yuzaのブログ

幕末から明治を舞台にした小説を中心に載せています。

帰郷の先

 

 深く吸い込む気になれぬのがこの街の空気であった。道端には鼠の死骸が放置されているし、満足に体を洗えない住民たちの臭いが染みつくのだ。幼い頃から嗅いできたから気にならぬはずであったが、ほんの一年離れただけで鼻は慣れを忘れてしまったらしい。

 三(さん)治(じ)はふと足を止めた。臭いに加えて踏みしめる地面もいつの間にか泥深いものに変わっている。梅雨の時期ではあるが、水はけの悪い道の上にはどの季節でも長く水気が残る。ぬかるんで滑りやすい道の上で、三治は茅屋が連なった風景を見渡した。

 長屋は江戸市中に数えきれぬほどあり、幕府から明治政府の世の中に移ってからも庶民は変わらずに住み続けている。最も安い長屋には畳がないというが、壁や庇が腐り落ちる前に修繕ぐらいはしたはずだ。壁の目立つ穴には内側から厚紙が貼ってあるが、隙間を埋めきるだけの紙を用意できるものではない。

 ぬかるみを踏みしめながら三治は歩み出した。普通に歩くだけで粘ついた水音が立ち、何となく嫌な心地になる。住んでいた頃は当然のものとして気に留めなかった音だが、一年ばかり離れただけで感覚は生の状態に洗われたらしい。離れている間に培われたものが、この街で聞く音を嫌なものと感じているようだった。

 注意深く歩む間にゆっくり見渡すのは、物心ついた時に見たのと変わらない風景だった。荒れた長屋が、水はけの悪い土地の上を東西南北に伸び、その間を薄汚い身なりの住民たちが行き交う。棒手振りの皿に乗った残飯が放つ酸っぱい臭いを残して通り過ぎ、吹き抜ける風は湿気を含んで重い。歩くだけで五感は貧民窟を存分に感じ取った。

 同じような茅屋が続く景色でも、ある一角に入ったところから懐かしさを感じ始めた。不本意だがどうしようもない。

 その記憶を頼りに歩くと、ひどく荒れた茅屋にたどり着く。これまで見てきた長屋は穴を紙で塞いで体面を繕っていたが、ここのはそれができないほど大きな穴が空いている。中が丸見えで、腐って色の変わったござや隅の蜘蛛の巣まで見て取れる。

 三治は我知らずため息を漏らしていた。抜け出したい暮らしを営んでいたとはいえ、生家だった場所だ。子供の頃にいた場所が朽ち果てているのを目の当たりにすると胸が痛む。

 家の中に踏み入れても人の気配はない。一年前まで暮らしていたはずの両親の姿はない。

 竈の中には小さな炭が残っている。蜘蛛の巣を突き破って拾い上げると、右手の胼胝が目に入った。三治は急に我が身を笑いたくなる。薪を使って飯を炊くこともままならない暮らしから抜け出そうと思って銃を取ったはいいが、得たのは引き金を引き続けるうちにできた胼胝だけであった。与する陣営を間違えたのだ。甲陽鎮撫隊ではなく新政府軍に入っていれば、今頃ましな暮らしが出来ていただろう。彼らは倒幕の英雄として、新たな政治を始めようとしている。そんな華々しさのおこぼれに与ることぐらいできたはずだ。

 慶応四年の年が始まるのとほぼ同時に始まった戦争は、鳥羽に始まって幕府軍が瞬く間に東へ追いやられていった。年始めの頃は西の方で何かが起きたということしかわからなかったものの、一ヶ月もすると江戸に身を寄せた新選組が新たな隊士を募集し、幕府と新政府の戦争が間近に迫っていることを知った。

 三治にはこれが好機に思えた。時折訪れる機会のあった上野の空気は臭くなどなかったし、少なくとも残飯に頼る生活とは無縁に見えた。

 甲陽鎮撫隊の指揮を執る新選組には町人出身の武士が数多くいたというし、彼らについていけば武士として貧乏な暮らしから抜け出せるかもしれない。そう考えて募集に応じ、手渡されたミニエー銃を担いで甲州街道を西へ進んでいった。その戦いが何のために行われるのか、どうすれば勝てるのか、何も知らないままであった。

 勝沼で布陣した翌日に戦闘を経験したが、夢中で引き金を引くことしか考えられなかった。銃声は耳がおかしくなるほどの大きさで、敵の銃弾はいとも容易く仲間の兵士たちを倒していった。

 戦闘は一刻の間に決着が着いたらしい。三治はその前に逃げ出していたが、残っていたら生き延びられたかわからない。

 戦地から脱し、新政府軍から逃げ回っている内に、甲陽鎮撫隊を打ち破った新政府軍は江戸を占領し、奥羽越列藩同盟を倒し、箱館政権を降伏させて幕府の抵抗を鎮圧した。甲陽鎮撫隊は、新政府にとってものの数ではなかったことをその時思い知らされた。

「どこ行きやがった」

 三治はため息をついて座り込んだ。埃だらけであったが泥よりはましだと思って構わない。

 慶応四年は九月に明治へ改元されたため、今は明治二年である。戦争は終わり、政治は変化したが、街の様子は何も変わっていない。住民の頭を占める思いや悩みも変わってはいないだろう。そう思うと武士となって貧乏な暮らしから抜け出すという夢は何だったのだろうと空しさがこみ上げてくる。

 新選組として名を知られた近藤勇は晒し首にされ、土方歳三も北海道で戦死したと聞く。幼い頃から剣に生きてきた彼らでさえ悲惨な末路を辿ったのだから、生きているだけ僥倖と思うべきなのだろう。そう自分自身を納得させながらも、消えないのはこんなはずではなかったという思いである。

 三治は立ち上がり、両親を探そうと思った。ほとんどの時間を家で過ごしてきた無気力な二人だった。家にいなければ、どこにいるのか予測はついた。

 そこでは男が一人、白いものを拾い集めて無造作に壺に収めていた。太陽の高さは低くなりつつある。どうやら焼いた後長い間放っておいて、やっと作業を始めたようだった。

「何だ、墓か」

 作業の手を止めて、男はこちらを向いた。わずかな時間でも邪魔されるのが嫌なのか、手を止めたのは一瞬で、すぐに作業に戻る。

「燃やしたのは、どこに集めるんだ」

 そう尋ねると再び手を止め、顎で方向を示した。

 案内するつもりはないようなので、作業に没頭する男を放って三治は歩き出す。茅屋と大差ない荒れ具合の寺は、特に頼る者のいない貧民窟の住人の行き着く先でもあった。両親に頼れる親類縁者がいたという話は聞いたことがなかったから、家にいないとすれば死んだと考えるよりなかった。

 狭い庭の隅にある墓碑の前には女がいた。認めた時には気に留めなかったが、近づくごとに目鼻立ちのはっきりした顔立ちが明らかになっていく。結った髪は茶色で、日本人には見えないものの、身なりは貧民窟の景色に溶け込むような継ぎ接ぎがされた小袖である。

 異人との間に生まれた合いの子だろう。両親のうちどちらが日本人なのか。その違いは彼女の背景に大きな影響を与えていそうだった。

 墓前に跪く女は両手で墓碑を掴んだ。まるで人の両肩を掴むような動きで、その後流し始めた涙は何かを訴えかけるように痛切だった。

 あるいは気が狂っているのかもしれない。そう思うと関わり合いになるのを避ける気持ちが出てきて、三治は後退る。

 その時作業を終えた男がここまでやってきた。彼は女を見ると、骨の詰まった壺を持ったまま荒々しい足取りで墓碑へ近づき、女を怒鳴りつけた。

 女は小さく頭を下げてから歩き出した。青い目を見たことがなかったためか、妙に妖しげな色に見えたものの、泣き濡れた眼差しは焦点が合っていて、狂女のそれには思えない。余程の人をここで亡くしたのだろう。

「空いたぞ」

 男の声は恩着せがましく響く。突っかかるつもりはなく、素直に墓前に立つ。

 もしかしたらここには眠っていないのかもしれない。気まぐれを起こしてどこか別の場所へ行き、そこで客死したのかもしれないが、行方を捜す方法がない以上ここで死んだと思った方が賢明だろう。

 三治は墓前で手を合わせた。そうすることで急に、自分の周りの時間が動き出した気がした。

 

 墓地を出てから当てもなく歩く内に雨が降り出した。

 傘はなく、雨を防ぐ手立ても持ち合わせていないから、雨宿りのできる場所を探すよりなかった。

 最初に思い浮かんだのは生家だった。壁に大穴が空いていたが、風を伴う雨ではないから、屋根がしっかりしていれば問題ないだろう。

 穴の近くはわずかに湿っていたが、奥の方には濡れた様子がない。天井は暗くて様子が見えなかったが、雨漏りしている様子もないので三治は気を落ち着けた。

 二十二年の大半を過ごしてきた家には格別な思い出があるわけでもない。しかし一年前に放り出してきた両親が気にならないわけではなかった。貧乏な暮らしから抜け出したい気持ちは歳を重ねるごとに強くなり、老いた両親は枷のように感じていた。当時は振り切ることに何も感じなかったのだが、戦地で死を意識した時にふと残してきた両親が気になった。出て行く時には反対もされ、それを無理に振り切った三治の胸には否応なしに刻まれるものだった。

 ふらふら歩いているうちに入谷にたどり着き、下谷まで一日で歩けることに気づいたら、今を逃したらずっと寄りつけなくなるような気がした。それまでも色々と理由をつけて避けてきた故郷に近づく気持ちなど、何度も持てるものではない。

 今すぐ出て行くこともできなかった。頼れる者が一人思い浮かんだが、一年は会っていないから、今更転がり込むのも気が引ける。雨は激しさを増し、降り止む気配はない。 

元々湿っていた道は瞬く間に水気を表出させ、ほとんど川のようになっている。唯一の救いは風がないことで、天井が落ちない限り雨に濡れる心配はない。

 安心すると疲れもあって眠くなってくる。掃除もされず、荒れ放題の床で横になるのも抵抗があるものの、疲れがあると多少のことはどうでもよくなる。三治は体を横にして目を閉じる。すると薄暗さもあってあっという間に眠りに落ちる。

 それから荒っぽく体を揺らされて目を覚ました時、日は完全に落ちていた。

 目を開けると目の前に提灯で照らされた男の顔がある。いかにも渡世人といった風情の険しい目つきで、甲陽鎮撫隊で見た土方歳三もかくやといった迫力があった。一目見て戦場か人斬りの現場をくぐり抜けてきたとわかった。

「人の家で何してやがる」

 どすの利いた声は思いもしない言葉を紡ぐ。

「誰の、だと」

 戸惑いのにじむ声を返すと渡世人風の男が勢いづいてしまった。俺のだ、という声が一層迫力を帯びる。

「ここは元々俺の持ち物だった。今まで人に貸してやってたが、店子が夜逃げしやがって今は空き家になってるだけだ。人の家に入り込んで居眠りとはいい度胸だな」

 簡単には直せないような穴の空いた家を持ち物と主張する男が滑稽だった。どうせ借り手などつかないくせに、という言葉が胸に浮いたが、口を開くのは我慢して立ち上がる。

 黙って立ち去ろうとすると背中を思い切り蹴られた。身構える余裕もなかったため、そのまま前につんのめって、ぬかるみの上で滑って顔から泥に突っ込む。既に雨は上がっていたが泥は一層緩くなっていて、濁った水が服に染みこんだ。

「貧乏人が。家が欲しけりゃ金作ってこい」

 男は三治の背中を踏みつけて立ち去った。

 畜生、と吐き捨てた声は涙ぐんでいた。泥を噛まされた怒りや屈辱によるものではない。せっかく戻ってきた故郷にさえ居場所がなくなっていた絶望感である。

 戻ってくるべきではなかった。両親に会おうという気まぐれを起こさなければ傷つくことはなかった。放浪を続けている方がまだ気楽に生きていられたというものだ。

 時間は定かでないが、人通りが全くないところを見るとだいぶ遅いのだろう。子供の頃は目明も多くうろついていたが、その数は徐々に減って家を出る頃には一日に一人見られればいい方となった。

 貧民窟より見張らなければならない場所があったのかどうか事情は知らないが、目明が減ればごろつきは増える。掏摸程度であったものが次第に暴力を伴った強盗に変化していった。そんな状況を警戒して、多くの者は夜道を歩かない。

 将軍のお膝元であった江戸は薩長の軍隊に占領された。急激な変化が起こるのを、見世物を期待するような気分で楽しみにしていた三治であったが、今のところは目明などが市中の保安にあたる従来のやり方が続いている。薩長の軍隊もまたこの街を放っておくつもりなのかどうか、そのつもりがないのならどうやってこの街を変えていくのか。好奇心とは別の気持ちで、三治はかつて敵に回した軍隊のやり方を楽しみにしていた。

 三治は小袖の隠しを探ってみた。金はあるが、食べるものを手に入れるには遅すぎる。残飯市や香具師の店は暗くなると畳まれてしまう。

 空腹感はあったが、今のところは泊まる場所を探さなければならない。さっきの男が帰ってきたらどんな目に遭わされるかわからないので生家は諦める。

 頼れる者が思いつかないこの街で身を寄せる場所と言えば木賃宿であろう。食事はつかないが寝床だけは格安で手に入る。問題は汚れた身なりで受け入れてくれるかどうかであるが、頼み込むしかない。ごろつきと会わぬことを願いながら木賃宿を探すと、ややあって薄暗い提灯を掲げる宿を見つけた。

 ごめんよ、と帳場の向こうにいる主人らしき男に声をかける。思ったより若く、自分とそう歳の変わらない相手だった。

 泥だらけの格好が異様に見えたのか怪訝そうな顔をしたが、すぐに表情を改めた。

「お前、三治か」

 三治もまた、相手に名を呼ばれたことに驚いたが、それも一瞬のことであった。

 男の顔を見ると当たり前のことに思えた。

「源太郎なのか」

 少なくとも一年は口にしなかった名前だが、不思議と違和は感じない。

 戸惑うような笑みを見せる源太郎は身軽に帳場を乗り越えた。

「三治かよ。いきなり帰ってきやがって」

 自分の見立てが正しかった安堵からか、源太郎は明るい表情を見せていた。木賃宿の主人ではなく、三治の記憶にある男と重なる表情である。三治の顔もまた自然と緩む。

 さっきまで来たことを後悔していたのに、源太郎を見ていると戻ってきてよかったと少しだけ思えた。

「ああ、近くに寄ったんでな」

 親しかったとはいえ一年会わなかった相手である。喜びを素直に見せるのも照れくさく、三治は抑えた声と表情で話す。

「急にいなくなるからどうしたのかって思ってたけど、よかったよ。それより何だよその格好。転んだのか」

 そんなところだ、と三治は答えた。真相はもっと荒っぽいものであったが、正直に話してしまうのも男として寂しいものがある。

「とりあえず洗ってこい、裏に井戸あるから」

「いいのか」

「泊まるんだろ。周りの迷惑だ」

 木賃宿の主人の表情に戻っていたが、声音は他人を案じる人間的な響きだった。

 三治は一度外へ出てから裏へ回り、源太郎に言われた通りつるべを引き上げて水を汲み、無造作にかぶった。湿気で気分が悪いとはいえ、まだ真夏でもない夜の気温は高くない。水を被った後は冷えたが、湿気と共に泥を洗い流したのは爽快だった。

 更に二度水を汲んで泥を洗い流す。汚れた服はどうしようもなく、ひとまず脱いで褌一丁となり、人に見つからないよう帳場へ戻った。

「服の替えはねえか」

 戸口から顔を出して源太郎に尋ねる。彼は笑った。

「隠すことねえだろうよ、今更」

 子供の頃から川や池で一緒になって泳いだことを言っているのだろう。

 源太郎は井戸の傍にある離れで待つように言って帳場を離れた。言われた通りに離れの前で待っていると程なくして源太郎が小袖を持って戻る。

「俺の替えだけど、別にいいよな」

 源太郎とは背格好がよく似ている。子供の頃からそうであったから、仲良くなれたのかもしれない。

 黙って頷くと手早く身に着けていく。男が手入れしている割に手触りはよく、臭いも気にならない。

「女でもいるのか」

 何気なく可能性を口にしてみるが、源太郎には届かなかったようで、何か言ったか、と返される。

「何でもねえ」

 三治はぶっきらぼうに返した。源太郎がそれほどまでに充実しているとは思いたくなかった。

 帳場で宿泊の手続きをすると源太郎は宿の戸を閉めた。三治が眠っている間に日は暮れてしまったが、源太郎によると二刻は前に夜を迎えたという。暮れ四つといったところだろう。

 棒を斜めに突っ張らせて戸を開けられなくすると、源太郎は行燈の火を消して三治と共に奥へ引っ込む。宿泊客が眠る座敷へ続く廊下から脇へ逸れるとさっきの離れに出る。源太郎はそこへ三治を招いた。

「いいのか、せっかく買ったんだろう」

 縁側に座った源太郎は酒を注いだ。旧幕時代は銀一千匁以上の金を積まないと手に入らなかった代物である。明治に入って貨幣単位は変わったが、銀一千匁が大金だったことに変わりはない。一泊三銭しか取らない木賃宿の宿賃だけで賄うには、相当の倹約が必要だっただろう。

 そんな苦労を思っていると源太郎は明るく笑った。

「気にするなよ、居酒屋の裏に捨ててあったものを拾い集めただけなんだからよ」

 時々夜中に出歩いては、場末の居酒屋で捨てられたとっくりから酒の雫を集めてくるらしい。一晩で二杯分にはなるという。

 要は拾い食いに近い行為ではあるが、酒でもてなすとすればそれぐらいしか方法がなかったのだろう。拾いものといっても酒は酒で、甘みを含んだ好みの味であった。

「お前が木賃宿の主人か」

 酒が一杯入ったことが良いきっかけとなって三治は滑らかに口を開いた。それを受ける源太郎も、一年の間があったとは思えない自然な反応を見せる。

「俺の親の仕事だよ、知ってるだろうが。別にやりたかったわけじゃねえけど、とやかく言う前に死んじまったからな」

 そう言いながら源太郎は満更でもないようだった。遅い時間に現れた客を迎えた時の態度は、仕事を嫌がっている者の姿ではなかった。

「何年前だ」

「お前が出て行くちょっと前だよ。面倒なもの置いて行きやがって」

「嫌なら捨てればいいだろう」

「そうはいくか。ここを頼る奴はいなくならねえ」

 源太郎は二杯で酒を飲み干した。昔から酒に呑まれることの多い男で、杯を運ぶ手つきも慎重である。

「お前だって、俺が主人でなかったら追い出されてたかもしれねえだろ」

 三治は苦笑する。泥だらけで入ってきた客の体を貴重な水で洗ってやるばかりか、泊まる場所まで用意するなど、赤の他人であったら奇特かもしれない。普通は訳ありと思うだろう。友人であったことを忘れていなかった源太郎が主人だったから、今夜安心して過ごせるのだ。

「それよりお前のことだよ。一年何やってたんだ。親の死に目にもあってねえで」

 源太郎は少し責める声になったが、三治の耳を通り抜けた。

「死んだのか、親父たち」

 そう思うことに決めていたとはいえ、証を改めて突きつけられると衝撃的である。

「知らなかったのかよ」

「ああ、今日帰ってきたばかりだったんでな。家に誰もいないからそうかもしれないと思って墓にも手を合わせてきたが」

「無縁仏のか。多分そこに埋められてたよ」

 墓前で見た合いの子の女が思い出されたが、関係はないだろう。あの墓の下には見ず知らずの他人も一緒くたになって埋められている。女はそのうちの一人に手を合わせていたのだ。

「いつだ。家を出る時はまだ生きてたはずだ」

「お前が出て行ってすぐだったな。最初におやっさんが死んで、その後おっかさんも後を追うように、な」

 そうか、とため息混じりに三治は応じた。見捨てたつもりの両親と和解の機会もないと知ると、不意に大きな過ちを犯したような後悔に襲われる。

「俺にしても、わけがわからなかったよ。急に出て行って何してた」

 源太郎の声は慎重だった。甲陽鎮撫隊のことは何一つ話さなかったが、突然の失踪に加えて前触れなく戻ってきたことにただならぬ気配を感じているのだろう。

 この貧民窟で、親の真似事をするように細々と生きてきた男とは既に違う生き方をしている。どう話すべきか。どう話せば、友人としての関係を終わらせずに済むか。

 そうだな、という言葉の裏で考えた末、俺はな、と慎重に語り出した。

「お前みたいに親と同じような生き方をするのが嫌だった」

「知ってるよ。お前そればかりだったからな」

 そうだったか、と三治はとぼけたように言ってみせる。本当はそんな覚えはなかった。戦争とその後の放浪で必死に生きていくうちに、細かい記憶は失われていたようだ。

「だからな、この街を出て行きたかった。そしたら新選組隊士募集があっただろ。それに乗ったんだ」

「戦争に行ったのか」

 源太郎は息を呑んだ。

「ああ、人も撃ったよ」

 源太郎に尋ねられる前に言った。彼は返す言葉を見失う。

甲陽鎮撫隊っていってな。柏尾の方で戦った。陣を張ったのは勝沼だった。惨敗だったけどな。何の役にも立たなかったよ。隊を集めた近藤勇土方歳三も死んだ。本当に何の役にも立たなかった。何のために行ったんだかわからねえよ」

 負けた時に始まった、一年間の憂さを晴らすように言葉を並べた。政治を近くで見る立場であれば、新選組甲陽鎮撫隊について何かものを言うことができるのだろうが、寄せ集めの一人に過ぎなかった三治にはそこまでの思いはない。

「だから言っただろう、身の丈にあった生き方が一番だって」

 源太郎は選択を責めるようなことを言ったが、下手に慰められるより却って気楽になれた。

「そうだったみたいだな。俺は何かがやれると思ってたんだが」

 そう応じながら、源太郎のように職を持ってはいない我が身を顧みても、どんな生き方が身の丈に合っているかわからない。その思いは一年前に新人隊士として新選組に入った時と変わらない。何もないからこそ、これまでとは違う場所に身を置けば今まで眠っていた力が目覚めるかも知れないと信じたのだ。

 その結果は敗走であった。軍は負け、自分も戦場の迫力に圧倒されて逃げた。最初から戦場に自分の似合う居場所はなく、武士にはなれないのが自分の身の丈だったのだ。

「戻ってきて、何か生きてく当てはあるのか。おやっさんたちはもういねえだろ」

 三治はため息で応じた。

「一年間で覚えたのはミニエー銃の撃ち方と、天秤棒の上手い使い方だ」

「それなら一つ、当てがある」

 意外な言葉に源太郎の顔をのぞき込む。

「お前、このまま俺と一緒に働く気はねえか」

 その申し出もまた思いも寄らぬもので、返す言葉に迷った。

「俺に商才があると思うのか」

「そうじゃねえ。薪を運ぶ下男が欲しかったんだよ」

 下男という言い方は気に入らないが、源太郎が心配から申し出ているのはわかった。せっかく帰ってきたのに頼れる者がいない心許なさに共感しているのだろう。

「給金は出せねえけど、寝床と飯ぐらいは用意してやれる。行き場がないならどうだ、やってみねえか」

 源太郎が友人を気遣っているのはわかるものの、出て行きたい気持ちはまだ残っている。宿賃を払っただけで持ち合わせはなくなった。金がなければ放浪も続けられない。

「下男の邪魔にならないように、別の仕事をしてもいいか」

「小遣いはいるよな。邪魔にならないなら好きにしろ」

 源太郎は真意に気づいていないようで、屈託なく笑った。

 下男としての働きは翌日から始まった。内容自体は難しくない。薪の問屋のところまで行って託された金と引き替えに薪をもらい、それを炊事場の隅に置いておくのだ。それを朝と夕方の決まった時間に行う。空いている時間は適当に掃除をしていればいい。深い考えは要らず、誰がやっても同じ結果が出る仕事であった。

 寝床は源太郎が一人で住んでいた離れに居候する形となった。源太郎は一年ぶりに会えた友人と日々顔を合わせられて喜んでいるようだったが、三治の心は源太郎を見る度に沈む。身の丈にあった暮らしを着実に営んでいる友人が妙に強く輝いて見え、それはまぶしかった。

 毎夜の食事で、源太郎は三治が離れていた間のことを話した。自分が木賃宿を営むことの苦労や、戦争が終わった後の周りの変化など。三治は友人の機嫌を損ねないよう受け答えだけはしっかりしておいたが、生返事に聞こえていないかというと自信はなかった。

 梅雨の時期であるからよく雨が降る。この日の朝は晴れていたものの、昼四つを過ぎる頃には突如として曇りだし、それから小半時も経たぬうちに振り出した。薪をもらいにいく時間になっても雨はやまず、三治は天秤棒の皿に麻袋を被せて出かけた。薪を買う時間は変えられないから、薪を受け取ったらすぐに雨宿りをしなくてはならない。

 広小路の脇にある問屋で薪を受け取ると、数間先にある店の軒下で雨宿りをする。急いで歩いたお陰で袋の中の薪は濡れていない。

 刻限は薄暗くなるまでである。その時には外へ出なくては、客が薪を使えなくなる。木賃宿が提供するのは寝床と火を熾すための薪であり、食事の準備は客の仕事だ。

 三治は壁に寄りかかり、幼い頃にも訪れたことがある街を眺めた。柏尾で敗走して放浪していた頃、上野では天野八郎率いる彰義隊が、寛永寺に陣を敷いて新政府軍へ反抗したという。上野の山の頂上にある寛永寺に新政府軍が大砲を撃ち込んだらしい。

 戦闘は上野の山の周辺で行われており、市街戦は起きなかった。攻撃の直前には予告が行われ、貧民窟の住人を含めて多くの市民が避難したと源太郎が言っていた。そのため戦闘の詳しい様子までは知らないようだった。

 上野広小路は上野公園に向けて続いている。その周辺には戦闘の後らしき焼け跡が見えたが、それもいずれは消えていくだろう。上野戦争もまた新政府軍と幕府軍の戦いで、幕府側の軍隊は完膚無きまでに叩きつぶされた。彼らも寄せ集めだったのかどうか詳しいことはわからないが、どこでも同じことをやっていたのであれば、最初から勝てる道理はなかったのだと思う。

 勝つ見込みのない戦いに、貧乏暮らしから抜け出したいという気持ちだけで参加したことを浅はかと自嘲するのは今に始まったことではない。しかし戦闘の跡が残る地に来て、それを直に眺めると一層自嘲が重く感じられた。

 戦闘の跡を見ていると辛くなってくる。早く離れたかったが雨はやむ気配を見せない。舌打ちして視線を下に向けた。

 暗くなる前にと思っていたが、その願いも虚しく薄暗くなるまでに雨脚が弱まることはなかった。意を決して三治は飛び出していく。棒手振りの天秤棒は放浪中に担何度も担いだことがあり、慣れるのは早い。

 貧民窟の道は雨で一層ぬかるんでいた。滑りやすさが増しており、安定させにくい天秤棒を担いでいると転びやすい。三治は歩みを遅くして歩くような速さに変える。

 やがて源太郎の宿にたどり着く。帳場の源太郎に言われて炊事場の隅に薪をまとめれば、今日の仕事は完了となる。

 働き出して十日が経っている。にわか仕込みとはいえ軍隊で過ごした体が音を上げるほどではないが、働くことを楽しむことはない。それを言えば、甲陽鎮撫隊で銃を撃つことが楽しかったわけでもないし、それより前の暮らしにも楽しさがあったわけではない。何かを変えようと思って一年間まるで違う環境に身を置いていたにもかかわらず、結局変化はないのだった。

 その日もいつものように源太郎と食事を摂って、同じ部屋で眠った。朝が来れば十一日目が始まる。源太郎はいつも笑顔で帳場に立ち、三治は努めて表情を殺して働きに出る。前日にすっかり雨を絞り出したような青空であったが、地面からの湿気が容赦のない一日となった。

 

 二

 

 梅雨が明けても貧民窟から湿った空気が立ち去ることはない。元々低地で湿気が溜まりやすい上に水はけが悪い土地の上に広がっているため、真冬以外は常に湿気にまとわりつかれる。慣れていたつもりだが、これも一年離れただけで抵抗が弱くなってしまった。

 源太郎は五日に一日は休みをくれた。その間、最初に宣言した通り別な仕事をして金を稼げばいいのだが、三治は街をふらつくだけだった。

 貧民窟の仕事は街の名士が周旋していることが多く、手に入れるには相応の伝手が必要となる。親の代から続く木賃宿を切り盛りしている源太郎が口を利けば何かしらの仕事にありつけるのだろうが、三治はそれを断って自分で探すと言った。それで仕事を探すふりをして上野へ出るのだが、山の手では貧民窟出身と見ると扉を閉ざす店ばかりであった。

 できることはミニエー銃を撃つことと棒手振りである。そう言ったのがまずいのか、いまだに認めてくれる者は現れない。源太郎の口利きに頼る気は起こせなかった。貧民窟から出て行きたいのに、これ以上街に拠った生き方をしたら一生離れられなくなる気がする。

 その日の休みも、街をふらつくだけで宿へ戻った。そんな時でも源太郎の態度は変わらない。別の仕事を探す気などないことをわかっているはずだが、非難も叱責もせず、いつもの通り友人としての接し方を変えない。

 食事の調達も三治の仕事だが、残飯市に行って源太郎に渡された金で食べるものを買うだけの、子供お使いと同じようなことだ。

この日は久しぶりに飯が手に入った。白米に混じって焦げた米粒が混ざる『虎の皮』と呼ばれる飯と、豚や牛の、本来捨ててしまうような臓物を焼いた『ホク』という肉、それから漬け物が夕食である。お互い激しく体を動かす日常ではないから、今まで足りないということはなかった。

食事の後しばらく源太郎は帳場に座り、その間に三治は炊事場や廊下などの掃除を済ませ、彼が帰ってくるのを待つ。雨脚が強い時などは早く戸を閉めることもあるが、基本的に源太郎は暮れ四つに戻ってくる。たとえ晴れていても、一刻前には客足が途絶えてしまうのだからもっと早く扉を閉めてもいいはずなのに、源太郎はそうしたことがない。

ふと気になって、戻ってきた源太郎にそのことを尋ねてみた。

「そりゃ、お前みたいのが来るかもしれないだろ。俺が怠けたせいでそいつを泊められなかったら悪いだろうが」

 源太郎は当然のことのように言った。

 人を助けることを当たり前のこととして為せる男が友人で、確かに自分は助かっている。

「この仕事、楽しんでるのか」

 源太郎が言う身の丈にあった暮らしというのを、言った本人は固く守っているように見える。

 源太郎は心の内を見透かしたように微笑んだ。

「お前みたいに外へ出て行きたいって気持ちはあるさ。だけど俺みたいに取るに足らない奴じゃ、悪あがきしたって身を滅ぼすだけだよ」

「俺もそうだと思うか」

「そうだよ。俺とお前は同じようなものだろ。だから付き合いが続いたし、俺も一年会ってなくても助けてやる気になれた。まだ出て行きたいと思ってるのか」

 黙り込むと源太郎はため息をついた。

「もうよせ。今更外へ出て行ってどうなる。今の暮らしが不満ならちゃんと別の仕事を探せ。ここでちゃんと働いているなら何したって俺は口を挟む気はないんだからな」

 仕事のことを言われると辛かった。何らかの使命感を感じて日々過ごしている源太郎に対し、自分の毎日に期待する者はいない。

 それが嫌なら別の何かを見つければいい。ミニエー銃の撃ち方や天秤棒の持ち方以外の技がいる仕事に就くことだが、泥深い貧民窟の中にいる限り見えてこない気がした。

 

 翌朝もいつものように三治は薪を仕入れに上野へ向かう。宿へ戻ると源太郎は戸を開けている。薪を炊事場に置くとほどなくして客が現れる。常連が多いのか炊事場での動きに戸惑いが見られない。

 客が早めに炊事場から引き上げたので掃除の時間も繰り上げる。そうすると休める時間も増える。九つを数える前に仕事が終わり、源太郎に言って上野へ出る。いつもなら食事を離れで摂るところだが、街をぶらつくことも多い。

 街へ出たとしても時間を潰すのに困るほどだ。最近話題になっている牛鍋を食べてみたいと思うが、それだけの持ち合わせはない。あったとしても今の身なりで入れてくれると思えない。ただ上野を歩いているだけでも胡散臭そうな目とすれ違うこともあった。

 歩くだけで時間を使って宿へ戻ると廊下や炊事場の掃除がある。その間源太郎は帳場に座っていて、初めのうちは手伝ってくれてもいいのではないかと恨めしい気持ちになった。

 本当は違ったのだと知るまで時間はかからなかった。内容はわからないが、帳場に座っている間は帳面に何かを忙しそうに書き入れていたし、そうでない時は何か読み物をしていた。明らかに学問の姿勢で、同じ環境で少年時代を過ごしたことが信じられなくなるほどであった。

 源太郎との付き合いは長いが、歳を重ねるごとに希薄になっていたように思う。特に甲陽鎮撫隊に志願する直前は一月に二、三日会えばいい方で、戻ってきた後再会するまで彼が実家の木賃宿を継いでいたことを知らなかった。

 大人になる頃には全く別の歩みをしてきた二人である。更に戦争の力を借りて外へ出ようとした自分と、自分の居場所を受け入れて着実に固めた源太郎の違いは、今では決定的になっている。

 掃除を終えて離れでぼんやりしているうちに夕方の分の薪を運ぶ時間になった。時間通りに天秤棒を担いで上野の街へ出て、決まった量の薪を皿に載せて運ぶ。日の長い時期だから晴れていれば視界に不自由はしない。

 そのせいか、いつも通り過ぎるだけの生家が目に留まった。戻ってきた日に見たのと同じように大きな穴が空いていて、中も朽ち果てている。どう見ても価値があるようには見えないが、雨を凌げるだけましと考えて住もうとする者がいるのだろうか。

 三治は足を止めた。感傷に浸るためではない。家の中に人影が見えたのだ。

 天秤棒を担いだまま、皿が柱に触れないよう気を配りながら家に入っていく。歩くたびに吹きさらしの板が軋みをあげるが、人影は動かない。

 体を丸めて座る姿は頑なに周りを拒んでいるようで、声をかけるのも億劫になるほどであった。

 実際、声をかける理由はないはずだ。両親が死んだ時点で生家は元の持ち主に戻ったし、親子の縁を切るつもりで出て行ったのだから、生家がどうなってももはや関わりのないことだ。

 面倒に巻き込まれると思いながら三治は声をかけ、相手の肩を揺すった。手を触れた時の感触で、初めて人影が女だとわかり、少し力を加減する。

 女に構っている間に、家の持ち主が戻ってきたらという気持ちが生まれる。その時顔を覚えられている自分が見つかったらどういう目に遭わされるか。最初の時も泥の上に蹴り転がされたほどの乱暴な男だった。二度目となればどうなるかわからない。

 懸念する面倒が具体的な形を取り始めたところで、女から離れるよう警告する声が耳の奥で大きくなった。

 三治は最後の一回のつもりで強く女の肩を押した。それで反応がなければ放っておくつもりであったのだが、女は顔を上げた。

 目が合った瞬間、三治は見せる表情に迷った。

 薄暗さの中で妙に強い光を持つ目であった。

「何か」

 女は悪びれない。それどころか怪訝な顔をして、起こすのが野暮とでも言いたげな表情だった。

 何か言い返したいのをこらえ、三治は抑えた声を出した。

「ここは人の家だ。家主が戻ってくるかもしれんぞ」

「ここが、ですか。まさか」

 女は周りを見回しながら言った。

「俺もそう思ったが、ちゃんと持ち主がいるんだ。人の家に勝手に上がり込んだら駄目だ。出て行った方がいい」

「そう言われても。せっかくいい寝床が見つかったのに」

 困り顔の女に、三治は声をかけたのを悔やみだしていた。どう言っても自分の姿勢を崩すつもりはないようで、扱いづらいのが見て取れた。

 そうは言っても、ここに置き去りにした後でひどい目に遭わされたのでは寝覚めが悪い。三治は強引に引っ張り出すことにした。

「寝床なら宿でも探せ。とにかくここは駄目だ」

 体を引っ張り上げて立たせると、女は諦めたのか素直に従う。

 天秤棒を担ぎ上げ、皿が女に当たらないよう気を配りながら女の手を引く。

 赤い景色の中に出てから振り向くと、黒だと思っていた髪の色が薄くなって見えた。

 茶色い前髪の下にのぞくのは青い瞳であった。日本人らしくない目鼻立ちのはっきりした顔立ちに、三治は合いの子だと思う。

 合いの子と知ると一つの記憶が甦る。共同墓地ですれ違った女のことだ。

 記憶と目の前の一致は気になったが、仕事中だったことを思い出す。源太郎は友人だが雇い主でもある。仕事が遅れて客を待たせることがあれば叱責は免れないだろう。

 女を無視して立ち去ろうとすると袖を掴まれた。振り払おうにも天秤棒を担いだままでは上手く腕が動かせない。

「何の用だ」

 振り向かずにどすの利いた声を出すが、女は動じない。

「代わりの寝床、教えてください」

「宿を探せ。俺に頼るな」

「どうやって。無一文だからあそこにいたのに」

 非難がましく言われて三治は言葉に詰まる。雨が降りそうな空には見えないが、変わりやすい夏の天気は夕立を呼ぶかもしれない。

「本当に無一文か」

 手ぶらで相手が男なら体をまさぐって探すところだが、女が相手では手荒なことはできない。

 本当です、と言った声に嘘の振れはない。

 女が袖を掴む力は強い。強引に振り払ったとしても、転ばせるようなことがあったら寝覚めが悪い。

 そして時間もなくなってきている。三治は決断した。

「寝床はかけあってやる。ついてこい」

 そう言って女の前に立ち、源太郎の木賃宿へ戻っていった。

 客が食事の準備をするのには間に合ったが、源太郎の機嫌は悪くなった。女を連れてきたことが不満のようだった。

 客への対応があったためその時には何も言われず、宿の戸を閉める暮れ四つの頃に、三治は女と帳場に残された。

「どういうつもりか説明してもらおう」

 いつも穏やかな源太郎らしからぬ固い声であった。正直彼が何に不満なのか、今ひとつ三治は掴めていない。

「寝床がねえって言うから、人助けのつもりだったんだが」

 源太郎の声に圧されるように、三治の声は尻すぼみになった。

「それはいい。だがうちじゃ駄目だ」

「どうしてです」

 女が声を上げた。すると源太郎は少し声音を柔らかくする。

「悪いが訳ありは入れられねえんだ。客がいるからな」

 源太郎は不満ではなく警戒していることを感じ取った。幕府があった頃、特に長崎などではオランダの異人と日本人の遊女との間に子供が産まれることがあり、その子は茶色の髪や青い目を持って生まれ、日本人にはない外見で珍しがられ、母親と同じ遊女として生きていくことが多かったという。源太郎にはそんな女と同じに見えたらしい。

 確かに日本人と異人の男女の接触は限られるだろうし、子を為すというのは更に深い事情が必要になってくる。合いの子の女が背負う事情に、客が巻き込まれるのを嫌っているのだ。

 源太郎は身の丈にあった暮らしを守ろうとしている。そのことをわかると、友人として食い下がるわけにはいかなかった。

「わかったよ、俺が間違ってた」

 女は袖を引っ張り、ちょっと、と声を上げた。本気で困っているような顔をされたので胸は痛むが、二人の内一人の意思を通すことしかできない。そして尊重するべきなのは、今日始めて言葉を交わした女ではなく数年来の友人だ。

「だが、とりあえず今夜一晩は泊めてやってくれ。この帳場でもいい。外には出せねえだろ」

 戊辰戦争で江戸が占領されたとき、薩摩や長州の兵士による乱暴狼藉が起きたことがあるという。戦争に勝ちながらその恩恵に与れぬ一部の兵士たちは東京に潜伏してごろつきと化し、未だに乱暴を働くことがある。その危険をわかっていながら女一人を放り出すわけにはいかなかった。

「わかってる、今夜だけな。これが精一杯だ、わかってくれよ二人とも」

 そう言って源太郎は足早に立ち去った。特別なつながりがあるわけでもない女と一括りにされたことが奇妙で可笑しくなった。

 

 薪の仕入れに行くついでに、三治はたま子と名乗った女を連れていった。九つまで休む代わりに、たま子が泊まれる宿を探してやるよう源太郎に言われていた。三治が関わったことなのだから、自分でけりをつけろということらしい。

 半日では厳しいと思ったが、源太郎は珍しく頑なだった。二度と宿へは連れてくるなと言わんばかりだった。

 許された時間のうち半分は過ぎてしまった。汚い身なりの男女が訪ねて住処を貸してくれる奇特な者など見つかるはずもない。一番の問題は女が金を稼ぐ手段を持っていないことである。貧民窟でも一日に四銭は賃料を取られるのが普通だった。

「なあ、どうする」

 上野広小路の端に佇んで、三治はあきらめ顔でたま子を見た。自分には何もできないと突き放してしまうのは難しくないが、寝覚めは悪くなるだろうと思った。

「このままじゃあんた、路頭に迷うぞ。薩摩藩の兵士が夜は見廻りしてるといっても、中にはごろつき同然の奴がいるんだ。不用意に夜出歩いた女が手込めにされたって話も聞く。むしろ別の街に出て行った方が安全じゃないか」

 二十二年のほとんどを下谷の貧民窟で過ごし、一年間だけ別の土地を見て回っただけの自分に、女一人が安心して暮らせる場所など知るはずもない。それでも夜の東京よりはずっと人は優しく、安心だろうと思った。

 かつて江戸と呼ばれていた街は、占領されたことで歪になってしまったような気がするのだ。

「その時はあの家に戻ります」

 何かこだわるものを見つけたようだった。

「そんなに言うなら止めねえけどよ」

 やめておけという言葉を三治は飲み込んだ。あと一刻もすれば関係が途切れる女に忠告を重ねる必要もないだろう。

「お世話になりました。迷惑をかけたと思います」

「わかってるじゃないか」

 合いの子の人目を引く顔を見遣った。昨日からほとんど表情を見せない。知らない男を前にする緊張もあるのかと思ったが、引き留めたのはたま子の方だ。

 しかし墓地ですれ違った時には涙を流していたはずだ。顔をはっきり見たわけではないからたま子だったと確信はできないが、どちらが本当の姿なのか興味はあった。

「あんた、あの街の出じゃないんだろう。合いの子がいたなんて話は聞いたことないし。どうして来たんだ。墓参りか」

「どうして知ってるんですか」

「覚えてないみたいだが、あんたと墓場ですれ違ってる。墓守の男に追い散らされてただろう」

 記憶に引っかかるものがあったのか、ああ、とため息のような声を出した。

「恥ずかしいところを見られてたんですね」

「そんなことないだろ。あれは男の方がひどいだけだ」

「そうじゃなくて、泣いたところを見てたんでしょ」

 たま子が微笑んだ。純粋な日本人の女にはない、妖しい表情だった。

「見たくて見たんじゃないが。何があったのか聞いてもいいか」

 話をすれば深みにはまって一刻が過ぎても抜け出せなくなる予感はある。しかし大人が誰とも知れぬ者もたちも共に眠る墓の前で涙を流すなどただ事ではなかっただろう。

 たま子は真意を覗くような目でのぞき込んできた。他意があるにしてはさり気ない動きではあったが、三治は艶然とした輝きを見て取る。持って生まれた才能のように、容姿の使い方を心得ているようで、その気がなくても引き込まれそうな表情であった。

「話したくないなら、別に構わないが」

 整った顔と向き合い続けることに耐えられるほどの度量がないのを情けなく思いながら三治は目を逸らした。

「友人に」

 不意にたま子が言った。

「友人に会うつもりだったんです。探し歩いたら行き着いたのがあの場所で」

「そんなに大事な奴だったのか」

 源太郎のことはかけがえのない友人だと思っているが、彼が仮に死んだとしても、墓前で人目を憚らず泣けるとは思えない。彼に対する気持ちを、周りの目を感じる常識的な思考が抑え込むはずだ。

 それよりも常識が勝るということは、余程大事な相手だったか単にたま子が非常識だったかのどちらかしかないだろう。

「その人がいたから孤独ではなかったのです」

 たま子は雲の多い青空を見上げた。彼岸まで突き抜けるように遠い視線だった。

 深みにはまりつつあるのを感じていると、たま子の方から尋ねてくる。

「三治さんこそどうしてあの墓地に」

 無関係だと言って突き放す、最後の機会を与えられたように思った。今ならたま子との関係を終えられる。

 そうするのが正しいと思いながら口が動いた。

「あそこには俺の親がいるはずなんだ」

 親が、とたま子は訊き返す。訊いたことを後悔するような様子はないが、特に痛む腹でもなかったから気にならない。

「あんたがいた家には俺たち家族が住んでいたんだ。俺は一年前に出て行ったんだが、家を離れている間に親はいなくなってた。他に行き場もないはずだったから、家にいなけりゃ死んだんだろうって思ったんだ。あとで源太郎に聞いて確信したけどな」

「とても人が住むような場所には思えませんでしたけれど」

「俺がいない間に何かあったのか。古いから単に腐っただけかもしれないけどな」

 人付き合いの希薄な両親だったから、家を壊されるほどの恨みを買っていたとは考えにくい。風水害などで壊され、放置されていたのだろう。

「それよりもあんたのことだ。もう時間がなくなってきてるが、住む場所は探さなくていいのか」

 表情の乏しいたま子は、これから路頭に迷うのが決定的になっているのに慌てる様子も見せない。

「悪いが俺にはできそうにない。仕事がないと借りられねえし」

「わたし一人でも何とか探してみます。どうしても駄目だったら、あなたの家を寝床にします」

「あんた、俺の話聞いてたか」

 三治は呆れ声を出した。

「あそこは人の家なんだぞ。家主に見つかりでもしたらどういう目に遭わされるか」

「寝に戻るだけです。昼間は仕事や家を探します」

 迷いや焦りのない声を聞くと、案外うまくやり過ごすのではないかと思える。

「あんまり無理はするなよ。夜は本当に危ないんだからな」

 三治はそう言ってたま子と別れ、源太郎の宿へ戻っていった。

 

 三

 

 たま子と別れてから、源太郎も彼女のことを忘れようとするように話題にすることはなかった。貧民窟を歩いていると合いの子の女がいるという話を小耳に挟むことがある。目立つ容姿をしているたま子を見かけることもあったが、助けになる方法も思いつけず、三治は彼女を遠巻きに眺めることしかしなかった。

 気がかりなのは夜のことであった。三治の生家で寝泊まりすると言っていたが、脅威は家主だけではない。合いの子の噂を聞きつけたごろつきに襲われないとも限らない。大穴が空いていて、出入りを妨げるものは何もないのだ。

 三日が過ぎる頃には、薩摩藩兵くずれのごろつきに手込めにされるたま子の無残な姿が脳裏にはっきり描かれるようになる。自分の身を守れるとわかるならともかく、たま子に護身の心得があるようには見えなかった。

 源太郎が眠っているのを確認して、三治は生家を目指した。幸い月明かりの強い夜で、視界や方向感覚に不自由はしない。迷うことなく生家にたどり着き、家の中にたま子の姿を探した。

 声をかけるが返事はない。三治は家に踏み込んでたま子を探す。ややあって座敷の奥にうずくまる人影を見つける。

 その人影を揺さぶる。ほどなくして呻き声が上がって身じろぎしたのが見えた。

「おい、大丈夫か」

 声をかけるともう一度呻き声が上がる。起きろ、と言うとたま子は顔を上げた。

「誰です、せっかく寝てるのに」

 襲われるかもしれないなどとはつゆほども考えていないような呑気な声である。まどろみを残していて、揺さぶってやらないと再び眠りに落ちてしまいそうだった。

「俺だ、忘れたのか」

 思い出してもらうには言葉が足りないと思ったが、たま子は一日分の時間も一緒にいなかった男の名を口にした。源太郎以外の人間に思い出してもらえたことがやけに嬉しく、三治は満足げに頷く。

「もう遅い時間でしょう」

「あんたが言うか。ここで寝るなって言っただろ」

「でも、三日間だれも来ませんでしたよ」

「そういう時もあるだろうが」

 きっと仕事熱心な家主ではなく、気まぐれに見回っているのだろう。それはやり過ごせたとしても、三治の心配は別にある。

「あんたのことが噂になってる。ただでさえ目立つ顔をしてるんだ。こんなところで寝てたら狙われるぞ」

「それもありませんでした」

「今まではなくても、これからはわからないだろ」

 わからぬことや納得のいかぬことを臆面もなく訊いてくる子供と話をしているような気分になってくる。わずかに苛立ちを覚えながら、三治はたま子の傍に腰を下ろす。相手を見下ろしたまま話すのも気分が悪いと思ったのだ。

「それで、三治さんは何しに来たんです」

 問いかける声に悪気は感じない。追い返すつもりはないと思い、三治は素直に答える。

「あんたが心配になった。本当にここで寝泊まりしてるとは半信半疑だったが」

「心配、ですか」

 たま子は言葉の真意をうかがうような目でのぞき込んできた。いつの間にか奥に届くようになっていた月明かりが瞳の色を露わにし、日本人の女にはない妖しさを見せている。三治は引き込まれるのをさけるように目を逸らし、そうだ、と努めて短く答えた。

「源太郎にも言われたからな。関わった以上責任持って見届けろって」

 その言葉の真意に従うなら、自分で寝床を確保している時点で責任は終わっている。中途半端に関わって途中で見捨てる形になってしまったが、たま子自身は不満を言わなかったし、今も恨み言一つ述べない。

「だからどこか、眠れる場所を教えてくれるんですか」

「それを期待されても困る。そんな伝手はねえ。せめて様子を見ることぐらいか。あんたが俺を信じてくれるなら」

 甲陽鎮撫隊で訓練と称して組み手をやらされたことがあるから、喧嘩にはそれなりに慣れているものの、東京府をうろつくごろつきの多くは剣を使う本職の兵士たちだからどこまで通用するのか自信はない。

 家主にされたように、無残に泥の上へ転ばされるだけかもしれない。しかし女一人を放って立ち去れば後悔するのは想像がつく。これまで一人で過ごしてきた源太郎は自分がいなくても何とか宿を切り盛りできるだろうが、たま子が自分の身を守り抜けるとは思えない。

「いいか、あんたの傍にいて」

 断られても仕方がないという気持ちで言った。たま子にしてみればほとんど知らない相手で、ごろつきと変わりはないだろう。

 たま子の答えはお好きなように、だった。信じたのかそうでないのか判断のつきかねる言葉であったが、三治は許された位置に残って道の上へ注意を向けた。

 

 揺さぶられて三治は目を覚ました。

 油断して眠りに落ちてしまったことに気づき、慌てて目を開いて立ち上がる。

 目を開けると体中にまとわりつく汗に気づく。昨夜は暑かったし、それでなくても水はけの悪い街の湿気は強い。まだ日が昇りきらず視界は青っぽいが、下がりきらぬ気温が日中の猛暑を予感させた。

 たま子は傍にいた。何かされた様子はなく、白痴美という言葉の当てはまる端正な顔立ちに変化はない。

「わたし、もう行きます」

 熱帯夜の中で眠れなかったのか、たま子の目は焦点が定まっていない。

「どこにだ」

「仕事を探しに。簡単じゃないですけれど」

「ついでに寝床も探したらどうだ」

「そっちの方が難しいって、一緒に探してわかったでしょう。それにあなたが毎夜来てくれるなら安心ですから。何もしませんでしたし」

「あんた、起きてたのか」

 そう尋ねるとたま子は頷いた。

「あなたが邪なことを考えてないと言い切れませんから」

 やはり信じられていなかったらしい。たま子の立場で考えれば当然だろうが、改めて言われたくはない。

「でも、何もしなかっただろ」

「途中で眠ってたくせに」

 たま子の口元が動き、日本人離れした妖しさが表出する。あまり表情を見せない女だからこそ、時々見せる微笑みがやけに輝いて見える。

 魅力的な表情ではあったが、あまり深みにはまるわけにはいかないという思いは残っている。抜け出したことを源太郎は気づいているだろう。友人であると同時に雇用主である彼の機嫌を損ねれば路頭に迷うのは自分だ。

 その後これまでのように彷徨できるのか。日雇の仕事は多くあるが、この街に留まっていないと後悔を残すことになりそうだった。

「今度は気をつける」

「また来るんですか」

 たま子の表情が再び動く。三治にしてみれば一度決めたことを改めて口にしただけで、気負いの必要ない当然のことを言ったつもりであったが、たま子には充分意外に思えたらしい。

「本当は出て行くつもりだったんだけどな」

「それならどうして」

「あんたを放っておけない。迷惑か」

 昨晩したのと同じ問いかけが今は重みを持つ。深みへはまっても構わないという思いがあった。

「お好きなように」

 たま子はそう言い残して立ち去った。その言葉もまた、昨夜とは違う意味を持って聞こえた。

 その背中を見送ってから、夜が明け切らぬうちに三治は源太郎の宿へ戻った。

 離れで待ち構えていた源太郎は、怒るというより心配するような顔をしていた。

「仕事の時でなかったからまだいいが、何をやってるんだ。変なことに手を出してるんじゃないだろうな」

 訳ありな見た目のたま子が宿に立ち入るのを拒んだほど慎重な男は、厄介事が入り込むのを何よりも嫌う。たとえ友人でも、その大元だとわかったら容赦なく叩き出すのだろう。長く関わり合うことは源太郎との関係を崩すことになりそうだった。

 真意を探り出そうとするような目を避け、三治は口を開く。

「この前俺が連れてきた女、いただろ。今は俺が昔住んでた家にいる」

「それが何だ」

「心配になって様子を見に行ったんだ。まだ危ないだろ、ごろつきがたくさんいて」

「それはお前も同じだ。戦争に行ってたとしても、ごろつきの方が数も腕も上だろうが。変なことに関わってけがしたらどうする。俺も働けない奴を置いておく余裕はねえんだ」

 源太郎は温厚な性格に似合わぬ必死さで声を上げる。

「今日も行くつもりだ。あいつが落ち着ける場所を見つけるまで」

「何言ってる。この前家を探して、それでも駄目だったんだろ。俺だってできるわけないと思ってたんだ。素寒貧がどうやって住む場所を探せる」

 やってみなければわからないと言い返したかったが、源太郎の正論は体験済みである。何の伝手もない自分に、たま子が望むことの助けになってやることは難しい。ごろつきから守ってやるのも、一人か二人ならできなくはないが、それ以上は難しい。

「女に入れ込む前にやることがあるだろ。そうすりゃ相応しい女が寄ってくる」

 そう言って朝の日課である薪の仕入れをしてくるように言い残し、源太郎は背中を向ける。その肩に手を伸ばして呼び止めた。

「三日、いや二日くれ。その間だけ隙にさせてくれ」

「その間仕事はどうする」

「夜だけだ。仕事は関係ない」

「けがして働けなくなったら」

「追い出せ。それで不満なら何でもやる。金を作れっていうならそうする」

 源太郎は睨むような目つきで見つめ返してきた。三治もその視線を受け止める。日中たま子が東京府のどこにいるのかわからないし、彼女とこれからの時間を共にするだけの覚悟もない。短い間の夜だけでも傍についていてやるのが、何も持たない自分ができる最大のことだった。

 しばらく視線を動かさなかった源太郎は、不意に表情を緩めた。

「お前は昔から約束を破らなかったからな。何かあっても逃げねえって思うことにするよ。ただ、二日だけだ。終わったら帰ってこいよ」

 すまねえ、と言った時、源太郎は踵を返していた。三治は言われた通りに薪を運びに上野へ出かける。上野広小路を行き交う様々な風体の者たちの中に三治はたま子を探した。目立つ容姿だから目の端にでも引っかかれば気づくはずだが、それらしい人物は見当たらない。

 全幅とまで言わなくても源太郎は信じてくれた。その思いに応えるには昼間懸命に働くことだ。三治は寄り道せずに宿へ戻り、掃除をしながら夕方、そして夜を待つ。

 陽が沈んでから生家へ向かおうとした時、源太郎はミニエー銃を渡してきた。

「戦争の時拾ったんだ。売るつもりだったんだが、ごろつきが多いから用心で持ってる。二日間貸してやる」

 一緒に渡された弾丸は六発だった。戦場だったら半時保たないだろうが、必ずしも襲われるとは限らない街の中なら充分だろう。

「絶対帰ってこいよ。これだけのことしてやってるんだからな」

「心配するな。約束を破ったことないの、知ってるだろ」

 三治はそう言い残して泥深い道へ踏み出していく。約束を交わしたわけではないのでもしかしたらいないのではないかと思いながら歩く道中だったが、たま子は暗がりの中で待っていた。

「本当に来たんですね」

 月明かりの下へ進み出たたま子は微笑んだ。白痴美という言葉が似合う女も、やはり表情が出れば美しい。それも日本人にはない妖しさが含まれている。ずっと見ていたい気持ちにもなった。

「言った以上は来ないとな。あんたこそ、待ってないかと思った」

「わたしの寝床はここだけです。正直安心しました。信じられる人が来ると、怖くはなくなります」

 昨夜二人きりだったにも関わらず手を出さなかったことを言っているのだろう。

「不安だったのか」

「そうですよ。女一人じゃ。いくら一人で過ごしても慣れることはありません」

 気を許したように柔らかな表情に見えた。あの無表情は緊張もあったのだろう、思えば堅苦しくて不自然さもあったような気がする。

「悪いがいつまでもってわけにはいかねえんだ。二日しかいられない」

「気にしないでください。あなたにも暮らしはあるでしょうから」

「もう少し早く会えてれば、ずっと一緒にいられたかもな」

 どうして、とたま子は訊いた。その理由を話そうと思って、互いの背景をほとんど知らないことに気づく。お互い近しい人間を亡くしていることだけだ。

「この家を空けて、帰ってきたら親が死んでたって話しただろう。戦争に行っててな」

「それって、官軍と賊軍が戦ってた」

「俺は賊軍の方だった。甲陽鎮撫隊っていってな。甲州で戦ったんだが、寄せ集めだったからたいしたこともできないで負けたよ。俺はすぐに逃げて、幕府が負けてもふらふらしてた。それでたまたま近くに寄ったからここまで戻ってみたのさ。親にも会いたいと思ってたが、駄目だったな」

 親がどうして死んだのかわからないが、病気だったとしたら死期を早めたことになるだろう。その時傍にいたら、看病ぐらいはしたはずだ。その報いで死に目にあえなかったとすれば納得もできた。

「あの、それで、人も撃ったんですか」

 たま子の目はミニエー銃に流れていた。

「これは源太郎が持ってたものだ。上野でやった戦争の時に拾ったらしい。もし襲ってくる奴がいたらこれで追っ払ってやるから安心しろ」

 よろしくお願いします、と言ったたま子の微笑みは固く見えた。頼もしいと同時に人が目の前で死ぬかもしれないと思い、怖くなったのだろう。

 不安は三治も同じだった。戦争にいた時でさえ特別上手かったわけではないのに、一年間銃には触れていなかった。自分にどれくらいの腕前が残されているかわからないし、戦いに慣れていると思われるごろつきが、銃弾一発の脅しに屈するとは言い切れない。

 更にミニエー銃は前装式で、一発撃つごとに弾込めが要る、時代遅れの銃だ。少しでも戦争に参加した経験があれば、その弱点を見抜かれるだろう。

 武器を手にしながら、誰も来ないことを願うしかない。情けなく思いながら、三治は銃の打金が半起こしになっているのを確認し、パトロンと呼ばれる弾薬を包む紙をかみ切った。すると中から装薬が現れる。それを銃口から流し込み、火薬の下にあった椎の実型の弾丸を落とす。

 更に銃口へ細い棒を軽く突き入れ、打金に叩かれる位置にある火門に雷管と呼ばれる蓋を被せる。引き金を引くと雷管を打金が叩き、火門で起きた火花が内部の火門孔、火門座を通って装薬に燃え移り、装薬の爆発力で弾丸を撃ち出す仕組みだ。

 弾は一発撃つごとに込めなければならないが、雷管も同じように一発ごとに取り付ける必要がある。撃てるようになるまで時間のかかる銃であり、連射などできない。

「普通、銃ってこういう風に使うものかな」

 たま子を傍に、弾込めを終えた銃を逆隣に置くと、感想めいた言葉が浮かんだ。

 何ですって、とたま子が訊いた。

「俺は貧乏暮らしから抜け出せると思って募兵に応じたんだ。親のことなんて考えない、自分のためだった。でも本当は、誰かのために銃を使うのが正しいんじゃないかって、今思ったんだ」

 参加したきっかけが自分のためなら、実際の戦場で採った行動も同じだった。初めての戦いで無我夢中になったのもあるが、逃げる時に撃たれてうめいている味方を踏みつけてでも生き延びようと走った。

 たとえ味方を助けたとしても、道具も知識もない自分には救えなかっただろうし、悪くすれば共倒れだったかもしれない。決して間違った行動だったとは思わないが、他人のために銃を撃つと決めた方が、人として幾分ましだと思った。

「あんたのためだったら殺すつもりで撃つ。でも二人より多かったら駄目だ、この銃は弾を込めるのに時間がかかる。一発撃った後相手が逃げなかったらどうしようもない」

「それじゃあ、ここを離れましょうか」

「どこに行ったって同じだし、誰も来る気配がないならむしろ動かない方がいい。朝が来れば俺たちの勝ちだよ」

「別に戦争してるわけじゃないのに」

 たま子は吹き出した。幾分柔らかさの戻った表情だった。

「でも、下手したら傷つくだろ。戦争だと思って必死になった方がいい」

 何か軽口で応えてやりたかったが、再び手にした銃に緊張を感じてそれどころではない。

「このまま誰も来なけりゃいいけど、誰かが来たら逃げる準備をしてくれ。一発撃てばひるむはずだ。その隙に逃げる」

「どこへ」

「左だ。必死で走る。源太郎のところに逃げ込めればいいけど、あいつは絶対入れてくれないしな」

「冷たいんですね」

「そう言うな。前にも言ったが、あいつは必死に生きてるだけだ。自分の仕事に一生懸命なんだよ。俺にできるのはその邪魔をしないことだ。源太郎を悪く言わないでくれ。あいつの友達として頼む」

 不満があるという理由だけで夢を見て、ろくな努力や準備もしないまま戦場へ出かけていき、親の死に目にもあえなかった自分と違って源太郎は堅実な日々を送ってきた。少なくとも自分の手でその努力の成果を崩すようなことはしたくない。たま子と共にいる間源太郎の宿へ近づかないことが、泥だらけの自分に、友人として手を差し伸べてくれた男に対して今できる、唯一の恩返しだった。

「そうですよね、友達は大事ですから」

 たま子は素直だった。友達という言葉に思い入れがあるのだろうと思ったのは、墓地ですれ違った時を思い出したからだ。

「あんた、友達を弔いに来たんだったな」

「少し違います。会うつもりだったんです。死んでるとは思ってませんでしたから」

 ずっと微笑みを保ってきたたま子の表情が寂しげなものに変わる。大きな存在だったのだろう。源太郎のように合いの子と見ると厄介事を警戒する者は少なくない。多くは遊女で、思うとおりに暮らしていると逃げてきたのではないかと考えるのだろう。

 そんな考え方が多い中で、たま子に友人と言わしめたのだから、奇特であったと言えるだろう。

「どういう女だったんだ」

 そう尋ね、たま子の口元が動いた時、三治は足音を聞いた。

 走っている。二人以上だろう。通り過ぎて欲しいと思いながらたま子に立ち上がるように言う。

 果たして足音は止まり、三人の男が踏み込んできた。月明かりを背にしているため表情は見えにくいが、邪な目的を持っているのはわかる。男は失せなと言いながら白刃をちらつかせる。

 その銀色の閃きが見えた瞬間、三治は銃口を上げて引き金を引いた。

 火薬の炸裂は落雷にも等しい音がする。撃ち続けて慣れれば気にならなくなると言うが、たいした教練も受けず一年に渡って銃から離れていた三治には、耳が利かなくなるほどの衝撃だった。

 逃げるぞ、と叫ぶ。予期せぬ反撃だったのだろう、二人は呆然と立ち尽くしている。真ん中の一人は視界から消えている。どこかに弾丸が当たったのだろう。

 男たちが衝撃から立ち直る前にできるだけ離れなければならない。たま子と共に滑りやすい道を必死で走った。

 息が切れ、足が震え始めた頃に三治は止まった。思うままに右へ左へ曲がり、今はどこにいるのかわからない。左は上野広小路の方向で、再びそちらへ向かえばいずれは貧民窟を出られるだろう。それから薪を仕入れる店を目指せば、源太郎の宿への道はわかる。

 泥の上でなければ寝転がりたいほど疲れた体を引きずるように、三治はたま子と歩いた。いずれは泥ではなく土や砂の道へ出られるだろう。その読みはやがて的中し、長屋街が上野広小路の広い視界へと変わった。

「ここまで来りゃあ大丈夫だろ」

 そう言って背後を振り返るが追いかけられる気配はない。

 たま子を見遣ると笑みは消えていた。人が撃たれるところを見てしまったせいか、わずかに怯えも見て取れる。

「撃っちまったな」

 この先発砲が知られて目明に捕まったとしても、ありのままの事情を説明する自信はある。ただ、それを相手が信じてくれるとは限らない。場合によっては捕まらないように遠くへ逃げなければならないかもしれない。

「撃ってませんよ」

 悲壮感の伴う覚悟を固めていたところに、たま子の静かな声は安堵よりも拍子抜けをもたらした。

「一人腰を抜かしてました。でもどこも撃たれてませんでした。本当です」

 たま子は笑っていた。妖しさを感じない、少女のように清純な表情であった。

「本当に撃つつもりだったんですか」

 そう尋ねられ、三治は頷いた。

「銃はそうやって使うものだろ。あんたを守るつもりで来てるんだ。源太郎にも迷惑をかけてる。ここまでやってあんたを守れなかったら、ここでも負け犬になる」

 甲陽鎮撫隊での敗走は気にすることではなかった。幕府軍は大崩れになって叩きつぶされたし、生き抜くために必死で逃げて悪いことなどなかったはずなのだ。

 ただ、一年前と今とでは、背負っているものの性質が違う。一年前は自分の人生を変えるためだけに家を出て銃を取り、今は女一人を守るために銃を撃つ。戦場ではないから藪蛇も有り得るが、それを恐れずに戦うことを三治はためらわない。

「とりあえず休もう。きっとあそこなら人も来ないだろ」

 そう言って三治は広小路の向こうにそびえる一際大きな影を示した。上野の山である。人気のない広小路を横切り、上野公園に入ると音が消え寂寥感さえ漂ってくる。

 公園の奥を目指して歩き、やがて葉桜の根本にたま子を伴って腰を下ろす。

「朝までいるつもりですか」

「明け方になったら動くさ。あの銃声を聞いて目明も動いてるかもしれないしな」

 山の手より貧民窟に戻った方が目明には見つかりにくいかもしれないが、あの三人が自分たちを探しているかもしれない。夜が明けるまで人が来ない場所に身を隠すのが上策と思えた。

 銃に弾を込めたいところだが、山の手で銃声を響かせたら目明に位置を知らせることになる。ここでは抵抗せずひたすら逃げるのが得策だろう。

「朝が来たら起こすから、あんたは寝ろ」

「三治さんは平気なんですか」

「今度は寝ないって言っただろ」

 目明とごろつき、両方に追われているかもしれない今は状況が違う。危険な気配を察したらすぐに逃げなければならない。

 たま子は幹に寄りかかってすぐに眠ってしまった。三治はその横で、見張りの兵士よろしく敵の気配を探る。

 いつでも逃げられるように警戒はしていたが、結局目明の気配もなく空が白みだした。

 三治はたま子を起こし、上野広小路へ戻った。既に商売を始めている棒手振りもおり、そろそろ出歩いていても目立つ時間ではなくなっている。三治は銃に袋を被せて見えなくし、貧民窟へ戻った。

 約束では朝には源太郎の宿へ戻ることになっていたが、銃を撃った今源太郎のところへ戻るのが得策かどうか判断がつきかねる。しかし源太郎と交わした約束を破ることはできず、彼に決めてもらうつもりで宿へ戻った。

 離れの戸を叩くと寝間着姿の源太郎が顔を出す。彼はたま子を認めて顔をしかめ、追い払うように睨んだ。

「三治さん、また夜に」

 そう言って彼女は立ち去った。昨日のことがあるから少し心配ではあったが、昼間ならそれほど無茶なことも起きないだろう。

「昨日、撃っちまったよ」

 離れに招き入れられた途端足の力が抜けた。安全な家がありがたいと久しぶりに思えた。

「ああ、銃声が聞こえた。まあ刃傷沙汰も多いから、死人が出てなけりゃ目明もうるさく言わないだろう。撃ったのはごろつきだったんだろ」

 そう尋ねられて頷く。

「あいつらも悪いことをしてるのはわかってる。自分から目明に声をかけることはしないだろうよ」

 そう言われて少し気が楽になる。何にしてもあと一日である。源太郎が厄介事に巻き込まれる心配をするのも最後になるだろう。

 いつものように薪の仕入れに出かけ、それが終われば掃除をする。夜が来るのを待ち遠しく思うと同時に時間が止まればいいとも思う。たま子に会える希望を持ったままで過ごしたい。

 夕方、薪を仕入れに向かい、寄り道せずに帰り着く。そして源太郎から銃を受け取り、上野公園へ向かった。ごろつきが現れた生家は危険だからと待ち合わせ場所を変えたのだ。

 入口から少し歩いたところにたま子はいた。

「約束だからな、今日が最後だ。中途半端だったと思うが」

 時間を長く共にしてこそ守ったと言えるのだろうが、源太郎の宿を出ないことを選んだ自分には精一杯だった。

「友達は大事ですから」

 以前にも聞いた言葉を繰り返したたま子は、歩きながら言葉を継ぐ。

「わたしの友達のこと、話してませんでしたね」

 昨夜話そうとしたところでごろつきに邪魔され、まだ聞けずにいた。

「死んで泣くほどだったんだろ。どんな女だったんだ」

「ただ、わたしのことを厭わないでいてくれた人です。たったそれだけです。そういう人を、他にわたしは知らなかったんです。こういう見た目だから、色々訳ありだって普通は思うでしょうから」

「源太郎はそう思ったから、あんたを拒んだんだ」

「わたしはどちらの親の顔も知らずに生きてきました。それを救った人でもありました。二年ほど離れて暮らして、あの時久しぶりに会いに行ったんです。そしたらあの通り」

「残念だったな」

 他に言葉が思いつかなかった。女を口説いた経験がないわけではないが、相手にされることもなく終わってしまった三治にとって、どう言えばたま子が喜び、慰められるのか想像がいまひとつ及ばない。

 言葉の力に自信はなかったが、たま子は笑っていた。

「でも、あなたが来てくれたのは良かった。あの時は生きていけない気がしたほどでしたけど、同じように拒まなかったあなたがいたら、まだ生きていける気がします。ずっとあの宿にいるんですか」

「出て行きたかったさ。源太郎は俺よりもうまく生きていて、その差が辛かったんだ。だが出て行ったらあんたが探せなくなる。あんたはまだ、この東京府で寝床を探し続けるんだろ」

「そのつもりです。もうあなたの助けはないでしょうけれど」

「そんなことねえよ。時々あの家に寄る。その時会えたら協力もしてやる。源太郎に見つからないようにするから」

 約束破りと言えないこともない。しかし源太郎にとってたま子との関係は今日で終わることになるのだ。密やかに続ければ逢瀬が知られることもないだろう。

 二人は歩きながら言葉を交わした。三治は一年間の放浪生活のことを、たま子は友人のことを。その話題が尽きる頃に空は白みだし、三治は源太郎の宿へ戻る。その時から三治は、源太郎の宿の下男に戻った。

 源太郎は宿の主人に徹し、たま子のことは忘れたように何も聞かなかった。そして下男として働き続けるのを当然と考えるように、今まで通りの仕事を任せた。

 宿の主人として真面目に働き続け、着実に生活の地歩を固めていく源太郎と、何も持たない自分の間にある差を埋めるのは難しく、居たたまれなさが消えるわけではない。それでも出て行きたいとは思わなくなっていた。

 今日は久しぶりに寄ってみるか。薪の仕入れの帰り道、生家に立ち寄った三治は、壁に背を預けてうたた寝するたま子を見つけた。

 

                      〈四百字詰め原稿用紙換算 七二枚〉

2012年10月作品