yuzaのブログ

幕末から明治を舞台にした小説を中心に載せています。

煉瓦の点景

 日が昇りきらない明け方とはいえ、四月にしてはひどく冷たい空気である。煉瓦積みの続きをしに、父を含めた日傭者たちが集まってくるまであと二刻といったところだろう。父と共に暮らす仮小屋と、去年大火事に見舞われた銀座で積み上げられていく煉瓦を見比べながら、五郎は今年の春の遠さを思った。

 五郎が父と共に銀座を訪れたのは火事の後だ。皇居の東側、和田倉門から出火した炎が遠くへ広がっていくのを、五郎は芝の長屋街から見ていた。銀座が銀貨鋳造所の街だったのは遠い昔の話で、五郎が物心ついた幕末動乱期には完全に場末であった。火はもちろん風にさえ耐えられなさそうな長屋ばかりが建ち並び、名前と歴史が立派なだけで、新網町を擁する芝と中身はどっこいどっこいというのが率直な感想だった。

 京橋や築地はどうか知らないが、焼け野原となった銀座には煉瓦が積み上げられている。それがいずれは建物となって、西洋風の頑強で火事にも強い街を作るという。

 更に広くても六間しかなかった道も、最大で二十五間まで広げられる計画があるというが、それはこの辺りではないらしく、五郎が毎朝歩く道は狭いままであった。

 作りかけの建物と焼け跡とが混在する道を半刻ほど歩くと、西洋風とはほど遠い町家がある。五郎は戸の傍に立てかけられた箒を持って前の道を掃く。ちりとりに入るのは見比べないと砂粒との違いがわからないような小石ばかりで、希に鳥の羽などもある。煉瓦の建物を造る日傭者を除けば、居着く人間の気配が希薄な分汚れも表れにくいようだった。

 箒を持ってから半刻も経たないうちに主人の惣兵衛がやってくる。町家は彼の持ち物で、御一新よりも前から茶屋を営んでいたらしい。大火でも運良く焼け残ったが、妻と娘が命を落とし、手伝いを探していたところ移り住んできたばかりの五郎が手を挙げた。

 妻や娘の代わりになるような女を探していた彼にとっては、下男というのは論外だったと見えて、訪ねてきた時はとりつく島もなく戸を閉めたものだ。

 父は煉瓦街の建設に従事する日傭者の一人であった。住まいは仮小屋が用意されたが、肉体労働故にけがの危険がつきまとったし、体を壊した日には職と住まいの両方を失う羽目になる。子供心に危うい生活を営んでいることはわかっていたので、惣兵衛が折れるまで諦めなかった。

 初めて日銭をもらって父にそれを見せた時、小遣いにしかならないと言いながらも確かに笑みをこぼしていた。御一新で一国の何かが大きく変わりながらも、蚊帳の外に置かれて燻る内に感情が死にかけていた男が、小僧の小遣い程度の金で甦ったように見えた。

 主人の惣兵衛は客には愛想良く、下男には無愛想な男であった。しかし嫌みに感じないのは、手堅く仕事をする上理不尽な言動や仕打ちが全くなかったからであろう。日銭は必ず決まった額をくれたし、繁盛と言えないまでも客が切れることは一日もなかった。

 客の大半は日傭者で、集団で騒々しく乗り込んでは勢い込んで飲み食いをし、突風のような勢いで去っていく。父は決してそのような類の男ではなかったが、同じ仕事をしている人々ということで、何となく後押しをしてやりたい気分にもさせられた。

 朝早くから働く内に午砲が鳴った。皇居本丸の砲台から、陸軍砲兵連隊の号砲係が毎日正午に空砲を鳴らしているもので、東京府の市民に正しい時刻を知らせるためだという。『ドン』と人々が呼ぶ午砲が示すのは、御一新以前の九つである。

 去年は師走が三日過ぎたらもう新年であった。月を見て決めていた太陰暦が、太陽の動きで決まる太陽暦なるものに切り替わったためだそうだが、その急激な変化についていける者は少ない。五郎も未だに、一日の時間を十二等分で考えてしまうが、新しい暦では二十四もの区切りをつけるらしい。更に『刻』ではなく『時間』『分』『秒』なる単位まで現れた。

煉瓦街建設の作業は午砲が鳴ると一旦休憩となるため、客足がわずかに伸びる。時間が来て仕事に戻る彼らを見送った後、五郎と惣兵衛の休憩が始まる。

 惣兵衛から受け取った小銭はいつもより多かった。

「たまには多く食え」

 無愛想には変わりなかったが、押しつけるように渡されると願いを託されたような気分になった。

 午砲から約二時間は、裏店があったと思われるじめじめした土地に残飯売りがいる。五郎が来る頃にはめぼしいものが売れてしまっているが、それでも白い部分の多い握り飯が三つあった。普段なら二つしか手に入らないところ、今日は懐が温かい。

 握り飯を持って向かったのは煉瓦街の建設現場である。そこで一人座っている父の由吉に声をかけると、疲れのにじむ笑みを細面に浮かべた。

「何だ、今日は三つあるのか」

 由吉は握り飯を見て掠れた声を出した。彼は自分で食事も用意するが、小屋の賃料や仕事道具などの雑費を引いた残りで買えるのは握り飯一個分が限度である。それに五郎が買ってくる食べ物を加えて、ようやく事足りるようだった。

「惣兵衛さんが多く持たせてくれたから」

 そう言って五郎はお互いの手に握り飯を持たせ、余った一個を半分に割った。具が入っていないお陰で分け方は単純で済んだ。

「お前が食え。子供はよく食べるものだ」

 分別臭い言葉の向こうで、小さく腹の虫が鳴ったのを五郎は聞いた。

「体を使う人が何言ってるの。お父がいなかったら三つも買ってこなかったんだから」

 五郎が引き下がらない態度を見せると、由吉はあっさり折れた。争いごとが嫌いなのか、相手と争うような気配が漂うとすぐに譲ってしまう。

 行き過ぎているとさえ思う控え目な態度は、我の強い者が多い建設現場では馴染まないように見える。彼は決して愚痴をこぼすことはなかったが平気を装うことまではできないようで、休憩時間に訪ねるといつも疲れをにじませる姿だった。

「日傭の仕事、大変みたいだね」

 父は一瞬言葉に詰まるが、そんなことはない、とやけに強い口調で言う。却って苦しんでいるのが伝わってしまうのだが、そうすることで息子に余計な気を回させないようにしたいのだろう。

「子供が気にすることではない。お前は大人しく学を身に着けていればいいものを」

 故意にせよそうでないにせよ、息子に弱みを突かれた時に飛び出す口癖であった。酔っているかのように一語一句同じだし、父が滞りなく働けている内は、確かに無理に働く必要はない。

「おれが働かなかったら、お父だって困るだろう」

 由吉は黙った。彼の弱みを上手く突いたようだ。

 憂さを晴らすように握り飯にかじりついた父を横目に、五郎は焼け跡の上に積まれていく煉瓦を眺めた。まだ建物の形を成してはいないが、かなりの速度で煉瓦の街は造られている。場末が先進に変わるのも遠くはない気がした。

「俺がもっと、人に迷惑かけない仕事ができるならなあ」

 作業が止まり、一時静かになった更地を見渡しながら、由吉はぽつりと呟いた。簡単に見透かされるとはいえ不満を漏らさず我慢している父が、誰に迷惑をかけているというのか。

「おれを気にしなくていいって言ってるだろ」

 父の人付き合いなど聞いたことがなく、迷惑をかけられるとすれば自分自身しか、五郎には思いつかなかった。

「いや、お前のことじゃない」

 静かだがきっぱり言い放った。父は嘘がつけない。だからこそ迷いを感じない言葉には真実味がこもる。

 追及しようとすると、握り飯の残りをほおばって父は立ち上がった。

「ここで元々暮らしてた連中は、どこ行ったんだろうな」

 謎かけのつもりか、父は反応を見ずに背中を見せて遠ざかった。間もなく作業場の休憩が終わる。部外者は荒々しい日傭者に邪魔者扱いされるだろう。

 とばっちりを受けまいと、五郎は茶屋へ戻る。惣兵衛は既に仕事を始めていたが、時間通りだったためか何も言わずに迎えた。

 元々銀座で暮らしていた惣兵衛を前にすると、父の言葉が気になってくる。何気なく付き合いのあった者のことを聞くと、彼は建設中の煉瓦街へ目を向けた。

「さあ、どこ行ったんだろうな。巡査の連中に小屋を追い出されとったな。お前には言ってなかったが、ここにも来てたんだ。今までは突っ返してたが、そのうちそれもできなくなるだろうな」

 惣兵衛は遠い目をしていたが、いつも静かな瞳には確かに怒りの炎が燃えていた。

 客が来ないこともあってか、惣兵衛はいつもより饒舌になって大火に見舞われた後の銀座を語った。銀貨鋳造所の街だった頃の面影もなく、茅屋に毛が生えた程度の店ばかりがひしめき合っていた土地には、火事の後新たな建物を造ることを禁じられている。西洋風の、火事に強い街を造るためであり、路頭に迷っている元々の住人たちのことは何一つ考えられていない。異人たちが出してくれた義援金も、大蔵大輔井上馨によってほとんどが街の建設に回されてしまっている。住人たちのために使われた金はほとんどないという。

「御一新だ何だと大きな騒ぎだが、わしらの暮らしまで捧げる義理がどこにある」

 建設中の煉瓦街に向けられた言葉は、五郎には深い嘆きに聞こえた。

 父は上役の指示に従って機械のように仕事をしているに過ぎないが、元々の住人を踏みにじるような仕事の一端を担っていることに、罪を感じていたのだろう。そうでもしなければ自分たちは生きていけないのだから仕方がないと割り切ればいいのに、父の繊細な心は耐えられないのだろう。

「何だか、申し訳ないです」

 生きていくのに欠かせないこととはいえ、惣兵衛の話を聞くと苦しむ人を踏みつけて立っているような気分にさせられる。

「お前が謝ることはない。わしらが恨むのは無理を通す薩長の奴らだよ」

 惣兵衛は珍しく微笑んだが、自嘲の色が濃く見えた。御一新の華やかさに隠れた困窮を訴える術がない老人の立場は限りなく弱いものであった。

 そのうちに客が来て、五郎も掃除の時間となる。お互いの仕事場に分かれ、午後の時間が始まる。

 日傭者が限られた数しか通らない店先は見た目にはほとんど変わりないのだが、風がわずかに塵を運んでくる。腰を屈めて掃き取る五郎は、道の対岸に昼はいなかった少年を見つけた。

 積みかけの煉瓦の壁に背を預けるように座り、横にした紙をのぞき込んでいると見えたが、目と顔の動きを見ている内に正面の景色を紙に描き込んでいるのだとわかった。

 何となく見ていると視線に気づいたのか紙面から顔を上げた。五郎は目を逸らしたが、ほんの一瞬だけ目が合った。

 興味があるなら話しかけてもいい。そう言っているように開放的な表情を宿して見えたが、一瞬しか合わなかった視線から詳しく探ることはできず、五郎は目を逸らしたまま掃除を続けた。

 日傭者にしては小ぎれいな見た目だったが、街で見た覚えはなかった。日傭者は独り身が多く、元の住人が追い払われた銀座に同じ年頃の少年はいないはずだった。

 どこの子かと興味は沸いた時顔を上げると、少年はいなかった。素性を確かめる術もなく、五郎は掃き掃除の残りを終わらせて茶屋へ戻った。

 

 惣兵衛が店を閉め、明日の準備をしている間に茶屋の内外を掃除するのが五郎の仕事である。床や椅子を磨き上げ、外に出れば掃き掃除をする。

 茶屋はいつも日暮れの時間に閉まる。ちょうど日傭者たちの仕事が終わる時間帯であり、酒が出せない店が夜に開けていても意味はない。余計な騒動に巻き込まれるだけであろう。

 箒を操りながら、五郎は道の対岸に昼間の少年の姿を探した。真っ直ぐ伸びた道の左右を見渡してみるが、人影さえ見えない。言葉を交わしてもいない少年だが、もう一度ここへ来てほしいと思った。

 できることなら言葉を交わしたいと思う。それがかなわなくても、せめて名を名乗り合うことだけでもしたい。この銀座に移り住んで、同じ年頃の少年を見たのは初めてだった。

 掃除を終えた時、惣兵衛はまだ何かをしていたが、先に帰るよう言われた。後は主人の時間だろう。自分にはできることもないので素直に引き上げる。

 歩く内に日は落ち、建設中の煉瓦街は薄闇に落ちる。今夜は月の出ない日で、気をつけないとうっかり鼠の死骸を踏んでしまう。

 日傭者たちが住む仮小屋は基本的に四人から五人で使う大部屋だが、家族がいる者に限って四畳半の個室が与えられている。芝に住んでいた頃と大差ない、長屋のような小屋に、父が珍しく先に戻っていた。

「飯、勝手に食べてていいぞ」

 父は机に向かったまま言った。机の上には絵筆や顔料など、絵を描くのに必要な道具がところ狭しと並べられている。机と父の体だけで部屋の半分を独占しており、食卓を置く余裕はない。帰りがけに残飯市で買ってきたと思われる魚の粗と冷たい飯が部屋の隅に置いてあった。

「絵、描けてるの」

 肩越しにのぞき込むと父は風景画を描いていた。弓なりの海岸線を全体的に暗い色で描いている。まあな、と父は無愛想に返事をする。外にいる時の繊細さは見えず、集中が続けば明日の仕事も構わずに続けそうだった。

 言われた通りに用意された食事を摂り、横になっている内に五郎は寝入る。ふと明かりに気づいて目を覚ますと、ぼんやり天井を見上げる父の影が見えた。

「寝ないの」

 明日も変わらず父には力仕事がある。眠っておかないと苦しい一日になるだろう。

「やっと一作できたからな」

 父の声は抑えられていたが、奥には喜びが宿っている。絵のわかる者が傍にいたら、明日のことも構わず一晩中語り明かそうとするだろう。

 自分がその役目なら手っ取り早いのに。

 五郎はふとそう思い、何度も断られた頼みを口にする。

「俺にも教えてよ、絵を」

 行燈の弱々しい光を受けた父の横顔は、半ば呆れたように見えた。

「何度も言っただろう、やめておけと。絵なんてもうからないぞ」

「それでもお父は描いてるじゃないか」

「それは、俺にはこれしかできないからだよ。日本画なんか、もういいことねえぞ。あと二十年ぐらい、俺が早く生まれればわからなかったのになあ」

 生まれるのが遅かったと嘆くのが、絵の教授を断る時の父の癖である。父の仕事を見ている内に絵師の名前を覚えた五郎だが、彼らが描く絵は明治に入ってから急速に関心を失っている。橋本雅邦は兵部省で何かの図版を作り、狩野芳崖は養蚕業に失敗して困窮し、絵を描くどころではないと聞いている。時代の関心は江戸期に高められた日本画ではなく洋画だった。

 幕府の御用絵師や寝る間もないほど注文が入る人気絵師とは違ったが、父にも一定の評価はあって、人並に仕事はしていた覚えがある。時には徹夜もしていたし、暇を持て余す姿は見たことがない。

 それでも御一新の後は絵筆を握らない日が増えた。銀座の煉瓦街建設に従事する日傭者の仕事は、完全に生活のためであるが、その中でもガス灯の笠を鋳造する仕事に就きたかったようだ。息子の目から見ても、体全体より手を使いそうな仕事の方が父には向いているように見えるが、現実には背に腹は替えられないとばかりに日々の仕事をこなしている。

 本人の実力不足ならまだ救いはある。足りない実力を補うことに成功すればいいのだ。しかし時代が求めていないものを、父は描き続けるしかない。それ以外の絵を、父は知らないのだ。

「もう日本画の時代は終わったんだよ。俺について学んだところで、注目は浴びないわ生活は苦しくなるわでいいことなんか何もないぞ」

 そう言って父は寝転がった。投げ遣りな態度のようで、五郎には全てを出し尽くした後のように清々しい姿に見えた。

 父は愛してくれているのだろう。希望通りにいかなかった仕事を終えた後でも描きたくなる絵と同じように、息子を。その息子が、愛する絵で苦しむ姿を見たくないと思うのは当然の心情だった。

 五郎もまた、生活のために自分を殺すような日々を送る父は好きだった。その上受け入れられる可能性が限りなく低い絵を描き続ける姿勢には尊敬さえ覚える。そんな父に絵を描くなと言われると、それ以上何も言えなかった。

「友達も作れねえようなところに連れてきちまったのも、俺が洋画を失敗したせいもあるんだし」

「そんなことないよ」

 父の言葉をはね除けるように力のこもった声が出た。

 一瞬驚いた表情を見せた父は、次の瞬間には微笑んでいた。

「八つ当たりも時にはやっていいんだぞ」

 今の生活を精一杯肯定しようとしていることがたわいないことに見えたらしい。父の顔は子供の強情に手を焼く大人の表情だった。

 言葉の真意は別のところにあったが、五郎は頷くことでやり過ごす。友達という言葉を聞いた時、昼間一瞬だけ視線を合わせた少年を思い出していた。

 掃除の途中だったこともあるが、少年が見せていた開放的な視線を信じて話しかけてみることはできたはずだ。自分の気持ちが思い込みに過ぎなかったと思い知らされるのが怖くて何も言えなかったが、同じ年頃の少年がいるのなら、父が思うほど寂しい土地柄ではない。

 そのことを証明するにも、少年がもう一度現れないことには仕方がない。もう一度会えるのかな、と口に出して見たが、背を向けて寝転がった父は応えず、儚げな言葉は宙をさまよった。

 

 四月の冷え込みは翌日、翌々日と続いた。晴れ間もほとんど見えず、雪が降るような気配さえ感じる。

 おかしな天候が続いたが、仕事が休みになることはない。主な客である日傭者たちが働くからだ。

 父を含めた日傭者たちは、時に夜明けと同時に働き出す。一度焼け野原になったこの街は生まれ変わるのに急いでいるように見えた。絵図を描く者の頭に自分たち親子や惣兵衛の姿はない。煉瓦街が完成したら店はなくなるのだと惣兵衛は思いの外すっきりした顔で告げた。

「日傭者の連中がひいきにしてくれてるお陰だな。少なくともいきなり渡世人がやってきてぶっ壊すようなことはしないだろう」

 惣兵衛が恐れていたのは、積み上げてきたことが急に理不尽な暴力で潰されることだったのだろう。そのことを恐れて働かなければならないと思うと、時に仕事が手に着かなくなるような気がした。

「お前の親父にも、できるだけ手を抜けと言っておけ。この街が完成しない限り、息子が稼げるからな」

 安堵が口を軽くしたのか、惣兵衛はいつもより饒舌で朗らかだった。

 惣兵衛への共感もそこそこに、『ドン』を聞いた五郎は食事を買いに行った。父に買ったものを届けに行き、休憩中の現場を眺めながら語らい、時間になると互いの仕事に戻っていく。五郎は戻る時、茶屋の向かいに少年の姿を探していた。

 姿が見えないと落胆する。もう一度会うことができれば声をかけてみたいと、思いを日ごとに強くしていくのだが、肝心の相手が現れないことには思いの向けどころがない。

 姿を見なくなって一週間経つ頃には諦めが漂った。彼は街を通り過ぎるところ、何かの気まぐれで立ち止まったに過ぎないのだと思うことにした。元が気まぐれであったなら、二度出会えないことも当たり前だろう。

 やがて幸運な再会を望む気持ちは薄れ、小屋と茶屋、父の仕事場を行き交う日々に戻った。変化に乏しい日常ではあったが決して不満ではなかったし、興味のあることが始められないことを除けば、父も惣兵衛も元気に過ごしていて、ある程度は充実した毎日だった。

 

 四月にも関わらず気温がなかなか上がってこない日々だったが、とうとう夜明け前の短い時間に雪が降り、うっすら積もった。

 そのことを除けば、建設途中の銀座はいつもと変わらない流れを過ごす。五郎は夜明け前に茶屋へ向かい、父も他の日傭者に交ざって仕事をする。手がかじかんで指先の微妙な動きは期待できず、この中でやる工事は危ないものに思えて、五郎は父のけがを心配した。いつもより休憩時間が待ち遠しく、許しが出ると同時に五郎は急いで父に会いに行った。

 果たして父は、いつも通りの疲れがにじむ笑みを見せた。

「何焦ってるんだ」

 清々しい笑顔とまではいかないが、とりあえず無事な姿を見られて五郎は安心した。

「今日は工事するには危ないと思って」

 素直に心情を吐露する。父は人間的にずば抜けた資質や魅力を持っている男ではないが、その分自分にしかわからない絆を感じさせる。惣兵衛よりも素直になることができた。

「手を潰したら絵が描けなくなる。そうならないように気をつけてはいるさ。心配することはない」

 表情が少しだけ柔らかくなった。それに応じ、五郎も不安感が和らぐのを感じる。

 絵が描けなくなった父は、生き甲斐の一角を失うだろう。そのうちの一つは息子であるとしても、一人の存在で絵に生きてきた男を支えられるかわからない。

「また描くんだね」

 日傭者としての仕事と、絵師としての活動。この二つを父は休みなく繰り返している。どちらも欠かすことができないとはいえ、ある程度の無理が利かないと続かない生活だろう。

 それがいつまで続けられるのか。職人めいた独自の世界を持つ父は、絵筆を握ったまま死ねれば本望とどこかで考えているようにも見えるが、それでは残された自分が困ってしまう。銀座の街が完成すると同時に店を手放すと決めた惣兵衛にはいつまでも頼れない。一人で生きる力が希薄な自分が頼るのは、やはり父親だった。

「描くさ、俺のために。お前のためじゃないが」

 頼りなげな父も、絵のことになると芯の強さを見せる。釘を刺すことも忘れない。ここ一番の強さを持っているからこそ師として仰いでみたい気にもなるのだが、本人がそれを拒んでいるのではどうしようもない。

 最も身近なところにいる絵師が、自分の描く絵に未来はないと言う。そう言われ続けると、いくら絵に興味を持っていてもその楽しみが結実する日が来るのは夢という気になる。五郎は食い下がれなかった。

 握り飯をたいらげて互いに仕事へ戻ろうとした時であった。背広に身を包んだ男が視界に入る。ほこりっぽい建設現場の雑然とした感じには似合わず、一瞬横浜あたりの異人のように見えたが、顔は紛れもなく日本人だった。

「何だろう、技師かな」

「まさか。技師は異人だったぞ。お雇いとかいう」

 今までの日本になかった建物を造る指揮を執るとすれば、日本人より外国人の方が相応しいのだろう。焼け跡に積み上げられていく煉瓦が、どこでどのように作られているのか五郎には想像もつかないし、多くの日本人もそうだろう。土を焼いて建物に使うという発想は屋根瓦しか思いつかない。

 男の後ろに小柄な少年が駆け寄った。彼も日本人のようで、やはりこの場には似つかわしくない小ぎれいな格好だった。

 男は少年に何かを語りかけて現場の奥へ立ち去った。残された少年は煉瓦に寄りかかって手に持った紙を広げた。

少年の顔と目は明らかに何かを追いかけており、その手が捉えた情報を描き出しているのは明白だった。

 煉瓦と少年の姿勢に、五郎は目を見張る。一週間前に店先で見た景色と重なった。

「五郎、戻らなくていいのか」

 父に促されて、五郎は少年に未練を残しながら建設現場を離れる。休憩をそれぞれの場所で終えた日傭者たちが戻ってきていた。

 日中曇りで持ちこたえた空だったが、夕方になると再び雪を降らせた。水気の少ない軽い雪で、踏みつける感触も小気味よいものであった。

 店じまいの準備をしようと店先に出ると、五郎は対岸に少年を見た。和傘を置いて紙が濡れないようにして、紙面と正面を互いに見比べている。

 彼を見ているとやがて視線が交錯する。忙しなく動いていた視線が止まった。

 少年は何も言わなかったが、代わりに何かを訴えかけるように意思の強い目で見つめ返してきた。

 彼が望むことを何となく理解して五郎はその場に立ち尽くす。すると少年の視線は紙面と正面を行ったり来たりするようになった。

 五郎は箒を持ち、少年を見つめ返す姿勢のままで立ち尽くした。彼がそう望んでいるから、応えてやりたかった。

 途中で惣兵衛が出てきて、何してるんだと怪訝な面持ちで尋ねてきた。絵を描いてもらっていることを説明しても納得しかねる様子だったが、自分の仕事が終わるまでに帰るのならと彼は店に引っ込んだ。

 惣兵衛と短いやり取りをしている間にも少年の筆は止まらなかった。雪が降っているから冷え込みは時間が経つごとに厳しくなる。少年の傘にもうっすら雪が降り積もっていく。早く終われと念じる一方で、五郎は絵を描く少年の姿そのものに惹きつけられていた。

 環境のせいとはいえ、自分とは違う道を歩んでいる少年に、うらやましさを通り越して憧れている。五郎は偶像を見るような思いで、雪と空気の冷たさに耐えていた。

 二つの対象を行き来していた少年の目はやがて止まる。描き出すのを終えたのかと思った時、昼間に見た男が現れる。少年に何か話しかけると、彼らはそのまま立ち去ってしまった。

 また言葉を交わすこともできなかったと思ったが、相手が会釈をしてくれたから前向きな気分になって再会を信じることができた。

 翌日は晴れ渡ったが父の仕事は休みで、休憩時間に現場へ向かう理由はなかった。それでも五郎はいつものように現場に向かった。父ではなく、昨日現れた少年を探す。

 彼の素性はわからないが、日傭者のように不安定な日々を送る者ではないだろう。絵を描く時の穏やかな表情など、見た目からして余裕を感じさせた。

 結局その日は現れず、店先にも姿を見せなかった。

 現れない日が折り重なるうちに四月は春めいた陽気を深めて、下旬にさしかかる頃には雪の降った日を忘れるほどの温かさとなった。

 雪のことを忘れるのは、少年との出会いが遠ざかっていくことでもある。少しずつ形を成していく街ができあがった時、親子共に仕事はなくなってしまう。そうなったら一層会う可能性は少なくなる。

 もしかしたら二度と会えないのではないか。そう思うと、五郎は落ち着いていられなくなる。春が初夏へ移り変わっていくにつれてその焦燥は強くなり、造りかけの街を当てなく歩き回った。

 足は知らず知らずのうちに汐留川に向いていた。川に架かった新橋を人力車が通り過ぎる。車道は鉄橋だが左右の歩道は木製で、渡ると芝に入る。親子で去年渡った橋でもあり、川を渡れば昔住んでいた長屋街に戻るのも容易い。

 物心ついてからの数年を過ごした土地は、格別な思い出も捨て去りたい過去もなかったはずだが、川越しに眺めると不思議に懐かしくなる。大火は銀座で止まったから、芝の方まで被害はない。ほんの一年離れていただけだが何も変わっていない街は、体裁を大きく変えていく街の中にいるとすがりつきたいような安心感を放って見えた。

 歩むべき道に迷って立ち尽くしていると、芝の方へ人力車が通り過ぎていく。その客席を何気なく見上げた五郎は目を見張る。探していた少年が座っていた。

 五郎は人力車を追って駆け出した。車を引いているにもかかわらず、車夫の足は速い。瞬く間に距離を離された五郎は橋を渡りきったところで見失った。

 船が三艘も並べば水運が滞ってしまうような幅の汐留川を渡っただけだが、全力で走ったせいで、足を止めると息苦しさがこみ上げてくる。目標を見失った五郎は、とりあえず昔住んでいた長屋街を目指した。

川越しに見ていたのと同じく、一年ぐらいでは変わりようもない。注意すると気づく何かの腐敗臭や湿っぽい空気に、昔に比べて敏感になっていることに気がついた。日傭者たちの小屋の周りの方がまだ清潔だったが、それが即ち環境の良さにはつながらない。

日陰には銀座では溶けきった雪がまだ残り、水たまりもある。昔から少し長雨が続くとぬかるみが何日も続いた土地は、人力車が通ると車夫が足を取られて転ぶような気がした。芝に用事があったとしても、人力車はこの道を避けるだろうと思って五郎は新橋へ戻る。

道の途中で香具師から、牛の臓物を焼いたものを買って食べ歩いていると、足元に雑種と見える子犬がまとわりついてきた。薄汚れていて人の手が触れたようには見えないし、親離れにも早すぎるような年齢に見えた。

体を良く見下ろしてみると尾の先端がわずかにちぎれている。傷を負い親犬とはぐれた子犬の背景が五郎の脳裏で像を結ぶ。四月にしては厳しい冷え込みが追い打ちをかけたのかもしれない。

平素野良犬や野良猫には関わるなと父に言われている。人間と獣の間には明確な境界を引くべきというのが彼の持論であり、五郎も諾々とそれに従ってはいたが、実際に野良犬を前にすると、父の意見に偏りさえ感じる。

子犬はしつこくまとわりついてくる。五郎がなかなか臓物をかじらないのを見て脈があると思ったのかもしれない。時々甲高い鳴き声さえ上げてきて、五郎の胸の内をくすぐった。

新橋にたどり着く時まで子犬は離れなかった。五郎もまた臓物にかじりつくことはなく、冷めるに任せた。子犬への哀れみに加え、新橋に着くまで離れないような根気を見せたら褒美をあげてもいいと思っていたのだが、子犬はそんな思いに応えた形を見せた。

「負けたよ」

 五郎は笑みをこぼして橋柱の根本に座り込んだ。臓物を二つに割って、傷付いた尾を振る子犬に差し出す。子犬は臓物を加えると用事は済んだとばかりに走り去った。

 薄汚れた子犬とじゃれ合うことを期待したわけではないが、あまりに冷淡な後ろ姿に思わず声が上がる。

 自分と別の声が重なったのを聞き、五郎は振り向いた。

「少しでも一緒にいてくれたら良かったのに」

 振り向いた先に無邪気な笑顔がある。追いかけて見失い、子犬に気を取られている間にふと忘れていた顔だった。

 少年の手には紙がある。以前茶屋の前で画面に描き入れられたことを思い出した。

「おれを描くつもりだったの」

「犬と一緒にね。迷惑だったかな」

 五郎は慎重に首を振った。この名も知らぬ少年に再会したいから橋を渡ってきたのだが、思いもしない時に顔を合わせると言葉が出ない。彼の笑顔が絶えないような態度を選ぶしかできなかった。

「前にも俺を描いてたみたいだけど」

「覚えていたんだね。何も言わなくて悪かったけど」

 ほんの少し少年の声が高くなって聞こえた。紙を抱えた佇まいもあって、少年の胸の奥が見える。彼は絵を好いている。それも、父とは違って恵まれた環境で伸び伸びとやっている。

 余裕があるのは絵に関することだけではないだろう。小袖に使われている素地は見ただけでもわかる上等な生地で、自然と笑顔が出てくるのは暮らしに大きな心配や危機を抱えていない者の特権のように見えた。

 自分の境遇と重ね合わせても大きく違う相手に、五郎は不思議なほどうらやましさを覚えない。以前に絵の中に描き出された時と同じく、憧れめいた気持ちが胸に湧いていた。「あの街で昔からの建物はないからね」

「街が完成したら取り壊されるみたい」

 無邪気な表情に誘われ、五郎は自分が知ることを口にした。少なくとも邪な気持ちは持っていないだろう。実際彼は、残念だね、と控え目に言った。

「君はあの店の子供か何かなの」

 少年に訊かれて五郎は首を振った。

「日傭者の息子だよ。あそこは働いてるだけ」

 返す言葉で五郎は少年の素性を訊いた。背広姿の男に付き従っていたことといい、見た目の余裕といい、自分とは違う世界に住んでいるのが瞭然だった。

「前に背広の人と一緒にいたけど、あの人が親か何か?」

「そう、父親ね。日傭者にはあの人に連れてこられた人がいるから。あの時はちゃんと仕事してるかどうかって見に来たんだ」

 遠目だったし、程なくして建設現場を離れてしまったから何をしていたのか想像もつかなかったが、出資者のような者だったのだろう。煉瓦街を造る費用は、横浜などの異人が大火の被災者を救うために出した金で捻出したと聞いているが、日本人でも関わりのある人間がいるようだった。

 少年の表情は少し陰って見えた。父親をあの人呼ばわりするあたり、あまり良い感情を持っていないのがわかる。

「あの時絵を描いていたのはどうして」

 彼が実の親から離れた経緯については訊かない方がいいのだろう。五郎はずっと気になっていたことを尋ねた。

「今日も絵を描きに来たんだろう」

 結構な厚さに見える画帳を持っているし、隠しを気にする素振りは中に何か大事なものが入っているからだろう。五郎は裕福な見た目から鉛筆ではないかと見ていた。

「ただの暇つぶしだよ。あの人、僕を銀座に連れてきても何もさせられないから」

 最初無邪気だった表情は皮肉っぽい彩りに変わっていた。素の表情か、父親が話題になっているせいかのかわかりかねる。訊いてみたい気もしたが、どういう言葉で答えを引き出せばいいかわからないまま、少年の方から口を開いた。

「帰る途中だったんだろう」

 少年は銀座の方を見渡して言った。

「休むのにちょうどいいと思ったからだよ。あの犬、おれの食べ物を持っていったらさっさと消えたけど」

「野良犬は素直だね」

 笑顔に含まれた暗さが薄くなったように見えた。

「僕はまだ用事あるから」

 そう言って少年は川に背を向けた。彼の言う用など知る由もなく、想像もつかないことだ。

 見送るのが自然な流れではあったが、再会を望んだ気持ちがまだ満たされていない。五郎は引き留めるように何をしに行くのかと訊いた。

「ここは昔僕が住んでたところみたいだから、時々来てるんだ。一人で歩いてみたいから、悪いね」

 自分のことにもかかわらず推し量るような言い方を奇妙に思いながら、五郎は名前を訊いた。

「知ってれば、街で会った時に呼べる」

 不思議そうな顔で理由を訊いてきた少年に、そう答えた。

 彼の微笑みは何となく困ったように見えたが、拒む言葉は出てこなかった。

「源吉だよ。君は」

「五郎。絵師の息子だ」

 少しは興味を持つだろうかと思い、父の本職を口にしてみたが、源吉は何も触れなかった。

 名前以外のことを交換することはなく別れ、五郎は橋を渡って銀座へ戻った。建設の仕事が終わるまでまだ数時間ある街はまだ遠くから音が聞こえる。時々通り過ぎるのは人相の悪い日傭者たちばかりで、何かに追われるような緊張を常に宿して見える。

 芝の住人たちも生活に追われる者ばかりだったが、背後を気にするような日々を同じように送っていても、この街に働いて生きる者の方が表情は暗く見える。

 仮小屋へ戻る途中、ここでの仕事が終わったらどうする、とどこかの地方訛りがある声が聞こえた。暗さの正体は先の見えない不安感につながっていたのだろう。ここでの仕事もずっとあるわけではなく、街が完成したら失うことになる。その後どこへ行けばいいのか迷う者は多い。仕事の後は絵を描く父もまた、行き先を見失ったような途方に暮れた表情を見せることがある。呑気な性分の父は、息子には知られていないと思っているようだが、一度見たら忘れることのできない横顔を、五郎は何度も見ていた。

 馴染まない職場にいるのは苦痛に違いないが、それと引き替えに生活ができるのは大きい。そして、生活ができなくなった時の絶望や不安は、職場の苦労をはるかに凌ぐのだろう。まだ父ほど大きな職場にいた経験を持たない五郎には想像つかない部分も多くて何も言えなかった。

 小屋には誰もいなかった。若くはない体で疲れのたまりやすい仕事をする父だが、画業の方も諦めないから、仕事が休みになれば絵の題材を探しにどこかへ出かけたり、画材道具を揃えに行ったりする。

 絵を描いている時の背中が辛そうに見える日もあったし、休みの時くらいは寝ていてもいいと思う。それだけの働きを日々やってきているのだし、無理を重ねて倒れてしまったら、息子はどう生きていけばいいのか。

 父がいなくなったり働けなくなったりした時を不安に思いながら、五郎は絵をやめて生活の負担を軽くして欲しいとは言えない。疲れを押してでも続ける画業は、父にとっての生き甲斐なのだろう。それを取り上げたら、抜け殻になって日々を送る父が目に浮かぶのだった。

 たとえ世間から認められずとも、それほどの境地に上り詰めてみたい気がする。そうすれば生き方に迷うことはないように思う。父が何を感じて生きているかは別として、五郎の目には充分幸せな生き方に見えるのだった。

 父は日暮れに帰ってきた。題材を集めてきていたようで、小さな画帳を持っていた。

「いつ帰ってきた」

 歩き回ったのか、帰ってくるなり足を揉み始めた父に訊かれ、日が沈む前と答えた。

「芝の方まで歩いてきた」

「何かあったのか」

 少し興味を惹かれたように父は訊いた。

「別に何もなかったと思うけどな」

 父にとっても、芝は格別な記憶がある場所ではないようだった。

「お父、この街は友達も作れないって言ってたけど、そんなことないかもしれない」

「どうしてそう思う」

「始めて名前が言えたからね」

 咄嗟の言葉ではあったが、惣兵衛を除けば自分の名を伝える機会などこの一年間なかった。建設途中で元の住人たちもどこかへ追いやられてしまった街には、煉瓦を積んだり焼いたりする日傭者以外の生活をしている者が少なくて、絵も近くて遠い距離にあった五郎には接点に乏しい人間ばかりであった。

 そんな中で、偶然とはいえ名を教え合う機会に恵まれた源吉とは、久しぶりに新たな関係を始められる気がした。

「悪い奴だと思ったらすぐに逃げろよ」

 父はそれだけを言って机に向かった。息子の日常についてあまり口を出さない彼らしい背中で、源吉の背景がまだわからない今は、余計なことを考えずに済むのでありがたい。

 絵を描くことに集中し始めた父を尻目に、五郎は横になった。明日はまた、惣兵衛の店で仕事があるのだった。

 

 初めて姿を見た時から、会いたいと思っても会えない日が続いただけに、名乗り合った翌日に会えたのは拍子抜けだった。源吉は雪の日と同じように茶屋の対岸で紙に絵を描いており、こちらが出てくるのを待っているようだった。

 休憩時間を迎えて道を渡ると、源吉は画帳から一枚を破り取って渡した。

「勝手に描いておきながら、他に渡せるものもないのが悪いけど」

 雪の日に自分を描き込んだ絵であった。鉛筆の色しか使われていないが、紙が元々持っている色と、鉛筆の濃淡を活かすことで真っ白い雪を表現している。中心には箒を持った自分が立ってこちらを向いていて、実際より近く、道の真ん中から見つめたように細やかな描かれ方をしている。

 あの日の景色をそのまま切り取って写し込んだような描き方で、白と黒の濃淡だけで表現していることもあって写真のようにさえ見える。

「洋画が好きなの」

 父が描く絵とは何かが違うように見えた。華やかさを抑えた筆遣いは共通しているが、濃淡を強調した描き方は、ほんの一時期父が試していたことだ。それに失敗して結局今まで通りのことを続けているが、源吉が描いたのは当時父が失敗した洋画を思い起こさせる絵だった。

「僕には日本画や洋画の違いはわからないよ。好きなように描いたらそういう風に見えるだけ」

 時に悲壮感を背負って筆を握る父とは違う世界にいる描き手に見えた。日本では作られず、フランスなどから輸入するしかない貴重な文具を使う源吉は、生活を第一に考える描き手とは根本が違う。

 そうかと言って、父親の話題を出した時に見せた影の濃い表情が忘れられず、五郎には背景を詳しく聞く気にはなれなかった。

「君の親は、絵師なんだって」

 自身の背景をさらけ出すのを避けたいのか、以前は興味も示さなかったことに触れてきた。五郎は頷き、もう売れなくなったけど、と答えた。

「時代はもう西洋画らしい。お父は日本画を描いて、西洋画にも挑戦してみたけど失敗して、結局売れない絵師をしてるよ。生活しなきゃいけないからここで働いてるけど、絵をずっと描き続けてる。俺には何も教えてくれないのにね」

 名前ばかりでなく背景をさらけ出すと、言葉は止まらなかった。初めてやったことにわずかな疑問は覚えたが不快感や後悔は覚えない。

「お父も御一新の前は人並の仕事をしてたんだけど、もう相手にされなくなって。お父のように生きてみたかったけど、もう夢かな」

 改めて自分が描き込まれた絵を眺めてみる。濃淡を強調し、緻密に風景を描くやり方は日本画にはあまり見られない。時々銀座の外に出ると、源吉が描くような絵を目にする機会が多く、父が毎夜描く絵に近いものは見ない。

 時代にそぐわないものを描き続けることは、他人の興味を惹きつけることもできず、辛い日々を積み重ねることになるだろう。そんな苦しみを味わっているはずの父は平気な顔をして絵を描き続けるが、自分に同じことができるかどうか。政治の行く末が不透明で大きく揺れていることが、無知な自分にも感じ取れる時代に、歳を重ねた自分が強くなるか弱くなるか、その展望さえ描けない。

「でも、絵を教わりたいぐらい好きなんだろう」

 いつも拒まれて終わっていた話題が初めて先へつながった。自嘲気味に笑っていた五郎は思いもよらない展開にはっとした顔をする。源吉は無邪気に笑っていた。日傭者の仕事で疲れながら、それでも一枚の絵を描き上げようとする父の、悲壮感に満ちた表情とは対極を成す顔だった。

「僕は教えることはできないけど、一緒に遊ぶことはできるよ」

 そう言って画帳から何枚かを掴んで破り取り、差し出す。真っ白な紙だった。

 更に小袖の隠しから鉛筆を渡してくる。いくらの値がつくのか想像も付かない、木と黒鉛でできた文具に戸惑いながら、五郎は源吉と鉛筆を交互に見た。

「良かったら遊ぼう。絵が好きならできるよね」

 戸惑いながら五郎は紙と鉛筆を受け取った。二つの画材を自分の元へ引き寄せた時、生活臭にまみれた環境から一瞬抜け出せたような気がした。

 

 源吉との『遊び』は一週間後だった。それまで紙と鉛筆は父に見つからないよう隠していた。紙は上質だったし鉛筆など父も触れたことがないだろう。そんなものが突然仮小屋に現れたら呑気な父といえど訝っただろう。父に隠し事をするのは本意ではなかったが、藪蛇になってせっかく始まった関係が壊れてしまうのは避けたい。源吉は一年過ごしてやっと会えた、同じ年頃の友人であった。

 源吉は茶屋の前で待っていた。父親の仕事の関係もあったのか、驚くほど彼は建設中の街について知っていた。銀座は八丁の区分に分けられる予定らしく、二十五間に広げられた道の脇には松や楓、桜が植えられ、並木道となるという。

 昔は作り方さえ知らなかった煉瓦で建物を作り、その脇に日本古来の木々を植えるのはおかしいと素直な感想を五郎が口にすると、源吉は喉の奥に閉じ込めるような笑い方をした。口元を手で隠すのは女がするように見えたが、品の良さとして映り、絵になった。

「無理をしてでも昔と違うことをしないといけないから、色々大変なんだろう」

 皮肉を言ったつもりなのか、源吉の目に笑みは乏しく見えたが、意図をわかることはできず、五郎はその表情に合わせて笑うだけだった。

 しばらく歩くと源吉は足を止めた。造りかけの煉瓦街が見える場所に腰を下ろして鉛筆を走らせる。手慣れた様子に、五郎もまた絵を描き始める。他人から直接教わったことはなく、父が描いているのを肩越しにのぞき込んで覚えた絵である。その父の絵を鉛筆で再現してみようと思ったが、濃淡を強調することを今まで知らなかった五郎は、白と黒しか使えない画面に苦戦した。

 源吉が三枚描き終えた時に、五郎は一枚を終えた。見比べてみると、暗くなりすぎた画面に見づらさを覚えた。

「お父ならもっとうまくやれたかな」

 鉛筆を握ったことはなくても、絵師は絵師である。少なくとも見ていて不快になるような絵は描かないだろう。

「上手さは別に関係ないんじゃないの。遊びなんだから」

 言葉自体は嫌みのように聞こえたが、源吉から心根の卑しさを感じたことはない。何気ない言葉と五郎は聞き流す。

 銀座の中を歩きながら絵を描く内に二人は新橋に来ていた。人力車で通った時に見たと五郎が言うと、気づかなかったな、と源吉は笑った。

「何をしに行ったの」

 知り合ってから何度も出会いを重ねたわけではない。知るには少し深すぎる背景にも思えたが、源吉は迷いを見せてから行く場所があったと答えた。

「ついでだから行ってみようか」

 何気ない誘いに応じ、五郎は共に橋を渡る。今度は急がない。以前追いかけた相手が今は隣にいる。思いがけないことに感じた。

「この街も知ってるの」

 雑然とした感じに似合わない外見の源吉の足取りに戸惑いはない。何度も訪れているか、そうでなければこの街に懐かしさを覚えるほど馴染んでいるのだろう。

「僕はこの街で生まれたそうだから」

 自分のことを推し量るような言い方が気になったが、それも源吉の用事を知ればわかることだろう。以前出会った時、何をしに来たのか。そこに彼の多くを描き出す要素が詰まっている気がした。

 源吉について歩いていくと、徐々に懐かしさが強くなっていく。違う場所ではあったが、銀座に来る前に住んでいた長屋街とよく似ている。長屋は外見自体は全て同じだから、少しでも同じような並び方をしていたら全て同じに見えるのだ。

「懐かしいな」

 反応を見たくて素直な思いを口にすると、果たして源吉は振り向いた。

「ここじゃないけど、こういう場所に住んでたことがあるから」

「あの街に移ってきたのはどうして」

「それは、お父の都合。ここにいて絵を描き続けても生きていけなかったから」

「生きていけるとしたら、ここにいたかった?」

 貧しい暮らししか送れず、良い思い出があったわけでもない水はけの悪い土地に成り立つ生活が、五郎の脳裏に甦る。生活の質自体はたいした違いがないものの、馴染まない仕事をしていない父がいる分、悪くない気がした。

「おれはまだ、お父についていくしかできないけど、あてがあったらお父も銀座になんかいかなかったよ」

「僕もその方がよかったな。銀座になんか連れ出されるんじゃなくて。たとえそうなるしかなかったとしても、十年ぐらい待ってほしかったな」

 語らいながら歩く内に、源吉は茅屋の前で足を止めた。暖簾や幟が放置され、辛うじて古着屋であるのがわかった。

「僕は父と一緒にここで暮らしていたんだって。後で聞かされた話だから、実感はないけど」

「覚えがないの」

「今の父親に聞かされただけだから。あの人は父と親しかったそうだけど、親には向いてないね。何の準備も覚悟もないまま親にならされたようにも見えるけど、一緒にいても居心地は良くないんだ」

 親の傍が居心地の良くない場所であったら、自分なら逃げ場はないだろう。銀座では他に信じられる人間と言えば惣兵衛しかいなかったが、いつまでも頼れる人ではない。

 源吉は戸を開いた。荒れた外見とは異なって戸の立て付けは悪くなく、中も掃除が行き届いている。彼に誘われて中に入るが、ほこりっぽさを覚悟した空気も悪い感じはしなかった。

 店先と思われる広い場所の奥に四畳半の部屋がある。囲炉裏や行燈もあり、火を入れれば充分生活できそうだった。

「時々ここに来てるの」

 使われた形跡のある部屋を見て尋ねる。

「父と一緒に過ごせたら良かったけど」

 そう言った源吉の笑顔に寂しさを感じるのは、傍に居ることを望む人が手の届かないところにいるからだろう。このまま仮小屋に戻れば、仕事でくたびれながらも絵筆を握る父がいるだろう。今日こそ何か心変わりが起きるだろうと期待して、絵を教えてくれと頼んでみるのもいい。源吉にはできないことだ。

「でも一人で過ごすよりは、二人の方がいいからね。良かったら何度も来て欲しい。絵を描きながら、時々ここで休んだりして。僕にもこうして、一緒にいられる人がいるとわかったら、父も安心すると思うから」

 源吉の視線は五郎の頭上に流れた。振り向いても何もなかったが、何かがいたとしても悪い気分はしないと思った。

 源吉との『遊び』は一度で終わらなかったが、それも銀座の煉瓦街が完成するまでだった。銀座の表通りは明治七年に完成し、ガス灯も道に沿って並べられた。しかし資金がそれ以上続かなかったようで、三年後には全体の計画が打ち切られてしまう。父の日傭者としての仕事、五郎の茶屋の下男としての仕事も同時に終わり、銀座にいる理由はなくなった。

 完成した煉瓦街は『西洋長屋』とあだ名され、物珍しさもあって評判を呼んだが、煉瓦の家に住むと病気になるなどの噂が立ち、最初から賑わったわけではない。そうした悪評を乗り越えてくる勇気を日本人が持つまで更に五年がかかり、新聞社やレストランなどもかつて悪評が立った煉瓦の建物に入るようになった。鉄道馬車も開通した明治十五年には『文明開化の渡り廊下』と呼ばれるほどになり、江戸一番の繁華街と言われた日本橋以上の賑わいを見せることになる。

 五郎はそうした華やぎを、父と共に戻った芝から汐留川越しに眺める日々を送った。焼け出された住人たちさえ追い出すようにして急がれた開発であり、日傭者たちの居場所も用意されないのは当然とも言えた。

 源吉に別れの挨拶もできなかった五郎の手元には、彼と共に重ねた日々を描き出した鉛筆書きの絵が残った。ある絵には源吉がおり、またある絵には開発途中の銀座が描き出されている。どれも源吉が傍にいる時に、彼の助言を受けながら、借りた鉛筆で描き続けたものである。明治十年に鉛筆は日本で作られるようになったが、それでも生活に追われるうちは届かない代物だった。

 更に十年が経つと、上野には東京美術学校ができた。そこで講師として雇われたのは困窮していた日本画家たちで、父の傍にいる間に何度か聞いた名前だった。

 父はそれに間に合わなかった。父の残した実績がどれほどのものだったのか、画壇の部外者に過ぎない五郎にはわからなかったが、明治の時代に日本画家が日本画家として生きていく機会が訪れる前に、失った注目を取り戻すことができないまま生涯を終えたのだった。

 五郎もまた、一時は父のようにと憧れた絵を生業にする人生は実現できなかった。日傭者としての仕事を優先させながら絵を描き続けた父のように、再開発が盛んな東京府で日傭者として暮らし、やがて技師としての知識と技術を身に着け、いつしか建築の現場に身を置くようになった。

主に政府高官や実業家が建てる西洋建築を手がけるようになった五郎は、自分の仕事が完成した後にその姿を絵に描き残すことを趣味とした。初めて手にしてから二十年が経っていた鉛筆は、国産が出回っていたこともあって一厘出せば手に入るところまで来ていた。

建築家としての仕事が増えるにつれて、絵を描き続けるのは難しくなる。しかも父と違って収入を期待しない絵であったが、人に見せるのではない分気楽で、悲壮感を背負うこともなかった。

それは『遊び』だった。明治初頭、焼け跡の上に積み上げられた煉瓦を源吉と共に描いていた時に繰り返していたことであった。

明治が終わり、大正が急ぎ足で通り過ぎ、昭和に入ると間もなく、五郎は七十を迎えた。絵は暇を見つけて描き続けた絵はもはや数えきれず、整理が追いつかなかったり置き場を忘れることが増えたりしたためになくしたものもある。

そのたびに自分の記憶力が衰えていることを思い知らされるが、愕然とすることはない。明治初頭、初めて手にした鉛筆で描いた絵の置き場所だけは忘れない。

一番大事な絵は、自分が描いた絵ではない。源吉が初めて自分のために描き、関係を結ぶきっかけとなった絵だ。

その絵の中では十五歳の自分が箒を持ち、濃淡だけで表された雪の中に佇んでいる。寒い四月はあれから何度かあったが、源吉が現れることはなかった。銀座もいつの間にか鉄道馬車の鉄路がなくなり、自動車も走るようになった。

今年の四月は平年並みに温かい。絵の中は四月とは思えないほど冷たい。しかし未知の人間を道の向こうに見ている時の表情は瑞々しく生き続けている。

当時描いた絵を見つめる度に、五郎の内には懐かしさがこみ上げる。人が集まる街である以上、銀座は訪れる度に変化した姿を見せるが、そこに流れる空気だけは変わらない。

その懐かしさが高まれば、あとは出かけるだけである。初めて手にして以来最も信頼が置ける画材の一つである鉛筆と買ったばかりの画帳を手に、五郎は温かな日射しの下に踏み出していった。

 

2013年3月作品