2017.11.11 須賀川松明あかし
毎年11月2週に開かれる松明あかしを見に、福島県須賀川市へ行ってきました。
主催者によると、日本三大火祭りだそうです。
小雨そぼ降る、関東とはひと味違う寒さを味わいながら会場へ向かいます。道の脇に立つのは本物の松明です。係員が素手で薪をくべていました。
会場に着いた後、あまりに寒いので300円出して豚汁を買いました。体も温まり、値段の割に量が多かったので満足です。
一般参加の小松明。提灯のように松明を掲げた人たちが川沿いを歩いて行きます。
会場近くの道を上っていきます。
会場に並べられた松明。これらがどうなるか、これからのお楽しみです。
18時半着火、この時は祭りの実行委員長らしき人が松明の頂上に登り、地上から導火線を伝ってきた火を受け取って着火していました。この頃は会場への入場規制が行われており、移動も一苦労でした。
この時は風が強く、瞬く間に火が回って焼け落ちていきました。風で火の粉がかなり遠くまで飛んだので周囲からは悲鳴が上がるほどでしたが、とてもきれいでした。
周りの松明も順次着火、しかしこれだけでは終わらないのが松明あかしの凄さです。
騎馬武者が燃えます。
城も燃えます。
本丸が燃えます。
松明あかしは元々、伊達政宗と須賀川城主大乗院との間で行われた戦いにおける戦没者を弔うために始まったと言われています。大乗院は伊達政宗の伯母でした。須賀川にも女城主が一人。
420年余りの歴史を考えれば、日本三大火祭りと呼ばれるのも納得です。間近で見ていると日焼けするかと思うほどの熱に襲われます。会場では火の粉に注意するよう再三に渡ってアナウンスがされていました。小雨などものともせず燃えさかる炎は、ただただ熱かったです。
地面に火が燃え移ったのを見つけて、きっちり仕事をする消防団員の方々。他にも多くの方々が安全のために動き回っておりました。あなた方のおかげで今年も迫力と感動を味わうことができました。ありがとうございます!
別の場所から。祭りももう終盤にさしかかっていました。この場所の周辺では、木に火の粉がかかって燃え上がらないように水をかけておりました。
そして、お祭りが済んだ後。城と松明が燃えていた丘の上。
あとがき
去年15年ぶりに訪れて、2年続けて見ることができました。やっていることはきっと420年余り何も変わりはないのでしょうが、迫力と熱量は何度経験しても飽きないでしょう。今年はひときわ寒かったので、火のありがたみをとても感じました。来年もきっと来るでしょう。その時も同じことを書けたら良いですね。
おまけ
須賀川橋を渡っていくと、ウルトラの母やウルトラマンエースなどが出迎えます。怪獣ではゼットンが最初です。他にもゴモラやカネゴンなどの像が道沿いに立っています。
ウルトラマンと須賀川市のつながりについては、像の前の説明書きを参照してください。原文を読みたい方は、是非須賀川へ!
後悔、しかし満足、その後
最初に断っておこう。平日の午前中に記事を書くからと言って、私は無職ではない。六時間後には仕事がはじまり、一晩中歩き回るのだ。それなのに昨日走り回った疲れが抜けていない。
幾度となく投げ出したくなったものだが、夜明けの来ない夜はないのだ。松田聖子も歌っていた。
24時間後もきっとまだ職場にいる。15000歩ぐらい歩いてこよう。
Jドリームについて
好きなマンガとして挙げているJドリームを、どれだけの人が知っているだろう。
本作は20年以上前に連載していたサッカーマンガである。当時のJリーグチームを実名で登場させ(主人公は浦和レッズに所属していた)、Jリーグ開幕からドーハの悲劇までを余すところなく描いた名作である(個人的にはそう思っている)。
ところがこのマンガを話題にしている人をついぞ見たことがない。2年前、ある雑誌でJリーグ20周年を特集しており、サッカー関係者や漫画家のインタビューも載っていた。私は原作者がインタビューに応えてくれていると期待したのだが、原作者もJドリームもどこにもなかった。一体何があったのだろう。
今年はサンフレッチェ広島がJリーグを制した。Jドリームにも登場したこのチームは、主要キャラの一人が所属していたチームでもある。膝に不安を抱えるこのベテラン選手は、試合中に骨折しながらも最後まで戦い抜いた。このキャラクターの生き方には賛否両論あるだろうが、「サッカーが大好きで・・・」という思いを見開きで吐露しながらオフサイドトラップをかけるシーンは名場面だと思っている。
今年は清水エスパルスが降格してしまった。このチームにも主要キャラクターが所属している。その人が胸に秘めていた思いによって、締めくくりたい。
「ヤジも、プレッシャーも、痛みさえ、戦っていればこその!」
資格試験のこと
4月から某パソコンスクールに通い、休みのたびにワードとエクセルを学ぶ日々が続いた。おかげで寧日と言える日は二ヶ月に一度しかなくなった。今日はその貴重な一日であった。
約8ヶ月で3つの資格を取ることができた。他人から見れば誰でも取れるようなものかもしれないが、職場では基本的なパソコン操作を求められる。それを口で言うより簡単に証明する手段として資格取得を目指したのだ。一度も試験に失敗することがなかったのは素直に嬉しいことである。
私はきっと、ようやく同年代の社会人と肩を並べられるぐらいになれたのであろう。謙遜ではなく、何かが足りていないと身を焦がす思いを幾度となく味わった。一定の成果は出たが、これからも努力を重ねなければいずれ無に帰してしまう。まずは努力、努力である。
犂について
私は農業を知らない。しかし不思議なことに犂のことは知っている。
犂と聞いて知っている人は少ないらしい。我が国では平安時代に大陸からもたらされ、その後千年以上かけて改良を重ね、明治から昭和初期まで全国の農家で使われてきた農具だ。たとえば佐渡島では、昭和33年までは使われていたが、それ以降は姿を見なくなった。耕耘機に取って代わられたのだ。
牛や馬が不思議な農具を取り付けられ、後ろから御者が声をかけながら手綱を引く光景を、60歳前後の方なら見たことがあるかもしれない。それはちょうど過渡期の記憶であろう。この後農法は機械化が進んだ。田畑での役目を終えた牛馬は、荷役として農道を歩むようになった。
過渡期の後の様々な変化を悪しきものとして捉える人は多いだろう。昭和40年代は公害が顕在化し、右肩上がりであった経済成長も止まり、やがて来たる不況の伏線ともなった。その原因を、農業に留まらない機械化をはじめとする社会構造の変化、それに端を発する人心の荒廃に求めれば、容易に支持を得られるかもしれない。私自身、機械による大量生産より手間暇をかけたものを愛したい。
しかし、である。機械化はその分野に携わる人々による努力の証である。犂が導入されたことで農民たちは作業の能率化と省力化に成功したという。それは耕耘機が普及した昭和30年代に加速する。ひずみが出たのは残念なことだ。然れども犂の力が農民の負担を軽くしたのも事実であろう。仮にこれが、明治6年の学制施行の頃に実現していたら、就学率の上昇も速くなったであろうし、森有礼も暗殺されずに済んだかもしれない。
私は農業を知らない。しかし犂を広め現代の農法の礎を作った馬耕教師たちを知ることができたのは望外の喜びである。
彼らが残した足跡と礎が元になっているであろう米や野菜を、今日も私は食べる。納豆ご飯とロールキャベツが美味しい夕食であった。
GW明けの旅行
今週のお題「今年見に行ってよかったもの」
佐渡島の民俗資料館。平日で人もおらず、職員が見学中の筆者を訪ねてくるほど閑散としていたが、個人的には行けて満足であった。
前々日に佐渡島入りしたが、忙しい夜勤が明けた日の昼に出発した。疲れていたはずだが翌朝は五時半に目覚めた。楽しみにしていた土地であったし、一日半しか滞在できないのが残念なほどであった。
宿は佐渡島のど真ん中に位置していた。おかげで色々な場所を訪ねることができた。ただ食事が予想を超えていた。まさかコロッケの中に納豆が入っているとは思わなかった。
新潟港と両津港の行き来はジェットフォイルを使った。本当はフェリーで二時間かけて佐渡海峡を渡ってみたかったのだが、翌日の仕事を思うと無理はできなかった。いつか調べ物ではなく純粋な旅行として行ってみたい。その時は悠々と船旅を楽しみ、島内はレンタカーで回ろう。
知人のはとこの紹介という遠い縁にもかかわらず、貴重な話をしてくれたIさんには感謝しきれない。いつまでも元気でいてほしい。
佐渡島は好きだ。今度来る時は神奈中のバスを探そう。タクシーの運転手の情報は正しいはずだ。