yuzaのブログ

幕末から明治を舞台にした小説を中心に載せています。

時に触れる指 一

親指を除いた四本の指を並べたら隠せそうな文字盤の上で、針は微かな動きを積み重ねている。その奥で小さな音の刻みがわずかな狂いもなく続いている。

十二の数字が等間隔に書かれた文字盤の奥には誰も手を触れていないのに動き、音を出し続ける小さな機械が隠れている。針が示す時間を読み取れずとも、千太郎は見つめているだけで飽きずにいられた。

いつもは父が座っている店の帳場に体を預け、いつも隅に置かれている時計の、文字盤の真ん中に焦点を合わせる。そうすると針の微妙な動きまで見えてくる。文字盤の裏から聞こえてくる音に合わせ、針の先端は震えるように動いている。それが何度か積み重なって、先端は次の目盛りへ動く。音も針の動きも決して止まらない。

一通り動きと音に関心が回ると、ものとしての感触に興味が移る。身の回りにある多くのもののように、木でできているようには見えない。もっと固くて冷たいものだ。

万が一落としても壊れることはないだろう。そう思うと少しくらい触っても平気だろうと信じたくなるが、父に厳命されたことを思い出す。父は絶対に触るなと言ったのだ。時計の文字盤はもちろん、裏側の、人目につきにくそうなところに至るまで、指一本触れてはならないと、この場所を自分に託して奥へ引っ込む前に言った。

表情はいつもの穏やかなものだったが、その口調には何か違うものが混じって聞こえた。

言いつけを破ったらきっと怒るだろう。少し触ったくらいならわからないかもしれない。しかしどんなきっかけで触ったことが知れてしまうか想像がつかない。わずかに伸びていた指先を引っ込め、千太郎は再び時計の文字盤に焦点を合わせた。

「Hello」

 不意に聞き慣れない声が降ってきた。いつの間にか男が店に入ってきている。

 知っている人だろうかと思って記憶を探るが、すぐに父が言っていた客だろうと思い直す。大きな背丈を手触りの良さそうな黒く丈の長い服で包み、黒くない不思議な瞳で自分を見下ろしている。

 異人が来たらすぐに呼べと父は言っていた。

 千太郎は身の丈に余る椅子から飛び降り、店の入り口から駆け出した。父の居場所は離れにあって、店の中より外を通った方が早く着く。来たらすぐに呼べという言いつけを精一杯守ろうと、千太郎は走った。

 戸を叩くと、少し間があって返事がした。戸を開けると父の弥之介は顔をこちらへ向け、すぐに机に向き直った。

 文机にしては高く、椅子に座ってちょうどいい高さの机の上に、不思議な形をした道具が広げられている。父はその道具を箱の中に収めているところだった。

 帳場で聞いていた時計の音が、いくつか重なって耳に届く。机の上に一つ、その周りの壁にも懐中時計がいくつか引っかけられている。小さな時計ばかりでなく置物のような大きさの時計もあって、それら全てがそれぞれの精度で時を刻む音を出しているようだった。

「誰か来たのか」

道具を片付ける手を止めずに父は訊いた。喉が喋ることに慣れていないような、掠れた声だった。

「今待ってる」

「そうか、ご苦労だったな。奥でおやつでももらいなさい」

 言いながら父は道具を全て箱に収めて、立ち上がった。店の方へ向かう直前に大きな手で千太郎の頭を撫でていった。言葉は少なかったが、役目を果たしたことを認めてくれたようだった。

 言われた通り店の奥に戻ると、母のすみが乾いた洗濯物を持って戻ってきていた。

「父様の言いつけは守れたの?」

 母の問いかけに、千太郎は力強く頷いた。

「そう、よかったわね」

 母は微笑みを向けてくれた。両親共に言葉は少なかったが、言われたことを最後まで守ったことを褒めてくれたのがわかる。千太郎にはそれだけで充分だった。

 

 指先に乗るような大きさの、『ヒゲ』と呼ばれる金属帯を、安定をなくして自由に動き回るテンプ受けにはめこむ時、弥之介は息を止める。空気の微かな揺らぎがわずかなずれを生むことがある。一昔前、ロンドンやパリで作られる時計が最高級だった頃、船乗りが海上で経度の計算をするのでなければ、時計は一日のうちに誤差があって当然だったが、今は誤差を許さないほどの精度が理想とされる。ほんの十一年前、外国の定時法を採り入れたばかりの日本でさえ、時計に求められる性能は同じだった。

『ヒゲ』はバネのように巻かれた形をしている。その中心をテンプ受けにはめ込み、金属の先端はヒゲ持ちに突き刺す。それでテンプ受けの安定が戻り、弥之介も安堵の息を、天上に向けて吐く。あとは一度取り外していたガンギ車をはめ込み、調速機構を組み直す。

 時計は香箱の中で発生した力がガンギ車に伝わることで動き出す。その様子を確認した弥之介は裏蓋を被せてギョーシェ文字盤を見つめる。音に合わせて針が微動を積み重ねている。先端付近に輪形の飾りがついているブレゲ針と、ブレゲ数字と呼ばれる傾いたアラビア数字が特徴的で、十日前に生糸の取引に来たというフランス人が修理を頼んだものだ。店に新たな時計を買い求めるのは日本人、時計の修理を頼みに来るのは異人が主流で、中でもフランス人は要求が高い。天才と呼ばれたブレゲが、時計の理想を引き上げたようにも思えた。

 ブレゲ針が5から6に動く五分間、弥之介はじっと文字盤を見つめていた。その動きに乱れはなく、要求の高いフランス人でも納得させられると思った。

 修理が済んだ懐中時計を木箱に収めると、溜まっていた仕事が全て終わったことになる。修理依頼が立て続けに舞い込んだお陰で、店を開けていても暇なら工房で修理をこなさなければならなくなった。まだ子供の千太郎に店番を任せるのは不安だったが、しっかり勤め上げてくれた。仕事が無事に済んだこと以上に、子供の順調な成長ぶりが嬉しかった。

弥之介は慎重な足取りで工房を出た。戸を静かに閉めてから、唸りを交えて息を吐く。さっきまで息を詰めていたせいで、胸が急に流れ込んだ空気に驚いている。早鐘を打っていた。

 店を閉めてから工房にこもる時、既に日は落ちていたが、港の方から何ごとか音は聞こえてきていた。それは車夫が客を引く荒々しい声であり、その車夫が引く車が車輪を軋ませる音であり、女の嬌声であった。今はそうした、人の気配を感じさせる音がない。時々風で木々が揺れ、木の葉がさざめくだけである。

 長い間同じ姿勢でいたせいで体は固く凝っていた。弥之介は腰と上半身全体を延ばしてから、店と一体になっている家へ向かった。

 誰も起きていないと思っていたが、すみが何か書物を文机に広げていた。

「何だ、起きていたのか」

 声をかけるとすみは顔を上げ、千太郎は寝ましたよ、と言った。

「子供が寝るのは当たり前だが、お前までおれを待つことはなかった」

「わたしが寝たら誰が夕餉を準備するんですか」

「それぐらい自分でやるさ。一人の時期が長かったし、いよいよとなれば慶紀のところへ行けばいい。牛鍋を一人でつつくぐらいの金はいつでもある」

 すみは目を伏せて横を向き、柔らかな微笑みを見せた。

「血のつながりの薄い方が気軽に会えるのかしら」

 お互いの距離は遠くないし、兄妹仲が悪いわけでもないのに、それぞれの暮らしを立てているうちに会うのが照れくさくなったと話したことがある。七歳の差は元々大きなもので、少し離れていればあっという間にお互いの世界は遠ざかってしまう。すみにとり、ここでは血のつながりは煩いのようだった。

「さてな。しかしあいつのところへ食べに行こうと思っているのは本当だ。そろそろ千太郎を連れて行ってもいいだろう」

「贅沢を覚えさせるつもりですか」

「七年も生きたら自然に世の中の楽しい部分を知ることになる。今の時代にもてはやされている美味い食べ物を知っても罪はないだろう」

 すみは微笑みを保ったままで、一通り夕餉の準備を終えた。冷めてところどころ固くなっているが白米を炊いてくれ、薄いながらも汁物もついている。漬け物の傍には焼き魚がある。一緒になってから一番多く見る献立だった。

「店に行く前に牛肉を買ってきたらどうだ。肉の切り売りもやっているはずだ」

「駄目ですよ、牛の肉なんて。贅沢ですから」

「ももんじ屋の娘の言葉とは思えないな」

「牛の肉は今でも高級品ですよ。鹿だったら用立てられるんでしょうけど」

「牛鍋屋なのに今でも鹿を扱ってるのか」

「猪もですよ。うちは今でもももんじ屋ですから」

 ももんじ屋という商いに、一種の誇りを感じているような声だった。すみの家は扱う品の種類は変わっても、動物の肉を扱う商売の本質に変わりはない。一心に一つのことを続けながら、御一新を乗り切った家は、すみにとって拠り所のようだった。

「昔から、だろう。おれは変わった。だからどうこう言うつもりもないが」

 すみの家は元々江戸の谷中で小店を営んでいた。中町屋というその店は、猪や鹿の肉を扱うももんじ屋と呼ばれる商いで、御一新の後牛肉食いがもてはやされる風潮に乗る形で、店を先代から継いだ義弟の慶紀が、横浜に店を移して牛肉の取扱を始めたのだ。

 すみとの縁はその時に始まっている。甲府藩に生まれ、藩校の徽典館で学んだ後昌平黌に移り、退寮後の四年間を再び甲斐で過ごした弥之介に、江戸の下町で暮らしてきたすみとの接点は、御一新以前にはない。

 弥之介が産まれた溝江の家は、六代将軍として列せられている徳川家宣甲府藩主だった頃から仕える家で、家宣が将軍となるのに合わせて家禄七〇〇石を授かり、旗本に任じられた。それから父の溝江惣之介の代まで、多少の浮き沈みはあったが、旗本の地位を失うことなく十五代目まで仕え、御一新の後その地位は士族となった。父や上の兄は故郷へ戻り、学校教育に力を注いでいると聞くが、弥之介は東京に残ってしばらくの間私塾の手伝いをしていた。徽典館で学んでいた頃から期待され、それに応えるように昌平黌にまで上り詰めた、学業の栄光にまだ浴していたかったのだ。

 恵まれた暮らしは送れないまでも、旗本出身で昌平黌を出ている、名と実を兼ね備えた男として見られることに満足は感じていた。その尊敬を利用して、いつか自分の塾を持つ事を目標にしていたのが、九年前までのことだ。

 九年前には佐賀で江藤新平が乱を起こし、鎮圧されて捕らえられ、処刑されるという事件があった。政治の世界には様々な思惑があったのかもしれないが、外から眺めていた弥之介には、武士という身分が本当の意味で終わりを迎えたように見えた。当時武士は既に士族とされ、秩禄によって生活を保障されていたが、それが打ち切られる動きもあった。そのような時勢の中で、昔の身分を頼りにして生きることがひどく心細く思えたのだった。

 その不安を紛らわそうと思って時計に目を向けたのは、初めは興味本位だった。徽典館にいた頃から、家の象徴のように鎮座ましましていた時計に興味はあったし、季節によって変わる時の長さに人の手で合わせてやらなければならなかったとはいえ、触れてもいないのに針を動かし続ける機械の構造が不思議だった。明治七年の反乱は、御一新を経験してもなお独学で学び続けてきた時計を、第二の仕事にしてみたいと思う契機となった。

 巷では既に士族の商法という言葉が広まっていて、失敗すれば物笑いの種になるという恐れはあった。雇い主である塾頭も教え子も心配したが、江戸幕府の時代から決別しなければ、これから先どう生きていけばいいかわからなくなりそうだった。

 時計を学ぶために旅立った場所は、貿易港のある横浜だった。実家にあった時計を含め、日本で時を刻んでいた時計は輸入品しかなく、海外との接点を持たなければ本格的な勉強はできなかった。いずれ異人と話すかもしれないと思って身に着けていた英語が、この時初めて役に立った。

 英語はもう一つ、思わぬ出会いをもたらした。一年間時計の販売と修理を学んだ後、弥之介は横浜に時計店を開いたが、当初それだけでは暮らしや店を維持できず、横浜に集まってきた生糸商人たちを相手に英語塾を開いていた。すみはその塾に集まってきた教え子の一人で、彼女の兄である慶紀は弥之介の昌平黌時代の評判を聞いて、妹に英語の師とするように勧めたらしかった。

 すみは好奇心旺盛な女だった。自分が思ったほど英語は伸びなかったが、学ぶ姿勢だけは誰よりも強かったと思う。

 あとで聞いた話では、すみはその時までに一度離縁を経験しており、一家の大黒柱だった慶紀にとって、妹の再婚は大きな問題だったという。うまく慶紀に乗せられた感じもあったが、その後千太郎が産まれ、やがて暇を見つけて英語を教えなくても済むほど横浜で時計店としての信頼を得ることができるようになり、その八年間を他人と築いていけたのは幸いだった。一人で時計店と英語塾を両立させていた頃よりも煩わしさは増えたはずなのに、弥之介は充たされていた。

「変わっていくのは当たり前ですよ。千太郎だって」

「千太郎が、どうかしたのか」

 息子のことはいつも見ているつもりだが、気に留めるような変化があったと思えない。

「最近よく時計を見ているようなんですよ。少し前までは興味もなさそうだったのに」

「時計を……」

 すみは楽しそうに語っていたが、弥之介は心配だった。その興味が過ぎて勝手に売り物に触って壊されたらたまらない。今日は時計に触らないよう厳命してそれを守ってくれたが、好奇心旺盛なすみの子供である。親の言葉を好奇心が勝る日が来ないとは言い切れない。

「時計はまだまだ高いですけど、千太郎が大人になる頃にはどうですか、安くなると思いますか」

「ああ、それはそうだろうな」

 弥之介はある程度確信を込めて言った。江戸時代の初期から日本人は時計と付き合ってきたし、季節ごとに変化する時を捉えるために、日本独自の和時計を作り出すこともしてきた。西洋時計にしても既に日本人の手で作られた実績がある。量産されるまでそれほど時間はかからないはずだった。

「その時には気軽な趣味になればいいんですけどね」

 かつては将軍家や大名家にしか置かれていなかった時計は、価値が下がったとはいえまだ庶民の手に届くものではない。それに、暦が変わって十年以上経った今でも新暦に馴染めないせいで、定時法を理解しない者も多い。良くも悪くも、時計はまだ普通の暮らしには必要のないものだ。

「今は趣味にはなり得ないな。使うのは商人ぐらいだ」

 特に異人との取引を目論む商人が、時間を計った上自らに箔をつけるために買い求めることが多い。顧客の商人が言うには、時間を守るのが異人との商売の基本であるという。

「それに、おれの仕事は時計を普及させることじゃない。輸入品の時計を売ったり直したりすることだ」

 言いながら弥之介は、いずれ日本人が西洋時計を量産する日が来ることを、全く考えなかったことに気がついた。少なくとも時計店を開業する時、自分が触れるのは最後まで輸入物だと思い込んでいた。

 国産の時計が出てくる頃には、国民も新暦に馴染んでくるだろう。それは時計店が今以上に流行るということだ。異人や商人ばかりでなく、外国に触れる機会のない日本人も足を運ぶようになる。歓迎すべきことに思えた。

「あんなに細かい作業をずっと続けるんですか」

 すみは苦笑を浮かべていた。

「歳を取ったらできなくなりそうなのに」

「そうとも限らないさ。おれが歳を食ったとしても、それを補う道具が出てくるかもしれん。時計が普及するならそういうことも有り得るさ」

 努めて楽天的に言ったつもりはなかった。日本人が既に時計を作り出す努力をしているなら、それを支える修理技術も一緒に伸びていくのが自然だろう。

「それに、歳を取ったら辞めるわけにもいくまい」

「あら、また英語を教えたらいいじゃないですか。今日も来てましたよ」

「ああ、それでどうした」

「工房に閉じこもっている時でしたから、また今度来るように言いました」

「二度と来るなとでも言っておけばいいのに」

「それじゃあかわいそうですよ」

「教える気はないんだ。そうとわからせた方がむしろ親切だろう」

「だとしても、もったいない。せっかく昌平黌で学んだことを、他の人に分けてあげないんですから」

 すみの言葉は、わたしにしてあげたみたいに、と続いた。すみに教えた英語はほぼ独学であったが、元から持っていた外国への関心を大きく花開かせてくれたのは、秀才のみならず異才や鬼才も集った昌平黌だったろう。

「兄だって、あなたの学識に惚れ込んだ口ですから」

 慶紀もまた若い頃、昌平黌で学んでいた。幕臣の子息として学んでいた自分に対し、いずれももんじ屋を継ぐことになっていた慶紀は親に難色を示されながら通っていた。生まれも立場も違う二人は江戸で出会うことはなかったが、横浜で知り合い、親交を結ぶことになった。従者付で寄宿寮に入って学ぶという、恵まれた立場の自分は当時知られた存在だったらしく、慶紀はいずれ会ってみたいと思っていたらしい。政治が代わり、お互いが外国のものに興味を持ったからこそ生まれた出会いだった。

「そしてお前と出会い、千太郎が産まれた。そう言いたいのか」

「あら、そうじゃないんですか」

「恥ずかしいことを言うな」

 故郷へ戻った家族と縁を切るように東京に残り、更に遠い横浜まで来た時点で、弥之介は女と家庭を持つことはなくなったと覚悟していた。

秩禄処分で追い込まれ、食うに困っていた下級士族とは違って、食い扶持を稼ぐために時計を学んだわけではない。家庭を持つことを諦める代わりに、時計に携わって生きていければいいという思いで、憧れを追い求めたようなものだ。失敗して士族の商法と後ろ指を指された者たちのように、切羽詰まった事情があったわけではない。

それなのに自分に注目し続けていた者が運んできた縁で女と結ばれ、いつしか家庭を持つに至った。出来すぎとさえ思うのだった。

「その気があればまだ、慕う人はいると思います。昌平黌に入るのがどれほどのことか、そこにいた人がどれほどだったのか、時代が変わったとはいえ知っている人はまだ大勢いますから」

 いつの間にか広く遠い目線を持てる女になったと弥之介は思った。塾生として出会ったばかりの頃は俗っぽさが抜けず、自分の周りのことばかりで精一杯な感じを受けた女が、遠くなりつつある過去を交えて語っている。

 歳のせいか、そうでなければ母親として七年を過ごしたせいだろう。そうしてすみの良さを認めていくと、頑なではいられなくなっていく。

「考えてはおくさ。だが、おれは学ではなく手先の技で身を立てていくことを、おまえと出会うより前に決めているんだ。まだその決意に見合うだけのことができているとは思っていない」

「わかっていますよ。まだ自分で一から時計を作ることもできてませんからね」

 痛いところを突かれ、弥之介は黙った。日本で初めて一から時計が作られて既に八年が過ぎている。まだ自分の耳に入っていないだけで、日本のどこかで国産の時計が生まれている可能性は充分にあった。時計の修理と販売をする者はここ数年で激増し、珍しくはなくなっている。時計の世界で目立とうと思ったら、時計を一から作り出せるだけの技術を身に着けるしか、今は思いつかない。

「いずれおれが続くさ」

 口にしてから、既に不惑を過ぎている男の言葉にしては、ひどく青臭く思えてきた。

 すみが澄ました顔でいるのが妙に気になって、弥之介は食事の残りを急いで平らげた。

「さっきの話だがな」

 黙って自分が食べる様を見守っていたすみに言うと、彼女は首を傾げて何でしょう、と訊いた。そういう動作にもまだ愛嬌があった。

「少なくとも英語なら充分に活かしていると思うぞ。ここの客のことを考えてみろ」

「ああ、それはそうですね」

 言いながら、すみは心から共感してはいないようだった。

 案の定、でも、と言葉を継いだ。

「大事なのは四民の見識を広げてやることだと思いますよ」

「おれに先生をやれって言うのか」

「あら、さっきから言っているのはそういうことですよ。私塾で相手にしていたのは庶民がほとんどでしたから」

 自分のことばかりではなく、過去の高名な私塾の創始者を挙げているのだと察した。幕末には下級武士たちに大きな影響を与えた塾も多く現れたが、町民も武士も、農民さえも巻き込んで学問を授けた塾も多くあったのだ。

 政府が学制を定めて十年余りが経ったが、何度か改正されている。それだけ教育は難しく大事と捉えているのだ。すみも同じ境地に立っているからこそ出てくる言葉だった。

「知っているよ。だがおれが今やるのは勉強じゃない。それはわかってくれるな」

「それはもう。全てわかった上でついてきましたからね」

 出戻りという瑕疵がついているとはいえ、二十を超えてから職人の世界に飛び込んだ男についていくつもりなど、普通ならば起きないはずだ。それでもすみはついてきて、これからも離れずにいてくれそうである。それは何より有り難いことだった。

 すみと千太郎、二人を食べさせていくためにも、新たな時代を新たな生き方で稼いでいく。先行きの見えない難しさにおののきそうだが、傍に守るべき相手がいると、逃げ出すわけにもいかないのだった。

 すみに片付けを任せると、弥之介は千太郎が眠る寝室へ向かう前に書斎へ足を向けた。

 書棚に本が入る頻度は、東京を離れて鈍くなった。結婚して子供が産まれ、養うべき家庭を持つという、東京に暮らしていた頃にはなかった出費が生まれたから、その分書物にかける金も減った。書棚にあるのはもっと若い頃、昌平黌にいた頃に集めたものである。

 儒学にまつわる書物が多いものの、それは昌平黌で学ぶ者としての建前もあった。好きで集めた歴史書などの本も多い。

 久しぶりに開いてみると、若さを通り越して幼かった頃、過去の時間が今につながっている不思議を感じたことを思い出す。過去にも同じように生きている人間たちがいて、それが歴史を作ったことを知った時、弥之介が感じたのは時間の存在だった。それを形にしたらどうかという思いがあって、今につながっている。

 幼い頃のそれは純なる憧れで、今は俗っぽい現実に身を置いている。しかし家庭を持つことができ、士族の商法と揶揄されることなく過ごすことができている。それだけで弥之介には充分と思えた。

 

 二

 

 溝江時計店を訪れるのは、父や周りの大人たちと顔かたちの違う男たちばかりで、彼らはいくら考えてもわからない言葉を操っている。そして父も、それに合わせて普段は使わない言葉で応える。小学校で昔のことを学んでいくと、日本という国にアメリカだのフランスだのといった国から多くの人が来ることになった経緯を知ったが、そういう人々が父に何を求めて店に訪れるのかわかってきたのは、中等科に入ってからのことだった。

 中等科に入ると、学校が休みの日に父は店番をするように言ってきた。それまで遊んでいられた時間を奪われるようで反発もあったが、父親の言うことには逆らえず、言われるままに帳場に座った。

 客のあまり来ない午前、帳場に一人でいると初等科にいた頃のことを思い出す。あの時はまだ時計に触らせてもらえず、客が来た時工房で時計の修理をしていた父を呼びに行ったところでお役御免になったが、最近は修理の完了した時計を客に引き渡すところまでやらされている。布地越しだが、時計に触ることを許されたのだ。

 時計の修理代を受け取り、引き替えに品物を渡す。たったそれだけのことで、自分自身が望んで就いている仕事でもない。しかしこの簡単な仕事で父はお駄賃をくれるし、ほんのわずか認められたような気分になる。悪くはなかった。

 一人で帳場に座ってしばらく経つと、客が全く来ない暇な時間にも出くわす。何もすることがないので、千太郎は帳場に置かれた時計を見つめる。昔父に言われて帳場に座っていた時も、退屈を感じてそうしていた。当時は時計に触るなと厳命されていたから見つめるだけだったが、今はその禁も解かれている。そう思うと手に取ってみたくなった。

 店の方へ丸い文字盤を向けている懐中時計には、十二の数字が周囲に書かれていた。普通に暮らしていたらほとんど使う機会のない、アラビア数字というものだろう。それが少し傾いて書かれている。失敗したのか意図的なものなのかわからないが、少し洒落た印象を時計に与え、見た目に変化をつけていた。

 耳を澄ますと音が聞こえる。息を詰めないとかき消されてしまいそうなほど小さな音で、それは文字盤の奥から聞こえてくる。

 それに合わせて手のひらにも微かな感触が返ってくる。いつか父の仕事場を覗き見た時、文字盤の奥に小さな輪や針金のようなものが組み合わされて詰まっているのを見た事がある。あの構造が、音と感触を生み出している。その気になれば自分でも壊せそうなほど小さいものを、父は今この瞬間でも組み上げている。そう思うと物静かな父の素晴らしい一面を見た気になった。

 四月に初めて帳場に座った後、三ヶ月間は見知らぬ客ばかりだったが、夏になって初めて見知った顔が現れた。

「店番か、千太郎」

 工房に閉じこもっていることが多く物静かな父に比べ、伯父の慶紀はいつでも明るく声が大きい。同じ客商売だが、仕事の性質の違いと思えた。

「学校が休みの時はやれっていうから」

「にいさんも忙しいのかな」

 一緒に暮らさず、たまにしか来ない慶紀がどうして父を兄などと呼ぶのか、その理由を知ったのは中等科に入ってからだった。

「修理の時計はなかったと思うけど」

 慶紀が訪れる理由を考えて訊くと、伯父は首を振った。

「おれじゃない、用事があるのはこっちのおじさんだよ」

 言われて千太郎は、慶紀より一回り小さな男に目を向けた。目が合うと小さく頭を下げ、人の良さそうな笑みを浮かべる。商人らしい表情と思い、慶紀と同じような仕事をしている人と思った。

 男の隣には、更に少女がいる。年格好が同じようなもので、興味を感じ始めると、慶紀に父を呼んでくるよう言われた。

「ちょっと商談があると言ってくれ」

 商談、と耳慣れない言葉を訊き返してから、千太郎は工房へ向かった。戸を叩いた後に唸り、次いで戸を開けていいと言う。それに応じて戸を開くと、父はこちらに体を向けていた。

 工房には入るなと昔言われ、それは今も許されていないため、千太郎は戸口で父に声をかける。

「どうした」

「伯父さんが来たんだ。商談があるって伝えて欲しいって」

 商談という言葉を耳にしたせいか、父は顔色を変えた。何やら大事な話を慶紀が持ってきたらしいことを察する。

「わかった。お前は奥に行っていなさい」

 そう言って父は部屋を出て戸を閉めた。振り返らずに店の方へ行く。

 言われた通り奥へ戻ったが、誰もいない。母は洗濯物を干しているのか、庭の方で土が擦れる音が聞こえる。港の方へでも遊びに行きたいが、午前中は家にいなくてはならず、『商談』が終わればまた店番をしなければならない。今は何もせず待つしかなかった。

 千太郎は仰向けに寝転がった。両親がそれぞれ仕事をしていると、家の中にいてもすることがない。弟が一人でもいれば退屈をしのげそうだが、家族が増えそうな気配はない。

 父に呼ばれるのを待っている内に母が戻ってきた。どうしたの、と見下ろして訊いてくる。

「商談だって。伯父さんが来たんだ」

 父に言ったのと同じことを伝えると、兄さんが、と母は呟いた。

「それで奥へ行ってろって。遊びに行ってもいいかな」

「まだその時間じゃないでしょう。お父様に呼ばれるまでおとなしく待ってなさい」

 そう言って母はまたどこかへ行ってしまった。再び取り残される。父が呼びに来たのはだいぶ後に感じられた時で、帳場の時計を見ると針は反対方向を指していた。伯父や彼についてきていた男、そして少女は立ち去っている。

 その後は客も来ず、母に呼び出され食事をしてお役御免となる。

 慶紀と共にいた男が生糸商人だったと知ったのは、その日の夕餉の席だった。

「家族で横浜まで移ってきたらしい。少し遅い気もするがな。家族は妻と娘一人ずつらしい。しっかり養っていってもらわないと、関わった者として寝覚めが悪いな」

 商人の傍にいた、同じ年格好の少女がその家族なのだろう。姿を見つけた時に向こうへ行けと言われたから、髪の結い方も確認できずにいた。確かな記憶は木綿の小袖を着ていたことで、商人の子の割にいやに庶民的だと思った。

 父が時計を学び、販売と修理身を立てようと思ったのは明治七年のことで、西郷隆盛も健在だった頃だ。御一新の直後から海外と積極的に関わろうとする日本人は多く現れて、生糸商人も例外ではない。拠点を移して新たに旗揚げできる時期は既に過ぎていると父は見ているようだった。

「その人と兄さんはどういう知り合いなんですか」

「飲みの席で意気投合したとか、そんなものじゃないか。慶紀は誰とでもすぐ親しくなれるからな」

「それで時計を持つように言ったということですか」

「きっとそうだろう。おれとしては客が増えるのは願ったり叶ったりだから、慶紀には感謝しないといけないな」

「わざわざ客を取らせようとしたんですか」

「違うだろう。これからの商売人に時計は必要なんだ。だけど慶紀が知っていて信頼できる時計店はうちしかない。だから連れてきたんだ」

「時計ってそんなに大事なの」

 千太郎が口を挟むと、両親は少し驚いた顔をした。

 それから父は頷き、時間が大事なんだ、と言った。

「御一新の前なら違ったかもしれないな。お前が生まれる前に使っていた時間は季節によって変わったし、多少狂いがあっても仕方なかった。それが今は、いつどんな時でも時間の長さは変わらない。海外ではそういう風に長い間なっていて、それで商売人も生きてきた。日本人もそれに合わせなくちゃならん」

 へえ、と言いながら、千太郎は話に聞くしかない江戸幕府の時代に流れていた時間を、急に感じてみたくなった。今の定時法が海外から入ってきたものであるのは知っているが、もしも全ての時計が壊れてしまったら、この時代の時間はどうなってしまうのか。江戸期の不定時法は日の出と日没が基準だというから、不正確でも時計に頼らず生きていけるだろう。

 それまで物静かな表情で、伏し目がちに話していた父は、急に千太郎を向いて微笑んだ。

「まだ農村などでは昔の暦を使っていたりして、定時法もうまく伝わってないらしいが、政府は外国に合わせると十年以上前に決めたんだ。いずれ日本中で時間は変わる。これからを生きるお前は、それにちゃんと合わせていけよ」

 千太郎はぎこちなく頷いた。父が表情を表し、熱意がわかるように語ることはこれまで少なくて、何となくくすぐったかった。

 その夜の千太郎は未明に目覚めた。尿意があるわけでなく、悪夢にうなされたわけでもない。何がきっかけになったのかわからないが、眠りが途切れてしまった。

 朝になったら学校へ行かなくてはならない。あとどれくらいの時間があるのか知りたかったが、時計店の居間に時計はない。両親が時々話す、日の出から日没までを区切りとする不定時法なら時間の計算も楽だっただろうか。あと少ししたら日が昇り、一日が始まる。しかし冬の朝はまだ夜が明けきらないのに、夏の朝は日がある程度まで昇って、気温も高くなる。やはり時計がないと時間は測れなさそうだった。

 ぬるかった空気が徐々に熱を帯びていくのを感じているうちに、母が起きる気配を感じた。千太郎はそれから自分で三十分を数えて起き上がった。その間に父も起きている。珍しく母に叩き起こされずに済んだ。

 

 生糸商人の親子は、次の休日に再び訪ねてきた。千太郎はその時店内の掃除をするよう言われ、帳場には父が座っていた。

「ああ、村尾さん。お待ちしておりました」

 ともすれば無愛想と見える父は、驚くほど柔らかな笑顔で商人親子を迎えた。声も高く張り、千太郎は一瞬父が別人に見えた。

「時計のことなんだが、そろそろ決めようと思ってね」

「そうですか。ではまた、一つずつご案内させていただきましょう」

 父の物腰は柔らかかった。家での物静かな態度が演技に思えてくる。

 千太郎は掃除の手を止めて二人の様子を見ていた。村尾の傍には今日も彼の娘が寄り添っている。大小様々な置き時計から壁掛け時計、机の上に置かれた懐中時計など、様々な時計が置かれた店内を見回している。興味を抱いた瞳ではない。未知のものに囲まれて不安がっているようだった。

 新しいものといっても時計は恐ろしいものではない。そう言って不安を解きほぐしてやりたかったが、父は向こうに行っていていいと言った。

「掃除は村尾さんたちが帰ってからやってくれ」

「あ、お父、おれもここにいていいかな」

 時計のある場所で、初めて父の言葉に背いた。大それたことをした思いにとらわれて、言葉を飲み込んだ父の表情が、怒りのものに思えてくる。

 しかしその後出てきた言葉は、好きにしろ、という静かなものだった。

「だが邪魔はするなよ」

 千太郎は頷いた。充分だった。父たちが何を話すのか見ているだけで良かったし、村尾の娘も同じ年頃の自分がいたら不安がらなくて済むだろう。

 父と村尾は店内を周りながら会話した。置き時計や壁掛け時計の前では立ち止まらず、懐中時計の前でばかり話をした。生糸の相場や海外で日本の生糸がどれほど高い評価を受けているかという内容の話を交えていて、父はそれに淀みなく答えている。村尾が不満を漏らすことはないから、的を射た言葉を返しているのだろう。

「私の義弟から聞いたかもしれませんが、時計は装飾品です。女の櫛やかんざしと同じものです」

「粋を感じさせろということですか」

「ああ、異人を相手にするならそれもいいですね」

 父は明るく笑った。村尾もそれに釣られたように表情を和らげる。

 その傍で村尾の娘は堅い表情のままだった。自分がいても、彼女には関係がないのかと思いながら見ていると、娘が不意にこちらを見た。

 かわいらしい笑みを浮かべてこちらを見た。その表情のまま頭を下げた。

 千太郎も同じようにしようとして、うまくいかなかった。

 自分の表情が相手にどう見えるか、お辞儀で返すのがおかしくないか。諸々考えるとうまく動けなくなり、そのまま立ち尽くした。

 やがて村尾は時計を一つ選び、買い上げた。用事が済むと村尾と娘は店を出ていった。

「さて、続きをしないとな」

 娘を見送り、しばし呆然としていた千太郎は、父の言葉で我に返った。

「終わったら呼んでくれ」

 そう言って工房へ戻ろうとした父を、千太郎は呼び止めた。

「経線を引くために作られたってどういうこと」

 村尾が買った時計はイギリス製で、経線を引くために船の上で使われたほどだから精度が高いと父は説明していた。村尾は納得していたが、その根拠や、そもそも経線が何なのか、千太郎の知識では理解できない。

「知りたいのか」

 父は一瞬言葉に詰まってから訊いた。

「うん」

 それに応えて千太郎は頷いた。

「地図の上で説明してやる。夜まで待て」

 父はそう言って引っ込んでしまった。残された千太郎は言われた通りに掃除を再開する。時計と地図がどう結びつくかわからず、興味は膨らんだ。

 父は言ったとおり、夕餉の前に地図を持って居間に現れた。日本地図を使うのかとばかり思っていた千太郎は、世界地図の前に一瞬言葉を失った。

「地図の上には経線と緯線というものがある。横の線が緯線で、経線はこの縦の線だ」

 そう言って父は、本州のすぐ傍の海に走る線を指した。

「緯線も経線も、イギリスが船で世界を回るために考え出したものだ。緯度は星の位置を陸の天文台と船から見たものしることができればわかるが、経度は正確な時間がわからないと線が傾く。この線を真っ直ぐ引くことができる時計は、それだけ精度が高いということだ」

 思った以上に壮大な話で想像が追いついていかないが、地図上に寸分の狂いもなく張り巡らされた線を見れば、それを実現した時計がいかに素晴らしいか、それだけはわかる。

「それから、村尾さんが買った時計は元々船の上で使うものだった。おまえには想像がつかないかもしれないが、船の上は常に揺れる。不完全な時計ならその揺れの影響を受けて機械の運動が狂うものだが、あれはそういうことは起こらないと、作ったイギリス人が言ってイギリス政府も太鼓判を押したものだ。背広のポケットにでも入れて持ち歩くんだろうが、それぐらいではびくともしない。地図上に経線を引くために作られたとはそういう優れた時計なんだ」

 千太郎は村尾が買った時計を思い出していた。蓋に葉の絵が彫り込まれた懐中時計だったが、昼間はそれ以外の印象を受けなかった。それが、父の話を聞いた後ではとてつもなく壮大な目的のために生まれたものに感じた。

 世界地図の上に寸分の狂いもなく線を引くための仕組みが、手で包み込めるような時計の中に収まっている。港を行き交う船や陸の上を走る列車の巨大な仕組みには見る度驚嘆してきたが、時計の小さな仕組みもまた、同じだけの驚嘆を禁じ得ないのだった。

 そしてそれを生み出すのは異人たちの手であり、指であろう。店を訪れる異人たちは日本人に比べて長身で手足も長い。あの大きな体で細かい作業をやってのける。日本人が高い金を出して雇うはずだと納得できた。

 千太郎は眠りに就く前、一瞬夢を見た。大きく揺れる見覚えのない場所にいて、そこに置かれた時計を見つめている。時計は正確な間隔で音を出し、針もそれに応えて動き続ける。

 浅い眠りは不意に途切れ、視界に闇が戻ってくる。あの正確な間隔で聞こえてくる音も消え、千太郎は妙に居心地が悪くなった。

 

 休みのたびに店のことを手伝うのは、お駄賃と親の言いつけを守るためだったが、時計に囲まれる時間が増えると別の興味が沸いてくる。自分では想像もつかない時計の構造を知るためには父に尋ねるしかなく、邪魔にならないよう気を遣いながら控え目に言葉を並べてみる。初め父にとっては予想外だったらしく、言葉をかけるたび戸惑いがちに応じていたが、九月に入る頃には完全に慣れたようだった。

 村尾の娘が一人で店を訪れたのは、夏がほぼ完全に過ぎた九月末のことだった。

 誰も来ない店の中を掃除していると扉が開いた。父を呼ぶことに意識が行って、反射的に工房の方を向いた千太郎は、思いがけずか細い声に驚いて向き直った。

「あの、ここで時計を買った村尾の娘ですけど」

 声は小さいが、言葉遣いはしっかりした印象を受けた。千太郎は戸惑い、はい、という言葉を返すのに数秒かかっていた。

「ここで修理はしてもらえませんか」

 修理、と訊き返すと、娘は巾着袋の中から村尾が先日買った時計を出した。

 葉の絵が彫り込まれていた蓋が取れて文字盤が丸見えになっている。時計自体は動いているが、蓋がなくなっただけで輝きが薄くなったように見える。父が言っていた、時計は装飾品という言葉が思い出された。

「ちょっと待って、呼んでくるから」

 千太郎は駆け出して工房の父を呼んだ。工房で時計の修理をしていた父に事情を話すと、訝しげな顔をしたが、腰を上げて店の方まで来てくれた。

 娘から時計を受け取り、文字盤を見つめていた父は、更に耳に近づけてから時計を返した。

「少し音の間隔が狂っている。この蓋は、高いところから落としたのか」

 娘は目を伏せ、頷いた。

「直すのは難しくない」

 そう言うと娘は伏せていた目を挙げた。嬉しそうな顔で、本当ですか、と言う。千太郎も何故か安堵した。

「ただ、今もやらなくてはならない仕事があるから後回しになる。それから修理代を払えるか」

 そう言って父が示した金額は相当なものだった。

 言葉を失った娘に代わり、千太郎が抗議した。

「難しくないんだろ。だったらやってくれたって」

「お前が食べる飯や着る服はどうやって得るのかわかっているか」

 父は途端に厳しい顔をした。それに気圧され、そして父の稼ぎに日々の暮らしが立っていることを思い出す。

「それに、おれが時計を学んだのは稼ぐためだ。それだけは譲れんよ」

 きっぱりとした宣言だったが、声音は少し柔らかく、わかってくれるなと諭しているようにも聞こえた。

 千太郎は言葉を失い、娘は首を振った。払えないです、と小さな声で答えた。

「そうか。それなら残念だが持って帰ってくれ」

 わずかに哀れみを帯びた目で、父は娘を見ていた。高圧的な物言いで追い返すのなら抗議する元気も残ったかもしれないが、まるで申し訳ないと思っているようで、千太郎はそれ以上娘を守るようなことは言えなかった。

 娘は素直に踵を返して店を出ていった。その背を見送っていると、掃除は済んだのか、と父は訊いた。

 千太郎もまた、素直に掃除を再開する。娘は不注意で父親が買った時計を壊してしまい、気づかれる前に何とかしようと思ったのだろうが、その目論見は崩れてしまった。ちゃんと父親に謝ることができて、許されるのだろうか。掃除の間千太郎の頭から、そんな思いが離れなかった。

 次に娘と再会したのは、横浜駅の前であった。一度家に戻ってから青菜を買うよう母に言われて外に出てきた時で、小さな駕籠を背負っていた。

 相手も顔を覚えていたのか、目が合った時に愛想笑いを浮かべた。

 千太郎は会釈し、娘と壊れた時計が結びつく。

 そして父に時計の修理を頼んで、すげなく断られたことを思い出した。

 改めて見ると、面立ちから体つきまで全てが細い娘だった。背負う駕籠は空だが、買い物を済ませた時にちゃんと背負えるのか心配になってしまう。

 この細い体で、父親と相対して平気だったのだろうか。

「お父が、力になってくれなくて、ごめん」

 壊れた時計を持ち帰ったことで叱られたはずだ。とりあえず何か言って慰めてやりたかったが、まるで父を責めるような言い方になってしまった。

 娘は首を振り、仕方ないです、と言った。

「時計を作ったり直したりって難しいから。それでお金が必要なのは当然です」

 端から見ている時は気づかなかったが、娘の言葉は同じ年格好の割に整然としていて、年上の相手と喋っているような感じさえあった。

「でも、怒られたんじゃないのか」

「それはそうです。でもわたしの不注意で壊したから、それも仕方ないです」

 娘はここでも笑顔を保っていた。

「お使い?」

 娘の笑顔がどこか苦しそうに見えて話題を変えると、彼女は首を振った。

「自分で来たからお使いとは違うと思います」

 言い回しの妙に理解が追いつかず、言葉に詰まっていると、急ぐから、と言って娘は頭を下げた。千太郎は脇を通り抜けた娘の背中を見送る。もしかしたら迷惑に感じて逃げられたのかもしれない。千太郎はそんな突き放すような感じを、人混みに紛れていく小さく細い背中に見た。

 必要なものを入れた駕籠を母に渡した後、千太郎は店に行った。店内に客はおらず、帳場に座る父は何か書き物をしている。

 ふと店の戸が開かれる。入ってきたのは見知らぬ異人だった。

 顔見知りなのか、英語らしき言葉を発する異人は初めから表情を和らげ、父もまた明るい声音で英語を操る。店の裏側、家や工房では職人然とした物静かな態度を取る父のもう一つの表情である。最近は場所や相手によって態度を変えなければならないことがわかってきたから不自然には見えない。

 異人は時計を渡した後すぐに立ち去った。英語で見送りの言葉をかけてから帳場に戻る。そこで初めて父は千太郎に気づいたようだった。

「お使いは済んだのか」

 さっきまでの明朗快活な印象とはまた違った顔を向けてくる。表情に乏しいが無愛想には見えず、温かな言葉を向けてくれそうな顔だった。

「買ったものは渡したよ」

 そんなことを伝えるためにわざわざ仕事中の父に会いに来たわけではない。それを察して何か言ってくれるかと期待したが、そうか、と言って父は帳場に広げた帳面に向き直り、預かった懐中時計と見比べながら何ごとかを書き残していく。既に息子への意識は消えているようだった。

「お父」

 どんな言葉で切り出せばいいものかまとまらない内に話しかけたのは失敗だと思ったが、父は手を止めて振り向いた。どうした、という静かな問いかけに曖昧な返事をしてしまう。邪魔をするなと怒られるような気がして、千太郎は焦って言葉をひねり出した。

「あの子と会ったんだ」

 父は短く唸った。

「誰と会った?」

「あの、村尾って人の子供と」

 父は一瞬視線を泳がせてから、ああ、と応じた。

「それで、怒られて、恨み言を言われたからおれに文句を言いに来たのか」

 父は破顔した。困惑や嘲りを含んだ表情ならともかく、真に面白がるような邪気のない表情は予想外で、千太郎は固い身構えが解けるような気がした。

「別に何も言われてないよ。仕方ないって言ってた」

「ずいぶん物わかりのいい子だな。母親の代わりをしないといけないからかな」

 父の言葉は何気なかったが、千太郎の耳にはかちりと引っかかった。

「それって、お母がいないってことなのか」

 父は表情を動かした。途端に目を逸らす。

「時計はどうした。直せたのか」

 微かな上ずりを千太郎は聞き取って興味が芽生えたが、父が隠そうとしていることをわざわざ暴き立てるほどにはならなかった。

「そこまでは訊かなかったけど。壊したことは謝ったみたい」

「そうか。ちゃんと元の鞘に収まればいいが」

 親子の関係をよく知っているような口ぶりだった。そればかりでなく、家族の内情についても何か聞いているのかもしれない。名前さえ知らない村尾の娘が苦労していることを思うと穏やかでいられないが、それ以上のことに踏み込んで訊くには勇気が要るような気がした。

 代わりのように、千太郎は少女の名を訊いた。

「訊いてどうする」

 教えるのを渋ったのは予想外だった。どうすると訊かれても相応しい答えは用意できず、どうもしないけど、としか言えなかった。

「客のことをあれこれ詮索するのはよせ」

 そう言って父は、それ以上の会話を拒むように背中を向けた。声も背中も頑ななものになり、家でよく見せる物静かな父に戻ったようだった。

 深い理由はわからないが、深く訊いてはならないことだけは伝わり、千太郎は素直に戻った。

 千太郎が買った青菜は豆腐と共に夕餉の汁の具材となり、かまぼこと漬け物がおかずとして添えられる。今日は珍しく白米を炊いた日だった。そして父と一緒に食べるのも珍しい。時計の修理が立て込んでいると食事を遅らせて一人で食べるのが習慣だった。

 喧嘩をしたわけではないが、本来踏み込んではならない領域を垣間見たようで、何となく顔を合わせづらかったが、父は気にした風もなく、淡々とかまぼこを食べて汁をすすった。

 二きれの漬け物は食器の内側を拭き取ってから食べ、空になった食器を自分で台所へ持っていく。一ヶ月に二度水洗いするに留めるのを父は不満らしいが、台所を預る母は気にしないため、千太郎もそれに倣って隅に置き、台所を後にした。

 眠りに就く前に村尾の娘の名が気にかかり、目覚めた後もその気持ちは変わらずにあったが、店で村尾と会うことがなく、娘と顔を合わせることもなかった。あの時どうして村尾と一緒に来ていたのか、その理由を知る機会さえなく時を過ごしていく。

 その間、関心は出会いさえなかった娘ではなく、日々見聞きする音と物へ移っていく。時計への興味は日々大きくなる。文字盤の上で針を正確に回す機械に惹かれ、裏側を覗いて触るために、技術の教授を父に求めた。

「おれはお前にこの道を強いたことがあったか」

 初めて父親の後を追いたいと告げた時、弥之介は少し戸惑ったような顔をしてそう言った。

 そんなことはないと言った後にも念押しし、改めて答えてから、初めて話は先へ進んだ。父の答えは、小学校を卒業するまで待てというものだった。

 言いつけ通り千太郎は、休みの日に任される掃除と店番を続けた。時計修理に使う精密ドライバーを見せてもらったのは小学校卒業の翌日で、これを触れるようになるまで時間がかかると告げられた。

「おれは昌平黌に通っていた頃から時計のことを一人で学んで、師のところへ通い出してから一年でそれなりの修理ができるようになった。お前にそこまでの速さで学べとは言わないが、三年でおれが認めなかったら諦めてもらう」

 父は約束の証として、誓約書を書かせた。小学校に通う前からすみによって学ばされ、小学校でも教わった読み書きによって、文面から署名までをあつらえたが、約束の証の割には整わない書面になった。

興味本位で父に技術の継承を求めたつもりはないが、約束を守れなかった時を思っても未来は思い浮かばない。父の示す技術を学び取るしかないのだと千太郎は思った。

 

 

午前中に父が店番をし、その間千太郎は工房で時計修理を受け持つ。昼餉を終えると役割を入れ替える。単純だが求められる仕事が大きく違うため、修理する時計が時間内に完成しないなど、初めはかなり戸惑ったものだ。

それも一年経てば慣れてくる。父と約束した通り、三年で仕事ができるだけの技術を父から学び取り、店で客と遣り取りができるだけの知識も蓄えた。英語だけはまだ慣れなかったが、そこだけは父が助けてくれた。

修行期間に位置づけられた三年間で、日本の時計は新たな展開を見せた。明治八年に麻布の金子元助が自ら柱時計を作り上げたのを皮切りに、日本人でも時計を一から作り出す者が現れたが、その規模は小さく、輸入品がまだまだ優勢だった。

潮目が変わったのは明治二五年である。銀座に時計店を出していた服部金太郎が本所に精工舎を設立し、国産時計の量産を始めたのだ。日本の時計は輸入品頼みではなくなっていった。

千太郎が二十歳を迎える頃、服部はそれまで輸入するしかなかった時計を逆に輸出し始めた。その流れが影響しているのか、溝江時計店に並ぶ品にも国産品の懐中時計が増えてきた。

それまで日本人が眺めたり直したりすることしかできなかった時計が、自らの手で作れるところまで来ている。その事実は千太郎の胸を高鳴らせると同時に焦りも生んだ。服部金太郎という、会ったこともない時計店の店主と、彼に使われる時計職人が自分たちより一歩先へ行っているような気がする。横浜で時計の販売と修理だけをしていては、いずれ時計職人として生きていけない。そんな危機感が生まれていた。

父にその考えを話すと、余計なことを考えないで自分の務めを全うしろと言われた。

「向こうは東京、こちらは横浜だ。客の中にはうちをひいきにしてくれる客もいる。それを大事にしないで、先ばかりを見ていても仕方ないだろう」

 初めて時計を学んだ時に比べてざらついた声を昼餉の席で出した父は、食器を片付けずに出ていった。

「おまえ、東京へ行きたいのかい」

 ずっと黙って父子の話を聞いていた母が訊いた。本心を隠そうと、口からははぐらかすように曖昧な声が出たが、先の方を見て進むのは全然悪くないんだよ、と優しい声で言った。

「お父様だってそうして生きてきたから、横浜で今まで生きてこられたんだよ」

 伯父である慶紀から、父の実家が旧幕臣であったことは聞いている。御一新の後、士族となった武士の生活は秩禄に拠っていたが、政府の財政を圧迫するということで打ち切られ、生活に困る士族が続出した。父の実家は元々裕福だったから、頼れば楽に暮らしていけたはずなのだが、父はわざわざ縁もゆかりもない横浜に出て時計店を始めた。それも、初めのうちはうまくいかず英語塾との兼業だったという。

 失敗すれば士族の商法と揶揄される恐れに、昌平黌を出ていた聡明な父が気づいていなかったはずはない。それでも東京に留まったり故郷へ戻ったりしなかったのは、先を見ていたからだろうか。暦が切り替わり、時の意味が変わり、時計の価値が高まっていく時代に、自分のやりたいことを素直にやろうと思ったのだろうか。

「ここで時計を作れたらいいけど」

 父子でも作業の癖や速度に違いがあって、本来なら専用の工房が必要なのだが、そこまでする余裕がない。本来の仕事さえ充分な設備を整えられないのに、新たなことに手を出す準備などできそうにない。

「また考えてみる」

 何か言いたそうだった母を振り切るように、千太郎は帳場へ向かった。

 母と仕事に関わる話をしたせいなのか、子供の頃から慣れ親しんだ店が、急に狭くて古臭いものに見えてくる。ひいきの客がいることは、帳場での父を見ていればわかるし、そういった人たちを大事にしようとしているのは、時に食事を抜いてでも仕事を仕上げようとする姿勢に表れている。この溝江時計店は元々父が開いた店だから、父はそれでいいのだろう。

 しかし息子まで同じ姿勢でいいのか、千太郎には疑問だった。父が引退したら店を譲り受けることもあるかもしれないが、それまで工房で時計の修理をし、帳場で時計の販売を繰り返す。その仕事に淡泊さを感じる気がした。

 一日を終えた時、父は夕餉の席に現れなかった。仕事が終わらないうちは気を抜かない、千太郎が子供の頃から貫いている姿勢である。

 千太郎は母と食事を摂り終え、片付けもそこそこにして工房へ向かった。

 扉越しに声をかけると微かな唸り声が聞こえる。小学校に通っていた頃には、食事をいつ摂るのか訊くよう母に言われ、その度に工房の父と話をした。その時の声よりも声は張りを失っている。

 唸り声に応じて戸を開く。父は手を止めず、こちらに顔を向けることもしなかった。

「お父、食べないのか」

「まだ終わらん」

 工房にいると父はいつも以上に無口になる。修業時代無駄口を叩くなと幾度となく叱られたことを思い出す。あれは小さな部品を吐息で吹き飛ばさないようにする配慮を教え込むためだったと、工房に一人で座るようになってから知った。

「話か」

 どうしたものかと考えながら立ち尽くしていると、短く父は言葉を継いだ。千太郎もそれに応じて短く答えると、父は手を止めた。

「ここで話せ」

 席を立った父は戸の外まで歩いてきた。その動きはかつてに比べると慎重で、小さなものがたくさんある部屋の中だからというだけでなく、思うように動かなくなりつつある自分の体を気遣っているように見える。

「東京のこと何だけど」

「気にするなと言ったろう。認める人は認めてくれている」

 ざらざらした声で、父は言い切った。

「それだけでいいのか」

「何が」

 父が答えるのに一瞬の間があった。

「時計を売ってそれを直すだけの仕事を、ずっと続けていけるのか」

「できるかどうかでなく、続けていくしかないだろう」

 表情を変えずに父は答え、間を置かずに踵を返して元の席へ戻った。机に向かって工具を握り、小さな部品と向き合う姿が、子供の頃に見たものと違う。当時に比べて頑なになっている。周りの流れに対し合わせようとせず、無理に抗っているように見えた。

 老いた体で無理を重ね続けたところで、何が待つというのか。

 不意に父がこちらを向いた。まだ何かあるのか、と目で問いかけてくる。

「ずっとそうやって仕事を続けるのか」

 父の答えは、ああ、というため息混じりの短いものだった。

 それ以上のことを言わずに仕事へ没頭する。まるで迷いを無理矢理押し込めているような姿勢に見えた。

 千太郎は戸口に立ち尽くしていたが、父は気づいていないかのように作業を続ける。老いた姿を見ているうちに、千太郎は父を呼んでいた。

「東京へ」

 父の手が止まった。

「東京へ行きたい」

「行ってどうする」

 返答は思いがけず素早かった。

「この二年、未熟で絶賛されるほどではないが、おまえは年齢相応の仕事ができている。充分この時計店の役に立っているぞ」

 首だけを向けた父の固い表情を、千太郎は思いがけない気持ちで見返した。修業時代、叱ることも褒めることも滅多になく、淡々と技術を伝えることに徹した父の、初めての賛辞だった。

 引き留めたいが為だけの麗句ではない。物静かだが時計に対しての真剣さは、初めて時計店の店番を任された時から感じていて、今でも変わっていない。

 そう感じながらも、千太郎は引き下がらなかった。

「時計を直して売るだけでいいのか。いくらひいきの客がいても、それでずっと続けられるのか」

「さっきも言っただろう。続けるんだよ。務めを果たすために働くのが当然だ。おれたちの場合は、持ち込まれた時計を直し、仕入れた時計を売ることだ。それの何が不満だ」

「おれ、時計が作れるようになりたい」

 父が何らかの反応を示すことは覚悟していたが、言葉を失うほどとは思っていなかった。

 恐る恐る父に呼びかけると、後で話そう、と言った。

「ここは仕事場だ。おれもおまえも喋りすぎた」

 出入りに細心の注意を自他に課す父が何も言わなかったから、千太郎も失念していた。素直に引き下がったが、父とその日のうちに会うことはなかった。

 

 工房を出た時間は、普段に比べて二時間ほど遅いのに過ぎなかったが、家とその周囲は静まり返る。夜が肌寒くなってきているせいもあるのだろう。

千太郎が産まれて間もない頃、店も塾も休みだった時に時計の修理依頼が立て込んだことがあって、一気に片付けようと思って工房に閉じこもったことがある。全ての修理を終えて外に出た時、周囲の静けさが怖いほどだったが、そこまで自らを追い込むことがなくなった今、静けさの中に身を置くのは落ち着かない。

 櫃の中にある飯は冷たく、表面がわずかに固くなっている。千太郎がまだ子供だった頃は、仕事がなかなか終わらず、そうなった食べ物を口にすることが多かった。味や食感が落ちるのは仕方ないと思うし、我慢もできるが、鮮度の落ちたものを食べると若い頃に比べて体の働きが落ちていることを思い知らされる。固い飯が胃の中で長く留まっている感じがあって、食べ終えてから横になることが、長く億劫になるのだった。

 仕事場に時計はいくつもあるが、全て壊れていたり狂っていたりして、正確な時を教えてくれない。信頼できるのはいつも持ち歩く懐中時計である。以前生糸商人の村尾に、男が持ち歩く懐中時計は装飾品であると語ったことがあるが、そういう時計の方が売り上げに貢献してくれる。自分自身は何の飾りもない時計が好きで、工房に持ち込む時計には何の装飾もない。動き続けるうちに生じる誤差を定期的に直してやる以外、修理の手を触れたことがない時計は、飾りのない外見が無骨に思え、愚直で不器用な人間のように見えてくる。そうした人間は得てして生真面目に働き続けることしか能がないものだが、それがかけがえのない取り柄であると本人も気づいていることが多い。時を人に伝えるという務めを果たし続ける時計も、あの細かい機構の中にそんな思いを封じているような気がした。

 息を詰めているうちに文字盤の奥でテンプやひげゼンマイ、ガンギ車といった機構が動く音が聞こえてくる。時計に長く携わるうちに弥之介は一秒を正確な間隔で感じ取ることができるようになり、その感覚に自信もあったが、時計はその感覚に照らし合わせても狂いが非常に小さい。

 師が勧めただけのことはあると思う。弥之介の師はイギリス人の時計職人で、日本には商人に請われて来ていたらしい。その噂を聞きつけて師が一人で暮らす家に押しかけ、頼み込んで教えてもらった。英語を喋れたのは非常に大きく、名器を多く作り出した土地の技術を、直接教わることができたのだ。

 時計に携わるのなら自分が愛せる時計を一つは持っておけ。それが最初の教えで、飾りはないが船の上でも狂いが小さい時計を勧められ、惹きつけられた。以来決して安くはない金を払って手に入れた時計との付き合いは続いている。

 弥之介は長い付き合いになる時計の文字盤を見る。リーフ型と呼ばれる針の中程が膨らんでいる、文字通り木の葉のような形の指針を持ち、数字はブレゲ文字で書かれている。若かった頃はその外見だけで洒落た感じを覚え、歳を取ってくると裏側で正確に動き続ける機構に興味を覚えてくる。若い頃は自分の時計に詰まった技術にただ感動するばかりだった。今の千太郎よりもはるかに年上だった自分は、時計を売って直すことが目的だった。これを一から作り上げることなど、つゆほども考えなかった。

 そんな自分の血を受けた千太郎が、二十歳にもかかわらず時計を一から作りたいという。自分の二十歳といえば昌平黌で学んでいた頃で、時計は戯れに過ぎなかった。周りに時計が好きな友人はいたが、誰も真剣に時計とは向き合っていなかった。時計といえば輸入物しかなかったし、手にするためにはかなりの家格が必要だった頃の話しである。憧れを抱くしかできなかった。そんな頃と比べて、職人としてこれから飛躍する歳である千太郎は、日本人でも時計を一から作れることを知った。それに触発されるのは無理からぬことだろうか。

 弥之介は時計の蓋を閉め、羽織の隠しに入れて寝所へ向かった。千太郎と話をしなければと思い始めていた。

 仰向けのすみの傍で横たわってからすぐ、呼びかけられた。

「千太郎のことですけれど」

 まさか自分が帰ってくるまで起きているとは思わず、弥之介は息を呑んだ。

「驚かすな。おまえ、ずっとおれが帰ってくるのを待っていたのか」

「夫婦で話し合えるのはここしかないでしょう」

 一理あると思ったが、眠気と戦いながら待つことはないだろうとも思う。

「千太郎から聞きましたか」

「まあな」

 弥之介は自らの声にため息が混じっているのに気づく。千太郎のことでこれほど重い悩みを抱えたのは初めてだった。

「東京へ行って、時計を作るか。おれが千太郎ぐらいの頃には考えもしなかったし、仕事を始めようと思った時も考えなかった。日本人にも時計を一つ二つ作り出す腕を持った職人ぐらいいるだろうと思ってはいたが、まさか量産に成功するとはな」

「焦っているんですか」

「いや、驚いているだけだ。おれは千太郎に、修理と販売だけでも充分やっていけるから気にするなと伝えたが、それでは満足できないのかな」

「うちでもやってみたらどうですか」

「それは無理だ。工房を二人で使わざるを得ないような余裕のなさじゃ、新しく何かをやることなどできんよ」

 それに新しく何かをするには遅い、と弥之介は付け加えた。もうじき六十に手が届く自分は、最近体が思うように動かないと感じることが増えている。資金を調達するのに働くことも、始めたことを長く続けるために努力することも、自分の体は耐えられないと悟っていた。

「それで、千太郎が東京へ行くことを許すんですか」

「おれは許すつもりはない」

 職人としての興味を触発されたことは理解できるし、自分のように諦めを感じる前にやりたいことを素直にすることにも賛成したい。しかし今や溝江時計店は自分と千太郎で支えている。自分の引退も近いだろうし、その時には千太郎に店を譲りたいと思っていた。その時千太郎が東京で時計を作ることに成功したとして、専ら修理と販売をしてきた溝江時計店にどんな利益があるのか。

「そう言ったとして、千太郎が納得するでしょうか」

「千太郎は素直な質だ。聞く耳を持たないということはないだろう」

 時計を一から作り出すことへの興味に気づいた千太郎を引き留められる言葉は、簡単にはひねり出せそうになかった。

 

 四

 

 中町屋を外から観察していると、商売人としては義弟の方が遥かに成功していると思い知らされる。中町屋は江戸から続く店で、明治に入ってから一代で築いた溝江時計店とは始まりの位置が違う。差がつくのは仕方がないことと思うが、座敷を二階に収めた建物に、若い料理人が通りに向かって肉を捌き、それを往来の人が買い求めている。規模の違いに弥之介は胸に落ち着かないものを感じた。

 日射しは穏やかだが吹き付ける風は少し冷たい。弥之介は一旦店に戻り、夜を待った。

 慶紀に言われた通りの時間に、正面から扉を開けようとしたが、若い店員に呼び止められた。

「もう店じまいなんですよ、悪いんですけどね」

 好漢を絵に描いたような容姿の店員は、提灯のぼんやりした光の前でもよく映える笑顔で語りかけてくる。

「主人から聞いていないか。店が閉まった後客が来ると」

「はあ、少し待ってもらえますか」

 若い店員は笑顔を少し曇らせて店の中へ消えた。

 ややあって慌てた様子で扉が開かれた。

「すんません、旦那さまがお待ちです」

 少し伝法な口調になって店員は弥之介を案内した。

 十数人は入れそうな店の中には珍しく机と椅子があって、その並びの中程に義弟の慶紀がいる。彼は店員に下がるよう言ってから弥之介を招き寄せた。

「良いのか、ここは店だろう」

「せっかくですからね、にいさんに牛鍋を食べてもらいたくてね。なかなか来ないんだから」

 一つしか歳の違わない慶紀だが、笑ってしわが深くなっても表情にはどこか溌剌とした感じがある。生きた人間を相手にし、仕事柄食事に気を遣う生活を送っているせいだろうか。食事をはじめ家のことは妻に任せきりで、人間を相手にしなければ機械とばかり睨み合う自分とは対照的と言ってもよかった。

 慶紀は大きな声で妻の寿々子を呼んだ。少し視線を遠くに向けると厨房の様子が見え、そこに大柄な女が動き回っている。彼女は丸い顔をこちらに向け、慶紀に負けない大声で返事をした。

「いつもお世話になっています」

 寿々子は二人前の牛鍋を盆に載せてきた。湯気と香りが濃い湯飲みを添え、厨房へ下がる。

「おれがおごりますから遠慮なく」

 そう言うが早いか、慶紀は鍋に箸を入れた。せっかちで一見品のない食べ方だが、汁を飛ばさないよう気をつけながら肉や野菜を持ち上げているのに気がつく。若い頃には昌平黌で学んだこともある慶紀の本質は、決して卑しいものではない。

 続いて弥之介も箸を入れる。未だに食べ慣れない牛肉より先に白い葱を箸の先で掴む。青い香ばしさが立ち上った。口に入れて噛み砕くと、果肉の層に染みこんだ甘辛い味の汁が溢れてくる。その味わいを楽しみながら薄茶色の牛肉を皿に取ってから口に入れる。こちらは噛めば噛むほど味が深くなるようだった。

「どうです、時々は来て下さいよ」

「考えておくよ」

 いずれ本当に家族で来てみたいと思った。

 牛肉を食べ終え、お互い茶をすすって少し落ち着いたところで、弥之介は話を切り出した。

「おれはお前と鍋をつつきに来たわけではないぞ」

「わかっていますよ。千太郎のことでしたか。東京に行きたいと言っているそうですが」

「どうしてそれを」

 千太郎のことで話があると言って、慶紀の仕事が終わってから時間を作ってもらったのだが、詳細はまだ話していないはずだった。

「千太郎も来たんですよ。東京へ行きたいがお父はきっと許さないから、知恵を貸してくれと」

「そうか、親子で頼ることになったのか。済まないな」

「迷惑とは思っていませんよ。にいさんはすみを引き受けてくれた恩人ですからね。知恵を貸すぐらいどうということはないですよ」

 慶紀はあくまで快活だった。昌平黌で学ぶだけの頭を持っていながら、親の反対や生まれた家の事情など、ままならないものを抱えたばかりに、学問から身を引くことになった慶紀だが、歳を取ってもなお明るく振る舞える男は、男の目から見ても魅力的である。慶紀と同時期に昌平黌で学んでいた者には清河八郎をはじめ幕末に血なまぐさい道へ進み、果てた者が多い。学問を諦めたからこそ魅力を失わずに済んだと思えば、江戸から連綿と受け継がれている店を成功させ、妻子も養っている慶紀は充分幸せと言えた。

「千太郎はいつ来たんだ」

「三日前ですよ。それらしい素振りを見せませんでしたか」

 三日前と言われ、小学校時代の仲間と会うと言って出かけた夜を思い出した。親に似てあまり人付き合いの盛んな方ではない息子にしては珍しいことでよく覚えている。

「話をしようと言ったのに、話せていないんですって」

 慶紀はあくまで明るいが、弥之介にとっては痛いところを突く話題だった。うまく千太郎を説き伏せる言葉を見つけられず、話を避けてきた。食事の席では仕事にかこつけて工房にこもり、わざと顔を合わせないようにしてきた。

「千太郎は、どうしてそう思うのか、何か言っていたか」

「いずれ時計店を譲るつもりでいるからだろうと話していましたけど、そうなんですか」

 弥之介はため息をつき、そうか、と呟いた。心の内は話していないはずだが、ほぼ完璧に見抜かれている。

「それを嫌がっているように見えたか」

「そりゃあわかりませんよ。だいたい、それはにいさんが訊いてください」

 真っ当な意見を笑顔で突きつけられ、弥之介は言葉に詰まった。

「それで、にいさんは自分が立ち上げた時計店を子供に譲ろうと思って、だから留まってほしいんですか」

「そういうことだ。あいつが東京へ行きたがる理由はわかる。それまで日本人ができなかったことをやってのける者が現れたんだ。触発されるのも無理はない」

「国内の時計店も絞られてきているようですから、技術も洗練されてきたんでしょう」

「それも心配の一つだ。千太郎の腕を信頼しないわけではないが、凌駕する腕前の者ばかりに出会ったら、あいつは乗り越えていけるのか。ほとんど競争のなかったこの横浜で育った千太郎が」

 千太郎に時計職人の運命を背負わせた覚えはない。いずれは望む道を見つけるだろうと思っていた。それが時計であったことは予想もつかなかったし、その頃は日本人が時計を作り出すとは思いもよらなかった。輸入物の時計を売り、直すだけで自分も息子も時計職人としての生涯を終えるだろうと思っていたのだ。

「腕はいいんだ。だからこそそれを守ってここで生きていってほしい。粛々と務めを果たすために生きていく。それも仕事の一つのやり方だとおれは思うのだが」

「いかにも年寄りが考えることですな。おれもそう思うから、立派な年寄りですが」

 初めて慶紀が目を伏せた。

「粛々と務めを果たしていくのは否定しませんよ。千太郎が産まれた後のにいさんはそうやって生きてきたんでしょうし、おれだって横浜に店を移したのが最大にして最後の挑戦だった。ここに店を建ててからは、務めを果たすことしか考えていません」

 常に明るく外を向いていると見えた男が、内向的と称されることの多い自分と同じ考えに至っているのは意外だった。

「でもそれを、千太郎みたいに若い奴がやったらいけません。にいさんが千太郎くらいの時、何か守ろうと思っていましたか」

 千太郎と同じ歳の頃、弥之介は昌平黌で学んでいた。当時は知識を得、問答の腕を磨くことばかりに関心があった。守るものがあったとすれば家名であったろうが、学びを深めるうちに自分が高みへ昇ることが楽しく、親のことより大事だと本気で思っていた。

「千太郎は、外へ行った方がいいんですよ。そしてにいさんの溝江時計店でなく、千太郎の溝江時計店を作らせればいいんです。言っちゃ悪いですけど、にいさんの溝江時計店に歴史なんかないんだから、身軽でしょうよ。うちは歴史があるから、潰したら先祖に申し訳ないなんて思いますけど、そういうしがらみがないんだから」

 同じ名前でも主が変わる。何か大事なものを忘れていたと同時に、気づかされたような思いがした。

 自分が千太郎に求めていたのは、溝江弥之介の時計店を守ることであった。そこには千太郎はいない。自分の技術を継承した息子というだけの男がいるだけだ。

 東京へ行き、帰ってきた千太郎が溝江時計店を継いだ時のことを思い浮かべてみる。一から時計を作り出す技術や人脈を得た千太郎は、自分にはできなかったことを、あの小さな溝江時計店でやっているかもしれない。その様子を目の当たりにはできないかもしれないが、もしもできたら、それ以上に嬉しいことなどないのではないか。

「そうか、千太郎の溝江時計店か」

 自ら口にした、自らの立ち上げた店の未来は、姿が見えぬほど輝いているようだった。

 

 ここ数日話しを避けていた父が、急に自分から話を持ちかけてきたのは、千太郎にとって緊張の時であった。

 既に自分の考えは伝えてあるが、深く話しをしたわけではない。わかってもらうだけの時間も言葉も費やしていない中で、どんな言葉が父から返ってくるのか、全く予想がつかないのだった。

 そんな時に、まさか母を交えて話をするとは思ってもみなかった。

「お前が東京へ行きたいという話だが」

 正座した両親に応えるように、固唾を呑んだ千太郎も同じ姿勢を取って話を聞く。

 母が父に、封筒を渡した。それほど厚くはない。

「今までおれが稼いで貯めてきた金だ。東京へ行くなら使え。どうやって使うかは自分で決めるがいい」

 金を託されるとは思ってもみなかったことで、千太郎は微笑んでいる母と、真剣な眼差しの父を交互に見た。

「ただしこれは援助ではない。貸しだ。使うのは構わないが、返すことを念頭に置いてもらう」

 そう言われて、持ち上げた封筒の重みが急に増した気がした。これは東京へ行くことを許されていると思っていいのだろうが、相応の賭けをさせられていることになるのだろう。

「その金の返し方もお前が決めればいい。しかし、おれの望みを聞いてほしい。なりふり構わず金を掴んで戻ってくるようなおまえを見たくはない」

 千太郎は頷いた。自分は時計職人として一段高いところへ昇りたいから、見知らぬ土地へ行くのだ。金のためなどではない。金に振り回される人間には絶対になりたくない。

「おれはいずれ、おれが建てた店をおまえに譲りたいと思っていた。それは今も変わっていない」

「だったらどうして許したんだ」

 言葉がこぼれ落ちると、父は待っていたとばかりに笑みを浮かべた。

「ただ譲るだけでは、おれが死んだ後も溝江弥之介の時計店でしかないと思ってな。東京で時計を作り出す修行をした千太郎の時計店を見てみたい。服部金太郎のようになれとは言わない。しかし目標にはしてくれ。それがおれの望みだ。わかってくれるなら、東京へ行って修行してくるがいい」

 千太郎の時計店。それは今まで感じたことのない重みを持って千太郎の胸に宿り、重みを腹に落とした。同時に輝かしいものに思えてくる。他の誰でもない、自分自身が反映された店を生み出せと、師でもある父が言っている。

 胸に熱さが宿った。

「その言葉、忘れない」

 父の目を真っ直ぐ見返し、千太郎は言った。

 許しは出たものの、父に職場や住まいの伝手はなく、親子共に評判は横浜だけのものであったから、公私の拠点を自ら探す必要がある。知り合いのいない土地のことである。文を出してお伺いを立てるわけにもいかず、働く前に千太郎は東京へ出なければならなかった。

 父から渡された金の使い道は特に言われていない。東京へ行くまでの汽車賃はそこから出すことにしたが、汽車にかかる金が思いの外高い。人力車も馬車も東京まで行くというものは見つからず、千太郎は新橋までの汽車に乗った。

 両親や伯父とは、横浜駅で別れを告げた。汽車賃のことを考えると行ったり来たりするだけの余裕は持てず、しばらくは安宿を転々としなければ仕える先を探すことになる。その目標には日本で最初に国産時計の量産を成功させた精工舎も含まれているが、希望が叶うと信じ込むことはできない。精工舎の快挙から四年が経っているのだから、後に続こうとする時計店があると千太郎は考えていた。父が時計店を始めた頃は時計店が乱立する時代であったらしい。日本における時計が新たな時代を迎えている今、同じことが繰り返されているかもしれないというのは、父の助言である。

 新橋に降り立ち、東京の地を踏む。思ったよりも洗練されていないというのが正直な感想だった。横浜で見たような異人風の格好をした紳士は多く目につくが、所詮異人とは体格の違いすぎる日本人のすることである。異人向けに作られた背広などは似合わない。少し裏へ入った時に見られる、昔ながらの木綿地の服を着た人々の方がよほど自然で活き活きとして見えた。

 しかし東京でも感銘を受けたものはある。毎日正午になるとどこかで鳴らされる大筒の音である。

 初日に新橋駅近くの茶屋で休んでいると、遠くで重く響く音が聞こえたので店の女将に何ごとか訊くと、皇居で大筒を鳴らしているのだと言われた。

「ドンと鳴るからわたしらは『ドン』と呼んでます。新しい暦はなかなかわかりにくいから、ああして正しい時間を教えているそうですよ。外国に合わせたらしいですけど、不便なんだから無理することないのにねえ」

 千太郎は翌日、翌々日と自分で大枚をはたいて買った懐中時計で『ドン』の鳴る瞬間を見定めてみた。思いの外その精度は高く、時計の針が正午を指して、五秒以内に鳴っている。明治以降の時計がいかに優れていて、それ以前の時計がどれほど大ざっぱなものだったか、子供の頃から聞かされてきた千太郎は、時計職人としても時計店の子供としても、大きなものに触れたような気分になった。

 裏町にひっそりと立つ木賃宿を定宿にして、千太郎は仕える先を探す日々に入った。最初に本所の精工舎を訪ねたが、四年が経つうちに職人は整理され、職人の数は足りていると言われた。時計の量産が始まってから訪ねてくる者は増えているが、誰でもいいわけではないと、門前払いを食らわした男は言った。

「まあ雨後の竹の子のごとく時計店は出てきているからね、探せばあるだろうさ」

 身分相応の場所を探せと言っているようで、男の声には驕りが聞き取れる。千太郎は何も答えず精工舎を後にした。精工舎が横浜から出てきたばかりの自分を相手にするわけはないとわかっていたから、何日も通い詰めるつもりはあったが、あのように見ず知らずの人間を見下して話す男と手を組んだ仕事をするのは気が進まない。そう思うと精工舎に見ていた輝きは鈍り、広く探してみる気持ちが強くなった。

 東京に出れば何か得られると思っていたが、精工舎以外で時計の製作に着手しているところは驚くほど少ない。小さな時計店はたくさんあって、横浜で時計の修理と販売に従事していたことを話すと、すぐにでも働いて欲しいという誘いは何度も受けた。しかし時計を自ら作れるかと訊くと、異口同音に無理だと言う。時計を作れないのでは故郷を離れた意味はない。断らざるを得なかったが、芝に店を小さな時計店を構える源太という五十がらみの店主だけは千太郎の態度を嗜めた。

「今は時計を作るとしたら精工舎にでも入るしかないが、どちらもそう簡単には入れねえ。木賃宿に泊まりながら探すったって、あてがないんじゃ先が見える」

 引き留めたいが為だけに言っているようだが、一理あるとも思えた。

「別の仕事先が見つかるまででもいいからよ、うちで働いてくれねえか。住むところぐらい世話してやるから」

 木賃宿に寝床を求めるしかないと思っていた千太郎にしてみれば、願ってもないことだった。何より源太は東京での事情に明るい。味方につけて損はないと思った。

 源太の忠告を受け入れた千太郎は、彼の下で働く意思を伝え木賃宿から引き払った。源太の浅倉時計店は溝江時計店と同じくらいの大きさだったが、懐中時計より柱時計など比較的大型の時計を扱っているせいか少し狭く感じる。それを一人で切り盛りしているのかと思って訊くと、かつては息子と二人でやっていたと答えた。

「死んじまったけどな」

 部屋の片付けを手伝いながらの話題は、それ以上続かなかった。

 黒船の来航より早く生まれた源太は、御一新の前は彫り師をしていたという。それが御一新の後時計に興味を持った経緯について、最初に語ったのは面白そうだからという明快な理由だった。

「別に最初から時計の中に興味があったわけじゃねえ。取っかかりは時計の蓋に絵を彫るところからでな」

 働き出して数日が経った頃、伝法な口調と抑揚の強さを以て、源太は酒を振る舞いながら語った。

 御一新以降の変化の一つだろうか、それまであった仕事が年を追うごとに減っていった。仕事が減ると彫り師は少ない仕事に群がり、それにあぶれる者も出てくる。源太もその一人で、仕事道具の刀を置こうと思っていた頃、懐中時計の蓋に絵を彫り込む仕事が舞い込んだ。父は独学で時計を学んでいたし、千太郎自身も物心ついた時から売り物の時計は見ていたが、源太にとっては大名家にしかなかったような高級品である。畏れを感じて断ろうと思ったが、食い詰めていた時期でもあり、仕事を引き受けることにしたという。

 源太にとっての仕事は、今も昔も務めとして続けている。父にとっての学問は、周囲の期待はあっても本人の望みが根幹にあっただろうし、三十歳近くなってから学びだした時計は、完全に本人の希望が原動力だった。共に時計店を切り盛りするようになってから務めのことをよく口にするようになったが、基本は自らの望みを叶えることだったはずだ。父と源太はあらゆる点で違いがある。しかし働くことで目指すのは同じく務めを果たすことであろう。

 師でもあった父との違いを率直に述べると、源太は愉快そうに笑った。

「世の中には色んな奴がいるもんだ」

 五十歳を超えた男にしては、無邪気な表情に見えた。未体験のものを目の当たりにして、その楽しさばかりに目を向けている子供のようだと思う。

 時計の蓋に絵を描く仕事はまだ続けていて、最近は修理もこなすようになった。それで頼りにする客もついているようだが、新たな時計を仕入れて売るということは、店先に立っていた息子が命を落としてから少なくなったという。

 源太は息子について、手先の代わりに口が達者だったと評し、自分はその逆だったと言った。

 思えば売り物の時計は立派なものだが、少し古びていて、長らく買い手がついていないように見えた。源太には技術があるものの、商才という点では今一歩及ばないところがあるのかもしれない。

 そんな源太と共に仕事をするうち、内側の仕事は源太が受け持ち、客を相手にする仕事は千太郎が担うという分担が成されるようになった。実家でもやっていたことで、嫌いではなかったが、時計の中身に惹かれて歩んでいる道だし、何より時計を作るのが目的で東京まで来たのだ。精密ドライバーを初めとする道具を持ちたい。

 希望を伝えると、源太は店を閉めた後の時間残った仕事をやるように言った。昼間はどうあっても工房から出てくるつもりはないらしい。父に比べて威勢の良いところが目立つ男だが、意外と内向きなのかもしれなかった。

 年が明けた頃から、修理に回される時計が増えた。別の商人が直すことを引き受け、実際は源太の店で直すという取引があったらしい。仕事が増えて良かったと源太は話していた。

 村尾商会というその名前には聞き覚えがあった。かつて横浜で父の店で時計を買っていた生糸商人が、そのような名前だった。

 名前をきっかけにいくつかの記憶が甦ってくる。青物市場で再会したのを最後に会っていない村尾の娘は、今頃どうしているのか。容姿について印象は薄いし、名前も知らない相手だったが、余程の問題がなければ今頃は結婚しているだろう。

 そこまで思い、この壊れた時計を持ち込んでいるのが、自分の知る村尾ではない可能性を考える。少なくない苗字だろうし、そもそも彼は生糸商人だったはずだ。時計を大量に持ち込むとしたら仕事に関すること以外に考えられないが、生糸を売る商売と時計は、直接的な関係はないように思えた。

 店には毎日同じくらいの年の男が現れ、時計を受け取っていく。何度か顔を合わせる内に、にきびの消えていない顔を覚えてしまったが、挨拶を交わすだけで、親しく話しをすることはない。

 源太の取引相手が自分の知る村尾かどうか、関心が薄くなっていく頃、一日だけ時計の受け取り役が変わった時があった。

 時計店に現れたのは若い女で、慣れないのか店の戸を開ける動きがたどたどしい。周りを見回す視線も、どこか不安げだった。

 どこかで見た事があるような目だった。

「あの、時計を」

 時計店に来る者は得てして気の強そうな表情だったから、不安を宿した表情は見慣れない。千太郎は戸惑いがちに返事をして、村尾商会の人ですか、と訊いた。

「ええ、西山さんの代理で。聞いていませんでしたか」

「ええ、でもそういうことなら、お持ちください。全て直しましたので」

 女は箱にまとめた時計のうち一つを持ち、文字盤を見つめた。仕事の出来具合を見定めているような目には見えない。好奇心が瞳に宿って見えた。

「何かご不満でも」

 不満げに聞こえないよう気をつけながら訊いたが、女は伏し目がちになって、いいえ、と返事をした。

「時計に思い出があるので」

 そう言った女の表情は、幾分和らいで見えた。

 この人はこんな風に柔らかな表情を見せることもできる。そう思うと、どうしてか千太郎は目が離せなかった。

 女は一礼して時計を収めた箱を持っていった。その後はいつも通りに客を相手にして、店を閉めたら源太がやりきれなかった仕事をこなした。

 工房ですれ違う時、時計を受け取りに来た女のことを訊いた。

「ありゃあ村尾さんの子供だよ。詳しくは知らんが、まあ行き遅れか、出戻りか。そんなところで家の手伝いをしているんだろう」

 源太の声には下世話な響きがあった。

 不快感をこらえながら、源太に女の名を訊いてみた。

「ふみ子とかいったかな。おまえ、手を出すつもりか」

「違いますよ。そういうつもりは」

 千太郎の答えを受け流し。源太は軽く笑って居間へ消えた。

 工房に入り、源太が置いていった時計を前にして、千太郎は頭を切り換える。精密ドライバーを持ち、緩んでいるバネ受けを締め直す。今日はひげゼンマイに問題のある時計が多かった。

 食べ終えてから床に就く。目を閉じてから、子供の頃に一度だけ言葉を交わした少女と、村尾の娘だというふみ子の記憶を重ね合わせてみる。似ているとも言えるし、そうでないとも言える。そこまで考え、同一人物だからどうというのだと思い直す。決して親しかったわけではない。力になってやれなかったのは、あの時は済まないと思ったが、お互いの未来に瑕疵をつけるほどの出来事ではなかった。時が解決する類のものだ。

 そのうち時計の受け取り役も復帰するだろう。彼女ともそれで会うことはなくなる。

 心に芽生えた疑問を解決する術がほとんどないことを残念に思いながらも、千太郎は眠りに落ちていった。

 五

 

 芝で年を越す頃には空いた時間を周囲の散策で潰す楽しみを覚え、暖かな時期を迎えると機会は増えた。実家の溝江時計店には人の少なくなる夜は潮の香りが届くほどで、青く美しい目をした異人たちが店を訪れて、ともすれば日本人より見慣れたものであった。それが芝で暮らすようになってから、同じ言葉を話し同じような歴史を辿ってきた人を見ることが増えたと思う。潮風より生臭い風を嗅ぐ散策は、そういうものを見つける時間になった。

 散策の範囲を広げていくと、横浜とは違う庶民の姿を見る機会があった。いつの間にか道が泥深くなり、空気も湿っぽいものに変わった街で、茅屋ばかりが立ち並ぶ街に迷い込んだことがある。人通りは多かったが、誰もがうつむいて歩き、時々目が合うと挑むように異様な光を放つ視線に貫かれる。ここは居場所ではないと突き放されているようで、居心地が悪くなった。

 穴を紙で塞ぐ茅屋が建ち並ぶ道を抜けて見慣れた街へ戻ると、いつしか湿気は消えてあの居心地の悪さはなくなった。

 体験したことのないことで、夕餉の席で源太にその話しをすると、そこは細民街だと言われた。

「行き場のねえ奴が行き着く、吹き溜まりだよ。おまえ何も盗られなかったか」

「平気です」

「そうかい。まあ近づかない方が身のためだよ。横浜にはああいうのはなかったのか」

「家の周りにはなかったと思います」

 少しでも多くの機会を求めて父が住み慣れた東京から横浜に移り住んだように、士族も別の場所で商売を初めた者がいる。失敗した者が士族の商法と揶揄されながらその日暮らしをしている噂は聞いたことがある。しかしそういった者は数人で身を寄せ合って暮らすのが普通で、一つの街を構成するほどのことはなかった。

「板橋に養育院を作ったりして、そういう連中が迷惑賭かける前に何とかしようってお上も考えてるらしいけどな」

 味噌汁をすすりながら源太が言った。何もなかったとはいえ、それは運が良かっただけだと思う。源太が言うように、あの街の人間の目つきは異様で、下手をすれば傷を負うこともありそうだった。

 その日以降、主に西を目標にしていた散策の範囲を、北に変えた。深い考えはなかったつもりだが、芝から北には上野、本郷があることを後で知った。そこは若い頃の父が過ごした土地であった。

 青空を覆う雲が多いように見えたが興味の方が優り、千太郎は人力車を使って上野まで向かった。父が学んでいた昌平黌は御一新の直後新政府の所管となり、明治四年に閉鎖されてしまったが、その流れは帝国大学へ引き継がれている。現在もいくつかの学校の集まっている湯島聖堂に、父が通っていた。

昌平黌と同じように秀才が集まってくる場所だと聞き、父は少しもったいないことをしたのではないかと思った。昌平黌で学び、そこで身に着けた学を活かしていた父ならば、大学に呼び戻されて教えることを請われたのではないか。国の要請に等しいから、時計店の経営よりも安定していて、名誉なことだったはずだ。現に溝江時計店の名は、東京では一切聞かない。横浜界隈では溝江と名乗ると顔色を変える者も多く、父から技術を教わっている頃は気恥ずかしさも覚えたし、仕事を任されるようになってからも変わらなかった。良くも悪くも、今はその心配がない。

 しかしそんな考えを、父は一笑に付すだろうとも思う。御一新の後すぐに時計を志したのではなく、しばらくは学問に身を置いた生活をしていた。その上でそれまで身に着けた学問を捨てたのだ。二度と戻らない覚悟があったのだろう。

 時間帯のせいか人の通りが少ない湯島聖堂を後にし、千太郎は周りを歩いてから帰ることにした。

 歩いている間に雲が増え、それは不吉な色を帯び始める。嫌な予感を覚えて、人力車がたむろする場所へ向かう足を速めたが、耐えきれなくなったように雨が激しく降り出した。

 たまらず千太郎は雨を凌げそうな軒下を探した。それはすぐに見つかったものの、すぐに飛び込まなかったのは、看板に村尾商会の名を見つけたからだ。

 源太が請け負った仕事の依頼主との縁を感じて立ち尽くしたが、そうしている間にも人通りのない道は見る間に濡れていく。同じ運命を辿っているのに気がついて、千太郎も店の軒下へ飛び込んだ。旧幕時代からあると思われる建物の壁に背を預けて落ち着く時には、白い道が雨に塗りつぶされていた。

 雨に対して何の備えもなく濡れるに任せた頭をかきながら、千太郎は暗い空を見上げた。すぐにやむのかどうか、見ただけで判断がつくほどの知識は千太郎にはない。懐中時計は四時を指していて、暗くなるまでまだ余裕がある。さりとて、何もせず立ち尽くすのにいつまで耐えられるかわからない。

 店の売り物に傘でもないだろうかと思ってのぞき込んだが、千太郎の期待は裏切られる。何やら多くのものを取り扱っているように見えるが、雨の中で役立ちそうなものはない。

 代わりに目を奪われた。店の真ん中、戸を開けて入ってきた客が最初に目にするであろうガラスケースの中に時計が並べられている。多くは懐中時計だが一つだけ箱形の置き時計があって、それに見覚えがあった。数日前に自分が直した時計に似ている。

 空を振り仰ぐ。雨脚は変わらない。千太郎は開かれた戸から踏み入れた。

 溝江時計店も浅倉時計店も、こぢんまりした店の作りで、ガラス戸もはまっていた進歩的な佇まいだったが、村尾商会の店にはケースを除くとガラスが一枚もない。昔ながらの木造の作りである。人の姿がないのであまり流行っていないように見えるが、歩いても床は軋まず、建物の手入れはされているようだった。

 千太郎はガラスの中に収められた時計を見下ろした。周りの懐中時計が装飾を凝らした、工芸品のような居住まいを見せているのに対し、置き時計だけ外装に特徴が少ない。指針は長針と短針で太さが違うだけのアップライト・ライン型で、文字盤に書かれているのはブレゲ文字である。奥行きが短めで、部屋の隅に置けばぴたりと収まるような気がする。一度解体して機構の奥にあるテンプを交換し、ひげゼンマイをはめながら抱いた感想を思い出した。

「時計に興味がおありですか」

 そう声をかけながら、暗がりの中から男が現れた。店主だろう。背は低く、訳もなく好感を覚えるような技巧に満ちた笑みを見せる。源太と同じくらいの年だろうが、職人めいた彼と違って目の前の男は常に人と接して仕事をしてきた商人の佇まいだった。

「興味というか……」

 言いながら言葉をまとめ、千太郎は素直な言葉を紡いだ。

「浅倉さんの……」

 店主は真に驚いたらしい。笑顔と打って変わり、驚きの表情を見せている。

「不思議な縁ですな」

 それは千太郎の気持ちの代弁でもあった。

「ここで売るために時計を持ち込んできたんですか」

「その通りです。浅倉さんは旦那さまと旧知の間柄で、善意で安く請け負っているようですな。作る技術はあるのに直すことまで手を回せないのが何とももどかしいのですが」

 何気ない一言だったが、千太郎は聞き逃さなかった。

「時計を作っているんですか」

「ええ、小さなものですが」

服部時計店精工舎とは違うんですか」

「村尾商会の時計工場です。無関係ですが」

 店主は混乱しているのか、言葉尻が少し自信なさげになっていた。

「それはどこに」

 核心に迫ろうとしたところで、千太郎は物音に振り向いた。帳場の向こう、奥へ続く廊下の前にいつの間にか女が立っていた。

「何か御用ですか」

 同じように他者を敬う声だったが、さっきまでとはわずかに変わって聞こえる。相手に対する遠慮を含んでいるようだった。

 千太郎は女と目が合い、会釈を忘れた。以前一度時計を受け取りに来た女に間違いなかった。

「商談の最中なら、後にします」

 女はそう言って頭を軽く下げ、奥へ消えた。

「今の人は」

 そう訊くと、女の背中を見送った店主が振り向いた。笑顔を取り戻していたが、目つきだけ鋭かった。

「旦那さまの一人娘でございます」

「ふみ子さんと聞きましたが」

「左様ですが、それが何か」

 それ以上の詮索を阻むような意思が、店主の声に感じ取れた。

 千太郎は少し迷い、自らの姓を名乗った。かつて実家の溝江時計店を訪ねた村尾は、時計を初めて身に着けるつもりのようだった。もし村尾商会を起こしたのがその村尾であれば、溝江の名前が組織の中に広まっている可能性があると思った。

 果たして、店主は顔色を変えた。

「溝江様とは、溝江弥之介様にゆかりの方ですか」

 父が思いの外敬われているのを誇らしくもくすぐったく思いながら、千太郎は父の弥之介が横浜で時計店を営んでいたこと、自分がまだ子供だった頃村尾が時計店を訪れたこと、東京へ来た後で村尾の名と彼の娘らしき女を見て、同一人物かどうか気になっていたことを話した。

「では溝江様の」

「一人息子です。父と同じ仕事を今までやってきました」

「そうですか。旦那さまが言っていたことがあります。溝江弥之介という人は、自分に時が見えるようにしてくれた人だと」

 当時の村尾にとって、時間という掴み得ないものを計れるようになったことは大きな転機だったらしい。西洋式の定時法が導入された後に生まれた自分でさえ、東京の『ドン』の正確さに驚いていた。不定時法の中で生まれ育ったと思しき村尾なら、驚きを通り越して衝撃的だったのかもしれない。

「しかし溝江時計店は横浜で名を挙げていたと聞きます。何故東京へ。修行ですか」

「そのようなものです」

 時計を作りにとは言えず、千太郎はやり過ごすように曖昧な笑みを見せた。

 雨脚はまだ弱まらず、人力車を探しに駆け出すには足がすくむ。しかし本心を店主に見せられないまま語らうのも疲れそうで、千太郎は別れを告げた。

 店主が止めるのも構わずに千太郎は雨の中へ飛び出していく。記憶の限りでは、走れば五分もかからないはずだった。

 水たまりを蹴立てて走る千太郎は、足元と周囲の水音の他に、背後から追いかけてくる音を聞いた。

「お待ちください」

 水音と解け合って消えそうな掠れ声だった。

 それが自分に向けられたものだと一瞬わからず、足を止めて振り返ると、声の主とは会話するのに少し不便な隔たりがあった。

「春とはいえ、濡れては体に障ります」

 そう言って、傘を差したふみ子が歩み寄ってくる。その手に傘がある。わざわざ足場の悪い中を追いかけてきたらしい。思いもしないこととはいえ、余計な手間をかけさせたようで、千太郎は頭を下げた。

「お久しぶり、ですね。溝江千太郎さん」

 不意に呼ばれた名に、千太郎は下げた頭をぱっと上げた。ふみ子は笑っていたがぎこちない表情である。千太郎もまた、その表情を笑顔で迎えたつもりだが、ふみ子の不器用な表情が鏡のように映ってはいないかと思う。約十年越しの、思いもよらない再会は千太郎から言葉を奪い表情の形成を難しくさせたが、ふみ子も同じようであった。

 千太郎はふみ子の好意を受け取って開いた。わずかに雨音が遠くなった気がした。

 音が占めていた感覚が少し空くと、記憶が浮き上がる余地が出る。ふみ子が壊れた時計を持ち込んだこと、父に断られたこと、結局力になれずふみ子が叱られて終わったことが思い出された。

 あの時の小柄さは現在のふみ子にも面影を残す。しかし時計店の中で不安げな表情をしていた少女とは重ならない。笑顔はぎこちないが、真っ直ぐな眼差しは、約十年の時間を自分なりに精一杯生きてきた人間の証明に見えた。

「まさか東京に、それも浅倉さんのところにいるとは思いもしませんでした」

 ふみ子が言った。すると子供の頃のふみ子と現在のふみ子の隔たりから来る戸惑いが晴れ、千太郎は口を開いた。

「修行に」

 ふみ子は言葉を訊き返し、言葉を待っていた。

 その真っ直ぐな眼差しに、千太郎はしばらく口に出せなかった言葉を言った。

「時計を作りに来ました」

 直すだけでも売るだけでもなく、時計を一から作り出すために実家を出た。それは父でさえできなかったことだ。

 ふみ子は表情を変えなかった。そうですか、と言って頷いただけだ。

「傘はいずれ返しにきてください」

 ふみ子はそう言って踵を返した。かつて人混みにすぐ紛れてしまった細く小さな背中は、煙るほどの雨の中にあっても、店に入るまで輪郭がぼやけることもなかった。