yuzaのブログ

幕末から明治を舞台にした小説を中心に載せています。

泥に根付く

 一

 

 日刊紙『時事新報』を畳んで帳場の脇に置くと、大竹俊吾は木賃宿「きぬや」の号が書かれた昔ながらの掛け行燈に火を灯しに外へ出た。三日前に雨が降った後も、元綱(もとつな)町(まち)の地面はいっこうに乾かず、日陰の雪のように泥水がしつこく残る。

 新聞を読むのに没頭している内に暗くなった町で、東京府のどこかで各々仕事を終えた人々が家路に就く。風体は様々だが、重い足取りで通り過ぎる彼らの多くは肉体労働で日銭を稼ぐ立場だろう。戻りつつある日雇者の流れは、麻布の方向に当たる北から来ていた。

 元綱町から北へ行くと坂があり、それを上りきると「山の手」と呼ばれる地域になる。江戸以来商業が盛んだった「下町」に対する言葉で、かつては江戸勤番の地方武士たちが屋敷を構える土地柄だ。

それが政権交代と共に武家屋敷が少しずつ取り壊された。明治三年に東京府が政府に提出した『新開町取建の伺い』に基づいて、かつて将軍のお膝元と呼ばれた土地の再開発が始まった。始め武家地に作られたのは『新開町』と呼ばれる、東京府や政府が「保護するべき」と考える人々を移住させるために開かれた町である。幕臣の屋敷を潰して作られた元綱町もその一つであったが、そうした開発が落ち着くと、今度は政府高官や実業家、前年の華族令で華族に列せられた新興の家が競って欧風邸宅を建てるようになった。日雇者たちが昼間いた麻布もその一つで、夜になると戻ってくる日雇者たちは、まだ庶民の間では馴染みの薄い煉瓦や石材を担いで、西洋人建築家の作った図面の元、屋敷を建てているようだ。

 その日最初の客が現れたのは、人通りが絶えて久しい夜十一時。

 客が来る気配もないので扉につっかえ棒を立てかけて閉めてしまおうと思った時に現れたのは痩せた小男である。貧相な体や顔は元綱町においては目立たないが、縦縞の小袖と帯の結び方に見覚えがあった。

 そして行李を背負った姿から、商人かと見当をつける。

「お久しぶりです、大竹さん」

 どこかで会いましたか、と自分の名前を口にした男に訊くと、音吉をお忘れですかい、とのぞき込むような目で言ってきた。腰を曲げて笑うへりくだった態度にも心当たりはあるものの、どうしても思い出せない。

 音吉の名を呟くと、呼び起こされた記憶があった。

「五年前はお世話になりました」

 俊吾は努めて深く頭を下げた。この木賃宿を開くにあたり、道具や薪を用立ててくれた男である。

「いえ、仙吉さんにはお世話になっとりましたからね。弔いも兼ねてね。ここがまだ続いていて良かったですよ」

 音吉はへりくだった態度を崩さないが、恩義を感じる相手のせいか慇懃無礼には見えない。

「とはいっても、さして繁盛もしていませんが。今日はどうなさったので」

「いえね、商売の関係で久しぶりに戻ってきたんですけどね、明日の仕事までに宿を借りようと」

「そういうことなら」

 そう言って俊吾は、帳場から離れて音吉を客室として使っている座敷へ案内する。二十畳の部屋には既に十名の宿泊客がそれぞれ固まっていたが、遅い時間ということもあって寝静まり、枕行燈の光が三つ、ぼんやりと座敷を照らしている。

 そこに馬上提灯の光を加え、音吉の進路を照らす。彼を一番奥に案内すると、彼はすぐに横たわった。それからほとんど間を置かずに寝息を立て始める。その疲れた様子に深い事情を感じ取るが、かつて世話になったとはいえ立ち入ったことを訊けるほど親しい間柄でもない。座敷を後にした俊吾は浮かんだ疑問を追い出すように、寝所として使っている母屋へ戻って自分も眠った

 

 音吉は二日目の朝、改めて五日の滞在予定を告げた。このところ客が入っていない「きぬや」にとって願ってもない上客となった男は、陽が昇る頃働きに出て日射しが消えるまでに帰るという生活を繰り返した。世間話のつもりで仕事の調子を聞いてみると、ぼちぼちですな、と笑う顔に陰がさして見えた。最初から何か事情を抱えているような気はしていたが、俊吾はその表情で悩みの深さを感じ取る。

 そうして溜まっていく澱も、縁側で飲む酒で紛れた。水増しして長持ちさせている酒で、温めるだけの薪もないが、何度も急速に流し込んでいくうちに酔うことはできる。決して心に強い負荷のかかる毎日ではないのだが、いつの頃からか俊吾は気を紛らわすための酒が手放せなくなっている。

 表の道と同じ、泥で粘つく足音が付いている。縁側に座ったまま、母屋の角から顔を出して様子をうかがうと小柄な影が歩み寄ってきた。

「音吉さん、戻ってきたのか」

 出がけに音吉は、今夜は帰ってこないと告げていたが、既に閉めている宿の扉を通らず直接母屋へ来た。

「ええ、思ったより仕事が早く片付きそうでして」

 歯切れの悪い態度ではあったが、大事なことをわざとぼかして相手に伝えるのが商売だろう。商人としての長い経験から来る態度だと思って、俊吾は気に留めない。

「あのお、一緒してもいいでしょうか」

 音吉は妙に落ち着かない佇まいだった。以前見た笑顔から深い事情を感じ取った時のように、俊吾は胸騒ぎを覚える。親しい間柄なら事情を深く聞くべきだろうし、それも許されるだろう。しかし自分は音吉の仲間でも友人でもない。顔見知りという程度の仲だ。そんな相手に対してできるのは、共に酒を飲むことだけだった。

「まずい酒ですが」

 俊吾は冷たい酒を、母屋から引っ張り出してきた杯に注いだ。

「きぬさんが使っていたものでしょう。いいんですか」

 特に親しさを感じない相手の口からその名が出たことに驚きながら、俊吾は頷いた。

「道具は使ってこそ、でしょう。遠慮せず、どうぞ」

 音吉は頷いて一気に呷った。

「仕事をしにきたというのは」

 山の手であれば虫の声でも聞こえる時期なのに、あの涼やかな音色はどれだけ耳を澄ましても聞こえない。腐った魚や鼠の死骸が、道の端に転がっているような土地柄である。汚物と死骸が織り成す不衛生で、儚く脆弱な虫は駆逐されてしまったのだろう。

「最近は下谷で仕事をしていましたが、昵懇の損料屋が店を畳むと聞きましてね。ものの整理のために戻ってきました。まだまだ仲買をやりそうですよ」

 音吉は苦笑気味の表情を見せた。仲買という言葉を、実際にその職にある者は自虐的に使う。それは彼らの多くが、元々は大店に勤める店員か独立した店主であったためだ。

 音吉は元々銀座で薬問屋を営んでいたが、他店との競争に敗れたことで店を手放し、公私の拠点を失ったことで元綱町へ落ち延び、そこで住処と身一つでできる仲買の職を得た。音吉に限らず、仲買の多くは商人としてある程度の地位まで上り詰めた者たちなので、商品を見る目は確かである。だが、どこかで「なれの果て」と自虐するのだろう。貧民窟の古物商に重宝されることで、得意先の古物商からの依頼で食っていくというやり方は珍しくない。

「いずれは銀座へ返り咲きですか」

「そう思わなけりゃあ、とてもやっていけない毎日です。どうにも目指すものが他に見当たらないで」

 照れくさそうに頭をかく音吉にまだまだましだろうと内心で呟いた。自分には何のために「きぬや」を営み続けているのか、その理由さえ見えていない。

「宿はどうでしょう、順調ですか」

 今度は俊吾が苦笑する番だった。

「今日泊まっている人数が、今年一番の数です」

「きぬや」が元綱町に落ちて初めて就いた職ではない。最初は残飯屋に頼んで下男をしたり、日雇者として財産家の邸宅建築に従事したりして日々の糧を得ていたが、そうして過ごす内に前の主人仙吉に気に入られたのがきっかけだった。その仙吉は三年前に宿の一切を俊吾に譲るという遺言を残して逝き、俊吾はそれに従って働いている。

「初めはまあ、生活のためだと思って働いてはみましたが、きぬが死んでから張り合いがなくなりましてね」

 女の名を口にすると、我知らず喉の奥が震えた。三年前に流行病で命を落としてから、女の記憶は鮮明なままだ。明治七年の天然痘大流行の時も生き延びたから大丈夫だと言った顔が特に離れがたく、きぬの名を口にしただけで痩せた顔で作った笑顔が思い出されるのだった。

「部屋の隅に仏壇を置いていますから、後で手を合わせてやってください」

 音吉は神妙な顔で頷き、あたしはですね、と自身の近況を語り出す。

 わずかに表情が華やいで見えた。

「娘と久しぶりに会えましたよ」

 予想もしない内容に、俊吾は音吉の細長い顔を見遣ったが、四十は重ねているはずの歳を考えれば不思議なことではない。銀座にいた頃は、敗れ去るまで界隈では並ぶもののない商人だったというから、嫁には不自由しなかっただろう。

 歳を聞くと、十四という答えがあった。

「商売がにっちもさっちもいかなくなったんで、養えなくなったから知り合いに預かってもらっていましてね。路頭に迷って、仲買なんて仕事始めてからは女房も変わっちまって、とても会わせられない女になっちまいましたが、その心配ももうずっとしなくてよくなりました」

 張り付いたような笑みが微かに陰ったのを見て死を悟る。深く聞いてみれば音吉と少しは通じ合う手がかりを見つけられるかもしれないと逡巡している内に言葉を継がれる。

「元々あたしの仕事に興味のある女でしたから、当たり前でしょうけどね。店を潰してからは誰とも付き合いもなく、子供とあたしはそれぞれたった一人の肉親です。大事にしなきゃいけませんわ」

「うらやましいことです」

 こぼれ落ちた言葉が、音吉の耳に拾われた。聞かせたくはない思いだったのに、彼は何のことです、と興を削がれたような顔で追及してくる。いえね、とため息混じりに置いてから語り出す。

「きぬは子供を残さずに逝きましたから」

 二人の体のどちらかに欠陥があって、子供を授かれない運命だったのかもしれない。そう思えば多少諦めはついたが、他の親が嬉しそうにしているところを見るとわずかながら妬心を感じてしまう。きぬと二人きりでなく、もう一人ないし二人を加えた楽園が、かつての一番の望みだったのだ。

「どう育っていましたか」

 白けてしまった空気を繕うように、俊吾は明るく訊いてみるものの、心配がありましてね、と音吉は陰りのある表情を変えない。

「預けた知り合いは、何というのか、因循姑息といいますか。福沢諭吉先生の本を子供が読んでいたら取り上げてしまうような親でしてね」

「女に教育は要らぬと」

 江戸時代に行われていた寺子屋は、各村や藩の自由裁量で方針を決めていて、男女別学ながら教育の機会は均等だった。それが明治六年に制定された学制では、数学や語学など先進的な教育のほとんどは男子に限定され、女子の学ぶ内容は男子の半分もない。その代わり裁縫などの手芸が大半を占めている。少なくとも福沢諭吉の本を読むのに必要な知識は身に付かない教育であった。

「有り体に言えば、そうなるでしょうな。あたしら自身は、今更勉強もへったくれもありませんが、娘たちの世代はこれからです。いくら正しいことだからといって、やりたいようにやれないというのが、不憫であり心配ですわ」

 音吉は遠くを見る目をしていた。その目で自分の娘が歳を重ねた頃の日本を見つめているようであるが、決して明るい表情ではない。雰囲気を明るくしようと思って口にした話題は、音吉を逆に落ち込ませてしまっているようだ。

 無言で冷たい酒を呷ると、音吉には不思議に見えたらしい。どうしたんですか大竹さん、と気遣わしげに呼ばれる。音吉の顔に手をかざし、目を逸らして首を振った。

「飲み過ぎて。明日もありますから、俺は失礼します」

「ならきぬさんに挨拶を」

「ええ、勝手に上がって帰って結構です」

 無愛想な声が出たことを後悔したが、音吉は気にする風もなく母屋へ入っていく。

 手を合わせた音吉を見送った俊吾は、母屋の畳に寝転がって天井を仰いだ。

「なあ、子供の一人ぐらい残してから逝ってくれよ。お陰で俺は辛いよ」

 不安感のはけ口の心当たりが俊吾にはなく、応える術のない女に向けて成し得ぬ会話をするしかできなかった。

 

 音吉が離れると俊吾は孤独感を覚えるようになった。酒を飲んだことで心の距離は縮まったものの、暇があれば何度でも立ち寄って欲しいという言葉は飲み込んだ。その後に芽生えた孤独感に、言いたいことを言わなかった後悔が募った。

 夜明けの気配が立ち去った午前七時、俊吾は宿の扉を開ける。希にもっと早い時間に扉を開けるよう頼む客もいるが、ほとんどは朝十時を回っても眠っている。音吉のように仕事や旅で宿を使う者は珍しく、たいていは別の家を見つけるまでの仮住まいとして使うようだった。火を通さずに済むものだけを口に入れて過ごせば、部屋を借りるよりも安くつくようになっているのが、先代から続いている「きぬや」の特徴だった。

一日外に出ずに過ごす者もおり、外からの客がいなければ俊吾も仕事がない。そういう日は、町の外で新聞を買って読みかけの本を一緒に読むのだ。繁盛といえないまでも仕事があり、生活の心配もさほどしなくていい身分にとって、暇な時やれることは少なかった。

 昼を過ぎ、ようやく客が一人出てきた。宿を変えると言った男から、薪代と部屋代から成る宿賃を受け取りながら座敷の様子を尋ねると、全員眠っているということだった。

「仕事を探さないでいいのかねえ」

 目鼻立ちの整った、女好きのする顔をした男の声には宿の客を蔑む響きが含まれていた。察するに仕事の当てがあるのだろう。金を稼ぐための行動を起こす自分は、座敷で昼になっても横になっている者たちよりはましだ。そう思いたいようだった。

「したくてもできないことだってあるだろう。余計なこと詮索してないで、行くなら行きな」

 座敷の客たちが抱える事情は何も知らない。寝床と竈を提供するだけの木賃宿の主人には介入も許されない深層である。だからこそ、雑魚寝もした間柄の客たちを気遣わない男の物言いに腹が立った。俊吾自身にも、それまでの生活を捨てて女と生きる道を選び、女に死なれた過去がある。その事情への追究を許せる相手は少ない。

「そうしますよ、今度はもっと愛想のいい娘のいるようなところを選びます」

 男の声は舞台役者のように爽やかであったが、俊吾の言い方が気に障ったのか棘を含む言葉を選んでいた。売り言葉に買い言葉になるのを避けるように俊吾は黙って男を送り出す。

『時事新報』を開いて町の外の動静に没入していくと、開けっ放しの扉から流れ込む腐臭や悪臭が気にならなくなってくる。東京府はイギリスやアメリカのように下水道が完備された町ではない。政府が目を向けない元綱町は尚更で、排泄物があばら屋の陰に放置されているし、鼠の死骸が道端で腐っていくのも珍しくない。伝染病の大元になり得る、元綱町の象徴であった。

 ぬかるみを踏みつける音が聞こえてくる。普段に比べると多く聞こえるが、通り過ぎていく速さから察するに子供のようだった。その中にやたらと早く近付いてくる足音を聞き取る。気に留めなかった俊吾だが、その足音に名を呼ぶ声が重なった時新聞から顔を上げた。

「俊さん、助けてくださいよ」

 足の泥を落とすこともなく転がり込んできた若者は、一段高くなっている帳場前の玄関に足を取られて前に倒れ、帳場に額を打ってのたうち回る。ため息をついて腰を上げた俊吾は、若者の腕を掴んで引き起こした。

「相変わらず落ち着かん奴だ。俺に助けを求めるのはいいが、もっと静かに頼みに来い。ガキの歳でもないだろうが」

 またか、という思いが呆れ声となる。川井丈太郎は心身共に成熟を迎えつつある年齢だが、にきびの残る顔が幼さを象徴する。それが女心をくすぐるようで、きぬにはかわいがられていたが、俊吾にしてみれば大人になりきれないだけとしか見えなかった。

「すみません、俊さん。でも俊さんじゃないとどうしようもなくて」

「きぬや」の界隈で広まった「俊さん」の愛称を少しくすぐったく感じながら、喧嘩か、とこちらから手短に尋ねる。そうしないと混乱した様子の丈太郎は、要領を得ない様子で無駄に長く喋ってしまう。

「はい。いつもいつもすみませんけど、何とかしてください」

「わかった。案内しろ」

 言いながら、俊吾は駆け出した丈太郎の後を追った。慌て者らしいかどうか知らないが、足の速さだけは一級品で、ぬかるみの上でも速度が落ちず、体も左右に揺るがない。追いかけるのに苦労しながらついていくと、露天商の前で大男が喚いていた。

 あいつか、と後ろに隠れる丈太郎に訊くと、震えながら頷いた。

「留守番しておけ。客が来たらすぐ戻ると伝えろよ」

 帳場に初めて座るのではない丈太郎が駆け戻るのを見届け、俊吾は一歩ずつ踏み出す。すると男を遠巻きにしていた住民たちがざわめく。男もその状況の変化に気づいたようで、振り返った。

「そこの商人が何か失礼でもしたのかい」

 低い声で訊くが、何だてめえ、と男はけんか腰で聞く耳を持たない。

「この大竹俊吾、決して喧嘩が好きなわけじゃない。俺の仕事は喧嘩屋じゃなくて木賃宿の主人だ。こういうもめ事を起こされて、俺が解決に引っ張り出されるのは正直迷惑だ。だから機嫌が悪くなる。叩かれたくなかったら出ていってもらいたい」

「何だお前。知らねえな」

 俊吾は舌打ちする。よそ者のようだ。元綱町の人間なら自分の姿を見ただけで退散するはずだ。

「調子こくな」

 男が突然太い腕を振り下ろしてくる。反射的に体をひねった俊吾は、腕を掴み、膝を曲げ、体を低くし、背中で男の体を跳ね上げた。

 そうすると重さをほとんど感じないまま男の体が宙で一回転し、最後に背中から落ちる。うめき声が聞こえた瞬間、俊吾は男の腹に渾身の下段突きを叩き込む。その一撃が決め手となり、さっきまでけんか腰で喚いていた男は口から泡を吹いて動かなくなった。

「張り合いねえな」

 立ち上がると取り巻きが喝采を上げる。決して好む仕事ではないので応じてやることはしない。周りに顔見知りを見つけると、男を町の外へ放り出しておくように言いつけて「きぬや」へ戻っていく。

 帳場には丈二郎が座っている。彼は俊吾に気づくと、歳の割に幼い顔を輝かせて駆け寄ってきた。

「俊さん、けがはありませんか」

「あんなうどの大木に、この俺が遅れを取るものか。それよりお前、仕事は行かなくていいのか」

丈太郎は鋳物職人の下で働いている。手先が器用だから天職だろうと考えていたが、丈太郎は顔を曇らせた。

「実は、クビになっちまいまして」

 丈太郎は笑って見せたが、面白くねえよ、と俊吾はげんなりした態度で呻く。

「また親方と喧嘩しやがったな」

「いや、それは俺が悪いんじゃなくて」

「大事なのは、これで三度目ということだ。お前もガキじゃないだろうが」

 手先が器用で飲み込みも早い丈太郎は、どの業種でも初めのうちは親方に目をかけてもらえる。しかし二ヶ月を過ぎた辺りから遅刻や無断欠勤をするようになり、そのことで親方に叱られると逆上し、自分から辞めていくということを繰り返していた。

「俊さん、今度はどうしたらいいですかね」

 丈太郎の態度に反省は見えない。

「俺はお前の親じゃない。それぐらい自分で考えろ」

 手先が器用だから職人の口でも探せと軽い気持ちで言ったのは俊吾だ。それを本気にして、自分で仕事を探し、実際に就職も果たしたまではよかった。しかしその後が続かないのは本人の問題だ。性格の欠陥の世話までしてやるつもりはなかった。

「そう言わずに。困ってる若人を導くと思って」

 なおも丈太郎は厚かましい態度を変えない。そこで俊吾は、大仰にため息をついた。

 それでようやく、丈太郎はただならぬ気配を感じ取ったようで、息を呑んで黙り込んだ。

「もう一度言う、俺に頼るな。仕事を長く続けられないのはお前のせいだろう」

丈太郎はようやく、目の前の男の感情に気づいたようだった。何か言いたげに唇を動かしてから、小さく頭を下げて踵を返し、外へ出ていった。

 よしんば働き口を見つけられたとしても、三度も辞めている丈太郎に四度目の正直などという言葉が通用するのか、俊吾には信用ならないものの、所詮は他人と割り切ることができた。きぬの産んだ子供ならともかく、大人になりきれぬ丈太郎のことなどいつまでもかかずらっていられない。俊吾は丈太郎の思いを頭から追い出すように新聞を読み出した。

 紙上の文字を満足な分だけ頭に入れ終えた頃には、掛け行燈に火を灯す時間になっていた。湿っぽい道へ踏み出すと、今日も各々の場所で働いてきた住民たちが家路に就く。多くの顔は虚ろだったり疲れ果てたりしていて、元綱町の薄暗い色模様に馴染んでいるが、時には薄闇の中にあっても輝いて見える表情もある。苦しげだが幸せにも見える男女の姿もある。俊吾はそれら前向きな姿に、きぬと共に元綱町を新天地に選んだ頃を見出す気分だった。

 決断するまで三年かかった選択は、やってしまうと思いの外簡単に吹っ切ることができた。その三年間は、三十年以上過ごした環境を女一人のために捨て去るまでの覚悟を固めるためのものであり、決して軽い年月ではなく、親兄弟と引き替えにしてまでの女なのかと内なる声に責められたことは数知れない。その呵責に抗ってまで手にした日々が幸せであったのは間違いない。

 生まれ育った環境を捨ててまで手に入れた、きぬとの暮らしがあっけなく潰えた後は、世話になった恩人に譲られた木賃宿と、やりたくもない用心棒まがいの役回りしか残っていない。そんな今の空虚さからすれば、夢を見ていたように満たされた日々であった。

十二年前に制定された太陽暦に基づいた、十二の数字で時間を区切る時計が十二時を指すと翌日の日付となった。宿のドアを閉めに帳場を出た瞬間、踏み込んでくる影があった。

 喧嘩の経験が多い俊吾は、複数の影を見て身を固くした。昼間投げ飛ばした無頼漢が頭をよぎったが、彼らがまとう紺の詰め襟を見て密かに取った構えを解く。ポリスと一般市民に呼ばれる巡査たちであった。

「この宿の主人は貴様か」

 巡査と向き合ったのは初めてだったが、噂に違わぬ高圧的な態度である。明治維新によって活躍の場を失った旧藩士の中には、市中の取り締まりのために募集された羅卒――現在の巡査――として再出発した者がいる。江戸時代の身分制度では最上級に位置していた彼らにとり、新たに与えられた仕事は高飛車な態度の拠り所となったようで、平民を低く見る昔ながらの武士の気分が抜けない者が多い。俊吾の目の前に立った巡査も、口調から眼差しまで傲然としたものだった。

「そうですが」

 対等に接しようとしない相手にはそれなりの態度を取りたいところだが、対立する自由民権派の活動を新聞紙条例や集会条例で封じ込めようとする国家権力に立ち向かっても益はない俊吾は努めて冷静に答える。

「この付近で大罪人が潜伏しているという情報があり、ご用改めをしておる。座敷や炊事場を改めさせてもらうぞ」

 言うが早いか、巡査の後ろから待機していた詰め襟がなだれ込んでくる。数にして十名にも満たないが、誰もが宿の主人を見下す傲然とした態度をまとっている。昼間全く動かなかった客たちが寝静まっているのにも構わず、彼らは奥の座敷へ踏み込んでいく。ほどなくしてうめき声が聞こえてくるものの、何かを叩く音の後に静けさが落ちる。

 それも束の間、乱暴にものを転がす音に加え、割り砕く音まで混じる。聞きしに勝る不遜な改め方であったが、宿の至る所へ散った巡査たちを止める手段はなく、俊吾は帳場に座って嵐が去るのを待ち続けることに決めた。 

 寝泊まりしている母屋のことがよぎった時、先頭を切って入ってきた巡査が戻ってきた。宿帳を見せるように命じられ、言われた通りにすると、そのまま奪い取られてしまう。現在泊まっている客がいつからいるのかを証明する証拠になるもので、奪い取られては困ると抗議したが、宿中に散っていた巡査たちが集結したのを見て諦める。玄関の隅々を調べ回ってようやく納得したようで、巡査は俊吾に向き直った。

「怪しいものはないと認められた。協力を感謝する」

 本心からの言葉とはとうてい思えない冷たい声だった。

「大罪人の名は川村音吉という。この名を聞いたらすぐに近くの巡査へ伝えるが良い」

 俊吾は顔色が変わるのをこらえられなかった。それを見逃さない巡査が、何か知っているな、と決めつける口調で迫ってくる。

「俺の知っている川村音吉かどうかは知りません。ただ、音吉という知り合いがいるだけで、そいつの姓までは知らぬのです」

「見え透いた嘘をつくな」

 一喝した巡査だが、俊吾が動じないのを見ると今度は彼の方が顔色を変えた、本当です、と俊吾は落ち着いた低い声を出す。

 しばらくにらみ合い、これ以上の押し問答は無駄と判断したのか、信じてやろう、とあくまで不遜に言い放った。

 巡査は仲間を連れて引き上げていく。その背に、『川村音吉』が何をしたのか問いかけようとしたが、彼らの動きは思いの外速かった。全員がぬかるみの上へ踏み出したのを見計らって扉につっかい棒を立てかけた。

 馬上提灯の光を携えて座敷へ様子を見に行くと、数名の宿泊客たちはさっきまでの騒ぎが嘘のように寝静まっていた。誰かが殴られたのかもしれないと思ったが、乏しい光ではその証拠を掴むのもままならない。

 母屋へ戻ると扉は壊されていた。思いついたのが遅すぎたことを後悔しながら中へ踏み込み、行燈の火を灯すと、俊吾は改めて国家権力に理不尽さを覚える。何の証拠を探したのか知らないが、仏壇が荒らされ、手製の位牌が床に投げ出されていた。

 愛した女を強姦された気分だった。殺意を帯びた燃えさかる凶暴な気持ちをぶつけるべき相手は既に闇に消え、『川村音吉』を探し回っているのだろう。俊吾は壁を叩き、わずかに気持ちを解放する。弱い壁に穴が空き、ささくれが生まれて俊吾の拳を傷つける。拳を引くと、元綱町特有の腐臭と沼地の臭いが、夜気と共に流れ込んでくる。

 そのうちに俊吾は、両目の端に生暖かい湿りを感じるようになってきた。きぬが死んでから枯れたと思っていた、他人のために流れる涙であった。

 

 二

 

 東京府に今年初めての雪が降ると、元綱町特有の暗い色模様が真っ白に染め上げられる。飾りも色気もない色のはずだが、泥水やぬかるみといった、元綱町を形作るものが無垢な色で覆い隠されると現実の苦しさを忘れさせてくれる。それは衣食住全てにおいて満たされぬ町の生活にある自然の癒しであった。

 日が昇ってから宿の扉を開きに冷え込みの厳しい雪道へ踏み出した俊吾は周囲を見回した。ここ最近習慣づいた、巡査と音吉を探す習慣だった。音吉が巡査の探す犯罪者であるとしても、わざわざ足跡の残しに「きぬや」に五日も逗留するのは不可解であるが、想像もつかない事情があるのかもしれない。そう思うと、こじつけでしかない理由もつじつまが合っているように思えてしまう。

 また、俊吾は音吉が現れてほしいとも思っていた。もしも巡査の言うような犯罪者であるなら一発殴ってやるつもりだった。かつて世話になったことを差し引いても、死後のきぬが居着いている場所を荒らされるきっかけを持ち込んだのは許せなかった。

音吉を探すことに腐心するより頭上の心配をしなければならない。元綱町の長屋は、強度の限界を迎えながら柱一本取り替えていないものがほとんどで、それは「きぬや」も同じだ。補強や建て替えをするだけの時間的、資金的な余裕がないのが最大の理由で、決して豪雪地帯ではない東京府にあって雪の恐怖を感じ取れる希有な土地であった。

かつて雪の重みに耐えかねて折れたことのある庇の下から空を見上げると、まだ灰色の濃い雲が空を埋め尽くし、晴れるのは当分先と思われた。もう四十近い体には、寒さの中屋根に上って重い雪を下ろす労働は決して楽ではないが、やらなければ自分の身が危ない。

玄関口にはしごをかけ、外からの客に屋根の上にいることがわかるようにして雪下ろしを開始する。日がだいぶ高くなってから地上で呼ぶ声がした。

興を削がれた気分で舌打ちし、地上へ降りると帳場の前には呼びつけた女がいた。

何だお前か、という言葉が口を衝いた

「ご挨拶ねえ、お客様に向かって」

 帳場に体を寄りかからせる矢沢ていは、ただの年増には持ち得ぬ妖艶さを笑みに含められる女だった。身にまとうのはあちこちつぎはぎされて、一見藍色のぼろではあったが、俊吾はそれが高価な綿織物である唐桟であること、特徴である縞模様を藍で塗りつぶしていることを知っている。藍で染め直すことで布を丈夫にしたのだ。

「また家をなくしたのか」

 ていは「きぬや」の常連であった。元綱町の中で家を探して借りるのだが、すぐに資金繰りが苦しくなって、部屋代が非常に安い「きぬや」を頼ってくる。果たして今回も同じ理由だった。

「どうしても出来る仕事が少なくて。こんなことなら遣手として残れるよう手を回すべきだったかねえ」

 ていの前職は吉原の遊女である。唐桟は遊女としての盛りの頃に手に入れたもので、たいそう気に入ったらしくずっと着ている。

 それをつい五年前、三十に手が届くまで続けていた。俊吾と知り合ったのもその頃で、その時の俊吾の仕事は廓の不寝番である。夜中、特に火の見回りをする仕事で、他にもめ事の仲裁にも当たった。決して俊吾は器用に話をまとめられる質ではなかったが、口より腕力に訴えかけてくる輩が相手になると頼りにされた。当時は必要とされるだけで嬉しかったから、自分の力を活かせるように腕っ節を磨いたが、今は同じような評判がありがたくないものに感じている。それが皮肉なら、仕事を超えて会うていとの付き合いは腐れ縁だった。

「泊まるなら泊まれ。座敷は余裕があるぞ」

 ぶっきらぼうに言ってていを奥へ通す。寒さのせいもあるのか、宿泊客は一層身を小さくして眠っている。その中の何人かは、まだ昨日の分の部屋代を払っていない。あと少ししたら叩き起こさなければと思いながら、屋根へ戻り、雪下ろしの続きを始めた。

 心配した降雪に妨げられることなく、夕方までに雪下ろしを終えた俊吾は、宿泊客たちが炊事場に出てくるのを見計らって部屋代を徴収した。一人払えない者がおり、明日までには必ずと哀願したものの、待ってやるつもりはなく雪道へ叩き出した。最も安い宿として少しは名の知れた木賃宿から追い出された者の末路は知れていたが、所詮は他人である。必要以上に関わってやるつもりはなかった。

 川村音吉の名を聞いたのは、再び炊事場に戻った時、ていの口からだった。

「川村音吉が、どうしたって」

 宿泊客に話しかけていたていに声をかけると、犯罪人だよ、といつもの艶然とした笑みを見せる。

「最近この辺を巡査が嗅ぎ回ってるじゃないか。潜伏の気配ありって。それでちらっと聞いたのさ。川村音吉は渡世人と組んで何かをやったって」

「何かって何だ」

「そりゃ知らないよ。本当にちらっと聞いただけだもの。音吉ってあんた、世話になってた仲買だよね。色々知ってるんじゃないか」

 醜聞を好む目をしたていに対し、俊吾は適当に言葉を濁し、帳場へ戻っていった。渡世人の存在が浮かび上がったことでにわかに緊迫する。音吉は一体何をしでかしたのか。いや、音吉が追われるだけならまだいい。問題なのは、巡査たちが「きぬや」に音吉が泊まったことを突き止めていることだ。それが元でとばっちりを受けはしないか。

 政府が目も向けない町の宿に、巡査が個人的な興味を示すとは考えにくい。しかし渡世人は時に合理性だけでは動かない。理性が振れた行動を起こすこともある。その被害を受けるのではないか。

 うそ寒さを覚えた俊吾は、まだ日付が変わるまで四時間以上あるのを知りながら扉を閉めた。一対一の喧嘩なら負けない自信はあるが、渡世人も巡査も徒党を組んでやってくるはずだ。数にものを言わせた勝負に勝つ自信はない。

 最悪「きぬや」を引き渡して済むならそうしようと思いかけた俊吾の脳裏に、荒らされた仏壇がよぎる。あの愛情を踏みにじられたような屈辱感も、背筋が凍り付く恐怖感も、全て音吉から始まったのだ。元綱町にいるとは聞いていないが、いないとも聞いていない。見つけ出して事の真相を聞き出してやらなければ気が済まなかった。

 

 元綱町は南北に広く、北は麻布、南は東京湾の傍まで広がっている。その中でも南北で生活水準が異なり、北の方が山の手や市場に近いことからまだ恵まれている。「きぬや」も北側にあった。

 粘つきがまとわりつくような感触とは違う小気味よさを足の裏で感じながら、俊吾は元綱町と六本木の境界線になっている寺へ踏み入れる。両方の町へ向けて入口が開いている寺は、貧民窟と山の手の住民たちが交わる場所の一つで、敷地内では露店を開くことも認められている。新聞を買いに行く時いつも通る道でもあった。

 音吉の噂は元綱町の全体に広がっているようで、事件の詳細を聞くこともできるほどになっていた。多くは話す者によって内容が違うのであてにはならないが、ほぼ全ての噂で、川村音吉の素性が共通している。元銀座の薬問屋、あるいは薬売りの仲買。同じ過去や仕事を持つ者なら、麻布の傍から芝海浜まで広がる広い町に何名かいるかもしれないが、その中に川村音吉の名を持つ者がいるとも考えにくい。俊吾は音吉を探そうと行動を開始する前、元綱町の住人に聞き込みをしていくうちに確信した。

 あとは音吉を探し出すだけだが、耳に入ってくる話は音吉の素性と渡世人と組んで犯した罪の話題ぐらいで、肝心の居場所については誰も手がかりを持っていない。あの夜、「きぬや」に立ち寄ったのが唯一の足取りのようだ。

 武家屋敷の跡地に立った西洋邸宅が並ぶ町を、ほとんど手がかりのない状態で見て回り、やがて俊吾は寺まで戻ってくる。ちょうど新聞の売り子が来ていた。

 やっぱりいた、という、覚悟を決めたように押し殺した声を、新聞を開いた瞬間に聞いた。

声を目で追うと、買ったばかりの新聞を道に叩きつけたい気分が沸き上がる。拳がいつの間にか硬く握りしめられている。足が踏み込もうとしているのを理性で押さえつけたことで、動く手段に乏しい上半身がわずかにつんのめった。

 墨で顔を汚し、頭巾で顔が見えにくいようにして人相を変えてはいたが、細長い顔は一度見たら忘れない特徴であった。

「往来でなければ殴っているところです」

 内で熱を帯び始めた気持ちを、その低い声に託してわずかな開放を達するが、まだ足りない。

「あなたが来たせいで、巡査共にきぬの仏壇が壊されました。あなたにも子供が居るなら、それが男にとってどれほど悔しいかわかるはずです」

 理性のたがが緩んだように、俊吾は一層激しく音吉に言い募る。足もいつの間にか前へ出ていて、最後の一押しがあれば握り拳が跳ね上がりそうだった。

「あたしをずっと、探していましたか」

 音吉は変えた人相で笑った。疲れをにじませた表情は同情を誘うほどで、俊吾はその分冷静になる。音吉を殴るために探していたのではなく、事の真偽と真相を確かめるためだったと言い聞かす。

「あなたが去った後、巡査が押し寄せてきました。あなたが大罪人だと。その時はあなたが川村という名前だと知らなかったので、俺が知る音吉かどうか信じられなかったのですが」

 音吉の希望で寺の境内へ戻った俊吾は、香具師が思い思いのものを売っている参道を外れた場所で口を開いた。きぬの仏壇を壊されたきっかけとなった男をまだ許せてはいないものの、誤解の可能性を頭に留め置くぐらいには冷静でいられた。

「全て事実ですよ。あたしは川村音吉というのです。それと渡世人と組んで罪を犯したのも本当です」

 噂を信じる気持ちの方が強かった俊吾でも、きな臭い言葉を立て続けに聞かされると、まさか、という言葉が口を衝く。元綱町は公権力が比較的届きにくく、過激な自由民権派が隠し拠点を作っているという噂もある物騒な土地柄ではあったが、木賃宿の主人として、町の用心棒として過ごしている限り面倒事に巻き込まれることはなく、無縁でいられたのだ。

「事実なんですよ、俊吾さん。本当はこんなところにいないで早く逃げたいぐらいです。組んだヤクザ者があたしを殺しに来るかもしれない。それかポリスに捕まえられるかもしれない。そんな怯えをしてるぐらいですから」

 音吉は疲れをにじませた笑顔のままだった。久しぶりに「きぬや」を訪れた夜に見せた顔と重なる。あの影が差した笑顔は、渡世人と関わっている状況に向けられた不安の表情ではなかったか。朝から晩まで働いていたのは、法に反した商売のためで、それを自分自身が許してはいなかったのではないか。

「一体何をしたんです」

 さして親しくもない音吉に、どんな訊き方が有効かなどわからない。下手に婉曲的な訊き方をすればごまかされると思って、返答するしかない直接的な尋ね方を選ぶ。

 音吉の笑みに苦みが混じる。

「あたしは薬を扱ってきたでしょう。仲買を始めてからもっと色んなものの価値をわかるようになりましたが、一番得意なのは銀座で覚えた商売でした」

「薬を扱っていたんですか」

元綱町のような貧民窟でも薬の需要はあるものの、決して多くはないため実入りは少ない。俊吾が会った時も、薪や寝具など全く畑違いの商品を扱っていたから、薬はもうやめたのだと思っていた。

「ええ、俊吾さんが知らないところで。渡世人はね、毒を商売にも使うんですよ」

 麻薬か、と俊吾は音吉の示す論点に気づく。その言葉は鉛の味を帯び、文字通り唾棄したくなる。目の前の男が頷いたのを見て、俊吾は別の理由で殴りたくなった。

「ばれちまいましてね。もちろんすぐに逃げましたが、仲間のほとんどが捕まってしまいました。東京府を出ていこうにも、娘に会っていたら逃げられなくなってまして」

 馬鹿な、という言葉が口を衝いた。商売に失敗したことで養えなくなった子供がいるのに、犯罪などに手を出せば永遠に会えなくなる危険性もあったのだ。そして今の音吉は、その最悪に陥っている。

「そりゃ子供を養うのは大変でしょう。子供のいない俺の言う言葉など取るに足らないものでしょうけど、時間をかけて財を成すって考えはなかったんですか」

「娘は大事です。その大事なものが売られると知ったら、どんな手を使っても救い出したいと思うのは馬鹿ですか」

 まさか、と再び口を衝く。明治五年に布達された娼妓解放令は売春を禁止するものではなく、解放された娼妓を支援する仕組みも全く存在しなかったため、恩恵にあずかれた者はいない。しかし人身売買的な女の扱いを禁止していたため、少なくとも人間が商品扱いされることはなくなっていたはずである。

「そう、まさかとあたしも思いましたよ。でもね、なくなりはしないんですよ。だって役人が遊んでるんですから」

 音吉の笑みがぞっとするほど冷たくなった。かなうはずのない相手を敵に回した者の諦めのようで、その敵が振りかざす理不尽への怒りのようでもあった。

「だいたい娼妓解放令とかいうお触れも、遊郭が抗議したらなし崩しになっていったんだ。横車は通るんですよ、女の扱いってやつは」

「借金があったんですか、預けた家に」

 音吉の恨み節を聞いていられなくなった俊吾は、問題の核心について尋ねることにした。話を聞くに、音吉の娘は養家の方針に馴染まない子供であるようだが、それにしても売られるというのは相当の理由があるはずだ。

 音吉は頷き、頼る相手を間違えたあたしこそ馬鹿だったんです、とうなだれた。

「前に会った時も、決して楽しく過ごしているようには見えなかったし」

「勉強の機会を取り上げられたと」

 やりたいこともできない境遇に置かれた苦しさはわからないでもない。若い頃は我慢の多い時期で、その反動で女との駆け落ちという大それた行動もできたのだ。

 しかし女の自由のなさは、男のそれとは比較にならないことを、俊吾は母親を見て知っていた。家事労働は大変なのに、誰も賞賛してくれないことが、子供心に不思議であった。

「時代が悪いと言えばそれまでなのですが、親子共々簡単に諦められるものでもなくて」

 音吉はため息をつく。さっきの納得のため息とはまるで違い、疲れを吐き出すようだった。

「宿に来たのも、何か目的あってのことですか」

 音吉の哀れっぽい姿は同情を誘ったが、感情の大元を忘れてはいない。仏壇は直せば済むが、自分の神聖なものを踏みにじられた痛みを癒す方法は少ない。

「最初は違いました。木賃宿に泊まるのは、どこの町へ行っても同じです。状況が変わったのはその後ですよ」

「さっきまで俺を探していたようですが」

 呼びかけた声は、俊吾が思った通りの行動をしてくれることを期待しているものに聞こえた。

「ええ、確かに。頼みが少々あって」

 音吉は下を向く。俊吾はその隙に肩越しに振り返った。さして親しくもない上、今や厄介事を抱える立場に成り下がった音吉の頼みなど、無視しても良心のとがめはないだろう。世話になった仲買のままでいればよかったのにと思うと哀れだが、渡世人と関わり警察からも追われる男を助けてやる謂われもなかった。

 しかしさっきまで理性で押さえつけていた足が、意思の力を通わせても動かない。そうこうしている内に音吉が語り出してしまった。

「娘を託せないでしょうか。凌ぎにも失敗して金もない今、娘を養う力はありません。今のままでは売られるか、そうでなくても苦しい人生を生きることになります。まだ十四の子供が、大人の庇護を離れて生きていけるとは思えません」

 驚き、呆気にとられたことで足が動かなくなった。すぐに疑問が浮かび、どうして、という言葉になって口を衝く。

「他に頼める人がいるはずでは」

「こう言っては何ですが、迷惑はかけられません」

 不可解な言葉に、俊吾は声を詰まらせたが、すぐに音吉の深意に気づく。再び殴りつけたくなる凶暴な気持ちが沸き上がり、理性で爆発寸前のところを押しとどめる。

「俺には人に誇れるような地位も暮らしもない。だから迷惑がかからない。そう言いたいんですか」

 押し殺した声に、音吉はおののいたようだが、懸命に頷いた。

「商人時代の仲間はいます。けれども没落した後は付き合いもないし、彼らはそれぞれの暮らしを持っている。いずれ娘は札付きとなります。そんな子供を、突然やってきたかつての仲間に託されても困るでしょう。あなたしか、もう」

 俊吾はその後の言葉を拳で封じた。固い感触が関節を発端に手の骨全体へと震えとして伝わっていく。音吉は横倒しになり、殴られた時に切ったのか口から一筋の血を流す。顔を上げることもしない音吉にはある程度の覚悟が備わっていたようで、横顔は痛みへの動揺もなく穏やかだった。

音吉の言葉は的確だった。賭博でイカサマを仕込むようなやり方で自由民権運動を封じ込めていく公権力がその気になればいつでも潰せそうな宿が唯一の財産で、喧嘩の腕前が立つことも自慢できない。音吉が言うように、きぬがいない今の暮らしに、誇りなど抱けなかった。

 それでも見下されたことに怒る。長く封じていた感情の発露だった。

「消えてくれ。一度酒を酌み交わしただけの付き合いしかない男にそこまで言われて不愉快だ」

 地面に倒れた音吉を見下ろし、俊吾は努めて侮蔑的に言った。喧嘩で鍛えられた拳は、音吉の歯を根こそぎ折ったようで、彼は口から血を流してうずくまっている。俊吾はもう同情する気にはなれず、立ち去ろうと踵を返す。

 足首が掴まれ、足が止まった。

 あなたしかもう頼めない。最後まで言えなかった言葉だろうか。痛みで泣いているのか、歪んでめちゃくちゃな響きとなった。

「代価も払えませんが、それでも」

「答えは変わらない。離せ」

 後ろを向いたまま足を前後に動かす。往来の人々が気になったが、香具師も含めて境内の片隅で起きている喧嘩まがいの出来事に関心を払おうとしていない。更なる厄介事を呼ぶ心配はなさそうだが、時間が経てばわからない。少しでも早く離れてしまいたかった。

「頼みます、頼みます」

 激しく足を振ると、踵が硬いものを蹴った。額だろうか。砕いた感触はないが、無造作に振り回した踵にも痛みが残った。

「お願いですから」

 裏返った声を上げながら、音吉は離れない。往来で一人男が足を止めているのが見えた。まずい、人を呼ばれるかもしれない。焦る俊吾は音吉に向き直り、しゃがんで絡みつく指を直接引きはがすことにした。

 見るからに非力な小男の音吉は存外強い力を持っており、人が集まってくるまでに決着を着けられなかった。自由になると、俊吾はできかけている人垣を突き破って駆け出した。

 逃げるように、元綱町の慣れた空気へと飛び込み、一直線にぬかるみの上を駆けて宿の母屋へたどり着く。

「どうして俺がこんな目に」

 一人になって落ち着いて考えると、誰かが警察に告げ口すれば巡査が踏み込んできて罪に問われる未来が思い浮かんだ。思い返してみると、最初に手を出したのは自分だし、その一撃が強すぎて歯を砕くほどだった。既に追われる身であった音吉はもとより、自分も加害者と見なされるのではないか。

 戸を叩く音がする。身を震わせて恐る恐る見遣ると、ていが呼ぶ声がした。

「ねえ、帳場をほったらかして何してるの」

 母屋を駆け戻る姿を見られていたのか、ていの声には似つかわしくない必死さが宿る。

 戸を開けると、普段の艶然たる笑顔でなく未知の事態を恐れるような表情がある。俊吾の知るていとは、妖艶な表情の下で強かに他人の隙を探し、それを突くことを生業にする詐欺師に近い印象だった。娼妓としての盛りを過ぎ、遣手として生きていくこともできない女に、人を騙す才能を見抜いていたのだ。今のところ発露したことはないが、心配になるほどの反社会性を備える女が、ていである。

 そのていでも、他人を心配することができるのだな。そう思えるような、人間的な不安と母性的な優しさが混在する、青ざめた表情であった。

「何だ」

 俊吾は努めて愛想無しに応じた。それがいつもの姿である。小さな心配事は大きな動揺を呼び起こし、他人と接するのもままならないほど心を揺らす。それでも表に出さなければ、何でもないの一言で他人の干渉は遠ざけられる。

 それで何の得があるというのか。わからないまま何年も続けてきた習慣であった。

「何て、まともな様子じゃないもの」

「そう見えただけだ。いつもと変わらないよ」

 ていの目には、説得力を持たせられる表情に見えたらしい。そう、と納得しかけたように呟いた。人目につくところに出るのは不安だったが、行かなければていを納得させられない。帳場へ戻り、いつものように新聞を開いた。

 ていはしばらく無言で傍に立ち尽くしていたが、やがて立ち去る。一人になった俊吾は、自分でもわかるほど表への注意をおびただしい回数向けていた。

「何で俺がこんな目に」

 舌打ちの後、音吉を泊めてしまった不運を嘆いた。

 

 音吉の逮捕は年明けだった。

 いつものように買った新聞を開いて見つけた話題は、片隅に小さく載っているに過ぎず、読み飛ばすつもりなら気に留めない大きさだったが、確実に一人の人間の人生を終わりにしたことを告げている。

 音吉が逮捕されたことで、一時期元綱町で見られた詰め襟と制帽で身を固めた巡査は消え去った。心配していた渡世人からのとばっちりや巡査に加害者扱いされることもなく、平穏に年が明けていった。

 年が明ける直前に政治体制が変化し、伊藤博文を中心とした内閣制度が始まった。それまでの最高官庁である太政官に権力を集中させた太政官制度に代わる体制だが、新聞に書かれた閣僚たちを見ても、薩長土肥の出身者たちで固められた藩閥政治という点においてはこれまでと変わりがない。新聞を買いに麻布を歩くとその不満を耳にすることもでき、早急な議会開設を求める声も同時に聞こえてきた。

 元綱町は変わりなく、政治体制の変化を話題にする者も見当たらない。御一新の後に勃発した上野戦争のような騒乱でも起きない限り、元綱町に変化は起きえないだろう。新聞を眺める俊吾は、諦めに近い気持ちを抱きながら思った。

 年明けから一ヶ月も経つ頃には、音吉が泊まりに来た事実さえ忘れかけていた。ていがその名を出したのを聞いて久しぶりに思い出したほどで、それにしてもさしたる思いも抱かせない。きぬの仏壇を荒らされ、その怒りを半ば八つ当たりのように音吉にぶつけたことしか覚えておらず、それにしてもいい思い出ではない。俊吾はどうでもいいことだ、と一言で片付けて日々に戻っていった。

 

 ていに勧められて帳場に置いた椿の一輪挿しが枯れる時期が来た。朽ちてみずみずしさを失った花は泥を落とさずに踏み込んでくる客のせいで薄汚れた床に落ち、黄色い花粉と花弁をまき散らす。せめて帳場の上に落ちてくれれば手を伸ばして拾うだけで済んだのだが、床に落ちたのなら立ち上がらないとならない。俊吾はため息をついて帳場を出て、花を拾った。

「何だ、もう枯れたのかい」

 声に顔を上げると、藍で染め直した唐桟をまとうていが立っていた。新たに部屋を借りて住むと言ったのが一ヶ月ほど前である。ていの一人暮らしは一ヶ月しか保たなかったようだ。

「欲しいのか」

 いらないよ、とていは差し出された花を突き返した。

「また家を追い出されたのか」

 ていを迎える度に口にしている言葉は、もはや挨拶代わりであった。

「家賃を払い続けるのは大変だよ。女一人で生きていくのもね」

「世の中が悪いとか言うなよ」

「そうだねえ」

 ていは帳場に体を預ける。

「だけどねえ、女一人で生きていくのは大変なんだよ。身から出た錆かどうかは知らないけど、本当のことでね。あたしには学も何もないし。あんたが食わせてくれたらちょうどいいんだけどね」

 ていは顔を上げ、艶然たる表情で見つめてきた。悪い気持ちはしないと思ったところで現実を思い出す。お互いもっと若い頃であれば、きぬとしたような恋もできたかもしれないが、そういう若々しさを発するには互いに年を取りすぎていた。

 それ以前に、きぬと別れてからまだ三年しか経っていない。他の女に触れるにはまだ早いと思っていた。

「そういう歳か」

 ため息混じりにいなしたつもりだったが、ていの食いつきは予想以上だった。

「何だよ、もうちょっと真剣に考えてくれてもいいじゃないか」

 俊吾は目の前の花瓶が投げつけられると思って身構えてしまった。喧嘩の仲裁をする時、たいていは冷静に動きを見ていられるのに、今回だけは別である。避けたら避けたで話がこじれると勘が働いた。

「怒ってどうする。俺たちの歳を考えろ」

 ていをなだめる言葉が思いつかず、似た言葉を繰り返した俊吾は余計なことを言ったと後悔する。両手を帳場に叩きつけたていは、顔を下にしたままそのまま動かなくなり、やがて帳場に雫が落ち始めた。

「もっと真剣に相手してくれてもいいじゃないか。遊びで養うんじゃなくて、本気の気持ちで食わせてくれたって」

 泣き濡れた声には、大声での恫喝とは違う迫力があった。断ればどんな行動に出るのかわからない。簡単に見捨てることはできなくなる。

 そんな自分の心の動きに気づくと、急にていがあざといことをしているように見えてくる。そして一瞬奥へ追いやられたきぬへの思いが復活する。

 俊吾はていの肩に手を添える。

「新聞買ってくる。留守番してろよ」

 背中に罵倒する声が投げつけられる。押し出されるようにして、俊吾は元綱町の外を目指した。

 音吉を殴り倒した時と変わらず、香具師がものを売っている境内を通り過ぎ、顔見知りの新聞売りを探し出す。

顔見知りの新聞売りが、男を相手に新聞を売っている。立ち去るのを待って声をかけると、彼は済まなさそうな顔で売り切れを告げた。

「今から急いで持ってきます」

 苛立ちをぶつけられると思ったのか、十歳は年下と見える若い新聞売りは、こちらの反応も見ずに雪の上を駆け出した。まるで天敵に追い立てられる小動物のように見えて、俊吾は青年が雪の上で滑らないことを願った。

「一足違いか、残念だったな」

 男の手には本日発行の『時事新報』がある。思いがけず他人の邪魔をしたにも関わらず、居心地の悪さを感じていないようだ。

 男の無遠慮さに生まれた小さな怒りを抑え、俊吾は短い返事を発して事務所のある方へ歩いた。往復で二十分ほどかかる距離があるので、元綱町へ帰ることを考えるとその場で待っている方が賢かったが、無遠慮な男の傍にいたくはなかった。

 待て、と肩に手が置かれた。苛立ち紛れにその男の手を乱暴に払おうとしたが、掴まれたことで俊吾は驚きと共に振り返る。

「その短気さ、あの町に落ちても変わらないようだな。いや、落ちたからこそ保っていたのか」

 わずかに高い位置にある目に捉えられた俊吾は、兄上、とその男に関わる最低限の事実を口にするので精一杯だった。

 駆け落ちの後、およそ十年ぶりに相まみえた兄は、四十代半ばの年齢相応に顔のしわが深くなり、髪にも白っぽいものも混じっている。無理に若作りをしたり、異様に老け込んだりしている様子は見られないのに、俊吾は違和感を覚える。

 記憶の中にある兄と違う点といえば、痩せていることだろうか。フロックコートに身を包み、開明的な出で立ちではあったが、元々体の大きな西洋人に合わせて発達した装いについていけるほどの力強さが、今の兄からは感じ取れない。

「貧民窟に落ちた人間が、こんなものを読む必要があるのか」

 そう言いながら、最後の一紙となった『時事新報』を上下に揺らす。嘲るような仕草に俊吾は努めてぶっきらぼうな態度に徹することにした。

「何を読もうと俺の勝手だ」

 掴まれた手を振り払い、俊吾は兄の目を見つめて言った。

「役に立つのか。あんな汚らしい町の中で」

 寺の南側を見渡すように視線を投げた直一は、元綱町をはじめとする貧民窟に足を踏み入れたことはない。巷に流布する話から組み立てたに過ぎない言葉だった。

 元綱町が汚いのは本当のことだ。しかし、そこで生きる人間が全員汚泥にまみれたような人格ではない。直一の声には、町だけでなく住民も蔑むような響きが聞き取れた。

「立つさ。この国の行く末に興味を持つ奴はいる」

「その日暮らしのくせに、か」

「ほんの小半時にも満たない時間でも、兄上のように新聞を読んだり、本を読んだりする奴もいる。役立てられないとしたら、そういう人間らしさを活かす機会や場を、見つけられないだけだ」

 俊吾は徐々に、自分の声が熱を帯びていくのを感じていた。自分のように本や新聞に興味を持つ者が希なのは事実だが、手に入れるだけの余裕がない者もいるのだ。

「女はどうしている」

 直一は、きぬのことを知らせたくない相手の一人ではあったが、この場を険悪な空気にしたくないために、死んだ、と俊吾は短く答えた。

「二年前だ。それからはずっと一人で生きてる」

「再婚はしないのか」

 しないのではなく、できない。そう自分自身の中で弟の価値を決めつけているように聞こえた。

「ああ、しない。俺は、しない」

 俊吾は「俺」という言葉に殊更力を込めた。さっきていに言い寄られたにもかかわらず、自分自身の意思でその誘いを断ったばかりである。

「兄上こそ、幸せなのか」

 余裕を湛えた直一の微笑みが、わずかに揺らいで見えた。してやったりと俊吾は思う。駆け落ちの直前から感じていたことだが、当時既に連れ添って五年になる彼の妻は、子供に構おうとしない夫に強い不満を抱いているようだった。

 息子が幼いうちは夫に従い、その息子が長じれば従うのが妻及び母の役目である。良妻賢母の思想に忠実だった彼女は、その不満を夫の前では口にしなかったようだが、義弟である俊吾には本音を漏らすことがあった。

 もしも良妻賢母の美徳に刃向かう勇気があれば、子供を連れて出ていくこともするだろうと俊吾は心配しながら、きぬと共に大竹家を出ていった。

「幸せだな。大金と、格式と、名誉と、将来性に囲まれて、邸宅の洋館では男爵として尊敬される。人間としてこれ以上の幸せはないだろう。今のお前にはなく、これからも持てないはずのものばかりだ」

 わざわざ自分が持つ幸せの要素を並べ立て、「愛」を挙げなかったところに、俊吾は自虐的な響きを感じた。家出したのかもっと別の事件を起こしたのか、直一が話さない限りわからないが、愛の喪失を経験したのは確かなようだ。

「兄上は、俺に慰めて欲しいのか」

 直一は意外そうな顔をした。

「どういう意味だ」

「違うならいい。だが、本当にそうなら、俺に頼むな。相応しい奴は他にもいるだろう。父や母、は老いすぎているから、もっと若い肉親か」

 直一は意外そうな顔から破顔する。

「お前は、社会情勢には関心があっても故郷のことにはまるで関心がないのだな。『時事新報』にも載らなかったか。小さな記事だが、大竹連治郞の死去。母上もその後逝った」

 意図不明の笑顔から紡ぎ出された言葉は、自然に忘れ去られようとしていた記憶を呼び起こした。

 きぬとの付き合いを知り、烈火のごとく怒った、維新の陰の功労者連治郞、その連治郞の陰のように付き添っていた、典型的な良妻賢母はつ。許しを得て正式に結婚することなど不可能と早々に見切りをつけて出ていった後は、思い返すこともなかった両親である。

 俊吾は恋と色を知り始めた年頃から、父親には認められない身分の女ばかりを好きになっていた。娼妓に好意を寄せたのもきぬが初めてではなかったし、とても大竹家とは釣り合わない家格の女にも好意を寄せた。俊吾の愛した女は、身分だけで言えば良すぎるか悪すぎるのどちらかしかなかった。

 初めての恋の相手は高すぎる身分だったが、俊吾はその時夜這いをかけ、それが発覚して大騒動になったこともある。それ以来、連治郞は息子の恋愛に厳しい目を注ぐようになった。身分違いの女ばかりに関心を持ったのは、自由を与えない父への反発でもあり、きぬとの駆け落ちは長年の鬱積の噴出でもあった。

「それで、今は兄上が大竹家の当主か」

「そして、男爵だ」

 二年前に得たばかりの身分を二度も口にするあたり、余程誇りを持っているようだった。明治十七年に布達された華族令は、それまで公家や大名だけに限られていた華族身分に、国家に功労のあった者も含めた。俊吾が生まれた大竹家が列せられた男爵の身分は、産業などに功労があった実業家などに認められた身分である。

 そうした新興の華族たちのほとんどは、西南戦争の終結後に板垣退助が中心となって起こり、過激な一派が暴力事件を起こしたこともある自由民権運動に否定的である。明治十四年の汚職事件をきっかけに約束された、十年以内に開かれる議会には、大竹家のような新興華族が議員として参加し、民権派の多い衆議院に対抗できるようにするという狙いがあるのだと俊吾は聞いたことがある。

「政治に参加するつもりか」

 御一新を心身ともに成熟した時期に経験した兄は、父と一緒になって薩長土肥から成る後の維新政府の支援に回っていた。かつて助けた勢力が、これからは言論で対抗勢力と戦う時代が来るのだ。自分も参加したいと思うのが、俊吾の知る兄であった。

「それも悪くはないが、今は元の仕事で精一杯だよ。大竹家の後ろには、幾万の人の暮らしがある。それを支えてやらなければな」

 大げさな数だと思ったが、俊吾は特別気に留めなかった。むしろ昔と変わっておらず、懐かしささえ覚えた。

「それより、帰ってこようとは思わないのか」

 急な話題転換についていけず、俊吾は言葉に詰まった。

 その間隙を突いて、直一が会話の主導権を握った。

「お前を認めなかった者はもう大竹家にはいない。私に全ての決定権がある。その最高権力者がお前を大竹家へ迎え直そうと言ってるんだ」

 そこへ新聞を持った売り子が現れた。声をかけられていることに気づいたのは、直一によってだった。彼に言われたことがあまりに意外で、俊吾は思考が止まっていた。

 新聞と代金を交換している間に、直一は言葉を継いだ。

「そこなら、幸せになる道具を分け与えることもできる」

「金、格式、名誉、将来性か」

「仕事まで世話してやることはできないが、生きていくには充分だろう」

「今更何を言ってる」

 きぬとの駆け落ちは、決して安定や金を求めてのものではなかったし、後で一層困ることになっても構わないと、自分たちなりの覚悟を決めて実行したのだ。今も守り続けている決意を安く見られたような気分だった。

「生きていくのが苦しいんじゃないのか。女が死んだお前に、今何が残っている」

 俊吾は言葉に詰まる。持っているものはあるのに、胸を張ってそれを伝えられない。恩人に譲られた宿と、用心棒のようなありがたくない役目は手放してしまいたいほどだ。そう考えるものを、果たして所持していると言えるのか。

 きぬのいない暮らしには飽き、疲れている。生きていくのが苦しいというのも事実だった。

 今の暮らしでも、周りに比べれば、酒が飲める分裕福だろう。それでもいつも腹のどこかに空腹を感じていることが不満ではあった。

 きっと兄の誘いに乗れば不満は消える。

 その時残念がる者、悲しむ者の顔がすぐに浮かんだ。もめ事を持ち込んでくる丈太郎ら町の住民たち、求婚してきたてい。

「どうせたいした仕事もしていないだろう。残る理由があるのか」

 このまま『きぬや』に戻れば、思い浮かんだ者たちの泣き顔や落胆を見ずに済む。むしろそうするべきかもしれないと思った。喧嘩屋のような周りの評価や、受ける気のない求婚。きぬが死んだ後は、望んでもいないものばかりが周りにある。

『きぬや』にしても、欲しかったわけではない。恩人と出会わずにその日暮らしを続けるのなら、それでも良かった。望みはきぬと共に生き、同じ速度で老いていくことだったのだが、もはやそれも叶わない。

 元綱町に自分の望みを叶えてくれるものはない。

 すなわち、残る理由はない。

「俺に、何をしてほしいんだ」

 仕事をさせるつもりもないらしい兄の真意を掴みかねて訊くと、家にいることだ、と彼は答えた。

「家にいるだけでいい。もちろん出歩くのもいい。働きたければ働け。何もしたくないならそうすればいい。お前に全てを任せよう」

 見えない話に戸惑っていると、直一様、と兄の名を呼ぶ澄んだ声があった。

 まだ十数年しか生きていないのが見て取れる、小柄な少女が佇んでいた。まだ和服の方が圧倒的な往来にあっては、兄よりも溶け込みやすい出で立ちであった。

「向こうに車があります。あまり長居はされない方が」

 そうだったな、と直一は少女に笑いかけた。さっきよりも暖かい笑みで、俊吾は兄にもあんな顔ができるのかと密かに感嘆した。

「そうだあやめ。前に話していた弟の俊吾だよ。あの町へ落ちて以来、何の関わりもなかったがね」

 あやめと呼ばれた少女の眼差しは険しいほどだった。長いまつげは女らしいが、両目の形は鋭く睨まれたように思える。

 その険しい眼差しを受け取り、俊吾は軽く頭を下げる。睨まれることには喧嘩の場で慣れている俊吾だが、あやめの眼差しには未知の迫力があって逃れたくなる。威圧感はないが、他人の心を見透かすような勘の鋭さを湛えている。見つめ合っていると記憶の恥部に気づかれてしまうような怖さがあった。

 あやめが一歩踏み出してきた。会話をするのにちょうどいい距離へ詰めてきた。

「父が、迷惑をかけたと聞きました」

 話をすると思わなかった俊吾は言葉に詰まり、同時に意外な話題に忘れかけていた記憶が呼び起こされ、結びつき、表情を固めるのを感じた。

 父と娘。迷惑。それらが結びついた結果、川上音吉の名を思い出す。

「音吉の子供というのは」

「わたしです。警察に捕まったこともその理由も、全て知っています。その前にあなたのところに立ち寄ったことも。どうしてかとずっと気になっていました。居場所さえ教えなかった人がわたしに会いに来たことも、わからないことがたくさんあります。あなたは父の何ですか」

 あやめの声に抑揚は乏しかった。音吉に性格や人となりまでは聞いていなかったから、元々が淡泊な少女だと思えば違和感は覚えない。子供らしくはないが、ずっと実の親と離れて暮らしてきたようだから、自然に早熟していったのだろう。

「元綱町で宿を始める時に、入り用のものを世話してくれた人だ。それ以上の人じゃない。何と言われても、知り合いとしか答えようがないな」

 忘れかけた時に甦ってくる音吉の記憶は、もはや呪縛のようであった。友人であれば別の気持ちもわいてくるのだろうが、知り合い程度では厄介事に巻き込んでくれた者という思い以外は生まれない。

「満足したか」

 あやめは険しい表情を逸らさなかった。まだ疑問を隠し持っているようだが、諦めたように直一を前に立て、会話の場を譲った。

「俊吾、さっきの話、できるだけ真剣に考えてくれ」

 そう言ってあやめと共に往来へ消えていく。その姿を見送ってから元綱町へ戻る。「きぬや」の帳場にていはいなかったが、待っている客もいない。座敷の様子を見に行っても数に変わりはなく、宿賃を踏み倒した者はいないようだった。

 ていを待つでもなく、俊吾は帳場で夜を迎え、その日を終えていった。

 次の日も決まった時間に宿を開ける。久しぶりに客が一人出ていき、それまでの宿賃を精算する。音吉に絡んだ出来事が起きたせいで、巡査が宿帳を奪っていったことを思い出す。あの後は宿賃を徴収するにも正確な計算をする根拠がないので、一度全員出ていってもらう代わりに三日分の宿賃だけを払うことで納得してもらった。明らかにそれ以上の時を過ごしている者たちばかりだったので大損だったが、そうでもなければうやむやなまま宿賃を踏み倒されることも考えられた。もう四ヶ月以上前の話だからどうでもいいことだが、音吉が来たことで巻き込まれた数々の厄介事の一つとして思うと、妙に腹立たしくなる。

 娘のことも、その一つになるのだろうか。そう思うと勘弁してくれ、という言葉が口を衝く。いつになったら音吉は自分を解放してくれるのか。答えのない問いを誰かに向けて発したい気分であった。

 新聞を買いに行く気分になれず、何もせずに帳場に座って一時間は経っただろうか。不意に扉をくぐる者がいた。

 新たな宿泊客が来るとすれば夜がほとんどのため、俊吾はどんな客かと好奇心が先に立って顔を上げる。

 そして険しいほど鋭い眼差しを受け止めて、息を呑んだ。

「大竹さん、泊めてくれますか」

 昨日会った時の出で立ちそのままに、川村あやめが佇んでいた。

 

 三

 

 翌日の深夜を迎え、俊吾はていを母屋へ招いた。昨日のことがあったせいか、求婚してきた割に乗り気でない態度を見せたが、どうしてもと言葉を重ねると申し出を受け入れてくれた。真剣に考えろと他人に言うだけあって、他人の真剣さはわかるようだった。

「話があるなら早くしておくれよ。それとも考え直してくれたの。それならちょっとぐらいは許してあげても」

 縁側に座るていは、湯飲みを置いて腕を回してきた。手は巧みに体の上を滑り、しわやたるみがなければと惜しく思うほど的確な触り方であった。

「違う。頼みだ。少しここを空けようと思ってな」

 手の動きが止まる。

「空けるって、宿をかい」

「他にどこがある」

「それじゃあ仕切る奴がいないじゃないか」

「だから頼んでるんだ。何度か留守番を頼んだことがあるだろう。その時のようにしてほしい」

 ていは絡めた両手を元に戻した。居住まいを正し、いつまで、と訊いた。

「わからん。兄上が死ぬまでだ」

 初めてていがこちらを見た。普段の男好きのする艶然たる表情はなく、訝かしむ態度がありありと浮かんでいる。

「あんたに兄さんなんていたの」

「五つ違いの、大竹直一という男だ。知らないか、新興の男爵、大竹家を。俺の生家だ」

「あんたと違って世事には疎いんだ。男爵って何さ」

 俊吾は御一新の後で定められた華族という身分と、二年前に布達された華族令について聞かせてやった。元々好奇心は強いのか、興味を惹かれたような表情が若々しく見える。

「そんないい家を捨てたんだ。きぬさんのために」

「どうだかな」

 あの頃、自分の行動がどんな影響を周りに与えるのか考えてはいなかった。最も身近だったきぬに対してもそうである。自分と一緒にいることが一番の幸せだと思っていたが、それは思い込みと呼んでも差し支えない不遜なものではなかったかと、十年の時を経て振り返り、初めて思うことができた。

「あの頃も今までも、俺は俺のためにだけ生きてきているのだと思う。俺を外から見て、お前もそう思わなかったか」

 ていは目を逸らし、影の中へ顔を埋めた。表情をうかがい知ることができなくなり、心の動きを推し量るのを諦めて言葉を継いだ。

「兄は少し前から死病に冒されているらしい。そうあやめに教えられた」

 誰よ、とていが顔を上げる。

「朝方子供が一人で来ただろう。あの子が川村音吉の娘だ。今は兄上について身の回りの世話をしているらしい。一昨日初めて会ったんだが」

「そんな子がどうしてここまで来るの」

「何もまだ聞いていない。ただ、一緒に大竹家へ帰ってくれと。それで兄上を看取ってほしいと。あやめか兄上か、どちらの願いかはわからないが。どちらが頼んでも違和感ないからな」

「昨日会ったばかりの子のことなのにわかるの」

 勘が働いただけだ、と俊吾は素直に答えた。ほんの数分間言葉を交わしたに過ぎない少女の人となりもわからないが、兄を慕っていることだけは伝わってきた。そうでなければ少女の体で人力車を引いてはこないだろう。

「三日間ここで待つらしい。今日が二日目だ。それまでに答えを用意してほしいとのことだ」

「それで、あんたは行くつもりなの」

「だからお前に留守番を頼んでいる。受けないなら宿を閉めて客を追い出し、帰ってくるまで休業するまでだ。お前がそれで困らないなら断れ」

 今のていには行き場はない。宿を提供してやれる自分の方が上の立場にいることをわかった上での脅しである。

「肉親の情ってやつかね」

 違う本心を抱えながら、俊吾は頷いた。

 するとていは、俊吾の杯をひったくって一気に呷った。薄いとはいえ体にかかる負担が大きい飲み方だ。案の定気分を悪くしたような唸りを漏らす。

「まずう……」

「何考えてる」

「これくらいしか、あんたを困らせてやれないかと思ってね」

 そう言って素早く杯に酒を満たし、飲み干す。今度は腰を曲げてうずくまった。動こうとしないていを前に、俊吾はため息をつく。確かに困ってしまった。座敷まで、人間一人を運ぶには距離がありすぎる。自分が寝るために敷いていた布団の上にていを寝かせると、俊吾は宿の帳場へ向かった。

 昼間俊吾が座る場所に、あやめがいた。

「何を読んでいるんだ」

 ろうそくの火でわら半紙を照らしていたあやめが顔を上げる。あやめは大量の本を携えて宿を訪れ、昼夜構わずひたすらそれを読んでいた。たった一人で、周りに同じ年頃の少女もいないし、訪れることも望めないような場所だから、それしかやることがないと思って昼間のうちは気に留めていなかった。

 見方を変えたのはその夜だ。あやめは食事も、休憩すら摂らずに読み続けていた。俊吾に勧められて菓子を三つ食べたのがその日の食事である。思えば食糧を何一つ持っていなかったのだから、食べようがなかったのだろう。木賃宿は薪と炊事場だけを提供し、食料は客が持ち込んで料理するのが前提の宿なのだ。

 他の客が寝静まる時間になれば、帳場にろうそくを置いて同じように本を読みふける。そんな調子で昨日を過ごし、今日も全く同じように過ごしていた。

岸田俊子がぶち上げた演説の議事録です」

 過激な論を展開する自由民権運動家の女の名を聞き、本を読んでいないことに納得する。過激という触れ込みがあれば、製本に協力する者もいないだろう。

自由民権運動をやってる女か。面白いのか」

「面白さの問題とは違います。役に立つと思うから読んでいるんです。ご用なら寝る前にしてくれますか。あと半時もすれば終わりにするつもりですから」

 いけ好かない態度ではあったが、不思議と腹は立たなかった。自分で確かな意思を固め、役に立つからという理由だけで本を読む求道者めいた姿が、知っている人間にはいないせいで新鮮だった。

「すぐに終わるからここで待たせてもらう」

 あやめは俊吾を見遣り、小さく頷いて紙面へ視線を戻す。紙の束を揃えて声をかけてきたのはそれから二時間後だ。俊吾はいつの間にか椅子の上で居眠りし、体を揺すられて目覚めた時、西洋時計を見てその時間に気がついた。

「ご用をお聞きします」

 二日間で帳場の主のような居住まいを身に着けたあやめに、家へ帰ろうと思う、と告げた。

「お前が持ってきた話を受ける。兄上の死を看取りに帰る」

「いつお亡くなりになるかはわかりません。場合によっては、何ヶ月もここを空けることになるかもしれません」

「それも考えてある。心配要らないよう留守番を頼んだ。明日からでもいい」

 わかりました、とあやめは椅子を立った。

「明日の八時に出ましょう。早い方がいいですから」

 一昨日会った時と同じように、あやめはあくまで淡泊であった。

 こちらが何か話したいとは思っていないように、さっさと座敷へ引き上げていく。

 時計を見遣ると、出発まで六時間を切っている。食事の準備を差し引きすると眠れる時間は五時間もない。十年前ならまだ若かったし、きぬと共に宿を養ってやるという使命感があったから寝る間も惜しんで働けたが、体も衰えた今となってはその自信がない。

 俊吾は母屋へ戻ろうと思ってやめた。ていの傍で寝たのが知られたら、後で何を言われるかわからない。そうかと言って、宿の主人が客のための空間である座敷で眠るわけにもいかない。迷った挙げ句、俊吾は帳場に突っ伏して眠ることにした。布団はていが使っているものしかないから背中を出したまま眠らなければならない。ろうそくの火を消してしばらくすると寒さが這い上ってくるが、眠気に飲まれていく内に気にならなくなる。

 目覚めはあやめの声であった。時計は午前六時、食事の準備をする時間が残されている。

「食べていくのか」

「わたしは何も持って来ていませんから、お構いなく」

 そう言ってあやめはそっぽを向いてしまった。昨夜は新鮮であったその素っ気なさも、今は不遜なものとして映る。座敷へ引っ込もうとしたあやめの腕を掴み、食べていけ、と低い声で言う。

「別にいりませんから」

「大人の言うことは聞け。他人の心配も素直に受けられない奴が、立派な学者になれるものか」

 あやめは唇を曲げて目を逸らし、早くしてください、とぼそぼそ言った。ふて腐れた横顔は子供そのもので、年齢相応の表情のせいか妙に似合って見えた。

 母屋へ連れていき、そこで待つように言うと、薪を持って炊事場へ向かう。火を起こして古米を炊きあげる。これと酒を買ったばかりにおかずは手に入らなかったが、慣れてしまえば充分ごちそうである。残飯屋から買える飯といえば、『虎の皮』と呼ばれる焦げ目のついたものが一番まともで、古いとはいえ真っ白な飯は高級品だ。

 二人分を炊きあげて茶碗に盛り、母屋へ持っていくとていが目を覚ましていた。

「わたしの分は」

 二つしか茶碗がないところを見て不満を見せるていに、ない、と俊吾は無愛想に答えた。

「お前にはお前の食べ物があるだろう。これは俺たちのものだ」

「えー、でも頭痛い」

「ここは俺の部屋だ。お前には座敷があるだろう。座敷で寝ろ。八時には起きろよ、今日行くんだからな」

 急に予定が決まったことに不満を漏らすていだったが、無理に追い出して俊吾は勝手に棚の本に手をつけていたあやめに声をかける。

「勝手に読むなとでも」

 鋭い眼差しは挑戦的である。

「飯を食う時には読むな。気に入ったなら貸してやってもいい」

「では遠慮なく」

 そう言って、飯の盛られた茶碗を前にして、あやめは本を集めていく。さすがに我慢の限界を超える行動だったので、後にしろ、と声を荒らげた。するとまたあやめはふて腐れた顔をする。内面がどれほど育っているのかわからなくなるあやめの態度であった。

 二人きりの食事は会話なく進んだ。三日前に会ったばかりの少女を相手に話せるほど会話がうまくはないし、あやめの方も同じだろう。音吉はあやめを十四歳だと言っていたが、そうだとすると生まれは御一新の後ということになる。幕末の動乱や戊辰戦争上野戦争の時は生まれていなかったはずだし、西南戦争までの、不平士族が起こした一連の戦争の時も幼児であったから話を聞いただけでは理解もできなかっただろう。

 俊吾は自分が十四歳だった時のことを思い返してみた。井伊直弼が暗殺された桜田門外の変と、公武合体を成すための政略結婚が招いた坂下門外の変が相次いで起きた時期で、二十歳になる頃には幕府が倒れて御一新が成った。

 大竹家はその頃生糸農家に過ぎず、秩父の片隅で細々と仕事をしていたが、稲作農家は米価の暴騰に苦しみ、約五年間一揆が相次いで起きていた。主張を通すために当時の武士は権力者を殺し、農民も自分たちの窮状を救うために団結して力に訴える時代に少年時代を過ごしたことを思うと、あやめらの世代は穏やかで恵まれた暮らしをしているように見える。そう思いかけて、音吉の話を思い出す。

 福沢諭吉の『学問のすすめ』を読んでいたら養家の親に取り上げられたという。それはあやめが女だったからなのか、勉強よりも別の役目を期待されていたからなのかは定かではないものの、やりたいことを満足にやれないという意味では、必ずしも恵まれてはいないだろう。

「大竹さん、食べないんですか」

 あやめの声で、物思いに沈んでいた間箸が止まっていたことに気づく。声に促されるようにして箸を動かし、時間への意識もあって心持ち早く食べ終えた。             

 水場は少し離れた井戸にしかなく、出発時間が迫っていたので、使った食器は帳場に置いておくことにした。ていにその気があれば洗ってくれると期待して、俊吾はあやめと共に「きぬや」を後にする。

 麻布と元綱町の境となっている寺を抜けると、あやめは人力車のたまり場まで俊吾を引っ張っていった。そこで筋骨隆々の車夫に話しかける姿は堂々としたもので、子供の年齢であることを忘れさせるほどだ。思えば東京での家からそれなりに遠い場所を選んだはずだ。行きも同じように人力車を頼んだのだろう。

 車は全てあやめの指示で動いた。できるだけ家から遠ざかったつもりだったが、麻布区内の、最も早く新開地となった地区に大竹家の屋敷はあった。人力車なら所用時間は一時間もかからない場所で、当時の無軌道さを思い出させた。

 門をくぐると煉瓦の壁と鋭角的な屋根が特徴的な洋風建築が出迎える。御一新の後毎年のように増えているこの手の建物は、概して来客をもてなすためのものであり、主や家族が過ごす家は別にあることが多い。大竹家も例外でなく、背後に隠れるようにして和風住宅がある。秩父で養蚕農家をしていた頃に使っていた建物を移築したものと聞いている家は、蚕を飼っていた二階部分がそっくり削り取られており、木造平屋建てとなっている。明るい色合いの洋風邸宅に比べれば、壮麗さでは劣るものの、湿気で傷んだ木で作られた長屋ばかりを見てきた目には充分美しく見えた。

「兄上に会うのか」

 先導してきたあやめに訊くと、そうしてください、という答えだった。

「外用の邸宅に後から来ることになっています。呼んできますから待っていてください」

 そう言い残して、あやめは和風住宅の方へ歩いていく。動きやすい小袖を着ている割に慎ましやかな歩き方をする背中を見送り、俊吾は来客用の邸宅へと足を踏み入れる。鍵はかかっておらず、窓の数の多さから、ちょうど昼になる時間の明るさで屋敷全体が満たされていた。

 元は自分の家であり、待つように言われているため、椅子に腰を下ろすことにためらいはなかった。「きぬや」の中で椅子があるのは帳場だけで、俊吾も椅子のある生活に慣れているわけではない。足や手が自然と動く落ち着きのなさに陥った。

 しばらく待ってから、それを冷やかすような声がした。

「どうした。自分の家の割に落ち着かないな」

 部屋の入り口に盆を持った直一が一人佇んでいる。再会したのは三日前だが、その短い時間の中で老け込んだように見えるのは、病魔に冒されていると知らされたせいだろう。

「俺の送る暮らしとはずいぶん違うからな」

 直一は体を曲げて、喉の奥を振るわせるように笑う。

「私も洋風の生活をしているわけじゃないさ。ここはあくまで来客用、忘れたか」

「覚えているよ。ここは兄上と掃除させられた場所だからな。いい年した大人が何してるんだって思ったよ」

「父上は寂しかったのだろうよ。二人の子供が離れていくのを感じていたんだ」

 今度は俊吾が噛み殺すように笑う番だった。さっき一人で父の心境を考えた時の答えとほとんど変わらない。十年間会っていないのに喪失感一つ覚えなかったというのに妙なところで通じ合っている。そう思うと、兄弟のつながりの奇妙さが笑えた。

 直一はわずかに訝かしむような表情を作ったがそれ以上の追究をしなかった。彼は盆に載せてきた茶器らしきものを机に移すと、手慣れた様子で紅茶を淹れ始めた。この十年間日本の緑茶しか見てこなかった俊吾の目には深紅の液体がやけに新鮮なものに映った。

「どういう味だ」

 覚えがないだけで、家にいた頃飲んだことがあったのかもしれないが、今のうちは未知の味である紅茶を前に不安を覚えていた。

「そのままだとかなり渋い味がする。私はその方が好きだが、砂糖などを溶かすと飲みやすくなるな」

 そうするように頼むと、直一は砂糖入れを盆から移し、箸のような細い棒を操って角砂糖を紅茶に落とした。そのままかき回し、俊吾へ差し出す。貴重品の使い方としてはもったいなく思えたが、この家では違うのだろう。

 静かに口づけると、強い甘みの向こうには確かに渋さが隠れていた。

「何で兄上がこんなことを。あの子、あやめにやらせればいいだろう。奉公しているんだろう」

 自分を呼び出すために、わざわざ元綱町まで使いにやってきた少女である。帰ってきたばかりで疲れていたとしても、直一に命じられたら給仕の仕事ぐらいやってくれただろう。

「兄弟水入らずで過ごしたいと思っただけで、いつも深い理由があるとは限らんよ。それが叶う機会も、そう多くはないだろうしな」

 何気なしの言葉に、俊吾は自虐的な響きを聞き取る。家と同じく兄も記憶から乖離していた。俊吾が昨日まで知っていた兄は、良くも悪くも自分のしたことを振り返らず、常に正しさを信じる男だった。自虐や自嘲など似合わない男だったのだが、病気のせいか気弱になっているようだった。

「あとどれくらい、そんな機会があるんだ」

 兄の最期を看取ってやるために、「きぬや」をていに任せて出てきたのだ。

「医者は一年以内と言っていたがな。私は人間の見立てなど当てにはならんと思っているから、頭から信用しているわけじゃないがね。一年が長くなることもあれば、短くなることもある。お前にとってはどちらがありがたいのかな」

 せっかく戻ってきた弟が面倒くさがっていると見るような言い方だった。病気のせいだと思えば我慢もできたが、変化の大きさに俊吾は少なからず惑いを感じていた。

「短くなることを望むようなら、わざわざ出てこない。俺にも一応は責任がある」

 薄い言葉だと思ったのは、兄が唇を歪めて笑ったのを見たせいではない。責任を感じながら「きぬや」を切り盛りしたのはきぬが生きていた頃だけではなかったか。一人になってからは空虚さを言い訳に怠惰な経営をしてきていなかったか。そんな男の口から出る責任という言葉に、どれほどの重さと厚さがあるのか。考えるのは滑稽であった。

「まあ、お前の暮らしぶりを見ていない私には何も言えないか。ともかくお前は、私が死ぬまでいるのだな」

「そのつもりだ。それにしても、ここから元綱町の入口まで出てこられるなら、死ぬのはだいぶ先になるんじゃないのか」

 人力車を使った所用時間はそれほど長いものに感じなかったが、それは俊吾がすぐに死ぬ危険のない体だからだろう。いつまでの命か定かでない人間が耐えるには、約一時間の所用時間は長すぎるのではないか。

「あの時も含め、今は調子がいいようだ。だが時々食べることもできないほど落ち込むことがある。そういう時は寝るしかできんな。乱高下をしているものだから、世話をするあやめにも苦労をかけている」

「あの子の素性は知っているのか」

「父の川村音吉が麻薬を扱って捕まったことか」

 直一の表情は、薄い笑みを湛えたままだった。その事実を受け入れる時間を要した上であやめを傍に置いているのかどうか、表情を見ただけではわからない。

「別に犯罪者の娘だからどうこうと言うつもりはない。ただ、どういう経緯であやめと知り合ったのかは知りたいな。あの子の父親とは無関係じゃなかったし、俺自身も色々迷惑を受けている」

「あやめが迷惑をかけたと言っていたが」

「音吉さんを泊めたことで、巡査の取り調べを受けたんだ」

 俊吾は「きぬや」を受け継ぐに当たって音吉と知り合った経緯から、その五年後に突然再会したこと、更に彼が姿を消した後に巡査が現れ、麻薬取引の話を知ったことを話した。直一はまるで聞き流すように冷静な居住まいを保っていたが、音吉からあやめを引き取ってほしいと頼まれたことを話すと、さすがに予想外だったのか、表情を変えた。

木賃宿を受け継ぐ時に助けてもらったことには感謝していたよ。ただ、子供のことを頼まれるほどの関係じゃないと断ったんだ」

「お前が私の知らないところで、川村親子と関わっていたとはな」

「兄上こそ、どこであやめと知り合った」

「お前と良く似たきっかけだったよ。新聞を買った時、ちょうど私の分で最後になってな。その後ろにいたのがあやめだった」

「あの子は新聞も読むのか」

 女は無学なものという蔑みを自覚していた俊吾は、宿にいる間にあやめが見せた情熱的な姿勢に驚かされたばかりで、新聞にも興味を持つ好奇心に底知れなささえ感じていた。

「私にも申し訳なさがあったからな、売り子が新聞を用意するまで二人で読んでいたんだが、その小半時でお互いの身の上をいくつか話し合うだけで、通じ合うものを感じた。私にも世話する者が必要だったし、あやめにも助けが要った。利害が一致したわけだ。父と私が揃えた蔵書は、あの子にとって宝の山にも見えただろうしな」

 部屋を丸ごと占拠する旧幕時代から集められた本の部屋に入ったこともあるが、ほこりっぽいような古い紙の臭いが充満していた記憶しかない。決して俊吾も本に興味を持たないわけではないが、宝の山と見るには数が多すぎた。

「慕っているのか、兄上を。俺にはそう見えた」

「そうだとすれば光栄かな。妻にも娘にも慕われなかったのに、赤の他人の娘には慕われるというのは、素直に喜んでいいかわからないがね」

 直一の笑みが温かみを帯びて見えた。あやめに向けたのと同じ表情だ。あやめの慕情が娘のそれで、兄の表情が父親のそれであるのかなど、子供を持った経験のない俊吾には知るよしもない。ただ、二人は簡単には壊れない関係を築けている。それだけは充分に感じ取れた。

「ともかく、今日のところは俺の意思を確認できただけで充分だろう。そろそろ失礼させてもらう。俺の部屋はまだあるのか」

 直一は頷いた。一瞥して席を立った俊吾を呼び止めた兄は、あやめのことだが、と切り出した。

「あやめを引き取る話が出た時、父親と親しくないからと断ったそうだが、私の頼みではどうだ」

 直一を顧みた俊吾は、どうとは、と訊き返す。

「私が死ねば、またあやめは一人になる。その後のことを考えておいてやりたいが、さすがにこの家を継がせるわけにもいかない。お前にはどうせできない仕事だしな。だから私が死ねば、大竹家は潰してしまってもいい。ただあやめだけは冷たい目に遭わせないでほしい。娘としてなどとは言わん。ただ、養うくらいのことをしてはくれないか」

「兄上まで俺に、必要以上の期待をかけるのか」

 再び音吉の呪縛を意識した。できぬと断り、音吉が逮捕されたことでもう終わった呪縛のはずだったのに、そう思っているのは自分だけだったのか。

「私は、あれほど情熱的な子が孤立無援のまま沈んでいくのが忍びないと思うだけだ。活かしてやれれば、必ず何かの役に立つ。その相手が国家であるかもしれぬ」

「俺には無理だ。俺は兄上を看取るためだけに来たんだ。それ以上妙なことを言うな」

 俊吾は兄の言葉を振り切るように洋風邸宅を飛び出していった。そして和風邸宅の中にある、かつて自分が使っていた小さな読書室へと駆け込んだ。四畳半だが誰にも邪魔されない部屋は、本を読むだけでなくいざという時に逃げ込むこともできる部屋であったが、四十手前を迎えた今になっても、若い頃と同じ使い方をするとは思わなかった。

 西を向いている窓が一つだけある部屋は、時間が経つごとに注ぎ込む光が濃くなっていく。小さいながら本棚があり、そこに入った本もそのままにされていたが、俊吾はそれに手をつけることなく時間の流れに任せていた。

 外からふすまが叩かれたのは、日射しがだいぶ薄くなってからだった。

 音に対して呼びかけると、食事ができました、という声が応じた。

 ふすまを開くと、あやめが折り目正しく膝をついていた。

「兄上に教えられたのか。そうしろと」

「養家でそう躾けられましたから。こうしないと居心地が悪くなります。そういう躾めいたことを、直一さまは一切申しません」

 あやめに通されたのも、かつて家族で食事を摂っていた居間である。ちゃぶ台の上に一人分の食事が用意され、ここにも記憶の乖離がある。

「俺一人なのか。兄上はここには来ないのか」

「直一様は部屋で食べたいと。これから届けに行かないといけないので、失礼します」

 あやめは相変わらず頓着しない態度だった。十四歳の割に興味が強く抑制されているようで、養家での過ごし方が見て取れる。音吉は養えないからと人に預けたようだが、子供らしさを充分に出せないような子供に育っていったところを見ると、貧乏な暮らしでも実父の傍にいた方が、あやめにとって良かったのではないかと思えてくる。

 所詮は浅い付き合いでしかなく、他人の娘でしかないあやめがどうやって育とうと関わりのないことのはずである。それが、呪縛のように消えない音吉の影に導かれるようにしてあやめの傍で生きていると、否応なしに考えてしまう。あまつさえここでもあやめを養えと言われたのだ。俊吾は食べることで音吉の幻影を振り払い、あやめのことを考えないようにする。直一を看取るためだけに来たことを忘れたら、本当にあやめを養うことになりかねなかった。

 量、品共に少ない食事ではあったが、普段食べているものに比べればはるかに質の高い食べ物は充分に心身を満たした。ほんの十年前までは毎日食べていたもので、元綱町へ移ってしばらくは、残飯が中心の質の悪い食事に戸惑いもしたが、いつの間にか慣れて気にしなくなっていた。

 俊吾は元綱町で生きるようになってからの約十年間大きな病気をした覚えがなく、きぬが倒れた流行病の時も幸い無事で、きぬの看病を引き受けることができた。そういう丈夫な体だから残飯中心の食生活にも耐え、慣れることができたのだろう。兄ではきっと耐えきれなかったはずだ。病気がちなのは今に始まったことではなく、子供の頃から病気と回復を繰り返してきたのだ。

 俊吾は食器を前に、立ち去るのを迷う。客人として招かれたはずだから、あやめに任せてしまえばいいのだろうが、自分の家であるのも確かだ。秩父にいた頃から食器は自分で洗うように躾けられたこともあり、そのままにしておくのも寝覚めの悪い思いをしそうである。

 洗おうと思った時あやめが戻ってきた。片付けます、と言って食器を持ち上げ、すたすたと行ってしまった。再び俊吾は一人になり、手持ち無沙汰になる。部屋へ戻るしかなくなったが、それも一時しか続かない。自分の家のはずだが、十年も離れている上記憶との乖離が激しい場所は既に他人の家で、どうしても落ち着かない。

 邸宅は寝静まっていた。まだ夜の八時を回ったばかりの頃だったが、病人の直一しか普段は住んでいないせいだろう。彼の儚さが宿ったように静まり返る。

 明かりが見当たらず、手探りで俊吾は暗い廊下を進んでいく。月明かりが差し込んでいるお陰で、少し暗闇の中にいれば目が慣れてくるものの、不安感は拭えない。

 外へでも出てみようと思った時、光の漏れている部屋を見つけた。そこで足を止めた時戸が開く。薄い羽織をまとったあやめは目の前を無警戒で、身構えることなくぶつかってきた。

 すみません、と素直に謝る声には、昼間に聞くような気の強さを含んではいなかった。

「疲れたのか」

 話しかけられたことが意外だったのか、あやめは目を瞬かせて見上げてきた。

 薄暗く、横からの光を受ける瞳が妙に強く輝いて見えた。

「疲れているな」

「そんなことは。何でもないです」

 わずかに普段の不遜な響きが戻った。鋭い目つきで睨んでいるつもりのようだが、どうしても虚勢を張っているようにしか見えない。何かを心の奥へ隠すための仮面であった。

 人間の瞳が潤んでいる時には、何でもないということは有り得ない。熱があったり、泣いていたりすればもっとも正直な反応を示してくる場所なのだ。そのどちらかであろうと思ったが、きっと見た目に違わず強情な少女なのだろうと思った俊吾は、深い追究を早々に諦めて、どこかへ行くのか、と尋ねた。

「夜風へ当たりに」

 再び意外そうな顔をするあやめだった。俊吾自身、あやめにものを尋ねていることが少し意外でもある。他人にまるで興味を持たないほど狭い視野しか持たないのではないが、あやめに対してだけは別である。彼女と下手に関わると、どんなきっかけで引き取らなければならないかわかったものではない。

 あくまで兄を看取るために来たのであって、あやめは無関係。そう思いたいにもかかわらず自分から話しかけている。不思議というより矛盾であった。

「どいてくれますか」

 あやめは元の強気さを取り戻していた。年若い女が見知らぬ男に相対する頼りなげな態度でなく、不遜な響きさえあった。相手によってはいらぬ咎を受けたり諍いを起こしたりしそうな態度であるが、音吉の話を聞いた限りでは養家との折り合いが悪かったようだから、どこか拗ねたようにさえ見える態度を取ることが、隙を見せぬために必要だと信じるようになったのかもしれなかった。

 兄亡き後、あやめを養ってやるつもりにはなれない。ただ、子供らしさも愛らしさも皆無な態度は、後の幸せのために修正するべきだという思いが沸き、俺も行く、と俊吾は申し出た。

「どこへ」

 あやめは訝かしむような顔をした。

「お前と一緒に、風に当たりに行くんだよ」

「どうしてそんなこと」

「何もすることがなくて退屈だったからな。お前もそうだったんじゃないのか」

「違います。本を読むのに疲れたせいです」

 あやめは妙に気色ばんだ反応をしてきた。何気なくや、何となくといった根拠に欠ける心の動きを認められないのかもしれない。それが隙であると考えているようでもあった。

「何でもいいさ。勉強の途中だったなら時間が惜しいだろう。行くなら行くぞ」

 先に立って歩き出そうとすると、すぐにあやめが追い越していった。誰かに付き従うのが嫌いなのかもしれない。あるいは男に導かれるような立ち位置を避けたのではないかと俊吾は思いつく。女子学生が外の社会で役立つような知識を制限されて学ぶのが一般的な学校教育に抗うように毎夜本を読みふけるあやめは、もしかすると男に付き従うのが常識的とされる女の姿に反抗しているようでもあった。

 足早に薄暗い廊下を通り過ぎたあやめを追って土間へ立った時、彼女はわらじを履いて星空の下へ出ていた。開明的な考え方をするといっても、身なりや生活の仕方まで変えているわけではないようだった。

 星が少ないな、と俊吾は空を見上げた時素直な感想を漏らした。明らかに見えるほどではないが、町からの光で覆い隠される星は元綱町で見上げるより多いように思える。元綱町の場合、夜になっても家の明かりが壁の隙間から外へ漏れる程度で、道を照らすには暗すぎるのだが、麻布をはじめとする山の手にはガス灯や電灯といった街灯がある。

 明治七年に芝金杉橋から銀座通りにかけて八十五基のガス灯が設置されたのを皮切りに、明治十五年には銀座二丁目にアーク灯が設置された。ガス灯は周囲ではガス会社の印半纏をまとった点消方が時間ごとに明かりの点灯と消灯を担っており、東京の夜の景色の一片として徐々に人々の目に馴染み始めているようだった。

 今夜星を覆い隠しているのは、提灯や行燈とは比べものにならない明るさの、人工の光だ。現在でも充分な明るさだと俊吾は思うが、海を東へ遥かに超えたアメリカでは、エジソンという男が京都の竹を使って白熱灯なるアーク灯以上に明るい電灯を作り出したという。提灯を持って夜道を歩くのが当たり前の子供時代を過ごしてきた俊吾には、夜を昼に変えてしまうような明るさがどうにも慣れないが、御一新の後に生まれたあやめたちの世代は、夜が夜の暗さを持たないのが当たり前として見るのかもしれない。

「街灯の光はどんな時でも明るいですから」

 あやめは事もなげに言う。不思議な出来事を前にすると、俊吾の世代では狐狸物の怪に化かされているのだと言われたものだが、御一新の後西洋の知識が旧幕時代に比べて増えたことで、何ごとにも根拠が求められるようになった。曰く、それまで狐狸物の怪に化かされていると信じられた出来事は自然現象かそうでなければ頭がおかしいのだという。神経がいかれたせいらしい。

あやめたちの世代は、電灯やガス灯に代表される科学の庇護によって不思議を不思議と思わず、また恐れなくなっていくのだろう。若い世代が自分たちの世代と違ったものの見方をするのは当然と思う一方で、生まれた時期がほんの二十年ばかりずれただけで、傍に立つほど近しい人間でも他の世代を理解できないこともある。それを思うと同じ時代に生まれた人間が傍にいない寂しさを、今更ながら思い知った。

「夜の町は明るいのか」

 子供に訊く内容でもないと思ったが、知らないのだしあやめの方が答えに近い位置で暮らしているのだから仕方がない。

「わたしは夜、ここから出ませんからわかりません。でもきっとあかるいんでしょう。星が見えなくなるくらいですから。少なくとも月よりは明るいと思います」

 感情に乏しい声ではあったが、年齢のせいなのか特別に詩的な雰囲気を湛える言葉として俊吾の耳に届いた。漢詩や和歌も開明的な生き方には必要なのだろうが、どこかあやめには似合わないものに見える。

「好きなのか、月や星が」

「そんなことは。必要ないものですし」

 あやめは問いかけの意図をわかりかねる様子だった。きっと勉学に励むあまり、詩的な魅力を放つものに関心を持たなくなっているのだろうが、そこに妙なもの悲しさが見えないのは、誰かに強要されているのでなく自分自身の思いだけで突き進んでいるためだろう。

「脇道に逸れてみるのも面白いと思うけどな」

 何気ない言葉のつもりであったが、説教しに来たんですか、と噛みつかれてしまう。

「いや、違うよ。音吉さんのこととか兄上のこととか、いろいろ訊きたいことがある」

 思いつき半分だったが、その場凌ぎのためだけに作った言葉ではない。看取るために十年ぶりに訪れた家の主が、自分をどうやって思い出したのか。そして呪縛めいたつながりを保ち続ける大元の男が、実際はどんな父親だったのか。興味はあった。

「直一様のことは、大竹さんの方がよく知ってるんじゃないですか。わたしと知り合ったのは、父が捕まって家に居られなくなった後ですから、まだ三ヶ月も経っていないです」

「その間だけでも、何かなかったか。俺を呼び戻そうと思ったきっかけは病だけだったのか」

「わたしはそう訊いています。他のことは、わたしには想像もつきません。もっと心を開いてくれればいいと思うんですけど」

 微かに伏せた横顔に、俊吾はあやめの感情を垣間見る思いだった。ただ兄弟というだけでは、あやめは弟には敬称を使わない。あくまで敬意を表するのは兄の方だけで、そこに慕情が見える。三ヶ月にも満たない付き合いで生まれた感情としては、濃密すぎる。

「兄上に恩を感じているのか」

 まさか恋煩いではないだろうと思いながら訊くと、あやめは小さく頷いた。

「直一様だけが、本当の意味でわたしをわかってくれたと思うんです。養家ではわたしがやりたいことを認めてはくれませんでしたし、父はそもそも何をしようとしているのかわかってはいませんでした。盲目的に応援するだけでしたから」

 表現の差はあれど、どちらも新しい価値観を理解できなかったためだろう。養家は常識的で望ましい女の姿を養女に押しつけ、実父の方は尊重こそしたがあやめが満足する形で寄り添ってはやれなかった。それができる前に逮捕されて引き離され、あやめは孤立していたのだ。そこに偶然にも強力な理解者が現れた。凍り付いたような心が一気に解放された気分だっただろう。何日でも深夜まで本を読んでいられるような子だから、一度本気になった時に出る力は強い。その力で以て、三ヶ月に満たない付き合いの男の世話を甲斐甲斐しく焼いているようだった。

「弟の目には、直一様はどう見えていたんですか」

 今度は俊吾が意外な思いに囚われる番だった。他人に無関心な子だと思い続けていたから、あやめの方からの問いかけは予想外だった。

「兄上は、頭がいいのは確かだった。でもそれが過ぎたところがあって、周りを愚かと決めつける嫌いがあったな。実際兄上には周りのほとんどが愚かに見えていたんだろう。それほど頭のいい男だった」

 封建的な時代に生まれ育ったから、親を慕う気持ちは人並に持っていたと思うが、それはあくまで最低限であったと思う。親兄弟に対して持つべき感情だけで心を埋め尽くしていたのではなく、隙間を作っていたのだ。その隙間には愚か者に対する蔑みの気持ちが埋まっていたと俊吾は少年時代から感じていた。人と会う時、そんな兄を満足させられるかどうかを無意識に見定める癖がいつしか俊吾にはついていたが、記憶にある限りではその眼鏡にかなう人間に会ったことはない。

「元々大竹家は秩父の養蚕農家に過ぎなかったんだが、地元ではそれなりの財を築いていたから、父が投資を始めたんだ。俺はよく知らないが、戦争で役に立った功労で華族になったから、食糧とか武器とか、とにかく戦争でよく使うものだったんだろう。それで成功して養蚕の他にも事業を手広くやるようになって、大竹家は富んでいったよ。兄上はそういう家を継いだんだ。俺がこの家を出る頃にな。それが十年ぐらい前だから、少なくとも十年兄上は仕事や家を保たせている」

 俊吾は言葉を切り、あやめの様子をうかがった。いつも感情に乏しい表情をしている顔に興味の輝きが宿っている。話の次を催促するように、大きな目で見つめてきていた。

 音吉はあやめにこのような表情を向けられたことがあったのだろうか。もしもあったのならうらやましい。赤の他人であるはずの子供の関心を引くような話を期待されることは、決して悪い気持ちのするものではなかった。

「それじゃあ、その時の激務がたたったんでしょうか」

「俺もつい三日前に再会したばかりなんだ。お前の方が最近の兄上についてはよく知ってるはずだよ。ただ、あまり恵まれた暮らしじゃなかったと思う」

「そうなんですか。こんなに大きな屋敷と華族の身分とがあって、何が不満なんですか」

 あやめは敷地を見回して訊いてきた。兄も金と身分があれば幸せと言っていたが、それとは根本的に違う感情から端を発する言葉だろう。兄が人生をうまく生きていくためのものとして挙げたのが、金や身分といった簡単には持ち得ないものだったが、それは四十年以上生きてきて得た実感から来る信念であろう。

 対するあやめの方は、それほどの経験を持たない。世間で言われているような常識、もっと言えば兄の考えに自分でも気づかないうちに染まっているせいだろう。だからこそ、異なる意見を前にした時抗弁しない。

「何が幸せか決めるのは自分自身だから、俺が口を挟むことはできない。ただ俺は、兄やお前とは違う考えを持ったからこの家を出た」

「不満だったんですか、こんなに恵まれて」

 あやめはまだ、自分が持っていた考えを捨てきれない様子だった。

「恵まれて安定した暮らしより好きな女と暮らした方が幸せだと思ったから、あの町で暮らすことを選んだんだ」

「そんなに大事なことですか」

 自分の考えに強いこだわりを持たない柔軟性のせいか、あやめの問いかけに懐疑的な響きは聞き取れない。かわいげのないという最初の印象が、子供らしい好奇心の前に崩れるのを俊吾は感じていた。

「大事だったよ、俺にとっては」

 子供を前に昔話をした経験など持たないが、大竹家で過ごしていた少年時代から、父親を怒らせるように多くの女と関係した青年時代、その果てにきぬと出会ったことを順番に語るだけで、あやめは興味津々であった。

「きぬのことも、ただ父上を困らせてやるつもりだったんだが、いつの間にか本気になったらしくてな。元綱町へ落ちたのは本意じゃなかったけど、満足はしていた。あれほど簡単に死ぬとは思わなかったけどな」

「死んだんですか」

 息を呑む声が聞こえた。まだ他人の話ですら、実際に死んだ人間のことを聞いたことのない幼さが見えた。

「三年前に病気でな。その後の俺は、自分で言うのもなんだが、嫌な生活だったよ。音吉さんに世話してもらった木賃宿を続けてはいたけど、やる気のない商売をしてきた。慕えば慕うほどその相手がいなくなった時の反動は大きいものだ」

 黙り込んだあやめは、わたしもそうなりますか、とややあって訊いてきた。子供心に目の前の男と自分自身が似たような境遇に陥る危険を察知したのだろう。潜めた声には不安感や恐れが含まれている。

 俊吾ははっきり告げてやるべきかどうか迷ったものの、頭が良く好奇心旺盛なあやめの目先を変えてやる言葉を持ち合わせないことに気づいて、多分な、と短く告げた。

「兄上もそのことはわかってるんだろう。だから俺に、自分が死んだ後のことを頼んだんだ」

「その気はあるんですか」

 俊吾は頷くこともできなかった。最初に感じた、いけ好かない子供という印象はだいぶ薄くなったものの、現実のことを考えると自分に父親の役目が果たせるかどうか自信は持てない。多少我慢すれば養うことぐらいはできるだろうが、兄のようになれるとは思えなかった。

「音吉さんはいい父親だったのか」

 あやめの目先を変えるのと、自分自身への参考にするために持ち出した名前であったが、関係ないでしょう、と切り捨てられてしまう。

 頭の働きで言えば、子供にも関わらず『学問のすすめ』を読もうとするあやめの方が上なのかもしれない。情けない気分になりながら、あやめに対して不実な態度が通用しないと悟った俊吾は、自信はないな、と正直な気持ちを告げた。

「お前の言うような幸せは、俺にはもたらせられないからな。その点では兄上の方がはるかに立派だろう。今の俺には何もない」

 三年前であれば、と未練がましい思いが沸き上がる。きぬが生きてさえいたら、あやめを引き取ることを約束できただろうか。きぬならきっと母親の役目ができたと俊吾は思う。それが男を引き寄せる魅力になり、家を出て駆け落ちする原動力にもなったのだ。

「それならせめて、どこへ行けばいいかを教えてはくれませんか。いくら勉強しても、それをどうやって使えばいいのか、本当はわからないですから」

 あやめの淡泊な声は切迫した言葉であった。明治十四年の政変で議会政治が始まる約束はされているものの、そこに参加できるのは恐らく一定以上の税金を払える財力を持った人間だけだろう。それ以前に男であることが条件とされるはずだ。そうでなければ政治やその周りに女の名前がもっとたくさん出てくるはずだ。あやめの身に着けたものが活かされそうな場に、女が入り込む余地が今は絶望的なほど小さい。他人の言葉で自分の意見を簡単に変えるほど柔い頭しか持たないあやめが迷うのも無理はなかった。

「俺よりも兄に訊いた方がいい」

「直一様は遠からずこの世を去ります。その直一様が、あなたを頼れと言っているんです。どうすればいいのですか、俊吾さん」

 思いの外強い力で手首を掴まれたことより、名を呼ばれたことが俊吾の足枷となった。計算なのか本能に根ざした行動なのか、そのらしからぬ切迫した声音からはわかりかねたが、俊吾はあやめを振り払うことができなくなる。自分が生きるので精一杯だと放言し、煩わしいの一言で片付けてきた三年間を責め立てる言葉だった。そうやって丈太郎を突き放し、どこで何をしているのか追おうともしない。あやめの知り得ない事実であったが、今更もっとできることがあったのではないかと後悔が生まれる。

 この場で兄を見捨て、あやめから逃げ出すこともできる。再び元綱町へ戻って木賃宿の主人に戻ることもできる。あやめは追ってくるかもしれないが、無視し続ければいい。そうしている内に諦めるだろう。その後は自分を慕うものはいなくなる。木賃宿の主人と喧嘩屋という、望まぬ役目が残るだけだ。

 その時もまた後悔するとしたら、生きていくのが辛くなるほど耐え難いことかもしれない。その予測が、力の発揮を抑えつけているのだった。

 しかし答えるべき言葉を持たないのも事実だった。俊吾は努めて抑えた声を出す。

「俺よりも兄上に訊くべきなのは本当だ。兄上が死ぬ前にできるだけ訊いておいた方がいい。俺は三日前見た通り、貧民窟で木賃宿を営む男でしかない。その前は用心棒をやったり日雇仕事をやったり、お前とは全く重ならない生き方をしてきたんだ。兄上の方が、お前に近いはずだからな」

 突き放されたのでなく、そうする方が合理的だと言い含められた。あやめがそう感じるように努めたつもりであった。その努力のお陰なのか、あやめは黙って掴んだ手首を離した。歩き出す俊吾をそれ以上引き留めない。

 自分の部屋へ戻った俊吾は、喧嘩の後とは違った疲れを感じて畳の上に仰臥した。母屋で使っている、ところどころがすり切れたものに近い質の悪い畳で、長く放置されていたことをうかがわせる。二度と帰ってこないと思われていたのだろうから無理もない。駆け落ちは無断で出ていくからこそ駆け落ちなのであって、それは二度と帰ってこないと思わせる手段でもある。

 俊吾は微かな月明かりの中へ、あやめに掴まれた手首をかざしてみた。力の感触は薄くなっていて、痕が残ったわけでもないのに、俊吾は逃れ得ない何かに陥った気分になっていた。

 ただ、音吉に投げかけられた呪縛とは明らかに違う印象も感じている。煩わしさや面倒くささは感じず、真に向き合うのも悪くないと思わせるのだった。

 

 四

 

 病に冒されているはずの兄は、思いの外元気に暮らしているように見えた。

 晴れた日にはあやめに付き添われて外へ出ることもあるし、彼女が世話する食事も普通のものとそう変わりはないように見える。肉が少ないのは少年の頃からであったし、食事を残すこともないようだった。

 兄を看取るという目的があるため、時には直一がいる部屋を訪れた時、元気そうだな、と見た通りのことを口にすると、そうでもない、と自嘲気味の笑みと共に切り返された。いつも周りを見下す不遜さが自然であった兄にしては、その卑下を自分に向けるなど有り得ないほどである。弱ったせいだろうと得心した。

 布団から出ず、上体を起こしただけの兄は語り出す。

「前にも言ったように波がある。ここへ来てからの一ヶ月間、どれほど注意して見ていたか知らないが、一週間外へ出なかった時もあった。お前が思うほど、私は元気じゃないし死を意識しているんだ」

「そのことを、義姉さんは知っているのか」

「死人には何もできんよ。まだ話していなかったか」

「そんな気がしてはいたけどな」

 一ヶ月間、兄は妻のことを匂わすような発言もしなかった。それは義姉が、既に届かないところへ行ってしまった諦めのせいだろうと考えていたが、裏を取ることができずにいた。自分から話すように仕向けるためにうまい言い方が思いつかなかったためで、親しくない兄と言っても肉親の傷を抉るのは嫌だった。

「何故死んだか訊いてもいいか」

 断りやすいよう穏やかに、逃げ道を確保した訊き方を選んだ俊吾だが、直一は思いの外簡単に喋った。

「自害だよ。理由も言わず、遺書も残さず。死体を発見したのも私でなく女中だった。それが元だったのかな、その女中も辞めていった。あやめに会うまで一人で過ごしていたんだよ」

 俊吾は冷静に兄の言葉を聞いていた。自害は意外であったものの、何かしら事件を起こすのではないかと見ていたこともある。それほどの不満を、義姉は抱えているように見えたのだ。

「子供はどうしたんだ」

 家を出る時には既に娘がいたはずだ。

「何を思ったのか、道連れにされたよ。私が構ってやらないのが不満のようだったが、今にして思うとその当てつけだったのかな」

 再び自嘲気味の笑みを見せる。大きく感情が振れた様子を見せない兄を見ているとたいしたことがないような錯覚に陥るが、人間二人がこの家で死んだ事実には変わりない。急に俊吾は背筋に寒気を思える。二つの魂がさまよい出たような錯覚に陥ったのだ。

「だからあやめを傍に置くのか」

 兄が寂しさを覚えるのも不思議な話と思えたが、十年間は人間の細部が変わるのに充分な時間だ。娘を失った寂しさを、偶然出会った少女で埋めようと考えるのも理解はできた。

 兄の答えは、無関係だ、であった。

「あの子はいい可能性を持っている。しかし一人ではそれを活かしきれずに若くして落ちぶれていくのが関の山だよ。そう思ったから助けてやるつもりだった。その後のことは考えなかったが、見過ごせば二度と会えないからな。手元にとりあえず置くことにしたんだ。お前がその後来たのは、半ば偶然だったがな」

「半ばとはどういうことだ」

「どこかでお前にあやめを託そうと思っていたのかもしれないということだ。三日前はあやめに無理を言って車を呼ばせ、あの町の入口に来た。そうすればお前に会える気がしたんだが、誰よりも信じられるのは肉親だったということだな」

「そのお陰で、俺は迷わされている。兄上に会わなかったらきっと今日も木賃宿でのんびり新聞でも読んでいたよ」

 その記憶をさかのぼれば、ていとの会話から逃れるように新聞を買いに行った経緯があったが、もう少し長くていと話しをしていれば、兄との再会もなかっただろう。

「あやめのことは好きになれないか。そう思うのもわからないでもないが」

 苦笑する兄は、いけ好かないと思ったか、と訊いてきた。的確な言葉に俊吾は声を詰まらせた。

「頭がいいし、子供らしく感覚も鋭いところがあるから、心の中を探り当てられるような嫌悪感を覚えたことがあるだろう。特に何をするでなくても、隠したいものを探り当てられるのは誰でも嫌なものだからな。特にあやめは、何が正しくて何が正しくないかの判断がまだつきかねるほど幼い。だから大人には嫌われるんだろう、養家との折り合いが悪かったのはそういう理由だ」

 子供らしさとして微笑ましく見つめてやるべき欠点ではないかと俊吾は思ったが、それを期待できるのは血の繋がった親だけなのかもしれない。あるいは子供を養う余裕がある親であろう。音吉が頼った養家には、それだけの余裕がなかったのだろうか。

 どちらかと言えば、周りの大人に問題があったと思うと、急にあやめが哀れな立場に思えてきた。

「私は特別なことをした覚えはない。ただあやめのやることを認めてやって、傍に置く対価として身の回りの世話を任せているだけだ。たったそれだけのことでも、あやめには新鮮だったんだろう。まさか敬称を使うほど慕われるとは思わなかったよ。そうでなかったらお前にその後のことを頼みはしなかったところだ。実の子供に構わなかった私らしくもないな」

 そこまで一気に喋ると、直一は大きく息を吐き出した。

「喋りすぎて少し疲れたよ。横になってもいいか、これでも病人でね」

 頷く前に直一は仰臥する。元々他人の言葉を聞かない男ではあったが、病人となった今では、体を支えるのも苦しいのだろう。病魔に体力を奪われた哀れっぽさを思い、邪魔したな、と俊吾は低く呟いた。

 兄に対しては舌に馴染まないのか、全身にくすぐったい思いが広がる。

 直一もまた、お前がそんなことを言うとはな、と意外そうに言った。

「病人の兄だからな。それなりに気遣ってやりたいとは思う」

「十年もお互いに探さなかった者同士の接し方でもないだろうな」

「そんなことはないだろう。赤の他人でしかないあやめと兄上の関係より、はるかにわかりやすいと思う」

「肉親か。死に際にならないと意識できない私は冷たいかな」

「そうだな。そして俺も同じだ。死を間近で見ない限り意識しなかったんだからな」

「兄弟だな、私たちも」

「嫌なところで納得しないでくれ」

 すると不思議に笑みがこぼれる。苦笑かおかしさからくる笑いか判断がつきかねたが、持続時間の長い笑いである。一頻り笑い合って立とうとした時ふすまが開き、あやめが姿を現す。

「薬の時間が。もう五時になります」

 再び体を起こした兄を見下ろし、俊吾はあやめの傍を通り過ぎる。

 その瞬間、食事の時ですが、とあやめが呼び止める。

「相席してくれませんか。少し遅くなりますが」

 お前とか、と俊吾は意外な思いで訊き返す。この一ヶ月間ずっと一人で三食を摂ってきたし、俊吾にしてみればそれが当たり前だったから感じることは何もなかった。あやめの方も、興味を抱いているような素振りは見せていない。

「ええ、一度話してみたくなって」

 二人きりでの話なら以前やったことがある。食事の時を選ぶ理由がわからないが、あやめにも仕事があるようで、深く追究も考えもせず、俊吾は申し出を受けた。夜九時に、というから、いつもより二時間ほど遅い時間となる。

 十年前に置いていった本を適当に読み流しているうちに時間が過ぎ、あやめが呼びに来た。いつも食事を摂っていた居間には二人分の食事がある。どちらも主食と副食が三品、汁物が一つという、取り立てて変わったところのない構成であったが、あやめの方が量は少なかった。

「それで大丈夫なのか」

 気遣うと、食材が足りなくて、という答えだった。

 初めて出会った時から印象的な鋭い瞳が真っ直ぐ見返してきた。どことなく責められているような気分に囚われるが、声音に不遜な響きがあって間違っていないような気がする。二人分の食料しかないところに自分が来たから、あやめ自身の量を減らさざるを得なかったのかもしれない。どう見ても友好的でない眼差しと声から、そんな推察をした俊吾は、分けてやろうか、と申し出る。

「結構です」

 他には病人の兄しかいないことで静まり返っている部屋の中で突っぱねるあやめの声は、妙に強い張りを持って響いた。余計なことをしないでほしいとまで思っているような返答は、食事の量を減らしても平気だと、自分自身の胆力を誇示しているつもりようにも見える。

直一はあやめが幼いと言っていたが、それはこうした勘違いから来ているのかもしれない。やせ我慢や背伸びは、却ってその人物の幼さを露呈させることになりかねないものだが、あやめはそのことを知らないのだろう。

「そうか、それならいい」

 俊吾は頓着せずに引き下がる。自分の思いは正論ではあるが、それを指摘してあやめの気分を害する必要はない。特にあやめは、孤立した中で生きてきたことに自負さえ覚えているような印象を、不遜な態度や強気な眼差しからうかがい知ることができた。

「俺と話をしたいらしいが。わざわざ食事の席で」

 藪蛇を避けるために、俊吾は話を本来の道筋へ戻した。

「わたしのことです。わたしの頼りを引き受けてくれますか。一ヶ月経って、考える時間は充分だったと思いますが」

 俊吾は漬け物に箸をつけた。箸が皿に触れ、きゅうりを噛む音が答えのように発せられる。

「やっぱり別のことに逃げるんですね。何もない場所で切り出すより、逃げ道があった方が話しやすくなる気がしたので、食事の相席を頼んだんです」

 まだ咀嚼が不充分なきゅうりを飲み込み、俊吾はむせた。あやめに最初の段階で会話の主導権を握られたように思え、腹立たしいと同時に怖くなる。この気持ちは彼女と接した大人の多くが抱いて、やがていけ好かないとかかわいくないといった感情へと純化されていったのだろう。それがあやめの孤立を招いたのだ。

「人を見下すような言い方はやめておけ。だから孤立するんだ」

 むきになった物言いは大人げない。そう思ったのは、あやめの方も気色ばんだからだ。

「わざとやってるわけじゃないです。わたしの気になることを、周りの人たちが無神経にするからです」

 他人のせいにするな、という言葉を俊吾はすんでのところで飲み込む。あやめは頭がよく感性に優れているが、心が大人と並ぶほど育っているわけではない。大人の方が冷静さを失うような状況なら、あやめの方が一層程度はひどくなろう。

 俊吾は軽く息を吐き出し、味噌汁を口にして口の中を潤し、冷静さを取り戻そうとする。

「俺と言い争うつもりはないだろう。俺にもないんだ。話したいことはそんなことじゃないだろう」

 あやめは黙り込んで下を向いた。自分の子供であれば叱ってやることもできただろうが、他人の子供だという思いと、深入りしたくないという思いが妨げる。

「本当に頼れるのは俺しかいないのか」

 そうであれば、音吉も最初から自分に頼みはしなかっただろう。そうとわかっていたから、あやめの否定にも落胆はしない。

「貧民窟まで落ちた人のことなんて知らないようです。養家の方も、仕方がないからとあからさまに言いましたから」

 血縁の有無にかかわらず、育てている親に愛されぬ子供は哀れだ。そして、その愛のなさがあやめの利発さと結びついて不遜さを生んだのだろう。あやめの不遜な態度はそのまま人を遠ざけ、隙を見せないことにもつながってくる。子供の粗を探し、ともすれば追い出す材料にしようとする親だったのかもしれない。そうだとするなら、音吉の逮捕は絶好の機会だったのだろう。

 言葉が思いつかずに生まれた間を、俊吾は食事に手をつけることで埋めたが、それはあやめも同様のようだった。元々あやめが、今後のことについて話をしにきたのに、答えを言うべき男が黙っては会話の続けようがなかった。

 元々量の少ないあやめの方が先に食事を終えると、彼女は俊吾の食事が終わるまで正座で待った。俊吾に会話の糸口を期待しているのか、それとも自分自身できっかけを見つけようとしているのか見分けのつきかねる無表情である。眼差しだけが相変わらず鋭く、喋らないことを責めているような気分に陥った俊吾は、お前の大事なことは見つかったか、と尋ねた。

 あやめは不意を突かれて背を押されたように、瞬時の反応をし損ねた。

「もうすぐお前は、兄上の傍での暮らしを失うだろう。前に訊いたと思うが、お前が幸せな暮らしの条件のように考えているものを失うことになる。そのことはわかっているか」

 身分や金といった、恵まれた暮らしを送るための条件を自分で捨てた俊吾のことを、あやめは不思議な人として捉えているようだった。病気やけがの心配が少ない生活を恵まれているとする昨今の常識に乗った価値観を持つあやめは、兄の死に際してどれほどの痛手を被るのか。

「仕方のないことでしょうね。覚悟は出来ていましたから」

 あやめの態度は事もなげである。言葉で答えを作れるほどの想像は巡らせているものの、実際に兄を喪った時にどんな心の動きがあり、状況がどう変わるのかまで捉え切れているようには見えない。

「覚悟を固めるのは立派だな。ただ、大事な人を喪うのは辛いぞ。それが想像できているか。お前のすることを認めてくれた人が二度と現れなくなるんだ。それがどういうことか、わかるのか」

 それまでどの女に対しても向けたことのない愛情を理解し、受け止めてくれた女がいたことはこれまでの人生で最大の幸福であったと思うし、それを亡くしたのは並ぶもののない不幸であったと思う。あの何もやる気を起こせず、女の幻影を追い求めることさえあった日々に陥ったのは、誰の癒しも受けなかったせいではなかったか。

 孤立しがちなあやめは、自分と同じ轍を踏むのかもしれない。そう思うと現実的な問題の前に感情だけで決めそうになる。同時に冷静な思いが共倒れになると警告を発する。あやめを引き寄せれば、そのまま元綱町まで一緒に帰ることになる。その後の暮らしのことは、思い描けないのが辛かった。

 あやめは答えず、黙り込んだ。苛立ちを喚起する態度ではあったが、自分の手に負えない問いかけを投げかけられた子供の取る態度としては、自然なものだろうと思い直すことにした。

 程なくして俊吾も食事を終え、あやめに片付けを任せると、早々に部屋へ戻ろうと腰を上げる。

 その動きをあやめは、本を、と呼び止めた。

「わたしにとっては本を読むことが大事です」

 俊吾は努めて短い返事に留め、部屋へ戻る。今の時代に生きる女が、最も見つけにくい幸せを目指しているあやめが、元綱町でその夢の続きを見ていられるのか。いつしか俊吾は、子供の夢を支えられる兄が、今更のように大きな存在に思えていた。

 

 翌朝俊吾は、朝食を終えた後自然に兄の元へ足を向けていた。相手もある程度来訪を予測していたようで、来たか、という言葉には思い通りになったことへの満足が含まれていた。

「昨日あやめに説教を垂れたそうだな」

 兄は初めから上体を起こしていた。あやめが話をした内容からも、来訪を予測していたのだろう。

「思った通りのことを言っただけなんだが」

 説教という言葉が不遜な気がして、俊吾は否定にかかる。

「大人が子供に対してそうするのは説教となるものだよ。私には言えないことだったから、感謝したいぐらいだがな。妻子を喪ったことを、寂しいとは思っても悲しいとは思えない私では、お前のような説教を垂れることはできなかったよ」

「だから説教というのはやめろ。そこまで偉ぶったつもりはない」

 わかったよ、と兄は喉の奥で笑った。からかうようにして面白がっていたのだろう。

「まだ決心がつきかねているそうだな」

 兄の態度は、似つかわしくないほど朗らかだった。そして大事に扱っている娘の今後が決まらないことで不安を感じているようにも見えない。自分が死ぬまでに何かが起きることを信じている表情をしていた。

「別にあやめを傍に置くことが嫌なわけじゃない。ただ、自信が持てないんだ。兄上のように、あやめに不自由ない生活をさせられるはずがないだろう」

 だから見捨てるというのでは、あやめがあまりに不憫だろう。信じるに足る知り合いでもいれば託せるのだろうが、俊吾の記憶に引っかかるほどの人はいない。

 すると兄は、そんなことか、と事もなげに言った。

「あやめにとって、生活の不自由など些末なことだよ。ただ、不完全な形でも家族があればいいそうだ。お前にその資質を見出しているんだ。お前がいくら貧乏でも、その資質がある以上充分に資格はある」

「そんなことを言っていたのか。俺には言わなかったことだ」

「信じられていなかったということだろう。だがあやめは、お前についていくことを嫌がってはいない。あとはお前次第だ。お前が決意を固めれば、あやめは信じようとするはずだ」

 兄の言葉は、別れる以前とは比べものにならぬほど素直に俊吾の耳へ染みこんでいく。死を間近にしたことで心根が研ぎ澄まされたのか、あるいは自分自身の目が過去の悪感情を乗り越えて澄んだのか。兄の死に際にして初めて、俊吾は彼を素直に頼ることができた。

「兄上、今日の調子はいいのか」

 そう尋ねると、脈絡のなさに戸惑いながらも、元気な方だな、と応じる。

「少し遠くへ出かけてもいいか。元綱町へ一度戻りたい。今日の内には帰ってくるから」

「好きにするといい。私も喋り疲れたから、休ませてもらうよ」

 兄が仰臥したのを見届けて、俊吾は彼の傍を立つ。

 あやめに出かける旨と、昼食はいらないことを伝えて、俊吾は人力車を呼んだ。ていに宿を任せて出ていってから間もなく二ヶ月になるが、境の寺が妙に懐かしいものに見える。俊吾は急ぎ足で慣れた道を抜けていく。

 退屈を持て余す顔で帳場にいたていは、俊吾の顔を見るなり、いくつかの気持ちが入り交じった顔で近寄ってきた。

「お兄さん、死んだの」

 気遣うように潜められた声で、ていは直接的に訊いてきた。決して器用な女ではないから仕方ないと思いながら、まだだ、と応じた。

「一度訊いておきたいことがある。前に俺と一緒になりたいと言ってたが、それは母親になりたいということでもあるな」

 急にどうしたの、とていは戸惑いを見せる。

「食わせてやるのはいい。ただ、お前も子供のために食わせてやれるのか」

「そうしたら、一緒になってくれるの」

「真剣に考えろというから、そう考えてみた。兄上の死を見届けたら、俺は一人の子と一緒にここへ帰ってくる。その子は肉親とたいして強い結びつきを作れないまま生きてきた。そういう子を引き受ける責任は重い。お前もそれに乗れるのか」

 家族を養えなくなった音吉は、十年前に知り合った時にも娘の話題を出したものの、その内容は決して深いものではなく、娘がいることを伝えるだけにすぎなかった。あれは語りたくても語れないほど、親子の結びつきが弱かったせいではなかったか。

「あんたのためだけでなく、その子のためにってことか」

 ていもまた表情を改める。時代の流れに乗りきれず、何も持たないまま歳を重ねていくしかないと諦めていた女の奥から、母親になろうとする胆力が沸き上がってくるのが見えた。気に入った男と添い遂げる欲望だけでなく、何の関わりのない子供でも愛すると決めているようだった。

「いいよ、早く連れてきな。そんなこと言ったらいけないか」

 ていは苦笑して、母親でも何でもなってやるよ、と言い、俊吾を送り出した。

 

 兄は更に一年を生きた。急速に衰えていくのでなく、階段を下りていくように命の火を弱めていったから、俊吾もあやめも死期をある程度予測できるほどで、二人であと三日ぐらいではないかと話し合ったらその通りになった。

 俊吾は兄の死後、あやめを引き取り、元綱町で知り合った女と共に養っていくことを事前に告げていた。そうか、と応じた兄の声に、再会した時に見せた元綱町という町への蔑みはなく、弟の決断を認め応援するような清々しさが宿っていた。俊吾の兄への悪感情は既になく、彼は生涯をかけて自分自身に向けられた悪感情を取り除いたのだろう。

 葬儀を終えた後、俊吾は父が遺し兄が引き継いでいた事業が他人の手で営まれていることを知った。元々秩父の養蚕農家でしかなかった大竹家のこと、引き継ぐ者が変わっても大きな損失にはならないだろう。俊吾は全て関わりのないこととして、兄と最後の時を過ごした屋敷も事業主の一人に渡した。あやめと共に元綱町へ帰る前に、大竹家の痕跡を消すような作業をこなし、それが終わるまで半年を費やした。

 もしかしたら「きぬや」はなくなっているかもしれない。元綱町の境の寺をあやめと共に通る時そんな懸念に囚われながらぬかるんだ道を歩いたが、「きぬや」は変わらずにあった。帳場での仕事にも慣れた様子のていに出迎えられた時、思いも掛けない形で家族ができたことを実感した。

 俊吾は宿を閉めた後、二人をきぬの仏壇の前で挨拶をさせた。ていには三年できぬの後釜に座ることの許しを、あやめには二人が望んでも叶わなかった子供として、新たな女との間に子供として生きていくことを。

 ていとあやめは、ずっと俊吾が一人で眠ってきた母屋で眠りに就き、それを見届けた俊吾は冷たい酒を杯に注ぎ、きぬの位牌と共に縁側へ出た。

 ていとあやめがいる暮らしは、きぬと紡いでいった記憶を徐々に埋めていくのかもしれない。最愛と位置づけながらあっけなく逝ってしまった女を、いつまでも広く深く記憶しておきたい気持ちは今も残る。

 それは支えであると同時に枷であったように思う。一人の人間を愛した上等な人間と思う一方で、きぬに関わりのない物事を無意味なものと位置づけるようになった。きぬの記憶を埋めていくということは、枷を外していく行為に似ていた。

「ようやく子供ができたよ。お前の子供じゃないが、見ていてくれよ。俺たちが欲しがった家族の姿を」

 俊吾はきぬが逝った後からずっと感じていた枷が、ようやく外れたような気がした。きぬ以外の人間でも愛することができると、一人になって三年目でようやく気づけた。家族を養っていくことを、四十に到達してから初めてすることに不安はあるものの、枷を外して素直に他人を愛していくことの心地よさと隣り合ったものかもしれない。俊吾はかつて愛した女と、これから共に生きていく家族の間にいる自分自身が、家を捨てた時のように新たな生活を恐れずに踏み出していける勇気に満ちていくのを感じていた。

 

2012年5月作品

                                   〈了〉