yuzaのブログ

幕末から明治を舞台にした小説を中心に載せています。

明日は遙か 三

  三章 星流る

 

 獣の肉を前にして正毅は無邪気にごちそうだと喜んだ。魚以外の肉を食べたのはずっと昔で、辰次郎さえ記憶が曖昧である。風の噂で、外国との窓口となった横浜では、かつて薬の一種であった牛肉を食べ物として扱う文化が生まれているらしい。朝敵とされた人々が冬は雪と北風に閉ざされ、雪解けの時期を迎えても距離と風評が中央から遠ざけるような土地にあっても、国は確かに動いているようであった。

「どうしたのですか、誰も病になったわけでもないのに」

 初にとっての肉は、薬としての牛肉であるらしい。かつて薬として口にしたことがある正毅は当時の味を気に入ったらしく嬉しそうな顔をしているが、初は根っから不思議がっていた。

「肉でも食べないと具合を悪くするだろう」

 辰次郎は言い、二人の前であらかじめ肉塊に加工されたものを広げた。それは茶色を帯びた黒い肉で、よく見るとわずかながら体毛が残っている。それを見つけたのか、初はわずかに眉根を寄せた。

「でも良いのですか。牛など病でもないのに食べたら」

「体が穢れるか。それでも生きていけるならましだろう」

 そう言うと初は黙った。大人たちは子供たちが育つまで生き抜いて、彼らの礎にならなければならない。そのような考えは斗南藩士をはじめとする多くの大人たちに浸透していて、そこに男も女もない。初もまた理解しているようだった。

「それにこれは牛の肉ではないよ」

 辰次郎はさりげなさを装って言ったが、正毅の耳はごまかせず、

「それじゃあ何の肉ですか」

 好奇心に満ちた顔で訊いてきた。

 辰次郎は何とかごまかす言葉を探したが、答えを待つ正毅の前でうまい考えは浮かばず、

「菊右衛門さんの知り合いの猟師が分けてくれたのだが」

「では野兎か何かですか」

 初が口を挟む。さっきに比べ興味を惹かれたような顔をしていた。

「いや、そうではない」

「じゃあ何なのですか」

 じれったそうな表情に変わり、答えを急かす。

 意を決し、辰次郎は口を開いた。

「間違って野犬を射殺して、捨てるのも不憫だからと分けてくれたと聞いた」

 正毅は野犬と聞いて何なのかわからなかったらしい。知らない言葉を聞いて呆然とした顔をしている。

 一方の初は信じがたいものを見たかのように硬い表情で辰次郎を見、野犬の肉に視線を注いだ。そしてぎこちない動きで顔を上げ、

「本当、なのですか」

 と、震える声を出した。

「猪の肉と偽るならいざ知らず、犬の肉と言ってきたのだ。本当のことだろう」

「しかし、だからと言って」

「まだ冬は長い。肉でも食べないと乗り切れん」

 食べる決心がつけられない初を制するように辰次郎は声を張った。辰次郎とて犬を食べたことはない。ましてどんな病気を持っているかわからない野犬である。食材としては怪しいことこの上ない。

 しかし最も寒さが厳しくなる時期を迎え、周りでは何人もの子供や老人が体調を崩している。死人が出ている家もあると聞く。押布や野草より動物の肉の方が、体が生み出す熱の量は多いはずだ。賭けになってしまうが、全ては春を迎えるためであった。

「わかったら捌いてこい。しっかり火を通すのだ。そうでないとどんな病気にやられるかわからん」

 初を突き放すように言うと、彼女は甲高い声を上げて台所へ向かった。

 特別に加工されていない肉を切りそろえるのに苦労したようで、普段の倍近い時間がかかった。それを野菜と共に、普段よりも念入りに煮込む。魚の時とは違う匂いが漂ってきた。何とか好意的に捉えようと思うが、不慣れなせいか嫌なものにしか思えない。

 顔をしかめたくなるのを抑えながら三人分取り分け、辰次郎の号令で口をつける。未知の食材が入っている緊張によるものか、初の表情は硬い。正毅は新しいものへの抵抗を感じないようで、頬は柔らかかった。

 しかし肉を口にすると表情が変わった。噛み切るのに苦労しているように顔をしかめ、しまいには吐き出そうとした。

「正毅、何をする」

 辰次郎は一喝した。驚いた顔をして正毅は口を閉じ、弾みで飲み込んだ。一瞬喉に詰まらせたらと心配になったが、幸い苦しそうな顔は見せない。代わりに泣きそうになった。

「せっかくの食べ物を無駄にする気か」

 辰次郎は息子の目が潤んできたのに構わず言葉を継いだ。父親の顔がよほど恐ろしかったのか、正毅は息を呑んだ。

 それで素直に食べるかと思ったが、

「でも、まずいから」

 そう、消え入りそうな声で抵抗を見せた。

 以前押布を食べた時は、思いを押し殺しているのがわかる顔で美味いと言っていた息子が、初めて自分の意見を見せてくれたようで嬉しく感じたが、今は喜んでばかりではいられない。辰次郎は心を鬼にすることを決め、

「お前は武士の子だろう。かつて戦場では兵糧がなければ犬や猫も食らったものだ。我らが敗北の上餓死したとあっては、世間様の物笑いの種になる」

 幼い息子が、父からの言葉をどこまで理解できたのか計り知れない。ただ剣幕に恐れおののくだけかもしれない。しかし、それでもたった一点が伝わってくれれば良い。

「生き抜け、生きて残れ。お家再興が成るまでは生きてあるんだ」

 正毅は椀を持ったまま、辰次郎の剣幕を見返していた。その眼差しには強く怯えが見えたが、微かに立ち向かおうとする力強さが見えた。

 正毅は小さな声で返事をして、椀に口をつけた。そして時間をかけて犬の肉を食べきった。

 初が正毅を庇うように話しかけてきたのは、灯りを消して寝静まる時間であった。

「犬の肉を食べられないと言うのは仕方が無いのではないですか。私も捌くのに苦労しました。戦場では貴重な食糧だったかもしれませんけれど、子供の食べ物とは思えません」

「しかし克服しなければこれから先生きていけまい」

 力や技術とは違う、それらを除いて最後に残る生命力の問題であった。まだ日新館にも入っていない正毅なら、国の中央で生きていくための力はいくらでも手に入れられる。それにも時期が来るまで生き抜く力が必要で、犬の肉でも虫でも食べて得られるならそうしてほしかった。

「耐えてさえいればいつかはお家再興も叶う」

 親藩として栄光の中にあった頃を取り戻す。いまや斗南藩士たちの間で合い言葉のようになっていた言葉を口にすれば、初も納得してくれると思っていた。それが苦境を抜け出す唯一の手段であり、翻って子供たちのためになるのだ。

「それほどお家再興が大事ですか」

 初が見せた反応は、期待とは全く違うものであった。声音は懐疑に満ち、夫に対する敵意さえ感じた。

「命を捧げるべき相手はもはやいないのに」

「今更何を言っているのだ」

 辰次郎は跳ね起き、声を上げた。すぐに正毅が寝ていることに気づいてしまったと思ったが、幸い息子は規則正しく寝息を立てている。

「お前様」

 初に咎められ、しずしずと体を横たえる。初の言葉で跳ね上がった気持ちの高ぶりを鎮める間を置いて、

「全ては子供たちのためではないか。何があっても生きてもらわなければ、秀一郎も報われまい」

 大人たちのみならず、死んでいった子供まで礎になるという寅之介の考えを全て認めたいわけではない。しかしそう考えなければ、現実に帰ってこなくなってしまった者たちに顔向けできないのだ。

 どんな大義があるにせよ、子供を守れなかったのは大人の力が足りなかったためだ。厳然たる事実だが、心の奥には目を背けたい気持ちもあった。

「秀一郎は大人たちの犠牲になったのですね」

 初の冷然とした声は、心の奥底に潜む暗い気持ちを突いた。戊辰の役で敗れたことも、お家再興に望みを託すことも、元をたどれば大人たちの失敗である。秀一郎をはじめとする異郷で死んだ子供たちはその犠牲になったのだ。そして犠牲が報われる保障もない。だからこそ、皆がお家再興という明るい希望を見る。光の当たらない場所に潜む事実を忘れたいがために、未来を見通しているのだ。

「そんな言い方はよせ」

 辰次郎は気色ばみ、言い返した。初の言葉も事実を示しているが、大人たちとて何もしていないわけではない。山川権大参事は廃刀令を出して藩士の意識を変えようと苦心しているし、永岡小参事も田名部を発展させようと尽力している。

 彼らにも子供たちを犠牲にしてしまったという罪悪感はあるはずだ。その上で自らの務めを果たそうとしているのだから、斜に構えた見方はさせたくなかった。

「正毅が斗南藩の人柱にならないとどうして言い切れますか」

 辰次郎は言葉を失った。犠牲が正毅でなく秀一郎だったのは、もしかすると偶々であったかもしれない。一つ何かが掛け違っていれば、自分たちの間は空白になっていたかもしれないのだ。

「こうして人柱を積み上げてそれでも成し遂げるお家再興なんて」

 それは秀一郎の死に際し、寅之介に言ったことでもあった。あれからまだ二ヶ月程度しか経っていないのに、佑をして優しいと言われた視点を失ってしまっていたらしい。その変化に慄然とする。本当に自分の子供の死に際し、礎の一言で片付けてしまうような気がした。

 何かを言おうと考えあぐねていると、正毅がうめいた。それで頭が冷える。初も同じだったようで、沈黙が降りた。

 決まりの悪さを解消できないまま、初の布団から規則正しい息づかいが聞こえ出した。それを聞きながら犠牲という言葉を思い返す。お家再興が成るまで、どれほどの命が異郷で失われていくのか。辰次郎はおろか、権大参事らにも答えられない問いかけに思えた。

 夫婦間の遣り取りは薄い壁を通して周りに聞こえていたようで、

「夫婦喧嘩か、お前のところにしては珍しいな」

 長兵衛に揶揄された時には耳を塞ぎたくなった。

「恥ずかしいな」

「別に聞きたかったわけではない。しかし壁が薄いから仕方あるまい」

 長兵衛はあくまで明るく、それにつられるように辰次郎も苦笑する。思えば自分たちは、正毅が生まれてから言い争うことが少なかったように思う。知らず知らずのうちに気持ちを内へ抑え込み、ここ最近の過酷さがきっかけとなって吹き出したのだろう。

「子供が人柱とはな。なかなか厳しいことを言うじゃないか」

「ああ。しかし本当のことかもしれん。お前はそう思わないか」

 正毅をはじめ、後に続く者たちのために生きていくつもりであった。そのためのお家再興であると信じてきた。しかし視線を遠くに持ちすぎたがために、初の反発を招いたような気もする。子供たちは後ろばかりではなく、足下にもいたのだ。

「寅之介さんなら、気にしていられないと言うかもしれんな」

 秀一郎の一件があってから、何となく疎遠になってしまっている兄なら、細かい犠牲にはこだわらない姿勢を貫くかもしれない。そうでもしなければ目標へ近づけない余裕のなさは、兄の冷徹さを際立たせてしまっている。

「兄上ではなく、お前の思いを聞きたい」

 辰次郎が重ねた言葉に熟考し、

「そう思われても仕方が無いな」

 と、悲しそうな笑顔を見せて言った。

「しかしそうでなければ、何のために秀一郎が死んだのかわからん。自分の息子が犬死にではなかったと、無理にでも思わなければ、俺たちが報われないじゃないか」

 小さな犠牲を無意味に積み重ねたと後世後ろ指を指されるようであってはならない。それでは保科松平家の名に泥を塗ることにもなるだろう。

「この斗南を盛り上げようとしているのは、もはや藩士たちの維持でしかないのだろうか。傲慢なことをしているか」

「傍目にはそう見えるかもしれない。しかし俺たちには、家族を巻き込むことでしか家族を守れなかった」

 東京と名を変えた江戸にでも頼れる親類がいれば、初を離縁して預けることもできたかもしれない。そして自分だけが斗南へ行くのだ。それができれば、最悪でも死ぬのは藩士たちだけで済んだ。

 しかし現実には備えも考えも足りず、家族を伴うしかなかった。その結果秀一郎のような子供も出てしまう。

「辰次郎、俺は秀一郎のことを悲しんでいる。無力さを呪う気持ちもある。しかしそれを悼んだり嘆いたりするのは、目処がついてからだと決めている」

 長兵衛の声音は強く、迷いに揺れる辰次郎の心に響いた。彼の方が苦しく悲しい状況に置かれているのに、妻と言い争ったぐらいでめげてはいられない。

「俺たちの行く道が正しかったかどうか、結論が出るまで時間はかかろう。間違っていたのかもしれん。しかし俺たちはここにいる。答えの正しさを案じるより、生きることに邁進する方が大事だろう。寅之介さんではないが、ここは此岸なんだ」

 秀一郎のことを悼まずに立ち去ろうとした兄を責めた時、彼は此岸という言葉で一喝した。その言葉の向こうには、何人もの子供がいたのだろう。

 今の自分が背負うのは、二人の妻子だけだ。兄のように多くの子供を預かる者に比べたら、その責任は軽い。しかし二人にすればかけがえのない男でありたい。息子への態度をめぐって言い争った初のように。

「お前は強いな。いや、強くなければならないか。権大参事らはこの土地で暮らす者たちを守ろうと必死なのだ。藩士はそれに応えなければならないな」

「そう思う人間が出れば、廃刀令にも意味があったことになる」

 権大参事山川浩の命により、斗南藩ではいち早く廃刀令が出された。そのお触れの中で、山川は刀を差すことやそれによって権威を示すこと、古い権威によって人を支配することを明確に否定している。

 山川をはじめとする斗南藩の首脳陣の願いは、藩士一人一人が自立することであろう。刀が権威を示した頃から、既に未知の日々へ移り変わっているのだ。そのことに気づかなければ、先へ行った新政府の者たちと渡り合うことなどできはしまい。

「この辺りはまだ良いが、場所によっては稼ぐ手段さえないと聞く。そんな場所では刀は役に立たないということか」

 口にするのは苦しい言葉であったが、それまで何の疑問もなくしがみついていた権威から離れる決心がつくと、不思議と心は軽くなる。妻子を苦しめられないという重圧と同時に、何でもできるかもしれないという期待感が満ちてくる。それは競りに集まってきた客の中に、広沢安任を見た時と同じ気持ちであった。

「それは権大参事ばかりではなく、小参事も同じだろう」

「広沢小参事のことか」

「以前お見えになっていたな。何をお考えかわからんが、刀に頼ることではないだろう」

 広沢の優しげな顔を思い、辰次郎も頷いた。昌平黌に学んだ経験などを聞くに、武に生きるのは似合わない男に思うし、母親を支え続けた徳の高い人でもあると聞いている。そんな人と縁があるのなら、喜んで力になってみたいと思うのだった。

「広沢小参事は、山川権大参事が特に信頼を置いている人だと聞いている。そんな人が、よもや物見遊山であの場にいたとは思えない」

「それこそ斗南藩の命運を左右するような意味があるか」

 長兵衛は深く頷き、

「それが秀一郎の命に報いるようなものであれば良いが」

 遙か先を見て言った。その日を遙かに見ながら、しかし固く信じているような眼差しであった。

 競り人の下で働いている時は遙か遠くの夢や希望を信じていられるが、家に帰ると現実を否応なしに突きつけられる。周辺に住む子供や老人には、ちょっとした傷でひどく出血する者が多く現れ、医者の見立てでは栄養不足からくる病であるということであった。

 正毅も例外ではなく、出血に怯えるのを落ち着かせるのが苦労であったが、そういう役目は初の方がうまく、辰次郎はほとんど役に立てなかった。

 その初が、嫁入りの時に持たされていた着物を売ろうとしていたのを街で見た時は、彼女が痛がるのも構わずに店から引っ張り出した。初のしようとしていたことを咎めると、着物のままでは正毅を救えないと厳しい声で言い返された。

「今必要なのは薬礼でしょう。着物では正毅の血を拭いてやることぐらいしかできないではないですか」

 そう言い返され、辰次郎は言葉を失った。

 初は話は終わりとばかりに店へ戻っていった。やがて薬礼としての金品を手に戻ってきた。まだ役目が終わっていなかったため妻を見送ることしかできなかったが、息子を任せきりにするしかないことが何とも情けないことであった。

 競り人の下での仕事を終えて長屋へ戻ると、辰次郎は実父のことが気になった。正毅が苦しむ病は、栄養不足の老人たちの間でも広まっている。惣太郎もかなりの歳であり、せめて様子を見ておきたかった。

 寅之介の家を訪ねるとちょうど夕餉の時間であった。その中に寅之介の姿はない。惣太郎は思ったより元気に見えたが、一家の主がいないのが気にかかった。

「どうした、辰次郎」

 突然の来訪に驚いたらしい寅之介の妻子に対し、惣太郎は太々しささえ感じさせる声で迎えた。役目や地位に対し自信を持つ分、傲然とした態度を見せることのある人物であった。その態度に密かな反発を覚えたこともあるが、この過酷な土地でも変わらないところを見せられると安心する。

「いえ、心配になりました。正毅が今大変なので、父上はどうなのかと」

 元気そうな父を見て安堵していた辰次郎だが、

「私を気にかけるより息子を心配したらどうだ。嫁に苦労をさせているようだな。情けないと思うことだ」

 惣太郎に言われ、身が引き締まる思いであった。初とて薬礼捻出のためとはいえ、嫁入り道具を売る羽目になったことに痛みを感じていないはずはない。妻子に痛みを感じさせていることは、一家の主として恥じなければならないのだ。

 遠慮の無い声にさらされ、辰次郎は頭を下げた。少し目が覚めたような気がした。

「ときに、兄上はおりませんか」

 夕餉の時までいないのは妙なことであった。

「詳しくは知らぬが、まだ日新館にいるはずだ。元々遅くなると言っておったが」

 子供を教え導くための場所で、日が暮れるまですることがあるのかと思ったが、確かめる術はない。辰次郎は夕餉時を騒がせたことを詫びて自分たちの部屋へ戻った。

 部屋では正毅が休んでおり、それを初が見守っていた。

「父上を見てきたが、元気にしていたよ」

 初にしても義父の体調は気になっていたらしい。ずっと険しかった表情がわずかに和らいだ。

「あの父上のことだから、そう簡単に病に冒されるはずもないが」

 正毅のことでずっと心が安まらなかったはずの初が笑みを見せたことは辰次郎にとっても嬉しく、それをもっと大きくしようと思って、務めて明るく言った。そうですね、と初はもう一度笑ってくれた。

「御兄様はどうでしたか」

「いや、どうやら帰っていないようでな」

「それはどうして」

「元々遅くなると話していたそうだ。日新館で何かしているそうだが」

「お忙しいのですね。お前様もそれぐらいなら良いのに」

「無理を言うな」

 少し冗談めかして言った初に、辰次郎も笑みを見せる。正毅の不調や秀一郎の死などでよどんでいた夫婦間の空気が晴れたような気がする。肉親の安楽がこれほどの安らぎをもたらすと思うと、悪いことばかりではないのだと救われた気分になれた。

 床に就く時間になっても寅之介が帰ってくる気配はなく、惣太郎に確認を取ってもやはり戻ってはいなかった。巷では過酷な暮らしでたまった鬱憤を晴らすかのように、権大参事をはじめとする首脳陣の責任を問う声が高まってきている。多くは与太話に過ぎないが、中には本気さを感じさせるものもあって、危険な臭いを辰次郎も感じてきている。直接藩政に関わってはおらずとも、兄がそのとばっちりを食うことも否定はできなかった。

 一度心配が芽生えると落ち着かなくなる。田名部の日新館へ様子を見に行こうと思ったが、夜道の危険さは一年以上に渡る暮らしで知っている。通い慣れた道とはいえ迷う危険もあったし、雪が残る夜道は何よりも怖いものだ。実際冷え込みの厳しさから遭難の危険があることを、最初に菊右衛門から聞かされていた。

 落ち着かない気持ちを抑えて眠りに就いた辰次郎は、朝を迎えたら朝餉も摂らずに田名部へ向かった。賢明な兄であれば、昨日は戻るつもりがなかったのだと思った。

 果たして兄は日新館に泊まっていた。思いもしない来訪に驚いた兄であったが、心配を素直に告げると苦笑しながら、

「お前に心配される日が来るとはな」

 と、面映ゆそうに言った。

 その顔は少しやつれて見える。激務のせいかと思ったが、子供にものを教えること以外に何が役目か思いが至らない。

「少しやつれたようですが、眠られていないのですか」

 すると兄は、何故か言葉少なに返事をするにとどめ、

「疲れたな。少し寝てくる」

 と言い、講師用の宿舎であるという建物へ向かった。

 肩を落としているように見えた後ろ姿を気にしながら立ち尽くしていると、辰次郎を呼ぶ声があった。佑が思いがけないものを見たような顔でそこにいた。

「寅之介さんに会いに来たのか」

「ああ、そのようなものだ」

 軽い挨拶のつもりでそう応えたが、

「ならば一人にしてやってほしい。だいぶ気落ちしているようだ」

「どういう意味だ」

 さっきの消沈した様子を思い出しながら、兄が消えた宿舎へ目を向ける。

「子供や老人が苦しんでいることは知っているだろう」

 もちろんだ、と言って辰次郎は頷いた。

「本来なら日新館へ通うような子供でさえ、日々働くので忙しく通えていない現実がある。そんな中でも何とか学ぼうとしていた子供たちがいたのだが」

 佑は学舎の方へ目を向けた。

「昨日のことだった。寅之介さんが目をかけていた子が死んだ。苦しい中でも通い続けてきた子だった。それだけに気落ちしている」

 会津藩には何よりも学びに手間をかけることで道を切り開こうとする、一種の哲学めいた考えがあった。寅之介はそれを忠実に守ってきたのだが、現実に敗れたように感じたのかもしれない。

「その子だけではない。子供の死は連日藩庁に届いている。嫌な言い方だが、秀一郎のようなことは決して珍しいことではなかった」

 田名部とその周辺はまだ仕事もあって恵まれた方だが、権大参事らが始めに開拓した斗南ヶ丘に立つ家々などは、冬の豪雪で潰され多くの犠牲者を出している。暮らしの目処が立たないために出稼ぎに出る者や斗南を離れる者、婦女子の中には田名部の商人の妾になる者まで現れているという。

 日新館に仕事がある佑と別れ、辰次郎は敷地内を歩いた。子供らが現れるはずの時間だが、その気配はほとんどない。時々門をくぐってくる子供は一人か二人、まばらに現れるだけで、子供らしい甲高い声は聞こえてこない。

 どこの家でも日々の暮らしで精一杯で、生きていくために学びを捨てざるを得ない。会津藩以来、自分たちが大事にしてきたものさえ過酷さの前に踏みにじられようとしている。どうにかしなくてはならない。しかし立ち尽くす辰次郎に為す術は無く、日新館を黙って立ち去るのであった。

 

 多くの死者や傷病者を出した冬が過ぎる頃には正毅の病も快方に向かっていった。食糧確保の難しさから来る病は、春の訪れと共に消えていったが、暮らしの苦しさは変わらず、相変わらず日新館に来る子供が少ないと寅之介は嘆いていた。

「北斗七星が見える時期になりましたな」

 教え子の死を見てきた寅之介は、まだ傷が癒えていないようであった。それを気遣って辰次郎が外へ連れ出した帰り道は満天の星空であった。

「北斗七星とはどこにあるのですか」

 辰次郎にはどうしても星宿の形がわからない。数が多すぎることもあり、子供がするように星と星を指でなぞりながら歩く。

「いつまで経っても同じことを言うのだな」

 寅之介の顔に笑顔が戻る。星宿に限らず、兄には多くのことを訊いた。それを厭わずに物事を教えてくれたのは人柄であっただろう。やがてそれが務めとなり、平穏なままであれば多くの子供を導くことになった。父が歩んだ道を行くことができなかったのは、数奇な運命とも、悲劇とも言えた。

「日新館の子供たちと同じだ。こういう状況でなければお前もまだ日新館に通う歳だが」

 日新館には六歳で入り、二六歳まで学ぶことができる。もっとも、日々を生きていくだけで精一杯の状況だけに、通うことがままならない者たちを咎めることはできない。

「日新館はもう終わるな」

 何気なさを装った声に軽い気持ちで返事をしそうになり、寅之介を振り向いた。聞き違いを願いながら訊き返すと、終わると言ったのだ、と割にしっかりした声で彼は答えた。

「これはもはや避けられないことだ」

「学ぶ者が集まらないとはいえ、全くいないわけではないでしょう。その子たちのためにも続けた方が良いのでは」

 内側の事情を知らないだけに、どうしても控え目な言い方になってしまう。しかし正毅はまだ入ってもいないのだ。会津藩が培ってきた学びを受け取るのはこれからなのに、寸前で打ち切られてしまっては大きな悲劇になりかねなかった。

 寅之介は微笑んだ。諦念のにじむ居たたまれなくなるような顔だった。

「お前は知らなかったか。斗南藩はやがてなくなるのだ」

 そのどこか涼しげにさえ見える顔で静かな言葉が紡がれたが、辰次郎は兄の感情に乗ってやることはできなかった。足を止め、どういうことですか、と食ってかかるような勢いで訊いた。

「まだこれからのことだが、斗南藩だけではない。全ての藩がなくなるのだ。我らを最果てへ追いやった薩摩や長州も、全ての藩が運命を共にする」

 戊辰の役の後に残った数百の藩はそのまま残され、徳川幕府のあった頃と変わらずに藩主がその地を治めることになっていた。徳川幕府から接収した領地のうち、東京や大阪などの大都市を府とし、その他を県として新しく設定する改革はあったが、藩主や藩士にとっての変化は少ないままであった。

「何故そのようなことを」

 いつしか兄弟は足を止めていた。かつてのように教えを請い、請われる間柄に戻ったような気分であったが、その先の現実は子供の頃に味わうことは有り得なかった類いのものである。

「藩主がいつまでもいると、新政府にとって都合が悪いからだ」

 数ヶ月前に比べて夜気が穏やかになっているせいか、手近な岩に腰を下ろして語り出す兄の表情は、子供にものを教える時のように優しいものに見えた。

「新政府が目指しているのは、一つの国に一つの政府がある体制だ。ところが現状は、新政府の他に各地の藩主が地方を治めている。各地の藩主は独自に税を徴収しているし、薩摩藩などは藩主の父が実権を握って軍事力の増大に努めていると聞く。新政府としてはとても落ち着いて政治など執れないだろう」

 新たな時代を切り拓くのに貢献した藩が、体制に反することをしているのは意外であり、皮肉であった。しかし新政府の言い分もわかる。戊辰の役を含め、体制を揺るがす反乱はいつも九州や東北で燃え上がっていた。反抗を未然に防ぐためには必要な措置であろう。

 しかし戊辰の役の敗者として、どうしても納得できないことがあった。

「それでは我々は、誰の下につくのですか」

 寅之介は辰次郎を見遣ってから、静かに口を開く。

「新政府だ。星が流れる頃には決まるだろう」

「それでは薩長の下で働くということになります」

「そうだな。我々を最果てへ追いやった者たちが上に立つ。彼らの中には戊辰の役で東北諸藩に辛酸をなめさせられた者も多い。桂小五郎などその筆頭だ」

 現在は木戸孝允と名を変えた男が、会津藩の処分を主導したのだ。旧会津藩士が自分の下に来るとわかれば、いっそう弾圧の手を強めるかもしれない。そして新政府内で敵対した者は彼だけではない。

「藩主たちは東京に住むことになるそうだ。そして空いた藩主の椅子には、新政府が選び派遣する知事たちが座って政治を執る。保科松平家が政治を執っていた歴史も、ここで途切れるのだ」

 兄はさらりと言ったが、表情には苦しさが宿っている。どうしても諦めきれないものを抱えているのは辰次郎にも痛いほどわかり、だからこそ大きな心配が浮かぶ。

「その時、保科松平家はどうなりますか」

 その答えを聞くのは恐ろしかった。斗南藩士となってまで生きているのは、自分が仕えてきた主家を建て直すためだったのだ。その目標が失われかねない事態でもあった。

松平容保様と円通寺に預けられている容大様は東京で暮らすことになるだろう。そして政治とは遠ざけられ、我々は新たにやってくる県知事に仕えることになる」

「それでは斗南藩士ですらありません」

「そうだ、その時我々は藩士ではなくなる。何しろ藩がなくなる。そればかりか、世の中には武士という身分さえないのだ。それを見越したからこそ、権大参事は廃刀令をいち早く出したのだ」

 辰次郎は言葉を詰まらせた。それまで拠り所としてきたものを失うことは辛かったが、これからのために仕方が無いのだと自らに言い聞かせてきた。それでも現実に際してみると浮き足立つ。自分の心の脆さが恨めしいほどであった。

「権大参事をはじめとする斗南の指導者たちは、新政府が作る歴史の流れに逆らわないことを選んだ。新しい水が奔流のように東北を洗い流していくが、それが去った後にどうするかが大事なのだろう」

「日新館さえ洗い流されてしまいます」

「ああ。しかし新しい日新館を作ることもできる」

 名前は変わるだろうし、教える内容も、思った通りにはできないかもしれない。しかし教える側の心にまで新政府が枷をはめることはできないはずだ。寅之介の語る新たな学舎には希望も感じた。

「お前はどうする、辰次郎」

 問いかけに答えは浮かばなかった。妻子を養うことを考えつづけ、まだ予断の許されない状況が続いているが、一つの節目ではあるだろう。何かを探すのに良い機会になるだろうか。

「探すしかありません。馬の競りがいつまで続くかわかりませんから」

 ふと田名部馬に顔を出していた広沢安任のことを思い出した。どうせ働くのなら彼の下が良いとも思ったが、それはあまりに遠い理想に思えて苦笑した。

 北斗七星が空の彼方へ流れると、星宿の様は次の季節へと移り変わる。相変わらず辰次郎にはわからないが、兄には春と夏の違いがわかるらしく、暖かな夜には庭先に出て、自分の子供と星と星の間を指でなぞっていた。

「伯父上は何をしているのですか」

 正毅が興味を持ったことがあって、門外漢が説明するより本人から教えてもらった方が早いと思って寅之介のもとへ行かせた。少し経てば、三人で星空に指先を向け、あれが何という星でどれとどれを結べばこんな星宿になるという話に、正毅の声も混じるようになった。子供の好奇心と頭の回転の良さが合わさるのは見ていて気持ちの良いものであった。

「星は見ていて面白いか」

 いつの間にか回を重ねていた星の観測会から帰ってきた時に訊くと、

「よくわからないです。でも面白いです」

 無邪気な笑顔と共に返された答えは、星に興味を持ってこなかった自分の息子らしいと得心できるものであった。

 星が流れて星宿の様が変わるまで二ヶ月程度を要した。その動きはゆったりとしていて、いつの間にか変化が終わっているようであった。空の変化はずっと見ていない限りわからないほど穏やかなものであったが、その間の地上は激動であった。

 明治四年七月十六日の夕刻であった。まだ昼間の蒸し暑さが残るものの、仕事が一段落して長兵衛と共に日陰で涼んでいる時に、佑がその報せを持ってきた。

「とうとう来たか」

 お触れが出されてから二日経って届いた報せに、どんな感想よりも先にその言葉が口を衝いた。数百年続いた体制が変わるにしては唐突に感じたが、いずれ訪れる瞬間であったのは間違いない。

「これで斗南藩も終わりか。会津藩も、全ての藩も」

 長兵衛は嘆息し、空を仰ぎ見た。彼方へ流れてしまうのは藩と主家だけではない。その土地で生きてきた自分と一族の歴史諸共である。ぐらりと足下が揺らぐような感じがあって、残る数十年の人生が急に長く遠いものに思えた。

「身の振り方を考えなければならないな」

 佑が言った。当初移住した会津藩出身者も、かなりの人数が斗南を去っている。二年間で命を落とした者も多く、この機会に新天地を目指す者も現れるであろう。

「行く当てはあるのか」

 長兵衛の問いに、これから探す、と佑は答えた。

「厳しい道になるだろう。ここに留まるか出ていくのか、それを最初に決めねばなるまい。外の暮らしは風当たりが厳しいはずだ」

 斗南藩は敗残の証そのものであったが、他の藩がそうであったように新政府から独立した暮らしを営むため必要なものでもあった。新政府は近代国家の建設を唱えており、その枠組みから外れる藩の存在を認めることはない。廃藩置県は各藩が保っていた独立の気風を消し去るものであった。

 斗南藩青森県に属することになるという。それを治めるのは、松平家の嫡男である容大ではなく新政府から派遣される県知事だ。その人物が寛大な政治を執ってくれるのを願うばかりであった。

「しかしその前に俺たちには、会津藩士としてやることがある」

 佑は敢えて会津藩士という言葉を選んだようであった。それはまだ、自分たちの根源を形作るものに役目が求められているということであろう。

「何がある」

 しかし辰次郎には佑の持つ答えが想像できないままであった。敗北した時点で力を失った、会津藩という拠り所に誰が何を求めるのか。

 佑の返答はしかし、予想を超えていた。

「東京より松平容保公が来られる。我々は保科松平家に仕えてきた者の末裔として、それを迎えなければならん」

 佑には珍しい、穏やかな微笑みと共にもたらされた言葉に、答える言葉を辰次郎は持たなかった。我知らず自らの眼が見開かれたのはわかったが、口が頭の回転に追いついてこない。

「本当か。本当に来られるのか」

 感極まったような声を上げたのは長兵衛である。大きな顔を歪めて、わずかなきっかけで崩れそうな表情を見せる。

「既に出発している。間もなくこの地へ降り立つとのことだ」

「そうか、そうなのか」

 言葉が思いつかなかった。脳裏にはいくつもの思いが言葉となって残る。感謝であり、感動であり、歓喜である。その片隅に、力及ばず主君に苦しい思いをさせてしまったという悔悟の念がある。容保と嫡男の容大は、二年に渡って離れ離れであった。薩長に勝てないまでも、減封を拒めるぐらいの戦果を挙げていれば、少なくとも親子が引き離されることはなかったのではないか。

「いつ来られるのだ」

 長兵衛に訊かれ、四日後だと佑は答えた。果たして七月二十日、会津藩及び斗南藩最後の藩主となった松平容保は、息子の容大が身を寄せる円通寺にやってきた。

 主君が来る。来て何かをするというわけではない。しかし自分たちが命を賭けて仕えた人が来る。かつて会津藩士として生きた者には、主君と生きて再会できるというだけで充分であった。

 松平容保円通寺へ入るのを案内したのは、斗南藩の最高責任者として働き続けた権大参事の山川浩であった。彼は佐井の港から一行を迎え、それを旧家臣が沿道から見守った。

 円通寺のある田名部にほど近い場所に住んでいた辰次郎らは、円通寺のすぐ近くで一行を迎えた。優しげな顔立ちは、苦労が続いたはずの二年を経ても変わらず、その顔は沿道の人々を見るたびに悲しさを映した。

 家臣たちの力が及ばなかったがために背負った苦労を責めるでもなく、この過酷な土地での暮らしに耐える人々への眼差しは優しかった。

 その目に引き寄せられるように、沿道から多くの斗南藩士が円通寺へ入っていく。辰次郎らもそれを追いかけた。藩庁でもあった円通寺は人で埋まり、その中心には親子がいた。

 屈託のない表情を浮かべながら、寺の人に連れられて父親と再会する容大であったが、長く離れて暮らしていたせいだろう。まだ幼い容大は、ほとんど顔を合わせたことのない父親を前にきょとんとした表情を見せる。それがおかしかったのか、あるいはかわいらしく思えたのかわからないが、容保は苦笑していた。

 そんな容保の周りで、辰次郎らを含む全ての藩士は手を合わせてひれ伏していた。その全てに容保は笑いかけ、

「そんなところに座らずとも良い。近こう寄れ」

 そう言った。

 最初に返答したのは、権大参事であった。

「我々の力不足、お詫びの言葉もございませぬ」

 それはこの場に集まった全ての藩士の心を代弁する言葉に思えた。再会できたことの喜びや、自分たちのために会いに来てくれたことへの感謝よりも前に、詫びたい気持ちの方が強い。不遇を託ったのはお互い様だが、最後の藩主となってしまったことに悔悟を覚えていないはずはない。

 辰次郎らも無言で、しかし沈黙を以て山川の言葉を認めた。悔しさや悲しみを含んだ重苦しい空気が垂れ込めたが、容保の涼やかな声がそれを払う。

「いや、皆の者、よくやってくれた」

 自分たちの主君であれば、このように言うのではないかという期待はあった。しかし実際耳にした時、こらえてきたものは容易くあふれ出した。

「皆の働きが報いられなかったのは悔しいことだ。しかし我らとて帝州の民であろう。星が彼方へ流れようとも、帝の恵みが我々の上に降り注ぐ日は必ずある。会津、そして斗南の歴史は終われども、そこに息づく皆の生は終わらぬ。願わくはいつまでも終わらせず、明日へ、明日へとつなげてほしい。我らは帝州の民にして、誇り高き会津に生まれた者たちぞ」

 容保の言葉を最後まで冷静に聞ける者はいなかった。山川浩でさえ、ひれ伏したまま涙を流していた。その周りでは、容保が話している間にすすり泣きが漏れ、やがてその声は次第に大きくなり、ついには嗚咽が境内を包むのであった。

 

 松平容保円通寺に一ヶ月間滞在し、野辺地、七戸、三戸、五戸を通って藩士たちを慰労して回った。慣れない土地での苦労を労うことは、端から見れば小さなことかもしれないが、命を賭けて仕えてきた人物の手に触れられたことで、それまでの苦労が全て報われるような心地であった。

 かつての主君は出立前日に容大の名で布告を出した。

 

『このたび余ら東京へ召され、永々、汝らと艱苦を共にするを得ざるは、情において耐え難く候へども、公儀のおぼし召しあるところ、やむ得ざるところに候。これまで賎(せん)齢(れい)をも

って重き職に奉じ、ついにお咎めも蒙らざるは、畢竟(ひっきょう)(つまり)汝ら艱苦に耐えて奮励

せしが故と歓喜このことに候。この末、ますますご趣意に尊び奉り、各身を労し、心を苦

しめ、天(てん)地(ち)罔(もう)極(きょく)の恩沢に報い奉り候儀、余が望むところなり』

 この布告を残し、容保は田名部を発った。彼がいなければならいのは、他の全ての元藩主たちと同じく東京なのだ。

 見送りには当然のように皆が出た。その全てに向け、

「皆、達者で過ごせ」

 容保は声をかけた。

 円通寺の時と同じく、誰もがこらえきれずに涙した。布告は家臣たちの報われなかった努力を讃えるもので、味わったはずの苦労への悔恨は全く含まれていなかった。

 辰次郎は多くの藩士たちと共に、かつての主君の新たな旅立ちを見送った。その背中は、藩士たちが行く新たな道に足跡をつけているようであった。

明日は遙か 二

二章 朔風

 

 冴えた空気はさながら張り詰めた弦のようだと辰次郎は思った。季節の変わり目に比べ、音の響きは鋭さを増している。それは木刀を果敢に打ち込む秀一郎の踏み込みの鋭さと、受け止める長兵衛の強い足腰のおかげもあるだろう。二人の横顔を眺めながら、よく似た親子だと改めて思った。

 しばらく好きなように攻めさせていた長兵衛だが、秀一郎の剣が大ぶりになった時ゆらりと動いた。打たれると思った時、長兵衛の剣は秀一郎の手首を捉えていた。秀一郎が顔を歪めて剣を落とす。続いて長兵衛は軽く息子の頭を叩いていた。

「勝負あり」

 微笑ましいものを感じながら辰次郎は宣言した。秀一郎は叩かれた手首をさすりながら木刀を拾っていた。

「手を叩かれたぐらいで痛そうな顔をするな。それを耐えたらまだ勝機はあったぞ」

 父の教えに秀一郎は甲高い声で返事をした。正毅と同じ四歳だが、痛みを我慢して返事ができるのは立派なものだろう。温和な気質が災いしてめげやすい正毅に見習ってほしいぐらいだった。

「秀一郎、あいさつはどうした」

 辰次郎に言われ、思い出したようにありがとうございましたと頭を下げる。堅い動きと舌足らずな声にこぼれる笑みを隠しながら、正毅とはちがうかわいらしさが愛しく思えた。

 日が落ちてから、辰次郎は長兵衛を湯屋に誘った。佑と寅之介はそれぞれの仕事から戻っておらず、同じ場所で働く二人が長屋には残っていた。

 湯屋で温まってから帰路に就くと、話題は互いの息子のことになった。

「秀一郎は元気が良いな。結構なことだ」

「手がかかって大変だよ。お前のところはいいな、正毅は聞き分けが良さそうだ」

「しかし気が弱い。剣を扱うより文字の読み書きの方が得意なぐらいだ。俺よりも兄上に似ている気がするよ」

 平素愛想が悪いと言われる自分よりも、正毅はかわいらしく笑う術を身につけている。気の弱さはもどかしいが、その分物事の覚えが早く、周りに馴染みやすい素直さもある。あと二年経てば日新館に通うようになる正毅は、その素質を活かして下北半島にて学問で身を立てるかもしれなかった。

「妙なことを言う奴だな」

 長兵衛は声を上げて笑った。冴えた空気の中で、男の豪放な笑い声はよく響く。

「しかし誰がどこに生まれようと、いずれは一つ屋根の下で暮らすことになっていただろうな」

 戊辰の役と会津藩の敗戦が決まり切っていたことと言うようで、佑なら怒るだろうかと辰次郎は苦笑した。

「であれば、秀一郎も俺の息子のようなものか」

「そうだ。正毅も俺の息子だ」

 廃屋を直した長屋に集った四家族は、成り立ちから構成まで全てが違う。ただ同じ土地に生まれ、同じ事情を背負って流れてきたというだけだ。しかしたった一つ、敗戦という事実を共に背負っている。それだけで共に支え合っていきていくには充分であった。

「辰次郎よ、俺はここで一生を終えても良いと思っている」

 長兵衛は星空を見上げていた。相変わらず星宿の形などわからないが、春になればどこかに北斗七星が現れる。山川浩ら指導者たちがお家再興の願いをかけた七つの瞬きだ。季節が巡るごとに最果ての地を見下ろす位置に現れる星宿を仰ぎ、お家再興が成れば星の瞬きを手がかりに往時の苦楽を偲ぶ。子供たちに後を託した大人たちが老いていく時間として相応しいように思えた。

「良いのか、それで」

 穏やかな時間に希望を感じながら、辰次郎は素直に認められなかった。山川浩ら指導者たちの目標がお家再興にあるのは、斗南藩の名前を見ても明らかだろう。それが信じられないほど途方もないことは、わずかな冬を暮らすだけで身に染みた。少なくとも自分たちの代では叶わないだろうとさえ思う。

 それでも口にはできない。適当なところで妥協しようなどと考えたら、せいぜい今の暮らしを維持するのが精一杯で、今より良くなることなど有り得なくなってしまう。

「お前は、もう諦めてしまったのか」

 辰次郎の言葉が釘となったように、長兵衛は一瞬顔を歪めて立ち止まった。そのままの姿勢で一歩先から振り返る。無理に笑みを作るのが見て取れる、苦しげな表情だった。

「もしそうでなく、お家再興の気持ちがまだ少しでもあるなら、軽々しいことは言うな。諦めていない者も多い。そして、未だ事実を受け入れられない者もいる」

 脳裏に浮かんだのは実父の惣太郎だった。長屋で共に暮らすようになっても会うことはほとんどないが、壁一枚を隔てて聞こえる音から普段の様子はわかる。苦しい暮らしを強いられていることへの不平から始まり、由緒正しい会津藩外様大名の藩に敗れた責を兄に追わせようとなじる言葉へと続く。

 惣太郎の歯止めの利かない声が聞こえた日の翌朝、兄に事情を聞いたが、お前は口を出すなとしか言わなかった。いくら兄弟とはいえ、所詮別の家族だと言われたようで寂しくもあったが、互いに守るべき家族がある中で、余計な心労を抱える必要はないと気遣われたような心地だった。そして、父にとっての戊辰の役は未だ終わっていないのだと暗澹たる気持ちになった。

「俺とて権大参事以下会津武士たちが、昔の輝きを取り戻すことを願っている。この斗南の名前も、俺たちの目標にするのに良いと思う」

「ならば何故、この地で一生を終えても良いなどと」

「住めば都とは思わないか」

 普段の調子に戻って放たれた一言が辰次郎の気を削いだ。わからない言い分ではなかったが、認めるわけにはいかない言葉でもあった。

「江戸もはるか昔、家康公が入った頃は未開の地であった。その荒れように怖じ気づくことなく地の利を活かしたからこそ幕府が生まれ、二六〇年十五代も続いたのだ。ここも同じとは思わないか」

 北条氏が滅亡した後の関東入封は、住み慣れた土地から追われることでもあった。しかし体の良い厄介払いにもめげず、築いた城を発展させ、ついには全国を治めるほどになった。科をおわされた転封である自分たちと背負った事情は違うが、逆境にあるのは共通しているだろう。

「だとしても、俺たちに何ができる」

 明日の食事にも苦労するような土地で、江戸幕府の開祖と肩を並べるような偉業を達成できるとは信じがたい。

「長兵衛、お前は責を負おうと考えているのではないか」

 今度は長兵衛が言葉を失う番であった。ふとひらめいたことを口にしただけだが、核心を突いたらしい。一瞬彼は笑みを消した。

「子供たちの礎になることが罪滅ぼしだと思うのか」

「違うと言いたいのか」

 長兵衛の反応は思いの外強かった。

「そうではないよ。それも責の負い方だろう。権大参事以下は会津藩を戦に巻き込んだ責を負っている。そして俺たちも、藩の方針に乗って家族を巻き込んだ責を負っている。たどる道はどうであれ、俺たちは家族だけは守らなければならないからな」

 いずれ長兵衛とは袂を分かつ時が来るかもしれない。それでも変わらないのは、守るべき家族がいるということだ。

 守るための方法は選んでいられない。我が身と引き替えでも構わないのだ。

「できれば長くお前や佑、兄上とは同じ道を行きたい。この土地に生きるにせよ、新たな土地へ向かうにせよ、知っている顔がないのは寂しいからな」

 言いながら辰次郎は、思い詰めた感じが解けていくのを感じた。流刑のようにたどり着いたこの土地で成すべき事が何なのか、わずかに見えたような気がした。

 

 菊右衛門から分けてもらった蕗を前に、正毅は美味しそうと素直な乾燥を漏らした。それだけなら微笑ましいが、手を伸ばした時は思わず強い調子で払った。正毅が泣きそうな顔をしたのを見て、力加減がうまくいかなかったことを悔いながら、厳しい調子で語り出す。

「うかつに手を出すな。蕗をそのまま食べたら死ぬぞ」

 この一言は刺激が強すぎたらしい。正毅は謝ったが、感情の振幅が振り切れたように泣き出した。

「お前様、もっと言い方を考えてくださいまし」

 正毅を守るように手を回しながら、初は咎めるような視線を送ってきた。まっとうなことを言ったのに責められるのを理不尽に思いながら、本当のことだ、と辰次郎は声を落とした。

「少し苦いだけで、死ぬほどではないでしょう」

「多くはそうだ。しかし時々、うかつにそのまま食べて死ぬ者もある。どちらにせよ煮なければ食べられまい」

 そう言い、辰次郎は居間へ向かった。あく抜きを初に任せ、火の側から正毅を遠ざける。秀一郎と遊んでこいと言うと、ぐずりながら出ていった。二人は近い性格をしているわけではないが、不思議と気が合うようだった。

「秀一郎とは仲が良いようですね」

 蕗が煮えてきたのを見ながら初は微笑んだ。

「もっぱら正毅はついていくだけのようだが」

 親としてはもっと積極的になってほしいところだ。正毅はきっと、誰かを立てようとする生き方が自然なのだろう。それを悪いとは思わないが、時には前に出るようなしっかりした部分があってほしい。そうでなければ物足りない人生になるだろう。

「正毅は平気でしょうか」

 生来の気の弱さを心配していると思い、秀一郎から何かを得てくれたら良いが、と答えたが、

「そうではなく、体のことです」

 と、初は眉根を寄せた横顔を見せた。

「どういうことだ。具合が悪いのか」

「いいえ、至って健康です。でもこの土地のことですから。わたしたちの周りは平気でも、街から離れた土地に住まわされている家族の中には死人が出ているそうです」

 支援者に恵まれ、仕事も見つかり、暮らしも安定してきている中で忘れかけている事実であった。会津藩からの移住者は一万人を超え、その中には老人や子供も多い。環境の変化に耐えられない者も多いと聞いていたが、その顛末までは敢えて深く知ろうとしなかった。

「正毅は平気でしょうか」

 繰り返された問いは、辰次郎の胸に不安を生んだ。

 不安が顔を歪ませようとしたが、それをこらえて辰次郎は笑った。

「平気だ」

 表情は努めて笑顔を作り、声を張った。それは不思議と辰次郎自身の不安をはねのけ、初の横顔に差した影を晴らした。

「子供を信じよう。信じられなければ、私たち自身も信じられないことになる」

 結婚自体は家同士の取り決めであったし、最初から好き合って一緒になったわけではない。それでも子供が生まれ、何も知らずにこの世に生まれ落ちた正毅が幸せに生きていくために、夫婦で力を合わせて四年を過ごした。その事実は自分たちの自信を育てることになった。

「私たちにもこれまで、出会う前からさえ多くの苦労があっただろう。それでも乗り越えてここに来た。正毅も同じだ。私たちの子供なら、平気だ」

 初は微笑んだ。その表情のまま、煮えている蕗を見つめた。

 その横顔には再び影が差して見えた。

「でも、やはりかわいそう」

 今度は哀れみが表れていた。

「戊辰の役の前は、満足に食べられないことなんてなかったのに」

 正毅があく抜きをする前の蕗に手を伸ばしたのは、空腹に突き動かされてのことだったのかもしれないと辰次郎は思った。思えば正毅は素直で、親の言うことに反発することは稀であった。教えの中には、食べ物を前にしてがつがつするなというものもあった。

 正毅はそれをよく守ってきたが、過酷な環境の中で教わった事実が壊れかけているのかもしれない。現実には長く斗南藩で生きていかなければならないだろうが、長兵衛のように今の環境に根付くような生き方は子供を思うと考え物であった。

「最近では今まで食べなかったものも食べなくてはならなくなりました。それが不憫です。援助はありがたいし文句を言える立場にはありませんが」

 冬の備えが不充分だった自分たちが暮らしていけるのは、菊右衛門の援助によるところが大きい。菊右衛門は地元民たちを取りまとめる立場にあり、会津からの移住者たちへの不満を鎮める役割も担ってくれている。新参者である自分たちが入会を滞りなくやれるようにしてくれて、凍えることがないようにしてくれたのも菊右衛門のおかげだ。彼が温かな心根の持ち主でなければ、薪や柴を採る量も減って冬はなおさら過酷になっただろう。

 そんな彼の援助も、自分たちの望みを全て叶えるものではない。食糧はあくまで、田名部で長く食べられてきたものである。それに慣れていけなければ、心身の変調の元になるだろう。

「耐えるしかない。きっといつか、権大参事らが何とかしてくれる」

 中央政治から最も遠い場所にいる自分たちには可能性がなく、権大参事として斗南藩の責任者となった山川浩らに期待するしかない。現状を変える力がなく、自分や家族を守るしかできないことが歯がゆかった。

 

 港町である田名部に集まる人は、外郭である港を目指す。そこには運ばれてくる品があり、それを扱うことで生きていく人が集まるからだ。

 田名部の人の流れの多くは外へ流れるものだが、内側へ留まることもある。その時は決まって馬のいななきと、馬を引き出す男の声、競り人と客の値付けの応酬が街の中心から聞こえてくる。早口で繰り広げられる訛りの強い言葉による値段の遣り取りは、斗南藩の暮らしに慣れてきた辰次郎にも聞き取りづらく、具体的な評価はわからない。それでも決して少ない金額がつけられることはないのはわかる。命じられるままに客の前へ引き出す馬は、どれも足腰がしっかりしていて、うまく気を引かないと動かすのに苦労する。少し前まで刀を持ち馬にも親しんでいた身としては、時々主人の目を盗んで乗ってみたくなるほどであった。

「なかなか手こずらせてくれるじゃないか」

 長兵衛は言いながら楽しそうにしていた。簡単には言いなりにならない馬は、それだけ乗りこなせた時の喜びが強く、苦労に見合った活躍をしてくれる。長兵衛もまた、馬の覇気と交わってひとときかつてのことを思い出しているようであった。

 競りにかけられている馬は田名部馬という。下北半島の東、尻屋崎で放牧されている半野生の馬である。力強い脚力を生む太い骨格に、厳冬を乗り越える厚い肉と深い毛が特徴で、下北半島では荷役から食糧まで様々に使われている。田名部の他には野辺地、七戸、五戸、三戸で競り市が開かれており、元は南部藩の領地であった土地の人々にとっては、親しみ深い馬であるようだった。

「何をしている。早く出せ」

 楽しんでいる様子の長兵衛へ、競りを取り仕切る主人の低い声が浴びせられた。なじるように陰湿な響きがどこかに感じられ、反発する気持ちが否応なしに生まれる。

「申し訳ありません、ただいま」

 長兵衛は真剣な表情で返事をした。何かぶつぶつと言いながら持ち場へ戻った競り人が背を向けると笑みを戻す。その器用さが少しうらやましくなった。

 長兵衛と辰次郎は同時に二頭の田名部馬を曳き出した。表へ出して競りにかけてしまえば、あとは競り人の仕事である。辰次郎と長兵衛は次に競りにかけられる馬の元へ向かった。

「こいつも良い馬だな」

 言いながら辰次郎は手綱を引いた。気性を測るつもりで無造作に引っ張ると、強い抵抗感があった。簡単に人には慣れないとその身で語っているのがわかる。馬にも人で言うところの誇りや矜持のようなものがあって、従わせるには相応の方法を採らなければならないものだ。田名部馬は半野生で、完全に飼い慣らされたわけではないのだから当然だろう。

「厳冬をくぐり抜けてきたからな。裸になって雪の上を走り回ることもできない人間なんぞに従いたくはないだろう」

 長兵衛は何気なさを装っていたが、案外馬の心理を的確に言い表しているような気がした。野生を残したまま自然の中で暮らしていたのに、人間の都合で人間の街へ連れてこられ、人間の感覚で価値を付けられる。馬に人間社会がわかるはずもないが、自分の身に何が起きようとしているのか、感覚で理解することぐらいはできそうだった。

「俺たちに似ているとでも思うのか」

「そこまでは言わんよ。ただ、馬にも馬なりの魂はあるだろうと思ってな」

 慣れた場所を他の者の都合で引き出されたのは自分たちと共通している。似た境遇の者に望まぬことを強いていると思うと少し心は痛むが、そうでもしなければ自分たちの明日は見えない。まだ闇の中にあるお家再興の命運も、闇が晴れれば遙かな明日へつながっているのだ。

「馬に同情している場合か」

 辰次郎は呆れた声を出しながら、自らを戒める心地であった。馬であろうと命を慈しむことの大切さは、かつて惣太郎が教えたことだ。その教えは兄に受け継がれているはずだし、自分も正毅に同じことを教えた。しかし馬に慈しんでいる間に家族が凍えては目も当てられない。

「馬に馬の魂があるなら、俺たちにも魂はある」

 かつてそれは故郷や主君を外圧から守るためであった。それが成し遂げられなかった今は、家族を無事に生きながらえさせることに変わっている。どちらにせよ、何かを守るという本質に変わりはない。

 馬が不意にいななき、辰次郎は競り市の会場がざわついているのに気がついた。出てくるはずの馬が現れないので客たちが訝しんでいるのだ。

「いかん」

 長兵衛が短く言った直後、雇い主である競り人が馬の待機所に飛び込んできた。

「お前ら、何をしている」

 高圧的な物言いだったが、関係の無い会話に気を取られて決められた段取りの通りに動けなかった自分たちに非がある。辰次郎は素直に頭を下げたが、

会津のゲダカめ。こんなことだから戊辰の役に敗れて女子供を死なせたのだろう」

 戦の結果をどうこう言われるのは聞き捨てならなかった。下げた頭を思わず上げかけたが、上から押さえつけられて形を保つ。

 謝罪の形を崩させなかった長兵衛に促され、辰次郎は馬を曳き出した。競り人は客の前に出た辰次郎に向け、聞こえよがしに会津のゲダカと言った。それで何名かが嘲笑するのが見えた。にらみの一つぐらいくれてやりたかったが、それが元で仕事を失えば本当に家族を死なせることになりかねない。屈辱ならば戊辰の役で味わったし、それがいつまで続くかわからないと思うと気が晴れなかったが、耐えた分だけ正毅や秀一郎、多くの子供たちの幸せにつながるなら、少しは甲斐があった。

 待機所へ引っ込んだ辰次郎は、競り人と客の威勢の良いかけ声の応酬を聞きながら大きく息をついた。

「お前らしくもない。俺がいなかったらせっかく見つかった仕事を失っていたかもしれんぞ」

「その通りだな、済まん」

 長兵衛まで巻き込むことになっていたかもしれないと思うとぞっとしない。辰次郎は改めて頭を下げた。

「そんなことしないで良いさ。気持ちは同じだ」

 長兵衛は明るく笑った。

 やがて一つの競りが終わり、次の馬を曳いてくるように指示が出る。手綱を引くが、今度の馬は抵抗が強く動かせない。

「代わってみろ」

 長兵衛が位置を入れ替え、手綱を引く。すると苦労が嘘のようにすんなり前へ進ませることができた。

「腕尽くで曳くのではなく一緒に歩いてやろうとすれば、いかに田名部馬でも楽に曳けるものだ」

 長兵衛は言い、ゆっくり競りの場へ曳きだしていく。そしてかけ声の応酬が始まる。かなり早く値が付き、馬は再びどこかへ曳かれていった。

「あれを食べさせてやりたいものだな」

 競り落とした男には見覚えがあった。田名部で小料理屋の主人をしている男で、酒の肴として出すつもりだろう。

「押布や山菜ばかりでは、ごちそうとは呼べんからな」

 押布は海藻の根を細かく刻んだもので、凶作時の非常食として下北半島では広く食べられてきたものである。定期的に凶作の時が訪れる土地柄だけに、非常時の対策はとてもしっかりしているようであった。

 しかし非常食は非常食である。それも食べ慣れていない。子供たちの我慢がいつ解き放たれるかわからないのが不安であった。

「しかし辰次郎よ、俺はあの田名部馬を使ってみたいと思うぞ」

 その言葉の意図するところがわからずに長兵衛を振り返る。彼は目の前の相手の向こう、競りにかけられている馬を眺めているようだった。

「あのしっかりした体格と足腰なら荷役になるだろうし、馬鍬を使わせても良さそうだ」

「田畑に入るつもりか」

 武士であったことに頓着せず、新しい生き方を探せと権大参事直々に達せられたばかりであるが、経験もないまま百姓として生きていくには抵抗があった。長兵衛に同意を求める眼差しを送ったが、彼は臆せずそれも良いかもしれんと気楽に言った。

「田畑に入って成果が出れば、子供らを飢えさせずに済むだろう」

 そのまっすぐな眼差しに辰次郎は何も言えなかった。経験のなさで躊躇していたことが恥ずかしくなる。馬の競り人に使われることを選んだのも、全ては金を得て子供たちを生かすためだが、その金でいつも食糧を賄えるとは限らない。田名部やその周辺は昔から凶作を繰り返してきた土地だ。いくら金があっても保障はないのだ。

 そんな土地に暮らしていくなら、農業の道を志す長兵衛の方が余程現実を見ているような気がした。

 仕事を終えて帰路に就くと、稗に加えて押布が夕餉であった。黙々と食べる正毅に、

「美味いか」

 おもむろに訊いてみた。

「はい。とても」

 正毅は笑顔を見せたが、親の目から見ると務めて明るい表情を見せているのが見て取れた。

 嘘を感じる笑顔ほど見ていて痛々しいものはない。息子の笑顔を正面から見られるような日々を作りたいと辰次郎は強く思った。

 戊辰の役が終結した年は戸惑いと苦しさの中で過ぎていき、それに慣れると年が明けた感動も薄れてしまう。それでも節目だからと言って、初はお祝いがしたいと言った。正毅の健気さが少しでも報われれば良いと思って、田名部で魚を買ってやり、それを夕餉にした。その時の笑顔は、押布を食べている時とは違って嘘の混じらない表情であった。

 周りの家族も苦しさに慣らされないようにと祝いの席を設けたらしい。それぞれが日常に埋没しないようにしているのは希望であった。

「しかし秀一郎は心配だな」

 競り市の準備に出た長兵衛と三が日のことを話している時、互いの子供の話になって、風邪を引いたという秀一郎に触れた。仲の良い正毅が少し元気のない様子を見せていたので訊いてみて知ったことであった。

「子供は簡単に病気になるが、その分早く治るものだ。心配は要らんよ」

 長兵衛は楽観的であった。誰よりも近くにいる実の親が言うなら、他人の親が口を差し挟む余地はない。短く返事をして、辰次郎は仕事に戻った。

 気楽に見えた長兵衛の表情が険しくなってきたのは、それから四日後のことであった。

 競り市の仕事や馬の世話を休むことはなかったが、明らかに笑顔が少なくなっていた。見かねて秀一郎が心配なら休んだらどうだと言ったが、

「それでは他の家族を路頭に迷わすかもしれん」

 そう、余裕のない声で言った。

「俺の両親もいるし、子供の世話なら心配ない」

 自分の言葉で希望があることに気がついたのか、ようやく笑顔を見ることができた。

 仕事を終えて帰路に就く間に秀一郎の様子を訪ねると、すぐに治ると思っていた風邪が長引いているということであった。

「医者が言うには、栄養失調も理由の一つだと言うのだがな」

 満足に食べられなかったことと、あまり慣れていない食べ物で心身に負担がかかっていたせいだと言われたという。責められたわけではないが、結果的に自分の息子を追い詰めたようで少し辛いと長兵衛は顔を伏せた。

「寒さもあるからな。誰かがいずれこうなると思っていたが」

 三が日の後数日間断続的に雪が降り、辰次郎らは雪かきに追われた。会津に降る雪とは質が違うのか、かなり軽い雪であったため作業ははかどったが、その分量が多く、実質的な負担は変わらない。

「たかが風邪だろう。多少長引くと言っても、子供ならいずれ治る。親の先を越すなどあるわけがない」

 長兵衛の心配は痛いほどわかる。野生動物のように取って食われることはないだろうが、同じだけの危険がある。務めて明るく言った辰次郎だが、

「そうだな、あるはずがないな」

 そう返事をした長兵衛の表情は、長屋に着くまで晴れなかった。

 数日間は楽観的に長兵衛とその家族を見ていたが、それが洒落にならないところへ行き着くまで時間はかからなかった。秀一郎が危ないという知らせを聞いたのは、自分の家族と夕餉を摂っている時であった。辰次郎はいても立ってもいられなくなり、雪のちらつき始めた夜道へ駆け出していた。

 向かった先は菊右衛門の家であった。彼に医者を手配してもらうよう頼んだが、急では来られるかわからないという返事であった。

 そこを何とか、と拝み倒すような言葉を寸前で押し込めた。何とかするのは菊右衛門ではなく自分なのだ。秀一郎との間に血のつながりはなくとも、長屋で共に暮らし、自分の息子が親しくしているなら他人ではない。辰次郎は秀一郎を救いたい一心で心当たりを探した。

「辰次郎」

 秀一郎を助けられそうな薬や医者の都合をつけられないまま彷徨っていると、長屋の方から佑が現れて声をかけられた。常に感情の起伏が乏しい表情の男が、この時ばかりは険しい面差しであった。

「何か見つかったか」

 その言葉へ正直な返事をすると心を刺されるような気がした。辰次郎は黙って首を振ることを選んだ。

「そうか。それなら戻るぞ」

 辰次郎は耳を疑った。

「何を言っている。今のままでは秀一郎を救えんのだぞ」

 佑に食ってかかる勢いで声を上げたが、彼は目を伏せるだけであった。勢いに飲まれたような気弱さではなく、どこか諦めが漂って見えた。

「佑、どうしたというんだ」

 その佇まいの意味するところに気づきながら、辰次郎は言い募った。

 ややあって佑は、

「秀一郎は、死んだ」

 それだけを絞り出した。

 辰次郎は駆け出していた。その直線上には佑が立っていたが、突き飛ばすことも構わずに走って長屋へ戻った。

 関家の部屋へ駆け込むと、いくつもの視線が集まる。秀一郎の両親や祖母、兄弟たちだ。対して辰次郎の目は、部屋の中央の一点に注がれた。

 小さな布団であった。そこに収まっている体は頭だけが露出しているが、白い布が被せられている。

「秀一郎」

 唇を震わせ、辰次郎は子供の名前を呼んだ。年が明ける前、父親の長兵衛と寒稽古をしていた頃ならば瑞々しい笑顔で振り向いてくれただろう。その様子が胸に浮かぶだけに、冷たい無反応が余計に悲しかった。

「辰次郎」

 立ち尽くしていると後ろから佑に呼ばれた。

 振り向くとまるで咎めるような眼差しに気がついた。

 佑が訴えかけることの意味は、視界の外にこもる感情によって気づいた。長兵衛をはじめとする秀一郎の家族は、辰次郎を拒むような視線を送ってきている。たとえ助け合う家族としても、今だけは他人に立ち入ってほしくないのだろう。

 その場を離れると、外では寅之介が立ち尽くしていた。彼も長兵衛の様子を訊いたが、

「今は家族だけにしてほしいようです。近しい者が死んだら、せめてその日ぐらいはそっとしておいてほしいものです」

 その言葉は何よりも重い力があった。自分の家族と妻子を失った他ならぬ男の、実感を帯びた声であった。

「そうか。下手な気遣いは要らないか」

 そう言い、寅之介は踵を返した。兄のあまりに淡泊な動きを呼び止める。寅之介は怪訝そうな顔で振り向いた。

「何か長兵衛に伝えることはないのですか」

 辰次郎としてはせめて悼む言葉が要ると思ったが、

「直接言うこともできないのに、何を言えと言うんだ。それにもう遅い。戻らなければ。子供一人が死んだぐらいで日新館は休みにならん」

 辰次郎は頭に血が上るのをはっきり感じた。手や足が動かなかったのはぎりぎりのところで理性が止めたからだ。兄上、と叫んだような気がする。しかし彼が振り返るまでの時間が妙にゆっくり流れて感じられた。

「兄上にとり、秀一郎とは取るに足らぬ命ですか」

 寅之介には大きな仕事がある。日新館において子供たちを教え導き、将来の若い力を育てる役目だ。多くの藩士が一日ずつ生きていくのが精一杯の状況において、未来を見据えて働き続けるのは尊敬に値する。しかし近しい者の死に心を動かされないほど心が凍てついてしまっていたとしたら、話は別であった。

「秀一郎は長兵衛の子供です。しかし我々の子供でもあったはずです。それを守り切れなかった。子供の命一つを守れず、何がお家再興ですか」

「ここは此岸だ」

 寅之介に一喝され、辰次郎は口を噤んだ。

「大事なのは今を生きている子供たちだ。お前は秀一郎を悼むが良い。しかし俺は、此岸で生きていく子供たちを導く役目がある。人を導くとは、一つ一つを丁寧に見ていられないこともある」

 反論の余地はいくつもあるような気がした。小さいとはいえ、近しい命を大切にできない人間に育てられた子供がどんな心を持つのかと思うと空恐ろしいとも思う。その思いを口にできないのは、寅之介の射貫くような眼差しに射貫かれたせいであった。

「しかし、それでは秀一郎がかわいそうではないですか」

 ようやく絞り出せたのは、感情に根ざす弱い言葉であった。

「俺たちは礎になるのではなかったか」

 対する寅之介は、低い声で言い返した。

「秀一郎もそうだ。ここに暮らしながら死んでいった者たちもまた、礎だ。全ては生きていく者たちのためだ」

 お前自身のためでもあるのだと暗に言われたような気がして、今度こそ反論を封じられた。自分もまた、死んでいった者たちを顧みずにいなければ生きていけないのだ。

「そこまでにしておけ」

 佑が間に入った。その直前、寅之介は弟を険しい眼差しで貫き、黙った。反論を待っているかのようであったが、ややあって踵を返した。今度は引き留める気にさえならなかった。

「少し休め。どちらの言うことにも正しさはある」

 今のままではどこまで行っても平行線をたどるだけに過ぎないということであろう。それは立場の違いでもあるような気がした。会津藩の頃から大局に立った仕事をしてきた兄に対し、弟はその足下で生きてきた。目の高さが違えばそれだけ見える者や育てられる感性も変わってくる。

「救えなかったのは大人たちの力が及ばなかったせいだ。お前がその責を負うなら、俺も負わなければならない。実父の長兵衛はもちろん、寅之介さんもそうだ」

 新政府への怒りが強かったせいで忘れがちだったが、佑は誰よりも妻子を失った悲しみを知っている男であった。それだけに、すぼめた肩に手を乗せるような言葉は胸に染みた。

「お前の優しさも、寅之介さんの冷徹さも、この土地で生きていくには必要だ。優しいばかりでは弱い者たちを食わせていくことはできないが、厳しいだけでは弱い者たちが傷つくばかりだ」

 食糧事情の悪さを言っているのだと思った。到着が遅れたことで、冬に対する備えが不充分で、菊右衛門をはじめとする地元民の支援なしには生きていけない状況なのだ。それを耐え抜いて春を迎えたら、彼らへの恩返しが必要だろう。

 春を思うと、北斗七星が思い浮かぶ。実際目にしたことはないものの、権大参事らが希望を見出した星だ。それを待つだけでも生きる力になる気がした。

「しかし、いつまでここでの暮らしが続く。どうしたら抜け出せる」

 佑に訊いても仕方が無いと思いながら、言わずにいられなかった。朝敵となったとはいえ、その後は新政府の指示に従って慎ましく生きているのだ。新政府を形作る藩の人間たちを大勢斬ったとはいえ、それはお互い様なのだ。いつかは水に流そうと言う人が現れて、許されてもいいはずだ。

「さてな。しかし」

 佑は言葉を切り、星空を仰いだ。

「いよいよとなれば、考えがある」

 その言葉に不穏なものを感じ、辰次郎は声を上げた。

「そう思う者が現れても不思議ではないということだ。それをやるには捨て身にならなければならん。背負う者がある俺たちには到底不可能だがな」

 佑は笑みを見せたが、底の知れない表情に不気味なものを感じた。辰次郎にはそれ以上の言葉が継げず、気遣いのにじむ言葉を信じることしかできなかった。

 

 秀一郎の死から一夜明け、辰次郎は喪に服す間もなく日常へ戻ることになった。長兵衛と共に仕事を休み、葬儀の手伝いをしたいところであったが、主人がそれを許さなかった。ここでも会津のゲダカという言葉を聞かされ、屈辱を通り越して憤りを感じたが、将来へつなげるには全てを抑えてでも生きていくしかない。今更ながら、寅之介が冷徹に残した礎という言葉が重く感じられた。

「長兵衛、お前は平気か」

 気遣いを向けると、気にするなと長兵衛は笑った。

「俺たちと死んだ者は礎だからな」

 改めて聞くと悲しい言葉であった。戊辰の役で勝った藩に生まれていれば味わうことのなかった苦労であろうし、人として生まれたにもかかわらず自身の望みを封じられているように息が詰まる心地であった。

「それもこれも、俺たちが戦に敗れたからか」

 長兵衛は低く唸り、沈黙した。返す言葉を探しあぐねているような間の後に、全ての原因がそこにあるわけではないだろう、と言った。

「いくら嘆いてももう遅い。それよりやるべきなのは、秀一郎を悼むための時間を作ってやることだ。それが今、俺たちの役目だろう」

「そうだな」

 秀一郎の死を悲しむ間もなく、生きるために追い立てられる悲壮感がにじむ言葉であった。しかしそこに父親としての愛と責任を見ることもできて、同じ立場にある者として頷く他になかった。

 やがて競り市が始まる。客や主人は、自分たちが昨夜感じた悲しみなど知らずにいつものように威勢の良いかけ声を応酬する。彼らに自分たちの大事なものを踏みにじられている気分であったが、長兵衛が言うように余裕を作るためには何も言わず耐えるしかなかった。

 言われたとおりに馬を曳きだし、それを競りにかけていく。あまり代わり映えしない客を何気なく眺めた時、辰次郎はある一人に違和を覚えた。

 その男の面差しは気性の荒い田名部馬を扱うには優しすぎるように見えた。そして周りの男たちが先を争って値段をつけていくのに、その様子を微笑みながら見守っているだけであった。

「あの男、何をしに来たんだ」

 長兵衛の服の裾を引いて、辰次郎は言った。

「物見高いだけだろう」

 余計なことに気を取られるなと言うように、長兵衛は静かに応じた。

 辰次郎もいつまでも気を取られているつもりはなく、自分の仕事に戻ったが、最後まで立ち尽くしているのに気づくと関心が戻る。今度は違和感だけでなく、親近感まで覚えた。もしかしたら同郷ではないかと思えたのだった。

 競りが終盤に近づき、周りを見る暇が出てくると、男の顔を記憶から探す余裕も生まれた。見覚えのある顔にも思えたが、名前や素性までは思い浮かばなかった。

 その男の正体を知ったのは、仕事が終わってからのことであった。関心がないと思っていた長兵衛が、

「競り市に広沢小参事がいらっしゃっていたな」

 思わず片付けの手を止めるようなことを言ってきた。

「どこにいらっしゃった」

「お前が気にしていただろう。あのお方、見覚えがあると思ったら広沢小参事だった」

 同郷ではあったが、まさか権大参事の片腕とも言われる人とは思いもしなかった。いくつもの疑問が湧いたが、

「一体何をしに来たのだ」

「物見遊山ではないか。小参事ともなれば忙しいから、息抜きも要るだろう」

「競りが見世物になるのか」

 広沢は温和な顔をしていたが、それは馬を見て楽しむような表情ではなかった。斗南藩の誕生に関わり、維持に奔走し続けていると聞くが、そのような人がいくら息抜きとはいえ競りの見物などするものだろうか。

「藩士たちの暮らしぶりを見に来たのならわかるが、どういうつもりか」

 長兵衛の考えも手詰まりになったようで、辰次郎の問いかけにさあな、と投げ遣りな返事をした。

 辰次郎も言葉を交わしたことさえない、それこそ雲の上のような人の考えなど想像もつかない。

 しかしわからぬことと言って無関心を決め込むことはできない。まるで関わりのなかった人と、馬を通してわずかながら接点を持つことができた。それだけで辰次郎は胸が躍る心地を味わう。それは過酷な暮らしの中で忘れかけていた熱い気持ちであった。

明日は遙か 一

 一 帝州の民

 

 借り暮らしの小屋から踏み出すと、藁靴は硬い地面を踏んだ。天気が崩れずに朝を迎えたことに安堵したものの、灰色の空がいつまで持ち堪えるかわからない。故郷に比べて厳しく吹きつける風も、辰次郎の不安をかき立てた。

「いってらっしゃいませ」

 玄関先には妻の初と四歳になる息子の正毅が見送りに出ていた。息子はもとより、平素勝ち気さを見せる初の顔にも不安が表れている。見知らぬ土地での借り暮らしが続くせいだろう。

「借り暮らしも間もなく終わる。期待して待つことだ」

 努めて笑みを作った辰次郎は、初から正毅へ、目の高さを合わせて言った。すると気遣いが伝わったように丸い顔が和らいだ。

「いってらっしゃいませ」

 初に比べ、舌足らずな声に送り出されて辰次郎は歩き出した。天候の悪化に備えて身につけた蓑の襟をきつく閉じて道を行く。道中で兄の寅之介と合流し、一人の道のりが少し明るくなった。

「冷えるな」

 兄は明るさを装って言った。曇天の下で強い風が吹いた後は天気が荒れたものだが、この地においては雪の降る前触れのように思える。冬の寒さや雪の冷たさに良い思い出など一つもない。

 いつ崩れてもおかしくない空模様を見上げ、辰次郎は遠からず訪れる冬を思った。

「今日の内に終わらせたいところですね」

「そうだな。父上などは借り暮らしに相当苛立っているようで、なだめるのに一苦労だよ。一年前はまだ、先祖伝来の屋敷に住んでいられたから無理もないが」

 苦笑によって苦労を語る寅之介の声には、微かに同情が含まれていた。

「誉れ高き会津藩士が、いつまで借り暮らしに甘んじていなければならぬのだと、そればかりでな」

会津藩士……」

 その言葉がやけに遠く感じた。ほんの一年前までは、自分や兄、朋輩の素性を表し、主君松平容保に仕える誉れ高き身分であった。しかし今、会津藩保科正之が見定めた地に会津藩はない。会津藩士であった辰次郎らが代わりに所属する藩の名は、斗南藩という。場所は会津から遙か北の下北半島、元は南部藩の所領の一部であった。

「我らはもはや、会津藩士ではないのですね」

 寅之介は一瞬顔をこわばらせたが、すぐに諦め顔になって首を振った。

「そうだ、斗南藩士と名乗るのが正しい。しかし」

 言いよどんだ兄の気持ちは痛いほどわかった。辰次郎と寅之介が生まれた水沢家は藩祖の時代より仕え、藩士とその子弟が学ぶ郭内講所の設立に携わった玄信を先祖に持つ、学問と武芸を司る高位の家柄であった。父惣太郎もその先祖の名に恥じぬ働きをしてきたし、兄がその後を継げば末は安泰とまで言われていた。

 寅之介が家督を継ぐことに決まってから辰次郎の居場所は水沢家になくなり、倉本家へ養子に出されることとなる。倉本家は足軽で、高い身分ではなかったものの、文武両道の兄への対抗心で磨いた武芸を活かせる家であった。撃剣が注目を集める時勢にも乗り、学問の分野で頭角を現した兄に対して、辰次郎は道場の師範代にまで上り詰めることで己の居場所を見つけ出した。

 二〇歳で初と結婚し、翌年長男の正毅が生まれたが、その矢先に起きたのが戊辰の役であり、会津から斗南への転封であった。二三万石という仙台藩に次ぐ石高も、現在は三万石にまで減らされ、藩主松平容保は東京で謹慎生活を送っている。多くの元会津藩士が何もない土地へ放り出されたのを見て、辰次郎は転封どころか流刑のように感じたが、ほとんどの元会津藩士に共通した思いであっただろう。実際、この処分を決定した木戸孝允は、戊辰の役で戦った会津藩士たちを会津降人と呼んで蔑み、当初は蝦夷地へ元会津藩士たちを送り込むつもりであったらしい。斗南藩とは敗残の記憶にまみれた名前であり、そこに属する藩士たちもまた敗残兵である。敗北の証に誇りは持てないし、父が親藩大名に仕えていた頃を懐かしむのも無理からぬことであった。

「兄上、父上が自裁せぬよう見守っていてください」

 敗残の記憶を引きずって生きていくことに、水沢家の家格や誇りを守り続けてきた父が耐えられるかどうか心配になった。鶴ヶ城での籠城戦で妻の清を失った時にも自裁を考えたようだが、兄の説得を受け入れて思いとどまったという。しかし歳を重ねて足腰の弱った心はいつ死へ傾いてもおかしくないだろう。

「敗北を背負って生き続けるのは辛い。自らが教え、教えられたことにもとる生き方だろう。それでも父上は必要だ。だからこの地で天寿を全うしてもらう」

 新政府軍に降伏し、会津降人と呼ばれても生き続ける元会津藩士は多いが、白虎隊をはじめ敗北の責を負うように自裁した者も少なくない。直接の理由にはならないだろうが、彼らの行動の根底には日新館や郭内講所で受けた教えがあっただろう。それを授けたのが父であり、兄であった。二人が生き続けるということは、敗北に際して自裁した人々の死を背負うということであろう。寅之介の言葉は、導き手であった親子の静かな決意に思えた。

「兄上も必要な人です。日新館も再開します。教えを授けられる人は限られています」

 寅之介は片目を向け、静かに笑みを見せた。言葉をかけた方も何か報われた気分になるような、温かな表情であった。

「約束を、するまでもない」

 静かだが清々しい声音は、敗残の憂鬱さを感じさせない。明日に希望を抱く者の声であった。

 目的の場所に着いた時、粗末だが充分に雨風を防げそうな長屋を中心に活気があった。冷え込みをものともせず肌をさらして動き回る男たちの中に見知った顔がある。決まり悪く感じながら声をかけると、小柄な関長兵衛が気さくに返事をした。

「遅かったな。今でも二百石取りの水沢家のつもりか」

 遠慮のない皮肉を聞かされながら、長兵衛の声には嫌みがない。言いながら彼は縄を兄弟に渡した。

「今は家格など意味がないよ。それより準備をさせてくれ」

 寅之介は温厚な表情で言い、蓑を脱いだ。袖をまくって準備を整えると、長屋の中へ

入っていった。

「辰次郎、お前も早く行かんか」

 長兵衛は言うだけ言って、どこかへ立ち去ってしまった。日新館の同窓だった頃から身の軽い男だったが、見知らぬ土地に来ても変わりがない。懐かしいものを見せられたようで心が温まった。

 長屋風の建物は、かつては一軒の商家であったらしい。それなりに繁盛したが跡継ぎが見つからなかったことから閉店し、建物だけが残されていた。それを移住者たちが住む長屋へ改造しようというのだ。竣工すれば不安定な借り暮らしも終わる。仮住まいを提供してくれた商家は親切だったが、あまり長く甘えるわけにもいかない。

 戊辰の役は二六〇年に渡って数百の藩を支配し続けた幕府と、その体制を壊そうとする新政府の争いだった。保科松平家が藩祖となった会津藩親藩であり、幕府の危機に際して当然のように新政府と敵対した。その戦端が拓かれて間もなく二年が経とうとしている。会津藩の戦いは約十ヶ月で終わり、新政府軍が北へ進軍した後は敗北という結果が残された。

 会津藩領内で新政府軍と戦った辰次郎を含む藩士たちは全員科人として捕らえられ、猪苗代などで拘束された後東京や上越高田へ送られ、謹慎生活を送ることになった。やがて下北半島への転封が決まると、藩士たちは謹慎先に留まって武士の身分を捨てるか、あくまで藩士として生きるかの選択を迫られる。辰次郎をはじめとする男たちは、斗南藩と名を変えた藩に仕えるために、北への旅を余儀なくされた。

 総勢一万とも言われる元会津藩士たちは、斗南藩領の各地へ送られた。辰次郎らは田名部荘に住むこととなり、地元の商家の世話を受けることになった。借り暮らしの小屋を提供したのも菊右衛門という商家の主人で、子供や老人を抱えた一行に彼は親切にしてくれた。

「うちとしても、このあばら屋をどうしようかと悩んでおりました。どうにかしてくれると助かります」

 菊右衛門はそう言って、四人にあばら屋の処理を任せてくれた。住宅として建て直すと言うと、そのための資材や人も出してくれた。北の土地で巡り会った親切は、涙が出るほどの温かさだった。

 内部は台所兼用の板敷きと、六畳間であった。夫婦と一人息子の自分たちならちょうど良い広さだが、実父や義父、義母を抱える寅之介や長兵衛には狭いだろう。実際、彼らの住む部屋は広めになっている。

 部屋の中では新村佑(たすく)が米俵を縄で括っていた。黙々と手を動かしていた男は、何を言

おうか迷って立ち尽くしているうちに気づいて、辰次郎を振り仰いだ。

「何をしている」

 挑みかかるように鋭い目つきと声であった。常に何かを気負うような感じのある日新館の同窓は、いつも気楽な長兵衛と対照的であった。鶴ヶ城で家族を失ってから、その険しさに拍車がかかったように見えた。

「手伝わなくていいのか」

 突き放すような佑の声に、辰次郎は返事が思いつかなかった。仕方なく兄の元へ向かう。彼も佑と同じ仕事をしていたが、辰次郎に気づくと人好きのする笑顔を向けてきた。

「怠けるなよ」

 辰次郎は笑みを返し、兄の傍に座った。俵を縄で結ぶことで、値段の張る障子紙の代わりにする。特にこれから厳しくなる冷え込みを乗り切るためには必要な仕事だった。

「佑のことですが」

 手を止めずに訊くと、寅之介は手元から目を逸らさずに先を促した。

「まだ此岸に留まることに迷いがあるようです。突き放されました」

「彼岸へ旅立つのを止めたのはお前だったからか」

「佑の気持ちはわかりますが、父上でさえ生き延びることを選んだのです。責任を感じたと言って後を追って何になりましょう」

 鶴ヶ城の籠城戦で両親を失った後、佑は多くの会津藩士と同じく新政府に捕らえられ、上越高田へ送られた。東京で謹慎生活を送っていた辰次郎が佑と再会するのは、斗南藩への転封が決まった後のことだが、その時にはまだ、佑の妻子は生きていた。

 三世代が奇跡的に生き延びた長兵衛、実父と共に生き残った寅之介、養父母を失ったが妻子は無事だった辰之介らと共に、新村一家も会津から斗南へ向かうことになった。陸路と海路があったものの、一行は陸路を選んだ。船に乗った経験のある者が寅之介しかおらず、海への不安感があった。事実、斗南へ向かう道として海路を選んだ者は少なかったようだ。

 佑の妻と娘が相次いで命を落としたのはその途中であった。天候の急変で足止めを食らっている間、娘が熱を出し、満足に治療ができないままに命を落としてしまう。その後を追うように妻も亡くなり、佑は当然のように腹を切ろうとした。それを辰次郎が止め、佑は斗南まで来ることになった。一応は納得してくれたものの、お互いの間にわだかまりが残ってしまっている。止めた方も止められた方も、教えられたことに反していたからだろう。辰次郎もまた、正しい行動だったと言い切ることはできずにいる。

「俺に父上を見守るように言ったな。ならばお前は佑を見ていろ。妻子を守り切れず戦いにも敗北した。その恥を背負ってでも生きてほしいと思ったのだろう。お前は死ぬはずだった命を背負って生きねばならん」

 佑を止めた時は夢中だったが、一つの人生を変えたのだ。その責任は重いだろう。

 障子紙の代わりにする俵を縄で縛り、外との仕切りとする。それでも風を完全に防げるわけではない。無いよりましであったが、正毅のことが心配であった。

 正毅が命を落とすようなことがあったら、自分は何を思うか。後を追いたいと思った佑の気持ちは、その時にならないとわからないような気がした。

「何とか終わったな」

 昼を過ぎる頃にそれぞれの仕事は終わり、四人は長屋として生まれ変わった廃屋を感慨深げに眺めた。天候の変化もなかったのは幸運だった。

 一度それぞれの家族の元へ帰り、早速転居しようと話し合って解散した。辰次郎は借り暮らしの小屋へ戻ると、家族の前に小屋を提供してくれた菊右衛門へ挨拶に向かった。昼餉を終えて休んでいるところだったが、人好きのする笑顔で迎えてくれた。

「先ほど終わりました。これで借り暮らしも終わりです」

「それは良かった。会津様がいつまでもこんなところにおってはいけません」

 言葉の端々には特有の訛りが聞き取れた。着ているものの趣味も良く、垢抜けた感じのある男は、どうにか中央に合わせようとしているように思えた。

「菊右衛門殿には感謝しております。いずれ兄たちも礼を言いに来るでしょうが、まずは私が言わせていただきます」

「どうかお気になさらず」

 菊右衛門はあくまで屈託のない笑顔を見せた。場所によっては会津人たちをゲダカと呼ぶことがあるという。下北半島で毛虫を表す言葉で、木戸孝允が使った会津降人と同じく侮蔑の意味を含んでいる。笑顔を絶やさずに会津様と呼び続ける菊右衛門の言葉も、ともすれば嫌みたらしく聞こえそうだが、落ち延びてきた人々に救いの手をさしのべる男の心根は決して卑しいものではないだろう。

 立ち去る時に重ねて礼を言い、辰次郎は家族の元へ戻った。仮住まいではない、自分たちの家が完成したことを告げると、正毅は無邪気に喜び、初は安堵の表情を見せた。

「これでやっと安心できます」

 初は正毅を見遣りながら言った。自分の身よりも正毅のことを案じる母親の眼差しであった。

 一家三人が暮らしていた借り暮らしの小屋に、たいした家財道具はない。衣類は行李に入れていたし、台所などは菊右衛門の家で貸してもらっていた。肩身の狭い思いをいつまでしなければならないのかと初に詰め寄られたこともあったが、それも報われた。

 翌朝を待って一家の引っ越しは行われた。早めに出てきたが、新居には既に佑の姿があった。

 一家を見て何かを言いかけるような顔をした佑だが、結局何も言わず自分の部屋へ入っていった。

「新村さん、相変わらずですね」

 初の声には冷たさがあって、隣人となる男への不安が表れていた。斗南へ着いてから、妻子のある三人に対する視線が険しく思えたこともある。付き合いの長い男たちは同情的に感じたが、関わりの薄かった女たちは異物のように見ているようだった。

「やむを得ないさ」

 辰次郎はそれだけ言うにとどめた。藩士としては戦いに敗れ、夫としては妻子を守り切れなかった佑の苦しみを、初に理解させるのにどれほどの言葉を尽くせばいいかわからない。時に言葉が足りず誤解を生むことがある男だが、佑とて心根はしっかりしている。共に日々を暮らす中で、女たちの理解も深まっていくことを願うしかなかった。

 やがて長兵衛と寅之介がやってきて、長屋はようやく賑やかになった。特に大所帯の長兵衛の引っ越しは騒がしく、寒々しい荒野がひととき柔らかな空気に変わった気がした。

「手伝いがいるんだ、頼む」

 長兵衛は遠慮のかけらも見せず辰次郎や佑を駆り出した。年上であり、斗南への移住において指導的な立場を果たした寅之介にはさすがに声をかけなかったが、本人から手を貸そうと言い出した。

 兄が言う以上、辰次郎も従うしかない。結局女たちを残して四人で荷物を運ぶ羽目になった。

「多すぎるぞ」

 荷車を菊右衛門の家から借りたが、一往復では足りなさそうな荷物の量に佑がぼやいた。

「そう言うな。家族が多いと荷物も多くなるんだ」

 佑にとっては気遣いに欠ける一言だったのだろう。元々険しかった目つきが鋭くなった。

「お前は恵まれている」

 そう言い、佑は乱暴に荷車を引いた。荷物が危うく揺れ、長兵衛が声を上げる。

「俺の家財道具に当たるな」

「壊れたら買い直せばいいだろう」

「簡単に言うな」

「ああ、そうだな。壊れたら直らないこともある」

「二人とも、いい加減にしろ」

 加熱しそうな言い争いに辰次郎が割って入った。神経質なところのある佑とおおらかな長兵衛の性格が噛み合わないのは日新館の頃からで、衝突するたびに辰次郎が間に立っていた。三人の付き合いが今でも続くのはそのおかげかもしれなかった。

「まだすることがあるだろう。仕事が終わる前に雪でも降ったらどうするつもりだ」

 この数日、日差しを見た記憶がない。相変わらず雪の重さに耐えているような空模様だが、いつまで持ち堪えられるかわからない。心なしか雲の色も黒っぽくなり、否応なしに不安をかき立てた。

「寒いのはごめんだ。早くやってしまうぞ」

 年長者の寅之介が声を上げ、その場は収まった。雪や冷え込みへの不安を煽ったのが効いたのだろう。まだ厳冬期の下北半島を知らないが、会津とは比べものにならないほどの雪が降るという。寒さが元で消えた命を知っているだけに、仕事へ戻らせるのに充分な効果を発揮した。

 結局二往復で長兵衛の荷物を運び終えることができた。家庭の規模を考慮して、長兵衛の部屋は広く取ってあるが、間取りはそれほど大きくは変わらない。長兵衛は窮屈な暮らしになりそうだと思ったが、彼や妻子、更に義理の父母や実の父母は楽観的な表情だった。

「まあ、どうにかするか」

 道中それとなく心配を向けると、長兵衛はあっけらかんと言った。昔から変わらない表情はかつて底の浅さを感じたが、今回は奥底に悲壮な決意を秘めているように思えた。

「そうだな、どうにかすることだな」

 辰次郎もまた、同じように笑い返した。その時脳裏をよぎったのは家族のことである。借り暮らしを脱したのは良いが、あくまで第一の関門を突破したに過ぎない。一家の長として、これから家族にもたらさなければならないものはいくつもある。

 菊右衛門に四人が挨拶と礼を済ませ、帰路に就く時には日が暮れていた。夜に出歩いたことはまだなく、蓑を着て寒さへの対策を抜かりなくしたつもりだったが、それでも不充分と思えるような冷え込みだった。

「これで雪でも降ったらと思うと、ぞっとするな」

 帰路、寅之介の何気ない言葉から想像が広がった。提灯しか灯りがなく、道しるべになりそうなものも見つけられない北国の夜である。おまけに一人で歩いている。寒く、暗い道を四人で歩いているだけでも言いしれぬ不安と恐怖が忍び寄る。辰次郎は一人で夜道を歩かないと心に決めた。

 新居では初と正毅が火を灯して待っていた。やがて菜種油のきれいな火が三人分の膳を照らす。食べ終えるとくつろぐ間もなく眠る時間となる。それぞれの膳を前にしての語らいの後で、風が吹き付けてくる音がやたら大きく聞こえる。その上塞ぎきれなかった隙間から風が流れ込んでくる。正毅が最も外に近いところで横たわったが、それでも風を防ぎきれないらしい。正毅が寒いと声を上げた。

 その正毅を初が抱きしめて眠ることで落ち着かせることができた。正毅の苦痛を除けなかったのが情けなく感じ、思いを口にすると、

「借り暮らしではない、わたしたちの家を建てられたではないですか」

 と、慰めるようなことを言った。

 初はそれ以上の言葉を重ねなかった。夫に対していつも厳しい態度を取る妻で、正確だが公正な視点を持てる人間であった。だからこそ言葉には常に信頼を置くことができ、今でもそれは変わらない。

 やがて初と正毅の寝息が規則的になった。辰次郎はずっと目を閉じていたがいっこうに眠れない。すきま風の冷え込みと、それがもたらす音もあるが、明日以降がどうしても不安であった。

 家族にもたらさなければならないのは稼ぎである。支給米はあるものの、それだけでは余裕のある暮らしは送れない。崖っぷちを行くような暮らしを続けていては、いつまで経っても苦しい日々から抜け出せないだろう。

 自分だけがその苦しみの中で終わるのならまだ良い。しかし正毅にまでその宿命を受け継がせることは何としても避けたい。そのためには、息子に教育を授けるのが一番で、それがいつか保科松平家の再興にもつながる。戦後処理のために新政府と交渉に当たった山川浩らが、転封と大幅な減封を受け入れたのも、それに従って新天地での再起に多くの藩士が懸けたのも、全てはかつての栄光を取り戻すためなのだ。

 辰次郎はすきま風に背を向けた。それで少し楽になり、やがてまどろんでいく。

 眠りに落ちかけた時、足音が聞こえた。

 この最果ての地にも盗人がいるのだろうか。暢気に考えているうちに、足音は近づいてくる。辰次郎は初と正毅を起こさないよう気を配りながら枕元に置いた刀に手をかけた。身を低くしたまま、障子代わりの藁を慎重にめくる。足が見えたが、それは動きを止めている。

 何とか正体を確かめ、必要なら斬り捨ててやろうと、辰次郎は藁を少し高くめくる。その時、

「起こしてしまったか」

 と、淡泊な声が聞こえた。佑の声である。

「よく気づいたな」

 見知った顔に安堵しながら辰次郎は藁をめくって外へ出た。使い古されて薄くなった丹前を羽織ったが冷え込みは厳しい。空には冴え冴えとした月が昇っていて、暮らしに余裕があれば熱い酒を呷りたいところだ。

「殺気がやたら強かったからだ」

 笑みを見せることもなく、佑は得物を振り上げ、虚空へ振り下ろした。白刃は動くたびに冴えた月明かりを散らし、野太い音を立てて風を切る。真剣を振り続ける佑の横顔には表情がない。目の前に敵が現れても無造作に斬り捨てそうだった。

 辰次郎はその場に座り込み、佑の素振りを見守った。盗み見に気づくほど感覚に優れた男が、脇目も振らず刃を振り続けている。いつ、どこで役立てられるのかとふと思った。

「気になるのか」

 素振りを続けながら佑が訊いた。声に揺れはない。藁の戸一枚の向こうで素振りをやられるのが気になるのは確かだが、正直に言ったところでやめはしないだろう。斬られても素振りを続けるという決意がみなぎって見えた。

「何のための素振りかと思ってな」

 返事をしたが、佑は動きを止めなかった。

「まだ俺たちは藩士だ。お前の兄上や長兵衛はともかく、俺たちは武を以て仕える立場だったはずだ。剣の腕を錆び付かせないのが、今できる最善のことだろう」

 佑は淡々と正論を返した。佑とは日新館でも道場でも同じだけの腕前を持つ好敵手として競い合う間柄であった。辰次郎が剛直な剣を使えば、佑も同じだけの強い剣でぶつかってくる。何度も剣を交えたが、お互いに勝ったり負けたりを繰り返す日々であった。

「お前もやればいい。いずれ使うかもしれん」

 誰に対して剣を振るうのかと問いかけたくなったが、辰次郎は疑問を飲み込んで佑と並んだ。

 そして盗人を斬るつもりで持ち出した刀を抜き、振るう。佑とは動きをずらしたことで、風を切る音が二重になって聞こえる。

 佑のものと比べ、切れが悪い音だと辰次郎は思った。刃をどこへ向け、誰を斬ればいいのかわからないせいだろう。

 敵の姿は辰次郎にも見える。会津藩士たちに、流刑にも等しい転封を課した新政府と、転封の最終決定を下した木戸孝允だ。しかしこの最果ての地でいくら刃を振るおうと、憎き男には切っ先さえ届かない。この最果ての地において、刀など無用の長物に思えた。

 それでも、剣の腕を錆び付かせないのが務めというのも頷けることであった。いくら迷いを感じていても、これまで武を以て仕えてきたのだし、戊辰の役においても役目は変わらなかった。報われない結果になったが、何人もの新政府軍の兵たちを撃ち、斬ったのだ。

 剣を振るう内に心は研ぎ澄まされ、少年時代へ回帰する。主君が遠く離れた地に閉じ込められ、科を負わされることなど想像もしなかった頃のことだ。

 一心不乱に剣を振り続けるうちに体はすっかり温まり、汗がにじむほどになった。冷え込みの厳しさをいつしか忘れ、自然と笑顔になっていた。

 心地よい疲れを分かち合おうと思ったが、佑の表情は晴れない。そしてほとんど間を置かずに再び剣を振り始める。その表情には鬼気迫るものが宿りはじめている。目の前に木戸孝允の幻影でも見えているかのようであった。

 やがて月明かりの中にきらめきが落ちてきているのに気がついた。ここ数日持ち堪えた空が限界を迎えたらしい。まだ気にならないが、降り積もるほどの量になるまで時はかからないだろう。

「佑、少し休め」

 控え目に声をかけたが、佑は聞く耳を持たない。

「佑!」

 辰次郎は鋭く叫んだ。それで佑は関心を持ったようだった。

「どうした」

 佑は悠然と刀を鞘に収めて訊いた。動じた素振りもなく、無表情を保っている。

「明日早いだろう。戦う前に食い扶持を稼がなければならない」

 寅之介はいずれ日新館に戻ることが決まっていたが、辰次郎らは違う。名目上は開拓に従事することになっているが、家族を養えるほどの報酬は得られない。実現の可能性自体も薄く、別の仕事を見つけなければならなかった。

「お前たちは、そうだろう。俺一人なら支給米だけで暮らせる」

「だから何だ」

 辰次郎は気色ばんだ。佑の眼差しがあまりに先を向いていて、足下の生活を疎かにしようとしているようであった。いまだ自分たちは武士である。しかしこの最果ての地で地歩を固めなければ、前へ進むことさえおぼつかなくなる時が来る。

 諫めなければと身を固くした辰次郎だったが、佑が見せた笑みの前に緊張が緩んだ。

「冗談だ。いくら一人でも、この地で刀を振り回していれば済むとは考えていない。共に稼ぎのあてを探すから心配するな」

 佑に翻弄されたような気持ちだったが、彼が冗談を言うのも珍しい。自分をなだめるためだったとしても、妻子を失って以来見ていなかった笑顔に接することができた。日新館以来の同窓として、心配がわずかに薄れた気がした。

 佑は微笑みを収めた。月明かりの中のきらめきは、暗闇に映える色となって目に映り込んでいる。潮時だと思って部屋へ引き上げようとしたが、佑に呼び止められた。

「俺たちは何故生きている」

 唐突な質問に辰次郎は一瞬寒さを忘れた。

 答えを出せない間に佑は言葉を継ぐ。

「俺たちは負けた。その時俺たちは自裁するべきではなかったか。白虎隊の若い連中は皆そうした。十いくつも若い子供が立派に自裁を遂げて、俺たちは敗残している。これは正しいのか」

 佑の無表情には険しさが再び宿っていた。それはそのまま、妻子を守り切れなかった時に何故死なせてくれなかったのかと辰次郎に問いかけるようであった。

「何故俺に訊く」

「まだお前の口からは何も聞いていない。生き続ける理由も、俺を助けた理由も」

 家族を守り切れず失ったことが、佑の心を暗く閉ざしているらしい。そうさせた原因の一端は自分にもあるのかもしれないと辰次郎は思った。自裁を止めた時は無我夢中で、当時のことについて二人で話し合ったこともなかった。

 突然のことで準備がままならない辰次郎は、胸に秘めていたことをそのまま語った。

「生きてさえいれば、お家再興が叶った時に力になれるだろう。その可能性もまだ残されている。この斗南藩がその表れだ」

「そうだとしても、幕府を目の敵にしていた連中が良い立場を与えるものか」

 再び佑は笑った。今度は皮肉っぽい、不愉快な表情だった。

「そのように斜に構えた顔はよせ」

 反射的に、しかし昂然と辰次郎は言った。佑の笑みが収まった。

「せっかく権大参事や小参事がお家再興の可能性を残してくれたのだ。開拓も実現できぬやもしれぬ。しかしわずかながら可能性があるのは確かなのだ。主君や主家が返り咲くかもしれないのなら、できる限りのことをするのが藩士だろう」

 言葉を継いでいくうちに身も心も熱くなった。最果ての地の寒さは、まだ季節の変わり目に過ぎないというのに厳しい。糧を確保できなければ、体力の少ない子供や老人から死んでいくだろう。そんな過酷な暮らしの中にも希望を見出しているのは本心で、生きる力になる。佑も同じであってほしかった。そうでなければ、苦しさに耐えてでも生きていくことを選んだ人々に背を向けることになる。

「ここまで来たからには何が何でも生き抜け。可能性を追え。復讐はその後でも間に合うはずだ」

 佑の最終的な目的は、会津を踏みにじった新政府への復讐であろう。その時家族を失い、敗北の結果に際しては妻子を失った。悲しみや怒りは復讐心に変貌している。そうでなければ、一度辰次郎に止められたぐらいで自裁を諦めることはなかっただろう。

「お前が復讐を認めるとはな」

 無表情で佑は言った。皮肉の感じはなく、素直に驚きを感じているようであった。

「認めるわけではない。しかしそれで今生きていけるなら良い。お前の気持ちがいずれ治まればいいのだが」

 佑が死に向かって突き進むのを黙って見ているのは本意ではない。長兵衛も同じだろう。いくら性格が合わないとしても、少年の頃から日新館で共に学んだのは事実なのだ。同窓という気持ちも生涯消えることはないはずだし、共に生き抜いた日々が加われば盟友にもなれるはずだ。

 言葉が消え、量を増した雪が交錯する眼差しを遮る。佑は無表情を保ち、黙って見つめ返す。怒りや憎しみのように熱い感情にたぎっているようであったが、発露することはなく彼の方から視線を外した。

「起こしてしまって済まなかった」

 そう言い残して佑は自分の部屋へ戻った。他の三部屋とは違い、一人だけの部屋だ。この地で暮らすうちに住人が増えれば、生きることに迷う心の標か、あるいは重石になってくれるだろう。しかし古くからの仲間である自分たちでは及ばないことだと思うと、無力を感じた。

 風を帯び、勢いを増してきた雪を逃れ、辰次郎は家族の元へ戻る。外での動きや変化など知る由もなく、母と子がすやすやと休んでいる。

 夫婦となった頃のような、小さいながらある程度の保障があった生活は既にない。代わりにあるのは先の見えない暮らしだ。何者かによって突き落とされたのだと恨みながら生きていくことが簡単だろう。その相手は新政府の兵士たちであり、戊辰の役の戦端を開いた者たちである。彼らを斬るために命をつなぐと思えば、過酷な日々も続く気がした。

 しかし息子まで同じ目つきで暮らしてほしいとは思わない。戊辰の役がなければ、やがて日新館へ通って会津藩士として成長していったはずだ。自分がたどったような道のりを行くことはもはや叶わずとも、いずれは正々堂々と薩長の子弟たちと競い合う清々しさを身につけてほしいと思う。薩長の兵士たちと斬り結び、戦場となった故郷を見た身では持ち得ない気持ちだろう。どうしてもねじれた見方が生まれてしまう気がする。

 佑は平気だろうかとふと思う。死に急がないようにとはいえ、焚きつけるようなことを言ってしまった。寅之介が父の命に責任を負ったように、自分も佑の生き方を見つめなければならないだろう。それは仲間としての気遣いと、人としての務めの狭間の気持ちであった。

 

 朝を迎える頃に雪はやみ、積もることはなかったものの、冷え込みが更に厳しくなった。寒さは会津で慣れているつもりだったが、空気の乾きはいっそう強く、風が鋭さを持って襲い来るようであった。

「田名部は田舎などではなかったな」

 行き交う人々を見ながら長兵衛が言った。田名部荘に着いてから廃屋の修復に専念していたため、斗南藩庁が置かれた円通寺やその周辺などに行く余裕はなかった。辰次郎も街の賑わいから遠ざかっていたせいで、喧噪がやたら耳につく。

「権大参事が初めに入った土地だ。田舎のはずがないだろう」

 佑がぶっきらぼうに言ったが、久しぶりに触れる賑わいに彼も戸惑っているようであった。一方で感慨深いものを感じているようで、長兵衛のように周りを見回すことはしない。田名部は下北半島の中心地とされる港町であり、最高責任者である権大参事に就いた山川浩が初めて降り立った斗南藩の領地であった。

 山川は曹洞宗の寺院である円通寺に本陣を置き、藩士やその家族の移住の指揮を執り、移住が一段落してからは藩庁を置いた。辰次郎らは陸を歩いたが、海路を利用した者も数多く、彼らの行き先は田名部であった。

「これぐらい人が多ければ、仕事もあるか」

 遠くを見渡す長兵衛は楽観的で、支えるべき人間を最も多く抱えているはずだが、悲壮感は全くない。斗南藩の領地となる前から栄えていたとはいえ、簡単に仕事が見つかるとは辰次郎も思っていない。しかし迷いのない長兵衛を見ていると、好転はそう遠くない気がしたし、賑わいに触れると都内での暮らしも過酷なだけではないと思うことができた。

「しかし寅之介さんも来てくれたらいいのに」

「無理を言うな。兄上には兄上の役目がある」

「冗談だ。あの人には汗や土にまみれる仕事は似合わないな。俺たちとは違う」

 戊辰の役の前から日新館で教える立場にあった寅之介は、斗南藩でも引き続き役目に就くことになった。正毅が通うにはまだ早く、長兵衛の息子も開始の年齢に達していない。しかしあと二年もすれば、正毅は伯父に日新館で会うことになり、更に長じれば教えを受けることにもなるだろう。

「うらやましいのか」

 長兵衛が子供たちを相手にものを教える様を想像して微笑ましくなる。学問の分野はともかく、水練をはじめ運動に関わることなら上手に教えられそうだし、気さくな人柄も人気を集めそうだった。

「やってみたらどうだ。どこもかしこも人手不足だから、案外やれるやもしれんぞ」

 半ば本気で言ってみた。成り立ちからしてどうしても敗残の記憶を見出してしまう斗南藩において、長兵衛の明るさは大人も救われる。子供にとってはなおさらだろう。

「務めでやるのはどうもな。教えるとしたら、気ままにやる方が性に合う」

 辰次郎の期待を知る由もなく、本人は気楽だった。

 三人でまとまって動き、一日中稼ぎのあてを探す。口を充分に開けず発音するような地元の言葉に混じり、港町を歩く内に聞き慣れた会津の言葉も聞こえてくる。彼らも同じように稼ぎを求めているのだろう。同じ立場の仲間であったが、目が合っても黙礼すらできず、視線が逸らされてしまう。

「あいつらも稼ぎが欲しいのだな」

 佑が皮肉を貼り付けた笑みを浮かべた。山川らが準備できたのは、移住者たちの住まいがせいぜいで、務めを全員に与えられたわけではない。特にこれからの季節、食糧不足に見舞われるのは目に見えている。元々何度も飢饉に見舞われてきた土地柄である。冬を迎える前に、何としても食糧を調達する手段を見つけておきたかった。

「助け合えれば良いが」

「無理な相談だな。お互いにそんな余裕はあるまい」

 願望を言下に否定され、辰次郎は気色ばむ。自分たちは確かに切迫した暮らしを強いられている。だからといって同胞たちを見捨てるような薄情さを身につけてしまった覚えはない。

「佑、そのような言い方は」

「やめておけ。往来の真ん中だぞ」

 長兵衛が間に入った。いつも辰次郎が担う役目を奪われたのが決まり悪く、佑から目を逸らす。ねじくれた性根になってしまったのも、自分が生き続けていくことに迷っているせいだろう。佑が生きていてほしいと思ったから自裁を止めた辰次郎だが、理性でなく感情で抑えてしまったことが悔やまれた。

 日が暮れても成果はなく、三人は揃って帰路に就いた。日中の澄んだ青空と同じように、星の瞬きが美しい星空の下を歩くことになった。星に詳しくはないが、眺めているうちに色や明るさの違いを知り、見分けられるようになる。赤い星や白い星が多く、いくつかはまとまって一つの形を成しているように見える。星宿というものだろうが、どのようになぞっても意味のある形には思えない。西洋人や天文方の学者の想像力がいかに豊かなのか、思い知らされる心地であった。

 日中を顧みるように言葉を交わしているうちに寅之介も追いつき、昨日と同じく四人の帰り道となる。一人だけ立場の違う兄との接し方に迷っていた辰次郎だが、相手は変わらない態度を取ってくれた。

「成果はあったのか」

 何気なさを装った兄に、何もないですよ、と長兵衛が答えた。

「皆が同じことを考えています。武を修めた者が一番の成功者だと思っていましたが、所変われば考え方も変わります。ここでは金にならないのでしょうな」

「無駄と思ってほしくはないが、一理あることだ」

「どうしたら金は入るでしょう」

 ここ数日の苦労を思った時に、言葉がふと口を衝いた。戊辰の役まではあてにできる保障があって、慎ましやかに生きていけば特別の工夫は要らなかった。武を以て仕えるという心持ちさえ忘れずにいれば良かったのだ。

 しかし戦いに敗れ、食糧不足の不安と厳しい寒さが敵となった今、今まで身につけたものは役に立たない。地元の人間に教えるとしても、人間を相手にした戦い方がどれほど役立つのかと訊かれたら困惑するのが目に浮かんだ。

「役に立つことをするのが一番だな。だからこそお前たちは荷役の仕事を探しにいったのだろう。田名部は港町だし、斗南藩士の力でもっと発展する。永岡小参事ならやってくれるだろう」

 斗南藩で小参事に就任した永岡久茂の名は、日新館にいる間幾度も聞いたことがある。辰次郎の四歳年上でしかないが、江戸昌平黌で学んだこともある秀才だった。それでいて酒を愛する放蕩なところもあり、非凡な男という意味で放蕩不羇という評判が聞こえてくる。その永岡久茂は、田名部を港町として発展させ、斗南藩の商業中心地にするという構想を持っているようだった。

「田名部の商人を集めて、よく天下国家を論じているらしい。安渡と大平を合併させて、大湊とする。そうすることで海運事業の拠点とする。うまくいけば横浜や長崎のようになっていくはずだ」

 幕末に多くの新しいものが入り込み、体制が変化する原因の一端となった港の名は、辰次郎には遠いものにしか思えない。だいいち、冬の厳しい下北半島のことである。同じような運用ができるとは信じられなかった。

 佑や長兵衛も同じ考えに至ったらしく、寅之介の言葉に相づちを打つ者はいなかった。それぞれ曖昧な返事をするに留まった。

「俺も小参事と話をしたわけではないから、どれほどのものかわかりかねるが」

 寅之介は言い足したが、反応を見て取り繕ったようには思えなかった。放蕩不羇との評判を持ち、良くも悪くも注目を集める男の手腕に期待をかけているのだろう。

「日新館の後輩として、何かを成し遂げることに期待はします」

 言ったのは佑であった。斜に構えた姿勢が身についてしまっても、故郷を同じくする者の成功は望ましいのだろう。

「斗南の発展につながれば良いですが」

 斗南の名は敗残の記憶を呼び起こす。しかし繁栄を手にすることができれば、過去の敗戦など取るに足らないことになるはずだ。名誉の回復は、もしかしたら自分たちが全員この世を去った後に成し遂げられるかもしれないが、これから起きることが全て今後の礎になるなら、それほど素晴らしいことはないだろう。

「斗南、しかし不思議な響きがあります。古来の言葉ではないような」

 平素あまり物憂い顔を見せない長兵衛が、珍しく思い巡らすような顔をしていた。今まで敗残の記憶ばかりを見ていた辰次郎には、新しい藩の名前まで関心を持つ余裕がなかった。

「俺たちが知らないだけで、本当はあるのではないか」

 心当たりがないまま、辰次郎は言った。外海の激しい波を指して、外波という言葉も作れる。港町だけあり、そのあたりに由来があるような気がした。

「いや、長兵衛の感覚が正しいな。由来は大陸だ」

 興味を引かれた辰次郎は、我知らず声を漏らしていた。

 寅之介はおもむろに語り出した。耳を傾けるとそれは韻を踏んでおり、心地よく響く詩文であった。

「北斗以南皆帝州という詩文がある。これが新たなる会津藩、すなわち斗南藩の名の由来だ」

 その言葉の中には、確かに斗南という言葉があった。されど意味までは容易に汲み取れない。

 寅之介が足を止め、星空を仰いだ。眼差しを追うと無数の星宿を捉える。その中に答えがあるような気がした。

「北斗とは、北斗七星のことですか」

 佑の問いに兄が頷いたのを見て、形もわからない星宿を探してみたが、寅之介はこの時期は見えぬのかなと微笑んだ。

「北斗七星は春にならぬと見えぬものでな。この土地であれば、それが見えた時の喜びもひとしおであろうな」

 春泥のような春の訪れを告げるものを想像すると、冴え冴えとした星空にも温もりが宿って見える時があるのだろうかと思えた。それは厳冬との戦いを乗り越えた安息の時でもあるだろう。

「北斗以南皆帝州。この土地のような最果ての地であっても、北斗七星を仰ぎ見ることができるということはいつでも誰しも変わらないのだ。それが薩長の者たちであってもな」

 佑が険しい目を向ける。故郷を蹂躙し、住み慣れた土地から本州の北端へ追いやった者たちと同じ立場であることが気に食わないのだろう。端で見ているだけで緊張するほどの目つきであった。

「そして山川権大参事以下、旧会津の首脳たちの総意が込められた名前であろう。新政府に押しつけられた名前ではない。我らの導き手が探し当てた名前なのだからな」

 若いながら戊辰の役から要職を担い、転封の後もめげずに斗南藩で新たな暮らしを立てられるように尽力する人の名は、佑のたぎる気持ちを鎮めたようで、彼は恥じ入るような目つきになって黙礼した。

 辰次郎は寅之介が佑をなじるかもしれないと落ち着かなくなった。癇に障ったとはいえ佑の態度を非礼と見なしても仕方がないと思ったが、寅之介は何事もなかったかのように涼しい表情を保っていた。

「山川権大参事は戦を避ける努力をしてきたし、広沢小参事は薩摩や長州の者たちと積極的に関わってきた。戦において敵同士となったとはいえ、皆が相容れぬとは思っていないのだ。藩士たる我らは、名前に込められた思いを正しく汲んで新しい日々を生きていかなければならないな」

 自分たちを打ち負かし、流刑に等しい転封を科した者たちに協調の糸口を見つけろと言うのだろうか。新政府に知り合いの多い広沢小参事ならともかく、自分たちに新政府との関わりはない。どうしても敵と見ることしかできない今は、首脳たちの思いに応えるのは難しいだろう。佑のように、近しい者を失った怒りや悲しみを新政府へぶつけようと思う者はなおさらだ。

「敵であった者たちと親しくなるのは容易ならざる事だろうが、斗南の名前にはもう一つ思いが込められている。このような最果ての地であっても帝州であり、我らは帝州の民だ。ならば、いつか表へ返り咲く時も来る。その時を信じるのだ」

 それは敵だった者たちを愛するより現実的な目標に思えた。自分は元より、次世代である正毅たちに託せる願いであった。

 佑を慮り、子供のいる三人は何も言わず頷き合った。佑は顔をしかめていたが、星を仰ぎ見る眼差しに揺らぎはない。

 いつか表へ。そして中央へ。帝州の民であることを忘れない限り、その日は決して遠ざからないと辰次郎には思えた。

                                    [続]

後悔、しかし満足、その後

 最初に断っておこう。平日の午前中に記事を書くからと言って、私は無職ではない。六時間後には仕事がはじまり、一晩中歩き回るのだ。それなのに昨日走り回った疲れが抜けていない。

 幾度となく投げ出したくなったものだが、夜明けの来ない夜はないのだ。松田聖子も歌っていた。

 24時間後もきっとまだ職場にいる。15000歩ぐらい歩いてこよう。

後悔、しかし満足

今日は寧日であった。しかしだからといってじっとしていられないのが私の性である。

二ヶ月ぶりの寧日ともなれば、家でやることはたくさんあった。小説の執筆がその最たるものであるが、疲れたせいで8枚程度しか進まなかった。少なくとも3時間は自転車をこぎ続けていたのだから、無理もない。

まあ良い。明日になればきっと書けるだろう。

それにしてもシルバー事件は面白い。カムイドロームが一番好きだ。

ネット空間というものは、20世紀末と現在とで大きな違いはないようだ。

今日はもう寝よう、お休みなさい・・・。

Jドリームについて

 好きなマンガとして挙げているJドリームを、どれだけの人が知っているだろう。

 本作は20年以上前に連載していたサッカーマンガである。当時のJリーグチームを実名で登場させ(主人公は浦和レッズに所属していた)、Jリーグ開幕からドーハの悲劇までを余すところなく描いた名作である(個人的にはそう思っている)。

 ところがこのマンガを話題にしている人をついぞ見たことがない。2年前、ある雑誌でJリーグ20周年を特集しており、サッカー関係者や漫画家のインタビューも載っていた。私は原作者がインタビューに応えてくれていると期待したのだが、原作者もJドリームもどこにもなかった。一体何があったのだろう。

 今年はサンフレッチェ広島Jリーグを制した。Jドリームにも登場したこのチームは、主要キャラの一人が所属していたチームでもある。膝に不安を抱えるこのベテラン選手は、試合中に骨折しながらも最後まで戦い抜いた。このキャラクターの生き方には賛否両論あるだろうが、「サッカーが大好きで・・・」という思いを見開きで吐露しながらオフサイドトラップをかけるシーンは名場面だと思っている。

 今年は清水エスパルスが降格してしまった。このチームにも主要キャラクターが所属している。その人が胸に秘めていた思いによって、締めくくりたい。

「ヤジも、プレッシャーも、痛みさえ、戦っていればこその!」

資格試験のこと

4月から某パソコンスクールに通い、休みのたびにワードとエクセルを学ぶ日々が続いた。おかげで寧日と言える日は二ヶ月に一度しかなくなった。今日はその貴重な一日であった。

約8ヶ月で3つの資格を取ることができた。他人から見れば誰でも取れるようなものかもしれないが、職場では基本的なパソコン操作を求められる。それを口で言うより簡単に証明する手段として資格取得を目指したのだ。一度も試験に失敗することがなかったのは素直に嬉しいことである。

私はきっと、ようやく同年代の社会人と肩を並べられるぐらいになれたのであろう。謙遜ではなく、何かが足りていないと身を焦がす思いを幾度となく味わった。一定の成果は出たが、これからも努力を重ねなければいずれ無に帰してしまう。まずは努力、努力である。