yuzaのブログ

幕末から明治を舞台にした小説を中心に載せています。

明日は遙か 一

 一 帝州の民

 

 借り暮らしの小屋から踏み出すと、藁靴は硬い地面を踏んだ。天気が崩れずに朝を迎えたことに安堵したものの、灰色の空がいつまで持ち堪えるかわからない。故郷に比べて厳しく吹きつける風も、辰次郎の不安をかき立てた。

「いってらっしゃいませ」

 玄関先には妻の初と四歳になる息子の正毅が見送りに出ていた。息子はもとより、平素勝ち気さを見せる初の顔にも不安が表れている。見知らぬ土地での借り暮らしが続くせいだろう。

「借り暮らしも間もなく終わる。期待して待つことだ」

 努めて笑みを作った辰次郎は、初から正毅へ、目の高さを合わせて言った。すると気遣いが伝わったように丸い顔が和らいだ。

「いってらっしゃいませ」

 初に比べ、舌足らずな声に送り出されて辰次郎は歩き出した。天候の悪化に備えて身につけた蓑の襟をきつく閉じて道を行く。道中で兄の寅之介と合流し、一人の道のりが少し明るくなった。

「冷えるな」

 兄は明るさを装って言った。曇天の下で強い風が吹いた後は天気が荒れたものだが、この地においては雪の降る前触れのように思える。冬の寒さや雪の冷たさに良い思い出など一つもない。

 いつ崩れてもおかしくない空模様を見上げ、辰次郎は遠からず訪れる冬を思った。

「今日の内に終わらせたいところですね」

「そうだな。父上などは借り暮らしに相当苛立っているようで、なだめるのに一苦労だよ。一年前はまだ、先祖伝来の屋敷に住んでいられたから無理もないが」

 苦笑によって苦労を語る寅之介の声には、微かに同情が含まれていた。

「誉れ高き会津藩士が、いつまで借り暮らしに甘んじていなければならぬのだと、そればかりでな」

会津藩士……」

 その言葉がやけに遠く感じた。ほんの一年前までは、自分や兄、朋輩の素性を表し、主君松平容保に仕える誉れ高き身分であった。しかし今、会津藩保科正之が見定めた地に会津藩はない。会津藩士であった辰次郎らが代わりに所属する藩の名は、斗南藩という。場所は会津から遙か北の下北半島、元は南部藩の所領の一部であった。

「我らはもはや、会津藩士ではないのですね」

 寅之介は一瞬顔をこわばらせたが、すぐに諦め顔になって首を振った。

「そうだ、斗南藩士と名乗るのが正しい。しかし」

 言いよどんだ兄の気持ちは痛いほどわかった。辰次郎と寅之介が生まれた水沢家は藩祖の時代より仕え、藩士とその子弟が学ぶ郭内講所の設立に携わった玄信を先祖に持つ、学問と武芸を司る高位の家柄であった。父惣太郎もその先祖の名に恥じぬ働きをしてきたし、兄がその後を継げば末は安泰とまで言われていた。

 寅之介が家督を継ぐことに決まってから辰次郎の居場所は水沢家になくなり、倉本家へ養子に出されることとなる。倉本家は足軽で、高い身分ではなかったものの、文武両道の兄への対抗心で磨いた武芸を活かせる家であった。撃剣が注目を集める時勢にも乗り、学問の分野で頭角を現した兄に対して、辰次郎は道場の師範代にまで上り詰めることで己の居場所を見つけ出した。

 二〇歳で初と結婚し、翌年長男の正毅が生まれたが、その矢先に起きたのが戊辰の役であり、会津から斗南への転封であった。二三万石という仙台藩に次ぐ石高も、現在は三万石にまで減らされ、藩主松平容保は東京で謹慎生活を送っている。多くの元会津藩士が何もない土地へ放り出されたのを見て、辰次郎は転封どころか流刑のように感じたが、ほとんどの元会津藩士に共通した思いであっただろう。実際、この処分を決定した木戸孝允は、戊辰の役で戦った会津藩士たちを会津降人と呼んで蔑み、当初は蝦夷地へ元会津藩士たちを送り込むつもりであったらしい。斗南藩とは敗残の記憶にまみれた名前であり、そこに属する藩士たちもまた敗残兵である。敗北の証に誇りは持てないし、父が親藩大名に仕えていた頃を懐かしむのも無理からぬことであった。

「兄上、父上が自裁せぬよう見守っていてください」

 敗残の記憶を引きずって生きていくことに、水沢家の家格や誇りを守り続けてきた父が耐えられるかどうか心配になった。鶴ヶ城での籠城戦で妻の清を失った時にも自裁を考えたようだが、兄の説得を受け入れて思いとどまったという。しかし歳を重ねて足腰の弱った心はいつ死へ傾いてもおかしくないだろう。

「敗北を背負って生き続けるのは辛い。自らが教え、教えられたことにもとる生き方だろう。それでも父上は必要だ。だからこの地で天寿を全うしてもらう」

 新政府軍に降伏し、会津降人と呼ばれても生き続ける元会津藩士は多いが、白虎隊をはじめ敗北の責を負うように自裁した者も少なくない。直接の理由にはならないだろうが、彼らの行動の根底には日新館や郭内講所で受けた教えがあっただろう。それを授けたのが父であり、兄であった。二人が生き続けるということは、敗北に際して自裁した人々の死を背負うということであろう。寅之介の言葉は、導き手であった親子の静かな決意に思えた。

「兄上も必要な人です。日新館も再開します。教えを授けられる人は限られています」

 寅之介は片目を向け、静かに笑みを見せた。言葉をかけた方も何か報われた気分になるような、温かな表情であった。

「約束を、するまでもない」

 静かだが清々しい声音は、敗残の憂鬱さを感じさせない。明日に希望を抱く者の声であった。

 目的の場所に着いた時、粗末だが充分に雨風を防げそうな長屋を中心に活気があった。冷え込みをものともせず肌をさらして動き回る男たちの中に見知った顔がある。決まり悪く感じながら声をかけると、小柄な関長兵衛が気さくに返事をした。

「遅かったな。今でも二百石取りの水沢家のつもりか」

 遠慮のない皮肉を聞かされながら、長兵衛の声には嫌みがない。言いながら彼は縄を兄弟に渡した。

「今は家格など意味がないよ。それより準備をさせてくれ」

 寅之介は温厚な表情で言い、蓑を脱いだ。袖をまくって準備を整えると、長屋の中へ

入っていった。

「辰次郎、お前も早く行かんか」

 長兵衛は言うだけ言って、どこかへ立ち去ってしまった。日新館の同窓だった頃から身の軽い男だったが、見知らぬ土地に来ても変わりがない。懐かしいものを見せられたようで心が温まった。

 長屋風の建物は、かつては一軒の商家であったらしい。それなりに繁盛したが跡継ぎが見つからなかったことから閉店し、建物だけが残されていた。それを移住者たちが住む長屋へ改造しようというのだ。竣工すれば不安定な借り暮らしも終わる。仮住まいを提供してくれた商家は親切だったが、あまり長く甘えるわけにもいかない。

 戊辰の役は二六〇年に渡って数百の藩を支配し続けた幕府と、その体制を壊そうとする新政府の争いだった。保科松平家が藩祖となった会津藩親藩であり、幕府の危機に際して当然のように新政府と敵対した。その戦端が拓かれて間もなく二年が経とうとしている。会津藩の戦いは約十ヶ月で終わり、新政府軍が北へ進軍した後は敗北という結果が残された。

 会津藩領内で新政府軍と戦った辰次郎を含む藩士たちは全員科人として捕らえられ、猪苗代などで拘束された後東京や上越高田へ送られ、謹慎生活を送ることになった。やがて下北半島への転封が決まると、藩士たちは謹慎先に留まって武士の身分を捨てるか、あくまで藩士として生きるかの選択を迫られる。辰次郎をはじめとする男たちは、斗南藩と名を変えた藩に仕えるために、北への旅を余儀なくされた。

 総勢一万とも言われる元会津藩士たちは、斗南藩領の各地へ送られた。辰次郎らは田名部荘に住むこととなり、地元の商家の世話を受けることになった。借り暮らしの小屋を提供したのも菊右衛門という商家の主人で、子供や老人を抱えた一行に彼は親切にしてくれた。

「うちとしても、このあばら屋をどうしようかと悩んでおりました。どうにかしてくれると助かります」

 菊右衛門はそう言って、四人にあばら屋の処理を任せてくれた。住宅として建て直すと言うと、そのための資材や人も出してくれた。北の土地で巡り会った親切は、涙が出るほどの温かさだった。

 内部は台所兼用の板敷きと、六畳間であった。夫婦と一人息子の自分たちならちょうど良い広さだが、実父や義父、義母を抱える寅之介や長兵衛には狭いだろう。実際、彼らの住む部屋は広めになっている。

 部屋の中では新村佑(たすく)が米俵を縄で括っていた。黙々と手を動かしていた男は、何を言

おうか迷って立ち尽くしているうちに気づいて、辰次郎を振り仰いだ。

「何をしている」

 挑みかかるように鋭い目つきと声であった。常に何かを気負うような感じのある日新館の同窓は、いつも気楽な長兵衛と対照的であった。鶴ヶ城で家族を失ってから、その険しさに拍車がかかったように見えた。

「手伝わなくていいのか」

 突き放すような佑の声に、辰次郎は返事が思いつかなかった。仕方なく兄の元へ向かう。彼も佑と同じ仕事をしていたが、辰次郎に気づくと人好きのする笑顔を向けてきた。

「怠けるなよ」

 辰次郎は笑みを返し、兄の傍に座った。俵を縄で結ぶことで、値段の張る障子紙の代わりにする。特にこれから厳しくなる冷え込みを乗り切るためには必要な仕事だった。

「佑のことですが」

 手を止めずに訊くと、寅之介は手元から目を逸らさずに先を促した。

「まだ此岸に留まることに迷いがあるようです。突き放されました」

「彼岸へ旅立つのを止めたのはお前だったからか」

「佑の気持ちはわかりますが、父上でさえ生き延びることを選んだのです。責任を感じたと言って後を追って何になりましょう」

 鶴ヶ城の籠城戦で両親を失った後、佑は多くの会津藩士と同じく新政府に捕らえられ、上越高田へ送られた。東京で謹慎生活を送っていた辰次郎が佑と再会するのは、斗南藩への転封が決まった後のことだが、その時にはまだ、佑の妻子は生きていた。

 三世代が奇跡的に生き延びた長兵衛、実父と共に生き残った寅之介、養父母を失ったが妻子は無事だった辰之介らと共に、新村一家も会津から斗南へ向かうことになった。陸路と海路があったものの、一行は陸路を選んだ。船に乗った経験のある者が寅之介しかおらず、海への不安感があった。事実、斗南へ向かう道として海路を選んだ者は少なかったようだ。

 佑の妻と娘が相次いで命を落としたのはその途中であった。天候の急変で足止めを食らっている間、娘が熱を出し、満足に治療ができないままに命を落としてしまう。その後を追うように妻も亡くなり、佑は当然のように腹を切ろうとした。それを辰次郎が止め、佑は斗南まで来ることになった。一応は納得してくれたものの、お互いの間にわだかまりが残ってしまっている。止めた方も止められた方も、教えられたことに反していたからだろう。辰次郎もまた、正しい行動だったと言い切ることはできずにいる。

「俺に父上を見守るように言ったな。ならばお前は佑を見ていろ。妻子を守り切れず戦いにも敗北した。その恥を背負ってでも生きてほしいと思ったのだろう。お前は死ぬはずだった命を背負って生きねばならん」

 佑を止めた時は夢中だったが、一つの人生を変えたのだ。その責任は重いだろう。

 障子紙の代わりにする俵を縄で縛り、外との仕切りとする。それでも風を完全に防げるわけではない。無いよりましであったが、正毅のことが心配であった。

 正毅が命を落とすようなことがあったら、自分は何を思うか。後を追いたいと思った佑の気持ちは、その時にならないとわからないような気がした。

「何とか終わったな」

 昼を過ぎる頃にそれぞれの仕事は終わり、四人は長屋として生まれ変わった廃屋を感慨深げに眺めた。天候の変化もなかったのは幸運だった。

 一度それぞれの家族の元へ帰り、早速転居しようと話し合って解散した。辰次郎は借り暮らしの小屋へ戻ると、家族の前に小屋を提供してくれた菊右衛門へ挨拶に向かった。昼餉を終えて休んでいるところだったが、人好きのする笑顔で迎えてくれた。

「先ほど終わりました。これで借り暮らしも終わりです」

「それは良かった。会津様がいつまでもこんなところにおってはいけません」

 言葉の端々には特有の訛りが聞き取れた。着ているものの趣味も良く、垢抜けた感じのある男は、どうにか中央に合わせようとしているように思えた。

「菊右衛門殿には感謝しております。いずれ兄たちも礼を言いに来るでしょうが、まずは私が言わせていただきます」

「どうかお気になさらず」

 菊右衛門はあくまで屈託のない笑顔を見せた。場所によっては会津人たちをゲダカと呼ぶことがあるという。下北半島で毛虫を表す言葉で、木戸孝允が使った会津降人と同じく侮蔑の意味を含んでいる。笑顔を絶やさずに会津様と呼び続ける菊右衛門の言葉も、ともすれば嫌みたらしく聞こえそうだが、落ち延びてきた人々に救いの手をさしのべる男の心根は決して卑しいものではないだろう。

 立ち去る時に重ねて礼を言い、辰次郎は家族の元へ戻った。仮住まいではない、自分たちの家が完成したことを告げると、正毅は無邪気に喜び、初は安堵の表情を見せた。

「これでやっと安心できます」

 初は正毅を見遣りながら言った。自分の身よりも正毅のことを案じる母親の眼差しであった。

 一家三人が暮らしていた借り暮らしの小屋に、たいした家財道具はない。衣類は行李に入れていたし、台所などは菊右衛門の家で貸してもらっていた。肩身の狭い思いをいつまでしなければならないのかと初に詰め寄られたこともあったが、それも報われた。

 翌朝を待って一家の引っ越しは行われた。早めに出てきたが、新居には既に佑の姿があった。

 一家を見て何かを言いかけるような顔をした佑だが、結局何も言わず自分の部屋へ入っていった。

「新村さん、相変わらずですね」

 初の声には冷たさがあって、隣人となる男への不安が表れていた。斗南へ着いてから、妻子のある三人に対する視線が険しく思えたこともある。付き合いの長い男たちは同情的に感じたが、関わりの薄かった女たちは異物のように見ているようだった。

「やむを得ないさ」

 辰次郎はそれだけ言うにとどめた。藩士としては戦いに敗れ、夫としては妻子を守り切れなかった佑の苦しみを、初に理解させるのにどれほどの言葉を尽くせばいいかわからない。時に言葉が足りず誤解を生むことがある男だが、佑とて心根はしっかりしている。共に日々を暮らす中で、女たちの理解も深まっていくことを願うしかなかった。

 やがて長兵衛と寅之介がやってきて、長屋はようやく賑やかになった。特に大所帯の長兵衛の引っ越しは騒がしく、寒々しい荒野がひととき柔らかな空気に変わった気がした。

「手伝いがいるんだ、頼む」

 長兵衛は遠慮のかけらも見せず辰次郎や佑を駆り出した。年上であり、斗南への移住において指導的な立場を果たした寅之介にはさすがに声をかけなかったが、本人から手を貸そうと言い出した。

 兄が言う以上、辰次郎も従うしかない。結局女たちを残して四人で荷物を運ぶ羽目になった。

「多すぎるぞ」

 荷車を菊右衛門の家から借りたが、一往復では足りなさそうな荷物の量に佑がぼやいた。

「そう言うな。家族が多いと荷物も多くなるんだ」

 佑にとっては気遣いに欠ける一言だったのだろう。元々険しかった目つきが鋭くなった。

「お前は恵まれている」

 そう言い、佑は乱暴に荷車を引いた。荷物が危うく揺れ、長兵衛が声を上げる。

「俺の家財道具に当たるな」

「壊れたら買い直せばいいだろう」

「簡単に言うな」

「ああ、そうだな。壊れたら直らないこともある」

「二人とも、いい加減にしろ」

 加熱しそうな言い争いに辰次郎が割って入った。神経質なところのある佑とおおらかな長兵衛の性格が噛み合わないのは日新館の頃からで、衝突するたびに辰次郎が間に立っていた。三人の付き合いが今でも続くのはそのおかげかもしれなかった。

「まだすることがあるだろう。仕事が終わる前に雪でも降ったらどうするつもりだ」

 この数日、日差しを見た記憶がない。相変わらず雪の重さに耐えているような空模様だが、いつまで持ち堪えられるかわからない。心なしか雲の色も黒っぽくなり、否応なしに不安をかき立てた。

「寒いのはごめんだ。早くやってしまうぞ」

 年長者の寅之介が声を上げ、その場は収まった。雪や冷え込みへの不安を煽ったのが効いたのだろう。まだ厳冬期の下北半島を知らないが、会津とは比べものにならないほどの雪が降るという。寒さが元で消えた命を知っているだけに、仕事へ戻らせるのに充分な効果を発揮した。

 結局二往復で長兵衛の荷物を運び終えることができた。家庭の規模を考慮して、長兵衛の部屋は広く取ってあるが、間取りはそれほど大きくは変わらない。長兵衛は窮屈な暮らしになりそうだと思ったが、彼や妻子、更に義理の父母や実の父母は楽観的な表情だった。

「まあ、どうにかするか」

 道中それとなく心配を向けると、長兵衛はあっけらかんと言った。昔から変わらない表情はかつて底の浅さを感じたが、今回は奥底に悲壮な決意を秘めているように思えた。

「そうだな、どうにかすることだな」

 辰次郎もまた、同じように笑い返した。その時脳裏をよぎったのは家族のことである。借り暮らしを脱したのは良いが、あくまで第一の関門を突破したに過ぎない。一家の長として、これから家族にもたらさなければならないものはいくつもある。

 菊右衛門に四人が挨拶と礼を済ませ、帰路に就く時には日が暮れていた。夜に出歩いたことはまだなく、蓑を着て寒さへの対策を抜かりなくしたつもりだったが、それでも不充分と思えるような冷え込みだった。

「これで雪でも降ったらと思うと、ぞっとするな」

 帰路、寅之介の何気ない言葉から想像が広がった。提灯しか灯りがなく、道しるべになりそうなものも見つけられない北国の夜である。おまけに一人で歩いている。寒く、暗い道を四人で歩いているだけでも言いしれぬ不安と恐怖が忍び寄る。辰次郎は一人で夜道を歩かないと心に決めた。

 新居では初と正毅が火を灯して待っていた。やがて菜種油のきれいな火が三人分の膳を照らす。食べ終えるとくつろぐ間もなく眠る時間となる。それぞれの膳を前にしての語らいの後で、風が吹き付けてくる音がやたら大きく聞こえる。その上塞ぎきれなかった隙間から風が流れ込んでくる。正毅が最も外に近いところで横たわったが、それでも風を防ぎきれないらしい。正毅が寒いと声を上げた。

 その正毅を初が抱きしめて眠ることで落ち着かせることができた。正毅の苦痛を除けなかったのが情けなく感じ、思いを口にすると、

「借り暮らしではない、わたしたちの家を建てられたではないですか」

 と、慰めるようなことを言った。

 初はそれ以上の言葉を重ねなかった。夫に対していつも厳しい態度を取る妻で、正確だが公正な視点を持てる人間であった。だからこそ言葉には常に信頼を置くことができ、今でもそれは変わらない。

 やがて初と正毅の寝息が規則的になった。辰次郎はずっと目を閉じていたがいっこうに眠れない。すきま風の冷え込みと、それがもたらす音もあるが、明日以降がどうしても不安であった。

 家族にもたらさなければならないのは稼ぎである。支給米はあるものの、それだけでは余裕のある暮らしは送れない。崖っぷちを行くような暮らしを続けていては、いつまで経っても苦しい日々から抜け出せないだろう。

 自分だけがその苦しみの中で終わるのならまだ良い。しかし正毅にまでその宿命を受け継がせることは何としても避けたい。そのためには、息子に教育を授けるのが一番で、それがいつか保科松平家の再興にもつながる。戦後処理のために新政府と交渉に当たった山川浩らが、転封と大幅な減封を受け入れたのも、それに従って新天地での再起に多くの藩士が懸けたのも、全てはかつての栄光を取り戻すためなのだ。

 辰次郎はすきま風に背を向けた。それで少し楽になり、やがてまどろんでいく。

 眠りに落ちかけた時、足音が聞こえた。

 この最果ての地にも盗人がいるのだろうか。暢気に考えているうちに、足音は近づいてくる。辰次郎は初と正毅を起こさないよう気を配りながら枕元に置いた刀に手をかけた。身を低くしたまま、障子代わりの藁を慎重にめくる。足が見えたが、それは動きを止めている。

 何とか正体を確かめ、必要なら斬り捨ててやろうと、辰次郎は藁を少し高くめくる。その時、

「起こしてしまったか」

 と、淡泊な声が聞こえた。佑の声である。

「よく気づいたな」

 見知った顔に安堵しながら辰次郎は藁をめくって外へ出た。使い古されて薄くなった丹前を羽織ったが冷え込みは厳しい。空には冴え冴えとした月が昇っていて、暮らしに余裕があれば熱い酒を呷りたいところだ。

「殺気がやたら強かったからだ」

 笑みを見せることもなく、佑は得物を振り上げ、虚空へ振り下ろした。白刃は動くたびに冴えた月明かりを散らし、野太い音を立てて風を切る。真剣を振り続ける佑の横顔には表情がない。目の前に敵が現れても無造作に斬り捨てそうだった。

 辰次郎はその場に座り込み、佑の素振りを見守った。盗み見に気づくほど感覚に優れた男が、脇目も振らず刃を振り続けている。いつ、どこで役立てられるのかとふと思った。

「気になるのか」

 素振りを続けながら佑が訊いた。声に揺れはない。藁の戸一枚の向こうで素振りをやられるのが気になるのは確かだが、正直に言ったところでやめはしないだろう。斬られても素振りを続けるという決意がみなぎって見えた。

「何のための素振りかと思ってな」

 返事をしたが、佑は動きを止めなかった。

「まだ俺たちは藩士だ。お前の兄上や長兵衛はともかく、俺たちは武を以て仕える立場だったはずだ。剣の腕を錆び付かせないのが、今できる最善のことだろう」

 佑は淡々と正論を返した。佑とは日新館でも道場でも同じだけの腕前を持つ好敵手として競い合う間柄であった。辰次郎が剛直な剣を使えば、佑も同じだけの強い剣でぶつかってくる。何度も剣を交えたが、お互いに勝ったり負けたりを繰り返す日々であった。

「お前もやればいい。いずれ使うかもしれん」

 誰に対して剣を振るうのかと問いかけたくなったが、辰次郎は疑問を飲み込んで佑と並んだ。

 そして盗人を斬るつもりで持ち出した刀を抜き、振るう。佑とは動きをずらしたことで、風を切る音が二重になって聞こえる。

 佑のものと比べ、切れが悪い音だと辰次郎は思った。刃をどこへ向け、誰を斬ればいいのかわからないせいだろう。

 敵の姿は辰次郎にも見える。会津藩士たちに、流刑にも等しい転封を課した新政府と、転封の最終決定を下した木戸孝允だ。しかしこの最果ての地でいくら刃を振るおうと、憎き男には切っ先さえ届かない。この最果ての地において、刀など無用の長物に思えた。

 それでも、剣の腕を錆び付かせないのが務めというのも頷けることであった。いくら迷いを感じていても、これまで武を以て仕えてきたのだし、戊辰の役においても役目は変わらなかった。報われない結果になったが、何人もの新政府軍の兵たちを撃ち、斬ったのだ。

 剣を振るう内に心は研ぎ澄まされ、少年時代へ回帰する。主君が遠く離れた地に閉じ込められ、科を負わされることなど想像もしなかった頃のことだ。

 一心不乱に剣を振り続けるうちに体はすっかり温まり、汗がにじむほどになった。冷え込みの厳しさをいつしか忘れ、自然と笑顔になっていた。

 心地よい疲れを分かち合おうと思ったが、佑の表情は晴れない。そしてほとんど間を置かずに再び剣を振り始める。その表情には鬼気迫るものが宿りはじめている。目の前に木戸孝允の幻影でも見えているかのようであった。

 やがて月明かりの中にきらめきが落ちてきているのに気がついた。ここ数日持ち堪えた空が限界を迎えたらしい。まだ気にならないが、降り積もるほどの量になるまで時はかからないだろう。

「佑、少し休め」

 控え目に声をかけたが、佑は聞く耳を持たない。

「佑!」

 辰次郎は鋭く叫んだ。それで佑は関心を持ったようだった。

「どうした」

 佑は悠然と刀を鞘に収めて訊いた。動じた素振りもなく、無表情を保っている。

「明日早いだろう。戦う前に食い扶持を稼がなければならない」

 寅之介はいずれ日新館に戻ることが決まっていたが、辰次郎らは違う。名目上は開拓に従事することになっているが、家族を養えるほどの報酬は得られない。実現の可能性自体も薄く、別の仕事を見つけなければならなかった。

「お前たちは、そうだろう。俺一人なら支給米だけで暮らせる」

「だから何だ」

 辰次郎は気色ばんだ。佑の眼差しがあまりに先を向いていて、足下の生活を疎かにしようとしているようであった。いまだ自分たちは武士である。しかしこの最果ての地で地歩を固めなければ、前へ進むことさえおぼつかなくなる時が来る。

 諫めなければと身を固くした辰次郎だったが、佑が見せた笑みの前に緊張が緩んだ。

「冗談だ。いくら一人でも、この地で刀を振り回していれば済むとは考えていない。共に稼ぎのあてを探すから心配するな」

 佑に翻弄されたような気持ちだったが、彼が冗談を言うのも珍しい。自分をなだめるためだったとしても、妻子を失って以来見ていなかった笑顔に接することができた。日新館以来の同窓として、心配がわずかに薄れた気がした。

 佑は微笑みを収めた。月明かりの中のきらめきは、暗闇に映える色となって目に映り込んでいる。潮時だと思って部屋へ引き上げようとしたが、佑に呼び止められた。

「俺たちは何故生きている」

 唐突な質問に辰次郎は一瞬寒さを忘れた。

 答えを出せない間に佑は言葉を継ぐ。

「俺たちは負けた。その時俺たちは自裁するべきではなかったか。白虎隊の若い連中は皆そうした。十いくつも若い子供が立派に自裁を遂げて、俺たちは敗残している。これは正しいのか」

 佑の無表情には険しさが再び宿っていた。それはそのまま、妻子を守り切れなかった時に何故死なせてくれなかったのかと辰次郎に問いかけるようであった。

「何故俺に訊く」

「まだお前の口からは何も聞いていない。生き続ける理由も、俺を助けた理由も」

 家族を守り切れず失ったことが、佑の心を暗く閉ざしているらしい。そうさせた原因の一端は自分にもあるのかもしれないと辰次郎は思った。自裁を止めた時は無我夢中で、当時のことについて二人で話し合ったこともなかった。

 突然のことで準備がままならない辰次郎は、胸に秘めていたことをそのまま語った。

「生きてさえいれば、お家再興が叶った時に力になれるだろう。その可能性もまだ残されている。この斗南藩がその表れだ」

「そうだとしても、幕府を目の敵にしていた連中が良い立場を与えるものか」

 再び佑は笑った。今度は皮肉っぽい、不愉快な表情だった。

「そのように斜に構えた顔はよせ」

 反射的に、しかし昂然と辰次郎は言った。佑の笑みが収まった。

「せっかく権大参事や小参事がお家再興の可能性を残してくれたのだ。開拓も実現できぬやもしれぬ。しかしわずかながら可能性があるのは確かなのだ。主君や主家が返り咲くかもしれないのなら、できる限りのことをするのが藩士だろう」

 言葉を継いでいくうちに身も心も熱くなった。最果ての地の寒さは、まだ季節の変わり目に過ぎないというのに厳しい。糧を確保できなければ、体力の少ない子供や老人から死んでいくだろう。そんな過酷な暮らしの中にも希望を見出しているのは本心で、生きる力になる。佑も同じであってほしかった。そうでなければ、苦しさに耐えてでも生きていくことを選んだ人々に背を向けることになる。

「ここまで来たからには何が何でも生き抜け。可能性を追え。復讐はその後でも間に合うはずだ」

 佑の最終的な目的は、会津を踏みにじった新政府への復讐であろう。その時家族を失い、敗北の結果に際しては妻子を失った。悲しみや怒りは復讐心に変貌している。そうでなければ、一度辰次郎に止められたぐらいで自裁を諦めることはなかっただろう。

「お前が復讐を認めるとはな」

 無表情で佑は言った。皮肉の感じはなく、素直に驚きを感じているようであった。

「認めるわけではない。しかしそれで今生きていけるなら良い。お前の気持ちがいずれ治まればいいのだが」

 佑が死に向かって突き進むのを黙って見ているのは本意ではない。長兵衛も同じだろう。いくら性格が合わないとしても、少年の頃から日新館で共に学んだのは事実なのだ。同窓という気持ちも生涯消えることはないはずだし、共に生き抜いた日々が加われば盟友にもなれるはずだ。

 言葉が消え、量を増した雪が交錯する眼差しを遮る。佑は無表情を保ち、黙って見つめ返す。怒りや憎しみのように熱い感情にたぎっているようであったが、発露することはなく彼の方から視線を外した。

「起こしてしまって済まなかった」

 そう言い残して佑は自分の部屋へ戻った。他の三部屋とは違い、一人だけの部屋だ。この地で暮らすうちに住人が増えれば、生きることに迷う心の標か、あるいは重石になってくれるだろう。しかし古くからの仲間である自分たちでは及ばないことだと思うと、無力を感じた。

 風を帯び、勢いを増してきた雪を逃れ、辰次郎は家族の元へ戻る。外での動きや変化など知る由もなく、母と子がすやすやと休んでいる。

 夫婦となった頃のような、小さいながらある程度の保障があった生活は既にない。代わりにあるのは先の見えない暮らしだ。何者かによって突き落とされたのだと恨みながら生きていくことが簡単だろう。その相手は新政府の兵士たちであり、戊辰の役の戦端を開いた者たちである。彼らを斬るために命をつなぐと思えば、過酷な日々も続く気がした。

 しかし息子まで同じ目つきで暮らしてほしいとは思わない。戊辰の役がなければ、やがて日新館へ通って会津藩士として成長していったはずだ。自分がたどったような道のりを行くことはもはや叶わずとも、いずれは正々堂々と薩長の子弟たちと競い合う清々しさを身につけてほしいと思う。薩長の兵士たちと斬り結び、戦場となった故郷を見た身では持ち得ない気持ちだろう。どうしてもねじれた見方が生まれてしまう気がする。

 佑は平気だろうかとふと思う。死に急がないようにとはいえ、焚きつけるようなことを言ってしまった。寅之介が父の命に責任を負ったように、自分も佑の生き方を見つめなければならないだろう。それは仲間としての気遣いと、人としての務めの狭間の気持ちであった。

 

 朝を迎える頃に雪はやみ、積もることはなかったものの、冷え込みが更に厳しくなった。寒さは会津で慣れているつもりだったが、空気の乾きはいっそう強く、風が鋭さを持って襲い来るようであった。

「田名部は田舎などではなかったな」

 行き交う人々を見ながら長兵衛が言った。田名部荘に着いてから廃屋の修復に専念していたため、斗南藩庁が置かれた円通寺やその周辺などに行く余裕はなかった。辰次郎も街の賑わいから遠ざかっていたせいで、喧噪がやたら耳につく。

「権大参事が初めに入った土地だ。田舎のはずがないだろう」

 佑がぶっきらぼうに言ったが、久しぶりに触れる賑わいに彼も戸惑っているようであった。一方で感慨深いものを感じているようで、長兵衛のように周りを見回すことはしない。田名部は下北半島の中心地とされる港町であり、最高責任者である権大参事に就いた山川浩が初めて降り立った斗南藩の領地であった。

 山川は曹洞宗の寺院である円通寺に本陣を置き、藩士やその家族の移住の指揮を執り、移住が一段落してからは藩庁を置いた。辰次郎らは陸を歩いたが、海路を利用した者も数多く、彼らの行き先は田名部であった。

「これぐらい人が多ければ、仕事もあるか」

 遠くを見渡す長兵衛は楽観的で、支えるべき人間を最も多く抱えているはずだが、悲壮感は全くない。斗南藩の領地となる前から栄えていたとはいえ、簡単に仕事が見つかるとは辰次郎も思っていない。しかし迷いのない長兵衛を見ていると、好転はそう遠くない気がしたし、賑わいに触れると都内での暮らしも過酷なだけではないと思うことができた。

「しかし寅之介さんも来てくれたらいいのに」

「無理を言うな。兄上には兄上の役目がある」

「冗談だ。あの人には汗や土にまみれる仕事は似合わないな。俺たちとは違う」

 戊辰の役の前から日新館で教える立場にあった寅之介は、斗南藩でも引き続き役目に就くことになった。正毅が通うにはまだ早く、長兵衛の息子も開始の年齢に達していない。しかしあと二年もすれば、正毅は伯父に日新館で会うことになり、更に長じれば教えを受けることにもなるだろう。

「うらやましいのか」

 長兵衛が子供たちを相手にものを教える様を想像して微笑ましくなる。学問の分野はともかく、水練をはじめ運動に関わることなら上手に教えられそうだし、気さくな人柄も人気を集めそうだった。

「やってみたらどうだ。どこもかしこも人手不足だから、案外やれるやもしれんぞ」

 半ば本気で言ってみた。成り立ちからしてどうしても敗残の記憶を見出してしまう斗南藩において、長兵衛の明るさは大人も救われる。子供にとってはなおさらだろう。

「務めでやるのはどうもな。教えるとしたら、気ままにやる方が性に合う」

 辰次郎の期待を知る由もなく、本人は気楽だった。

 三人でまとまって動き、一日中稼ぎのあてを探す。口を充分に開けず発音するような地元の言葉に混じり、港町を歩く内に聞き慣れた会津の言葉も聞こえてくる。彼らも同じように稼ぎを求めているのだろう。同じ立場の仲間であったが、目が合っても黙礼すらできず、視線が逸らされてしまう。

「あいつらも稼ぎが欲しいのだな」

 佑が皮肉を貼り付けた笑みを浮かべた。山川らが準備できたのは、移住者たちの住まいがせいぜいで、務めを全員に与えられたわけではない。特にこれからの季節、食糧不足に見舞われるのは目に見えている。元々何度も飢饉に見舞われてきた土地柄である。冬を迎える前に、何としても食糧を調達する手段を見つけておきたかった。

「助け合えれば良いが」

「無理な相談だな。お互いにそんな余裕はあるまい」

 願望を言下に否定され、辰次郎は気色ばむ。自分たちは確かに切迫した暮らしを強いられている。だからといって同胞たちを見捨てるような薄情さを身につけてしまった覚えはない。

「佑、そのような言い方は」

「やめておけ。往来の真ん中だぞ」

 長兵衛が間に入った。いつも辰次郎が担う役目を奪われたのが決まり悪く、佑から目を逸らす。ねじくれた性根になってしまったのも、自分が生き続けていくことに迷っているせいだろう。佑が生きていてほしいと思ったから自裁を止めた辰次郎だが、理性でなく感情で抑えてしまったことが悔やまれた。

 日が暮れても成果はなく、三人は揃って帰路に就いた。日中の澄んだ青空と同じように、星の瞬きが美しい星空の下を歩くことになった。星に詳しくはないが、眺めているうちに色や明るさの違いを知り、見分けられるようになる。赤い星や白い星が多く、いくつかはまとまって一つの形を成しているように見える。星宿というものだろうが、どのようになぞっても意味のある形には思えない。西洋人や天文方の学者の想像力がいかに豊かなのか、思い知らされる心地であった。

 日中を顧みるように言葉を交わしているうちに寅之介も追いつき、昨日と同じく四人の帰り道となる。一人だけ立場の違う兄との接し方に迷っていた辰次郎だが、相手は変わらない態度を取ってくれた。

「成果はあったのか」

 何気なさを装った兄に、何もないですよ、と長兵衛が答えた。

「皆が同じことを考えています。武を修めた者が一番の成功者だと思っていましたが、所変われば考え方も変わります。ここでは金にならないのでしょうな」

「無駄と思ってほしくはないが、一理あることだ」

「どうしたら金は入るでしょう」

 ここ数日の苦労を思った時に、言葉がふと口を衝いた。戊辰の役まではあてにできる保障があって、慎ましやかに生きていけば特別の工夫は要らなかった。武を以て仕えるという心持ちさえ忘れずにいれば良かったのだ。

 しかし戦いに敗れ、食糧不足の不安と厳しい寒さが敵となった今、今まで身につけたものは役に立たない。地元の人間に教えるとしても、人間を相手にした戦い方がどれほど役立つのかと訊かれたら困惑するのが目に浮かんだ。

「役に立つことをするのが一番だな。だからこそお前たちは荷役の仕事を探しにいったのだろう。田名部は港町だし、斗南藩士の力でもっと発展する。永岡小参事ならやってくれるだろう」

 斗南藩で小参事に就任した永岡久茂の名は、日新館にいる間幾度も聞いたことがある。辰次郎の四歳年上でしかないが、江戸昌平黌で学んだこともある秀才だった。それでいて酒を愛する放蕩なところもあり、非凡な男という意味で放蕩不羇という評判が聞こえてくる。その永岡久茂は、田名部を港町として発展させ、斗南藩の商業中心地にするという構想を持っているようだった。

「田名部の商人を集めて、よく天下国家を論じているらしい。安渡と大平を合併させて、大湊とする。そうすることで海運事業の拠点とする。うまくいけば横浜や長崎のようになっていくはずだ」

 幕末に多くの新しいものが入り込み、体制が変化する原因の一端となった港の名は、辰次郎には遠いものにしか思えない。だいいち、冬の厳しい下北半島のことである。同じような運用ができるとは信じられなかった。

 佑や長兵衛も同じ考えに至ったらしく、寅之介の言葉に相づちを打つ者はいなかった。それぞれ曖昧な返事をするに留まった。

「俺も小参事と話をしたわけではないから、どれほどのものかわかりかねるが」

 寅之介は言い足したが、反応を見て取り繕ったようには思えなかった。放蕩不羇との評判を持ち、良くも悪くも注目を集める男の手腕に期待をかけているのだろう。

「日新館の後輩として、何かを成し遂げることに期待はします」

 言ったのは佑であった。斜に構えた姿勢が身についてしまっても、故郷を同じくする者の成功は望ましいのだろう。

「斗南の発展につながれば良いですが」

 斗南の名は敗残の記憶を呼び起こす。しかし繁栄を手にすることができれば、過去の敗戦など取るに足らないことになるはずだ。名誉の回復は、もしかしたら自分たちが全員この世を去った後に成し遂げられるかもしれないが、これから起きることが全て今後の礎になるなら、それほど素晴らしいことはないだろう。

「斗南、しかし不思議な響きがあります。古来の言葉ではないような」

 平素あまり物憂い顔を見せない長兵衛が、珍しく思い巡らすような顔をしていた。今まで敗残の記憶ばかりを見ていた辰次郎には、新しい藩の名前まで関心を持つ余裕がなかった。

「俺たちが知らないだけで、本当はあるのではないか」

 心当たりがないまま、辰次郎は言った。外海の激しい波を指して、外波という言葉も作れる。港町だけあり、そのあたりに由来があるような気がした。

「いや、長兵衛の感覚が正しいな。由来は大陸だ」

 興味を引かれた辰次郎は、我知らず声を漏らしていた。

 寅之介はおもむろに語り出した。耳を傾けるとそれは韻を踏んでおり、心地よく響く詩文であった。

「北斗以南皆帝州という詩文がある。これが新たなる会津藩、すなわち斗南藩の名の由来だ」

 その言葉の中には、確かに斗南という言葉があった。されど意味までは容易に汲み取れない。

 寅之介が足を止め、星空を仰いだ。眼差しを追うと無数の星宿を捉える。その中に答えがあるような気がした。

「北斗とは、北斗七星のことですか」

 佑の問いに兄が頷いたのを見て、形もわからない星宿を探してみたが、寅之介はこの時期は見えぬのかなと微笑んだ。

「北斗七星は春にならぬと見えぬものでな。この土地であれば、それが見えた時の喜びもひとしおであろうな」

 春泥のような春の訪れを告げるものを想像すると、冴え冴えとした星空にも温もりが宿って見える時があるのだろうかと思えた。それは厳冬との戦いを乗り越えた安息の時でもあるだろう。

「北斗以南皆帝州。この土地のような最果ての地であっても、北斗七星を仰ぎ見ることができるということはいつでも誰しも変わらないのだ。それが薩長の者たちであってもな」

 佑が険しい目を向ける。故郷を蹂躙し、住み慣れた土地から本州の北端へ追いやった者たちと同じ立場であることが気に食わないのだろう。端で見ているだけで緊張するほどの目つきであった。

「そして山川権大参事以下、旧会津の首脳たちの総意が込められた名前であろう。新政府に押しつけられた名前ではない。我らの導き手が探し当てた名前なのだからな」

 若いながら戊辰の役から要職を担い、転封の後もめげずに斗南藩で新たな暮らしを立てられるように尽力する人の名は、佑のたぎる気持ちを鎮めたようで、彼は恥じ入るような目つきになって黙礼した。

 辰次郎は寅之介が佑をなじるかもしれないと落ち着かなくなった。癇に障ったとはいえ佑の態度を非礼と見なしても仕方がないと思ったが、寅之介は何事もなかったかのように涼しい表情を保っていた。

「山川権大参事は戦を避ける努力をしてきたし、広沢小参事は薩摩や長州の者たちと積極的に関わってきた。戦において敵同士となったとはいえ、皆が相容れぬとは思っていないのだ。藩士たる我らは、名前に込められた思いを正しく汲んで新しい日々を生きていかなければならないな」

 自分たちを打ち負かし、流刑に等しい転封を科した者たちに協調の糸口を見つけろと言うのだろうか。新政府に知り合いの多い広沢小参事ならともかく、自分たちに新政府との関わりはない。どうしても敵と見ることしかできない今は、首脳たちの思いに応えるのは難しいだろう。佑のように、近しい者を失った怒りや悲しみを新政府へぶつけようと思う者はなおさらだ。

「敵であった者たちと親しくなるのは容易ならざる事だろうが、斗南の名前にはもう一つ思いが込められている。このような最果ての地であっても帝州であり、我らは帝州の民だ。ならば、いつか表へ返り咲く時も来る。その時を信じるのだ」

 それは敵だった者たちを愛するより現実的な目標に思えた。自分は元より、次世代である正毅たちに託せる願いであった。

 佑を慮り、子供のいる三人は何も言わず頷き合った。佑は顔をしかめていたが、星を仰ぎ見る眼差しに揺らぎはない。

 いつか表へ。そして中央へ。帝州の民であることを忘れない限り、その日は決して遠ざからないと辰次郎には思えた。

                                    [続]