妄想じみたしどけない女の姿であった。

 

 牛鍋用の肉をはじめ、料理の具材を仕入れて歩くうちに開店時間が迫ってくる。特別なことも起きず、いつもと同じ時間に春太郎は店を開けた。

 一時間経つと『ドン』が鳴る。その時には早くも牛鍋の注文が入った。

 この一ヶ月間、準備したにもかかわらず見向きもされなかった日の方が多い。珍しいこともあるものだと思いながら、一人か二人ずつ店に入ってくる客の相手をしていると、夕方までに三食目が売り切れた。

 直後に一人の客が牛鍋を注文する。今日は希にある繁盛日だと思いながら注文に応じかけた春太郎だが、二人の姿が首を寸前で止めた。

「すみません、今日は売り切れで」

 そう言うと相手は穏和そうな顔を歪めた。

「何だよ、時間の無駄かい」

 腹立たしげに椅子を蹴り、男は出ていった。これが元で評判を落としたら、来る保障のない二人のためにとんだとばっちりとなるが、今日のことは約束なのだ。金を払った以上満足のいく料理を食べさせるという、店主と客の間で暗黙に交わされることと同じ重みがある。反故にされたと知れば育ちの良い女は落胆するだろう。

 その後も不思議と牛鍋を食べたがる客が続いた。そのたびに断り続け、客の様々な反応に晒されるたび、繁盛日どころか厄日だと春太郎は思った。

 客の中には目聡く牛肉を見つける者もいて、出し惜しみしているのかと糾弾してきたが、予約が入っていると言って何とか宥めることに成功したものの、恨めしげな表情は忘れられない。覚えていろよ、とでも言いたげで、評判が落ちるのが本気で心配になった。

 そうして守り抜いた牛鍋の材料を捌く瞬間は夜に訪れた。現れたのは少年一人だったが、客の不信に耐え抜いたことを報われた気分になった。

「一人なのか」

 少年を迎え入れてから外をうかがうが、店先の提灯一つしか光のない道には人影が見えない。

「後から来ると聞いてます」

 少年は相変わらずの無表情だった。

「来るまで何か作ってやろうか」

 少年は金の心配をしたが、余り物で良ければ無料でいいと説き伏せる。

 萎びた野菜に水をかけてから茹で、みりんと酒を合わせてつけ込み、簡単なおひたしを作る。簡単に野菜が取りたい時に自分でも重宝する料理だった。

 細かく切った油揚げを加え、ごまを振って仕上げたおひたしと水を差し出す。戸惑いがちに動き始めた少年の箸は少しずつ滑らかになっていく。お通しのつもりだったので、無言で食べていればすぐになくなる量だった。飯もなくなるとすぐに二人とも手持ち無沙汰になる。

「そう言えば、お前たちは親子なのか」

 女は自分とあまり歳が違わないようだった。少年もまだ十歳を超したばかりだろうし、親子が最も自然な関係に思える。

 果たして頷いた少年だったが、言葉はなかった。会話を拒んでいる風ではなく、根っから無口な性格に思える。沈黙が好きな質ではないが、寡黙な人間の心を開くほど会話巧者でもない。母が来れば自然と会話ができるだろうと思いながら春太郎は女を待つ。

 少年が待つ間も他の客が切れることはない。行き交う客たちを相手にしているうちに、とうとう閉店時間を迎えてしまった。

「本当に来るのか。別の日だったということはないか」

「だったら牛鍋を楽しみになんてしません」

 思ったよりはっきりした口調で返されて口を噤む。

「今日来る約束をしていたんです」

 少年の声に必死さが宿る。事実を伝えるだけでなく、自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。

「そうか。それなら来るまで待つといい」

 気軽に言った後で、日付が変わるまで現れなかったらどうするのかと思い直す。時計を振り向くとあと一時間で翌日になる。

 春太郎はとりあえず提灯を降ろして店を閉め、新たな客が入ってこないようにした。当然だがそうしただけで店内の状況が変わるわけではない。名も知らない少年が、母を待ち続けているという、居たたまれない状況が続いている。

 ろくに知りもしない少年に、下手な声をかけて藪蛇になるのも困る。春太郎は吸ったことのない煙草か煙管が欲しいと思った。臭いや味が好きになれず、ずっと避けていたのだが、少なくとも間を持たせることはできるだろう。他人がいるのに口を開けず、誰かを待ち続けることなど、これまでの人生では遭遇しなかった。

 時間が経つにつれて静けさが増していく。片付けは全て終わり、いつもなら夕餉を済ませて寝るだけなのだが、少年を残して奥に引っ込むわけにはいかない。

 その少年は日付が変わった頃から船を漕いでいる。横になってもいいと声をかけるのはためらわれた。必死に睡魔と戦っているように見える。母が来るのを待っているのだ。母が約束を果たすことを信じているのだ。

 自分もまた、親子には約束がある。牛鍋を二人のために振る舞うと宣言し、風評に怯えながら具材を守りきった。来てもらわなければ困るのだが、時間は刻々と過ぎていく。

 やがて毎日自分が起き出す時間になった。春太郎は耐えたが少年は睡魔に負けて突っ伏していた。

 春太郎は決断し、少年を揺すって起こした。彼の上体が跳ね起き、首が周囲をうかがう。

「大丈夫か。済まないな、妙な時間に起こして」

 慎重に言葉を紡ぐと、周囲をうかがっていた少年は落胆を見せる。咄嗟に伏せた顔が、何かをこらえるように強ばって見えた。

「もう少しで朝になるが、誰も来なかった」

 事実を淡々と告げるのが精一杯の気遣いだった。

「来ると言ったのに」

 か細い声はわずかな震えを宿していた。

「良かったら一緒に牛鍋食べるか。これ以上肉を置いておいたら腐るから、もう使わないといけないんだ。俺では母親の代わりにはなれないだろうが」

「だったら一緒になんて食べなければいいでしょう」

 きっと振り向いた少年の目元は耐えきれなかったように濡れていた。余計なことを言ったかと後悔した春太郎は、すぐさま泣きながら謝りだした少年を前にうろたえる。

「いや、謝らなくていい。一人になりたいなら奥に行けばいい」

「いえ、牛鍋作ってください。二人分。母の分も食べますから」

 約束を果たさなかった母への意趣返しのつもりだろう。それが成立するためには母と再会しなければならないから、彼はまだ母親が来ることを信じているのだ。

 悲壮感の漂う仕返しに協力するつもりを固めて春太郎は料理にかかる。使うのは白菜にしらたき、乾燥椎茸と焼いた豆腐。葱も欠かせない。これらをそれぞれの形に切り、牛肉は薄切りにする。予め暖めておいた鍋の中には牛の脂が入っていて既に液状になっている。肉と葱が香りを出すよう簡単に焼いてから、自作のタレをかける。音と香りが一層主張を激しくするが、野菜を被せると大人しくなる。水を加えて煮込み、タレの味が染みた煮汁や具を味見する。

 思いついて少年を呼ぶ。彼は入口を見つめて動かないでいた。

「味見してみるか。君の好みを俺は知らない」

 我ながら合理的な理由付けだと思った。こうして手元に置いておかないと、一人で母を探しに出ていってしまう気がした。火に向かっているとどうしても少年に背を向けなければならない。もしかしたらそれが狙いで牛鍋を食べたいと言ったのかもしれない。

 彼はゆっくり立ち上がり、帳場を回り込んだ。身長差があるとはいえ、不自然なほど顔を上に向けている。歯を食いしばっているのが見て取れ、さっきまで溢れていた涙を食い止めるので必死のようだった。

 そんな顔を見ていると子供の頃の自分を思い出す。腕力に屈服した日暮れ時や厳しく叱られた後の夜など、涙の記憶は数え切れない。共通するのは、泣き顔を見られたくないという思いだ。

 男の子の本質は変わらぬものだな、と微笑ましくなったが、顔に出したら彼の自尊心を傷つけそうで、味見を促すことでこらえた。

「美味しいです」

 こちらを見ず、横顔からの感情が読み取れなかったので、余計な気遣いは要らないと言いかけたが、少年の感情を乱す二の舞を演じるわけにはいかない。今の自分は料理人ではなく素の人間でなければならない。

 母親の代わりにはなれなくても、最低限大人の姿勢で接しなくては少年の感情を支えてはやれない。

「そうか。それならいい」

 少年が席に戻るのを見届けてから、春太郎は鍋を机に持っていった。

 改めて時計を見遣る。居眠り程度しかしていないとはいえ、朝の時間に食べるには重い食事だろう。

 春太郎の心配をよそに、少年は一心不乱に牛鍋を食べ続ける。次第に目元が再び濡れていくが、やけ食いのように箸を止めない。

「気が済むようにしていい」

 春太郎はそう言い残して奥へ引っ込んだ。約束は半分しか果たせなかったが、それは自分にはどうしようもないことだ。だからといって無関心を決め込むには、店に残った少年の見せた泣き顔は重すぎた。

 

 三

 

 久方ぶりに吉右衛門に仕事を頼み、決して軽くはない出費によって準備を整え、満を持して客に出した牛鍋だが、期待したほどの評判を呼ばないまま年の瀬を迎えた。

 大店に匹敵するほどの評判や、店の看板を張れるほどの存在感を期待したわけではない。それにしても、売り出して一ヶ月余で完売したのがわずか二日に留まったのでは、自分が作ったものでありながら期待外れであった。

 牛鍋用の材料を仕入れながら使い切れない日が多いため、この一ヶ月間の収入はわずかに減った。牛鍋に限らなければ店の評判に変化はなく、それが牛鍋の不評を補ってくれている。結局変わったことをするより今まで通りのことを確実にこなしていくことの方が、自分には似合っているのかもしれなかった。

 それでも新たな品書きに挑戦するのは店を出した直後以来のことで、久しぶりに料理人として勝負に出られた清々しさを覚えている。売れる見込みなしと見限ってしまうのは簡単だが、同時にせっかく前向きになった自分自身を貶めることになりそうだった。

「俺にはそれほど悪いものには思えんがな」

 冬の寒風をかきわけて訪れた吉右衛門は、牛鍋を一人でつつきながらそう言った。口調が何気ないだけに素の心情が表れているように思え、慰めを口にされるより心に染み入った。

「まあ、牛鍋一筋の職人みたいな人が最近は増えているようですから」

 巷に出回る牛鍋を提供する店の多くは専門店だ。自分のような俄仕込みの上片手間で作る者が、専門家を凌駕するのは並大抵ではない。

「美味いと思うならまた一家で食べにきてください。品書きに加えたからには、簡単には消したくないので」

 吉右衛門に渡していた品書きを見遣った時、店の戸が開かれた。思わず顔を上げる。入ってきたのが男一人だったことで、出迎えの言葉を口にするのも忘れた。

「どうした」

 吉右衛門に言われて我に返り、春太郎は男を出迎えた。牛鍋ではなかったが気を悪くした様子もなく注文をくれた。

 他の客がいることで絶えた会話だが、その客が出ていくと再び会話が始まる。その間に割って入った小さな声がある。

 振り向くと上がり框に立って芳治(ほうじ)がこちらを見ていた。

「食事はどうしますか」

 時計は閉店時間近くを指している。先に食べていていいと言って芳治を奥へやった。店の片付けなどをしていると、どうしても芳治と夕餉を摂ることはできなくなる。時には帰ったら既に眠っているということもある。

「あの子かい、女の置き土産って」

 注がれた酒に口をつけてから吉右衛門が訊いた。

「ええ、母親のところに早く返してやりたいところなんですが」

「見つからないかもしれんぞ。東京どころかこの世にいないかもしれないだろう」

「心中を避けて、息子だけを見ず知らずの俺に預けたと言うんですか」

「二人の事情が何もわからないから、何とも言えないがな」

 吉右衛門は腕を組んで唸った。持て余す息子を見ず知らずの男に預けるというのは、頼れる者を誰も知らなかったとしても勇気が要る。息子にしてみれば見捨てられたようにしか思えないだろう。

「子供から素性は訊いたのかい」

「似鳥芳治という名のようで、母は菊子というそうです。それ以外は何も話してくれません。警戒しているんでしょう」

 共に暮らすようになってから、彼は毎日先に食事をしていていいかと伺いを立てに来る。そのたびに食べていいし眠ってもいい。いちいち訊きにこなくてもいいと言うが、彼は何も聞こえていないように同じことをする。警戒心の表れのようで、自分自身を省みる日々であった。

「妙に暗い親子だと思ったが。何か訳ありに見えたな」

 始めて親子が現れた時に居合わせた吉右衛門の言葉に、春太郎は黙って頷いた。訳を抱えているのは簡単に感じ取れたが、それに巻き込まれるとは思いもしなかった。

「それで、あの子はどうするんだ。縁もゆかりもないのにいつまでも置いておく気か」

「それは、そうするしかないでしょう。歳を訊いたら十二歳だと言うんです。放り出せるわけがないでしょう」

「一ヶ月ぐらいなら続くだろうが、ずっと母親が現れなかったらどうする。お前に養えるのか」

 酒が入ってはいたが、吉右衛門の声はしっかりして聞こえた。親の経験を積む男の重みが言葉にはこもる。

「どこかで篤志家にでも頼め。一人で暮らしていくので精一杯の稼ぎなんだろう」

「でもそんなもの、いつまで頼りにできるかわかりません」

 身寄りのない子供や老人などを集めて世話をする施設を作った者はいる。しかし彼らにはほとんど支援の手がなく、ある日突然潰れてしまうこともある。

「自惚れかもしれませんが、芳治は俺を慕っているように思います。俺は自分が感じた通りのことを信じます」

 身構えた春太郎だが、そこまで言うならいいけどな、と吉右衛門は争う姿勢を見せなかった。

「駄目になったとしても俺は頼るなよ。話を聞くぐらいしかできない」

「充分ですよ。金の助けは三年前で最後でしたから」

 手切れ金のように思えた金だったが、あれがなければ今になってもずるずると同じ日々を過ごし続けただろう。春太郎の最も古い記憶は黒船来航で日本中が大騒ぎしていた時のもので、それが御一新という結果を作った後は大火によって家族や家財を失い、一人野に放り出された。振り返ってみれば波瀾万丈な時を過ごしてきただけに、落ち着く先を手にした本所での日々は、ぬるま湯のように居心地のいいものであった。

 店を出る時に渡された金に老夫婦の親心が含まれていたのか、今となっては確かめようがない。しかし男一人が生きていくので精一杯とはいえ、自分自身の力によって地に足の着いた生活を送れるようになった。寂しさもありながら充実を覚える日々であり、今更他人から金の支援を受けても白けるだけだろう。

「子供の一人ぐらい、養ってみせます」

 言い切る根拠は、自分の食費を切り詰めるなどして費用を捻出するという拙い計算だけだ。きっと突き崩すのは容易で、その時自分には建て直す術を持たない。吉右衛門が言うように、慈悲深く自分よりは余裕のある篤志家に頼んだ方が正しいのだろう。

 冷静な計算もそれを示していたが、それに諾々と従うのは冷たいと思う。詳しい事情は知らないが、置き去りにされたような少年を再び他人の手に預けるのはたらい回しにするようで寝覚めが悪かった。

「まあ、頑張れよ。甲斐性無し」

 吉右衛門は杯の傍に金を置いて立ち上がった。酒が入った割に危なげない足取りの背中が夜の闇に消えていくのを見届け、春太郎は提灯を畳んで戸を閉めた。

 戸につっかい棒を掛け、店の中を片付けると奥へ戻る。行燈の火をつけると芳治は六畳間の隅で薄い毛布に体を包んで丸くなっており、静かな寝息を立てていた。

 台所にはぬるくなった味噌汁と飯が置いてあった。ちゃぶ台には煮物がある。芳治が作ったものだ。母親は生活の為に苦労をし、手が回らないところを芳治が補ってきたのだろう。子供が作ったとは思えないほど、芳治の用意した夕餉は美味かった。

 これほど出来た子供を放り出して、母親の菊子はどこで何をしているのか。どうして自分に芳治を託そうと思ったのか。彼女に訊きたいことはいくつもある。そのためにも芳治にはここにいてもらわないとならないだろう。

 彼女が少しでも母親らしさを残しているなら、いつかこの店に息子を求めて戻ってくる。その時には何が何でも牛鍋を親子揃って食べてもらわなければならないと、春太郎は意固地になって菊子の来訪を願った。

 

 律動的な音で目を覚ました春太郎は、はっとして跳ね起きた。直後に今日は定休日であることを思い出す。

 寝坊したが最後、誰も起こしてくれない危険と隣り合わせの日々を三年も続けてきたから、眠りに落ちると体は警戒して早めに起きようとする。その癖は簡単に直るものではない。

 ぼんやりしているうちに、隣に芳治がいないことに気がついた。その間にも律動的な音は聞こえてくる。すぐ隣の台所には芳治が立ち、慣れた様子で包丁を操っている。

 呼びかけると彼は息を呑んで振り向いた。

「早起きだな。たまには俺がやってもいいんだぞ」

「恩義がありますから」

 芳治は顔を伏せ、控え目な装いで言った。彼が居着いてから間もなく二週間になるが、春太郎が何も言わなくても食事の準備をしてくれる。それまでは一人でやってきたことだし、戸惑いも感じていたから休んでいてもいいと芳治には言ったが、彼の方からやらせてほしいと頼んできた。

「慣れているんだな」

 刃物を恐れない手つきを見て言うと、いつもやってきたことですから、と彼は答えた。

「母親の代わりにか」

「仕事で忙しい人でしたから」

 短い会話だったが、初めて芳治の背景を知ることができた。芳治のことについて、この二週間足らずで得たのは親子の名前だけである。初めて店に来た時は戸惑ったように涙を見せたが、元々一人でいることに慣れているのだろう。春太郎が店の切り盛りをしている時も手を患わせなかったし、料理についても職業人の春太郎からしても及第点であった。

 菊子のことについて訊きたい気持ちはあったが、芳治が置き去りにされた子供であることを思い出す。どういう事情があったにせよ、それは子供を深く傷つけただろう。何かきっかけがあって自分から話したくなるようになるまで待つべきだと思った。

 二人分の飯と味噌汁が用意されちゃぶ台に載る。障子から差し込む光は少し明るくなっていた。

 率先して片付けをする芳治が落ち着くのを待って、春太郎は外へ行かないかと声をかけた。

「正月の準備をしなきゃならん。手伝ってくれ」

 家に置いてくれる恩義で働いている芳治なら、仕事を仄めかせば動かしやすいと思って言葉を選んだのだが、何をするんですか、ときょとんとした顔で訊かれたのには虚を突かれた。

「だから、正月の準備だ」

「いえ、それはどういうことをするのかと思って。すみません、したことがないんです」

 上品な女だと思っていた菊子の印象が急激に悪くなった。息子に年中行事さえ教えられない母親だったのだろうか。

「教わらなかったのか」

 信じられない思いを抱きながら芳治に訊くと彼は頷いた。

「とても忙しくて、構っていられないようでしたから」

 息子より仕事が大事な母親。そんなとんでもない背景を見るような思いだったが、芳治の声は静かで、一人で過ごした時間を孤独には思っていないようだった。

「母親に言いたいことはないのか」

 そう訊くと芳治は黙ってしまう。母親が現れないことで牛鍋をやけ食いした姿と、その後の少年らしからぬ落ち着きは違いが大きすぎて、本人の中でも母親に対する気持ちが整理しきれていないように見える。

 芳治が黙ると春太郎も言葉が見つからない。芳治の中にあるまとまらない感情に方向性をつけてやれればいいのだが、つい先日まで夫ですらなかった男には手がかりすら見つけられない。

「終わったら十二階に行くか」

 思いつきを口にすると思いの外芳治の興味を惹いたようで、連れていってくれるんですか、とわずかに弾んだ声を出した。

「エレベーターが故障しなければいいけどな。ちゃんと手伝ってくれたら動いてくれるだろうよ」

 浅草十二階の俗称がつけられた凌雲閣は、エレベーターで展望台まで昇れるのが最大の売りであるが、開業して一ヶ月余りで何度も故障しているという。まだエレベーターに乗ったことのない春太郎だが、展望台へ無事にたどり着けるかどうかが一つの運試しとして、浅草の住人たちの間で定着しつつあるようだった。

「ともかく、買い物だ。お前の母親がどう思っていたのか知らないが、どんなに流行らなくても正月の装いだけは整えなくてはならないからな」

 そう言って芳治に小さな行李を背負わせて連れ出す。外は冬晴れで、乾いた空気が清々しい。御一新前から路地裏だった道に人の通りはないが、澄んだ空気が遠くからの喧噪を伝えてくる。

「お前が教わらなくても、正月は特別なものだ。あれだけ多くの人間が集まってくるんだからな」

 そう言いながら表通りに出ると、浅草寺に続く道は人でごった返していた。冬日が人の熱気で温まって感じられる。今日は十二月十七日、浅草観音の歳の市の日である。少し歩いただけでもお飾りや繭玉などを売る出店が目につき、油断すると引っ張られそうなほど活気に溢れている。最近は歳の市で正月の準備をすることが少なくなったと聞くが、浅草観音への参詣はまだまだ廃れない。何より羽子板市はいつでも盛況である。最近では娘義太夫なる役者とも歌い手ともつかぬ娘の羽子板が人気で、以前は女が多かった羽子板売り場にも若い男が集まるようになってきた。

「初めてか、歳の市」

 身を寄せてくる芳治に尋ねる。相変わらず表情は乏しかったが、行き交う人の流れに目を配る表情には不安が宿って見える。その顔で買い物の余裕もなかったから、と答えた。

「休まずに働く人でしたから」

 年末年始も関わりなく働くなど考えられなかった。決して余裕のある生活ではない自分でも、年末年始はけじめをつけるために店を閉めて浅草観音にもお参りをしているのに、そこまでして働くのは不遜ですらある。

 そこで余裕がなかったという言葉が思い出される。休まずに働かなければ生活を維持できないような日々であったのか。そうだとすれば、菊子のことを薄情や不遜などといった言葉で表せない。

「お前の母親はそうだったんだろうが、俺は違う。必要なら休みも取る。そうやって緩急をつけた方が長続きするものだ。物事はもちろん、人生も」

 芳治はきょとんとした顔で頷いた。十二年しか生きていない子供に人生を説いてもわかるのは難しいのだろう。

 繭玉や正月飾り、餅を買いながら仲見世を歩くと羽子板を売る場所にさしかかる。春太郎は目当ての羽子板を求めて手を伸ばす女たちの向こうに、娘義太夫の羽子板を見た。今まで年明けの店には人気のある歌舞伎役者の羽子板を飾ってきたが、今年は牛鍋を始めるなどして変化のあった年である。新しいことをしてもいいのかもしれない。

「あれも正月の準備ですか」

 芳治が尋ねる。今までに比べて声に張りを強く感じた。

「店の中に飾るものだ」

「でも、あれは羽根突きで遊ぶものでしょう」

「あれだけ見事な絵なら充分飾っておける」

 そう言いながら芳治を連れて女たちの群をかき分ける。何とか最前列に出ることができたが、あまり長居するとひんしゅくを買う羽目になる。春太郎は直感で三味線を武器のように勇ましく構えた娘義太夫の絵と見栄を切る歌舞伎役者の羽子板を買ってすぐに離れた。

 一通りの買い物を終えると一旦大通りを外れて店に戻る。喧噪と静寂の差は激しく、少しの間耳鳴りがした。

「身軽になったらお参りをするぞ」

 上がり框に行李を置いた芳治に言うと、何を、と訊かれた。

「今年一年の感謝と、来年の幸せ。それからお前の母親が早く戻ってくるように。何の事情か知らないが、用事が早く済むように願ってこよう」

「そんなものがあるんでしょうか」

 芳治ははっとするほど冷めた声を出した。表情にこそ出ていないが、どこか嘲笑めいた響きが声に含まれて聞こえる。希望を抱くことを端から嘲る不遜な態度が、彼の無表情の奥に見えた。

「痛い……」

 春太郎が自分の右手の動きに気づいたのは、芳治のそんな声を聞いた時であった。手のひらの棘を抱いたような痛みが消えていくのを感じ、耳の奥に紙を叩いたような音が張り付いているのに気づく。

 芳治は信じがたいものを目にしたように震える瞳で見返している。左の頬を抑える手の下に、微かな赤みが見えた。

「ひねくれるな。自分の母親だろう」

 自身の内に宿る感情の正体が掴めないまま口を開くと押し殺した声が出た。芳治は一瞬怯えを見せてすぐに目を怒らせる。母親だから何ですか、と絞り出した声は震えていて、掴みかかってくるかと身構えたが、両手は強く握られたままだった。

「母親だからと、それが信じる理由になるんですか」

 幼いなりに凄みのある表情に、春太郎は一瞬言葉を詰まらせた。他人は他人と、似つかわしくない老成した見方を示した顔がぎらついて見える。

 当たり前だ、という言葉が喉で引っかかった。理由があるはずだが、芳治は何の説明もなくこの店に置き去りにされた。牛鍋を取り置くという約束だけでつながった男の言葉に、どれほどの説得力があるだろう。

 逡巡している内に芳治は表情を歪ませた。うろたえていると芳治は春太郎に体当たりをかます。泣き顔を見せないよう顔を背けて飛び出していった。

 体ごとぶつかってきた衝撃は思いの外強烈で、体勢を立て直すのに間が必要だった。横向きに倒れそうなところを柱に手を打ち付けて支え、そのまま体を押し出す。

「待て、芳治。どこに行く」

 声を上げながら芳治を追いかける。既に背中は見えない。遠くに喧噪が聞こえる中で立ち尽くした春太郎は、考えてもわからないと踏ん切りをつけて歩き出す。芳治が感情に任せて走り回った挙げ句行き着く心当たりなどわかるはずもなかった。

 浅草には三年住んでいる。しかし、三十九年間の内の三年間である。過ごした時間だけならば芳治より少ないのかもしれない。感情が高まった子供の逃げ場所として思い浮かぶ場所はなかった。

 手助けを求めたのは吉右衛門であった。もしかしたら自分と同じように買い物に出ているかもしれないと懸念しながら隅田川を目指す。店は開いていて、いつものように延子が店頭に構えていた。

 吉右衛門の所在を訊くと、事情を尋ねることなく彼女は店の奥に向けて声を上げた。果たして吉右衛門が現れる。くつろぎの時間だったのか、急に呼び出されたことについて不満は見て取れなかった。

「どうした、追加の仕事か」

「いや、訊きたいことがあって。子供って大人に叱られて逃げる時、どこに行くものですか」

 吉右衛門は妻と顔を見合わせてから、何の話だ、と訊いてきた。上がり框を降りた男は少し深刻そうな顔をしている。

 子供と聞いて芳治のことを連想したのかもしれない。彼が事前に芳治と会っていたのは幸いで、話をする手間が省けたと思いながら、買い物から帰ってきた後の経緯について話した。

「つい手が出てしまって。反省しています」

 延子は松野さんらしくないと言い、吉右衛門は反省なんぞ要らん、と言った。

「母親を悪く言うなんぞとんでもないことだ」

 菊子を庇う気持ちより芳治の態度が気に障ったから感情的になってしまったのが真相だが、子供のくせに捻くれた態度を身に着けていたらすぐに捨ててほしいという気持ちもあった。

「いっちょまえに親心を出すようになったか」

 子供の過ちを改めてほしいと願ったのは確かだから、それは親心と言えるのだろう。芳治は預かっただけで親になったつもりはないのだが、吉右衛門に褒められると悪い気はしない。

「お前さん、ふみ子が昔浅草公園で迷子になったことがあったじゃありませんか」

 延子が口を挟んできた。話を聞くと、ふみ子にも芳治と同じように父親に叱られて、感情に任せたように浅草公園に逃げ込んだことがあったらしい。

「その時は浅草観音のところにいたな。暗くなってきた時に見つけてな。浅草公園の中を逃げ回ったが、暗くなってきて心細くなったんだろう。それで見つけやすいところで待っていたみたいだな」

 見つけやすいところと聞いて、一つ思い当たる場所があった。

「俺もあの芳治と同じくらいの時、叱られて逃げたが、心細くなって観音堂で見つけてもらうのを待ってたことがある。一人では帰りにくいものだが、親に見つかって連れ戻されたって形なら、一応格好はつくからな」

 芳治の性格なら有り得る気がした。泣き顔を隠し通そうとする、少年にありがちな意地を張りながら、どこかで待っているのではないか。

 太古前夫妻に礼を言い、春太郎は通りに出た。最初に人通りの絶えない浅草観音を見たが芳治の姿はない。人混みに紛れているのかもしれなかったが、それよりも気になる場所があった。

 観音堂を中心とした一区を横切り、ひょうたん池を回り込んで春太郎は凌雲閣を目指した。

 むしろ行きづらい場所かもしれない。ちゃんと手伝いをしたら連れていってやるという話になっていたにも関わらず、芳治は途中で逃げてしまった。吉右衛門が言うように見つけてほしいと考えるなら、もっと別の場所へ逃げ込むのではないか。

 しかし浅草界隈で最も目立つのは凌雲閣である。目指してみるのも悪くないのかもしれない。

 八角形の外壁を持つ煉瓦造りの塔のたもとに芳治を探す。すると果たして芳治が佇んでいた。

 声をかけると小さく身を震わせてから恐る恐るこちらに顔を向けてくる。怖がるぐらいなら逃げないで素直に謝れば良かったのにと思いながら、春太郎はゆっくり歩み寄る。

「何であんなこと言った」

 顔を伏せた芳治は小さく唸った。うまく聞き取ることはできなかったが、頭の中で咀嚼した限り、ごめんなさい、と言ったようだった。

「わかった」

 静かに言うと芳治ははっと顔を上げた。見捨てられるとでも思ったのか、不安に満ちた表情をしている。

「生意気なことを言って、勝手に飛び出して、悪かったと思ったんだろう。そのつもりで謝ったんじゃないのか」

 芳治はぎこちなく頷いた。真相は違うのだろうとわかる頼りなげな所作だったが、感情に任せて手を上げた負い目もあって追及する気にはなれなかった。

「それならいい。それより、せっかく来たんだから昇っていくか」

 春太郎は煉瓦の塔を見上げた。地上から見上げると十階建てだが、塔の上には更に木造の展望台がある。前年芝の愛宕山愛宕塔が作られたが、それの倍近い高さである。

「でも、約束を破りました」

「ちゃんと手伝えたらってことか。それならもうやれてる。お前が飛び出す前に買うものは全部買ったんだ。お前は約束を果たした。今度は俺の番だ」

 そう言って春太郎は芳治の肩を軽く叩き、歩くことを促した。ごめんなさい、と今度こそはっきり聞こえたが、春太郎は入場券を買ってから何も言わずに芳治を歩かせて凌雲閣に入っていった。

 凌雲閣のエレベーターは八階止まりで、その先は螺旋階段で最上階を目指すことになる。階段沿いには売店が建ち並び、九階の休憩室で買ったものを口にできるようになっていた。

「何か買ってやろうか」

 少し休みたかったし、あまり外と変わらない空気に体が冷えていた。白湯でもいいから体に熱を入れたかったのだが、彼は首を振って身軽に先を行った。

 結局休まずに春太郎は階段を上りきった。十二階には思ったほど人はなく、地上の歳の市に客を取られていると思われた。

 春太郎は展望台から見える景色に目を見張った。十二階という階層は未知のもので、鳥にはなれない人間にはたどり着き得ない高みだと思っていたから、想像さえしたことがなかった。

 窓越しに広がる景色は、一見しただけではだだっ広いという印象しかなかった。どこに何があるのか。景色を見る時自ずと感じられることは、広く遠い視界から受け取ることができない。

 感性が景色を眺める体になってきたのは、隅田川を見つけ、そこを起点に浅草寺を見定め、浅草公園を目印にしながら位置を移して自分の店の大まかな位置を特定した時であった。

「あのあたりが、俺の店だろう」

 そう言いながら指を指す。徳川幕府の時代から寺が多かった店の周辺は、空から見ると一層寺が目立って茅屋に毛が生えた程度の長屋を改装した自分の店は埋もれたように姿が見えない。目立っていないのが情けなく、よく見えません、と言った芳治の言葉に自嘲気味の笑みを止められなかった。

「ずっとあの店で暮らしてきたんですか」

 景色を眺めながら訊いた芳治の視線は遠くに投げられていた。方角は吉原の方である。急に姿を消してしまった菊子のこともあって暗い背景を芳治に重ね合わせながら、春太郎は首を振った。

「俺が浅草に来たのは三年前だ。お前の方がもしかしたら長いかもしれん」

「それじゃあ、それまではどこに」

 春太郎は更に位置を移動した。南西の方角に深い緑が集まった場所がある。そこが皇居だと言いながら指を指し、ほぼ真南の位置に指を動かす。

「築地だ。俺の家は御家人だった」

 何気なく伝えた自分の生い立ちに、御家人って何ですか、と芳治が訊いてきたのには驚いた。そしてすぐに時の流れを感じる。芳治は明治生まれで、物心ついた時には苗字も四民平等も当然の世の中で暮らしてきたのだ。士分と言われても実感がないのだろうし、幕政の中で意味を持った身分を知らなくても無理はない。

「あの皇居は、お前が生まれる前は江戸城と呼ばれていて、そこには徳川家が住んでいた。その家を代々継いだ者が政治をやってたんだ。御家人はその徳川家に仕えるのが仕事だった。そんな仕事もずっと昔の話だがな」

「どうしてやらなくなったんですか」

「これもお前が生まれる前の話になるな」

 言いながら銀座や京橋を含めた、火事で燃えた範囲を指でなぞっていく。

「あの辺りがみんな火事で焼けたんだ。俺の住んでいた屋敷も、家族もみんな燃えた。生き延びたのは俺だけだった。仕えていた幕府がなくなったのもあるが、俺は継ぐべき家もなくした。だから昔からやってきた仕事はできなくなったんだ。そうでなかったら、小料理屋なんてやらなかっただろうよ」

 過去を振り返ったのが久しぶりの割に、言葉は滑らかに表れた。三年前に移り住んできた時に吉右衛門を相手に語ったのが最後で、過去を語る必要もないまま過ごしてきたのだ。

「料理は得意だったんですか」

「お前ほどじゃないさ。今もたいした腕とは思っていない。そうでなかったらもっと繁盛しているだろうさ」

「そんなことないです。あの牛鍋は美味しかった」

 芳治の感情に乏しい声音が変わった。大人を持ち上げて機嫌を取ろうとするようなたわいない態度に一瞬思えたが、卑下しないでほしいと訴えているようにも聞こえる。

「本当か」

「そうでなかったら、二人分も食べられません」

 どちらにしても、子供に好評だったのは嬉しかった。生活のために続けてきた仕事にもたらされた、久しぶりの嬉しさだった。

「お前も料理はうまいな。どこで覚えた。どこかの店で奉公でもしていたのか」

 金との交換で提供できるほどの料理には思えなかったにせよ、作ったのが十二歳の少年だったことが大事である。少年なのだから、これから先修練を積めばいくらでも能力は上向くはずだ。

「奉公とは違います」

「なら、母親に教わったのか」

「それも違います。自分で覚えました。母さんを助けてあげたくて」

「母親か」

 自分で学んだという告白にも驚いたが、それが母親のためだったという理由が意外で、驚きを凌駕した。母親に置き去りにされたような状況で、実際彼女を恨んでいるように見えた芳治が言うと、心の深みに何かがあるように思えてくる。

「お前、母親を恨んでいるか」

 虚を突かれたのか芳治は言葉を詰まらせた。俺には、と春太郎は言葉を継いだ。

「母親のことを懐かしんで見える」

 そう言うと芳治は不満げな表情を見せた。母を助けたかったと語った時の芳治は表情を緩めていて慕わしげですらあった。

「子供は一人知ってる。お前より年下だし、家の状況もずいぶん違うが、親をちゃんと慕っている良い子だ。そこの子供によく似て見えたんだ」

 男女の別や両親が揃っている環境の違いはあるにせよ、家族の団らんに身を置いていたふみ子の顔が重なって見えた。

「それは違います。きっと見間違いですよ。一緒に食べようって約束してたのに破るし、謝ってくれなきゃ許せないです」

 声をかけるのがためらわれるほど、芳治の声音は硬かった。下手な言葉は頑なに閉じた芳治の心を一層近づきがたくしそうで、春太郎は何も言えなかった。

「戻るか」

 少しの間遠くを眺めていた春太郎は、結局うまい言葉が見つけられず、間がもたなくなった。

「もう少し、ここにいていいですか。もう逃げたりしませんから」

 芳治は遠くを眺めて言った。

「好きにしていいぞ。俺は入口で待っているからな」

 展望台と出入り口を結ぶ道は一本しかない。しっかり者の芳治ならずとも迷う心配は要らない。

 芳治を展望台に残して地上に降りた春太郎は、羽織越しにも伝わってくる冷え込みに体を強ばらせながら、塔の下に置かれた長椅子に腰を下ろして空を見上げた。十二階と地上では見える景色が大きく変わっても、空の高さだけは違いがない。冬日で明るく澄んだ青空は、この世にいる限りどこから見上げても遠いものであると思われた。

 何気なく空を見上げるうちに、煉瓦造りの塔に隠された展望台に残った芳治が気になってくる。一人で残って何をするつもりだったのだろう。階下に降りないと店はなく、景色を眺めることしかやれることはない。

 芳治の頑なな態度が思い出される。他人がいると頑なにならざるを得ない心を、一人になって解放したかったのかもしれない。あの十二階から見える景色のどこかに母親と暮らした思い出の場所あって、何かを懐かしく思い出しているところだろうか。

「信じてきたんだな」

 初めて芳治と菊子が店に来た時も、二人の間に流れる時間は静謐だった。会話も笑顔もない二人は、見る者によっては崩壊した関係にも思えただろうが、春太郎には言葉を超えたもので結ばれた二人に見えた。

 あれが絆の為せる技だったのだろう。父親や兄弟がいなかった分高い純度の輝きまで磨き上げられたのだ。だからこそ傷を負ったら脆い。修復すればいいだけの話なのに、その簡単な方法に気づかない。

 信じ合い、助け合ってきた二人だから、発生しうる愛憎だったのだ。どうにか二人が元に戻れればいい。そのために再会しないことには始まらないが、菊子の手がかりが見つからぬ今、春太郎に名案はなかった。

 頭を起こして、芳治が降りてくるのを黙って待つことに決めた春太郎の視線は、往来の人の中で反射的に一人の女に定まった。

 券売所の傍に佇んでいる。凌雲閣に入るかどうかで迷っているようで、塔の頂上や入口を交互に眺めていた。

 春太郎は椅子から弾かれるように立ち上がり、小走りに女へ近寄った。

「芳治の母親ですね」

 途中でこちらに気づいた菊子は一瞬後退ろうとしたが、距離が詰まっているのを見て取ったのか観念したように顔をうつむけ、接近を許した。

「芳治が今、十二階に一人でいますが、会いますか」

 菊子が現れる理由と言えば他に思いつかなかったが、彼女は驚いたような怯えたような表情を見せた。少なくとも置き去りにした形の息子と再会しようと思った女の顔ではないだろう。

「一度頂上まで上がってみたくなって」

 どうやら自分たちとは無関係だったらしい。

「それで、どうしますか。芳治は今展望台にいます」

 菊子は首を振った。心の準備が整っていないらしく、目の動きが落ち着かなく見えた。

「ならせめて、どうして芳治を置き去りにしたのか。それだけでも教えてくれませんか。縁もゆかりもない人に子供を託された俺の身になれば、頼みを無下にはできないと思いますが」

 道義的なものをちらつかせると、育ちの良さそうな顔をした女の胸をちくりと刺したらしい。彼女は言葉を詰まらせた。

「そう身構えなくてもいいでしょう。一ヶ月実母の元を離れていた子がどう過ごしたか、俺も話したいのですから」

 そう言って春太郎は笑みを見せたつもりだが、菊子の感情を解きほぐすには充分でなかったのか、返ってきた笑顔は固いものだった。

 長椅子に腰を下ろすと妙に新鮮な気分だった。御一新の混乱で縁談が破談になって以来、女とゆっくり語らう暇もなかったからであろう。延子とはそれなりに親しく関われたが、彼女は妻であり母親である。

 菊子も母親であるのは確かだが、妻ではないのかもしれない。守ったり戻ったりする家がある女なら、夜遅くに牛鍋を食べに来たり子供を店に置き去りにしたりはしないだろう。浅ましいことと思いながら、春太郎は芳治がちょうど収まりそうな間を置いて座る菊子が、降って湧いたように手頃な女に見えていた。

「あの、何か」

 葛藤を抱えた春太郎に、菊子は戸惑うような目を向けてきた。歳はそう変わらないはずだが、男を前にする顔が初心に見える。彼女もまた、芳治の父親以外に男を知らないのかもしれない。

「いや、何から話そうかと」

「それほど多くのことがあったのですか」

 菊子はわずかに身を乗り出してきた。何か穏やかでないことがあったらどう受け止めていいかと案じているような顔で、身構えを一層堅くした。

「心配したんですか」

「それは当然です。あのようなことをした後では、言い訳にもなりませんが」

「芳治は自分が捨てられたのではないかと疑っています。俺が聞いたことを伝えるより、母親の口から違うことを言うのが一番でしょう」

 そうですね、と菊子は暗い笑みを見せた。頷いた動きもぎこちなく、何らかの葛藤を抱えているのが見て取れる。

 春太郎は思いがけず芳治と共に暮らした一ヶ月間を語った。言われもしないのに朝餉や夕餉の準備をして、その手際は料理を仕事にする自分から見ても良かったこと。その理由は母親である菊子につながっていることを。

「芳治の中で、母親は大きなものなのだとわかりました。あの牛鍋を食べに来た夜、二人の間に会話はありませんでしたが、それでも通じ合うものを感じているような気がしました。芳治は母親のあなたといる時間を心地よく感じていたはずです。だからこそ母親から離れてしまったことが不安で、裏切られたような怒りも感じているんでしょう。今日も母親を責めるようなことを言いましたが、それもあなたを慕う気持ちの裏返しでしょう」

 芳治のことを語るごとに、共に暮らしていたはずの自分の姿が、芳治に重ならないことに気づく。彼はもしかしたら捨てられたのではないかと疑い、母がそんなことをするはずがないと信じ、その相反する感情の間で揺れ続けた。縁もゆかりもない小料理屋の店主のことを気に掛ける余裕もなかったのだろう。

 そんな二人を切り離しておくのは不幸なことだろう。あなたは芳治と共に生きるべきだ、と心の底から言葉が出た。

「俺は親にも夫にもなれずここまで来ましたが、あなたは少なくとも親でしょう。あなたの方が相応しい」

 背中を押すつもりで口にした『親』という言葉に菊子は反応を見せた。頼りなげな視線に微かな力が宿る。

「あの子は、芳治はわたしを怒っていましたか」

 そうであってほしいと願うような顔に、気持ちのわかりにくい子ではありましたが、と春太郎は前置く。

「俺の目から見ても、慕わしい気持ちを抱いていたのはわかったのだから、あなたにもわかっていたでしょう。突然俺に託したのはどうしてですか」

 菊子は吐息をついてから口を開く。

「それには長い話が要ります。だからあなたの方から来てはくれませんか」

 菊子は今夜十二時に吾妻橋で待ち合わせることを約束した。仕事の諸々が片付いてちょうど良くなる時間だからとも言った。それだけで、菊子の抱える事情を大まかに感じ取る。

 了解の意を示すと、いつ降りてくるかわからない芳治から逃れるように菊子は去った。取り残された春太郎が待っていると、程なくして芳治が現れる。楽しかったか、と訊くと首を傾げてから頷いた。楽しいとか嬉しいとか、そんな単純な感情では計り知れないものを感じたようだった、

 

 四

 

 菊子の指定した時間は春太郎にとっても都合のいいものであった。自分の仕事が終わった後芳治が眠っているのを確認して出かけると、どうしても十一時を回ってしまう。吾妻橋はそれほど遠くないが、すぐに到着するような距離ではない。

 深夜に向けて厳しくなってくる冷え込みを我慢しながら橋柱に寄りかかって待っていると菊子が一人で現れた。身にまとう羽織は薄く、暮らし向きの貧しさをうかがわせた。

 彼女は吾妻橋からほど近い路地裏に案内した。自分の店よりも一層場末な感じが強い場所で、切見世がありそうだな、と何気なく独りごちると、その通りです、と菊子は自嘲気味の笑みと共に答えた。

「わたしが営むのは水茶屋ではありますが」

 言いながら菊子は、茅屋の前に立ち止まった。戸を開くと暗がりの中で器用に行燈を探し当てて火を灯す。小さいながらも整った店内がぼんやりと浮かび上がった。

「売色は奥ですか」

 暗がりに包まれた、座敷へ続くと思われる廊下を見遣った菊子は、そちらがお望みなら、とさり気なく勧めてきた。

「そんな話をしに来たわけではありません」

 少し気色ばんで言うと、菊子ははっとした顔で謝った。きっと自覚がなかったのだろう。自分が客を前にした時に顔を使い分けられるように、菊子にも男を客として見る反射が身に付いているようだった。

「水茶屋と言いましたが」

「できればもっと真っ当な仕事をしていたかったのですが」

 そう言って語り出した菊子の身の上は、御一新で大きく変わった春太郎の人生とも重なるところがあるものだった。菊子の家もまた御家人で、御一新を経験したのは十五歳の頃だったという。

 春太郎が家族を養うために日傭取りとして生きたのと似て、菊子は遊女として金を稼いで、困窮する家を五年間支え続けた。それが明治五年の大火で守るべき家と養うべき家族を失ったところまでが同じであった。

 違ったのは菊子には教養があったことだ。火事から五ヶ月後に出された娼妓解放令で飛び立った遊女は限りなく少なかったが、菊子は飛び立つことができたらしい。一緒に切見世を抜けた仲間たちと料理茶屋を営み、その頃恵まれた良縁から芳治が生まれたという。「今から思えば、あの頃が一番の幸せでした」

 薄くぼんやりした赤い光の中で、菊子は穏やかな笑みを浮かべていた。

 その顔が、病で仲間や夫を亡くす不幸を語り出すと徐々に消えていって、薄幸そうな表情へと落ち着いた。春太郎の店に入ったのはちょうど店を畳む羽目になった時であったという。

「店を畳むことになると思った時から、水茶屋を始める準備をしていました。そんな仕事を芳治の傍ではできません」

「だから俺に預けたと」

「お金ができたら渡すつもりでした。お詫びと礼を込めて、芳治が生きていくだけのお金を。それをずっと続けていくことは、きっと芳治にしてみれば見捨てられたのと同じことかもしれません。でも、遠からず崩れる仕事でしょう。崩れる時に芳治を巻き込みたくはないのです」

 水茶屋は茶屋を営む裏で売色もする店で、五十年前の天保年間に良俗を侵すと見なされてきた。細民街を初めとする裏店の整理が進んでいる時期だけに、遠からず崩壊が訪れるという菊子の見立ては間違ってはいないだろう。

 自分では芳治を救えないから、誰かに託したくなった気持ちもわからないでもない。それをどうして自分に、と初めに訊いたことを改めて訪ねると、芳治を朝まで置いてくれたからだと答えた。

「店の傍で待っていたんです。芳治が追い出されたら他の手立てを考えて、そうでないならあなたに託そうと思って」

「乱暴な考えだと思います」

「でも、わたしなりにあの子が幸せになればと考えたんです。これからもあの子を置いてあげてはくれませんか。続く限りお金は渡しますから」

 春太郎は吐息をついた。親子水入らずを後押ししてやりたいのが本音だが、それには状況が悪すぎる。いつ潰されてしまうかもわからない母の城より、曲がりなりにもまっとうに生きている自分の店が堅固なのは確かだと思った。

「いずれ、どんな目に遭ったとしても、共に暮らすと誓ってくれるのなら」

「誓います。あの子を引き取るどころか、世話を受ける羽目になるかもしれませんが」

 淡い光の中で、菊子は言った。姑息な印象はなく、たとえ嘘であったとしても、事情が変わってしまったのだと許すことが出来る気がした。

「それなら一度だけ、明日会いに来てください。まだ俺は約束を果たしていませんし」

 菊子は首を傾げた。

「牛鍋を、まだあなたに出していません。芳治にも言いたいことがあるでしょう。食卓でお互いに言い合ってください。それが出来たらあなたの頼みを受けてもいい」

 菊子は頷いた。明日は臨時休業にするからいつでも来ていいと言い残し、春太郎は店に戻った。

 翌朝、朝餉の後で昨夜のことを芳治に伝えると、彼は何とも言えない複雑な表情を見せたが、母親が現れた夜の十時までじっと待ち続けた。

 二人分の牛鍋を作り終えた後、春太郎は奥に引っ込んで二人きりにした。時折芳治が甲高い声で怒声を上げているのが聞こえたが、それもやがて収まり、菊子は一晩共に息子と寝かせて欲しいと頼んできた。芳治も異論はなく、春太郎は二人を朝まで同じ部屋にいさせた。

 朝目を覚ますと、菊子が台所で働いていた。当分できなくなることだからと菊子は笑って言った。その表情に寂しさは感じず、いずれお互い歳を取ってからまたできるようになるだろうと信じているようだった。

 芳治もまた、昨夜母親に言いたいことを言い、同じ食事をしたことでわだかまりがだいぶ解けたようだった。完全ではないにせよ、朝餉からほとんど間を置かなかった菊子の出立を見送ると、自分から言った。

「いつか必ず迎えに来ます」

 菊子はそう、二人に向けて言った。芳治は頷き、待ってる、と言い、奥へ引っ込んだ。

「芳治は料理茶屋を営んでいた頃のあなたのために、朝餉を作ったり我慢したりを覚えてきたのでしょう。だからもう一度、芳治の知っている母親に戻ってください。芳治を養うだけでなく、そのために金を稼いでほしいと思います」

「目標は多い方がいいですものね。あの子と共に暮らすには、わたしの持っているものは脆いです。脆いものは強くして、あの子が来ても耐えられるようにしないと」

「子供、特に男は逞しくなるごとに支えてやるのが難しくなるでしょうが」

「それも子育ての一面でしょうよ」

 菊子は軽く笑った。一度苦界から飛び立った女の強さであり、逞しさのように見えた。

「毎度ありがとうございました」

 春太郎は踵を返し、遠ざかっていく菊子の背中に向けて声をかけた。冬の夜、突然現れた客が置き忘れたものが早く自分の手から離れるようにと春太郎は願った。

 

 

                      〈了 四百字詰め原稿用紙一一二枚〉

2013年3月作品